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ケーキのイチゴは酸いものだ

                  *

「ない、ない! ねえ、どうして?」

 子どもがわがままを言うときの叫びを、久しぶりに聞いた。それだけのショックを受けたようだ。ものを失くしたことに対してではない。それが失われたタイミングは、火を見るより明らかだった。
 だから、「パパと約束したのに」と怒る妹には、こう返すしかない。
「親父が帰ってきたら聞けばいい。わざとやったはずだから」
「だって」
 小学四年生という年頃なら、そういう抗議の仕方がまだ通用する。とはいえ、四つしか年齢の離れていない兄が相手では甲斐がない。
「じゃあ、密封された箱からどうやって無くなるっていうのだよ。イチゴから足が生えたとでも?」
 消えたのはイチゴ。本来なら真っ白なクリームの上に座っているはずだった。閉ざされていたクリスマスケーキから、イチゴが消え去っていたのだ。
 箱は確実に密封されていた。一度開けて再度封をしたという過程も存在しない。いうなれば「密室」だったのだ。だからこそ、消失のときがわかりきっている。


                  *


『おかえりなさい。お兄ちゃんが帰ってきたら、れいぞうこのお昼ご飯をチンして食べてから、お父さんのおつかい、お願いね』
「お母さんより」と結ばれたメモをテーブルの上に見つける。言葉遣い、仮名遣い、そして子ども向けキャラクターの付箋紙――明らかに妹宛だ。
 兄に宛てられたメモはないかと探した。特に見当たらないので、戸棚の引き戸を開けると、約束通り、数枚の紙幣と二枚のICカードが置かれていた。「カードにお金を入れておきました。車に気を付けて」というメモも残されている。母さんの精いっぱいの気遣いを感じた。
 時計を見る。小学校も中学校と同じく終業式だ。あと五分もすれば、妹が帰ってくる。腹は減っているが、ゆっくり昼飯を食べている場合ではないと見た。
 ダウンコートを制服の上から羽織り、詰襟はマフラーで隠す。マスクは、学校でつけていたのと同じでいいだろう。ズボンの右ポケットにはICカードを、左のポケットには薄い財布を突っ込んだ。気は早いが手袋もはめる。急ぐ用事ではないけれど、妹を待たせると拗ねてしまうかもしれない。妹はもう何日も前からそわそわしている。
「ただいま!」
 帰宅の声には、元気が有り余っている。バン、と続いた音は、玄関でランドセルを投げ捨てた音だろう。バタバタと廊下を駆けてくること、二秒ほど。
「兄ちゃん、ケーキ、もらいに行こう!」
 真っ赤な顔で肩を上下させている。どうりで、思ったより帰宅が早いわけだ。
「昼ご飯は?」
「ケーキを取りに行くほうが先!」
 想定内だ。
 空腹をごまかせるものをと思い、個包装の飴を二粒、ダウンのポケットに突っ込んだ。


