01
「一週間前、ビジネス街のビルで飛び降りがあったことを知っているか?」
「ええ、もちろん。はい、どうぞ」
事務所を訪れるなり質問してきた警部に簡単な返事を返しながら、探偵はソーサーに載ったカップを差し出した。中身は探偵自慢のオリジナルブレンドコーヒーだ。
「新聞で読んだ情報だと……」応接テーブルの対面に腰を下ろして探偵は、「死体が発見されたのは朝だったそうですね。解剖の結果、転落死したのはその前日の夜だと見られているとか。警察では他殺と自殺の両面から捜査していると、まあ、お決まりの文句が書いてありましたが」
「そうなんだ。まず、他殺の線だが、苫村――死んだ男の名前だ――の周辺に、彼に恨みを持つような人間は見つからなかった。死亡時刻に付近で怪しい人物を見かけたとかの情報も得られなかったしな。鑑識の調べでも、苫村の衣服や体に誰かと揉み合いになったとかの痕跡は残っていなかった」
「他殺の線は薄いと言うことですね」
「まあな。次に自殺の線なんだが、死体直上のビル屋上の縁に擦れたような跡があった。飛び降りる際に靴によって付いた跡だと見られている。屋上からも誰かと争ったりした痕跡は発見できなかった」
説明しながら警部はカップに砂糖とミルクを入れ、真っ黒だった液体を明るいブラウンに変えた。
「どちらかと言えば、自殺の可能性が濃いということですか」
探偵の言葉に、警部は肯定も否定もせず、
「だがな、現場からも彼が住んでいたアパートの部屋からも、遺書らしきものは見つかっていないし、何か深刻な悩み事があったという話もない。加えて、苫村は死ぬ直前に大金を手にしている」
「大金? 博打で勝ったんですか?」
「まさにそうだ。身辺を調査して、苫村は暴力団が取り仕切る違法カジノの常連だったことが分かった。それで一週間前に大勝ちをしていたことも判明した」
「いくらです?」
「三千万だ」
探偵は口笛を鳴らして、
「それは凄い」
「そもそも、最初に投資した金が莫大だったんだ。苫村はその日、ひと勝負に五百万を賭けていた」
「それが一気に六倍に」
「そういうことだ」
「それじゃあ、動機的に自殺の可能性はちょっと考えられませんね」
「ああ。闇金に手を出して、三千万ぽっちの金じゃどうにもならないほどの負債を抱えていたということもない。そもそも苫村にサラ金利用の履歴はない」
「そんな大金を手にした人間が自殺するとは考えられない、ということですか。他殺と自殺、どちらの線も薄いというわけですね」
「うん。だがな、ひとつだけ妙な話を聞いた」
「何ですか?」
「さっき話したカジノの話だ。ガサ入れのときに従業員から聞いたんだが、苫村は確かにそこの常連だったが、遊ぶ金はいつも数万円程度で、多くてもせいぜい十万前後だったそうだ。それが、いきなり五百万もの大金で一発勝負してきたんだそうだ」
「本当ですか? 文字通り、桁違いの額じゃないですか」
「ああいうところは、掛け金の上限なしの青天井が売りだからな。勝負を受けないわけにはいかない」
「で、見事勝利した」
「そうなんだが、実は、それがイカサマによる勝ちだったことも分かった」
「何ですって?」
「カジノで働く給仕の男のひとりが、二、三日前にカジノを辞めた。調べてみたら、その男が苫村と知り合いだったことが分かった」
「その男は、今はどこに?」
「田舎に帰っている。所在も確認した。地元警察に絞り上げてもらったら、あっさりと吐いたよ」
「苫村と組んで、イカサマしたことを認めたと」
「そういうことだ。手口はこうだ。給仕をやっていたその男が飲みものを配る隙に、苫村にすり替え用のカードをこっそり渡したんだ」
「そんな単純な?」
「ああ、まさに、あまりに単純な手口すぎて、かえってディーラーも見逃してしまったんだろうな」
「暴力団が経営する違法カジノでそんなことをしたら、ただじゃ済まないですよね。十分な殺される理由になるのでは?」
「バレたらな。カジノ側も当然イカサマを疑って、その場で苫村の体を検めたが証拠が出なかった。君も知ってると思うが、ああいうところは、いざとなったらカジノ側もあらゆるイカサマを仕掛けて客を勝たせまいとしてくる。客もそれを承知で勝負をしてるんだ。だから客側もイカサマで対抗するのは正統な手段とされているんだ」
「現行犯でなければ無罪放免、ということですか。それがルールだと」
「そういうことだ。客側もカジノ側にイカサマを仕掛けられたと思ったら糾弾できるが、それも同じことだ。証拠が出なければ相手にされない。逆に因縁を付けられたと言ってボコボコにされるだろうな。イカサマもギャンブルのうち、ということだ。その場で証拠が出なければ、あとからカジノも客もイカサマしたことを糾弾されたりはしない。裏社会なりの紳士協定といったところかな」
「苫村と仲間の男は、うまいことやり切ったというわけですね」
「ああ。男の話では、しばらくほとぼりが冷めるまで静かにしていて、半年後くらいに金を山分けする計画だったそうだ。いくら紳士協定があるとはいえ、それはカジノと客の間での話だ。カジノ側の人間である給仕が客のイカサマを手伝ったなんてことがバレたら、間違いなく海に沈むことになる」
「いきなり分け前を貰ったら怪しまれるというわけですね。それで、冷却期間を置くことにしたと」
