01
「オープンカーが崖から転落した事故のことは知ってるか?」
探偵の事務所を訪れ、応接セットのソファに腰を下ろした警部は、出されたアイスコーヒーにミルクとシロップを投入した。
「ええ、ニュースで見ました。男女二人が乗っていて、死体で発見されたんですよね」
「そうだ。オープンカーのうえ、シートベルトをしていなかったらしいんだな。車が転落した衝撃で車内から投げ出されたと見られてる。死体の位置的に、男が運転していて、女は助手席に座っていたようだ。今朝早くに、近くのリサイクル工場を出発したトラックの運転手が、道路沿いの崖下に乗用車が転落しているのを見つけて119番通報したんだ。すぐに救急が駆けつけたが、二人ともすでに死亡していた」
「現場はゆるやかなカーブで、強固なガードレールではなく、簡易な柵しか設置されていなかったと報じられていましたね。痛ましい事故です。で、警部、その事故がどうかしたのですか?」
「実はな、その一件は事故じゃない可能性が高い……いや、間違いなく事件だ」
「どういうことです?」
「これは、捜査上の秘密にするため公開していない情報なんだが……」と前置きしてから警部は、「二人の死因が、車の転落によるものじゃないからだ」
「じゃあ、何ですか?」
「射殺だよ」
「射殺?」
探偵が、自分の分のアイスコーヒーのグラスを持って対面に座ると、警部は、
「そうだ。男のほうは右のこめかみを、女は背中を、それぞれ撃たれて死んでいた」
「……警察では、どういう見方をしてるんです?」
「最初は、事故を装った殺人じゃないかと見当を付けたんだがな……」
「何者かが、死体を乗せた車を崖から落としたというわけですね」
「ああ、だが、それにしては手口が杜撰すぎる」
「ええ、射殺というのは、さすがに。普通であれば、外傷の残らない殺し方を選びますよね」
「もしくは、車に乗せる時点では眠らせるか気絶させておくだけにして、本当に転落を原因にして殺すとかな。事故死と断定されれば司法解剖されずに済むので、睡眠薬を盛ったとしても検出は避けられる。それに、さっきも言ったが、運転席も助手席もシートベルトをしていなかったそうなんだな。運転中の事故死に見せかけたいのなら、そこのところにも気を配るだろう」
「そうですね。で、犯人の目星はついているのですか?」
「まあ待て、物事には順番というものがある」
警部は探偵に手の平を突き出し、反対の手に持ったグラスからアイスコーヒーをストローで吸い上げた。探偵も、こちらはブラックのままのコーヒーに突き刺したストローに口を付ける。グラスに入ったコーヒーを半分程度に減らしたところで、警部は、
「二人の体内――男は脳、女は背中――には一発ずつ弾丸が残っていたんだが、二つとも線条痕が一致して、しかも、その拳銃には前科があった」
「警察のデータベースに線条痕の記録が残っていたということは、暴力団がらみの拳銃?」
「そうだ。竜王会の幹部である、生崎という男が使用している拳銃のものと一致した」
「竜王会……血の気の多い連中がたくさんいることで有名な暴力団ですね」
「ああ。敵対する暴力団、虎王会との抗争でぶっ放されたときに弾を回収したんだ」
「拳銃自体は?」
「残念ながら押収できなかった。だから依然、生崎の手元にあるだろう」
「ということは、車の中にあった死体は、その生崎という竜王会の幹部が射殺したものだと」
「俺たちも最初はそう思った」
「といいますと?」
「話が前後するが、車内で発見された死体は男女とも身元が割れてる。二人とも虎王会の関係者だ」
「今、話に出た、竜王会と敵対してる暴力団じゃないですか」
「そうなんだ。運転席にいた男の方は、沼辻という虎王会の幹部だ」
「女性の方は?」
「そっちは正式な構成員じゃない。卯村といって、ホステスをしており、沼辻の情婦だったことが分かっている」
「転落した車には暴力団幹部と、その情婦が一緒に乗っていたわけですね。しかも、射殺体となって」
「ここまで聞いて、どう思う?」
訊かれて探偵は、ストローに口を付けブラックコーヒーをすすってから、
「竜王会の生崎が、敵対する虎王会の沼辻を、その情婦ごと葬り去って、事故死に見せかけるため車に乗せて転落させた? にしては、最初にも話しましたが射殺という殺し方が解せませんね」
「ああ、しかも、まだやっかいな点があってな」
「そういえば警部、さっき、『俺たちもそう思った』と」
「そうなんだ。射殺されていた二人は、ほぼ同時に殺されたらしく、死亡推定時刻が一致した。今日の午前零時から一時までの一時間だ。だが、その時間、生崎にはアリバイがある」
「どんなアリバイです?」
「繁華街で揉め事を起こして警官にしょっぴかれていてな。日付が変わる前の午後十一時から朝方の六時まで、留置場にぶちこまれていた」
「完璧すぎるアリバイじゃないですか。ということは、生崎が二人を殺すことは不可能」
「そういうことだ。しかも、話はこれだけで終わらん」
「どういうことですか?」
「もうひとつ死体が出たんだよ、今度も虎王会の構成員だ」
「何ですって?」
