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森の諜報員さん

 たった数メートル先だった。
「ヴィーシア、ニエンゼート!」
 少年は叫ぶと、優しく微笑み手にしていた小刀を自分の首に突き刺した。暗闇に緋色が舞う。
 たった数メートル。私は少年の死を止めることができなかった。
 ふと、手に何か生温かいものが触れる。
「ノワール」
 力なく紡がれた温度の無い単語。表情は無い。しかし、少年に向けられた瞳からは感情がとめどなく流れている。
 私は捕らえた彼女の額や頬にある痣が持つ理由にようやく想像がついた。
 ああ。
 このままでは、いけない。これ以上、この小さな手を汚させてはならない。
 作らされてきた罪。それは、消えない。しかし、それでも……少なくとも、あのときの涙は本物だったのだから。
「もうあの子にボク以外を殺させはしない」






 クリスマスが迫っている。
 サンタに欲しいものを望み、プレゼントを心待ちにしているだろう幼い子どもたち。
 人通りは少なく、前を見ずに走っている。私は小さな体を受け止めた。
「ご、ごめんなさい……」
「気をつけてね」
「うん!」
 懲りずに走り去っていく小さな背中に苦笑を向けた。
 数日後から更に気温が急降下し、もうすぐ雪が降ってもおかしくないと今朝のニュースペーパーが伝えていた。
 あの子たちは、そんな寒い日を、どのように生きるのか。
 朝は白の世界を目の前に雪見をし、昼は外で友と遊び、夜は温かい家庭で過ごすのだろうか。
 それで良い。いや、違うな。
「それが、良い」
 そのまま死ぬまで普通の幸せを手に入れていることに気づかなければ良いんだ。
 ずっと、光の中で生きていれば良いんだ。
 世界各国が熾烈な情報戦を繰り広げる昨今。
 準軍事的訓練と極限状態における生存訓練を耐え抜き、己を自在に操る精鋭として暗躍し、戦いを自国の有利へと導く幻影であること。
 それこそが、私たち諜報員の存在理由だ。
「全ては、より良い世界のために」
 街中のレンガ造りの建物の奥へと進んだ私は、1人乗り込んだエレベーター内で呟いた。密室に夜が咲き、箱の移動に身を任せる。
 やがて、ぽつりとオレンジ色が灯る。
「ニンショウヲカイシ」
 小さな空間に機械の音声が響く。
 私は答えた。
 建物に入ってからエレベーターに乗り込むまでの歩数、その途中で見かけた2階へと続く階段の数、建物内にいた人間13名全員の身体的特徴および言動や服装の詳細を。
「コードネーム、スペード。ニンショウ」
 機械の声と共に扉が左右に分かれた。それを合図に歩を進める。それから、大きな扉を目の前にして足を止めた。
「入りなさい」
 タイミングよく扉の奥から深い声が耳に届いた。
「任務ご苦労だったね、スペード」
 指紋認証と虹彩認証を済ませて入室すると言葉が出迎えた。人の気配は無い。いつものことだが。
「いえ……。ご用件は何でしょう?」
 国内で任務に取り組むか、他国への潜入ミッションに駆り出されるか。
 脳内には確実性の高い2つの予測が浮かんでいた。
 私は、寒空の下、すっかり白銀に彩られた異国の森にいた。寒さに慣れていない設定のため、防寒に不足はない。
 現在、接触に成功した対象者の肩を借りて足場の悪い道を進んでいる。
 対象者は、大きな荷物を背負っているどこにでもいそうな男だ。内容はおそらく月数回行う食糧調達の品々だろう。
 今回、私に課せられた任務はこの男から情報を受け取ること。
 つまり、この男、シルヴェスター・フロストを協力者として仲間に取り込むことだ。
「大丈夫ですか、ディックさん?」
「ええ、お陰様で。 痛っ……!」
 突然話しかけられたが、私は善人そうな笑顔で返し、痛がるふりをした。
 ちなみに、設定上、ディック・メイエリングはしがない編集者で、バードウォッチングが趣味の気さくな性格だ。
「ああっ、無理しないでください! もう少しでボクの家ですが、この辺りで一度休みましょう」
「いえいえ、大丈夫です。お気になさらずに」
「そうですか? ……歩く速度を下げますね」
 男は心配そうに眉を下げた。
 私が怪我で動けないと発言したときも「ここからでしたら、ボクの家は街よりも近いので、少し休みませんか?」と、男は言った。
 表面的には好印象だ。
 しかし、油断は出来ない。軽く事前調査した限り、この男は小説家を名乗っているが、5年以上前のデータには嘘しかなかった。
「あはは、ありがとうございます」
 それからしばらく。
 歩速を下げられてから5分もしない頃。枯れ木の隙間から赤い屋根が視界に入り込んだ。
「あ、着きましたよ! 長く歩かせてしまって申し訳ないです」
「いえ、そんな……! 野鳥に気を取られ、足元への注意を怠った自分が悪いんです」
「確かにこの辺はところどころ足場が不安定ですよね。
 あ、ディックさん。ボクは買ってきたものを納屋に入れてきますから、ここで座ってお待ち下さい」
 そう言って家の近くの切り株に私を丁寧に座らせて「すぐ戻ります」と男は駆けて行った。
 私の調査不備だろうか。いや、男が未だ粗を見せていないだけだ。気を抜くな、スペード。
 ふと、足が当たって倒してしまったものが視界に入る。
 冷たい2つの歪な球体だ。枯れ枝が刺さっていたり、目や口の配置をしているから、雪だるまのつもりだろうか。とりあえず、元に戻した。
 こんなことをしている暇があるなら小説を執筆していればいいものを……。
「そういえば、どこの方なんですか?」
 宣言通りにすぐ戻ると、私に手を差し出しながら男が尋ねてきた。
「自分は首都の方から」
 私は用意していた答えを返して男の手を頼りに立ち上がろうとした。
「それはそれは。遠いところから遥々と」
「どうも仕事に疲れてしまうと自然に触れたくなるんです」
「そうですかぁ、そうですよねぇ……。ああ、しかし、聞き方が悪かったですねぇ」
 ふと、脳裏に師の言葉が過ぎる。

