1 臆病者
りんごは殺された——。
今日は青堀祭りの前日である。りんごが毎年楽しみにしているお祭りの前日に、りんごは殺された。
赤い可憐な浴衣姿も、今年はもう見ることができない。
小さな口で、大好物のりんご飴を頬張るところも、もう——。
どうして——どうしてりんごは殺されなければならなかったのか。どうして、どうして、どうして——。
りんごを殺したのは、他でもない——あの三人だ。
磯口、最田、祐天寺——あの三人は〈悪魔〉である。
りんごは、三人の〈悪魔〉に殺された——このことを知っているのは、今のところ、私だけである。
りんごが死んでいることを知っているのは、私だけ——。
りんごの死体は、今、無念にも、川底に沈んでいる。
りんごの生前、私はりんごを助けることができなかった。
私に勇気が足りなかったからだ——。
りんごの代わりに、私が〈悪魔〉たちの餌食になることを、私は躊躇したのだ。私は卑怯者だ。本当に死ぬべきだったのは、りんごではく、私だった。
私は、泣いた。泣いた。泣いた——。
悔やんだ。悔やんだ。悔やんだ——。
どうして私は、どうして私は、どうして——。
どうして私は——こんなにも卑怯なのか。どうして私は、この期に及んで何もできないのか——。
私の手には、包丁が握られている。
台所から拝借したものだ。母が鈍色の刃体を研いでいるのを、最近見た。包丁の切れ味は十分だろう。
私は、この包丁で三人を殺すことができる。三人をあの川に沈めることができる。りんごが沈んでいるあの川に——なのに——。
私は、この部屋から出ることができない。
私は、糸の切れた操り人形のように、両膝を曲げた状態で、弱々しく壁に寄り掛かっている。包丁を握った右手はブルブルと震え続けている。指の感覚はほとんどない。自分が包丁を握っているのか、握っていないのかすら分からない。それでも——。
「りんご……」
りんごの笑顔に靄がかかる。あれだけ泣いたのに、私の目は一向に乾いてくれない。それどころか、涙はどんどん熱く、どんどん重たくなっている。
スマホの画面に映る笑顔のりんごは、去年の青堀祭りのものだ。
靄はどんどん濃くなっていく。この笑顔を見る資格は、今の私には——ない。
りんごを殺したのは、りんごを救えなかった私ではないか——。
りんごの生前、私はりんごを救うことができなかった。
そして、今の私も、何もできていない。
——このままではいけない。
復讐。
復讐だ。
私は、三人の〈悪魔〉に復讐をしなければならないのだ。
それは、犯人以外で唯一真実を知っている私にしかできないことなのだ。
「りんご……」
私は、包丁を強く握りしめた——つもりだったが、やはり手の感覚はない。手の震えも止まる気配もない。
果たして私にちゃんとやれるだろうか。
卑怯で、臆病な私は、りんごのために、ちゃんと復讐を果たせるだろうか。
02 告白禍
野々原貴矢は、節操の無い男である。
女を見ればすぐに岡惚れし、脊髄反射で愛の告白をしてしまう。吐いた息がそのまま「好きだ。結婚してくれ」という軽薄な言葉となる。
告白された方からすれば、堪ったもんじゃない。悪徳セールスに捕まったようなものである。
ゆえに、貴矢の告白は、一部の「レアケース」を除き、当然ながら、門前払いをされることになる。「ごめんなさい」と謝られるのは、まだ体をなしている方で、大抵の場合は、ハエを見るような目で睨まれ、無視されるだけなのである。
貴矢の告白は、公害だ、とさえいえるかもしれない。
貴矢の親友である僕——志茂部遼は、貴矢から告白されることこそないが、貴矢の迷惑を最も被っている一人である。貴矢は「身体の傷は男の勲章だ」と言わんばかりに、振られることを誇りに思っているフシがあり、恋破れたことの報告を、いちいち僕にしてくるである。
それだけではない——貴矢の告白によってメチャクチャになった人間関係に、とばっちりで僕が巻き込まれることもほとんどなのだ。貴矢の元カノである嶺岸梓沙に、なぜか僕まで恨まれてしまっているのは、その好例だろう。
仮に、『野々原貴矢被害者の会』を結成したのであれば、僕が会長になるか、もしくは、梓沙が会長で僕は副会長だ。
とにかく、貴矢が女性に告白することは日常茶飯事であり、僕が〈武勇伝〉を嫌々聞かされることも、ほぼ日課である。
とはいえ、今回ばかりは明らかに事情が違った。
貴矢が「告白」について話すために、アポ無しで僕の家を訪れたのは二十三時過ぎであり、しかも、貴矢の顔はボコボコに腫れ、口の端からは血が流れていたのである。
その「告白」には、事件性があることは明らかだった。
「遼、夜遅くにすまないな。どうしても遼の力を借りたくて」
あまりにも痛々しい貴矢の姿を見て、僕は、応急手当が必要か、と貴矢に慌てて訊いた。すると、貴矢は、アイスクリームが欲しい、と言った。
僕は、眉を顰めつつ、仕方なく一階の冷凍庫に向かって、抜き足差し足で階段を降りる。両親の寝室は一階にあり、二人ともすでに眠っている。
「遼、ありがとう。やっぱり持つべきものは親友だな」
貴矢は、僕の目を見て——ではなく、蓋を外した小型のソフトクリームをうっとり眺めている。同じソフトクリームは、一応、僕の手にも握られている。
「いてててて……やっぱり滲みるなあ」
「貴矢、無理して食べなくて良いよ。口に傷があるんだろ?」
「こんな傷、大したことないぜ。心の傷に比べたら、口の傷なんか……いてててて」
「馬鹿」
見ている方が痛い。僕は、自分の分のソフトクリームを食べる気をすっかり失った。
「話せよ。貴矢、一体何があったんだ?」
貴矢は、僕の部屋に来ると、毎回、部屋に唯一ある肘掛け椅子に座る。ゆえに、僕は、いつも仕方なくベッドの上に座る。しかし、今回に関しては、この時間にベッドに近づくと思わず寝落ちしてしまいそうだったので、僕は、イルカの形をしたビーズクッションを座布団代わりにし、貴矢の正面に座った。
「遼、りんごちゃんのことを知ってるか?」
「りんごちゃん? 誰それ? アイドル?」
「いや、百城高校の一年生の澤田林檎ちゃんだ」
——そんなの知っているはずがない。百城高校は、隣町の高校だ。僕みたいな閉鎖的な人間が、他校の女子生徒の名前など知っているはずがないのである。
ただ、こういう強引な話の展開のさせ方は、貴矢の話し方の特徴である。逐一突っかかっていては一向に話が進まないので、僕は、それで? と先を促す。
「りんごちゃんの作るアップルパイは最高に美味しいんだ」
「それで? ……って、え?」
さすがに聞き流せなかった。りんごちゃんのアップルパイ? 仮にジョークだとしたら、あまり品の良いものではないだろう。
「りんごちゃんは隣町の『ワック』でクルーとしてバイトしてるんだ」
『ワック』というのは、『ワクワクバーガー』という大手ハンバーガーチェーン店である。
「俺は『ワック』でりんごちゃんの作るアップルパイを食べ、まんまとりんごちゃんに胃袋を掴まれたわけだ」
「待ってくれ。『ワック』のアップルパイなんて、すでに調理されているものをフライヤーで揚げるだけだろ? 店員によって味が変わるわけが……」
「つまらないこと言うなよ。りんごちゃんが提供してくれるアップルパイの味は格別なんだよ」
要するに、アップルパイ以前に、りんごちゃんの見た目に惚れてしまっているということだろう。一目惚れは、貴矢の得意技である。
「……それで、貴矢は、単なる客の立場でありながら、目鼻立ちの整った女性クルーに告白したわけだね?」
「なんだか棘のある言い方だな」
「当たり前だろ。石月さんがいるんだから」
石月小百合は、僕らが通う千翔高校のマドンナである。貴矢の告白が無下にされなかった〈レアケース〉は、ほかでもない、石月さんの事例である。
石月さんは、貴矢の告白に対して、友だちから始めましょうと答え、信じられないことに、それを文字どおり実践している。そして、〈友だちの友だちは友だち〉という幼児アニメ的な論理によって、石月さんは僕とも友だちになってくれた。要するに、石月さんは超天然お嬢様なのである。
「将来、石月さんと結婚するんだったんじゃないのか?」
「もちろん」
「じゃあ、隣町の高校の女子に尻尾を振ってる場合じゃないだろ?」
「それとこれとは話が別だ。小百合ちゃんは小百合ちゃんだし、りんごちゃんはりんごちゃんだよ」
僕は心の底から溜め息を吐く。
貴矢とは長年親友をやっているが、この辺りの価値観は永遠に合わないだろうと思う。
「まあ、どうでも良いや。それより、りんごちゃんにフラれて、それでどうしたんだ? まさかショックで高いところから飛び降りでもしたのか?」
「おい、遼、フラれたって決めつけるなよ」
僕は目を丸くする。まさか貴矢は、石月さんに続く「レアケース」を引き当てたとでもいうのか——。
「……フラれてないのか?」
「もちろん」
唖然とする僕とは対照的に、貴矢は涼しい顔でソフトクリームを舐めている。
「……フラれる以前に、そもそも無視されたというわけでもなく?」
「それはフラれたも同然じゃないか?」
認知の歪みもなさそうである。まさか本当に——。
「りんごちゃんは、貴矢との交際を了承したのか?」
「そうだよ」
頭が真っ白になりかけた。「ただし、条件付きでな」という次の言葉を聞かなければ、もしかすると僕は気絶していたかもしれない。
「条件? 何それ?」
「これだよ」
貴矢は、僕の鼻先に向けてスマホの画面を突きつけた。
そこに映し出された画像は——。
「ノートと……それから、数学の問題集……だよね?」
僕が自信なさげにそう言ったのは、画像に映っていたものが何か分からなかったから、というよりは、なぜノートと数学の問題集が〈交際の条件〉になるのかが腑に落ちなかったからである。
「宿題だよ」
「宿題?」
「りんごちゃんは、夏休みの宿題を俺に代わりにやって欲しいと言ったんだ。りんごちゃんの代わりに俺が数学の問題を解いあげたら、その〈ご褒美〉として、俺と付き合ってくれると言ったんだ」
——どんな表情をして良いのやら、僕にはよく分からなかった。
「……貴矢はそれで良いのか?」
「それで良いとは?」
「だって、どう考えたって、貴矢が利用されてるじゃないか。そんな引換条件なんて聞いたことないよ」
高校生にとって、付き合うとか付き合わないとかは、もっと清らかなもので、そういう実利的な取引によって決まることではないような気がする。
「遼がどうしてそんな複雑な顔をしているのか、俺にはよく分からないよ。だって、ウィンウィンじゃないか。俺はりんごちゃんと付き合えて嬉しいし、りんごちゃんも宿題が終わって嬉しいし」
それは——絶対に違うと思う。
「だいたい、貴矢は他人の宿題を代わりにやれるほど頭が良いのか? そもそも、自分の宿題は終わってるのか?」
ツマラナイことを言うなよ、と貴矢は言う。つまり、僕の質問に対する回答は、いずれも〈NO〉だということだ。
「本当にツマラナイことか? だって、貴矢がやっていることは安請け合いじゃないか。りんごちゃんの宿題をやるって言いながら、実際には宿題なんてできっこないんだから。無責任じゃないか」
「いいや。無責任なんかじゃない。一度やると言ったらやるのが漢だ。血反吐を吐こうとも、必ずしも明日の夜までにやり遂げると決心したんだ」
貴矢は、コーンの先端部分を、ポンっと指で弾いて口の中に放り込む。
僕は、貴矢の言葉をそう簡単には飲み込むことができなかった。〈ある言葉〉に引っ掛かりも覚える。
「……今、〈明日の夜〉までと言ったか?」
「ああ、言ったぜ」
「どうして明日の夜なんだ? 百城高校は夏休みが終わるのが早いのか?」
今日は、八月十九日である。僕らが通う千翔高校では、夏休みが八月いっぱいまであるのだが、りんごちゃんが通う百城高校は、それよりも十日ほど早く二学期が始まるということだろうか。
「いいや。違う。明日——八月二十日にお祭りがあるんだ」
「お祭り?」
「ああ。青堀祭りだ」
青堀祭り——聞いたことがある。もしかすると幼少期に一度か二度行ったことがあるかもしれない。隣町で年に一日開催される夏祭りで、大きな神社の境内を中心に、屋台が軒を連ねるのである。