「詳しく話す」
警部はストローに口を付け、さらに残ったコーヒーの半分以上を吸い込むと、懐から取り出した手帳を広げ、
「第三の死体は、車の現場から十数キロ離れたアパートの一室で発見された。ベッドに仰向けで、腹部に数発――検出された弾の数から考えれば三発――の銃撃を受けた状態でな。そっちの死体が発見された経緯はこうだ。
昨日深夜――日付の上では今日の午前――零時十五分に、『銃声のような音が続けて何回か聞こえた』と110番通報があった。通報者はあるアパートの住人だったんだが、通信指令室からそのアパート名を聞いた当直の警察官は色めきだった。なぜなら、そのアパートには、虎王会の構成員である、羽田森という男が住んでいたからだ」
「死体というのは、その構成員?」
「そうだ。通報者は、どこから銃声――のような音――が聞こえたかは分からないと証言したが、駆けつけた警察官は、ためらいなく羽田森の部屋の呼び鈴を押した。一度押して返事がなかったため、警察官がドアノブを握ると難なく回った。施錠がされていなかったんだな。部屋は1DKで、玄関を入ったすぐのダイニングキッチンは真っ暗だったが、奥の部屋のドアが半開きになっていて、そこから明かりが漏れていた。上がり込んだ警察官が、その部屋に入ってみると、腹部から大量の出血をした男がベッドの上に仰向けになっていた。一目で死んでいると分かったそうだ。羽田森本人だった」
警部のグラスの中で氷が崩れ、乾いた音を立てた。アイスコーヒーのおかわりを持ってこようかと立ち上がりかけた探偵を制して、警部は話を続ける。
「死因は腹部を撃たれたことによる内臓損壊だ。被害者は眠っていたところを銃撃されたらしいな。銃弾は体内から一発、さらに二発は被害者の体ごと寝ていたベッドを撃ち抜いていて、ベッド真下の床にめり込んだ状態で発見された。都合、三発撃たれたということだな。当然、銃弾の線条痕の鑑定を行い、その結果……」
「もしかして?」
「ああ、生崎の拳銃のものと一致した」
「ちょっと待って下さい。アパートのほうの事件も、通報があったのは零時十五分と言いましたよね」
「そうなんだ。これら三つの死体はすべて、午前零時から一時までの一時間の間に殺されたということになる。同じ拳銃でな。しかも、銃の持ち主である生崎は留置場の中だ」
「……その生崎は何て言ってるんです? 自分の拳銃が使われたことに対して」
「知らぬ存ぜぬの一点張りだ」
「まあ、そうですよね。拳銃を所持していることを大っぴらに認めるわけにはいきませんからね。しかも、警察の前でなら、なおさら」
「ああ、やつらが何丁も拳銃を所持していることなんて、こっちも当然分かっているが、向こうさんとしてはそう証言するしかない」
ここで探偵は、空になった警部のグラスを持って席を立った。今度は警部も探偵のことを止めはせず、アイスコーヒーのおかわりが出てくるのを大人しく待っていた。
「それで、警部」探偵はアイスコーヒーを注ぎ直したグラスと、新しいミルクとシロップを一緒に警部の前に置いて、「竜王会と虎王会は敵対しているわけですが、生崎に三人を殺す直接の動機はあるんですか?」
「組織を離れた個人的に何かあったかは分からんが、組織としてならあるな。幹部の沼辻に対してだ」
「車の運転をしていたほうですね」
「そうだ」さっそく警部は、グラスにミルクとシロップを投入して、「管轄地をめぐる争いで、お互い組織の幹部という立場上、過去に何度も派手にやりあった仇敵同士らしい」
「じゃあ、アパートで殺されたほうに対しては?」
「構成員の羽田森だな。いや、この羽田森というのは、最近になって虎王会に入った新参で、竜王会の生崎と面識はないらしいな。ただな、羽田森は沼辻の直接の部下だったので、その繋がりがあるといえばある。だが、わざわざ殺す必要があるとは思えんな」
「それに、もし殺したとなれば当然、生崎本人ではなく、誰かにやらせたということになりますよね」
「ああ、被害者全員の死亡推定時刻、当の本人は留置場だからな。生崎なら鉄砲玉に使える部下なんていくらでもいるだろうが。実はな、組対(組織犯罪対策課)の情報によれば、最近になって生崎の部下に何やら妙な動きがあった」
「それは、どういう?」
「詳しくは分からんが、どうも何かを探している感じだったらしい。その動きに虎王会が絡んできて、因縁の相手である沼辻は殺されてしまい、羽田森と卯村は巻き込まれただけなのかとも考えたんだが……」
「それにしては、死体が別々の場所で発見されたのがおかしいということですね」
「そうなんだ。ちなみに、崖から転落したオープンカーは、運転していた沼辻のものであると確認が取れている。交通課の検証でも、車は崖から転落したものと見て間違いないそうだ。何か別の方法で破壊されたものを崖下に放ったわけじゃない」
「車を転落させた現場に、あとから死体を置いたということは?」
「それもないな。死体には両方とも、頭をフロントガラスにぶつけた痕跡があったし、車内の状態からしても、車は死体が乗ったまま転落したことに疑いはない」
「うーん……」