「そういうことらしい。まあ、苫村が死んで、その計画もご破算になってしまったがな」
「でも、警部、カジノではうまくやったとしても、暴力団側には苫村が大金を持っていることを知った人物がいたはずですし、やはり、金目当てでの他殺の可能性は残っているのでは?」
「そこなんだが……」
と警部は難しい顔をした。探偵に話の先を促された警部は、
「苫村のアパートを調べたら、二千五百万円の現金が出てきた」
「二千五百万? 彼が手にしたのは三千万ですよね」
「そうだ、五百万足りないんだ。金目当ての殺人であれば、五百万しか奪っていかないなんていうのは変だろう」
「確かに」
「それに、そもそも、元手の五百万の出所からして不明なんだ」
「苫村の金ではないと? 確か、新聞には、苫村の職業は会社員とありましたが」
「そうだ。平均的な年収の、ごくごく普通のサラリーマンだった。口座を調べたが数万円も入っていなかった。苫村は給料のほとんどを一ヶ月でほぼ使いきってしまうような生活をしていたらしい。ちなみに通帳と印鑑も無事で、部屋に物色されたような形跡もなかったんだ」
「三千万のうち五百万だけが消えたということですか。本人が使ったのでは?」
「それもないな。ここ一週間、苫村が何か大きな買い物をしたとか、豪遊したとかの情報は確認されていない」
「行方不明の五百万円……最初に苫村が用意した元金と同じ額ですね。やはり借金で工面した金だったのでは? 警察の調査に上ってこないような、危ない筋から借りた金だったとか」
「それを回収しに来た連中がビルから突き落として殺した、か? それはないだろう。ああいった連中は金さえ回収できれば無意味に乱暴なことはしない。ましてや殺すなんてな。だいたい、金を回収できたのなら殺す必要がないしな」
「そうですよね。それに、そんな危ない金貸し相手であれば、元金だけの返済で済むはずがありません。かなり暴利な利子を持っていかれるでしょうし」
「ああ、借りた金を利子も揃えて返済したなら優良顧客だ。ますます殺す理由がなくなる。さらにな」
「まだ何かあるんですか?」
「大ありだ。苫村が飛び降りた――と決まったわけじゃないが――ビルはビジネスオフィス専門の貸しビルなんだが、そこに彼の勤め先の会社が入っている」
「本当ですか?」
「嘘を言ってどうする。本当だよ」
それを聞いた探偵は神妙な顔になって、
「違法カジノで三千万を手にした男が、自分の務めている会社のビルから飛び降りて死んだということですか。殺されるような理由も、自殺する動機も見つからないままに。さらには、手にした金のうち五百万が消えている」
「まとめるとそういうことになる。正直、状況がさっぱり分からず暗中模索の状態だった。だがな」と警部は一度言葉を切ってから、「実は昨日、ある有力な情報提供があった」
「何ですか?」
「飛び降りる瞬間を映した映像があるというんだ」
「飛び降りの瞬間? どこからの情報ですか?」
「近くにあるテレビ局からだ。局建物の屋上カメラの映像に映っていたんだ。ああいったカメラは二十四時間回し続けているからな。飛び降りのニュースを聞いたテレビ局の局員のひとりが、現場が自分の局の屋上カメラの撮影範囲に含まれていることに気が付いて、時間を見つけては録画された映像をチェックしていたそうなんだ」
「で、まさにそれが映っている映像を見つけた」
「そういうことだ」
「間違いなく飛び降りだったんですか?」
「そうだ。飛び降りた本人以外、誰の姿もなかった。だから、揉み合いの末、誰かに突き落とされたとか、飛び降りを強要されたとか、そういった可能性はない。屋上の縁に立って、後ろ手に手すりに掴まり、十分以上逡巡したようなあと、手を離して足から落ちていったんだ。典型的な自殺のパターンだった」
「それが、警察が自殺と断定した理由でもあるわけですね。で、その映像には、地面に激突するまでの一部始終が――」
「いや」と警部は探偵の言葉を遮って、「男はカメラに背を向けていた。つまり、飛び降りた直後にはもう、男の姿はビルに隠れて見えなくなったわけだ。実際に見てもらったほうが早いな」
警部は懐からUSBメモリを取りだした。
探偵のデスクに置かれた旧式のノートパソコンに、夜のビル街を俯瞰した映像が映し出された。
「映像が荒いのは、当該部分だけを拡大しているからだ。見ろ」
警部が指さした先、月明かりに照らされたビルの屋上に、画面の下からひとりの人物がフレームインしてきた。
「屋上に出る階段室はカメラのフレームから切れていた」
「……確かに、男性に見えますね」
探偵も目を凝らした。解像度はかなり荒いが、その人物が着ているのは背広であることは視認可能だった。風にネクタイや上着の裾がはためいている。背広を着たその人物はカメラに背を向けたまま歩き、屋上の手すりの前で一旦立ち止まり、やおらそれを乗り越えて縁ぎりぎりに立つと、後ろ手に手すりを握った。膝は少しだけ曲げられている。震えているように見えるのは、解像度が低いせいだけではないだろう。
「しばらくこのままの状態が続くから早送りするぞ」