――我々に称賛の声は無い。我々は存在しないからだ。

「教えていただきたかったのは」
 男の輪郭が師の姿と重なる。

――君が任務で厳守するのは3つ。

「どの組織のどこの部署に所属しているのか、ということです」
 向けられた、ひどく穏やかなライトブラウンの瞳。
 背中に冷や汗が不快に伝う。
 沈黙が息苦しい。
 頭では分かり切っている。
 落ち着け。
 自然に立て直せ。
 バレていない。
 相手に情報を与えず、この場を切り抜けろ。
「何のことです? あっ、もしかしてそういう映画がお好きで?」
 大丈夫、窮地に慣れていないだけだ。
 己にそう言い聞かせながら表情を緩め、戯けた。
 しかし、男は何も言わない。その不気味な眼を向けたまま、ゆっくりと口角を上げた。
 そのとき、私は悟った。この任務の行く末を。
 同時に、もう後には引けないと理解した。
 男について、私が認識しているのは3つ。

1つ、シルヴェスター・フロストを名乗り小説を執筆していること。

2つ、メディア嫌いが甚だしく人里離れたこの森の奥に数年前から暮らしていること。

3つ。ただの人の良い男ではないこと。

 どこだ……打開策はどこにある?
 次の瞬間、私は息を飲んだ。男が腰の妙な膨らみに手を伸ばしたからだ。
 咄嗟に男と距離をとり、体勢を整えた。
「ああ、大丈夫ですか?」
 私は答えなかった。男を睨みつけたまま深く息を吸い込んだ。そんな私の姿に男は苦笑する。
「森の中で怪我人を助けるなんて、どこかの童話のようなデキゴトだとは思いましたけれど……。ええ、こちらにそんな意図はありませんが、お相手いたしましょう」
 諜報員は自らの死で任務失敗を償うことはできない。そんなものに価値はない。もとより、失敗は前提として思考し行動している。訓練されている。死ぬことよりも大切なことが、やらねばならないことがあるからだ。
 私の頭に浮かんだ最悪の事態は、この男に捕えられ、敵に祖国の情報が渡ってしまうこと。
 正体がバレるよりも、死ぬことよりも、それこそが真の失敗である。
 諜報員は、少しでも価値のある情報を祖国へ持ち帰るべきなのだ。
 プランBにチェンジだ。男を気絶させ、その間に家の中を調べて情報を手に入れた上でこの国を去る。
 違和感ばかりのこの男とこれ以上戯れる道理は無い。
 しかし、このプランも高難度だと数分もしないうちにわかった。男に攻撃を仕掛けていくがことごとく捌かれてしまうのだ。
 手を合わせているうちに疑問が浮かぶ。
 何故、ここまで次の攻撃が読まれているんだろうか。
 いくつかの体術を組み合わせた、この特殊な格闘術。初見でなくとも防ぐのは難しい。
 正確には、全ては防げない。
 何者だ、この男は……いや、予想はついている。おそらく、この
「シル! おか、え……り! おいしいの、いっぱい?」
 突然、自らの背丈の倍はある扉の影から姿を現したのは、年端もいかない白髪の少女だった。外にあり続ける人の気配に導かれたらしい。
 次の瞬間、直感した。
 男の弱点は、ここだ。
「よせっ!」
 あぁ、正解だ。
 はじめて男の顔が歪んだ。もう遅い。少女の首は私の腕の内側にある。このような行為は好まないが、この任務を失敗させないためには必要な情報を入手し、去る。
 それが、最善。
 生殺与奪はいつ何時だろうと優越的立場の者にある。そして、私はようやく男に対して優位に立てたのだ。
「情報を渡せ」
「落ち着け、ニエンゼート!」
 男にはもう先ほどまでの余裕はどこにも無い。
 ニエンゼート。隣国の言葉で無や何も無いという意の語だ。ふざけるな。お前は持っているだろう。でなければ、その怪しい経歴は何だ? 学生時代の経歴はいずれも巧妙な偽装だと判明済みだ。
 私は控えていたナイフを少女の首筋に触れさせた。
「ヴィーシア! ニエンゼート!」
 男は素の経歴では隣国出身なのだろう。我を見失い、私に情報を与えていることを理解していない。相当焦っている。
 情報は〝白〟。隠すべきものは〝何も無い〟。
 その言葉を信じろ、と? ふざけるな。もちろん、私には少女を殺すつもりはない。男が目当てのものを差し出せば、この子は無傷で解放する。
 しかし、何を焦っている?
 私が殺害を目的として動いているなら、会話などせず己が背を見せたときに襲撃されるとわかっているはずだ。
 経歴を偽装しなければならない人間は限られている。違和感の正体には気がついていた。男からは私と同じ匂いがするからだ。
 しかし、わからない。
 同じ種の人間なら、私が決して少女に危害を加えることはないとわかっているはずなのに。これは、ど





 忘れることのないよう記憶に刻みなさい。
何故、祖国への忠誠、揺るぎない覚悟と共に任務を遂行するのか。
我々に称賛の声は無い。我々は存在しないからだ。
影を持たぬ英雄よ、幻であり続けろ。
脆弱な覚悟、死の覚悟は、今この場で完全に捨て去りなさい。
この国の日常を、まばゆい光で照らすために。
 ここに宣言する。
君が任務で厳守するのは3つ。