 俺の半分くらいの長さしかない脚で、俺の三歩も前を歩いている。家を出てから一度も顔を見せてくれない。でも、背中を見れば機嫌がいいのは明らかだ。忙しい朝でも母が編んでくれる自慢のシニヨンを、これでもかと見せつける。ピンク色のダウンに、ファーのついたフードが揺れる。足取りは軽く、時折靴の裏まで見せる。
 ひとりで先に行き過ぎないよう、何度も注意した。そのたびに妹は、
「早く行こうよ。待ちきれない」
 と、抗議した。
 クリスマスケーキを予約した店は、電車で二駅先の隣町にある。親父の中学時代の同級生が切り盛りしているという。予約すると、一般向けのものとは少し違うものを受注生産してくれるといい、予約の際に多少の融通も利かせてくれる。親父は「同級生のよしみで」と言っていたから、多少の無理も言ったようだ。
 その店にケーキを注文するのは初めてだ。隣町まで行かなくても、最寄り駅に洋菓子のチェーン店があり、誕生日ケーキなどはいつもそこで済ませていた。
 ところが、妹が小学校四年生になった今年、「もっと高級なケーキが食べたい」と言い出した。親父と母さんは、子どものわがままをいなそうとしたが、妹が一枚上手だった。「今年の誕生日ケーキはガマンする」と言いだしたのだ。一二月生まれの賢い妹は、こうしてクリスマスケーキのグレードアップを勝ち取った。
 妹の要求は三点。ショートケーキであること。ホールケーキであること。そして、甘くておいしいとっておきのイチゴが乗せられていること。妹がわがままを言いだしたとき、ちょうど、一粒千円もする高級イチゴがデパートの物産展で売られている様子をテレビが伝えていたのだ。
 これには親父も母さんも面食らって、「ケーキのイチゴは酸っぱいものだ」と、おいしいイチゴを食べたい気持ちを否定しないよう注意しながら、高級イチゴだけは考え直させようとした。ところが、イチゴが大好物の妹は、考えを変えようとはしなかった。いま思えば、ケーキよりもイチゴにこだわっていたのかもしれない。
 俺としても少し困る。
 ケーキの中でも、ショートケーキはあまり好かないのだ。
 妹のほうが年下なのだから、と飲みこんでいる。両親にとって俺より妹がかわいいのも当然だ。どうしても苦手なものは、俺が食べなければいいだけの話。
 駅までの道のりは一〇分弱。ヒヨコの声で改札を通り抜ける妹の後ろを、俺は大人料金で入場して追いかける。危うく逆方向のホームに向かおうとした妹を引き留めて、電車を待った。外出を控える雰囲気に、平日の真っ昼間。きょうが特別な一日だとしても、下り電車の利用者は自分たちくらいのものだった。
「早く来ないかな。遅れていたりしないよね?」
 妹は何度も繰り返す。数分が二時間にも三時間にも感じられるのだろう。少し静かにしてもらおうと思い、ダウンのポケットから飴を取りだした。
「食うか?」
 ミルク味とレモン味の二粒を見比べる。それを見ているあいだは、電車のことを忘れてくれたようだった。
「じゃあ、こっち」
 手のひらにはレモン味が残される。そっとポケットに戻した。 
 各駅停車に乗車する。