探偵は、自分のグラスに刺さったストローをつまんで中身をかき回し、氷がグラスと打ち合う涼しい音を事務所に響かせると、
「事故現場の死体のほうは、撃たれた箇所が違うことも気になりますね」
「そうだな。沼辻は右こめかみで、卯村は背中だからな」
「二人がほぼ同時に撃たれたのだとしたら、どういう状況が考えられるでしょう?」
「沼辻のほうは簡単だな。運転席に乗り込んだところを、こめかみに銃を突きつけられて、バン、だ。オープンカーなので、銃口と被害者とを遮るものは何もないしな」
「では、助手席の卯村のほうは? シートに座った状態の人間の背中を撃つことは不可能です。一度車から降ろさないと。どうしてわざわざそんなことをしたのか」
「沼辻が撃たれたのを見て、驚いて車外に飛び出したところを撃たれたとか?」
「それなら、被害者は犯人から逃げる動線を取るはずなので、背中を撃たれたのも納得できますね。でも、どうしてわざわざ死体を車に乗せて転落させるなんていう手間を取ったのか。最初の話にも上りましたが、死体が明らかな射殺体である以上、事故死に見せかけるのは不可能だということくらい、誰にだって分かります……。警部、他に死体に何か変わったところはありませんでしたか?」
「変わったところ? そうだな……」警部はあごに手を当てて虚空をにらみ、「そういえば、辻沼の死体に妙な傷があったと聞いたな」
「運転席にいた男のほうですね」
「そうだ。後頭部に擦過傷のような傷があったそうだ」
「擦過傷? 引っ掻き傷ですか」
「ああ、後頭部の、ちょうど耳の高さ辺りに、ほぼ真横に一文字についていたそうだ。古傷とかじゃなく、出血も見られたため、かなり新しい傷だったらしい」
「……気になりますね」
「それと、助手席にいた女性の卯村のほうだが、こっちは死体そのものにというわけではないんだが」
「やはり、何かおかしな点が?」
「ああ、靴が脱げていたそうだ」
「靴? 両足ともですか?」
「そうだ。転落の衝撃で脱げた可能性もあるが」
「両足いっぺんにというのは、ちょっと気になりますね」
探偵が難しい表情をすると、警部は口角を上げて、
「いい感じに探偵の血が騒いできただろ。この謎を解いてみたくて仕方がなくなってきたんじゃないか?」
「警部、僕のことを何だと思ってるんですか……そもそも、そのためにここに来たんでしょ」
「そりゃそうだ。コーヒーを御馳走になるために来たわけじゃあない」
「まあ、いいですけど。それじゃあ、まず、車が転落した現場を見に行きましょう」
「承知した」
警部は残ったアイスコーヒーを一気にすすり上げ、探偵はハンガーから愛用の白いジャケットを掴んだ。
02
「射殺された沼辻って、暴力団の幹部だったそうですが、どんな男だったんですか?」
道中の車内で探偵が警部に訊いた。
「虎王会きっての武闘派で通っていたやつだ。良くも悪くも昔ながらのヤクザを地でいく男でな、一度殺すと決めたら、一切の躊躇もなく殺ってしまうっていう、ちょっと頭のネジが何本か飛んでるようなやつだな」
「良くも悪くもって、悪い面しかないじゃないですか。恐ろしい」
「そんなだから、女性に対する扱いも極端なものがあったそうだ。深く情を注ぐこともあれば、ちょっと気に入らないことが起きると、殴る蹴るの暴行に及ぶとかな」
「やっぱり悪い面しかない。付き合ってる男がそんなじゃあ、情婦の卯村も大変だったんでしょうね」
「そうかもな。最初は暴力団幹部の女ってことで、周りからの目も違ってくるし、羽振りの良いときは豪遊したりとかもあったんだろうが、その分苦労も絶えなかったんじゃないか?」
「アパートで殺された羽田森のほうは?」
「そっちは、若いだけあって、あまりヤクザ然としちゃいない男だったらしい。子供の頃からグレていた延長で、なし崩し的にヤクザの世界に身を投じたって感じだな」
「いきなり沼辻みたいな男の部下になって、彼も苦労したんでしょうね」
「かもな。着いたぞ、ここだ」
警部は覆面パトを路肩に停め、助手席に乗っていた探偵と一緒に降車した。
「このとおり、昼間でもあまり車の通らない山道だ。街と街の間に開発を逃れて生き残った山地って感じだな」
「確かに、街中の移動には幹線道路が整備されていますから、わざわざこの道を通る人はいないでしょうね」
探偵も木々が立ち並ぶ周辺を見回した。
「ああ、この先にあるリサイクル工場の関係者くらいだろうな、この道を恒常的に利用しているのは」
「崖下に転落した車を発見した通報者も、そこの運転手でしたよね」
「そうだ」
会話をしながら二人は歩き、車が転落したカーブの先に差し掛かった。等間隔に刺した鉄製のポールをロープで繋いでいるだけの簡易な柵は、一部が欠損しており、そこには赤いコーンが数個置かれていた。車が転落した位置だ。探偵は、そこに突っ込むであろう車の動線に沿って、アスファルト上に目を這わせると、
「ブレーキ痕はありませんね」
「ああ、そのことが、何者かが作為的に車を突き落としたんじゃないかという疑いの一助になっている」
「なるほど」
二人は、柵の手前まで来ると立ち止まり、
