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光射す矢

目次

第一章 射貫かれた死体

 素人探偵、安堂理真のもとに、またも不可解な事件捜査の依頼が舞い込んだ。
 彼女――理真のワトソンでもある私、江嶋由宇は、事件の詳細を聞くべく、理真と二人で新潟県警本部を訪れ、応接室に通されている。
 “詳細を聞く”という表現を用いたことからも察せられるように、事件の大まかな概要は新聞、ニュースの報道によって理真も私も把握していた。
 二日前の夕方、新潟県北部に位置する胎内市を流れる胎内川の河岸に、男性の死体が流れ着いているのが発見された。
 現場は公園となっている広い河川敷で、通報を受けた時点では、誤って川に転落しての溺死だと思われていた。だが、現場に駆けつけた警察により、その見解はすぐに否定され、事件性ありと断定が下されることとなった。その理由というのは、死体に一種異様な“異物”が突き刺さっていたためだ。その異物とは“矢”だ。死体の背中には一本の矢が突き立っていたのだった。

「死因は溺死じゃなくって、この矢が致命傷になったんだね?」

 理真が訊くと、

「そう」と、理真の対面に座る、新潟県警捜査一課の丸柴刑事は、「肺にはほとんど水が入り込んでいなかったから、川に落ちた時点で、被害者はすでに死亡していたものと思われてる。矢による傷には生活反応があったから、死後に刺されたものでもないし」
「現場は公園だよね。人目がない時間帯を狙って犯行に及んだってことなのかな? 矢で人を射るって、かなり目立つ行動だから」
「それについてはね……」と丸柴刑事は、テーブルに広げられた資料のページをめくって、「死体発見現場と、被害者が実際に死亡した場所は、同じじゃないと思われてる――というか、間違いない」

 丸柴刑事が語る、その理由というのは、以下のとおりだ。
 死体が発見されたのは、川の河川敷に設えられた公園の川縁で、その公園は監視カメラによって常時モニターされている。死体発見箇所も、そのカメラの撮影範囲におさまっており、つまり、もし、その場で犯人が被害者を矢で射るなどという異常行為が行われたのだとしたら、その様子は映像に残っていなければならないわけだ。しかし……

「被害者の死亡推定時刻の範囲に、そういった事象は映っていなかったの。つまり、被害者は、発見場所よりも上流において矢で射られて殺されたうえ、川に転落、あるいは遺棄され、そのまま流されて、下流にある公園の川縁に漂着したのだろうと」
「なるほど」

 死体が発見された川縁は水草が繁茂しており、その草が死角になったため、死体が流れ着いた様子はカメラの映像にも映っていなかったという。死体を発見したのは、夕方に犬の散歩を日課としている近所に住む老人だった。犬がやけに川縁に向かって吠えているので、何だろうと思って草を書き分けて覗いてみたところ……というわけだ。老人が自身のスマートフォンで110番通報をした時刻は、午後五時三分だった。

「その、本来の犯行現場は?」

 理真が訊くと、丸柴刑事は、

「特定したわ」

 と、ページの一部を指さした。丸柴刑事の細く白い指先は、死体発見現場を中心に切り取られた胎内川の地図上の、赤く丸で囲まれた箇所を示していた。
「死体発見現場から数キロ上流の川縁よ。雪の上に残っていた足跡が被害者の履いていた靴と一致したわ。さらに、煙草の吸い殻もあって、唾液から被害者と同じ血液型だということも判明してる。おまけに川縁に人が転落したような痕跡もあったから、ここで間違いないでしょうね」
「そこで、被害者は矢で射られた」
「そう……対岸からね」
「対岸から?」

 地図を見ていた理真が顔を上げた。

「その場所は、河川敷から少し落ち込んだ窪地みたいになっていて、たとえば、河岸を散歩していたとしても、わざわざ入り込んでいくような場所じゃないのよ。河川敷から現場に至るまでには、被害者が片道を歩いて行った足跡しかなかったの。その足跡も、ちょっと妙なことになっているんだけれど、それについてはとりあえず置いておくわ。で、そんな場所にいる人間を弓矢で狙える位置となると、川を挟んだ対岸しかないわけなの。実際、対岸にも足跡が残されていたわ。川岸ぎりぎりまで接近して、そこで立ち止まってから引き返したような足跡がね」
「対岸から、その足跡の主が射った矢が命中したことで、被害者は絶命、川に転落してしまったと……それにしても、異様だよね」

 まさに、素人探偵に捜査依頼が来るに足る案件だと、理真の隣で私は頷いた。かつて理真は、クロスボウの矢が凶器となった事件を解決したことがあるが、資料の写真を見る限り、今回のそれは通常の弓で射られた矢のようだ。

「その、被害者に突き刺さっていた矢って、どんなものなの? そこらで気軽に買える代物じゃないから、そこから辿っていけば犯人候補を絞り込むのは難しくないんじゃない?」

 理真の言うとおりだ。異様な凶器による犯罪というのは、一見いかにも素人探偵向きの事件だが、異様であるがゆえに凶器の入手可能者を絞り込みやすいともいえるわけで、そこから犯人に迫ることが容易なのであれば、逆に探偵の出番はないということになる。

「矢の出所は判明してるわ。同じ胎内市にある北本高校の弓道部で使用されているものよ」
「弓道部……まさに、だね。そうなると、さらに犯人候補は絞られてくるんじゃ?」
「そうね……犯人はこの人以外にありえないだろう、という最有力容疑者まで絞り込みは進んでいるわ。その弓道部部長――三年生でもう部活は引退してるから、正確には元部長ね――の、相川遙香さんという女子生徒なんだけれど……」
「でも、逮捕に至っていないということは、証拠がない?」
「それもだけれど、もっとやっかいな問題が」
「なに?」
「アリバイ」

 被害者の死亡推定時刻は、三日前――今日が七日だから、四日――の午後三時から四時までのあいだの一時間。容疑者である相川遙香の自宅と現場――被害者を弓矢で射たと思われる川岸――までは、自転車で片道三十分かかるという。
 このことを念頭に置いたうえで、最有力容疑者である相川遙香の当日の行動を追ってみると、以下のようになる。
 午後二時、その日の授業はすべて終わり、教室では帰りのホームルームが開かれていた。その席で担任教師(担当科目は数学)が、「授業の際に出すのを忘れていた」と、急遽宿題を生徒たちに課した。教室にはブーイングが巻き起こったが、そんなものはどこ吹く風と、担任は宿題のプリントを生徒たちに配布した。
 相川は自転車に乗って下校。自宅に着くまで、家の方向が同じ友人数名とずっと一緒だった。帰宅時刻は午後三時。これは一緒に下校した生徒たちからも証言が取れている。
 それから三十分後、相川は、また別の友人から連絡をもらった。その内容は、ホームルームで出された宿題の答えを教えてほしい、という懇願だった。相川は、帰宅するとすぐに宿題を済ませていたため、自身が解答を書き込んだプリントを撮影して、その画像をすぐに送ってやった。それから三十分後の午後四時、パートから帰宅した母親を玄関に出迎えていて、その様子が隣人に目撃されている。母親の買い物の荷物運びを手伝っていたそうで、それ以降はずっと自宅で過ごしていたという。

「なるほど……」と、丸柴刑事の話を聞き終えた理真は、「もし、その相川さんが犯人だったなら、三時までは鉄壁のアリバイがあるんだから、行動を起こせるのは三時以降でなければならない。自宅から現場までは自転車で三十分。帰路も当然、三十分。母親が帰宅した午後四時までに、ぎり犯行は可能。さらに、相川さんは、解答を書き込んだ宿題を撮影した画像を、三時半に友達に送っているんだから、そうなると……宿題を片付ける時間がなくなるわけだ」
「そういうこと」と丸柴刑事が話を引き取り、「その宿題が出されたのは、帰りのホームルームの場だったから、必然、宿題に取り組める時間はそれ以降しかありえない。ホームルームが終わって、帰宅するまでの下校時間は、ずっと友人たちと一緒で、当たり前の話だけれど、自転車に乗りながら宿題に手を付けるなんて出来るわけがない。友人たちも、下校の道中はずっとおしゃべりをしていただけだったと証言しているわ」
「そうなると、宿題をやる機会は、帰宅してから現場に向かう途中しかなくなるわけだけれど……同じことだよね」
「ええ、自転車に乗りながら宿題を解くなんて器用な芸当、とても出来るとは思えないわ。帰宅して以降、屋外で相川さんの目撃証言は得られていないけれど、そのくらいの時間には、まだ自転車に乗って帰宅している女子高生なんて山ほどいたからね。その中にひとりに紛れてしまっているだけ、という可能性もあるけれど……それにしたって、自転車に乗りながら宿題のプリントに書き込みをしている生徒なんて見かけたら、まず記憶に残るでしょ。もし警邏中の警察官に見つかったりしたら、絶対に注意される」
「その宿題って、済ませるのには、どのくらいの時間がかかるものなの?」
「生徒たちに訊いてみたところ、平均して四十五分という結果になったわ。私も試しに解いてみたけれど、三十五分かかった」
「じゃあ、三十分で終えられたというのは優秀なほうだね。誰にも目撃されなかったとしても、自転車に乗りながら出来たとは考えがたい」
「そうなのよ」
「自転車以外の移動手段という可能性は、ない?」
「ない。相川さんは免許を持っていないし、免許関係なく自動車の運転は出来たのだとしても、その日はご両親はともに仕事に出ていて、家には車がない状態だった。近隣にバス路線はないから、バスを使うとなるとかえって時間がかかるわ。タクシー会社にも聞き込みを入れたけれど、該当する時間と場所で、相川さんらしい人物を乗せたという記録はなかった」
「車を用意して運転も出来る共犯者がいたら済む話ではあるけれど……」
「そういった人物は浮かんできていないわね。自転車が移動手段だったとあくまで仮定して、その自転車は共犯者にこいでもらって、自身は後方の荷台に乗って宿題をやる、というのも不可能じゃないかもしれないけど、自宅から現場間で、二人乗りをしていた自転車の目撃情報もないわ。目立つし、これも警察に見つかったら間違いなく注意を受けるはずだから、手段としては危険よね」
「そもそも、どうしてそこまでのアリバイがある相川さんて生徒を疑ってるの?」