1つ、死んではならない。

2つ、殺してはならない。

3つ、捕われてはならない。

 さあ、消えた精鋭よ!
自らに価値を見出せ。己の全てを駆使して祖国に栄光をもたらし、戦いを勝利へと導け。
全てはより良い世界のために。






 これは……初任務直前の師の言葉か。 ん、なんだか温かい? 白い天井? ここは このベッドは、いや、何故こんなに汗が
「うぐっ……」
 突然、鋭い痛みに腹部を貫かれ、思わず身をよじった。手の甲で汗を拭う。
「め、かちゃかちゃ?」
 幼い声を頼りに視線を動かすと、ほんのり赤く腫れた無垢な瞳とかちあう。私はこの状況も少女の言葉の指すものも分からず数度まばたきをした。
 すると、少女はぱっと表情を明るくして
「シル! め、かちゃかちゃ! かちゃかちゃ!」
 と、嬉しそうに部屋の扉へ跳ねていった。
 視線の先にあるローテーブルの上には赤黒く染まった私の衣装が丁寧に畳まれて静置されている。この季節に反して寒さを覚えないのはこの厚手のセーターのおかげらしい。
 今度は、扉の向こうから声がする。
「ああ、本当かい? 教えてくれてありがとう、ティア」
 この声で、私はこの状況に陥った原因を思い出した。
「じゃあ、ボクはお客さんとお話ししているから、宝探しして待っていてね」
「うん!」
 少女を人質にとり、男に情報を要求して、それで……
 扉が動き、男が顔を見せた。
「やあ」
 私は腹部の痛みを噛み殺し、体を起こした。
「ああっ、応急処置はしましたが傷が開いたら大変ですよ!」
「ご心配なく」
 この返答に男は苦笑し、あのときの妙な膨らみに手を伸ばす。
 体が強張り、痛みが増す。
 しかし、男はその正体を私の衣装の上へと放り投げた。
 小さな紙袋だ。私はそっと中身を確認した。
「……は?」
「甘くて美味しいよ。あの子のお気に入りなんだ」
 紙袋の中には、カラフルなキャンディがいくつも入っていた。
「申し上げたでしょう? こちらにそんな意図はありません、と。1つ、いいかな?」
 私は紙袋から水色を1つ取り出して男に投げた。
「ありがとう。んー、何味だろう」
 男は何の疑いも持たずキャンディを口に含み「ん、甘い」と呟くと、包み紙をポケットに押しこんだ。
 私はセーターの上から腹部に巻かれた包帯に触れ、考える。
 ボスは何故、この任務を私に振り分けたのか。
 この男の体捌きは、およそ小説家のものではなかった。しかし、敵だとしたら私は何故生きているのだろうか。治療されていること、拘束すらされていないのはあまりにも不自然だ。
 男は私に背を向け、高い位置にある金庫を開錠し中から茶封筒を取り出すと、何か思いついたらしくポケットから取り出したものを金庫に入れて施錠した。
「あの、少しだけ話を」
 私はベッドから立ち上がり、男の言葉を遮った。
「ああ、応急処置だけしかしてませんから、急に動いたら傷が開いてしまいますよ」
 男の制止を無視し、部屋を出て扉のすぐそばに控えていた少女に紙袋を押し付けた。
「っ……? あ、りが、と……う……」
 隣室はリビングだろうか。木目調の質の良い家具が最低限揃えられており、暖炉には薪が焚べられている。
「ちょっと、聞いてます?」
「私は情報を受け取り次第、去ります」