警部はマウスを操作して映像を早送りした。が、固定されたカメラで映されており、手すりの向こうに立つ人物も動きを見せないため、画面にほとんど変化はない。ネクタイや背広の裾のはためきだけが小刻みになり、それだけが映像が早送りされていることを教えていた。タイムカウンターが十分ほど過ぎた辺りで、警部は早送りを解除する。
「あっ!」
探偵が小さく叫んだ。映像が通常再生に戻ってから数秒も経たないうちに、画面の中の人物は手すりを離して、直後、屋上の縁の向こうに消えた。
「こういうことだ」
言うと警部は映像を停止させ、メモリを引き抜いた。探偵は、ふう、と息をついて、
「こんなものが撮れていたなんて、恐ろしいこともあったものですね……でも、この映像が出てきたのであれば、やはり自殺で決まりなのでは? 自殺する動機なんて、他人が推し量れるものではありませんからね。いくら金を持っていようが、人生に何の不満もなかろうが、自ら命を絶つことなどあり得ないなんて、誰にも断言できないですしね。何かちょっとした仕事上の失敗や、プライベートの悩みが理由で自殺を図る人だっていますし」
「俺も含めて捜査員たち全員が、飛び降りの瞬間の映像が見つかったと聞いたときには、そう思ったよ」
「……何か、おかしなことがあったんですね」
「ああ、でなければ、そもそもこうして君を訪れんよ。見てもらったとおり、飛び降りた人物は背広を着た小柄な、身長百六十に満たない男だ。身長は実際に手すりの高さを測って、映像から対比で割り出したんだ。だがな……死体で発見された苫村は、百八十センチに達する筋肉質の大男で、ジャージを着ていたんだ」
「えっ?」
「映像に映っていた飛び降り男は、死体となって発見された苫村とは全くの別人なんだ」
少しの間、考え込むような難しい顔をしてから探偵は、
「間違いはないんですか? あの映像の飛び降り場所が、苫村の死体が発見されたのと同じビルだということは?」
「何度も確認したよ。絶対に間違いない。場所、日にち、時間とも、完全に苫村の飛び降りたビル、死亡推定時刻と一致している。他の日や、違う場所を撮影した映像を勘違いしたという可能性はあり得ない」
「念のため訊きますけれど、映像にあった、小柄な背広の男のほうの飛び降り死体は……」
「もちろん発見されていない。そういった通報もない」
「背広の男の身元は確認できないのですか?」
「無理だな。ただでさえ遠景なうえ夜のことだし、何より後ろ向きで顔が見えない。全くわけがわからん。知恵を貸してくれ」
「飛び降りて落下するまでの間に、筋トレをして着替えたのでは……あ、冗談です! 冗談!」
怖い目をして睨む警部に向けて、探偵は両手を振った。
「あの映像には、加工をされたような形跡はなかったんですね?」
気を取り直したように探偵は訊いた。
「そっち方面もプロに頼んで解析済みだ。映像に手が加えられた可能性はない」
「まあ、そんなことをして、誰に何の得があるんだって話ですよね」
「他に何か理由は考えられるか?」
「そうですね……実は苫村は他殺だった。ですが、自殺に偽装するために、殺したあとか直前に犯人が安全を確保したうえで自分で飛び降りた。という線も考えられますが、これはないでしょうね」
「ああ、であれば、体格は仕方ないにしても、せめて苫村と同じ服装をしないと何の意味もない。それに、今回、たまたま映像に撮られていたが、他に目撃者はひとりもいないんだ。そんなトリックを弄するのであれば、飛び降りる場面を誰かに見せないと意味がない」
「このテレビ局のカメラをあてにしていたのでは?」
「君も、局の屋上から、ゆっくりと回転しながら周囲の景色を映している映像をニュースなんかで見たことがあるだろう。ああいったカメラは三百六十度回転できるから、今現在、カメラがどこを向いているかを外から知ることは不可能だ」
「なるほど……とにかく一度、現場を見せてもらいましょう」
探偵は立ち上がって、ポールハンガーに掛けてあるジャケットを手に取った。
02
「事務所で話したことの他に、何か訊きたいことはあるか?」
覆面パトのハンドルを握りながら警部は言った。そうですね、と助手席に座る探偵は、
「苫村の遺体におかしな点などはありませんでしたか? 死因は間違いなく飛び降りによるものなのですか?」
「それに疑いはない。司法解剖で太鼓判が押されてる。二十メートルから二十五メートル程度の高さから転落したことによる死亡だとな。死体に動かされた形跡もない。当該ビルは七階建てで、地上から屋上までの高さが約二十四メートルだ」
「苫村が務めていた会社はそのビルの何階に入っているのですか?」
「六階だ」
「苫村の死亡推定時刻は?」
「午後九時半から十時半の間と見られている。映像に映っていた男が飛び降りた瞬間の時刻は、十時五分だった」
「時間も、まさに一致していると。結構遅い時刻ですね。苫村は、そんな時間にどうやってビルに入ったんですか? あ、入居している会社の社員だから鍵を持っていたとか?」
「そのビルの正面出入り口は特に施錠されることはないそうだ。入居している各会社の営業日や営業時間がまちまちで、鍵の管理の手間が増えるだけというのがその理由らしい。もちろん各フロアの部屋にはしっかりと施錠がされるがね。屋上へ出るための階段室のドアも内側から解錠できる。それに外壁に非常階段もあって、各階に入る非常口は当然内側から施錠されているが、屋上に直接上がるのはフリーだ。だから苫村に限らず、誰でもその気になれば深夜だろうが早朝だろうが、そのビルの屋上に上がることは容易なんだ」