 理真が首を傾げると、丸柴刑事は、

「さっき言った、犯行現場の状況のせいなのよ。犯人が矢を射たと思われる場所と、川を挟んだ対岸の、被害者が矢を受けたと思われる場所との間は、約八十メートル離れてる。で、被害者のいた側の河岸には、一本も矢が残されていない。周辺に矢が突き立った痕跡もない。これは、どういう状況を意味しているのか……」
「犯人は、初弾だけで標的――被害者――を射殺したってことだね。被害者の側の岸には矢が残されていないんだから」
「まさにそう。八十メートルも先の標的に、たった一矢で命中させる。そんな技量を持った部員、北本高校弓道部には、ひとりしかいないっていうのよ」
「それが、相川遙香さん」
「そう。弓道部のエースで、全国大会での優勝経験もあるわ。胎内市の弓の名手ということで、“板額御前”の異名を取っているそうよ」

 板額御前。巴御前、静御前と並び、“三大御前”のひとりに数えられている、鎌倉時代に活躍した現胎内市出身の女性武将だ。弓道部エースの異名として使われたように、弓矢の名手として知られている。

「八十メートル先の標的を、弓矢の一撃で……」
「しかも、被害者は背中のど真ん中を射貫かれているわ」
「丸姉、そもそもさ、犯人がその相川さんだったとして、どうしてそんな殺し方をしたんだろう? 凶器は部活で使っている矢だから、死体が発見された時点で学校に警察が来ることは予想できる。しかも、八十メートル向こうにいる標的を一発で仕留めるなんていうテクニカルな犯行とくれば、そんなことが出来るのは自分だけだって、宣伝しているようなものじゃない?」
「確かに、それは気になるけどね。一発で標的を仕留めたって事実だけでも隠したいのなら、たとえば、ダミーで何本か矢を放っておくという工作をしてもいいように思うけど」
「いや、丸姉、それは難しいと思う」
「どうして?」
「だって、仮に、犯人――とりあえず、相川さんとしようか――が被害者を殺害して、この犯人は初段で矢を標的に命中させたほどの凄腕なんだ、と思われない――自分に嫌疑がかからない――よう、丸姉が言ったように、ダミーの矢を何本か対岸に撃ち込んでいたとしよう。でも、そうなるとおかしなことになる」
「おかしなことって?」
「犯人は、一発で標的を仕留められなくて、何本か矢を射った末にようやく命中させることが出来たんだと、そう思ってほしいわけだよね」
「自分の弓矢の腕を隠すために」
「そう。でもさ、実際にそんなことが起きたとしたら、被害者が黙っていないんじゃない?」
「……そういうことか」
「うん。初段を外した時点で、被害者は自分が対岸から弓矢で攻撃されているって理解するわけだから、まず、身を隠すとか逃げるとかするでしょ」
「命中するまで何本も放たれる矢に対して、身をさらし続けているわけがない……。被害者をあらかじめ拘束して身動きをとれないようにしておいて……って、駄目だ。被害者がいた側の岸には、被害者以外の足跡はなかった。……そうね、理真の言うとおりね。現場に何本も矢が残っていたところで、犯人は当たるまで矢を撃ち続けたんだ、なんて思ってもらえるわけがない。これはダミーなんだなと看破されてしまう。探偵の目はごまかせない」
「だから、犯人が、被害者に攻撃を悟られることのないまま、一矢で仕留めたというのは事実のはず」
「じゃあ、やっぱり犯人は相川さんだ」
「そうならざるをえないのか」
「でも、彼女にはアリバイがあるわ。相川さんは、宿題を利用した鉄壁のアリバイ工作を思いついたから、犯行を決行する決意を固めたとか。いくら殺害手段が自分以外には遂行不可能な特異なものだったとしても、自分のアリバイが崩れない限りは犯行を立証されることはない」
「自宅から現場まで、自転車で移動しながら宿題をやり終える、何かしらの方法があったと」
「もしくは、自転車以外の、宿題をやりながら現場まで行ける移動手段があったのか」
「宿題の内容を前もって知れていれば、解答は先に用意できるわけだから、それを書き写すだけなら三十分もかからない」
「担任教師に訊いたけれど、その宿題のプリントは、前日に自宅で作成して、出勤してからは職員室の施錠の出来る引き出しにずっとしまっていたそうよ。で、ホームルームが始まる前にクラスの人数分コピーして持っていったと。だから、相川さんに限らず、事前に宿題の内容を知ることは誰にも不可能だったと見ていいわ」
「うーん……」理真は、ため息をついて、「とりあえず、この問題は置いておこう。そもそも、相川さんに被害者を殺害する動機はあったの?」

 現代の探偵学では、動機から犯人像に迫る方法はあまり重視されてはいないが、そこは確かに気になる。

「ある、といえばある」
「歯切れの悪い言い方」
「被害者はね」と丸柴刑事は、さらに資料のページをめくって、「同じ弓道部の部員のひとりと関わりのある人物だったの。名前は、金居博史さん。四十六歳。おそらく無職。この男がね、弓道部部員のひとりで一年生の、広瀬天音さんの家にたびたび出没していたそうよ。広瀬さんの家は母子家庭なんだけれど、彼女の母親と親密な関係だったみたい」
「再婚を考えていた相手とか?」
「そんな穏やかな話じゃないのよ。どうやら、この金居という男、反社と繋がりがあったみたいなの。何かの職に就いているようには見えないのに、特にお金に困っていたようでもなかったそうで、話によると、広瀬さんと母親の二人も、自分たちの世界に引き込もうとしていた節があると」
「確かに、穏やかじゃないね」
「そのことで、広瀬さんは悩んで、何度か部長の相川さんにも相談していたらしいわ」
「相川さんが犯行を決意したのは、義憤に駆られて」
「その可能性はあるわね。相川さんは正義感の強い人だそうだから。修学旅行のときに、地元の柄の悪い連中に絡まれてる生徒を助けたこともあったって」
「弓矢で?」
「さすがに修学旅行に持っていかないでしょ。近くにいた男子生徒が買った木刀を拝借して撃退したらしいわよ」
「それで、今度は、かわいい後輩を苦しめる悪い大人を成敗しようと? というかさ、そもそも被害者は、どうして雪が積もった冬の川縁なんてところにいたの?」
「分からない。いま、被害者の足取りを追っているところだから、何かしらの情報が掴めることを期待するわ。で、どう、理真、これからその現場に行ってみない?」

 県警本部から胎内市であれば、車で一時間程度の距離だ。現時刻が午後二時半だから、ちょうど被害者の死亡推定時刻――すなわち犯行がなされたのと同じ時間帯に到着することとなる。犯行時の状況を確認する意味でも最適かもしれない。そうと決まれば――理真と私は残っていたコーヒーを飲み干して、ソファから立ち上がった。

「丸姉」と、覆面パトに乗り込む直前に、理真が声をかけ、「死亡推定時刻が三日前の午後三時から四時ということは、死体発見は二日前の夕方だから、殺されて丸一日以上経ってから死体は発見されたということになるよね」
「そうね」と運転席のドアを開ける手を止めて、丸柴刑事は、「この季節で気温が低いから、死体の痛みもあまりなくて、だから、死亡推定時刻をかなり絞り込めたみたいね」

 そう言い終えると、運転席に滑り込んだ。


第二章 岸に残されたもの

 丸柴刑事の運転する覆面パトに同乗して、理真と私は現場、すなわち、胎内市を流れる胎内川のほとりに到着した。到着といっても、車の乗り入れは不可能なため、覆面パトは河川敷に駐め、そこからは徒歩での移動となった。
 犯行のあった日は三日前だ。ここ数日、胎内市に雪は降っていないが、かといって気温も上がっていないため、それまでに蓄積された雪が溶けることもなく、堤防を乗り越えた河川敷から現場の川縁までの地面は重たい雪に覆われていた。
 現場特定時、川べりまでは、被害者がつけたと思われる往路の足跡一条しかなかったそうだが、今や雪面は、捜査員や鑑識によってつけられた無数の足跡で蹂躙されている。被害者の足跡はもうすっかりこの中に紛れてしまったのだろう。当然、鑑識の調べは終了しているはずのため、問題はないのだろうが……いや、本部で丸柴刑事は、「被害者の足跡にも、ちょっと妙なことがある」と言っていたぞ。それなのに、こうして踏み荒らしてしまって、大丈夫なのだろうか? 横を伺うと、理真も同じことを考えていたのだろう。足跡の群れに視線を落としていた。それを見た丸柴刑事が、

「ああ、被害者の足跡のことね。それについては心配しなくていいわよ。被害者――金居さんの足跡はね、そもそも、ここにはないの」丸柴刑事は、川岸に近い草が生い茂った箇所を指さして、「金居さんは、向こうの茂みを通って現場――殺された川岸――に入り込んだみたいなの。だから、ここにある足跡は全部、捜査員のものよ」
「茂みの中を……?」
「そう。捜査員みたいに平地を通って現場に向かってくれていたら、足跡もすぐに発見されたはずだから、もっと早く殺害現場を特定できたんだけどね」

 丸柴刑事の指の先を追うと、確かに河川敷に、数メートル程度の高さの木が群生した茂みが見える。成木どうしが密集しているわけでもなく、真冬で落葉していることもあって、大人でも木の間を通り抜けることはじゅうぶん可能だろう。

「ということは、金居さんは、あの茂みの辺りの位置から堤防を乗り越えたうえで、現場に向かったってことだよね?」
「そうじゃないみたい」丸柴刑事は首を横に振り、「堤防の法面(斜面)には誰の足跡もなかったから、河川敷に入るには、堤防から公園に下りる階段を使ったんだと思う。見てのとおり、階段は除雪されていて、公園内は利用者の足跡がたくさんついているから。あの茂みに入るまでの金居さんの正確な足取りは分からなかったわ」
「でも、だとすると、ずいぶん遠回りをしたことになるよね」

 理真の言うとおりだ。階段を下りて現場に行くのであれば、捜査員たちがしたように、公園を一直線に突っ切るのが最短距離となる。茂みを経由するのは、遠回りになるうえ、歩きにくいということで、明らかに非効率だ。