「その傷で?」
「ええ」
「首都からいらしたんでしょう? それなのに全く関係ない傷を負って……。そんなじゃ割りに合わないじゃないですか」
「ですから」
「あっ、そうだ。何か淹れますよ、スペードくん!」
 私は思わず瞠目した。男の穏やかな笑みを視界に捉える。
「いかがですか?」
「……頂戴します」
「どうぞお座りください」
 私は男に勧められるままに椅子に腰掛け、尋ねた。
「あなたは何者ですか?」
「そう言いつつ、気づいているのでは?」
「……同じ国に忠誠を誓った人間ですから、多少は」
 私の答えに満足したらしく、男は茶封筒を差し出した。
「その通り。組織内では、ボクはフィクサーと呼ばれています」
「……は?」
「はい?」
「え……あのフィクサーさんですか?」
 面識はなくても名前は知っている。
 私の所属する組織におけるエースとして名高い諜報員のコードネーム。それが〝フィクサー〟だ。
 私は興奮を抑え尋ねる。
「 な、なぜこんな場所に?」
「ここを離れられない事情がありまして」
「それは、あのティアという少女と関係があるのですか?」
 彼は火にかけた水の様子を見るため、私に背を向けた。
「ええ、まあ」
 言葉に苦笑が染みている。
「それでは、シルヴェスター・フロストというのは」
「その通り。前の任務のために作ったキャラクターさ。君もやったことあるだろう?」
 あ、そうだ。と呟くと、彼はティーカップを2つ用意し視界の端に私を入れた。
「ボクも質問があるんだけど、いいかな?」
 私は首肯した。
 湯が沸き、不思議な形をした容器にゆっくりとそれは注がれる。
 匂いが鼻腔をなでる。これは……柑橘類か。
 彼はそれが終わるとコップに鮮やかな深紅の液体を流し込みながら疑問を口にした。
「情報を渡せと仰ってましたが、それがあなたの任務ですか?」
「あ、え……ええ。協力者候補を抱えるのが任務と解釈しました」
「ははっ、なるほど。詳しいことはあなたも聞かされていなかったわけだ。本当、ボクらのボスは人が悪いですねえ。まあ、それが本来の上意下達というものなのでしょうか」
「さあ、どうでしょう」
 彼は微笑をたたえ、テーブルに2つのテーカップを乗せた。
 私は片方を引き寄せ、テーブルの上に置かれた砂糖を少し入れることにした。なんだか思考がぼやけているような感覚があり、糖分を取り入れて解消したかった。
「あ、やめた方が良いですよ」
 彼はティーカップを片手に言った。私は白い粉を手に取って指の腹で擦り合わせてみた。
「すみませんねぇ、驚かせてしまって」
「いえ、驚いていません」
 彼の言わんとすることを理解し、ティーカップを傾けた。
 想像以上に酸味が強い。
 吐き出しそうになるのを堪えると、お世辞も共に飲み込んでしまった。
「この刺創を作ってくれたのは、あの少女ですから」
「ははっ、そうでしたねえ。……あ、ハチミツが納屋にありますが」
「いえ、結構です」
 あのとき、彼が焦った理由。
 それは、私が少女を傷つけると思ったからではない。むしろ、彼は少女から私を守ろうとしたのだ。
「あの少女は何者ですか?」
 沈黙が流れる。やがて、彼は重い口を開いた。
「あの子はエニグマの奴隷です」
 エニグマ……そうだ。