「これは、心許ない柵ですね」
探偵は、そこから先が崖であることを注意喚起しているだけの、物理的に転落を防止する機能はまったくない柵を掴んで前後に揺すった。
「ああ。さっきも言ったように、ほとんど利用者のいない道路だから、カーブとはいえ満足なガードレールも設置していなかったんだろう」
二人は柵越しに崖下を覗き込んだ。崖の高さは十メートル前後で、ほぼ垂直に切り立っており、崖の直下に規制線で囲われた空間があった。
「転落位置を見るに」と探偵は規制線が張られた箇所を見て、「車は崖に突っ込んだとき、あまり速度は出していなかったみたいですね」
「ああ、交通課の所見でも同じ事を言ってた。道路は崖に向かって緩やかとはいえ下り勾配がついているから、例えば、ギアをニュートラルに入れて車を押すなりすれば、惰性でそのまま転落していくだろう。速度は時速十キロもでないだろうが、このヤワな柵をぶち破るのには十分だ。そのくらいの速度でこの崖に飛び込んだと考えれば、落下箇所もちょうど合うらしい」
「車が人為的に転落させられたんじゃないか、という説はそこでも補強されているわけですね。確かに、普通に走行する速度を出したままこの崖を飛び出したら、もっと遠くに車は落下するでしょうね。この道なら、深夜とは言え六十キロは出していてもおかしくないでしょう」
探偵は振り返って、カーブに至るまでの道路を見た。数百メートルに渡って直線が続く見通しの良い道だ。右は立ち並ぶ木々が、左は高さ三メートル程度の鉄製の塀が、それぞれ道路に沿って長く伸びている。
「警部、あの塀の向こうは何があるんです?」
「さっき話に出た、リサイクル工場の敷地だよ」
「なるほど」探偵は再び崖下周辺を見回して、「あそこから車で降りられますね」
道沿い十数メートル先を指さした。そこには、道路から枝分かれして緩やかな坂路がついており、そこを下れば車でも転落せずに崖下に行けるようになっている。
「そうだ。警察車両なんかもあの坂路を使って現場に行き来したんだ」
「そうですか……」
「どうだ、何か分かりそうか?」
「いえ、まだ何とも……警部、とりあえずここはもういいですから、次はアパートのほうに連れて行って下さい」
「羽田森が殺害された現場だな。よし」
二人は覆面パトに戻り、来た道を引き返す形で道路を走った。助手席に座った探偵のすぐ左をリサイクル工場の鉄製の塀が、運転席の警部を挟んだ右を緑の木々が流れていく。
「警部、今回の事件は、やっぱり組対も動いているんですか?」
「ああ、今、生崎の手下で事件当夜に怪しい動きをしたものがいないか、徹底的に当たっているはずだ」
「組対としては、やはり生崎が部下を使って羽田森を殺させたと見ているんですね」
「だろうな。なにせ、死んだ沼辻は生崎の仇敵だったし、殺しに使われたのも生崎の拳銃だ。実際、生崎の部下が沼辻の周辺をうろついていたという話もある」
「留置場に入っていたという完璧なアリバイは、生崎自身の工作だと?」
「そういうことになるな。にしては、わざわざ凶器に自分の拳銃を使わせてるのが解せない。あまり意味がある行動とは思えん」
「ですよね。そもそも、生崎が留置場に入れられた騒ぎは作為的なものだったんですか?」
「俺が話を聞いた限りでは、そんな感じはなかったな。手下と一緒に繁華街を歩いていた生崎が、いきがった若者集団から、肩がぶつかったぶつからなかったと因縁を付けられたのが騒ぎの発端だったそうだ。だが、目撃者の証言によると、生崎は騒ぎを大きくするつもりはなかったらしいんだな。応戦しそうな手下をなだめたりもしていたそうだ。ところが、その態度を見くびってしまったのか、若者のほうが調子に乗ってしまってな。年端もいかない若造連中に口汚い言葉で罵られ、手下の目もある手前、しかたなく生崎は喧嘩を買ったということらしい。ちなみに、因縁を付けてきた若者は五人組だったんだが、全員が病院送りになってる」
それから十数分ほど車を走らせ、二人は街中のアパートに到着した。
「現場となった部屋は二階だ」
運転席を降りた警部が二階建てのアパートを見上げた。
羽田森の部屋の前には規制線が張られ、ドア付近に誰も近づけないようにされていた。警部は規制線を跨ぐと、懐から一本の鍵を取り出して鍵穴に差し込む。
「ちょっと待って下さい、警部」
「どうした?」
鍵を回転させる直前で、警部は手を止めて探偵の顔を見た。
「鍵が掛かっていますよね」
「そりゃ、事件現場を誰にも荒らされないようにな」
「そうでなくて、犯行のあったときもですよ。銃声がしたと通報があったのは夜中でしたよね」
「ああ、零時十五分だ」
「もし、犯人が生崎の手下だったら、そいつはどうやってこの部屋に入ったっていうんですか? 被害者はベッドに寝ているところを撃たれたそうですから、相手が知り合いで自ら招じ入れたとは考えられませんし」
「それは……」鍵をつまんだまま警部は、「羽田森が施錠をしていなかっただけなんじゃないか? 実際、通報を受けた警察官がこの部屋に来たとき、ドアに鍵は掛かっていなかったし」