「そうなのよ。それが、被害者の足跡に関する妙なこと、というわけ」
「何かしら、あの茂みを通らなければならない理由があったのかな? 何か探し物をしていたとか?」
「そういった感じは見受けられなかったわ。本当に突っ切っただけって感じの、一直線の足跡だった」
「遠回りをしてまで茂みを抜けた理由、か……」腕組みをし、長考に入るかと思われた理真だったが、ぶるると体を震わせると、「とりあえず、現場検証を済ませよう」

 丸柴刑事を促し、現場へと急いだ。

「足下に気をつけてね」との丸柴刑事の声に従って、理真と私は慎重に雪面を降りていく。県警本部でも聞いていたとおり、被害者――金居が弓矢で狙撃された川べりは、河川敷から少し低くなっているため、そこへたどり着くまでは、雪に覆われた傾斜を降りていく格好になり、必然、足下に注意せざるをえなくなる。落差二メートル程度の傾斜が終わり、水平を取り戻した地面は、川まで三メートル程度の幅の狭い空間となっていた。上下流は草木が繁茂しているため、開けた範囲は六畳程度のスペースしかない。川岸はすぐ崖のように切り立っている。水面との落差はそんなにあるわけではなく、一メートル強といったところか。

「被害者が吸った煙草が落ちてたんだよね」

 白い息を吐きながら、理真が訊くと、

「ええ。遺体の懐からは、開封済みで一本消費されている、同じ銘柄の煙草の箱とライターが見つかったからね。ここで一服つけていたところを、背後から弓矢で撃たれたと見られているわ」
「対岸から……」

 理真の視線は川側へ向いた。水面を挟んで見える対岸は、こちら側と同じ程度の広さの平地になっており、向こうのほうが若干低いようだ。距離は、なるほど、約八十メートルというのは妥当なところだろう。
 此岸に戻ってきた理真の視線は、雪面に残る不規則な足跡を追っていた。そのおぼつかない足跡は河岸まで続き、そこで雪が不自然に崩れている。被害者の金居が転落した痕跡だろう。その手前には背の高い草が伏している。この状況を見るに、

「金居さんは、草のこちら側にいたところを、対岸から矢を浴びて、よろけるように草を超えて川に転落したってことだね」

 理真の説明したとおりに思える。「そうね」と丸柴刑事も頷く。

「ということは犯人は、八十メートルという長距離に加えて、草の向こうにいて視認しづらいというハンデをものともせず、見事、金居さんの背中を射貫いたということになるね」
「ええ。しかも、たった一矢でね」
「そうか……」さらに現場周辺に目を走らせた理真は、「丸姉、これ、なに?」

 雪面についているひと筋の跡を指さした。雪面の途中から始まり、その一本の線は、川に落ち込むように雪面の縁まで続いていた。被害者の足跡を除けば、現場の雪面につけられている何かしらの跡は、その一本の線だけだ。他には小さな穴ひとつたりともない。

「分からない」丸柴刑事は首を横に振り、「何かを引きずった跡みたいに見えるわよね」
「そうだね。幅は……二十センチくらいか。それくらいの大きさの物が、引きずられて川に落ちた跡、って感じだね」
「引きずられてって言っても、引きずる先は川よ。何者かが川に入って、この雪面にあった何かを引っ張り落としたってこと?」
「引きずる先って言うなら、もう一箇所あるよ」
「もう一箇所って?」
「対岸」

 理真の視線は、川を越えて対岸に向いた。

「対岸……つまり、犯人がいた場所。犯人は、被害者を殺害しただけでなく、ここにあった何かを引っ張って川に落とした? 何を、何のために?」
「それはまだ分からないけれど……。丸姉、対岸にも行ってみていい?」
「もちろん」

 私たちを乗せた覆面パトは、数百メートル上流に架かる橋を渡り、さらに同じ程度の距離を戻り、対岸へ辿り着いた。こちら側の現場も自動車が入り込める場所ではないため、覆面パトは堤防付近に駐めたうえで歩いてきた。
 現場へ続く雪面には、二条の足跡が残されていた。川岸まで往復してきたもので間違いないだろう。靴底の跡がすべて一致している。

「この靴跡は、犯人の?」
「そう見られてる」理真の質問に答えて、丸柴刑事は、「なにせ、一致しているのよ、相川遙香さんの履いている靴と」
「最有力容疑者だという、弓道部部長の」
「そう。まあ、同じ靴を履いている人なんて、ここ胎内市だけに限っても何十人といるでしょうけれど、偶然で片付けるわけにはいかないでしょ」
「そうだね。じゃあ、この足跡は、相川さんのもので決まり? アリバイはともかく」
「それがね……」
「何か問題が?」
「歩幅が」
「歩幅?」
「ええ。相川さんの身長は百六十センチなんだけれど、それにしては歩幅が少し狭いかなって。彼女の身長からして、普通に歩いたのなら、もっと歩幅は広く取られると思うんだけどね」
「……なんだろう。わざと歩幅を狭めて歩いた? もしくは、そうせざるを得ない状態だったとか? たとえば、何か重いものを担ぎながら歩いていたとか」
「足跡は、相川さんの体重で歩いて適切な深さだったわ。歩行に難儀するほどの重量が加わっていたのなら、足跡はもっと深くなっていたはず」
「そうか……」
「それとね、行きよりも帰りのほうが、足跡の間隔は広くて、その周囲の雪も多く蹴散らされていたわ」
「つまり、走っていた」
「間違いないと思う」
「行きは歩いて、帰りは走った……」
「アリバイ工作に関係があるのかな?」
「そこまでは……。とりあえず、川岸に行ってみよう」

 草の間の歩行可能なスペースを縫うように、犯人のものと思われる足跡を注意深く避けながら、川岸に辿り着く。目の前に川が広がると同時に、「うおっ、眩しっ!」私は額の前に手で庇を作った。ほぼ太陽と正対する格好となったためだ。冬の日没は早い。現在時刻は午後三時半を少し回ったところではあるが、すでに日は西に傾きつつあった。向こう岸で確認していたとおり、こちらの岸のほうが若干低い位置にある。そのため、対岸の現場を見やるためには、視線を上向きにしなければならず、それがさらに太陽の光に視線をさらす結果となるため、私は手の庇に加えて目を細めなければならなかった。

「丸姉」と、理真も私と同じように手で庇を作りながら、「死亡推定時刻って、ちょうど今くらいの時間だよね」
「そうね」丸柴刑事も、右手で半ば顔を覆うようにして、「午後三時から四時だから……」左手首の腕時計に視線を落とし、「今は三時三十五分。まさに死亡推定時刻のほぼ真ん中ね」
「ということは、だよ。犯人には、さらなる悪条件が課せられることになるわけだよね」
「そうか、この逆光……。犯行日も今日と同じく快晴だったからね」

 犯人は、長距離と草の陰、さらに逆光というハンデを背負ったうえで、それでも犯行を成し遂げたということになる。少しは目が慣れてきて、対岸の様子を若干窺えるようになった。さっきまで私たちがいた対岸の落ちくぼんだスペースが見える。残っている足跡や、謎の引きずり跡まではさすがに視認不可能だが、草が生えている箇所があることは分かる。金居が向こう側で一服していたと思われる場所だ。視線を上げてみると、一本の高木が見て取れる。堤防の向こうに生えている木だろう。その木は、ちょうど私たちと太陽とを結ぶ線上にはあるのだが、冬には葉をすべて落としてしまう落葉樹の悲しさ、幹と枝だけとなっている骸骨のようなその体躯は、陽光をほとんど遮ってはくれなかった。
 理真は太陽に背を向けて、いま一度、雪面に残る相川の――ものと思われている――足跡に目を落としてから、

「丸姉、関係者たちに話は訊ける?」

 丸柴刑事を向いた。

「もちろん」と彼女も手の庇を下ろすと、「特に、相川さんからは、もう部活を引退していて時間の融通が利くから、何かあったらいつでも連絡してきていい、と了承を得ているわ」
「なんだか、挑戦的だね」
「警察の聴取でも、そんな感じを受けたわ。でも、その代わりにというか、他の部員への聴取は可能な限り控えてもらいたいとも言われた。特に、広瀬天音さんに対してはね」
「被害者が家に出入りしていたという生徒だね」
「そう。そして、それを理由に被害者を恨んでいる」
「かばっているって感じ?」
「うん、そんな印象は受けた。広瀬さんに聴取する際には、半ば強引に同席していたわ」
「その、広瀬さんが犯人という可能性は、ないの?」
「アリバイははっきりしていないし、被害者を恨んでいて動機もあるからね。当然、捜査はしたんだけれど、なにせ現場の状況が状況だから……彼女には犯行は不可能、とまでは言わないけれど、かなり難しいだろうというのが警察の見解ね」
「状況というのは、つまり……」
「そう、広瀬さんの弓矢の腕は、二十八メートル先の的――弓道競技の規定距離よ――に当てるのがやっとなのよ、とても……」
「その三倍近い距離の標的を射貫くことは不可能」
「そういうこと。ちなみに、わざと腕前を低く見せているという可能性はないと思う。四月に入部して以来、彼女が二十八メートル先の的に矢を当てられるようになったのは、つい最近のことらしくて、だとしたら、広瀬さんはこの犯行のために、一年近くも密かに弓矢の腕を磨き、しかし、部活や大会ではずっと技量の低さを演じていたことになるわ」
「計画が壮大すぎると」
「加えて、部活の顧問の先生にもそれとなく訊いてみたんだけれど、広瀬さんは自分の技量を偽ってなどいないだろうと。顧問も長年の弓道経験者だから、もし広瀬さんが、そんな不自然な所作をしていたのだとしたら、見抜かれてしまうと思う」
「なるほど……。広瀬さんには、動機はあるけれど、アリバイと犯行技量がない。逆に、相川さんは、動機はないけれど、アリバイと犯行技量は持っている、か」
「相川さんが、アリバイを確保したうえで、広瀬さんの代わりに金居さんを殺害した、と見るのが一番妥当でしょ」
「確かに」
「まあ、理真が聴取したら、また何か分かるかもしれないからね。相川さんのアポをとるわ。理真のことも話しておくわね」