 幼い子どもが教育によって戦闘員へと仕立て上げられていたと聞いた。あの少女もその1人だったのなら、彼があのとき叫んだ〝ヴィーシア=白〟はあの“白髪”の少女を表していたのか。年齢の割に語彙が少ないのも、特に幼い頃から教育が始められたということならば頷ける。
 それでは、「ニエンゼート」というのは?
 無、何も無い。何が無い? 戦闘員への指示が無い、与えられた指示が無い。戦闘する必要が
 いや、待て。
「その犯罪組織は2年前に壊滅したはずではありませんか?」
「残念ながら。私は幹部制圧任務でミスを犯しました」
 ん。フィクサーさんが任務失敗だと? そんなことあるのか。いや、相手は犯罪組織。卑怯さと残忍さは他の追随を許さな
「やつでなければあの子に与えられたボクの殺害命令を取り消すことが出来ません。だから、それまではここを離れるわけにはいかないんです」
 ああ。〝ニエンゼート=取り消す〟か。
「そうだとしても、この森は暮らすにはあまりにも不便ではありませんか?」
「仕方ないんですよ。あの子、爆弾を用意したことあるので」
 私はため息をついて紅茶を啜った。
 あくまでも任務において市民を危険にさらす行為はできないということか。いや、しかし……
「それで良いんですか?」
 やはり酸味が強すぎる。甘味が欲しい。キャンディをもらっておけば良かった。いや、しかし、あの中の数個にのみ薬物が仕掛けられていたら口にするわけにはいかないか。
「戦闘員とはいえ、あんな子どもくらいあなたなら簡単に始末出来るでしょう?」
 私の問いに沈黙し、そして、呟いた。
「もうあの子にボク以外を殺させはしない」
 私が首を傾げると、彼は舞台役者の如く立ち回った。
「この世界は広い。しかし、あの子はたった1つのことしか知らない。何者にもなれるこの世で無知というのはあまりにも悲しい。そう思いませんか?」
「さあ、どうでしょう」
「無闇に傷つけ合う必要は無いんです。ボクは、彼女に自分の人生を歩ませてやりたい。そう願うだけですよ」
「まるで小説家ですね」
「小説を書いているんですから、小説家でしょう?」
「ええ、たし――」
 次の瞬間だった。隣室の扉が開く音と同時だ。
「おっと」
 銃声が、2つ。
 1秒にも満たない間に2発の弾丸がすぐそばを通過した。いや、銃声にしては音が軽すぎるし、火薬の臭いもない。しかし、確かにたった今、私のすぐそばを何か小さな物体が横切った。
「早かったね、宝探しもかちゃかちゃするのも。でもね、ティア。お客さんがいるんだから、彼が帰るまでは待つべきだったよ」
「むー……!」
 少女は不満そうな声を漏らすと再び部屋に閉じこもり、彼は右手の拳銃を魔法のようにどこかへ収納する。
「あれ、驚かないんですね」
 何を言っているんだ、この方は。驚くに決まってるじゃないか。
 発砲して弾丸同士を擦らせ凶弾の軌道を逸らし、かつ発砲者に弾丸を当てない角度を正確に、瞬間的に計算し実行して見せた……なんて神業を。
 火薬の匂いがせず発砲音が軽いことから、おそらく使用したのは双方玩具だろうが、さすがはフィクサーさんだ。
 現在進行でこの目を疑っている。
「おかげさまで」
 私の答えに彼は優しく微笑んだ。
「こんな毎日も良いものだよ、スペードくん。いや……」