「なるほど。その時刻、ビルには苫村以外の誰かがいたんですか?」
「聞き込みをしたが、その時間に働いている人は誰もいなかった。さっきも言ったが、そのビルはビジネスオフィス専門だから、個人の住居などにはなっていないんだ」
「ビルには誰もいなかった……いえ、警部、でも苫村以外にひとりは確実にいたはずです」
「カメラに映っていた背広の男だな」
探偵は頷いた。警部は、だが、と呟いてから、
「その男がビルに侵入して飛び降りたんなら、どうして死体が出て来ないのか。逆に苫村の死体はどうして出てきたのか……」
「もうひとつ教えて下さい。死んだ苫村は、その日は普通に出勤して仕事をしていたんですか?」
「ああ、社員の証言とタイムカードの記録によると、始業五分前に出社して定時で帰っている」
「苫村の人物像は?」
「ドライな性格だったようだな。周りが残業をしていても、自分の分の仕事が終わって定時になると、他人の手伝いもせずにさっさと帰宅してしまうと、社員の何人かが証言していた」
「苫村がカジノで勝った日というのは?」
「その前日の夜だ」
「三千万もの大金を手にしたことなど、全くおくびにも出さなかったということですか。で、どういうわけか、その日の夜に会社のビルから飛び降りた……」
「そういうことだ……見えてきたぞ。あのビルだ」
フロントガラスの向こう、警部は林立するオフィスビルのひとつを指さした。
「死体発見からもう一週間経っているので、規制なんかは解除した」
警部が言ったように、苫村の転落死体があった場所はすでに開放されていた。死体の状態を象っていたテープも撤去されてはいるが、アスファルトの所々に残っている赤黒い染みが、確かにそこに死体が横たわっていたという痕跡を物語っている。そこはビルの角に近い位置で、横に数メートル弱の距離を置いて鉄製の非常階段が屋上まで延びている。
探偵は死体のあった地面を見てから、ゆっくりと視線を上げた。屋上まで一定間隔で窓ガラスの帯が並んでいる。七階建てのため数は七つある。各階の窓の下にはダクトパイプのようなものが延び、壁面に設置されたエアコンの室外機と繋がっていた。
「狭い道ですね。乗用車がやっとすれ違えるくらいの幅しかない」
探偵は道の前後を見回した。うん、と頷いて警部も、
「特にどこに通じているでもない裏路地だからな。人通りだって、昼間でもこのとおりだ。道に面した店舗や外灯もないから、夜には真っ暗になる」
平日昼間のオフィス街だというのに、その道路にいるのは探偵と警部の二人だけだった。
「もっと賑やかな道だったら、飛び降りの直後すぐに誰かが気が付いて通報してくれて、死体の発見がもっと早まったんだろうけどな」
「飛び降りの瞬間が捉えられた時刻も、十時五分と、深夜というには早い時間でしたしね」
「今の時代、そんな時間まで残業している会社は稀だろうしな」
「残業をしないというよりも、させないと言うほうが正しいかも知れませんね」
「そういったことには、色々とうるさい世の中だからな。苫村が務めていた会社も、その日、最後に残っていた社員が押したタイムカードの時刻は午後八時半だった」
「いいことじゃないですか。僕なんかは、八時半でも働き過ぎだと思いますけどね」
「うちの部長に聞かせてやりたいよ」
警部は苦笑いをこぼした。
「そう言う僕も、商売が商売なんで、残業についてとやかく語る資格なんてありませんけれどね。でも、タイムカードを押すだけ押して、また仕事に戻るなんて話をよく聞くじゃないですか」
「サービス残業ってやつだな。だが、この苫村が務めていた会社では、そういったことはないそうだぞ。何でも、最近になって社長が交代したんだが、その新社長が残業嫌いなんだそうだ。それで社の方針として、どんなに忙しくても午後八時半までの残業しか認めていないらしい。事実、苫村が飛び降りた日も、午後八時半過ぎに会社の玄関ドアがロックされたことは警備会社の通信記録に残っている」
「ますます結構なことじゃないですか」
「ただ、一部の社員からは不満の声が上がっているとも聞いたな」
「不満って、残業しないことについて? ワーカホリックってやつですか?」
「やり方の問題らしい。業務の中には、どうしてもその日のうちに片付けてしまわなきゃならない仕事もあって、そういう必要な残業まで毛嫌いする新社長は杓子定規すぎるというんだな。それまでは深夜まで残業が及ぶようなことがあっても、他の日に代休を取るなどして調整してきていて、それに社員も不満を持っていなかったそうだ。平日に大手を振って休めるから、代休を歓迎する社員もいたとか」
「なるほど。人が働いている時間に休むのって、気分いいですものね」
「君は、しょっちゅう味わってるだろ」
「警部」
「無駄話もいいが、どうだ、現場に来て何か掴めそうか?」
「そうですね……」探偵はもう一度頭上を見上げ、さらに道路の前後に目をやって、「どうして苫村は、こんな狭い道に飛び降りたんでしょう?」