 捜査に加わる民間探偵からの聴取を受けてもらえるよう、お願いするのだろう。スマートフォンを取り出した丸柴刑事を先頭に、冬の日差しを背中に浴びながら、私たちは現場を後にした。


第三章 板額御前のアリバイ

 相川が聴取の場所に指定してきたのは、彼女が通う北本高校近くのコーヒー店だった。私たちのほうが先に到着したため、聴取に適したテーブル席を確保したうえで、各々が飲み物を注文する。全然関係ないが、私は、この、コーヒー店での注文、というイベントが未だに苦手だ。〝イベント〟とは大仰に聞こえるかもしれないが、それくらいのハードルの高さだということだ。この手の店舗は、たいていレジ前に立ってから初めてメニューを知ることになる。店員さんと対面の状況で飲み物を選ばなければならない。客が私だけならばまだよいが(それでも私が選ぶ間、ずっと店員さんを拘束し続けているというのは気が引ける)、後ろに待機している客がいようものなら、恐らく私に与えられている時間は数秒が限界だろう。その刹那で、ただでさえ膨大なメニューの中から飲み物を選択しなければならないのだ。それを行うためには、極めて冷静で的確な判断力と決断力が求められる。「あれはどんな味がするんだろう?」などと悠長に吟味する暇などない。そして、飲料を決めただけでは戦いは終わらない。サイズの選択という第二ラウンドが待っているのだ。ここでも当然、目に馴染みのない英語表記の意味を捉えている暇などない。併記された価格で容器の大小を判断するしかない。ここでやっかいなのは、サイズが四種に設定されていることだ。三種類なら話は早い。つまるところ〝大・中・小〟というわけだ。感覚的に分かりやすい。なのに……四種類だと? 〝特大・大・中・小〟なのか、はたまた〝大・中・小・極小〟なのか? サイズ全体が大と小、どちらに依っているのか、このおしゃれな英単語による表記では判断がつかない。通常のサイズを飲みたいときに、中間二種のどちらを選ぶのが正解なのか、分からないのだ。ちなみに、商品やサービスに対してのアンケート調査を行う際、評価段階は偶数にするのがよいと言われている。奇数にしてしまうと、人は無難に中間の評価をしてしまいがちなため、顧客の正直な思いが反映されづらいというのだ。たとえば〝良い・普通・悪い〟という三つ(奇数)の選択肢があった場合、〝良い〟と〝悪い〟が選ばれづらくなるのは明白だ。特に〝悪い〟など、よほどのことでもなければ選ばれないに違いない。これを五段階にして〝やや良い〟と〝やや悪い〟を挟み込んだとしても、一番選択されるのが〝普通〟であることは変わらないだろう。そこで、中間評価の〝普通〟を抜いてしまって、〝良い・やや良い・やや悪い・悪い〟の四段階評価(偶数)にしてしまうわけだ。無難な(考え無しに)選ぶ〝普通〟がなくなることにより、回答者は商品やサービスに対して、どこか特筆すべき良い、あるいは悪いところはなかったか? と真剣に考慮したうえで回答してくれるようになるというのだ。つまり、こういったコーヒー店は、「考え無しにサイズを選ぶな。たくさん飲みたいのか、それとも少なくて良いのか、自分に訊いて答えを出せ」と客に覚醒を促しているのではないだろうか? 知らんけど。
 注文を済ませた私たちは、テーブル席について相川を待つ(結局私は、理真が注文し終えるのを待ったうえで、「彼女と同じものを」と覚醒から目を背けたのだった)。

 入店してきた女子高生に向かって、丸柴刑事が手を挙げた。向こうも気付いたようで、会釈を返してから、そのままレジに向かった。ドリンクを注文してから合流するのだろう。彼女が、最有力容疑者の相川遙香。ポニーテールに結った長い黒髪が歩くたびに揺れる。引き締まった体をしていることが制服越しでも伝わる。百六十センチだという実際の身長以上に背が高く感じられるのは、スリムな体型のせいもあるが、発している気迫の鋭さの成せる業か。なるほど、彼女であれば、八十メートル先の標的を弓矢――しかも初弾――で見事打ち抜けるだろうと納得させられる。
 相川が歩いてきた。手にしているカップは、私のホットキャラメルクリームミルクココアのカップ(恐らく最大サイズ)の半分程度の大きさしかなかった。

「こんにちは、相川です」

 と一礼してから相川は、丸柴刑事に促されて彼女の隣に腰を下ろした。対面する形で座る理真と私も自己紹介を済ませ、

「よろしくお願いします」

 そう言って理真が相川の目を見ると、

「探偵さん、ですか……」

 相川もまた、値踏みするように――いや、警戒するようにと表現したほうが適切か――理真の目をじっと見つめ返した。
 相川遙香。高校の制服を着ていることに違和感を憶えるほど、いやに大人びた印象を受ける少女だ。探偵から聴取を受ける緊張もあるのかもしれないが、その表情も鋭く、まさに武人のよう。建仁元年(1201年)に起きた“建仁の乱”の戦局のひとつ“鳥坂合戦”において、「弓矢の腕は百発百中で、中ったもので死ななかったものはいなかった」と歴史書『吾妻鏡』に記された、板額御前の異名をとるにふさわしく思う。ワトソンとしての経験上、彼女が犯人であるのなら、これは手強い相手になるな、と私は椅子の上で居住まいを正した。

「私が犯人だと、そう疑っているのですね」

 相川が口を開き、

「重要な参考人のおひとりだと伺っています」

 理真が応じると、

「残念ながら、私にはアリバイがあります」
「それも伺っています。宿題のことですね」
「はい。亡くなった方の死亡推定時刻は、三日前の三時から四時のあいだだと聞きました。私は下校から三時までは何人かの友達と一緒で、四時に帰宅した母親を玄関先まで出迎えています。お隣さんが目撃しているはずです。目が合いましたから。つまり、私がひとりで自由に出来る時間は、三時から四時の一時間しかないわけです。私の自宅から現場までは、自転車で片道三十分かかります。行って帰ってくるだけで精一杯です。さらに、私は三時三十分に宿題の解答を友達に送っています。もし、私が犯人なのであれば、宿題に手を付けられる時間は、現場へ行くまでの道中しかないことになります。しかも、自転車を走らせながらやらなければなりません」
「それは相当に難しい、というよりは、不可能なのではないかと思います」
「ありがとうございます」

 小さく会釈して、彼女はカップに口を付ける。中身はカフェオレだ。

「では、次に、現場の状況はご存じですよね」
「はい。何でも、胎内川の河岸から、対岸にいた人物を弓矢で射ったのだとか」
「その距離は、約八十メートルあったということも」
「伺っています」
「しかも、犯人は初弾で被害者を殺害せしめています。どう思われますか、弓道経験者として」
「…………」すぐには答えず相川は、思案するような表情を浮かべてから、「かなりの腕前の持ち主だと思います。しかも、昨日、警察の方から現場を見せていただき、話も伺いましたけれど、狙うべき被害者は草むらの向こうにいたそうですね。さらに、犯行のあった時間帯は、あの位置では太陽が真正面に来るため、逆光という悪条件が重なりますから、そういった条件下で標的を捉えるというのは、たいへん困難なことでしょうね」
「相川さんであれば……可能ですか」
「……不可能ではない、とだけお答えしておきます」
「凶器となった矢は、北本高校弓道部が使用しているものでした」
「それも、刑事さんから伺いました」
「北本高校弓道部に――いえ、弓道部に限定しなくとも――この犯行が可能な人は、どれくらいいらっしゃると思いますか?」
「そうですね……私だけなのではないでしょうか」

 あっさりと返答した。

「顧問の先生にも?」
「ええ、顧問の石原先生は、もうお歳で、若い頃のような飛距離は出せなくなった、とおっしゃっていましたから、恐らく、八十メートルの距離は厳しいのではないかと。部員の中には、矢を八十メートル飛ばせるものもいるでしょうけれど、初弾で確実に命中させられるかとなると……」
「では、犯行が可能な人物は、相川さんただおひとり、ということになりますね」
「そうなりますね。さきほど申し上げたように、アリバイがありますけれど」

 相川が微笑を浮かべたように見えた。

「話題を変えます」と、理真のほうは表情を崩さず、「亡くなった金居さんのことは、ご存知ですね」
「……警察の方から聞きました。天音――部員の広瀬天音の家に出入りしている、ろくでもない男だったそうですね」
「現在詳しく調査中ですが、反社会的勢力とも関係があったようです」
「よかったです」
「なにがですか?」
「その、金居という男が死んでくれてですよ」
「それは、どういう」
「天音にとってに決まってるじゃないですか。天音から何度か相談をされたことがありました。おかしな男が家に出入りしていて怖い、って。だから、死んでくれてよかったです」
「……その、広瀬天音さんは、金居さんのことを恨んでいたのですね」
「だからといって、天音じゃありませんよ」
「なにがでしょう」
「天音は犯人じゃありません」
「確か、広瀬さんにはアリバイがなかったということですが」
「関係ありません。犯行手段の話に戻ります。天音には無理なんですよ。彼女の技量では、そもそも矢を八十メートルも飛ばせません」
「そうですか……。こちらも話を被害者に戻しますが、金居さんと面識はありましたか」
「あるわけないじゃないですか。天音の相談を受けて知っていたというだけです。会ったことがないのはもちろん、顔も知りませんでした」
「そうですか」

 そこで、相川は店内の掛け時計を見やり、

「そろそろ、いいですか。用事があるもので」
「……ええ、かまいません。ありがとうございました」

 理真が会釈すると、相川も返し、残りのカフェオレを一気に喉に流し込むと、

「探偵さん、警察のかたも……私が犯人だと疑っているんでしょう」
「捜査に関することは、まだ」
「言葉を選ばなくてもいいですよ。分かっています。だって、犯行が可能なのは私ひとりしかいないんですから。でも……」相川は立ち上がり、「私を逮捕したいのなら、まず、アリバイを崩してみてください。話はそれからです」