 私はインクで書かれた原稿に目を通し終えた。
 自伝のようでそうではないらしい話だな、というのが正直な感想だ。
「ディック、編集長が呼んでたぞ」
「本当ですか? なんの話だろう」
「フロスト先生の新作以外に無いよ」
「ああ、なるほど。伝えてくださり、ありがとうございます」
 私は原稿を茶封筒に戻して、共に編集長の席を目指した。
 その途中、ふとフィクサーさんのやりとりが頭に浮かんできた。



 悪魔だ。
 悪魔? わからない。
 ただ、人間では無い。
 何故ここに悪魔がいるんだ。
 違う、そうじゃない。
 彼の顔が見えないだけだ。
 ……ああ、そうか。
「スペードくん。いや……Mr.エルキュール・レーガン」
 彼こそが〝フィクサー〟の名を持つその人だ。
 次の瞬間には、しかしながら、彼は非常に穏やかな笑みを浮かべていた。
 私は慌てて呼吸を再開させ冷や汗を握り締め俯いた。
 何だったんだ、今のは。
「ああ、そうだ。忘れるところでした」
 続いて彼の指に弾かれた小さな金属を受け取り、弄びながら観察する。
 このコインは……ん? それでは、先ほど受け取ったこの茶封筒は……ああ、そうか。そういうことか。
 私はコインを握りしめ、酸味の強い液体を勢いよく残り全てを取り入れた。
 空のカップを机に乗せてから視線を向けると、彼は笑みを浮かべる。
「よろしく頼むよ、ディックさん」
「こちらこそよろしくお願います、フロスト氏」



 私は深呼吸をしてから編集長に声をかけた。
「あのぉ、編集長」
「おお、メイエリングくん。フロスト先生から受け取れたかい?」
「ええ、こちらになります。先生って、手書きなんですね。驚きました」
「彼、変人で気難しいタイプだからね」
「ああ、なるほど」
 元来、諜報員は目立たないべきだが……。いや、それとも、小説家には多いのだろうか。
「じゃあ、以後は先生の担当を頼むよ」
「はいっ、ありがとうございます!」
 私は速足で自席へ戻った。おそらく、他人の目からは新人編集者がファンの小説家に関わることができて嬉しさを噛み締めているように映っているだろう。
 それで良い。
 いや、それが良い。
 彼は小説家シルヴェスター・フロスト。私は編集者ディック・メイエリング。
 諜報員は己の任務を遂行する。それだけなのだから。

(終)

-5千文字 1万文字程度 2万文字程度 3万文字程度 4万文字 5万文字程度 5千文字程度 How done it? S.S.ヴァン・ダイン TRICKROOMシリーズ Who done it? Why done it? はなるぽ めざせ、名探偵への道 アメリカ出身 アリバイトリック アンソロジー企画 イギリス出身 エドガー・アラン・ポー ギネス認定 コナン・ドイル サスペンス ダイイングメッセージ ノンシリーズ ハンガリー出身 ライトミステリー 一人称 三人称 伏線 名探偵 羽黒祐介シリーズ 執筆 執筆準備 執筆道具 女主人公 密室 徒然推論シリーズ 心理戦 探偵流儀シリーズ 日常の謎 本格ミステリ安堂理真シリーズ 男主人公 短編作品 限定公開作品 黄金時代 黎明期

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