「どうしてって、別に賑やかな道でなけれりゃ飛び降りちゃならないなんて決まりはないだろ」
「それはそうですけれど」
「階段室から屋上に出て、まっすぐ歩くとこの道路に面した壁面になるんだ」
「そう言えば、見せてもらった映像でもそうでしたね。飛び降りるつもりで屋上に出たなら、この道路にダイブしてしまうのは自然、ということですね」
「映像と言えば、飛び降りた男が苫村とは全くの別人だったことについては、どうだ? 何かトリックが分かりそうか?」
「トリックと言われましても……これが逆だったら、まだ解釈の余地はあるんですけれどね」
「どういうことだ? 逆とは、飛び降りたのが苫村で、転落死体で発見されたのが背広の男だったらという場合か?」
「そうです。大柄な苫村が、小柄な男を体の前に抱えた状態で飛び降りるんです。苫村の体にだけはあらかじめ命綱を結んでおきます。で、飛んだ瞬間に手を離す。すると小柄な男だけが地面に激突して自分は無事、という寸法です。カメラに捉えられた後ろ姿だけでは、体の前面に別の誰かを抱え込んでいるとは分からないわけです」
「苫村の体が大きいから、後ろから見る限りでは、小柄な男の全身はすっぽりと隠れてしまうためだな。それはそれで上手い手かもしれんが、確かに今回のトリックには全然当てはまらないな」
「はい。というかですね、そもそも、トリックなんて使われたんでしょうかね? だって、今回のことが複雑化したのは、テレビ局のカメラが偶然捉えた映像が出てきたせいでしょ。あれ以外の目撃者はゼロですよ。トリックを仕掛ける相手がいません。極端な話、あの映像さえなければ警察は自殺と断定して、事件は幕切れしていたんじゃないですか?」
「そうだろうな。行方不明の五百万円の謎はあるが、他殺である根拠があまりに乏しいからな」
「消えた五百万円。その件もありましたね。うーん……」
探偵は腕組みをして唸った。それを見た警部は、
「どうだ、ひと息入れないか。奢るよ」
懐から小銭入れを取りだして近くの自販機に向かい、「コーヒーでいいか?」と警部は二人分の飲料が買えるだけの硬貨を投入した。
「警部、コーヒーなら事務所で僕のスペシャルブレンドを飲んだばかりじゃないですか……あ! もしかして警部、僕のブレンドが口に合わなかったんですか? まさか、缶コーヒーのほうが美味いとか言うんじゃないでしょうね」
警部は無言のまま、コーヒーのボタンを押した。
「どうして黙るんです!」
「君も選べよ」
警部は商品選択ボタンが灯ったままの自販機を指さしたが、
「僕は結構です」
と探偵は口を尖らせて横を向いた。やれやれ、といった表情で警部は代金返却レバーを倒し、釣り銭口から硬貨を回収して、
「……お、昭和六十四年の十円玉だぞ」
取りだした硬貨をしげしげと眺めた。それを横目で見て探偵は、
「確かに昭和六十四年は七日しかありませんでしたけど、だからといって、その年に製造された硬貨に大した価値なんてないんですよ」
「そうなのか?」
警部は残念そうに十円玉を小銭入れに戻して、
「自販機から戻って来る硬貨って、自分が入れたのとは別のものなんだな。初めて知ったよ。俺が入れたのは、最近の年に製造されたピカピカの十円玉だけだったから、すぐに分かった……どうした?」
警部が向くと、探偵は横目ではなく正面からしっかりと警部と、その横の自販機を見つめていた。さらに頭上、七階分の窓が並んだビルの壁面を見て、
「入れたものとは別の十円玉が返ってきた……それはつまり……押し出されて……」
呟きながら探偵は組み合わせた両手を額に付けた。それが、探偵が思考を巡らせているときの癖だと知っている警部は黙って見守る。
「警部」額から手を離した探偵は、「調べてもらいたいことがあります。苫村の会社に、施錠したあとでも、警備会社のシステムに知られることなく会社に出入り可能な出入り口がないか」
「それが何か今回の転落死と関係があるのか?」
「大ありです。さらに……」と探偵はビルを見上げて、「死体の落下位置の直上の窓を調べて下さい……いや、社員に訊いたほうが早いな」
「窓がどうかしたのか?」
「はい。鍵が掛からないはずなんです」
「どういうことだ?」
「とにかく、行きましょう」
探偵はビルに入っていった。
探偵と警部は、会社の総務部の社員に話を訊いた。出入り口と窓については、探偵の言ったとおりだった。このビルのフロアには全て、正面玄関の他に裏口が存在していた。窓もクレセント錠が壊れて施錠できない状態のものが一枚あるという。その位置は、まさに死体が発見された場所の直上だった。加えて、この会社で警備会社のセンサーが付いているのは正面玄関だけで、裏口や窓はセンサーの管理対象になっていないということも訊き出した。ちなみに正面玄関の鍵は全社員が所持しているが、裏口の鍵は限られた数名の社員しか持っていないという。
話を聞き終えた探偵は、
「大きな金庫がありましたね」
応接室に通される途中、オフィスの隅に金庫が置かれていたのを探偵と警部も見ていた。
「ええ、まあ」
総務部の社員も頷いて、他に何かあるかと尋ねてきた。「あります」と答えた探偵は、
「苫村さんが死んだ日、最後まで残業をしていた社員の方と話をさせて下さい」
03