 そう言い残すと、席を立ち店を出て行った。

「ずいぶんと挑戦的というか、自信満々だったね」

 速い足取りにあわせて、黒髪のポニーテールが後頭部で揺れる相川の背中を見つめながら、理真が言った。

「心証としては、断然“クロ”でしょ」

 と丸柴刑事もため息をつく。

「とはいえ確かに、犯人だと断定するためには、彼女に犯行が可能なのかを実証しないといけない」
「アリバイ崩し、だね」
「理真、これから、どうする? 金居さんの当日の足取りについての連絡は、まだ来ていないけれど」

 スマートフォンを確認しながら、丸柴刑事が訊いた。

「顧問と話が出来ないかな?」
「北本高校弓道部の、ね」
「うん。専門家から直接話を訊ければ、また違ったものが見えてくるかもしれない」
「分かった。アポを取るわ」

 丸柴刑事は、そのままスマートフォンで北本高校に電話をかけた。


 弓道部の顧問である石原教諭とアポイントメントが取れたため、私たちは北本高校を目指した。来客用駐車場に覆面パトを入れて降車する。私の最大サイズの容器に入れられたホットキャラメルクリームミルクココア(もはや“ホット”ではなくなっていたが)はまだ残っているため、当然カップは車内に置いていく。同じものを注文した理真は、コーヒー店を出た時点ですでに手ぶらだった。

 通された応接室で、私たちは石原教諭からの聴取を行うこととなった。

「相川さんが犯人なのでしょうか?」

 こちらが何も言わないうちに、まず、石原から訊かれた。痩せこけた顔に不安そうな表情を貼り付けている。年齢は五十代後半から六十代前半といったところか。口髭をたくわえた細身の体躯で、どことなく“達人感”を醸してはいるが、弓矢で八十メートルの飛距離はもう出せない、という相川の言葉には納得できるものがあった。

「まだ、犯人を断定できる証拠はありません」

 丸柴刑事が答えると、石原は安堵したようにため息を吐いたが、その表情から険しいものは消えなかった。

「警察からの話で、ご承知のことと思いますが」と石原の相手は理真に移る。彼にも民間探偵が捜査に加わることは知らされている。「犯人は、川を挟んだ対岸から矢を飛ばして被害者を殺害したものと思われています。その距離は約八十メートルで、打ち損じなしに一発で命中させたものと見られています。凶器に使用された矢は、ここ北本高校弓道部のものでした。つまり、犯人は、こちらの弓道部の関係者である可能性が濃厚なのですが……」

 少しの沈黙を挟んでから、石原教諭は、

「……相川さんしかいないでしょう。その条件すべてに当てはまるのは……」

 もう一度、やるせなさそうに大きく息をついた。

「では」理真は、項垂れた石原に向かって、「初弾で命中という精度は抜きにして、八十メートルの飛距離を出せる部員と限定したら、いかがでしょうか?」
「そうなると、候補はぐっと増えると思います。三年生の部員――正確にはもう部活は引退していますが――なら、全員があてはまるはずです」
「一、二年生は、そうではない?」
「全員、というわけにはいきません。やはり、まだまだ」
「一年生の広瀬天音さんは、いかがでしょうか?」
「広瀬さんですか……」その名前が出ると、石原は若干さらに表情を曇らせた。彼女が被害者の金居を恨んでいた、つまり、殺害動機を持っていたことは知らされているためだろう。「いえ、彼女には無理でしょう。競技で求められる二十八メートルの飛距離も、最近になってようやく出せるようになったほどですから」
「そうですか。それでは次に、部長――すでに引退されていますが――の相川さんについて、訊かせていただけますか? どのような人物なのでしょう」
「面倒見のよい生徒です。昨年、彼女が部長に就任する際にも、満場一致での選出でした。他の部員たちに頼られていて、部活動、私生活問わず、よく相談を持ちかけられていたようです。下級生からだけではなく、同級生からもそうでしたね。相川さんは、弓道部において頭ひとつ抜け出た存在だったといえます」
「弓矢の腕前と、ここが胎内市であることから、板額御前のあだ名を付けられていたとか」
「ええ。でも、彼女自身は、その名前で呼ばれることをあまり歓迎していない感じでしたね」
「照れのようなものがあったということでしょうか?」
「いえ、本心から歓迎していない様子に見えました。自分は自分と、確固たる価値観を持っている生徒でしたから、いくら郷土の英雄とはいえ、他人の名前で呼ばれることは本意ではないと思っていたのではないでしょうか」
「そうですか。ありがとうございました」

 石原への聴取は終わり、ついでに(と言っては何だが)相川の担任教師にも話を訊いた。当日出された宿題について、事前に他者に内容が漏れることは絶対になかった、と断言され、その宿題を三十分で完了したことについては、「相川なら可能でしょう」と太鼓判を押していた。相川遙香は、文武両道を絵に描いたような生徒らしい。


第四章 被害者の足取り

「訊けば訊くほど、犯人像は相川さんに絞り込まれていくわね」

 来客用玄関を出て、丸柴刑事が言うと、

「だね。これはもう、余計なことは考えずに覚悟を決めて、アリバイ崩し一本に方針を絞ったほうがいいかもね」

 理真も腕組みをして唸った。

「崩せそうなの? 理真」
「まだ分かんない」
「期待してるわ。で、これからどうする?」
「そうだね……弓道部員からも話を訊きたいところなんだけれど」「近くで殺人事件があったから、部活動は全面中止になったみたいね。もうほとんどの生徒は下校してるでしょ。また日を改めて来ようか」
「そうだね」

 と理真が答えたところに、

「あの、すみません……」

 声をかけられた。立ち止まって見ると、二人の女子生徒が、警戒するように身を寄せ合っていた。

「け、警察の方、ですか?」

 二人のうち、背が高いほうの生徒が訊いてきた。丸柴刑事が「そうです」と答えると、

「やっぱり……。学校に警察が来たとき、そちらの方がいらっしゃったのを憶えていたもので」と、丸柴刑事に手を向け、「……刑事さんとは思えないくらい美人だったから」と記憶に残っていた理由も口にすると、ありがとうございます、と丸柴刑事は笑みを浮かべた。まあ、その丸柴刑事評に異論を唱える人間は、この宇宙にひとりもいないに違いない。

「そちらのお二人も……?」

 と女子生徒は、理真と私にも視線を向けてきた。丸柴刑事は、こちらは探偵とワトソンだと紹介すると、「探偵ですか?」と、女子生徒は二人そろって目を丸くしていた。私たちのことも、“美人の探偵とワトソン”と憶えてくれてもかまわんよ、と私は心の中で呟いた。

「何か、ご用ですか?」

 丸柴刑事が問いかけると、

「あっ、あの……もしかして……相川先輩のことで……?」
「相川遙香さんの、ご友人ですか?」
「あっ、はい。わ、私たち、弓道部で――い、いえ、私は三年なので、もう引退しているんですけれど……」

 渡りに船とはこのことだ。まだ校内に残っている生徒がいて、それが弓道部員。さらに向こうから話しかけてきてくれるとは、渡ろうとして出会った船が豪華客船だったようなものだ。

「よかったら、話を聞かせてもらえる?」

 記憶に残る美人刑事からの頼みを、二人の女子生徒は了承した。

「私、三年の栗林小夜子です」

 話しかけてきた背が高いほうの女子生徒が自己紹介した。背が高い、と言っても、今のそれは、隣に立つもうひとりの生徒との比較から相対的に表現しただけだ。実際の身長は、恐らく百五十前後といったところで、今の高校三年女子の平均身長には届いていないだろう。続いて、比較対象となった、その低身長のほうの生徒が、

「い、一年の……広瀬天音です……」

 その名を聞き、理真と丸柴刑事の表情に微妙な変化が生じたのが分かった。広瀬天音。先ほどの石原教諭との聴取でも名前の出た、被害者である金居を恨んでいたとい弓道部員だ。その広瀬は、続けて、

「あ、あの……相川先輩が、は、犯人……なんですか……?」

 不安そうな顔と、震える声で訊いてきた。

「事件はまだ捜査中です。犯人が特定できたわけではありません」

 丸柴刑事の返答にも、広瀬は表情を変えないまま、

「で、でも、疑っているのは、た、確かなんですよね……?」
「……どうして、そう思うの?」
「だ、だって……犯人は、川を挟んだ向こうにいた人を、弓矢で殺したって……。距離は八十メートルもあって、殺した人は草むらの向こうにいたんですよね。そんな悪条件なのに……一発で。そんな腕前の人なんて、相川先輩しか……」
「警察でも、そういった情報をもとに捜査をしていますけれど」
「じゃ、じゃあ、やっぱり……相川先輩……わ、私のために――」
「違うよ! 天音!」

 隣に立つ栗林が、広瀬の両肩を掴んだ。

「広瀬さんのために、とは、どういうことでしょう?」

 質問者は理真に変わった。

「私、あいつのことを、相川先輩に相談したことがあったから、それで……先輩、本当に……」
「本当に、って、相川遙香さんが、あなたにそういう約束をしてくれたことがあったのですか? 自分が、広瀬さんの家に出入りしている悪い男を何とかしてあげると?」
「そ、そういうわけじゃ……」
「とにかく違います!」広瀬と理真のあいだに、栗林が割って入ってきた。「遙香は……犯人じゃありません!」
「どうして、そう思うのですか?」
「遙香には……アリバイが、あるんですよね……」

 そんなことも生徒間に知られているのか。相川自身が教えたのだろうか。さらに、栗林は、

「あの男が死んだ時間、遙香はずっと家にいたって、宿題をやっていたっていう、完璧なアリバイがあるんですよね。だから……遙香が犯人のはずがない……。刑事さん、探偵さん、あの男を殺した犯人は、別にいるんです。だから、そいつを早く捕まえてください。お願いします」

 栗林は深く頭を下げ、目に涙を浮かべた広瀬もそれに倣った。顔を上げると、栗林は、

「それだけ言いたくて……すみません。行こう、天音。あまり遅く学校に残ってると、先生に叱られる」

 栗林が広瀬の手を引くようにして、二人は私たちの前から去って行った。

「犯人は別にいる、か……」覆面パトの車内に戻ると、運転席で丸柴刑事が、「相川さんのアリバイが崩せなければ、そっちが本命になるってわけだけれど、なにせ、犯行手段がね」