 ガラガラの車内に、利きすぎるくらいの暖房。冬の柔らかな日差し。妹のマスクの下からじわりと浮かぶミルク飴の甘い香り。日頃の寝不足。ほんの数駅の乗車時間でも、眠ってしまいそうになる。意識が一瞬消えかかったとき、隣町の駅に到着する。
 隣街はこのごろの再開発で駅周辺が大きく整備された。駅は地下化され、下り線のホームから地上へ出るには、何度かエスカレータを乗り継がなければならない。迷路のような構内をするする進む俺の後ろを、妹はきょろきょろ周囲を見回しながらついてきた。
 地上へ出れば、見回すほどの広場と商業施設。ビル風となって広場を旋回するクリスマスの空気に震え、奥歯を噛みしめる。
 目的の洋菓子店は、親父の話からしてそれ以前からこの街で営業しているようだ。だから、最もにぎやかなエリアから細い路地へ入る必要がある。その入り口を探して広場をさまよっていると、背後で妹の足取りが重いことに気がつく。
 振り返れば、妹は映画館の壁面に取りつけられたスクリーンを見つめていた。どうやら、好きなアニメの劇場版作品の予告編が流れていたらしい。
「終わっちゃった」
 間が悪かったようで、予告編はほんの数秒しか見ていられなかった。
「何分か待てばまた流れるだろう?」
 今時、インターネットで検索をかければ、予告編くらいいつでも容易に視聴できる。しかし、妹はまだスマートフォンを買い与えられていなかった。
「見ていてもいい?」
 小学生の心は移り気だ。
 劇場で宣伝される映像は地上波のCMとは違うこともあるし、初公開の映像が含まれていることもある。興味を引かれるのもわからないではなかった。
 一応、兄としてどうすべきか考える。小学四年生なら、身の安全くらい分別がつくはずだ。ひとつ約束させることにした。
「じゃあ、そこのベンチに座っていろよ」
 うん、と素直にうなずいて、妹は俺のそばから離れていった。
 ベンチに座ったのを確認し、自分は大義を果たすべく路地へと進む。店先の様子など少しも知らなかったが、すぐにわかった。間隔を保った数人の行列ができていたのだ。
 列には並ばずに店の正面に回る。白い外壁に、金の筆記体で店名が記されている。アルファベットの下のカタカナ表記によって、探していた店だとはっきりわかった。エントランスにはレンガ風のタイルが敷かれ、真っ白な四角い立体がくりぬかれたように店内へと続いている。
 思った通り、入り口でエリアが区切られていた。一方は一般販売、もう一方は予約のための列だという。予約のほうは、俺のほかにふたりしか待っていなかった。
 予約者の列に並ぶ。列はショーケースへと続いており、ケースの向こうでふたりの店員が対応している。人数の多い一般販売の列には年長の女性が、やや仕事が少ないと見える予約者の列には高校生か大学生くらいに見える女性が配置され、それぞれ接客に当たる。店の奥の調理場では、白い服を着た男性が忙しなく働いていた。
 小さな店だな、と思った。
 備え付けられたアルコールで手指消毒を済ませ、列に続く。
 並んでみて気がついた。一般販売のほうが列の進みが早い。