「青堀祭りの屋台で、りんご飴を食べるのが、りんごちゃんにとって年に一度の楽しみらしいんだ」
アップルパイの次はりんご飴か。〈りんご〉づくしで、僕の頭の中まで甘酸っぱくなる。
「それで?」
「俺は、明日の青堀祭りまでにりんごちゃんの彼氏になるって決めたんだ。そのために、明日の夜までに宿題を終わらせる必要があるだろ?」
「そんなムチャな」
「どんな困難だって乗り越えなきゃいけないんだ。だって、祭りといえば、浴衣姿だぜ? りんごちゃんが浴衣姿でりんご飴を舐めてる姿を考えてみろよ? まさに至高だぜ」
貴矢が、うっとりとした表情を浮かべる。
りんごちゃんの容姿が分からないから、というよりも、それとは全く違う事情で、僕の脳内で再生されたのは、〈別の女性〉の浴衣姿である。記憶の中の映像ではない。完全なる妄想だ。
彼女と夏祭りに行けたら——と僕は夢見てしまう。
——そう。夢である。実際は、夏休みの開始初日から公立図書館に籠っている彼女が、夏祭りなどという人で溢れ返った場所に行ってくれるとは思えない。肌の露出を異様に嫌う彼女が、浴衣を着てくれることなど、夢のまた夢だろう。
そうでないとしても、そもそも、僕には、彼女を夏祭りに誘う度胸などないのである。
夢のまた夢のまたそのまた夢——。
僕は、ハッと我に返る。
いつの間にやら、貴矢は、二つ目のソフトクリームの先端を舐めている。手元のアイスを奪われたことに気が付かないほど、僕の意識はあらぬ方向へと向かってしまっていたらしい。
僕は、軽く咳払いをする。
「……それで、貴矢、どうしてそんなに傷だらけなんだ? まさかりんごちゃんから渡されたノートの正体が妖怪で、殺されかけたとかではないよな?」
「馬鹿なこと言うなよ。紙束ごときにやられて堪るか」
「じゃあ、誰にやられたんだ?」
「女だよ」
「女? 梓沙か?」
「違う」
困ったことに、梓沙以外にも、貴矢を殴りたいであろう女性の存在に心当たりがあり過ぎる。おそらく、僕の知らないA子やらB子やらも、みんな貴矢を殴りたがっている。
それくらいに、貴矢は〈女の敵〉なのである。
「一体誰にやられたんだ? 相当酷くやられてるみたいだが……」
貴矢の目の上の瘤は、僕の部屋に入ってきた時よりも大きく腫れ上がってるように見える。青瘤も、切り傷も、顔に一つや二つあるという騒ぎではない。
「女子プロボクサーにちょっかいでも出したのか?」
「違う。相手は一人じゃなくて、三人なんだ。女三人がかりでやられたんだ」
僕は、思わず吹き出してしまう。〈女の敵〉もここまで来ると達人芸である。
「おい、遼、少しも笑い事じゃないぜ」
「笑うしかないよ。完全に因果応報じゃないか」
「笑えないね」
傷だらけの貴矢を撮影した画像を梓沙に送りたい、という僕の冗談にも、貴矢は少しも笑わなかった。
「一体何をしたら、そんな女三人に寄ってたかってボコられることになるんだ?」
「俺は何もしていない。悪いのは、徹頭徹尾、あの女三人なんだ」
「責任転嫁はやめろよ」
責任転嫁なんかじゃない、と貴矢はキッパリと言う。
もしかすると、本当に何か事情があるのかもしれないと、僕もようやくそう思い始めた。
「……その三人の女が悪いことをした、と言ったか? 一体どんな悪いことをしたんだ?」
貴矢が、口を動かし、何かを言った。
——しかし、僕は、貴矢の言葉を聞き取ることができなかった。
貴矢の声が小さかったから、というわけでは、決してない。
貴矢の言葉を聞き取ることができなかったのには、僕に原因がある。思うに、想像からあまりにもかけ離れた言葉は、耳に入ったとしても、脳までは届かないのである。
僕が「今何て言ったの?」と聞き返すと、貴矢は先ほどと同じ言葉を繰り返した。
今度は僕にも聞き取れた。
貴矢は、こう言ったのである。
「あの三人の女は、りんごちゃんを殺したんだ」
3 図書館の天使
『図書館の天使』という言葉がある。
あなたがある本のある情報を求めていたとする。しかし、あなたは、その本のタイトルが分からない。とりあえず、図書館で、片っ端から本にあたろうとし、最初の一冊を手に取る。すると、適当に手に取ったその本の、適当に開いたページにその情報がたまたま載っている、ということが起きる。
図書館で起きる〈偶然の一致〉。
この不思議な現象を、『図書館の天使』と呼ぶのである。
他方、僕は、舞泉美都のことを、『図書館の天使』と呼んでいる。
これは、本来的な意味とは関係なく、単に、舞泉さんが、いつも図書館にいて、そして、天使のように可憐だからだ。
もっとも、僕が舞泉さんのことを『図書館の天使』と呼んでいることは、内緒の話である。
たとえば、貴矢や石月さんの前でそのような呼び名を用いることはないし、ましてや、舞泉さんに面と向かって……などということは考えられない。
僕の舞泉さんへの秘めたる想いは、一応は、舞泉さんにも共有された。
とはいえ、それによって、僕と舞泉さんとの関係が劇的に変わったということは、ない。
僕のポジションは、相変わらず、図書館で分厚い本を読む舞泉さんの、美しい横顔を遠くから眺める、というものだったのである。
ただし、今日は——。
「舞泉さん」
「……シモベ君、いつの間にいたのか。シモベ君は気配を消すのが上手いな」
舞泉さんの目が、本のページから、僕の顔へと向く。舞泉さんの目は、あまりにも綺麗に透き通っていて、僕は、反射的に目を逸らしてしまいそうになる。
舞泉さんは、相変わらず季節感のない長袖のパーカーを着ている。
「舞泉さん、ちょっと時間もらえるかな?」
「我に何か用があるのか?」
「ちょっとこっちに来て」
僕が指差したのは、図書スペースの出口の方である。舞泉さんは、バタンと重たい本のページを閉じた。
夏休み中、舞泉さんが使う図書館は、いつも決まっていた。
千翔高校がある市内で、一番大きな公立図書館である。
この図書館は、市内で一番広いだけでなく、市内で一番新しい。ゆえに、夏休みには、多くの人が利用しており、勉強をしている学生も多くいる。
ただし、舞泉さんがこの図書館を気に入っているのは、内装が綺麗だから、などといった理由ではなく、単に、蔵書数が多いからだろう。
舞泉さんが読んでいる本は、マニアックなものばかりだ。タイトルを読み上げるだけで疲れてしまうような、難解な本ばかりなのである。
そういう本は、小さな図書館にはあまり置いていないし、そもそも、この図書館にだって数多く置いてあるわけではなく、舞泉さんは受付カウンターでよく本の取り寄せを行なっている。
ところで、この図書館は、公民館と併設されている。そして、図書館と公民館の間のホールには、喫茶スペースもある。
僕が舞泉さんを誘ったのは、その喫茶スペースである。ここでは、コーヒーが一杯百八十円と、学生の財布に優しい値段で提供されている。
僕はアイスコーヒーを、舞泉さんはホットの紅茶を注文した。
「シモベ君はよくそんな忌々しいものが飲めるな」
「忌々しいもの? ……コーヒーのこと?」
「そうだ。暗黒ではないか」
舞泉さんは、かなり独特なキャラクターの持ち主だ。いわゆる〈スピリチュアル系〉に近いのではないかと、舞泉さんと話し始めた当初の僕は思っていた。しかし、舞泉さんのスタンスは〈幽霊はいない〉というものなので、〈スピリチュアル系〉には括れない。
何にも括れないような独特の世界の中を、舞泉さんは生きているのである。
「これでもう暗黒ではないよね?」
僕は、グラスの中に、コーヒーフレッシュを二つも投入し、黒い液体をベージュに染め変える。
その様子を見て、舞泉さんは、心底ホッとしたように、無事に浄められたな、と言った。
——その後の会話が続かなかった。
舞泉さんは、熱い紅茶を冷まさないままで啜っている。
僕は、そんな舞泉さんにただただ見惚れている。
夏休みの第一週、木陰のベンチで、僕は舞泉さんに告白をした。
僕の告白に対し、舞泉さんは、口づけで返してくれた。
しかし、僕が舞泉さんの恋人になったのかといえば、それは違う気がする。
舞泉さんは、そんな簡単に捉えることができる人ではない。
あの口づけの後も、舞泉さんが僕に接する態度は変わらない。僕の呼称も相変わらず〈下僕〉と同じイントネーションの『シモベ君』のままなのである。
そして、僕も、相変わらず舞泉さんのことは名字で呼んでいるし、待ち合わせをして会うのではなく、相変わらずストーカーのように舞泉さんがいる図書館に通っているのである。
二進法の世界では、〈0〉か〈1〉しかない。
しかし、僕は、あの口づけの意味を〈処理〉できないままでいる。
舞泉さんとキスは、たしかに存在した。
しかし、それが果たして何を意味するのか、僕には分からない。『舞泉美都教の教義図鑑』たるものがあり、そこに〈キス〉の意味が書かれていたならば、どれほど楽だろうか——。
「ところで、シモベ君、我に何の用があるのだ?」
舞泉さんの色素の薄い目が、紅茶ではなく、僕の目を捉える。
僕は、舞泉さんの目を直視することができない。
相手の目を見て話すのが苦手な人は、相手の鼻や口を見ながら話せば良い、と以前聞いたことがある。
しかし、舞泉さんの鼻は、舞泉さんの目とあまりにも近いし、かといって、舞泉さんの艶やかな唇を見てしまえば、僕はなおさら、舞泉さんと話すことができなくなる。その唇は、あの日、僕の唇と——。
気付くと、僕は、アイスコーヒーに、当初入れるつもりのなかった三つ目のコーヒーフレッシュを入れていた。
そうすることで、きっと、心を浄めようとしたのだ。
僕は、マドラーでカランコロンと氷を鳴らしながら、舞泉さんに、ついに切り出す——。
——事件の話を。
僕らが通う千翔高校で起きた殺人事件は、僕と舞泉さんとの距離をグッと縮めたのである。
僕は、〈二匹目のドジョウ〉を狙い、昨夜、貴矢から聞いたりんごちゃんの事件について、舞泉さんに相談することにしたのだ。
とはいえ、そこにあったのは下心だけではない。
僕は、舞泉さんの知性と行動力に頼ろうとしたのである。舞泉さんであれば、前回の殺人事件同様、今回の事件も上手く処理してくれるのではないかと期待しているのである。
僕は、昨夜貴矢から聴取した話を、なるべく整理して舞泉さんに伝える。終始マドラーを弄りながら。
貴矢が、僕に話した内容は、以下のとおり。
貴矢が、隣町の『ワック』でクルーとしてバイトをするりんごちゃんと出会ったのは、八月十八日——痣だらけの貴矢が夜遅くに僕の家に駆け込んで来た前日のことである。
貴矢は、たまたま立ち寄った『ワック』で、りんごちゃんの作ったアップルパイに胃袋を掴まれ、もしくは、りんごちゃんの容姿に一目惚れした。
そして、貴矢は、すぐに行動に移った。
貴矢は、邪な目的を持って、ハンバーガーの注文列に並び、ハンバーガーを注文をせずに、カウンターのりんごちゃんに馴れ馴れしく話し掛けた。
貴矢曰く、反応は上々だったらしい。
りんごちゃんは終始笑顔で雑談に応じ、自らのフルネーム(「澤田林檎」)を貴矢に明かすとともに、青堀祭りのりんご飴の話などもしたのである。
貴矢によれば、バックヤードから店長が出て来て、りんごちゃんに注意するまで、五分くらいはりんごちゃんと話し込んでいたのだという。りんごちゃんからすれば、バイト中の息抜きだったのかもしれないが、それにしても、りんごちゃんは優しい子だな、と僕は思う。
「今回はいけると思って、告白の段取りをつけたんだ」
と貴矢。
一旦席に戻った貴矢は、紙ナプキンに【十九日十三時に、『むくどり公園』の噴水前に来て欲しい 野々原貴矢】と書き、りんごちゃんに渡したのだそうだ。なお、『むくどり公園』とは、隣町にある公園である。
その場で告白すれば良かったじゃないか、と僕が言うと、貴矢は、遼にはロマンがないなあ、と小馬鹿にしてきた。
「せめて、今のご時世なんだから、呼び出し方式じゃなくて、貴矢の連絡先を書けば良かったんじゃないか?」
「それも無粋だな。男女交際は告白によって始まるんだ。告白の前に連絡先を交換するのは順序がおかしいじゃないか」
貴矢は、こういうところだけ、妙に真面目というか、古風である。