 八十メートル先の標的を、弓矢一発で殺しめるという、極めて専門的、かつ、テクニカルな殺害手段。この問題がクリアされない限りは……。

「何か、機械を使ったんじゃないですか?」後部座席から身を乗り出して、私は、「たとえば、高精度の矢の発射装置なんかを用意して」
「現場には、犯人のものと思われる足跡しか残っていなかったんだよ」助手席の理真が顔を向けて、「機械を持ち込んだような痕跡は見当たらなかった」
「うーん……」
「それとさ、犯人はどうあれ、どうして金居さんは、あんな川岸のスペースに行ったりしたのか、その謎も大きいと思うんだよね。しかも、堤防の階段を下りて公園を横切れば早いものを、わざわざ迂回したっていうのも謎」
「木の茂みを経由したんだったね。犯人に呼び出された?」
「茂みに迂回することも、犯人の指示だった?」
「……わけが分からない」

 私が頭を捻ったところに、スマートフォンの着信音が車内に響いた。丸柴刑事のものだ。応答した丸柴刑事は、何も喋らずに聞くことに徹している。何かの情報が入ったのだろうか。二、三分の通話を終えた丸柴刑事は、

「当日の金居さんの足取りが分かった」と理真と私に告げ、「午後三時っていうから、死亡推定時刻のまさに直前だね、金居さんは、現場近くのスーパーで買い物をしている」
「何を買ったの?」

 理真が訊くと、

「ウイスキーの小瓶とつまみ、それと、煙草だって」
「煙草は、所持していたよね。じゃあ、ウイスキーとつまみは?」
「現場には残されていなかった。そこに行くまでに飲食し終えていたとか?」
「いくら小瓶っていっても、ウイスキーってそんな短時間で飲みきるようなもの? ちびちびと味わうものじゃない?」
「確かに。買い物から死亡推定時刻の下限まで、一時間しかないもんね」
「そのスーパーから現場までは、どのくらいかかるの?」
「分からない。調べてみる必要があるわね。〈コーポアップル〉っていう店よ。カーナビで出てくると思う」

 丸柴刑事がカーナビを操作すると、果たして、その店は登録されていた。地図上から判断するに、コーポアップルは、まさに現場すぐ近くに位置している。

「現場から本当に近いね」

 カーナビの画面を見ながら理真が言うと、

「そうね」と丸柴刑事も、「歩いて、十五分てところかな」
「それじゃあ、死亡推定時刻の上限は、午後三時十五分まで繰り下がるね」
「そういうことになるわね」

 下限の午後四時まで、四十五分しかなくなる。とりあえず行ってみよう、と、丸柴刑事が駆る覆面パトは、目的地に設定したコーポアップルに向かって走り始めた。

「ええ、確かに、その日のその時間、こちらのお客様が買い物をされていかれました」

 コーポアップルの店員は、丸柴刑事が提示した金居の写真を見て断言した。先に金居の足取り捜索班からの聴取を受けて、同じ質問をされているはずだが、面倒くさがることなく、その若い男性の店員は答えてくれた。時間は午後三時四分だという。そこまで正確な時間が分かるのは、レシートの記録を参照したためだ。平日の午後三時台というのは客足がまばらな時間帯のため、お客の顔が店員の記憶に残りやすかったことが幸いした。

「そのお客さんは、購入品をどのように持ち帰ったのでしょうか? 持参していた買い物袋に入れたのですか?」

 理真が質問すると、

「いえ、買い物袋はお持ちでなかったので、当店の紙袋に入れてお渡ししました」

 見せてもらえますか? と理真が請うと、店員は一枚の紙袋を手渡してきた。よくある茶色の紙袋で、両面に大きくリンゴのイラストが描かれている。ここ〈コーポアップル〉のマークだ。その下には店名ロゴが併記されている。理真が袋の口に手を入れて膨らませ、実際に中に購入品を入れたような状態を再現させると、袋は平面から、いびつな直方体の立体へと変化する。袋は紙を表裏合わせただけの構造ではなく、買い物袋として多くの物品を入れられるように、奥行き、いわゆるマチが出来るよう形成されているためだ。その袋を眺めて理真は、

「……二十センチくらいだね」
「なにが?」
「袋の幅」

 言われてみると、確かに直方体となった袋の幅は、おおよそ二十センチ程度に見える。二十センチ……つい最近聞いたことのある寸法だが。

「あ、現場にあった跡」

 丸柴刑事の発した声で私も思い出した。そうだ、金居がいた側の川岸に残されていた、雪面を走る一本の線。雪面の一点から始まり、川に落ち込むように川縁に消えていたのだが、その線の幅が二十センチくらいだった。

「そのお客さんが買ったものを、袋に入れてもらえますか? 煙草以外で」

 さらなる理真の要請に、店員は店内を走り、小瓶のウイスキーとつまみ数点を抱えて戻ってきた。それらの商品を入れたうえで、袋を持ち上げた理真は、

「うん、これくらいなら、全然いけると思う」

 重量を確かめるように、袋を上下させた。
 ありがとうございました、と理真は、せっかくだからと、袋に入れたつまみと、理真はウイスキーは飲まないので、代わりにホットの缶コーヒーを合わせて購入した。
 店を出て、今の理真の行動の意味を訊こうとしたところに、再び丸柴刑事のスマートフォンが鳴った。応答した丸柴刑事は、またも一方的に聞き役に回っている。新たな情報がもたらされたのだろう。

「丸姉、今度は、なに?」

 するめをしゃぶりながら理真が訊くと、

「被害者の金居さんについて分かったことがある」スマートフォンをしまいながら丸柴刑事は、「やっぱり、反社と繋がりがあったことが確実になったわ。違法な薬物取引の仲介役なんかをやってたんだって。でね、金居さんは、その売り物を正規の価格――っていう言い方は変だけれど、まあ、反社連中が取り決めた価格ね――以上の値段で顧客に売りつけて、その上澄み分を自分の懐に入れていたってことがあったらしく、それが上にバレて、追われてる身だったっていうのよ」
「それって、いわゆる、捕まったら“消される”って感じのやつですか?」

 理真の持つ袋から、私もするめをひと切れ失敬して訊くと、

「そうね。命まで取られるかは分からないけれど、愉快な結果にならないことだけは確かでしょうね」

 答え終えた丸柴刑事も、するめをひと切れ摘まんだ。

「じゃあ、今度の事件は、その反社の仕業という可能性も?」
「それにしては、殺し方がね……」
「そうですよね。しかも、使われた凶器が高校弓道部の弓矢っていうのも……」
「ねえ」と、そこに理真が、「もう一度、現場に行ってみようよ」
「金居さんが殺されたほうのね」

 私たち三人は、噛めば噛むほど味わいの広がるするめの咀嚼音を鳴らしながら、覆面パトに戻った。

 フロントガラスの向こうに胎内川の堤防が見えてきた。その近くに一本の高木が立っている。あれは、対岸から望めた背の高い木だな。こうして近づいて見ると、その木の高さがより実感される。種類は分からないが、高さ三十メートルは超えているだろうか。対岸から見たように、落葉樹であるその木には、今の季節は当然ながら葉の一枚も残っていない。骨組みのように曲がりくねった枝が寒々しい姿をさらしているだけだ。

「――丸姉、ストップ」

 助手席の理真が声をかけ、運転席の丸柴刑事はブレーキペダルを踏んだ。ハザードを点滅させて停車した覆面パトから降りた理真は、その、今しがた私が見ていた高木に向かって歩いて行く。何かあったのだろうか? 私と丸柴刑事も降車してあとを追う。

「この木って、対岸の現場から見えてた木だよね」

 木を見上げて理真が言う。やはり、理真もこの木のことを承知していたのか。

「そうだね。でも、それがどうかしたの?」

 訊くと、理真は木の根元を指さして、
「雪が」
「雪?」

 見ると、確かにその木の根元には。雪がうずたかく積まれていた。道路からの除雪が押しつけられたという感じではない。雪は木の幹を取り囲むように同心円状に積もっているのだが、その一部に雪のない不自然な空間があった。まるで、その一箇所だけ除雪がされたかのような。

「何だと思う?」

 理真は、雪の中に不自然に空いた空間を指さし、私たちに訊いてきた。丸柴刑事と顔を見合わせてから、私が、

「なんだろう?」

 分からないので、素直に首を傾げた。

「たぶんだけどさ」と理真は、「この木に車が衝突したんじゃない?」

 言われてみれば、その雪に空いた空間の幅は乗用車のそれと同じくらいだ。理真は、さらに、

「こういうことだと思う。木に車がぶつかる。で、その衝撃で、この木の枝に積もっていた雪が落ちてきたんじゃない? 車はその落ちてきた雪に埋まったけれど、自力でバックしてか、レッカー車の力を借りてか、雪の中から脱出した」
「あ、この空間は、衝突した車があった痕跡か」

 よく見てみれば、うっすらと雪の残る地面には、車がつけたと思われる轍も確認できる。

「交通課に問い合わせてみるわ」丸柴刑事がスマートフォンを架電し、数十秒後、「理真の言ったとおりだった。凍結路面でスリップした車が、この木にぶつかった事故があったって。しかもね、その日時というのが――」
「事件のあった日の、午後四時以降でしょ」
「当たり。事件当日の午後六時だって」
「ということは、だよ。事件当日の午後六時までは、この木の枝は、雪が積もった状態にあったというわけだ。今みたいな、枝ばかりの寒々しい姿じゃなくって」

 理真につられて頭上を見上げれば、相変わらずの骨組みのような枝を通して、雲のかかった灰色の空が透けて見えている。視線を下ろすと、理真は指で唇に触れていた。するめをかじっているのではない。これは、理真が推理をめぐらせるときの癖なのだ。

「丸姉」黙考を経て、唇から指を離した理真が、「やってほしいことがあるんだけど」
「何でも言って」
「川の底をさらってほしい」
「川の底? 範囲は?」
「現場から、そうだな……数十メートル下流くらいまで。現場辺りは水深が深くなくて、流れも緩やかだから、そんなに流されているということはないと思う」
「分かったわ。それで、何を探せばいいの?」
「それはね……」