「そうでしたね……。でも、暴力団の構成員なんていったら、それこそ常に命を危険に晒しているようなものだから、普段から用心深くしているものじゃないですか? そんな人が深夜に施錠を忘れるなんてことがありますかね」
「何らかの手段で合鍵を入手していたのかも」
「合鍵……。でも警部、そもそもの話、生崎の仇敵は車の事故現場で死んでいた沼辻なんであって、その部下の羽田森まで、どうして殺そうと思ったんでしょうか。同じ場所で死んでいたのであれば、巻き添えをくったのだろうと考えられますが、アパートの部屋に忍び込んでまで殺すというのは……」
「考えるのはあとにしないか。とりあえず入ろう」
警部は鍵を回した。
玄関を抜けてダイニングキッチンを抜け、警部と探偵は現場である部屋に入った。
「そのベッドだ」警部は部屋の隅に寄せ置かれたベッドを示して、「羽田森は、そのベッドで寝ているところを銃撃されたと見られてる」
ベッドの中心――人が寝ていたら腹部が来るであろう箇所――のシーツは破れ、赤黒く染まっていた。
「ははあ……これは」探偵は、腰を折ってベッドに顔を近づけ、まだ血のにおいが残るシーツを観察していたが、「――おっと」
上半身を倒しすぎたため、シャツの胸ポケットから携帯電話が滑り落ちてしまった。探偵はそれを拾い上げるため、ベッドの脇に屈み込み、
「おい、どうした?」
床に膝をついたまま動かない探偵を見下ろして、警部が訊いた。探偵はその姿勢のまま、
「警部」
「なんだ?」
「銃弾の一部はベッドを貫通したんでしたね」
「そうだ。事務所でも言ったが、被害者の体内から一発が検出され、ベッドの下の床には二発がめり込んでいた。弾自体は回収したが、弾痕が残っているだろう」と警部も探偵の横に屈み込んで、「ほら、そこだ」
ベッドの下を指さした。フローリングの床の一部に二つの弾痕が穿たれており、その周辺もベッドからしたたり落ちた血で染まっていた。探偵は、ゆっくりと視線を這わせて、
「……三十センチはありますね」
「何がだ?」
「床からベッドの裏までですよ」
「うん、それくらいだな」
警部も床とベッドの裏面を交互に見やった。ベッドの裏にも当然、銃弾が貫通した穴が穿たれている。
「ベッドの下には、何もありませんね」
探偵の言ったとおり、四本の脚で支えられたベッド下の空間は、ベッドの面積まるごと床面が露出した状態になっていた。
「そうだな」と警部もその空間を見回して、「俺のベッドの下なんて、洋服を詰めたケースでぱんぱんだがな――」
そこまで言って起き上がった。探偵もすぐに立ち上がると、警部と目を合わせて、
「音がしましたね」
「ああ、玄関のほうからだ」
「入ったときに鍵を掛けなかったのでは?」
「あっ!」
警部は駆け出し、探偵も続いた。
「おい! こら!」
警部は開きかけていた玄関ドアに向かって声をあげた。ドアの隙間から何者かが覗き込むようにこちらを見ていたが、警部の声が響いた途端、ドアから離れ、直後、「うわっ!」という悲鳴とともに激しい音を響かせた。警部が玄関を飛び出ると、そこには、黄色と黒の規制線を体に巻き付けて倒れている男の姿があった。
「何だ、お前は? 何をやっていた?」
「どうやら、警部に見つかって逃げようとしたところ、あわてていたため規制線につまずき転んでしまったようですね」
探偵は近づくと、男のそばに落ちている機械を拾い上げた。
「ハンディカメラ……さては君、ここの様子を撮影して動画投稿サイトにでも上げようとしていたんだな」
探偵は倒れている男を見た。まだ大学生程度の年齢に見えるその男は、体にまとわりついた規制線をほどきつつ、
「は、はい……僕、近くに住んでいるんですけれど、このマンションで殺人事件が起きたって聞きまして。で、動画のネタになるかと思って撮影に来たんですけれど、ドアノブに触れたら鍵が開いていたものだから、つい……」
それを聞くと警部は、えへん、と咳払いをして、男の体から規制線をほどくのを手伝ってやった。
「君、この事件のことは」と探偵はカメラを男に返して、「新聞やニュースで知ったのかい?」
「はあ、それもありますが……」男は、規制線の呪縛からは完全に逃れることが出来たものの、未だ座り込んだまま、「僕も銃声を聞いていたもので」
「なに?」警部は表情を一変させ、「どうして通報しなかったんだ?」
「だ、だってそのときは、どこかで暇な連中が花火でもやってるのかな、くらいにしか思っていなかったんですよ。僕の家はここから少し距離があるので。まさか、銃声とは……」
「まあ、致し方ありませんよ、警部」
探偵は笑いながら男に手を差し伸べた。男は、その手を握りかえして立ち上がろうとしながら、
「いやあ、でも、本物の銃声って、本当に火薬が破裂したみたいな音がするんですね。続けざまに、パン、パン、パン、パン、って――」
そこで言葉を途切れさせた。探偵が彼を引き起こそうとする手の動きを止めたためだった。男の姿勢を中腰の中途半端なものに維持させたまま、探偵は、
「君、今、何て言った?」
「えっ……?」
「音を聞いたんだろ、銃声を」