「で、その紙ナプキンを受け取ったりんごちゃんはどういう反応だったんだ?」
「……特に。何も言わず、黙って紙ナプキンを受け取ったよ」
「笑顔は? 雑談をしてる最中は、ずっと笑顔だったんだろ?」
「うーん、たしか、紙ナプキンは受け取った際には、笑顔はなかったなあ」
それは脈無しという意味なのではないか、と僕は思ったのだが——。
——翌日、奇跡が起こった。
なんと、指定された時間に、りんごちゃんがむくどり公園の噴水前に現れたのである。貴矢は、亜麻色の髪の乙女が健気にも俺を待ちぼうけしていたんだ、などと詩的に表現した。
ただし——。
「りんごちゃんは宿題を持って来たんだよね?」
「そうだ」
りんごちゃんは、数学の宿題を貴矢が代わりにやることを〈交際の条件〉としたのである。
僕は、貴矢のことを不憫に思う。要するに、貴矢は利用されたのである。りんごちゃんがむくどり公園に現れた目的は、貴矢からの告白を受けるためではなく、貴矢に宿題を代わりにやってもらうためだったのである。もしかすると、りんごちゃんは、貴矢に宿題をやらせた後で、交際の約束を反故にするつもりだったのかもしれない。
「遼、言っておくが、俺はノートと問題集を受け取っただけじゃないぜ?」
「他に何かあったの?」
「りんごちゃんとLINEの交換もしたんだ」
一瞬面食らった。
しかし、冷静に考えてみると、やってもらった宿題を受け取るために、連絡先の交換は必要なのだ。りんごちゃんは、事務的な必要に駆られて、貴矢とLINEを交換したのだ。
気を取り直して——。
「貴矢は、宿題を明日の夜までに終わらせる、とりんごちゃんとムチャな約束したんだよね?」
「ムチャじゃない。恋は不可能を可能にするんだよ」
〈不可能〉と自分で言ってしまっているが……。
「俺は胸を張って約束したさ。二十日の夜までに宿題を終わらせて、二十日の夜の青堀祭りでりんごちゃんと手繋ぎデートをする、と」
「……りんごちゃんの反応は?」
「うーん、なんというか、何か言いたそうな感じではあったな。ただ、最終的には〈分かった〉と了解してくれたぜ」
何か言いたそうな感じ——やっぱりりんごちゃんは、本心では貴矢と恋仲になりたくなかったんだよ、という正直な感想は、喉元でグッと堪えた。
「もしかすると、りんごちゃんは俺の学力を信頼してなかったのかもな」
「実際に学力は皆無でしょ」
「まあな。でも、俺にはある〈秘策〉があったんだ」
「〈秘策〉?」
「いざとなったら、小百合ちゃんかミト様にやってもらおうかな、と」
「は?」
——ダサい。自らが引き受けた宿題を、さらに下請に出すだなんて——。
りんごちゃんは僕らと同じ一年生であるから、石月さんや舞泉さんならば、宿題をこなすことはできるだろう。一学期の通知表を見せてもらってはいないが、石月さんは勉強熱心な優等生であり、舞泉さんは学校の勉強はしていなそうだが地頭のレベルが違う。
——ただ、そういう問題ではない。下請はあまりにもダサいし、貴矢の不純な目的に二人——特に石月さん——を付き合わせるというのは決して許されない。
「なあ、遼、そんなに目くじらを立てるなよ。実際には、俺は、小百合ちゃんにもミト様にも頼んでないんだからさ」
——そうなのだ。貴矢の邪悪な企みは未遂に終わったのである。
りんごちゃんの死亡によって、そもそも、宿題をやる必要が無くなったのだから——。
貴矢の話によれば、むくどり公園でりんごちゃんと別れた貴矢は、家に帰り、りんごちゃんに教えてもらった連絡先にメッセージを送った。
メッセージの内容は【今日はありがとう。りんごちゃんは可愛くて、女の子の匂いがした】だそうである。
——素直に気持ちが悪い。
〈女の子の匂い〉とは一体何なのかを貴矢に尋ねたところ、美容院みたいな匂いだ、とのことである。それがどういった匂いなのか、僕にはあまり具体的にイメージができなかった。
りんごちゃんからの返信は、しばらくなかったそうだ。
しかし、その日の夜二十一時頃になって、りんごちゃんから返信が来た。
いや、返信という表現は不適切かもしれない。
それは、りんごちゃんから一方的に発せられた〈SOS〉だった。
【『ワック』のすぐそばの河川敷で、磯口、最田、祐天寺の三人に殺される。助けて】
このメッセージを受信した貴矢は、自転車に乗って、急いで河川敷へと向かったのだという。
「河川敷につくと、女が四人いたんだ。名前を確認したわけじゃないが、そのうち三人は、多分、磯口と最田と祐天寺だろう」
「もう一人はりんごちゃん?」
貴矢は首を横に振る。
「知らない子だった。おそらく、磯口と最田と祐天寺とつるんでる女の子だろう」
「じゃあ、りんごちゃんは……」
もう手遅れだったんだ、と貴矢は声を落とした。
「俺は、お前らはりんごちゃんを川に突き落としただろ、って叫びながら、土手に降りて、四人に近づいていったんだ」
「……そうしたら?」
「はあ、てめえ、何言ってんだ、ふざけんなって、三人にボコボコに殴られたんだ」
そして、ジャガイモのように不細工に顔が腫れ上がってしまった——という話らしい。
——僕には、二つ引っ掛かることがあった。
「数的不利とはいえ、貴矢は男で、相手は全員女じゃないか。どうして、そんなにコテンパンにやられちゃったの?」
そんな野暮なこと訊くなよ、と貴矢は鼻で笑う。
「決まってるだろ。俺は何があっても絶対に女は殴らない主義なんだ」
その心構えは立派なのかもしれないが、果たしてこの場面でもそのポリシーを貫く必要があっただろうか。この場面で、どうして貴矢がサンドバッグにならなければならないのか——。
「殴り返せよ。そいつらがりんごちゃんを殺したんだろ?」
「……無理なんだ。それだけはできないんだ」
貴矢が唇を噛む。もしかすると、貴矢の中でも葛藤があったのかもしれない。
僕は、もう一つの疑問も口にする。
「貴矢は三人に殴られた、と言ってたよな? でも、その場には四人の女がいたんじゃないのか?」
磯口、最田、祐天寺と、もう一人のつるんでいる女の子である。
「俺を殴ったのは、三人だけなんだ。もう一人の子は、俺を殴らなかった」
「殴らないで、どうしてたんだ?」
「泣いてたよ。その場に呆然と立ち尽くしながら、ただただ泣いていた」
それは一体どういうことだろうか——。
なぜその子は泣いていたのか——。
貴矢が殴られている姿を見て、心を痛めた——ということなのだろうか。
それとも——。
「多分、その子は、色々あって仕方なく、磯口、最田、祐天寺の三人とつるんでたんだと思う」
その子だけ乱暴者じゃなかったんだ、と貴矢は言った。
貴矢から聞いた話は以上である。
僕の拙い説明で、果たして舞泉さんは理解してくれただろうか——。
説明を終えた僕は、マドラーから指を離し、おそるおそる顔を上げ、舞泉さんの顔を見た。
——舞泉さんは不敵な笑みを浮かべていた。
そして、カップの底に残った紅茶を飲み干し、言った。
「シモベ君、〈悪魔退治〉を始めよう」
幽霊の存在は認めないものの、この世界には悪魔は存在する、というのが、舞泉さんのスタンスである。
そして、悪魔を退治することが使命なのだ、と舞泉さんは考えている。
——ああ、そういうことか、と僕は納得する。
舞泉さんはやっぱり『図書館の天使』で間違いないのだ。
4 告発文
石月小百合は、お嬢様である。
石月さんは、〈お嬢様〉のビジュアルイメージどおりに容姿端麗で、性格も純粋で、天然で、ふわふわである。
なぜこんなにも〈お嬢様〉らしさ全開なのかといえば、実際に石月さんが筋金入りのお嬢様だからである。
『石月グループ』は、日本の新興財閥であり、石月さんのお父さんは、経団連の次期会長候補とも言われている大物だ。
年商十五兆円。純利益一兆円。総資産三十兆円超え——と、華々しい数字が並ぶ。
とはいえ、僕みたいな平凡な高校生には、日経新聞で持て囃されているような、石月家の破格のスケールには、あまりピンと来ないというのが正直なところである。
他方、そんな僕にも、石月家がレベチであることが一目で分かる数字がある。
それは、石月家が所有する家の数である。
巨大な本邸とは別に、石月家の別邸は、全国十二ヶ所にある。
以前、僕が、『別邸』のことを『別荘』と言い間違えたところ、恐ろしいことに、石月さんは、
「志茂部君、別荘は、別邸とは別にいくつかあるんですよ」
などと言っていた。
噂によると、別邸も、全国に十二ヶ所のほかに、国外にもいくつかあると聞く。
果たしていくつの家を所有すれば気が済むというのだろうか——。
石月家は、ファンタジーの世界のお金持ちよりもお金持ちであるに違いないのである。
僕が訪れた石月家の二軒目の別邸は、一軒目とは対照的に、洋館だった。
洋風の日本家屋ではない。正真正銘の洋館である。
「父が昔イギリスでホームステイをしていたんです。父はあの頃の思い出に浸るのが好きで、事業で成功した後に、ホストファミリーに頼み込んで、家を家具ごと移築してもらいました」
石月さんは、サラリとそんな説明をしたのであるが、僕みたいな平民にゴクンと飲み込めるような話ではない。それは、ホームステイ先の家を〈乗っ取った〉ということではないのか? しかも、イギリスの家をそのまま日本に持ってくるだなんて、一体どれだけの費用が掛かるのだろうか——。
「大きなテーブルだな」
いつの間にやら席に着いていた舞泉さんが、マボガニー材でできたテーブルを、人差し指でポンポンと叩く。
たしかに大きなテーブルである。図書館の喫茶店にある二人用のテーブルを〈1〉とすると、〈20〉くらいの大きさである。
「父のホームステイ先の家族は、十人家族だったんです」
「それにしても大きくないか?」
「加えて、常に五、六カ国から若者がホームステイに来てたらしいです」
「なるほどな」
大きいテーブルなので、当然、椅子もたくさんある。背もたれのある木の椅子が、全部で十六脚。
舞泉さんは、迷わずに端の席に座った。ただ、僕は、どこの席に腰掛けて良いのやら、よく分からなかった。四人がバラバラの席に座れば、あまりにも距離が離れ過ぎてしまうし、かといって、これだけ大きなテーブルなのに、密集して座るのもなんだか妙である。
僕は、舞泉さんと、間に椅子二つ分空けた隣の席に座った。それに合わせて、石月さんが舞泉さんの正面、貴矢が僕の正面の席に座った。テーブルの半分も使えていないのだが、これが最適解に思えた。
僕の家の天井よりも二倍くらい高い天井には、巨大なシャンデリアが煌々と輝いている。
壁には、いかにも値が張りそうな宗教画がいくつも掛けてある。
こんな場に高校生が四人とは、なんとも場違いなように思えた。しかも、この場にふさわしい〈ドレスコード〉を守っているのは、魔法が解ける前のシンデレラのような豪華なドレスを身に纏っている石月さんだけであり、舞泉さんも、貴矢も、僕も、質素な私服姿なのである。
今回の別荘がこういう厳かな場所であるならば、石月さんには事前に言って欲しかったところである。まあ、この空間に相応しい服なんて、そもそも僕のクローゼットの中に無いのだけども。
「それでは本題に入ろう」
黒いパーカー姿の舞泉さんがこの場を仕切る。舞泉さんは大体いつもこの服装だが、このパーカーの黒は〈暗黒〉ではないのか、とふとくだらない疑問が湧いた。
舞泉さんは、斜め正面の貴矢に向かって、平手を差し出す。
「貴矢、例の〈ブツ〉は持ってきたか?」
もちろん、と貴矢は、椅子の下に置いたリュックの中身を漁った。
そして、広い机の天板に、ノートと問題集を置いた。
「ミト様、これが約束した〈ブツ〉だ」
図書館の喫茶店で、僕が、舞泉さんにりんごちゃんの事件について話したのは、今から七時間ほど前のことである。
会合の場を、図書館の喫茶店から、わざわざ石月さんの別邸に移したのは、舞泉さんが、ノートと問題集——りんごちゃんが貴矢との〈交際の条件〉とした宿題——の現物を見たがったからなのだ。
貴矢は、今日の昼間はバイトであり、拘束が解けるのが、十七時以降だった。他方、図書館の喫茶店は、十七時ちょうどに閉まる。