 どうやら、予約販売のほうが多くの手続きを要するらしい。客はスマートフォンで店員に整理番号を伝え、店員は一度奥に引っ込む。冷蔵庫からケーキの箱を取り出すのだ。戻った店員は箱を客の目の前で開き、中身を見せる。確認が取れてから、箱にテープを貼り、金銭の授受が完了したらビニール袋に入れて手渡しする。アルバイトと思しき店員の手際が悪いわけではなさそうだが、一、二分は要する。それに比べて、一般販売はお金と商品とを交換するだけだ。
 俺の番が来た。整理番号は薄い財布で持参した整理券に記されている。昨晩親父から受け取っていたそれを手渡すと、店員は番号をまじまじと見つめながら奥へ退いた。店内を二周ほど見回したころ、店員が戻ってきた。
「ご予約の商品は、こちらで間違いございませんか?」
 中学生に対しても対応は丁寧で、箱を小さく傾かせてケーキを見せてくれた。妹の注文通り、ホールのショートケーキだ。商品を見せられたところで、ケーキの大きさとか細かな違いとかがわからない。ふんだんに用いられているイチゴも、妹の要望するような高級品かどうか。かといって、明らかにおかしいと思う要素もない。「はい」と返事する。
 整理券が発行される段階で持ち帰り時間も伝えてあったようで、店員は素早くドライアイスを箱詰めする。俺は黙って見ているだけだったが、紙ナプキンとロウソクも入れてくれた。テープでしっかりとふたを閉じ、大きなビニール袋に箱ごと収められた。
 代金を支払い、商品を受け取る。
 深く礼をする店員の前で進行方向を変え、すぐさま店を後にした。妹がふらりと変なところに行ってしまったり、まさか連れ去られていたりしたら困る。それに、早く帰って昼食にしたかった。
 歩いているうちに、どこか妙だと気がつく。
 歩みを緩め、自動販売機に道草する。手袋をはめた手で小銭を扱うのには腐心した。妹にはココアを買い、自分にはカフェオレを買う。右手にはケーキの袋、左手にはココアのスチール缶。カフェオレは強引にダウンのポケットに突っ込んだ。
 広場に戻ると、妹は約束を守っておとなしく待っていた。
「予告編、見たか?」
「見た! それよりケーキ、見てみたい!」
「そう言うと思った。ほら、ベンチを空けて」
 妹がベンチの端に寄った。俺は反対側に腰掛け、ケーキの箱をふたりの中央に置く。手袋を外してテープをはがす。箱の隙間に指を入れたとき、妹は待ちきれずに横からのぞこうとしていた。
 ふたが完全に開かれ、妹は感嘆の声を上げた。俺はすぐに箱を閉ざし、おあずけにする。
「もっとよく見せてよ」
「こんなところで箱を開けて、うっかりひっくり返したら台無しだぞ。それに、楽しみは取っておくほうがいい」
 口を尖らせる。ただ、その視線がもはやケーキに向いていないことは明らかだった。
「ココア、飲むか?」
「飲む」
 そう返事しつつ、妹は兄の不審な寄り道の提案に首をかしぐ。
「早く帰らないの?」
「早すぎたら追いついてもらえないからな」
 そこに、ベンチコートを引っかけた小太りの男性が小走りに駆け寄ってきた。
 先ほどの店で調理場にいた男性、おそらくあの店の店主だ。
「よかった、追いついた。お客様、こちらの手違いでお渡しすべきケーキと違うものを渡してしまいまして。商品はまったく同じですので、取り換えさせてもらっても構いませんか?」