「は、はい。火薬が破裂するみたいだったなって……」
「そのあと」
「はい?」
「君、『パン』って四回言っただろ」
「え、ええ……」
「どうして?」
「どうしてって……そう聞こえたからですよ」
「銃声が、四回聞こえたってこと?」
「は、はい……」
その答えを聞くと、警部も「なにっ?」と声を上げた。
「間違いない?」
探偵は確認を取る。
「間違いない……と思います。静かな深夜のことで印象に残っていますから……わっ」
男は探偵に体を一気に引き起こされた。探偵は、服についた汚れを払ってやると、
「君、今回のことは不問に付すから、もう帰りなさい」
「は、はい」
「お、おい!」
警部が呼び止めるのも聞かず、男はカメラを受け取ると、脱兎のごとくその場から走り去った。
「……それにしても、今の証言はどういうことなんだ? 羽田森の部屋から発見された弾丸は三発のはずだ。それが、銃声が四回聞こえたとは……なあ――」
警部が振り返ると、探偵は組み合わせた両手を額に付けていた。それが、探偵が思考を巡らせているときの癖だと知っている警部は、そのまま黙って見守る。
「……警部」しばしの黙考を経て、探偵は口を開き、「いくつか調べて欲しいことがあります」
「何だ?」
「まず、事故現場で見つかった二人の死体」
「沼辻と卯村だな」
「はい、その二人の死体に……」
03
「君の言ったとおりだったぞ!」探偵の事務所に飛び込んだ来た警部は、興奮冷めやらぬ様子で、「沼辻と卯村、それぞれの死体から硝煙反応が検出された!」
「やっぱりそうでしたか」
応接セットのソファに腰を下ろしていた探偵が応じた。
「これはいったい、どういうことなんだ?」警部もその対面、いつもの場所に腰を落とすと、「硝煙反応が出たということは、二人は拳銃を撃ったということになるぞ」
「警部、あとのほうは?」
「そっちもばっちりだった。沼辻の所持品には羽田森の部屋の合鍵があった。
卯村のほうも、ホステス仲間に詳しく話を訊いたところ、確かに彼女は、やくざものっぽい男と付き合っていたそうなんだが、その相手はどうやらひとりじゃなかったらしい。
それと、虎王会が使っている闇医者のひとつが確かにあったぞ。君の言ったとおり、街の外れにな。で、これらのことが確認できたから、もう君の推理の補間も出来たんだろう?」
「ええ、まあ。警部、コーヒーでも飲みながら――え? いらない?」立ち上がりかけた探偵だったが、警部に説明を促されて、すぐに座り直すと、「それじゃあ、順を追って僕の推理を話します」
新たな豆の調合で作ったアイスコーヒーを出せないことが不満だったが、話し始めた。
「事の発端は、生崎が自分の拳銃をなくしてしまったことです」
「なに? なくした?」
「そうです。最近になって、生崎の所属する竜王会の動きが活発になっていたそうじゃないですか。その目的が……」
「生崎の拳銃を探し出すことだった? そういえば、竜王会の連中は何かを探し回っているようだったと、組対の連中も言っていたな」
「はい。その生崎がなくした拳銃は、敵対する虎王会の構成員の手に渡っていたのです」
「誰だ?」
「沼辻です」
「どうしてそう思う?」
「羽田森を撃ち殺したのが沼辻だからですよ」
「なんだって? 羽田森は沼辻の部下だぞ?」
「動機の問題は後回しにして、今は僕の推理で沼辻の行動を追っていくことにします。どういう経緯かは分かりませんが、沼辻は、仇敵である生崎の拳銃を入手しました。彼は、それを使って羽田森の殺害を目論みます。その銃が生崎のものであることを知っていたからこそ、殺害を実行する気になったのでしょうね」
「弾丸に残る線条痕を調べられても、竜王会の幹部――生崎の仕業に見せかけられると思ったんだろうな」
「そういうことなんでしょうね。合鍵は、羽田森の隙を見て部屋の鍵を入手して作製したのでしょう。暴力団の上司と部下という関係なら、そんな隙、いくらでも作ることが可能でしょうから。
すべての用意を調えて、沼辻が動いたのは犯行当日の深夜零時過ぎ。車で羽田森のアパートに乗り付けた沼辻は、合鍵を使って部屋に侵入。恐らく、羽田森が起きていようが寝ていようが、問答無用で撃ち殺すつもりだったのでしょう。果たして部屋へ入ると、羽田森はベッドに仰向けで寝ていました。沼辻は彼の腹部に銃口向けて引き金を引きます。その数、四回」
「四回……あのカメラ男の証言のこともあるから、俺もそれは否定しないが、しかし、現場に残されていた弾丸は全部で三発分だった。壁や天井に至るまで徹底的に調べたが、部屋のどこからも残る一発の弾は発見されなかったぞ」
「それでいいんですよ、警部。沼辻が部屋で発砲した全部で四発の弾丸のうち、一発は現場から持ち出されたのですから」
「持ち出された? どうして一発だけをわざわざ?」
「沼辻にとっては、不幸な事故のようなものでした。彼が侵入したとき、寝室にいたのは羽田森ひとりだけではなかったのです」
「なに?」