ゆえに、別の会合場所を探す必要があったところ、同じLINEグループにいた石月さんが、ぜひ我が家の別邸を使ってください、と名乗りを上げてくれたのである。
「はいよ」
貴矢は、目一杯腕を伸ばし、ノートと問題集を舞泉さんの方へと滑らせる。そのノートの問題集を、舞泉さんもやはり思いっきり腕を伸ばし、指先でギリギリ掴む。
——やはりテーブルが広過ぎるのである。もう少し密集して座るべきだったかもしれない。舞泉さんのすぐ隣、というのは照れるにしても、隣の隣くらいには座った方が良かったかもしれない——。
なお、ノートにも問題集にも、「一年D組 澤田林檎」という記名がちゃんとなされている。
舞泉さんは、まず問題集の方を開き、一枚ずつページを捲っていく。他の三人は、しばらくその様子をじっと観察していたのであるが、少しだけ沈黙が気マズくなった僕は、誰に対して、というわけでなく、事件についての疑問を口にする。
「そもそも、りんごちゃんは本当に死んでるのかな?」
僕の発言に目を丸くしたのは、貴矢である。
「遼、何をトチ狂ったことを言ってるんだ? りんごちゃんは三人の暴力女に殺されたんだよ」
「そうかもしれないけど、でも、貴矢はりんごちゃんが殺されたシーンを見てないだよね?」
貴矢が河川敷に着いた頃には、りんごちゃんの姿はすでに無かったのである。その状況を見て、りんごちゃんが川に突き落とされたに違いない、と貴矢が考えたに過ぎないのである。
「待ってくれ。たしかに俺は直接的なシーンは見てない。でも、明らかだろ? りんごちゃんは、俺に【『ワック』のすぐそばの河川敷で、磯口、最田、祐天寺の三人に殺される。助けて】というメッセージを送ってきたんだ。そして、俺が河川敷に行った時には、磯口、最田、祐天寺の三人がいて、すでにりんごちゃんはいなかったんだ」
それだけじゃない、と貴矢は続ける。
「あの後、今に至るまで、俺は何度も何度もりんごちゃんにメッセージを送ってるんだ。でも、一切反応がないんだぜ。りんごちゃんが生きてたら、何らかの反応はするだろ。普通」
貴矢の言っていることは、筋が通っている。
しかし、仮にこれが、作られた〈筋〉なのだとしたら——。
「貴矢、お前はりんごちゃんにハメられてるんじゃないのか?」
「は?」
良い機会なので、僕は貴矢の幻想を徹底的にぶち壊すことにした。
「りんごちゃんは、貴矢と本当に交際する気なんかこれっぽっちも無かったんだ。ただ、貴矢をからかっておもちゃにしていただけなんだよ」
中途半端に口を開けたまま、何も言うことができない貴矢に対して、僕はさらに残酷な言葉を浴びせる。
「まず、りんごちゃんは、貴矢の〈本気度〉を確かめるために、自分と付き合いたければ夏休みの宿題を代わりにやるように言ってみたんだ。そうしたら、貴矢は、躍起になって、明日の夜までにやる、なんて言い出したから、りんごちゃんは焦ったんだ」
「……なんで焦るんだ?」
「だから、りんごちゃんは内心では貴矢と付き合いたくなかったからだよ。青堀祭りの手繋ぎデートだなんて、まっぴら御免だったのさ。それで、貴矢との約束を反故にするために、りんごちゃんは、自らを〈殺された〉ことにしたんだ」
「百歩譲って、りんごちゃんが俺に気がないとしても、なんというか、そこまでする必要はないんじゃないか……?」
「いや、あるね。だって、りんごちゃんは、君にバイト先を知られてしまってるんだ。また君がバイト先に来てしまったら迷惑だろう?」
「そんな……りんごちゃんはそんな子じゃ……」
「そうは言うけど、貴矢、君はりんごちゃんのことをどれだけ知ってるんだい? 会って話したのは、たったの二回でしょ。君はりんごちゃんのほんの上っ面しか見ていないんだよ。りんごちゃんだけじゃない。君は、女の子のほんの上っ面だけを見て、惚れた腫れたを繰り返してるんだ。これを機にちゃんと反省した方が良いよ」
あまりにも手厳しい指摘に、貴矢は銅像のように固まってしまった。
パチパチと手を叩く音が聞こえる。
——石月さんだ。石月さんが、僕の発言に拍手を送っているのである。
僕が最後に貴矢に放った言葉は、ほとんど石月さんの気持ちの代弁である。交際関係にあるかどうかはおいておいて、石月さんのような素敵な女性がそばにいながら、なぜ貴矢は次々と女に手を出すのか。僕には一生理解ができない。
これにて〈悪魔退治〉は無事終了、と思いきや、僕の発言に異論を挟んだのは、舞泉さんであった。
ただし、舞泉さんが異議を申し立てたのは、最後の説教部分についてではない。その前の推理部分についてである。
「シモベ君、こいつらはどうするんだい?」
舞泉さんは、先ほどまで熱心に読んでいたノートと問題集を、僕に向かって掲げていた。
「……どういう意味?」
「もしもりんごが生きているのだとすると、このノートと問題集が必要なんじゃないのか? 貴矢に預けたままで良いのか?」
——たしかにそのとおりである。
新学期が始まれば、りんごちゃんは、宿題としてノートを提出しなければならないし、問題集は二学期も三学期も使い続けるはずなのだ。
そうすると、宿題をやってもらうかどうかはさておき、最低限、貴矢からノートと問題集は返してもらわなければならないだろう。そのためには、自らが〈死んで〉、貴矢と音信不通になるわけにはいかない。
「……りんごちゃんは、学業にあまり熱心じゃなくて、ノートも問題集も要らない、成績なんてクソ喰らえという感じだったんじゃないのかな?」
「シモベ君、そんなことはないぞ。我が見た限り、問題集にもノートにもちゃんと書き込みがあるのだ。りんごはむしろ勉強熱心だったに違いない」
少なくとも、シモベ君や貴矢よりはな、と付け加えることを、舞泉さんは忘れなかった。
「……じゃあ、りんごちゃんは、ノートと問題集は〈紛失〉したこととして、買い直すつもりだったんじゃ」
それも考えられぬ、と舞泉さんは、首を横に振る。そして、僕に、問題集をポンと投げる。僕は、あたふたしながらも、それをなんとかキャッチする。
『数学I・A』の問題集である。
「シモベ君、最初の方の単元を見るが良い」
僕は、舞泉さんの指示に従い、最初の『数と式』のページをパラパラと捲った。
——舞泉さんが言いたいことは、すぐに分かった。
「……すごい丁寧にまとめられるね」
りんごちゃんは、何色もペンを使い、時には手書きの図や表を混えて、問題集に書き込みを行なっているのである。それは、問題を解くためでなく、明らかに、後に復習で見返すためである。
「我もまだ全部を確認できているわけではないが、ノートも同様に綺麗にまとめられている。復習用にな。〈紛失〉で買い直すというのは、あまりにも勿体ない」
舞泉さんの言うとおりだろう。りんごちゃんが、力作のノートや問題集を手放そうとするとは考えにくい。
すると、りんごちゃんが、回収するつもりなくノートや問題集を貴矢に渡したとは思えない。
——もっとも、りんごちゃんの丁寧な書き込みを見ていて、僕には別の疑問が湧いた。
「りんごちゃんが真面目に勉強をする子だったのだとすると、宿題も自分でやるはずじゃないかな? どうして他人にやらせようなんて思ったんだろう?」
それなりの事情があったのではないでしょうか、と回答したのは、石月さんだった。
「私もあまり要領が良くないタイプなのでよく分かるのですが、〈復習を熱心にやる=勉強ができる〉ってわけではないんですよ。黒板を端から端まで丁寧に写している人より、授業中に寝てる人の方がテストの成績が良いことってよくあることじゃないですか」
たしかにそうだな、と貴矢は深く頷いたのだが、貴矢は授業中に寝ていて、かつ、テストの成績も振るわない人間である。
「りんごさんも、もしかするとそういうタイプで、復習はちゃんとするけれど、新たな問題を自分で解くことは苦手だったのかもしれません」
——なるほど。石月さんの言うとおりの可能性もあるだろう。もしくは、夏休みがバイトで詰まっていて、単にやる時間がなかったということもあり得るのだ。
「それに、実際に、りんごが問題集を解くのに誰かの助けを借りていた形跡があるのだ。シモベ君、分かるだろう?」
「え?」
舞泉さんに突然指名されて、僕は身体を硬直させた。舞泉さんが言うところの〈誰かの助けを借りていた形跡〉というものに、正直、心当たりはなかった。
ただ、改めて注意深く問題集の書き込みを見返すと、そのれらしきものが見つかった。
「筆跡が違う書き込みがある……よね?」
「さすがシモベ君。そのとおりだ」
僕は、舞泉さんの下僕として、ちゃんと役割を果たせたようである。
「書き込みの筆跡は二種類あるのだ。一つはりんご自身のものとして、もう一つは、りんごの勉強を手伝っていた誰かのものだろう」
「勉強を手伝うということは……彼氏とかですかね」
石月さんがそう言うやいなや、貴矢はパッと席を立ち、石月さんと舞泉さんの背後を回って僕の席に来ると、僕の手から問題集を乱暴にふんだくったのである。
りんごちゃんに彼氏がいることが、貴矢にとってはよほどの不都合らしい。
問題集のページをじっと見つめた後、貴矢は、フッと鼻で笑った。
「小百合ちゃん、変なことを言わないでよ。筆跡は両方とも可愛い女子のものだ」
「野々原君にはどうしてそれが分かるのですか?」
「俺には分かるんだよ」
たしかに筆跡が女子のものなのかどうかということは、僕にも何となく分かる。女子の字は、丸っこくて小さい場合が多いのである。
しかし、筆跡が〈可愛い〉女子のものかどうかということは、なぜ分かるというのだろうか——。女好きを極めると、そういう目が自然と備わるということだろうか——。
とにかく、筆跡が女子のものである、という点は、僕も同意する。問題集の筆跡は、いずれも、乱暴で雄々しい字ではなかったのである。
「だとすると、どうしてりんごちゃんは、その協力してくれる女子ではなく、今回は貴矢に協力を求めたのかな?」
「それにもきっとそれなりの事情があったのだと思います」
「それなりの事情というのは、どういう事情?」
「そうですね……たとえば、前に協力してもらっていた子と絶交したとかですかね」
絶交とは、お嬢様らしからぬアイデアであるが、女子の世界ではそういうこともよくあるのだろうなと想像する。『昨日の味方は今日の敵』というのが、生々しい女子の世界である。
貴矢は、問題集を僕に返し、自らの席に戻りながら、言う。
「遼、分かったか? りんごちゃんは、遼が言うような悪い子じゃないんだ。悪いのは、りんごちゃんを殺した三人だけだ」
分かったような、分からないようなといった感じである。
りんごちゃんが実は生きていると考えると矛盾が生じることはよく分かった。
とはいえ、りんごちゃんが死んだと考えることも、なんだか腑に落ちないのである。
それは、宿題をやることという条件を付けたとはいえ、りんごちゃんが貴矢との交際を承諾したという事実を、単に僕が認めたくないだけなのかもしれないが——。
パラッパラッと舞泉さんがノートのページを捲る音だけが、広い空間を支配する。
誰も何も喋らない。
僕も、石月さんも、貴矢も、舞泉さんの指先をじっと見つめている。
そのような状況だったため、ノートから、ページが一枚、ヒラリと落ちる様子を、全員が目撃していた。
それはちょうど僕の目の前に落ちたので、僕は中身を確認しないままそれを拾い上げ、舞泉さんに渡した。
それを受け取った舞泉さんの顔つきが、明らかに鋭くなった。
「みんな、見たまえ」
舞泉さんが、ノートから落ちたページを、天板の上に置く。舞泉さん以外の三人は、自らの席を立ち、舞泉さんの元へと集結する。
ページに書かれていたのは——。
【私を殺したのは、磯口、最田、祐天寺の三人。私はその三人を絶対に許さない。 澤田林檎】
怨念のこもったその言葉は、罫線を無視した大きさの字で、力強く書かれた。鉛筆書きであるが、字の濃さはボールペン書き以上である。
文字は横書きで、ページの中央あたりに〈告発文〉が、ページの下部に『澤田林檎』の署名がなされている。
「やっぱりりんごちゃんは、あの三人に殺されたんだ!」
そう叫んだのは、貴矢である。
石月さんは、貴矢よりはだいぶ冷静で、ちょっと貸してください、と言って、僕から問題集を受け取ると、それを〈告発文〉の隣に置いた。