                  *


 取り替えてもらった商品の中身は確認していない。そのまま帰宅し、夜まで待てなかった妹が丁寧にテープをはがして箱を開けたところ、ホールケーキの上には一面の冬景色が広がるのみだった。
 つまり、交換によって新しく渡されたケーキには、最初から主人公が不在だったのだ。
 再度ケーキを観察する。クリームは滑らかに塗られていて、イチゴの座席は見当たらない。イチゴが何者かに誘拐――つまみ食いともいう――され、空席となったのではないらしい。この状態こそが完成されたホールケーキなのだ。それならば、ケーキを自宅に持ち帰るまでの道中に密室を破る何かがあったのではなく、店側の作為あるいは無作為としか思えない。
 妹もその事実に気がついている。ケーキの異常を確認してから、一度も「ケーキ屋のせいだ」とか「返品しよう」とか、そういう発言をしていない。親切にも俺たちを追いかけてきたあの店主が、人を出し抜くようなことはしないと思うのも自然だ。
 商品についての最終的な責任を負うのは店主だろう。その店主がわざわざ俺たちを追ってきて、「間違えたから取り替えてほしい」と言った。ということは、俺たちが手違いで受けとったケーキのことも、代わりに持ってきたケーキのことも、よくわかっていたはずだ。確認もなしに俺たちを追い、再度商品を取り違えたとか、不良品を持たせてしまったとかいうことがあれば、店の評判にもかかわる大失態である。
 ふたつ目のケーキに不手際がないならば、そのケーキは最初から「イチゴを乗せないでくれ」とオーダーされていたことになる。優しそうな店主が俺たちをだましていないのだとすれば、それしか考えられない。「イチゴを乗せたら店がどうなっていても知らないぞ」などと第三者から脅しをかけられていたなら話は別だが、そんな例外は切り捨ててよい。
 あの店に注文をしたのは紛れもなく親父だ。イチゴのおいしいケーキが食べたいという願いを叶えるべく、予約さえすれば多少のカスタムにも応じてくれるという、中学時代の同級生を頼った。そのよしみで無理を聞いてもらったらしいから、間違いない。
 とはいえ、妹の言うままにクリスマスケーキを準備するほど妹を溺愛している親父だ。故意は言うまでもなく、うっかりでも妹を悲しませるなんてありえない。そう考えてみれば、親父と店との計略が見て取れる場面がちらほらあった。
 まず、俺は整理券をレシートで持っていた。俺の前に並んでいた客は、スマートフォンでそれを提示しており、予約の方法は少なくとも二通りあったことになる。第一には、インターネットの専用フォームを用いるか、またはメール。そして第二には、電話または対面によるアナログな予約方法だ。今回の場合、親父と旧友が詳細な打ち合わせをしたと想定できるから、親父は来店して注文したのだろう。
 親父は店主に注文を告げたあと、こう付け加えた。「どうか娘にはわからないようにしてほしい」と。妹は大きくなったとはいえまだ小学生だし、少しわがままで子どもっぽい性格でもある。店でイチゴがないことにかんしゃくを起こしてしまったら、店に迷惑をかけてしまう。
 店側は考える。なぜなら店では、予約した商品を受け渡す場合、箱に封をする前に中身を見せる手順を踏んでいたからだ。妹に悟られないように、ということなら、俺や妹の写真を見ただろう。整理番号で判別することもできる。しかし、特定の相手にだけ商品を見せる手順をスキップしたら、不自然すぎる。まして、小さな妹が「見せてほしい」と言いだしたら計画は台無しだ。
 そこで、一度別の商品を渡してから、本当の商品と取り換える作戦を思いつく。家に帰ってから気づいたなら、家庭内で事は収まってくれる。作戦は見事に成功し、俺たちは家に帰ってから状況を把握し、しかも店のせいではないと納得することができている。
 想定外があったとすれば、俺を追って商品を取り替えてもらうまでに時間がかかったことか。親父からは当然、俺と妹が一緒にケーキの受け取りに来ることを聞いていただろう。しかし、妹は映画館の屋外スクリーンに夢中になり、俺ひとりで来店した。その俺も、学ラン姿のまま来店すると伝え聞いていたのだろう――母さんの計画したスケジュールの通り、俺は着替えることなく家を出ていた――が、コートを着たうえにマフラーも巻いて、詰襟を着た少年であると一目ではわからなくなっていた。クリスマス営業の忙しさもあって、ケーキを取り替える手順が予定通りにはいかなかった。