「羽田森は眠っていたわけではなく、部屋に女性と一緒にいたのです。沼辻の足音を聞きつけた羽田森は、その女性に対して、ベッドの下に隠れるよう促し、自分はベッドに横になって寝たふりをします。その直後です。寝室に入ってきた沼辻が、羽田森に銃を向け、問答無用で引き金を引いたのは」
「――ということは?」
「そうなんです。羽田森と一緒にいた女性というのは、今回の被害者のひとりである卯村です。現場検証では、銃弾は部屋で三発撃たれ、そのうちの一発が羽田森の体内に留まり、二発が彼の体ごとベッドを貫いたと思われていました。が、実際は撃たれたのは四発で、ベッドを貫通したのは三発。さらに、そのうちの一発はベッドの下に隠れた卯村に命中してしまい、床に到達したのは二発だけだったというわけです」
「し、しかし――どうして卯村が羽田森と一緒に? 彼女は沼辻の情婦だったはずじゃ?」
「卯村は確かに沼辻の情婦でしたが、同時に羽田森とも付き合っていたのです。今回の事件のあらましから考えるに、もともと沼辻と付き合っていた卯村が羽田森に乗り換えたのでしょうね。卯村の死体は着衣の状態だったため、そのときには、まだ“ベッドイン”はしていなかったのでしょうが」
「おいおい、じゃあ、沼辻が羽田森に抱いた殺意というのも?」
「はい。沼辻は、卯村を奪った羽田森のことを許せなかった。羽田森としては、卯村が自分に乗り換えたということを、沼辻はまだ知らないと思っていたのでしょう。事件の夜、沼辻が侵入してきたとき、羽田森は侵入者が彼だと気づいたからこそ、卯村をベッド下に隠れさせたのでしょう。あるいは、卯村のほうから率先して隠れたのかもしれませんね。暴力団の世界で、部下が上司の情婦を奪った、あるいは、情婦が心変わりして部下に乗り換えたなんてことを、その上司に知られたら……」
「うーん……殺されても文句は言えんだろうな」
警部は腕組みをし、深く嘆息した。探偵もひと息ついてから、
「首尾よく羽田森を射殺した沼辻でしたが、彼はその直後、とんでもないことに気づきます」
「その卯村が、ベッドの下に隠れていたことを知ったんだな。しかも、ベッドを貫通した銃弾のうちの一発を背中に受けてしまっている! ベッドの下には腹ばいで潜り込んだせいだな」
「はい。沼辻は激しく動揺したことでしょう。その後の行動から考えるに、彼は羽田森のことを憎んでいても、卯村に対する愛情は揺らいでいなかったのだと思われます。ベッドの下から卯村を引き出した沼辻は、彼女の命を救うため、一刻も早く医者に連れて行こうとします。救急車は呼べません。そんなことをしたら確実に警察の捜査が入って、卯村はともかく、自分は終わりですからね。僕の個人的な考えですが、ここが沼辻の運命を分けた分岐点だったと思います。自分の立場はどうなろうとも、とにかく愛する女性を救うことを最優先として、勇気をもって救急車を呼んでいたら、卯村も一命をとりとめた可能性はありますし、何より彼は命を落とすことはなかっただろうと思いますから」
「そうだ、その沼辻は、どうして死んだんだ? 誰に撃たれて?」
「その疑問はもっともですが、とりあえず沼辻の行動を追うことにしましょう。救急車を呼べず、当たり前ですが正規の医者に診せることも無理なので、沼辻が取るべき行動は、もはやひとつしかありません」
「暴力団お抱えの闇医者だな」
「そういうことです。その闇医者へ急行するため、沼辻は卯村の体を抱え、玄関にあった彼女の靴も持ってアパートを出ます。表に停めてあった車の助手席に卯村を乗せて、靴は助手席の足下に投げておいたのでしょう。これが卯村の両足から靴が脱げていた理由です」
「脱げたというか、そもそも履いていなかったというわけか」
「はい。沼辻の行動に戻ります。車を発進させた沼辻は、虎王会お抱えの闇医者を目指します。その医院は街のはずれにあり、そこまでは幹線道路が通っているのですが、万が一のことを考えて沼辻は、暗い山道を突っ切るルートを選びます。沼辻は速度超過、信号無視上等で走るつもりだったため、車の通行が多く明るく、警察に出くわす確率も高い幹線道路を走ることはためらったのでしょうね。オープンカーなので、監視カメラに撮影でもされていたら顔までばっちりです。とにかく急いで車を発進させたためにシートベルトをしていなかった――沼辻も、助手席の卯村も――ことも、山道を選択した理由にあると思います」
「その途中で、事故を起こしたと――いや、待て待て、まだ沼辻が撃たれた謎が残ってる」
「はい。結論から言うと、沼辻を撃ったのは卯村です」
「なんだって?」
「おそらく経緯はこうでしょう。
重傷を負い、気を失っていた卯村ですが、車の走行中に意識を取り戻します。気が付くと、自分は車に乗せられていて、隣の運転席には沼辻がいる。彼女は記憶を辿って、羽田森の寝室で沼辻の接近を知りベッドの下に隠れたあと、何が起きたのかを思い出したのでしょう。もしくは、彼女が羽田森に乗り換えたのは、単純に沼辻から離れたかったからなのかもしれません。沼辻には粗暴な一面があるという話でしたから、彼女も陰では沼辻に酷い目に遭わされていた可能性も高いでしょうね。とにかく、彼女は自分の目の前に、あるものが置いてあるのを目に留めます。愛する人の復讐を遂げるため、あるいは、憎き男を葬り去るため、彼女はそれを手にします。沼辻は羽田森を撃ち殺した拳銃を当然持ったまま車に乗り込みましたが、拳銃はダッシュボードに置くか、助手席の卯村の膝の上にでも置いていたのでしょう。卯村が手に取ったのは、その拳銃です」