最終章 矢が貫いたもの

 翌日の午後三時半。私たちは再び現場となった川岸を訪れた。犯人が矢を射った側のほうだ。今朝から開始された川底の捜索によって、理真が指定したものが発見されたことで――現場から十メートル程度下流で、それは発見された――理真の推理が組み上がったためだ。時間がちょうど被害者の死亡推定時刻の中心――すなわち犯行時刻――になったのは奇妙な偶然だ。
 ここにいるのは、理真、私、丸柴刑事の三人に加えて……

「私のアリバイを崩せたということですか? 探偵さん」

 挑戦的に理真を見る、相川遙香――さらに、その両横には、不安な表情で相川と理真に視線を往復させている、広瀬天音と栗林小夜子の姿もあった。理真は犯人だけを呼び出そうとしたのだが、連絡をとった折り、たまたま他の二人も一緒で、「三人一緒でなければ応じない」と抵抗されてしまったため、こうして三人の弓道部員を前にすることになったのだ。

「アリバイ、ですか」応じた理真は、「いえ、崩せていません」

 相川の表情が若干弛緩したように見えた。が、

「というか……崩す必要なんてない……いえ、崩せるわけがないんです。だって、相川さんのアリバイは、本物ですから」
「――えっ?」

 理真が継いだ言葉を聞くと、その表情には再び陰がさした。

「つまり、金居さんを殺害した犯人は、相川さんではありません」

 言い切った理真の前で、一瞬相川は唇を噛んだが、
「ま、待ってよ。じゃあ、誰がやったっていうのよ。見て――」対岸を指さし、「ここから向こう岸までは、八十メートルもあるって話よ。この距離に矢を届かせて、さらに一発で命中させられる人間なんて、少なくとも部員の中には私しかいないわ」

 対岸に顔も向けた相川だったが、すぐに視線を逸らした。その理由は明白だ。この時期の、この時刻、この場所から対岸を見やると、傾きかけた太陽とほぼ正対してしまうためだ。例の枝ばかりとなった落葉樹を透かして、眩しい陽光が目に突き刺さる。

「しかも、さらに悪条件は重なってるわ」と、理真に視線を戻した相川は、「被害者は草むらの向こうにいて、犯行時刻はちょうど今頃の時刻だったそうだから、ご覧のとおり、逆光を受けての射撃に――」
「そこです」

 理真の声に言葉を止めた。口を半開きにしたままの相川に向かって、理真は、

「相川さんは、昨日に話を伺ったときにも、同じことを口にしていましたね。犯行に際して、犯人には『逆光という悪条件が重なる』と」
「……それが?」
「どうして、そう思われるんですか?」
「どうして、って……分かりきったことじゃない。いま実際、こうしてこの場所に立って対岸を見たら……」

 視線は理真に向けたまま、相川は対岸を、そちらの空に昇っている太陽を指さした。

「それが、違うのです」
「違うって……なにが?」
「犯行時、対岸を弓矢で狙っていた犯人は、逆光を受けてはいなかったんです」
「……はあ? そんなわけがないわ。だって、犯行があった日も、今日と同じように晴れていたはずだし……」
「ええ、そこに間違いはありません。犯行日からずっと、胎内市は晴れが続いています。雲がかかる時間帯もありましたが、それは朝や夜だけでした」
「だったら……」
「でも、逆光ではなかったのです。犯行の日時、対岸に弓矢の狙いをつけていた犯人と太陽とのあいだには、陽光を遮る遮蔽物があったためです」
「遮蔽物……?」
「はい。それは、雪です」
「雪……?」
「ちょうど」と理真も対岸に指を向け、「ここと太陽とを結ぶ線上に落葉樹がありますよね。犯行時、あの木には雪がかぶっていたのです。その雪により陽光が遮られていたため、犯人には逆光というハンデは課せられていなかったのです。現在、ご覧のとおり雪はありませんが、それは、犯行日の午後六時、凍結した路面でスリップした車が、あの木に衝突し、その衝撃で雪がすべて落下してしまったためです」
「…………」
「ですが、相川さんは、犯行時、犯人には逆光というハンデがあった、と言いました。それは、相川さんがこの現場に来て、現場状況を確認したのは、犯行がなされて以降、すでに木に積もっていた雪が落ちたあとだったからです。だから、相川さんは、犯行時には犯人も同じように逆光を浴びていたに違いないと、そう思ってしまったわけですね」
「…………」数秒間、痛恨したような表情を滲ませていた相川だったが、「も、もちろん、犯行時には、あの木に雪があったことは分かっていたわよ。その後、警察と現場に来たとき、その雪がなくなって、ここが逆光に晒されていることを知ったから、どうせなら、犯行の条件に逆光も付け加えたというだけよ……」
「犯行手段のハードルを上げて、さらに容疑を自分に向けるために、ですか」
「そ――」

 開きかけた唇を、相川はすんでのところで閉じた。そうよ、などと口にして、今の理真の言葉を肯定するということは、自分は犯人ではないと認めてしまうことになると気付いたのだろう。

「だ、だから、どうだっていうのよ」再び闘志を露わにした相川は、「逆光があったにしろなかったにしろ、犯人が一発で被害者を殺したことは揺るぎない事実のはずよ。そんなことが出来るのは、やっぱり私しかいないわ」
「それに間違いはないでしょう」

 理真が素直に認めたことに拍子抜けしたのか、相川は安堵したようなため息を吐いてから、

「じゃあ、やっぱり、私のアリバイを崩さないと……」
「でも、対岸に矢を届かせられる部員は、相川さんひとりに限りませんよね」
「それは……」
「顧問の石原先生に伺いました。一、二年生は何名か、三年生ならば全員が、八十メートルの飛距離に矢を届かせることは可能だろうと」
「だから」いらいらしたように、はあ、と嘆息した相川は、「同じことでしょ。いくら矢を飛ばせたって、狙った的に一発で命中させられるのは――」
「狙っていなかったのではないでしょうか」
「――――!」

 相川は、息を詰まらせ、目を見開いた。理真の声は続き、

「犯人は、確かにここから対岸に向けて矢を射りましたが、その矢は、被害者の金居さんを狙ったものではなかった。全然別のものを狙って放たれ、しかし目標を逸れた矢が、たまたま草陰で喫煙していた金居さんに中ってしまったというだけです。その矢を放った人物、すなわち、犯人は……」
「やめて!」

 相川の鋭い――矢のような――声が響いた。その隣で、弓道部員の栗林小夜子は、脚を震わせ、目に涙を溜めていた。その肩を、相川がそっと支える。
 昨日、学校で栗林と広瀬から話を訊いたとき、栗林は殺害手段についての悪条件として、八十メートルという遠距離と、標的が草陰にいたということは口にしていたが、逆光のことには触れていなかった。それは、犯行時、対岸の木には雪が積もっており、彼女自身が逆光というハンデを受けていなかったためだ。加えて、三年生の栗林は、矢を対岸に届かせる技量を持っていたはず。が、そのことを指摘するまでもなく……

「ごめん……遙香……ごめん……」

 栗林は泣き崩れ、相川に抱き留められていた。
「私です……私が……」
「――バカ! 何も言っちゃ駄目!」

 嗚咽のあいだから漏れる栗林の告白に、相川の声が被せられる。その隣では広瀬が、信じられない、といった呆然とした顔で、二人の先輩を見つめていた。やはり、目には涙を浮かべて。

「栗林さん」冷静な口調を崩さないまま、理真は、「ただの散歩だったのか、自分だけの憩いの場として以前から訪れていたのか、それは分かりませんが、ともかく、犯行当日、あなたはこの川岸に来ました。部活帰りだったのでしょう、弓と矢も持参している状態でした。そうして川岸に佇んでいたあなたは、対岸にあるものを目にし、腕試しでも、と思ったのでしょうか、それを弓矢で狙い撃ちしてみようという気になったのですね。付近に人はいない。矢はあとで回収すればいい。あなたは弓矢を取りだして構え、対岸に狙いをつけました。栗林さんが狙った“あるもの”というのは、地元スーパー〈コーポアップル〉の紙袋です。その紙袋が、対岸の雪面にあるのが見えた。あんな場所に人がいるとは思えませんから、その紙袋は、誰かが捨てて風で運ばれてきたものだろうと、そう思ったのですね。どうして、栗林さんが、そんなものを狙い撃ちしてみようという気になったのか、理由は、その紙袋のデザインにありました。コーポアップルの紙袋は、その店名に由来して、大きくリンゴが描かれています。さしずめ、ウイリアム・テル、といったところでしょうか。ウイリアム・テルが使用していた武具は、弓矢ではなくクロスボウでしたが、とにかく、矢で狙い撃ちしてみよう、という気にさせる道具立て、シチュエーションだったわけです。
 矢をつがえ、弦を引き絞り、対岸に向かって放たれた矢は、しかし、目標を大きく外し、草むらに飛び込んでしまいました。が、目標を外した、というだけで話は終わりませんでした。その、矢が飛び込んだ草むらから、人がまろび出てきたのです。いましがた放った矢を、背中に刺した男の人が……」

 そのときのことを思い返したのか、栗林は固く目をつむり、より強く相川に抱き寄せられた。その様子を目にしながら、理真の推理は続く。

「男は、そのまま川に落水しました。いったい何が起きたのか、自分が何をしてしまったのか、栗林さん、あなたはすぐには理解できなかったでしょう。冷静になり、状況を理解してしまったあなたは、すぐにその場を走り去りました。そして……恐らく、その日のうちに、信頼する部長の相川さんに、そのことを打ち明けたのではないですか? 自分が誤って、弓矢で人を射殺してしまったということを」