 幸い、俺が店の狙いに気がついて帰宅を遅らせていたおかげで、予定通りに「顔のないケーキ」が届けられた。また、店主は写真を見たことがあったから、迷わず俺を見つけることができた。たぶん、俺と妹が母の予定より早く来店した――妹に急かされて昼食を抜いていた――せいで予約受け取りカウンターにアルバイト定員が配置されていたが、計画通りなら店主かその妻が俺たちの接客を担当していたのだろう。
 イチゴが消えるまでの過程はわかった。
 だが、問題はそこではない。
 親父がなぜ、このようなサプライズを仕掛けたのかがわからない。単に妹を驚かせるだけならば、親父がケーキを受け取ってくればいいだけの話だ。そうしなかったから、妹が事態に気がついてしまった。
 そのせいで、親父がイチゴの約束を忘れてしまったのではないか、と妹は疑ってしまっている。妹は、店がわざとイチゴを抜いたことくらいわかっても、親父が店と打ち合わせしていたことや、店が俺たちにケーキを届けるまでに行った作戦には気づいていない。
 不要な疑いを生んでも親父が気にしていないとすれば、よほど自信があったとみえる。確実に妹が喜んでくれると、そう思っているのだ。
 ただ、すでに妹は機嫌を損ねている。その妹をなだめる俺の機嫌にも気を配ってほしいものだ。いくら妹がかわいいからといって、俺だって実の息子なのだから。
「なあ、イチゴのありかを知りたいか?」
 妹はソファの隅で口をとがらせ、クッションをきつく抱きしめている。
「どこにあるの? 冷蔵庫なら隅から隅まで探したよ」
 さっき、あらかた捜索は済ませていた。我が家で食品を保管している場所はすべて。冷凍庫まで見たくらいだ。でも、まだ探していない場所が一か所ある。
「実際に見る方法もある。でも、母さんと親父が帰ってきたら謝らないといけない。俺が間違っている可能性もゼロではないぞ」
「それでもいい! 見せて!」
 そこまで言うなら、俺のせいではないだろう。
 普段は勝手に使わないよう言われている、シンクの下の引き出し。そこからナイフを取り出す。刃物を使う以上、この試みは不可逆だ。だから、失敗に終わったら意味がないどころか、俺がナイフを無許可で使ったことも隠せない。たとえ予想が当たったとしても、両親に叱られるのは避けられない。
 親父に自信があるとすれば、消えたイチゴに妹が動揺したとしても、すぐに埋め合わせがあるからだ。イチゴが消えたこと以上の、うれしいサプライズが計画されているのだ。だから、俺は予想する――イチゴはケーキの中に隠されている。
 ホールケーキは側面までクリームが塗られていて、中身までは見ることができない。外見は真っ白な円筒だったとしても中を真っ赤な果実で埋めつくすことが可能だ。ただ、妹のリクエスト――一粒千円もするくらい高級なイチゴをたくさん食べてみたい――を踏まえたら、たくさんのイチゴを用意するよりも良い方法がある。
 そう、甘くて巨大な、とっておきの一粒を、ケーキの中に仕込んでおくのだ。
 外国のどこかで、ケーキに人形や銀貨を入れておく文化があると聞いたことがある。それらが入った一切れを引いた人には、幸運が訪れるとか、一日王様扱いしてくれるとか。イチゴへの満足はもとより、こういう遊び心に対して、妹は大いに満足するはずだ。
 ケーキにイチゴはない、と思ったら切った瞬間イチゴが! ……これがクリスマスの最大のイベントなら大いに盛り上がるし、たったいま俺たちがケーキを切ろうとしているように、フライイングを想定してもいい。異常の発覚とサプライズの告知との間隔さえ短ければいいのだ。
 冷蔵庫から箱を出し、ホールケーキを害さないように箱を解体する。その作業の苦労こそが、この箱が完全なる密室となっていたことを物語る。
「切っちゃうの?」
 刃の先端にクリームが付いた瞬間、妹がためらった。
「大丈夫、入っているはずだから」
 俺もホールケーキを切るなどという経験はない。心臓の鼓動を感じながら、ナイフを突き立てた。母さんがケーキを切るときを思い出し、真似をする。できるだけ縦向きに刃を差し入れる。とんとんと静かに上下させる。切るというよりは突くように。焦って刃を引いたり、上からかぶせるようにしたりすると、切り取ったピースの形が崩れてしまう。
 円形を真っすぐに二等分した。
 抜き取ったナイフをもう一度ケーキの隙間に入れる。思わず唾を飲んでしまう。妹に見えやすい角度を意識して、ナイフを横に移動させる。刃に押されて、断面が露わにされる。