問題集の表紙には、りんごちゃんの署名がある。石月さんは、問題集の署名の筆跡と〈告発文〉の署名の筆跡とを照合しているのである。
その作業の必要性は、僕も感じていた。
——おかしい。
りんごちゃん本人が、こんな〈告発文〉を書くわけがない——。
しかし——。
「……筆跡は一緒です」
石月さんはそう結論付けざるを得なかった。
たしかに僕が見ても、〈告発文〉の署名の筆跡と、問題集表紙の署名の筆跡は一緒に見える。舞泉さんが持っているノート表紙の署名の筆跡も然りだ。
しかし——そんなのおかしい。
そんなの——。
「おかしいよ!」
僕の口から、自分でも不気味に思えるくらいに素っ頓狂な声が出る。
「りんごちゃんが川に突き落とされたとしたら、それはどう考えたって、貴矢にノートを渡した後のことじゃないか! それなのに、どうしてノートに挟まれた〈告発文〉で、りんごちゃんが殺されることが予言されているの!?」
予言じゃなくて、予期ではないでしょうか、と、石月さんがおそるおそる言う。
「りんごさんは、自らが殺されることを予期していたのです。ゆえに、貴矢さんにこの〈告発文〉を託したのではないでしょうか。自らの死後、貴矢さんに三人を裁いてもらうために」
混沌とした僕の頭の中と比べると、石月さんの頭の中はだいぶスッキリしている。
たしかに、石月さんのように解釈すれば、辻褄が合うようにも思えた。
ただし、また別の矛盾が見えてくる——。
「石月さんの言うとおりだとすると、どうしてりんごちゃんは貴矢に〈SOS〉の LINEを送ったんだろう?」
りんごちゃんは、貴矢に対して、【助けて】とLINEを送っている。
このLINEを送ったこと自体は、おかしいというよりも、むしろ自然なことである。
むしろ不自然なのは〈告発文〉の方だ。
貴矢に助けを求める気があるのならば、死んだ後に読んでもらう〈告発文〉などを渡す前に、最初から〈SOS〉を伝えれば良いのだ。
なぜりんごちゃんはそのようにしなかったのだろうか——。
実際に殺される段階になって、怖くなってLINEをしたのではないでしょうか、と、石月さんは言う。
たしかに、そういう考えもあるかもしれない。当初は死を容認していたが、実際に死を目前として怖気づく、というのは、分からない話ではない。
それでも、僕は納得し切れていない。
僕には、〈りんごちゃん〉という人間がどういう人物なのか、現実的な存在として見えてこないのである。
ノートと問題集、それから〈告発文〉といった〈証拠〉を提示してもらえていなければ、〈りんごちゃん〉は実は存在せず、貴矢が妄想によって生み出した人物なのではないか、とすら疑ったところだろう。
舞泉さんは、今回の事件をどう考えているのだろうか——。
舞泉さんは、僕と石月さんとのやりとりの間、ずっと黙り込んだまま、〈告発文〉をじっと見つめている。
僕の勘違いでなければ、舞泉さんが見つめているのは、〈告発文〉の本文でも下の署名でもなく、切り離されたページの余白の部分である。
舞泉さんには、そういうところがある。
普通の人が見えないものが〈視える〉ということが、舞泉さんにはあるのだ——。
「……早く警察に通報した方が良いのではないでしょうか?」
石月さんの声は、少し震えている。
石月さんは、貴矢と同様に、りんごちゃんのことを信じている。
つまり、りんごちゃんは本当に殺されたと考えているのである。
すると、石月さんは、警察に通報することで、川底からりんごちゃんの死体が見つかるだろうと考えているのである。
昨夜遅く、貴矢が僕の家を訪れた際には、貴矢の口から〈警察に通報する〉という提案は出てこなかった。
りんごちゃんが殺されたと考えているにもかかわらず、貴矢にその発想がなかったのは、もしかすると、貴矢は〈女は殴らない〉というポリシーの延長で、加害者とはいえ、磯口、最田、祐天寺の三人を宥恕したのかもしれない。
僕はといえば、昨夜、貴矢の話を聞きながら、貴矢がりんごちゃんに騙されている可能性をずっと疑っていたので、〈警察に通報する〉ことを躊躇していたのである。
僕は、舞泉さんの顔を見る。
僕だけでなく、石月さんも、貴矢も、舞泉さんの顔を見ている。
判断を、舞泉さんに委ねたいというのが、三人の一致した思惑だった。
舞泉さんは、眉間に皺を寄せた険しい顔で、うーんと唸った後、
「警察への通報は必要だな。ただし、今ではない」
と言った。
〈警察への通報は必要〉ということは、舞泉さんも、りんごちゃんは殺されたと考えているようだ。
もっとも、〈今ではない〉というのは、どうしてだろうか——。捜査のプロに任せる前に、何かしらやるべきことがある、と舞泉さんは考えているのだろうか——。
5 饗宴
プルルルルルルル——プルルルルルルル——。
広い室内に突如として鳴り響いた音に、僕の身体はビクッと反応する。
舞泉さんのアクションはもっと大袈裟で、立ち上がり、腰を少し落として身構えながら、キョロキョロと辺りを見渡している。
石月さんも、舞泉さん同様に席から立ち上がった——しかし、極めて冷静に、音の発信源に向けて歩いて行った。
「電話です」
——部屋の壁に、電話器が設置されているのだ。
考えてみると、鳴っている音は、固定電話の呼び出し音そのものなのである。スマホに慣れた世代なので、すぐにはピンと来なかったのだが。
石月さんが受話器を取るまで、三十秒以上呼び出し音が鳴り続けていた。電話機が遠かったのである。やはりこの部屋は無駄に広過ぎる。
石月さんは、受話器から耳を外すと、明るい声を出す。
「みなさん、ディナーの準備ができました! 今から料理をここに持って来てもらいます」
それから五分もせずに、何人もの黒服の人が部屋への出入りを繰り返した結果、巨大なテーブルの上が、見るからに高級そうな料理で埋め尽くされた。
僕が名前を知っている料理を挙げると、生ハム、ローストビーフ、北京ダック、カルボナーラ、お寿司といったあたり。
そのほかには、おそらくフカヒレスープであろうものや、おそらくキャビアをのせたバケットであろうものがあり、他にも名前は知らないが古今東西の高級料理であるに違いないものが所狭しに並んでいる。
さすがにこんな量は食べれないよ、と僕がぼやくように言うと、石月さんは、上品に微笑み、
「ごめんあそばせ。みなさんの好みが分かりませんでしたので」
などと言う。
——住む世界があまりにも違う。やはり、石月さんは、普段僕らなんかと一緒にいて良い人種ではないのである——。
「さあ、みなさん、お好きなものをお好きなだけ召し上がってください。遠慮は要りませんからね」
そうは言われても、遠慮をせずにはいられない。そもそも、石月さんがディナーを準備しているという話すら聞いていなかったのである。それに、これだけの質と量の料理である。そんなことは絶対にあり得ないとは分かっているのだが、仮に、後日に食事代を請求されるようなことがあれば、高校生の僕の貯金ごときでは支弁し切れない。
豪華過ぎるおもてなしを前に、グルグルと目を回している僕とは対照的に、貴矢は、いただきます、と声を張り上げ、早速、鳥の丸焼きのようなものに齧り付いている。
「美味い! 小百合ちゃん、超美味いよ!」
「気に入ってくださって良かったです。美味しそうに食べていただけるのが、私にとって何よりの喜びです」
「マジで美味い! いくらでも食べれるぜ!」
「うふふ。嬉しいです」
こういうやりとりを見ていると、なんだかんだで、石月さんと貴矢はお似合いなのではないかと思えてくる。〈逆玉の輿〉なんてことを微塵と考えていないことは貴矢の良いところかもしれないが、少なくとも、もう少し石月さんを大事にした方が良いと思う。
「小百合、これはまさか、かの悪名高き食べ物ではないか? フォアなんとかとかいう……」
「フォアグラのことですか?」
「そう。それだ。人間の醜い欲望と、ガチョウの愚かな欲望とが結集した歪んだ欲望の塊」
たしかフォアグラは、人間が過剰に餌を食べさせることによって異常に肥えさせたガチョウの肝臓である。
舞泉さんは、実に舞泉さんらしい表現で、フォアグラの作製方法を非難しているのだ。
「美都さん、召し上がってはどうでしょうか? 美味しいですよ。フォアグラ」
「小百合、何を恐ろしいことを言っているのだ。そんな穢れたもの、我が体内に取り入れるわけにはいかぬ」
舞泉さんは、僕の方を向く。
「シモベ君、この欲望の塊にだけには手を出すなよ。心が穢れる」
「え?……あ、うん。分かった」
現物を初めて見た世界三大珍味を食べてみたいという気持ちはあったが、舞泉さんからの指示となれば、それはもう抗いようがない。
「それから、シモベ君、そこにある腰の曲がった奇虫も食べたら穢れるぞ」
「腰の曲がった……え? 何?」
——舞泉さんの視線の先にあったのは、海老フライであった。
「……舞泉さん、海老にも何か曰くがあるの?」
「ああ、我が幼き頃、誤って口にして、喉が痒くなったことがあってな」
それはただの海老アレルギーなんじゃ……とは思ったのだが、僕は、少なくとも舞泉さんの目の前では、今後海老を食べないことに決めた。
洋館でのディナーは最高だった。
料理の味はもちろん至上だったのだが、やはり、この四人で食卓を囲むということが、僕にとって何よりのご褒美だったのだ。
みんな料理に夢中でほとんど喋ることを忘れている。ただ、それでも、やはり誰と食べるかということは大事なのである。
すっかり忘れていた事件のことを、石月さんが話題にしたのは、みんながひととおり食事を終え、デザートに取り掛かっていた頃だった。
「そういえば、野々原さん、りんごさんというお方はどのようなお顔をされているのですか?」
——それは僕もずっと気になっていたことである。単に野次馬的興味もあるが、そうではなく、僕の中で朧げになってしまっている〈りんごちゃん〉のイメージを具体的にする何かを、僕は欲していたのである。
偶然、その時アップルパイを頬張っていた貴矢は、
「ほ……ほれを見てふれ」
と、熱さで口をハフハフさせながら、ポケットからスマホを取り出し、操作を始めた。
思わず、『ワック』でバイトをしている最中のりんごちゃんを盗撮したのではないかと疑ってしまったのであるが、違った。
貴矢がスマホを掲げて示したのは、LINEの画面だったのである。
石月さんと舞泉さんとともに、貴矢の席に近付いてよく見ていると、たしかにそれはりんごちゃんとの会話の画面であり、これまで貴矢が証言したとおりのやりとりがそこではなされていた。
八月十九日十三時十六分に、りんごちゃんから【澤田林檎です。よろしくお願いします】と挨拶。それに対して、貴矢は、十三時十七分に、【俺は野々原貴矢、たかちゃんと呼んでくれ】と返している。え? たかちゃん? 誰?……まあ、一旦おいておこう。
その後、【今日はありがとう。りんごちゃんは可愛くて、女の子の匂いがした】という例のセクハラメッセージが、十四時五分に送られている。
そのセクハラメッセージに対する反応はなく、次のりんごちゃんからの連絡は、二十一時三十分のことである。
【『ワック』のすぐそばの河川敷で、磯口、最田、祐天寺の三人に殺される。助けて】という、例のSOSメッセージが送信されているのだ。
その後は、貴矢から一方的にりんごちゃんにLINEを送っているだけだ。
【りんごちゃん、大丈夫?】
【りんごちゃん、生きてる?】
【りんごちゃん、ごめん。俺がりんごちゃんを守れなくて】
といったメッセージが、画面の右側に堆積している。りんごちゃんからの返事はおろか、『既読』が付くこともない。
僕は、LINEの画面を見ると同時に、こうしたやりとりの状況を把握することができたのだが、普段LINEをあまりやらない舞泉さんは、
「どれがりんごの送ったメッセージなのだ?」
と、真顔で問う。
「ミト様、分からないのか? 画面の右側だよ」
「この、緑色のリンゴマークか?」
「そうそう」
舞泉さんが〈緑色のリンゴマーク〉と指摘したのは、りんごちゃんのアカウント名である。