総務部の社員が引き上げて一分ほど経過すると、ノックの音のあとに背広姿の男がひとり、探偵と警部が待つ応接室に入ってきた。「どうも」と簡素な挨拶をして、ぺこりと頭を下げたその男――探偵が呼び出した、とま苫むら村死亡の夜に最後に会社を出た社員――を見て、二人は一瞬目を見合わせた。「知海」と名乗ったその社員は、小柄で、身長は百六十に届かない程度だった。
受け取った名刺を見た探偵は、
「経理部ですか……」
知海は、はい、と小さな声で返事をする。探偵は、名刺から本人に顔を向け、
「このビルの裏の道で、苫村さんの転落死体が発見された前日、あなたは最後に退社されたそうですね」
転落死体という言葉が探偵の口から出ると、知海は一瞬、びくりと体を震わせて、
「そ、そうです」
またも消え入りそうな小さな声で返事をした。
「遅くまで残業する理由があったんですね」
「ええ、翌日が取引先への支払日が重なる日だったので。帳簿の確認と整理に……」
「経理部ですものね。ところで、この会社には大きな金庫がありますね」
「き、金庫くらい、どこの会社にもあると思いますけど……」
「まあ、そうですけれど。あの金庫には普段から現金を入れておくんですか?」
「ど――どうしてそんなことを訊くんです!」
知海は、今までよりは幾分か大きな声で反応した。その顔には動揺の色も浮かんでいた。
「ちょっと気になったもので。今は会社間の金銭のやりとりは、ほとんど銀行振り込みで、現金を置いている会社はあまりないかと思いますが。珍しいですね」
「え、ええ、当社では、ある程度の額の現金を常に金庫に用意してあります。社長の方針で」
「ある程度の金額とは、いかほど?」
「それは……社外秘です」
「五百万円は入っていそうですね」
「なっ?」
「えっ?」
知海と一緒に、隣に座っていた警部も声を発して探偵を見た。
「当たっていますか?」
「……しゃ、社外秘です」
知海は繰り返して視線を逸らした。
「そうですか。ところで」と探偵は話の矛先を変えて、「その日、退社したのは何時でしたか」
「八時半です」
「それは、あくまでタイムカードに押された退社時刻ですよね。知海さん、あなた、その日はもっと遅くまで残業していたんじゃないんですか?」
「な……何を言うんですか?」
知海は視線こそ逸らしたままだったが、声のトーンが上がっていた。対する探偵は、変わらぬ涼しい顔で、
「これも新社長の方針だそうですね。残業が認められるのは八時半まで。あなたはそれを忠実に遵守しようとしていたわけですね……表向きには」
「お、表向きも何も……私は確かに八時半に会社を出ました。警備会社に確認を取ってもらっても構いません」
「ええ、その記録に間違いはないでしょう。ですが、この会社に警備会社のセンサーが取り付けられてるのは正面玄関だけで、もうひとつある裏口や窓には、センサーは一切付いていないそうですね。その裏口を使えば、警備会社のシステムに感知されることなく会社に出入りが出来る。この裏口は、消防法の関係で設置を義務づけられているものですが、八時半を超過して残業をしなければならない場合のアリバイ工作用として、社員の皆さんに使われているんじゃないですか? タイムカードを押して、正面玄関を八時半に施錠すれば、表向き会社には誰もいなくなることになります。残ってさらなる残業をする社員の方は、業務を終えたらその裏口から退社するというわけです。センサーが付いていませんから警備会社に記録はされません。
この裏口の鍵は、限られた社員しか持っていないそうですね。経理部の方はその理由まで教えてはくれませんでしたが、僕が思うに、残業をする頻度が高く、信用の置ける厳選した人物にだけ配布しているのではありませんか? 裏口の性質上、当然の処置です。その人物の中に知海さん、あなたも入っていたのでは」
知海は黙ってしまった。言い返したいが、うまい言葉が出て来ない。そういったもどかしさが見て取れる表情だった。
「話を変えましょう」探偵は事もなげにソファに座り直すと、「どう思いましたか、苫村さんがこのビルから転落死したと聞いて」
「ど、どう思うとかは……別に……」
「驚いたのではないですか?」
「ええ……それは……」
「驚くと同時に、何か、オカルトめいたものを感じたんじゃありませんか? まさか、苫村さんがこのビルの屋上から飛び降りるなんて」
「ど……どういう意味でしょう……」
「あなたが見た夢と同じだったからです――」
探偵が言うと、知海は終始伏せ気味だった顔を上げ、驚愕の色がありありと見て取れる眼で探偵の顔を凝視した。
「おい」警部も、わけが分からないという顔で探偵を見て、「どういうことだ?」
「今から説明します。あ、これから僕が話すことは、多分に僕自身の想像が含まれますので、事実と違っているところがあったら、その都度指摘して下さい」
探偵の後半の言葉は知海に向けられたものだったが、言われた知海は何の意思表示も示さないまま、ただ絶句を続けるだけだった。それを了承の意味と取ったのか、探偵は話し始めた。