「ない……!」

 正直自信はなかった。大きな塊を切った感触がなかったからだ。
 しかも、断面に赤色が見当たらない。固形のイチゴも、ジャムもない。スポンジがつくる層の隙間までクリームが詰まっているのだ。
「兄ちゃん、もっと切って」
 俺も悔しくて、半円になったケーキに再びナイフを入れた。
 ところが、四等分にしても、八等分にしても、結果は変わらなかった。
 なぜだ、ここにもイチゴがないなんて。
 だとしたら、なぜ親父は俺たちにケーキを受け取らせたのか!

 そのとき、母さんがパートから帰宅した。帰りしなに買い物を済ませたようで、食材が大量に詰め込まれたエコバックを両手に持っている。そして、不在時に俺たちがしでかした蛮行に、たちまち気がついた。
「あれ、切っちゃった? これじゃあサプライズは失敗だね」


                  *


 親父の帰宅は少し遅かった。
「イチゴ、買ってきたぞ」
 夕飯の時間を予定より遅らせてしまった親父は、何事もなかったかのようにパックに入ったイチゴを食卓に置いた。サプライズが失敗したことは母さんからメールで聞いたとして、それにしてもあっさりとしたものだった。
「パパ、どういうこと?」
 妹に問われ、親父は胸を張った。
「一粒千円とはいかないが、とっても良いイチゴだ。見つけるまで大変だったんだぞ」
 ネタ晴らしもあっさりとしたものだった。
 曰く、ケーキのイチゴはもともと後から乗せるつもりだったという。ケーキの受け取りを俺たちに任せたばっかりにサプライズ作戦は失敗に終わるも、自分は仕事帰りにデパートに寄ってイチゴを買うつもりだったので、仕方がなかったと語る。
 デパートを何件かハシゴしたが、一粒千円などという代物はそうそうない。それこそ特大の一粒を売っている場合でないと考えにくい。それなら、一粒あたりの値段は数分の一になったとしても、ケーキにたくさん乗せられるほうを選んだとか。
「そういうことなら、ケーキ屋にイチゴの仕入れも頼めばよかったのに」
 俺の小言を聞いた父は笑った。
「さすがに材料の仕入れに迷惑はかけられないと思ってな。イチゴは生ものだし、クリスマスの準備に忙しいときに頼むのは気が引けたんだ」
 それだけ言うと、「着替えてくる」と言って引っ込んだ。
 親父は家に帰ると、着替えるより先に、母さんの遺影に手を合わせる。俺は写真のある和室で、親父とふたりきりになった。
「親父、教えてよ」
「何を?」
 とぼけるので、追及してみた。
「ケーキを俺たちに受け取らせた理由。店の都合を心配したのは本当だとしても、サプライズが失敗するのは目に見えていたじゃないか。別の狙いがあったとしか思えなくて」
 ああ、と親父は気の抜けた返事をする。俺にすべて見抜かれたことには驚いていない様子だ。眼鏡の奥の瞳は、楽しそうに笑っている。
「イチゴを探すのに苦労すると思ったからだよ。できるだけ甘いもので、ケーキに乗せてもおいしいものを店員さんに聞いて探したんだから。デパートに行くにも、家とは逆方向の電車に乗らないといけなかった。パートと夕飯の準備で忙しい母さんにも頼めない。それじゃ、夕飯の時間が遅くなっちゃう」
「でも、イチゴを探していても遅れたんだから一緒だろ。ケーキは夕飯の最後に食べるものなんだから、少しくらい遅れたっていい」
 そんなことがあれば妹は黙っていないし、家族の行事に遅刻するのは良くないことには違いないが。
 もちろん、親父もその点で言い返してくることはない。遺影に手を合わせ終えた親父は、座布団の上で正座したまま俺と向き合った。見上げる視線は、少し真剣になったような気がする。
「お前には何でもよく見抜かれるな」
 そこは当然だ。俺と親父の付き合いは、それこそたった十四年間ではあるが、母さんや妹よりも長い。
「店員さんに聞いてわかったんだけどさ、やっぱりケーキに合うのは酸味のある品種なんだよ。だから、どれを買おうかずっと悩んで探さないといけなくて。その時間を確保しないといけないし、店にイチゴを頼もうにも『イチゴを買ってほしいが、ケーキには乗せないでくれ』なんて失礼な注文だからな」
「……ショートケーキならイチゴが乗っていないとダメじゃないのか?」
 乗っているはずのものが乗っていない。だからこそ衝撃的なのであり、妹も大騒ぎしたのだ。礼を欠く注文をできないというのでは、「サプライズに使えるケーキ」ではなく「イチゴのないケーキ」がどうしても必要だったことになってしまう。目的があべこべではないか。
「うちの場合はそのほうがいいんだよ」
 話を切り上げようと思ったのか、親父は立ち上がる。俺の肩に手を置いて、ぽつりと一言置いていった。

「だってお前、酸っぱいものは苦手だろう?」

 その瞬間の表情を見て、俺は親父を誤解していたのだと悟る。
 最初から、サプライズは俺に向けられたものだった。
 ショートケーキは苦手だ。イチゴが酸っぱいからだ。
 親父も苦手だ。娘にばかり甘いと思っていたからだ。




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