りんごちゃんのアカウント名は、『澤田林檎』でもなければ、『りんご』でもなく、一つの絵文字だった。
——そして、それは舞泉さんも指摘するとおり、緑色のリンゴの絵文字だったのである。
舞泉さんは、真面目腐った顔で、これは何と読むのだ? などと言っている。
たしかに舞泉さんのLINEのアカウント名は〈舞泉美都〉というフルネームである。自らのアカウント名を絵文字ひとつで表すなどという発想は、舞泉さんにはないのだ。
「この絵文字は『りんご』という名前を意味するんですよ」
石月さんがマジレスする。
「小百合、リンゴは赤色ではないのか?」
「え?……まあ、そうですが、多分、りんごさんは緑色の方が好きだったんだと思います」
石月さんは、自信なさげにそう答えた。ただ、実際のところ、そんな感じなのだろう。リンゴの絵文字が赤なのか、緑なのか。リンゴが赤リンゴなのか青リンゴなのかということは、僕たちがそんなに気にすべきことではない——。
りんごちゃんがそっちの方が可愛いと思ったとか、りんごちゃんはブルベであるとか、その程度の話であり、そこに大した理由などないのである。
「どうだ。遼、なかなか可愛いだろ?」
貴矢からそのように問われ、ようやく、僕は、このLINEのやりとりを貴矢が見せてきた目的を思い出す。
貴矢は、りんごちゃんのLINEアカウントが用いているアイコンの画像を見せたかったのだ。
「貴矢、ちょっと拡大してみてよ」
「はいよ」
貴矢がアイコンをタップすると、画像が拡大される。そこに映っていたのは——。
「……どっちがりんごちゃんなの?」
画像に映っていたのは、二人の若い女性であった。
「遼、当ててみてくれよ」
「え?」
「この二人のうち、どっちがりんごちゃんなのかを」
アイコンに使われていたのは、プリクラの画像である。薄い水色の背景に、やたらと肌が白くなるような加工と、やたらと目が大きくなるような加工が施されているのだ。
そのせいで、僕には、映っている二人の女性の顔が全く同じに見えた。
ドッペルゲンガーな二人を見分ける唯一のポイントは、髪色の違いである。
一方の髪色は暗く、一方の髪色は明るいのだ。
「りんごちゃんは、黒髪の方でしょ」
僕がそのように答えたのは、単なる当てずっぽうではない。
たしか、どこかで貴矢が、りんごちゃんの髪色は黒髪だという趣旨のことを僕に話していたように記憶していたからである。
しかし——。
「ブッブー。残念、ハズレだ」
「……え?」
「りんごちゃんは、明るい髪の方だよ」
僕は面を食らった。僕の記憶は間違っていたというのか——。
「……でも、貴矢、たしか昨日、僕にりんごちゃんは黒髪だって……」
「言ってないぜ。俺はこう言ったんだ。りんごちゃんは〈亜麻色の髪の乙女〉だって」
たしかにそうである。しかし——。
「〈亜麻色〉って黒髪のことじゃないの?」
「遼、違うぜ。〈亜麻色〉っていうのは、黄色がかった薄い茶色のことだ」
完全に勘違いしていた——。
唖然とする僕に対して、貴矢は、だから遼は乙女の髪色も乙女心も分からないんだよ、などと毒を吐く。
僕は、改めて、りんごちゃんの画像を見つめる。
——この明るい髪の女の子がりんごちゃんなのか。
それが分かったところで、〈りんごちゃん〉のイメージは、やはり僕の中ではちっとも具体的にならないのである。プリクラの画像というのは、あまりにも実物とかけ離れている。
りんごちゃんの隣に映っている黒髪の女の子との顔の見分けさえも、僕には不可能なのだ。
「貴矢、なぜりんごはアイコンに自分一人が映っているものを使わぬのだ? 紛らわしいではないか」
舞泉さんがまたしてもカタブツな質問をする。
「え? なんというか、そういうもんじゃね?」
「そういうものとは?」
舞泉さんは、細い眉を極限まで顰めている。彼女にとっては、よほど理解し難いことなのだろう。
貴矢が答えに詰まったところで、石月さんが助け舟を出した。
「美都さん、LINEのアイコンに、誰かと一緒に映っている画像を使ってる方は、結構いらっしゃいますよ」
「ほお。小百合、それは何のために?」
「たとえば、お友達と一緒に映った画像を使っている方は、その方との友情をアピールしたいんだと思います」
リア充がよくやる手口である——。
「それから、彼氏と一緒に映った画像をアイコンにして、彼氏とラブラブなことをアピールする方もいます」
より憎むべきリア充の手口である——。
「ほかにも、推しているアイドルとのツーショットをアイコンに使う方だとか」
そのパターンは少しホッとする——。
「小百合、それはつまり、大切な誰かと一緒に映ってる画像をアイコンにする者がいるということだな?」
「そういうことです」
石月さんが、うんうんと何度も繰り返し頷く。
僕は、舞泉さんと石月さんのやりとりを聞きながら、仮に舞泉さんがLINEのアイコンを誰かと一緒に映った画像に変えるとしたら、一体誰と映った画像に変えるのだろうか、などと考えてしまう。
僕とのツーショット——だなんて贅沢は言うまい。ただ、石月さんと貴矢と僕とが四人で映った画像であって欲しいなとは思う。
そもそも、舞泉さんの現在のLINEアイコンは、何も映っていない白無地であるし、もっといえば、僕ら四人で写真を撮ったことも今まで一度もないので、実現までの距離は遠いのだが。
石月さんからの話を聞いた舞泉さんは、天井のシャンデリアを見上げるような格好で、何か考えごとをしている様子だった。
まさか、今の白無地のアイコンを、誰かと一緒に映っている画像に変更することを本気で検討している——ということではないことは、当然、僕にも分かっていたが、それにしても、舞泉さんの考えていることというのは、あまりにも奇想天外である。
舞泉さんは、シャンデリアに向かって、こう呟いたのだ。
「復讐だな」
と。
「復讐?」
僕が反射的に聞き返すと、舞泉さんは、りんごのための復讐だ、と言う。
「りんごのための復讐?」
僕が聞き返したことに対して、今度は、舞泉さんは何も答えない。
その代わり、舞泉さんは、貴也の顔を見る。
「貴矢、りんごのために復讐をする覚悟はあるか?」
「え?」
貴矢は、珍しく深く考え込んだ。
「……そりゃ、りんごちゃんを殺した三人のことは憎いよ。許せないと思ってる。でも、いくらその三人が悪魔のような女だとしても、女である以上、俺は殴れない。……それじゃあ復讐にならないよな?」
舞泉さんは、大きく首を横に振った。
「それで構わない。むしろその方がりんごの意志にもかなうだろう」
一体どういう意味だろうか——。
そして、りんごちゃんの意思云々を考えているということは、まさか、舞泉さんは、すでにりんごちゃんの事件の全容を掴んでいるというのだろうか——。
「女を殴らなくて済んで、かつ、りんごちゃんのためになるんだったら、俺は何でもやるぜ!」
「頼もしいな。では、明日の昼間に決行しよう」
「よし。分かった!」
僕が何も理解できないでいるうちに、〈復讐〉の具体的なスケジュールが決まったようだ。
貴矢は勢いで話しているだけだろうし、石月さんも僕同様に目を丸くしている。
分かっているのは、舞泉さんだけなのだ。
一体、舞泉さんは、どのような〈復讐〉を企てているのだろうか——。
どのように〈悪魔退治〉を実行しようとしているのだろうか——。
舞泉さんがシュークリームに手を伸ばしたことを契機にして、デザートタイムが再開した。
僕は、舞泉さんに色々と訊きたいことがあったのだが、それを飲み込んで、ついでにジュースのタピオカも飲み込む。
めいめいが、腹に加えて別腹までもしっかり満たされたところで、貴矢が、パンと手を叩き、ある提案をする。
「お腹もいっぱいになったし、みんなで青堀祭りに行こうぜ!」
青堀祭り——りんごちゃんが毎年楽しみにしていた隣町のお祭りである。
そういえば、青堀祭りは、今日のちょうどこの時間にやっているのである。
僕は、貴矢の気持ちの切り替えはあまりに早過ぎると思う。
元々、貴矢は、りんごちゃんと青堀祭りに行きたくて、そのために宿題の安請け合いまでしたのである。りんごちゃんと行けなくなったからといって、代わりに友だちと行こうなど、りんごちゃんの生死に関わらず、不謹慎なことだと思う。
——しかし、僕は、貴矢に文句を言いたい気持ちをグッと抑えた。
僕には、ある〈下心〉があったからである。
——舞泉さんの浴衣姿だ。
今から浴衣を着るということは、準備の都合、普通は難しいだろう——しかし、石月家の力があれば何とかなるかもしれない。
石月さんが電話機で指示をすれば、古今東西の高級料理同様、浴衣の何着かが、プロのスタイリストとともにパッと出てきて、パッと着付けてくれるかもしれないのだ。
僕は、舞泉さんの浴衣姿が見たい。これは偽らざる本心である。
——もっとも、それだけではない。
僕には、別の〈下心〉もあった。
——それは、四人で夏の思い出を作りたい、というものだ。
舞泉さんとのキスによって華々しく始まった夏休みであったが、その後は、ほとんど何もなかった。
記憶に残っているのは、専ら、図書館での光景である。僕は、この夏、公立図書館で、本を読む舞泉さんの横顔をずっと眺めていただけだ。
僕は、夏休みの最後の思い出として、ここにいる四人で夏祭りに行きたい——。
その上で、舞泉さんの浴衣姿まで見られれば最高だ。
しかし——。
「野々原君、青堀祭りは昨日ですよ」
「……え?」
「青堀祭りは昨日終わりました。私は行ってないですけど、お祭り好きの姉が、行った、と言ってましたので、間違いないです」
石月さんに思わぬ冷や水を浴びさせられてしまった。
僕の夏は——終わった。
「……祥子ちゃんが行ったのか?」
「はい。リアル参加ではないとは思いますが」
石月さんのお姉さんである石月祥子は、僕もよく知っている人物だ。祥子さんは、舞泉さんとは違った意味での〈変人〉である。彼女は〈活動的な引きこもり〉なので、自身は自宅に籠りながら、ドローンを操作して各地を飛び回っている。
石月さんが〈リアル参加ではない〉と言ったのは、祥子さんはドローンでお祭りに参加したという趣旨だろう。
『踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々』という歌い出しの歌があるが、もはやその場にすらいないというのは、お祭りの〈参加〉形態として、果たして許容されて良いのだろうか——。
そんなことはさておき——。
「青堀祭りが昨日だというのは、オカシイじゃないか! だって、貴矢は、今日の夜の青堀祭りに間に合わせるために、宿題を今日の夜までに終わらせることをりんごちゃんと約束したんだろう?」
「遼の言うとおりだ。絶対にオカシイ」
「たしかにそうですね……でも、姉は嘘を吐いてはいませんよ」
「祥子ちゃんは平気で嘘吐きそうだけどな」
この点に関しては、貴矢に激しく同意する。祥子さんは、人をおちょくるのが大好きな人だ。
「でも、私、姉からドローンの映像を見せてもらったんです」
——なるほど。祥子さんの証言には裏付けがあるのだ。だとすると、たしかに今回に関しては、たしかに祥子さんが嘘を言っているとは考えにくい。
とすると、嘘を吐いているのは——。
「貴矢、俺らを騙したな?」
「いやいや、そんなことないって! 俺はスマホで調べたんだ! そうしたら、青堀祭りの八月二十日だってちゃんと書いてあって……」
僕と石月さんは、同時にスマホを操作した。
そして、ほぼ同時に、同じ結論に至った。
「貴矢、それ去年のだよ」
「野々原君、それは去年の情報です」
八月二十日が実施日となっているのは去年の青堀祭りであり、今年の青堀祭りの実施日は八月十九日となっていた。
貴矢は、去年の情報を、今年の情報だと勘違いしていたのだ——。
「はあ、マジか……すっかり騙されたぜ……」
決して騙されたわけではないと思う。単に、貴矢の情報収集能力と注意力が一方的に不足していただけだ。
貴矢は、りんごちゃんと青堀祭りに行けるというのは幻想だったんだな、などとぼやく。青堀祭りが昨日であろうと、今日であろうと、りんごちゃんとデートをする未来がなかったことには変わりはないのに。
——あれ?