「それで、卯村が沼辻の頭を撃ち抜いたのだと? いや待て、それはおかしい。助手席から運転席に向けて銃を撃ったのであれば、弾痕は、沼辻の左こめかみに付くはずだ!」
「ええ、卯村の撃った弾が、直接沼辻に命中したのであれば、そうでしょうね」
「どういうことだ?」
「これが、この事件を複雑にしてしまった最大の要因です。運転に集中していた沼辻でしたが、視界の隅に入るかして、卯村が目を覚まし、何かやろうとしていることに気づいたのでしょう。横目で見てみると、何と、卯村は銃を手にして自分の頭に向けている。咄嗟に沼辻が頭部を前にずらしたか、瀕死の重傷を負っていた卯村が狙いを外したのか、ともかく銃口から放たれた銃弾は沼辻に命中はせず、彼の後頭部をかすめて、車外に飛び出してしまいました」
「沼辻の死体にあった後頭部の擦過傷は、それか!」
「命拾いしたかに思われた沼辻ですが、それは一瞬だけのことでした。狙いを外した弾丸は一旦は車外に飛び出しましたが、結局、沼辻はそれを頭部に被弾することとなってしまいました。どういうことかというと、一度外れた弾丸が戻ってきたからです」
「弾丸が戻っただと?」
「そうです。警部、あの山道を思い出してみて下さい。羽田森のアパートから車が転落した崖へと向かう進路を取ると、車は左手に林を、そして、右手にはリサイクル工場の鉄製の塀を見ながら走ることになります」
「――まさか! そんなことが?」
「そのまさかが起きたんですよ。卯村が撃った弾丸は、車外に飛び出したあと、鉄の塀に跳ね返って、再び運転席に舞い戻り、沼辻の右のこめかみに命中したのです」
「!」
「ええ。拳銃の弾丸というものは、秒速三百五十メートル前後という音速を超える速度で射出されます。発射位置である車の助手席と運転席との間から塀まで、数メートルの距離があったとしても一瞬で戻ってきます。車自体の走行速度も問題にならないくらいの高速ですが、卯村が銃口を若干進行方向に向けていたとしたなら、跳ね返ったあとの弾も鋭い鋭角を描いて車の進行方向に向かうことになりますから、跳弾が再び車内――正確には運転手であった沼辻の頭――に戻ってくることも十分ありえます」
「うーむ……」警部はあごに手を当てて唸ると、「だが確かに、今、君が言ったようなことが起きたなら、すべての現象に説明が付けられるな」
「そうです。右こめかみに被弾して即死した沼辻はハンドルから手を放し、アクセルペダルを踏みこむ力も消え失せます。助手席の卯村も力尽きてそのまま死亡します。コントロールを失った車は、しかし、一直線の道路を直進していたことと、オートマ車であったためペダルを踏まずともクリープ現象が利いていたことによって、そのまま走り続けて崖に差し掛かります。そこに崖に向けた下り勾配により勢いもついて、あの簡易な柵も簡単に突き破り、車は転落してしまいます」
「二人ともシートベルトをしていなかったため、落下した衝撃で一度フロントガラスに頭をぶつけて、車外に放り出されてしまった、というわけか……」
警部は納得して頷いた。探偵も、今度こそアイスコーヒーを振舞おうとソファから立ち上がりかけた。が、そこに、
「あっ! 待て!」警部の声が探偵をソファから逃がさない。「まだ謎が残っている! 君の推理が正しいのなら、最終的に卯村が撃った拳銃は現場――車内に残されているはずだ。だが、そんなものはなかった」
「ああ、そうでしたね」残念な顔で座り直した探偵は、「拳銃を回収したのは、二人を尾行していた竜王会の構成員です」
「尾行していた? あ、そういえば、竜王会の連中が沼辻の近辺をうろついていたと組対から聞いていたが……。生崎は、なくした自分の拳銃を見つけたのが沼辻だと見当を付けて、部下にやつのことを監視させていたということか」
「そんなところでしょうね。沼辻を監視していた竜王会の構成員は、びっくりしたと思いますよ。沼辻が深夜に車で出掛け、どこかのアパートに入っていったかと思ったら、いきなり銃声が鳴り響いて、それからすぐ、沼辻が女性を抱えてアパートを跳び出てきて、車に乗せて猛スピードで去っていく。慌てて追いかけていくと、沼辻の車は寂しい山道に入って、また銃声が聞こえたかと思ったら、車はカーブを曲がらずに崖下へダイブしてしまったわけですからね」
「で、拳銃だけでも回収しようと、坂路から崖下に下りて、車のヘッドライトを頼りに探しだしたってところだろうな……よし」警部は勢いよく立ち上がると、「その竜王会の構成員を見つけて証言させる必要があるな。こうしちゃおれん」
「あ、警部……」
伸ばした探偵の手を振り切るように、警部は勢いづいて事務所を飛び出していった。残された探偵は、新作ブレンドのアイスコーヒーをひとり侘びしく味わったのだった。