「一週間前――苫村さんが死んだ日ですね――知海さんは、支払日が重なる翌日に向けての業務処理のため、ひとりで残業をしていました。会社の規定、というか社長の方針では、どんなに遅くとも残業は夜の八時半までに切り上げることになっていましたが、その八時半になっても仕事は終わらなかった。知海さんは――恐らく常態的にやっていることなのかもしれませんが――社長の手前、八時半にタイムカードを押し、警備会社の記録にも残業の痕跡が残らないよう、正面玄関に施錠をしました。ここからはサービス残業、いえ、隠れ残業の時間となります。社内の照明も落とし、知海さんは自分のデスクのライトだけを点けて残業を再開しました。万が一のことを考えて、窓から漏れる明りを外部から目撃されないようにするためです。
知海さんの残業は、十時近くになって、ようやくけりが付きました。あとは警備会社のセンサーが入っていない裏口のドアから帰るだけ。ですが……知海さん、あなたはかなりの心配性のようですね。帰る前に確認しておきたいことがあった。それは、金庫の中身です。これも社長の方針で、金庫には常にある程度の額の現金を置いておくことになっていた。経理部であるあなたの癖だったのか、翌日が支払日が重なる日だということも関係していたのかもしれません。とにかく、あなたは金庫を開けて中を覗いた。中身は……空っぽだったんですね。常備されているはずの現金、五百万円が消えていた」
知海が息を呑む音が聞こえた。警部は神妙な表情で、探偵と経理部社員の顔に交互に目をやる。
「五百万円もの大金がなくなっている。それを知った瞬間の、経理部として、会社の文字通り金庫を預かる身である知海さんの心中は察するに余りあります。これまで見させていただいた言動から、あなたがとても小心であることが分かります。それと同時に、強い責任感もお持ちなのでしょう。そんなあなたは、あまりに衝撃的な出来事にパニックを起こしてしまい、ある破壊的な行動を取ってしまった」ここで一度探偵は言葉を止め、大きく息を吐くと、「知海さん、絶望に捕らわれたあなたは、会社を出て屋上に向かった。飛び降り自殺を図るためです。時刻にして、午後九時五十分。しばらく屋上の縁に立ち、身を投げる決意を固めて行動を起こしたのは、午後十時五分のことでした」
「な……なんで……」知海は驚愕と困惑がない交ぜになったような顔で探偵を見て、「で、でも、あれは……あのことは……」
「あなたがおっしゃりたいことは分かります。ですが、あれは夢ではありません。知海さん、あなたは実際にこのビルの屋上から飛び降りたのです」
「し……しかし――」
「同時に」知海の言葉を遮るように探偵は、「何という運命の悪戯でしょうかね。あなたが屋上に上がって飛び降りの決意を固めるまでの間に、この会社に侵入を果たした人物がいたんです。亡くなった苫村さんです」
「苫村が?」声を発したのは警部だった。「裏口からか?」
「いえ、警部、さっきも言ったように、裏口の鍵は信用の置ける厳選した社員にしか渡されていません。苫村さんがそれに該当していたとは思えない」
「じゃあ、どこから? 正面玄関を解錠したのでは、警備会社のセンサーが働くはずだが、そんな記録は残っていない」
「ええ、だから、窓しかありません」
「窓?」
「そうです。窓にも警備会社のセンサーは入っていません。ここは六階なので、施錠さえしてしまえば、窓からの侵入はまずあり得ないという判断からなのでしょうか。ですが、このフロアにはひとつだけ、鍵が壊れて施錠できない窓があるそうですね。苫村さんもそれを知っていたのでしょう。侵入口はそこです。その窓は非常階段に近い位置で、壁に這わせてあるエアコンのダクトを伝うアクロバットさえこなせば侵入は可能でした」
「苫村は何のために侵入なんてしたんだ? 自分の務める会社なんだから、堂々と業務時間中に入ればいいじゃないか」
「それが出来ない事情があったんです。記録が残るため正面玄関から入らなかった理由にも繋がります。何たって、苫村さんの用事というのは、着服した現金を返還することでしたから」
「着服? ――あっ! まさか?」
「そうです。苫村さんの大勝負の軍資金は、会社の金庫から拝借したものだったんです。彼は何らかの経緯で金庫の鍵番号を知ったのでしょう」
探偵は一度言葉を切った。知海は呆然とした表情で押し黙ったままでいる。沈黙を破って警部が探偵に話し掛けた。
「苫村が死んだのは、窓からの侵入に失敗して転落したためということか?」
「正確には違いますね。苫村さんは侵入には成功しました、奇禍に遭ったのは脱出時です。
経緯はこうです。
イカサマで博打に勝った苫村さんは、拝借していた元手の五百万円を返すため、非常階段を上り壁を伝い、施錠されない窓から会社に侵入しました。彼もその翌日が支払いの重なる日で、金庫の中の現金が必要になると知っていたのでしょう。返却を急いだ理由です。
外から見る限り、社内に照明は灯っていませんでした。それで苫村さんは、会社に誰も残ってはいないと踏んで行動に移したのでしょうが、実際には知海さんがひとりで残業をしていました。デスクの明りだけを点けていたので、外からは分からなかったのです。