僕はあることが引っ掛かった。
りんごちゃんは、当然、今年の青堀祭りの日付を知っていたはずだ。りんごちゃんは、青堀祭りを毎年楽しみにしていたのだから。
それなのに、なぜ、りんごちゃんは、貴矢が日付を間違えていることを訂正しなかったのだろうか——。
——やはりりんごちゃんには、最初から、貴矢と交際する気は一切なかった、と考えるべきだろう。
ゆえに、貴矢が青堀祭りの日付を間違えていても、どうでも良いと思い、知らんぷりをしていたのだ。
貴矢は、明日の昼に、りんごちゃんのための〈復讐〉をするらしい。
ただ、果たして、貴矢がりんごちゃんのために一肌脱ぐ必要などあるのだろうか——。
6 復讐
舞泉さんは、〈復讐〉のタイミングは〈明日の昼〉と言った。
ゆえに僕ら四人は、昼の十二時に、例の『ワック』のすぐそばの河川敷へと訪れたのである。
果たして、河川敷には、磯口、最田、祐天寺の三人が——いなかった。
舞泉さんは、
「ここで待ち伏せをするのだ」
などと、真夏の直射日光が注ぐ中で無理なことを言っていたのだが、三対一の多数決で、『ワック』で時間を潰すことに決まった。
『ワック』は河川敷から徒歩三分ほどの距離にある。
僕らは、『ワック』の隅っこにあるテーブルを占領しながら、三十分に一度、誰かが河川敷まで見に行くこととした。
『ワック』では、互いの夏休みの思い出などを語らって過ごした。
石月さんは、家族でヨーロッパを一周したらしい。それだけ聞くと、まあ、そういう金持ちもたまにいるよね、という感じなのだが、石月家はやはり格が違う。石月家のヨーロッパ一周旅行は〈外遊〉を兼ねていて、訪問先の国で、各国首脳の家族との交流を深めたとのことだ。
石月さんは、イギリス首相の孫と『ロンドン橋落ちた』で遊んだり、スイスの大統領の娘と『アルプス一万尺』を踊ったりしたらしい。
「なぜか、みんなして私のことを『プリンセスサユリ』って呼ぶんですよ」
そんな人が『ワック』で平民たちとチキンナゲットを摘んでいて良いのか、心の底から心配になる。
なお、僕は、親に命じられてずっと図書館で勉強していたという、ちょっと切ない設定となっている。
「無理やり行かされていた図書館に、たまたま舞泉さんがいて助かった」
などという白々しい嘘を、少なくとも舞泉さんは信じているようで、
「我とシモベ君にはやはり奇縁があるな」
などとしんみり言っていた。
もちろん、りんごちゃんの事件の話も、何度も話題に上がった。
特に話題となることが多かったのは、〈泣いていた少女〉である。
三人の取り巻きではあるが、貴矢を一度も殴らず、それどころか、貴矢が殴られている様子を見て涙を流していた少女。
——僕が気になっていたことは、少女が、いつから泣いていたのか、ということである。
貴矢曰く、あの子は俺に同情してくれていたんだ、とのことであったが、僕は、別の解釈も成り立ちうるような気がしていた。
——その子が、りんごちゃんが川に突き落とされる瞬間を目撃していた可能性である。
その子は、三人とつるんではいたが、りんごちゃんとも友だちだったのだ。それで、自らの目の前でりんごちゃんが殺されてしまったことで、酷くショックを受けていたのではないだろうか——。
——ゆえに、その子は泣いていた。
この仮定が正しければ、その子が泣いていたのは、貴矢が河川敷に訪れる前から、ということになる。
それで、僕は、貴矢に対して、河川敷に到着した段階でその子が泣いていたかどうかを尋ねたのだが、暗くてよく見えなかった、とのことだった。
「〈泣いていた少女〉は今日もいるのかなあ?」
と、僕がぼやくように聞くと、貴矢は、
「そもそも、他の三人も今日いるのか分からないぜ」
と、身も蓋もないが、ごもっともなことを言う。
なお、僕らは『ワック』の店長に、りんごちゃんの出勤状況について訊いてみた。
すると、やはり一昨日から音信不通となっており、欠勤状態になっているとのことだった。
『ワック』でいくら時間を潰しても、河川敷に例の三人が訪れる気配は無かった。
三人の悪魔の動向は、さすがの舞泉さんにも分かりっこないのだ。
舞泉さんは、必ず来る、と胸を張っているものの、これが単なる過信である可能性があることは、以前、学校内をダウジングした際の教訓である。
ただ、結果として、この日、磯口、最田、祐天寺の三人は、河川敷に現れた——。
——もっとも、それは、夜の二十時を過ぎた頃である。
舞泉さんは、昼集合を主張した張本人なのに、やはり悪魔は現れるのは夜なのだ、などとカッコつけた。無論、本人には、カッコつけているという自覚はないと思うが。
河川敷の様子を見に行ったのは、石月さんだった。石月さんは、
「それらしき人たちがいました」
と、当たり障りのない表現を用いたものの、河川敷でたむろをしている女たちを国道から眺めた時、僕は思わず、うわあ……と軽蔑の色を含んだ声を上げてしまった。
女たちは、いかにも不良グループといった見た目なのである。ある者は白に近い銀髪で、ある者は顔中にピアスが付いていることが遠めにも分かる。また、ある者は、堂々とタバコを吸っている。
僕がこれまで関わってこず、また、今後も関わることのないであろう人種である。
イケナイ偏見だとは分かっているのだが、僕は、彼女たちを見て、たしかに人を殺しそうだな、と直感したのである。
河川敷にいたのは、四人だった。
ということは、りんごちゃんの〈告発文〉にあった磯口、最田、祐天寺のほかに、もう一人いるのである。
それは、例の〈泣いていた少女〉に違いない。
僕は、四人のうち誰がその子であるのか、なんとなく見当がついた。
黒髪で、スれた見た目をしていない女の子が、集団に一人だけ混じっているのだ。
念のため、貴矢に確認すると、その子で間違いない、とのことだった。
「ミト様、一体俺はどうすれば良いんだ? どうすればりんごちゃんのための復讐を果たせるんだ?」
貴矢の問い掛けに、舞泉さんは、何もしなくて良い、と憮然と答える。
「は? 何もしないって、ここでじっとしていれば良いっていうことか?」
「そんなわけあるか。貴矢は、河川敷に行って来い。我々はここで待っている」
「俺は河川敷に行って、何をすれば良いんだ?」
「だから、何もしなくて良い」
貴矢は、すっかり困りきった顔をしている。
「何もしないって、何をすれば良いんだ?」
「別に我は禅問答をしているわけではない。文字どおりだ。貴矢は何もするな」
「ミト様、それってつまり……」
舞泉さんは、白い歯を見せる。
「殴られてこい、という意味だ」
——メチャクチャ過ぎる。
それは〈復讐〉をしているのではない。むしろ〈復讐〉をされに行っているようなものではないか——。
「俺は殴られるだけで良いのか?」
「ああ、決して反撃をするなよ」
「それはもちろん。他に気をつけるべきことは?」
舞泉さんは、少し考えた後、
「決して死ぬなよ」
と言う。
「……それは、適当なタイミングで逃げてこい、ということか?」
「そういうことだ」
もしくは天使の助けを待て、と舞泉さんは付け加える。
天使の助け?
それは『図書館の天使』である舞泉さんが、いざというときには貴矢を助けるという意味だろうか——。
——いや、そんなはずはない。
舞泉さんには、自分が『図書館の天使』であるという自覚はないのだから。
「よし、分かった」
貴矢は、殴られに行くだけだというのに、腕をぐるぐると回しながら、河川敷の方へと降りて行く。
大した度胸だな、と僕は感心する。
一昨日殴られた傷もまだ癒えていないのに、また女に殴られに行こうというのだ。しかも、その相手は、僕だったら、半径何メートルか以内にも近付きたくないと思うようなコワモテ集団なのだ——。
僕と舞泉さんと石月さんは、植え込みの後ろに隠れて、単騎突撃する貴矢の背中を見守る。
河川敷でたむろする四人組には、僕らの存在は気付かれないだろう。
その代わり、僕らから彼女たちは豆粒ほどのサイズでしか見えず、やりとりする声も聞こえない。
——ついに、貴矢の存在が、四人組に気付かれた。声は聞こえないが、おそらく互いに言い合いをしている。
そして、まず、銀髪の女が、貴矢の顔面に一発お見舞いをする。
それをのろしに、女たちが次々と貴矢に殴り掛かる。
それに対して貴矢は、一切の抵抗をしない。
殴られても殴り返さず、倒されてもまた起き上がる。
——そして、また殴られる。
貴矢は、舞泉さんからの指示を——もしくは自らのポリシーを——忠実に守り続けたのである。
倒されても起き上がる、倒されても起き上がるを何度も繰り返しているうちに、倒されてから起き上がるまでのインターバルがどんどん長くなる。
決して死ぬなよ、という舞泉さんの台詞が思い出させる。
もうやめてくれ——。
もう殴らないでくれ——。
もう立ち上がらないでくれ——。
このままだと本当に——。
僕が反射的に立ち上がろうとしたところを、舞泉さんが、僕の腕を掴んで制止した。
「シモベ君、天使の助けを待て」
この様子からすると、やはり天使=舞泉さんではなさそうだ。
だとすると——。
僕は、例の〈泣いていた少女〉に目を遣る。
この距離からだと、彼女が今泣いているのかどうかは分からない。
しかし、一つ断言できることとして、彼女は、貴矢を一度も殴っていない。
他の三人が貴矢をタコ殴りにする中で、彼女だけはずっと棒立ちなのである。
「舞泉さん、〈天使〉って〈泣いていた少女〉のこと?」
——舞泉さんは、何も答えなかった。
しかし、状況を考えると、この場面で貴矢を助けられるのは、植え込みに隠れている僕たちを除けば、あの少女しかいないのである。
僕は、縋るような目で彼女の動向を見守る。
——ついに、〈泣いていた少女〉が動いた。
彼女は、ウェストポーチの中から、何かを取り出す。
街灯の灯りを反射してキラリと光る何かを。
そして、彼女は、そのキラリと光る何かで——。
7 不在証明
「貴矢、目が覚めたか?」
「……微妙」
病院のベッドに横たわりながら、貴矢が、力の入らない声を出す。
まるでミイラ男のように包帯でグルグル巻きであり、自分自身で寝返りを打つことすら難しい状態だという。
——とはいえ、医学的には、目は覚めていることで間違いない。
それどころか、河川敷で殴られ続けた貴矢は、血まみれではあったものの、一度たりとも意識を失うことはなかった。
それにもかかわらず、僕が貴矢に「目が覚めたか」と訊き、貴矢が僕に「微妙」と答えたのは、これが意識の有無についての問答ではないからである。
——りんごちゃんの件である。
僕は、貴矢に、りんごちゃんの件で、現実を直視することができるようになったのかを問うたのだ。
「昨日、りんごちゃんがお見舞いに来たんだろ?」
「ああ」
澤田林檎は生きていた——。
僕が漠然と疑っていたとおり、彼女は、死んだふりをして、行方をくらませていただけだったのである。
「お見舞いはりんごちゃん一人?」
「いいや、りんかちゃんもいたよ。二人でお見舞いに来たんだ」
〈りんかちゃん〉とは、澤田梨果——りんごちゃんの二つ年上の姉のことだった。
今回の事件は、りんごちゃんの〈企み〉と、りんかの〈企み〉が、別々に絡み合ったものであった。ゆえに、僕には、その全容を掴むことが難しかった。
磯口、最田、祐天寺の三人と元々つるんでいたのは、りんかだった。三人は、りんかの同級生だったのだ。
そして、りんかの紹介という形で、当時中学生であったりんごちゃんも、その三人とつるむようになった。そこに、りんごちゃんの一歳上の〈泣いていた少女〉——坂城結穂も加わるようになり、六人で、あの河川敷でたむろするようになったのだ。
しかし、大学受験を真剣に頑張りたいと考えたりんかは、今年に入ってから、河川敷へと行かなくなった。
その当てつけなのか、もしくは、別の理由があるのかは定かではないが、残されたりんごちゃんは、磯口、最田、祐天寺の三人に〈イジられる〉ようになり、やがて、〈イジメられる〉ようになった。
最初は遊び半分だった〈イジメ〉はどんどんエスカレートしていき、コンビニで雑誌の万引きを命じられたことや、服を着たまま無理やり川に突き落とされたことも実際にあったらしい。
そうした苛烈なイジメは、りんごちゃんの精神を蝕《むしば》み、ついに、りんごちゃんに〈復讐〉を決意させた。
その〈復讐〉とは——〈偽装自殺〉である。
りんごちゃんは、〈遺書〉を残した状態で失踪することにした。
ノートのページを破って作られた〈遺書〉には、このように書かれていた。
【私は川に飛び込んで死ぬ。私を殺したのは、磯口、最田、祐天寺の三人。私はその三人を絶対に許さない。 澤田林檎】
——そう。ノートに挟まれていた〈告発文〉の正体は、りんごちゃんが書いた〈遺書〉だったのである。
りんごちゃんはこの〈遺書〉を残して失踪することで、自分をイジメていた、磯口、最田、祐天寺の三人に、社会的な制裁が下るだろうと考えた。学校か警察が動き、何らかの方法で三人を罰してくれるだろうと思ったのだ。
りんごちゃんは、三人に何らかの罰が下った段階で、姿を現すつもりだったという。
ここまでが〈りんごちゃんの企て〉である。
しかし、この〈企て〉は、ある〈善意〉によって妨害されてしまう。
りんごちゃんの部屋にあった〈遺書〉を発見したりんかが、りんごちゃんが考えていた以上の〈復讐〉を企ててしまった。