 栗林の肩を抱きつつ、相川は理真を見た――いや、睨んだ。その視線をまっすぐに受け止めたまま、理真は、

「事の次第――現場状況と、栗林さんが過失により人を殺してしまった様子――を聞いた相川さんは、ある計画を思いつきます。自分が栗林さんの罪を被るという計画です。とはいっても、自分が身代わりに自首するというような類いのものではありません。警察に犯人は自分だと誘導しつつ、しかし、絶対に捕まらないという計画です。
 凶器が学校弓道部で使用されている矢であれば、すぐに警察の目は部員に向けられることになる。対岸までの距離は約八十メートルで、初弾の誤射による命中ですから、状況だけ見れば犯人は一発で被害者を仕留めたことになります。加えて、死んだ男性がいた場所は草が遮蔽となっていた。こんな条件下での殺害手段が可能な人物となると、北本高校弓道部で該当するのは自分以外にいない。が、その自分には、犯行時刻に宿題をやっていたという鉄壁のアリバイがある。このアリバイを崩さない限り、警察は自分の犯行だと証明することは不可能だろうと。この、相川さんが持つアリバイというものが、傷ひとつない完全無欠なものではなく、栗林さんが矢を射った午後三時半を中心に、前後三十分間の一時間ひとりでいたという、トリックで何とかなるのではないか? と疑念を思い起こさせる絶妙なものであったことも幸いしましたね。だからこそ、この計画を実行する決心がついたのでしょうけれど」

 理真はひと息ついた。一陣の風が吹き付け、彼女の長い髪を揺らす。風音が過ぎると、そこには栗林と広瀬のすすり泣きだけが聞こえていた。理真の声が再び重ねられる。

「犯行の様子を聞き、栗林さんの罪を被ることが可能だと判断した相川さんは、計画を栗林さんに聞かせ、すべて自分に任せろ、と言い含めます。が、計画にはひとつだけ懸念がありました。栗林さんが本来の標的にしようとしたという、対岸にある紙袋です。現場近くの〈コーポアップル〉の紙袋。そこには、大きくリンゴが描かれています。それが残ったままでは、もしかしたら警察が、“犯人は本当はこの紙袋を射貫こうとしたのだが、狙いが逸れて被害者を殺してしまったのでは?”という疑い――それが真実なのですが――を持ってしまうかもしれない、という懸念です。そうなったら、犯行は過失によるもの、という可能性が浮上してきますから、“一発で標的を仕留めるほどの腕の持ち主”という、犯人条件のひとつが消えてしまうことになります。紙袋のひとつくらいで、と考えすぎのようにも思いますが、なにせ、その紙袋に描かれているものがものです。リンゴ。そして、凶器が矢。この二つが組み合わされば、“矢でリンゴを射る”という、ウイリアム・テルでおなじみのあまりに有名な逸話が想起される可能性はじゅうぶんにありますからね。そこで、相川さんは、その懸念を払拭することにしました。栗林さんから話を聞いたのはもう夜です。この季節、早朝はまだ薄暗く、学校の授業もあります。証拠隠滅の計画を実行するのは、翌日の放課後になってからと決めました。
 対岸へ行って紙袋を回収するという手段をとるわけにはいきません。そんなことをしたら、自分の足跡が残ってしまいます。そうなると、犯人も被害者側の岸にいたことになってしまい、“対岸からの弓矢による殺害”という犯行手段が崩れてしまいますからね。
 そこで、相川さんは放課後、弓と矢、そして、百メートル程度のロープを用意して現場に赴きました。現場へと至る雪面には、栗林さんが往復した足跡しかついていません。相川さんは、自分の犯行に見せかけるため、現場へは、その栗林さんの足跡を踏み、新たに自分の靴の足跡を上書きする形で往復しました」
 栗林の身長は相川よりも低い。相川の身長から換算すれば狭すぎた、という足跡幅の謎の答えが、これだ。

「川岸に辿り着いた相川さんは、矢筈(矢の端の弦を受ける部分)にロープを結びつけた矢を弓につがえ、対岸に向けて弦を引き絞ります。狙うは、もちろん、コーポアップルの紙袋です。その紙袋を射貫き、ロープを引いて回収するのです。失敗は許されません。なにせ、自分を犯人とする犯行条件のひとつが、“一矢で標的を仕留めた”という技量にあるのですから、ここで狙いを外してしまい、対岸に矢が刺さった痕跡を残すことは絶対に避けなければなりません。狙いが八十メートルの先にある小さな紙袋であることに加え、相川さんにはさらなる悪条件が重なりました。逆光です。栗林さんが矢を射ったときには、対岸にある高木に雪が積もっていたため、それが陽光の遮蔽となっていたのですが、折り悪く、犯行日の夜に車がその木に衝突するという交通事故があり、その衝撃で、積もっていた雪がすべて落ちてしまっていたのです。木の枝を透かして射るように差し込んでくる太陽の光を、もろに浴びながらの射撃となってしまいました。が、相川さんは難業を成功させました。放たれた矢は紙袋を見事に射貫いたのです。あとはロープを引いて矢と紙袋を回収するだけですが、袋の中には、ウイスキー瓶という重量のある物品が入っていたため、対岸まで引き寄せることは不可能でした。ロープに引かれて雪面を滑る紙袋は、川縁に到達すると、そのまま川に落水してしまったのです。ですが、それでも現場から紙袋を取り除くという目的は達したわけです」

 理真の要請によって行われた川さらいで発見されたものが、そのウイスキー瓶だった。被害者がコーポアップルで購入したものと同一商品で、水没期間が短かったことから、被害者の指紋も消えずに検出されている。

「その日の夕方、下流の公園に漂着していた死体が発見され、身元も明らかになるわけですが、それによって、死体が部員の広瀬さんと関わりのある人物だったという偶然も、これが相川さんの犯行であるという信憑性を補完する結果となりました。広瀬さんから、被害者のことを相談されていた事実があったからです。それにより、“後輩とその母親を守るため”という犯行動機も生まれました。以前からの相川さんの正義感あふれる言動も、その動機に説得力を持たせたことでしょう。どうやって相川さんが面識のない被害者を現場に来させたのか、という謎は残りますが、それも犯行の不可解性を濃くして捜査を混乱させるわけですから、かえって好都合だと相川さんは思っていたのではないでしょうか」

 被害者の金居が、あんな辺鄙な場所にいた、そして、わざわざ木の群生する茂みから遠回りして行った理由。それは、コーポアップルでの買い物の帰路に偶然、仕事で不義理をした暴力団構成員と鉢合わせてしまったためだ。組対に協力を仰いでの聞き込みにより、事件当日、現場近くで金居を目撃した構成員に辿り着き、証言が得られた。その構成員は偶然に金居を見つけ、追いかけようとしたのだが、同時に金居のほうもその構成員に気付いたらしい。金居は川の方向に逃げ去り、構成員もそれを追ったが、堤防の辺りで見失ってしまったという。恐らく、金居は雪に残る足跡を追跡されてしまうことを避けるため、足跡を隠せる茂みをわざわざ通ったうえで、身を隠せる落ちくぼんだ川岸に逃げ込んだのだろう。追っ手を撒いてひと息ついた金居は、紙袋を地面に置き、川に背を向けて草陰で一服つけていた、そこに――突如、矢を浴びてしまったのだろう。
 再び風が吹き付ける。相川は、頬にからむ髪をかき上げると、

「証拠は……証拠はあるんですか」

 理真に向ける視線は相変わらず鋭かったが、ひとつ、変化が生じていたのは、その目尻に涙が溜まっていることだった。闘志を奮い立たせるように、相川が顔を振ると、涙は頬に流れ落ちる。

「いま、探偵さんが言ったことは全部、現場の状況から組み立てた推理でしかありませんよね。小夜子が犯人だという物証が、ひとつでもあるんですか?」

 栗林小夜子の震える頭を、やさしく撫でる。

「ないですよね? ……そもそも、犯人だと疑っていたのは私ですよね。だったら、私のアリバイを崩してみてくださいよ。自宅を三時に出て、現場に到着するまでの三十分で宿題をやり終えて、被害者を殺したのち、四時までに帰ってくるっていうアリバイトリックを――」
「もういいよ……」

 栗林の声が割って入った。顔を相川の胸に押しつけられているために、くぐもって聞こえる栗林の声が。顔を上げた栗林は、

「ありがとう……遙香。でも、もういい」
「よくない!」

 両肩を掴み、説き伏せるように相川は声をかける。が、諦観しきったような栗林は、涙に濡れた顔を横に振り、

「遙香、本当にすごいよ……。私の話を聞いて、咄嗟に……あんなすごい計画を思いついて……。あの紙袋に、ここから一発で命中させたんだよね。私のときとは違って、逆光もあったのに、すごいよ、さすが……遙香だよ……」
「小夜子……」

 相川は、何も言い返さなかった。そこに、

「栗林さん、相川さん」丸柴刑事が歩み出て、「署まで、ご同行願えますね」

 はい、と栗林も足を踏み出そうとしたところに、

「駄目!」相川が立ちはだかって「刑事さん、小夜子は、東京の専門学校に入学が決まっているの。そこを卒業して、大好きなアパレル企業に就職するのが夢なの。ここで、小夜子が……逮捕されたら、それが全部……駄目になっちゃう……」
「遙香……」

 栗林は、相川の背中に顔を埋める。その横からは、広瀬も「先輩……」と涙声で彼女の手を握る。

「小夜子のやったことは過失で、しかも、死んだのは反社のクズでしょ。あいつが死んで、天音と天音のお母さんも助かった。ほかにも、あいつが死んで助かった人は大勢いるに違いないわ。いいことずくめじゃない……小夜子を逮捕する必要……ある? 死んだ金居とかいう男の命と、小夜子の将来、どっちが重いと思ってるの? あの男の命は、小夜子の将来と釣り合うほどのものなの?」
「もう……やめて……遙香」

 相川の背中から顔を上げた栗林は、丸柴刑事に向かって改めて足を踏み出した。

「――小夜子!」

 相川に腕を掴まれた栗林は、ゆっくりと彼女を向いて、

「遙香……私ね、人を殺してしまったって、遙香に電話したとき……遙香が、一緒に警察に行こう、自首しよう、って言ってくれるかと……思ってたんだ……」
「……えっ?」
「遙香にそう言われたら、そうしようって……怖かったから……ひとりで……」

 相川の手が、するりと栗林の腕を滑り落ちた。また一歩踏み出した栗林は、もう一度相川を振り返り、

「……でも、遙香……ありがとう……本当にすごいと思う。遙香の、その頭の良さと、行動力……さすが、板額御前だね」

 寂しそうな笑みを浮かべた。相川も、わずかな笑みを返すと、

「その呼ばれ方、嫌い……」

 そう呟いた。



----完





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