苫村さんが侵入を果たした時刻は奇しくも、ちょうど知海さんが屋上に向かって社内が空になった状態のときでした。知海さんのデスクの明りが点いているのを目撃したかもしれませんが、消し忘れだろうくらいにしか思わなかったことでしょう。苫村さんは金庫を開けて、持って来た五百万円を返却します。あとは速やかに脱出を計るだけ、苫村さんは入ってきたときと同じ窓の枠に足を掛け、外に身を乗り出します……まさに、その瞬間でした。直上から知海さんが降ってきたのは」
「飛び降りた位置と侵入した窓が同一線上にあったということか!」
「そうです。突然頭上から強い衝撃を受け、苫村さんは転落してしまいます。知海さんは飛び降りる瞬間、目をつむっていたんでしょう。窓から乗り出している苫村さんが真下にいることなど分からなかった。もっとも、あの道路には外灯がないため、目視していたとしても視認できなかった可能性が高いですけれどね。ともかく、飛び降りた知海さんは苫村さんと衝突してしまいます。転落した苫村さんは地面と激突して死亡。知海さんのほうは、苫村さんと衝突した弾みで、開いていた窓から社内に転がり入ってしまい、そこで気を失った。
数分後か、数時間後か分かりませんが、知海さんは目を覚まします。当然、不思議に思ったことでしょう。屋上から飛び降りたはずの自分が、どうして社内で気を失っているのだろうかと。とにもかくにも、知海さんは自分が飛び降りを決意するに至った原因である金庫の中をもう一度見てみました。そこには……」
「現金五百万円があったということだな。苫村が返したから」
「そうです。それを目撃した知海さんは、一連の出来事、つまり、金庫の中から現金が消えており、責任を取る決意を固めて屋上から身を投げたまでの一切が、残業の疲労から気を失って見た夢だったのだと思った。そのとき、知海さんの心に湧き出た安堵感は相当なものだったでしょうね。
窓が開いているのを不思議に思ったかもしれませんが、当然、きちんと閉めて帰ります。そのとき、窓直下には苫村さんの転落死体が横たわっていたわけですが、さっきも言いましたが、あの道路は暗いため、目を向けたとしても恐らく視認は無理だったでしょう。知海さん……」ここで探偵は知海に向き直って、「あなたの知らない情報もあったでしょうが、これがあの夜に起きた出来事の全てだと、僕は推理しました。どうですか。あなたが体験したこと。金庫の中から現金が消えていて、屋上から飛び降りたはずが社内で目を覚まし、なぜか金庫に現金が戻っていた、ということだけでも証言してもらえますか?」
探偵に返答せず、呆然とした眼差しでテーブルの端を見つめるだけだった知海は、「それじゃあ……苫村が死んだ原因は私だと。私が、あの苫村を殺したと、こういうことになるんですか?」
「それはまあ……」探偵は複雑な表情をして、「あなたに殺意はなかったでしょうし、偶然が重なった事故としか――」
「ははは……」
知海は乾いた笑い声を発した。探偵は言葉を止め、警部と一緒に知海を見た。
「いい気味です。苫村のやつ、いつもいつも威張りくさって、全然仕事をしない、いや、出来ないくせに……。ざまあ見ろ……」
知海の目は、もうどこも見てはいなかった。
数日後、警部は探偵の事務所を訪れていた。
「例の鍵が掛からない窓近くの外壁から、苫村の指紋が検出された。普通に考えて、あんなところに指紋が付くはずはないからな。エアコンのダクトの上に、僅かだが人が歩いたような不自然なへこみも発見されたよ。窓枠の隙間からも、苫村の住んでいたアパート敷地内の土と同じ成分の微量な土が採取された。六階の約二十メートルという高さも、苫村が転落死した高度の二十メートルから二十五メートルという範囲の中だし、君の推理で決まりだろうな。何より、それ以外に、あの飛び降り映像が撮影された理屈が考えられない」
「知海も証言をしたそうですね」
「ああ、これも君の推理どおりだった。さらに知海が語ったことによると、どうも苫村が金庫から現金を拝借したのは、あれが初めてではなかったらしい」
「まさか、それまでのカジノの軍資金も?」
「全額ではないが、そうだろう。時折、知海が金庫の中を確認して、現金が数万円程度少なくなっていることが何回かあったそうだ」
「そんなことが、今まで露見してこなかったんですか?」
「呆れたことに、その都度、知海が自分のポケットマネーで補完していたそうだ。管理責任を問われておお大ごと事になるよりはいいと判断したんだそうだ。上司への報告も、会社の不祥事になると思って切り出せなかったと言っている」
「気が弱いにも程がありますね。彼の行動も、愛社精神のひとつの形なんでしょうかね」
「責任を感じて、一度は自殺を決意したくらいだからな。加えて、『苫村は自分が殺した』などと、わけの分からない供述まで始める始末だ。普段の苫村の言動が、余程腹に据えかねていたんだろうな」
「会社勤めって、色々と複雑ですね。僕は気ままな自由業でよかった」
「そもそも、君に会社員は絶対に務まらないだろうがな」
「ひどいな、警部」探偵は不満の声を上げて、「あ、そういえば警部、まだ答えを聞かせてもらっていませんよ」
「何のだ?」
「僕のスペシャルブレンドと、自販機の缶コーヒー、どっちのほうが美味いと思っているかですよ」
「おっと、会議があるんだった。じゃ」
「警部!」
一瞬だけ腕時計に目を落とした警部は、そそくさと事務所を出て行った。