〈遺書〉を読み、本当にりんごちゃんが自殺をしてしまったのだ、と思い込んだりんかちゃんは、磯口、最田、祐天寺の三人を、〈イジメによって妹を自殺に追いやった者〉とするだけでは生ぬるいと考えたのだ。
単にイジメの主犯格というだけでは、刑事上の責任までは負わない場合が多い。
道義上の責任など、あの三人はほとんど感じることがないだろう。
りんかは、最初、りんか自身の手によって、三人に、妹と同じ目に遭わすことを考えた。
——しかし、それはできなかった。りんかに、そこまでの度胸はなかったのである。
そこで、やむなく、りんかは〈次善策〉に打って出ることにした。
〈次善策〉——それは、磯口、最田、祐天寺の三人に、殺人の罪状を負わせることである。
そのために利用されたのが、貴矢なのである。
りんかは、まず、りんごちゃんの〈遺書〉の冒頭部分である【私は川に飛び込んで死ぬ】という文を消した。
りんごちゃんの〈遺書〉は鉛筆で書かれていたため、消しゴムを使って消すことができたのである。
——これによって、〈遺書〉は〈告発文〉となった。
りんかは、りんごちゃんの机の上に、〈遺書〉とは別に、見慣れない紙片が置いてあることに気付いていた。
それは、【十九日十三時に、『むくどり公園』の噴水前に来て欲しい 野々原貴矢】と書かれた紙ナプキンである。
これは告白のための呼び出し状であろうという察しがついた。
りんかはこの紙ナプキンにある『野々原貴矢』という人物を〈証人〉として利用することに決めた。
りんかは、薬局で髪染めを買い、髪色を黒から明るい色——亜麻色に変えた。
そうすることで〈りんごちゃん〉に変装したのである。
りんかとりんごちゃんは双子ではなく、二歳差の姉妹である。身長も違う。二人のことを知っている者が、二人を見間違うということはない。
しかし、紙ナプキンを使ったということは、この『野々原貴矢』という人物は、りんごちゃんのバイト先の客であり、りんごちゃんのことをあまりよく知らない人物であると考えられる。
それならば、この程度の変装でも上手く騙せるだろう、とりんかは確信していた。
そして、実際に、過去にりんごちゃんを一度見ただけである貴矢は、まんまと騙されたのだ。
〈りんごちゃん〉に化けたりんかは、貴矢に、宿題をやることを〈交際の条件〉とし、りんごちゃんのノートと問題集を渡した。
ここには、三つの目的がある。
一つ目は、貴矢に〈告発文〉を渡すというメインの目的である。
二つ目は、りんごちゃんの私物を交付することによって、自らがりんごちゃんであることを〈証明〉するためである。
そして、三つ目は、〈りんごちゃんがこの時点では生きている〉ということを印象付けるためである。
宿題をやるという行為は、もっぱら将来志向である。
宿題は、将来の提出に備えて、将来大変なことにならないように、将来の自分のためにやることなのだ。
ゆえに、すでに死んでいる人物はもちろん、近々自殺を図ろうとしている者が、他人に宿題をやってくれなどと依頼するはずがない。
〈交際の条件〉とされた宿題は、すでにりんごちゃんは死んでいるという〈真相〉を巧みに隠す道具《ガジェット》なのである。
宿題を渡すと同時に、りんかは、貴矢とLINEを交換した。
ここにも、不作為ながらも、巧妙なトリックが使われている。
元々、りんかは、姉妹で撮影したプリクラをLINEのアイコンとして設定していた。
そして、『梨果』という名前からとって、アカウント名を〈ナシの絵文字〉としていたのである。
つまり、貴矢が入手したLINEのアドレスは、りんかちゃんのものにほかならなかった。
〈りんごちゃん〉のアイコンになぜ二人が映っているのか、〈りんごちゃん〉のアカウント名がなぜ赤ではなく緑の〈リンゴ〉だったのかという舞泉さんの疑問は、まさに正鵠を射ていたのだ。
アイコンの画像は、りんごちゃんが誰かと映っている画像ではなく、りんかがりんごちゃんと映っている画像であった。
二人が瓜二つに見えたのは、プリクラの加工のせいだけではなかった。姉妹ゆえに、そもそも顔が似ていたのである。
そして、アカウント名の絵文字は、緑の〈リンゴ〉ではなく、〈ナシ〉だったのだ。
りんかは、何も工作をすることなく、自らのアカウントをりんごちゃんのものと見せかけることに成功したのである——。
そして、りんかは、りんごちゃんが、磯口、最田、祐天寺に〈殺された〉ように見せかけるために、貴矢に〈SOS〉を送った。
【『ワック』のすぐそばの河川敷で、磯口、最田、祐天寺の三人に殺される。助けて】
このメッセージによって、りんかは、りんごちゃんがLINEの後に磯口、最田、祐天寺の三人に川に突き落とされて殺されたように〈偽装〉したのである。
りんかの認識だと、すでにりんごちゃんは川に身を投げて死んでしまっているはずだった。
ゆえに、〈偽装〉のためには、りんごちゃんの死亡時刻を後ろ倒しにする必要があった。
りんかがわざわざ〈りんごちゃん〉のフリをして貴矢に会ったのは、このためだ。りんかは、自ら〈りんごちゃん〉を演じることで、りんごちゃんの死亡時刻を約一日後ろ倒しとすることを狙ったのである。
りんかは、貴矢を騙すことには成功した。
しかし、りんかの〈企て〉は全体としては失敗に終わった。
——誤算があったのだ。
りんかの思惑と違い、貴矢は、警察への通報をしなかった。
ゆえに、磯口、最田、祐天寺による〈殺人〉は白日の下に晒されることがなかった。
また、仮に、貴矢が警察への通報をしていたとしても、りんかの思惑どおりにはいかなかっただろう。
りんかは警察が捜索をすることにより、りんごちゃんの死体が川底で発見されるだろうと考えていた。
しかし、実際には、りんごちゃんの〈自殺〉は〈偽装〉であり、りんごちゃんの死体などどこにもないのだ。
「貴矢、お見舞いに来た二人はどんな様子だった?」
「二人とも可愛かったよ」
「……いや、そうじゃなくて、どんな態度だった?」
「平謝りされたよ」
——それはそうだろう。貴矢は、姉妹の〈企て〉に翻弄された結果、入院するに至っている。姉妹は責任を感じているに違いない。
「謝られただけ?」
「感謝もされたよ。〈復讐〉をしてくれてありがとう、って」
りんごちゃんの企てた〈復讐〉も、りんかの企てた〈復讐〉も、想定外の出来事によって、ともに失敗した。
姉妹に代わって、磯口、最田、祐天寺の三人に〈復讐〉を果たしたのは、貴矢である。
僕らが植え込みの後ろで見守っている中、貴矢は、三人に〈りんごちゃんを殺した〉という〈言い掛かり〉をつけた。
そして、三人にボコボコに殴られた。
一切抵抗をせずに、ただひたすらに殴られ続けた。
それにより、三人に傷害罪を成立させたのである。
三人は、警察に逮捕され、今、留置所で勾留されている。
その後、少年鑑別所に移送され、少年審判にかけられるだろう。
三人の素行の悪さを考えれば、少年院行きもありえるかもしれない。
当初想像した形とは違ったものの、それは、りんごちゃんとりんかがそれぞれ望んだ結果に近いものである。
貴矢の〈復讐〉によって、りんごちゃんの〈復讐〉も、りんかの〈復讐〉も一応は果たされたのである。
三人が逮捕されたことによって、溜飲を下げたりんごちゃんは、失踪状態を解消し、〈生き返った〉。
無事ハッピーエンドである。
なお、貴矢の〈復讐〉は、貴矢一人で成し遂げたわけではない。
それには〈天使の助け〉——つまり、結穂の助けが不可欠だった。
結穂は、磯口、最田、祐天寺とつるんではいたものの、三人が暴力を行うことを快く思っていなかった。
むしろ、彼女は、貴矢が僕の家に駆け込んで来た日、貴矢が殴られている姿を見て、心を痛めて涙を流してしまったほどの平和主義者なのである。
その二日後、貴矢がまた河川敷に現れ、二日前よりもさらに執拗に殴られているのを見た時、結穂は、ついに耐え切れなくなった。
それで、ウェストポーチの中から、キラリと光る何か——スマホを取り出した。
結穂は、まず、三人が、貴矢を暴行している姿を動画撮影した。
その後、一一〇番通報をしたのである。
警察への通報は僕らにもできたかもしれない。
しかし、〈至近距離からの動画〉という動かぬ証拠を作ることは、あの状況下では結穂にしかできないことだった。
また、舞泉さんの存在抜きにしては、貴矢の〈復讐〉は語れない。
貴矢の〈復讐〉を企てたのは、舞泉さんだ。
すべてが舞泉さんの掌の上にあったといっても、過言ではない。
「りんごちゃんとりんかちゃんからも真相を聞いたんだけど、ミト様の言うとおりだったぜ」
りんごちゃんとりんかの〈二重の企て〉を、舞泉さんは看破していた。そして、貴矢の入院直後、舞泉さんは、僕らに対し、自らの推理を披露してくれていたのである。
姉妹が貴矢に対して語った内容は、その答え合わせとなったようだ。
「おや、噂をすれば何とやらみたいで」
背後の廊下から、こちらに近づいてくる二人の足音が聞こえた。
振り返ると、やはりそこには舞泉さんと石月さんがいた。
「シモベ君、もう来てたのか」
「野々原君、起きてたんですね」
「小百合ちゃん、ミト様、お見舞いに来てくれてありがとう。その果物は?」
石月さんは、ぶどうやらメロンやらといった大量の果物が入ったカゴを両手に抱えている。
「野々原君、何かお好きな果物はありますか? もし今召し上がりたいものがあれば、早速準備しますよ」
「えーっと……リンゴかなあ」
「ありません」
石月さんがピシャリと言う。
通常の果物盛りの中にはリンゴは含まれているように思うので、おそらく、石月さんが意図的に抜いたのだろう。
「野々原君、まだ頭が冷えないんですか?」
石月さんの言葉はだいぶ辛辣である。
「うーん、なんというか、現実感が湧かないというか……。全てが〈偽装〉だったと言われても、そう簡単には飲み込めないというか……」
「あれ? 貴矢、さっき、僕に対して、澤田姉妹がお見舞いに来て、真相を話してくれたって言ってたよな?」
「それもまた〈ドッキリ〉という可能性もあるだろう?」
「そんなメチャクチャな」
要するに、現実を受け入れたくないのだと思う。実は、りんごちゃんは貴矢の告白に承諾などしていなかったという事実が確定することを拒絶しているのだ。
舞泉さんと石月さんは、なぜか二人で顔を見合わせている。
その後、舞泉さんがパーカーのポケットから、一枚の写真を取り出す。
貴矢に向けているのは、その裏面だ。
「貴矢、この写真を見たいか?」
「何が写ってるんだ?」
「りんごの〈アリバイ〉だ」
「〈アリバイ〉?」
「りんごが〈殺された〉とされる時刻に、りんごが河川敷にはおらず、別の場所にいたという〈アリバイ〉だ」
通常、アリバイというのは、事件発生時刻に別の場所にいたことを意味する言葉である。通常、それは、容疑者について語られるものである。
今回、舞泉さんの言っている〈アリバイ〉は、イレギュラーなものであり、容疑者ではなく、被害者側の〈アリバイ〉なのだという。
「なんでミト様が、りんごちゃんの〈アリバイ〉写真を持ってるんだ?」
「あるルートから入手した」
「あるルート? そもそも、りんごちゃんは、事件時刻にどこにいたんだ?」
「少し考えれば分かる」
「分かんねえよ」
貴矢に考える気はないようなので、僕が代わりに少し考えてみることにした。
事件時刻——貴矢が河川敷で最初に三人に殴られていた時刻にあったことといえば——。
「ああ! 分かった! 青堀祭りだ!」
「シモベ君、正解だ」
りんごちゃんは、青堀祭りでりんご飴を食べることが年に一度の楽しみなのである。
そして、今年の青堀祭りは、二十日ではなく、十九日——貴矢が最初に三人に殴られた日に開催されていたのである。
「となると、その写真は、祥子さんのドローンで撮影したものだね?」
「そのとおり」
お祭り好きの祥子さんは、今年の青堀祭りにドローン参加していたのである。その際に撮影していた動画に、りんごちゃんが映り込んでいても不思議ではない。
「おお! そういうことか! そういうことなら、早く俺にその写真を見せてくれよ! 念願のりんごちゃんの浴衣姿が見れる!」
貴矢は、重傷人とは思えないくらいにハシャいでいる。
また舞泉さんと石月さんが顔を見合わす。
石月さんは、舞泉さんに対して、うんと大きく頷いた。
「……分かった。見せることにしよう。くれぐれもショックを受けすぎるなよ」
「ショック? りんごちゃんの浴衣姿がセクシー過ぎてということか?」
貴矢の戯言を無視し、舞泉さんが、写真を裏返す。
貴矢の顔に貼り付いていた薄ら笑いが、サッと消える。
写真のりんごちゃんは——。
「……まさか、これは彼氏か?」
「普通は彼氏以外の男性とは手は繋がないのではないでしょうか?」
今日の石月さんは本当に辛辣である。
「りんごさんが〈偽装自殺〉の時期を、青堀祭りの前日に設定したのは、おそらく意味があってのことでしょう。りんごさんには、元々、青堀祭りの日に彼氏の家にお泊まりする予定があったんです。それを何泊か延長すれば良い、とりんごさんは考えたのです」
「……つまり、りんごちゃんは、失踪期間中、ずっと彼氏の家に泊まっていたと……」
「ええ」
貴矢は、目を瞑ったまま、動かなくなってしまった。
もしかすると、気絶してしまったのかもしれない。
青堀祭りでのりんごちゃんの写真——それは事件の〈不在証明〉であると同時に、恋心の〈不在証明〉だったのである。