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探偵流儀シリーズcase-10 三年目の切り裂きジャック

「『切り裂きジャック』憶えてるか?」
「もちろん。忘れようがありませんよ」

 事務所を訪れた警部の質問に、探偵は答えた。

「最後の事件から、もう何年も出現していませんよね」
「三年だ」
「そんなになりますか。でも警部、どうしてその話を? あの事件が起きた地域は警部の管轄外だったはずですが」
「見てくれ」

 警部が数枚の写真を応接テーブルに投げた。探偵は表情を険しくさせる。写真は女性の刺殺体を写したものだった。

「先日、うちの管内で発見された死体だ」
「女性ですね。三十歳前後といったところですか。美人ですね。でも警部、この女性がどうかしましたか?」
「最後の一枚を見てくれ」

 警部に言われ、探偵は重ねてある中の一番下の写真を手に取った。

「……これは?」

 怪訝な顔で探偵は呟いた。その写真は、死体の手の甲がアップで撮影されたもので、そこには複雑な書体でアルファベットの「J」が刻まれていた。

「これは外部に漏れていない、完全な捜査上の秘密なんだが……それは、切り裂きジャックの『刻印』だ」
「『刻印』?」
「やつは、自分が殺した被害者の左手の甲に、そのアルファベットの『J』の文字を刻んでいたんだ」
「ということは?」
「ああ。やつが復活した。三年の沈黙を破ってな」

 ただでさえ険しい表情をしていた警部は、その顔にさらに皺を増やした。

「そういうことですか……。では、やはり、この被害者女性も風俗で働いていた?」
「いや、専業主婦だ」
「主婦? ジャックが手に掛けるのは風俗関係のサービス業に従事している女性ばかりだとニュースや新聞で伝えられていましたが?」
「この被害者が過去にそういった職に就いていたという経歴もない」
「こんなことは初めてですね」
「ああ。それ以外にも、今回はおかしな点がいくつかあるんだ。まず、『刻印』だが、写真を見て何か気付かないか?」
「分かります。これは『右手』ですね」
「そうだ。ジャックが刻印を残すのは、さっきも言ったとおり、被害者の左手の甲と決まっていた。それが今回は右手になっている」
「ええ」
「もうひとつ。この『刻印』は向きが変なんだ」
「どういう意味ですか?」
「今までの『刻印』は、その『J』の文字の上が手首の側に向いていたんだが、今回のそれは小指の側が上になっている」
「なるほど、文字が反時計回りに九十度回転しているわけですね」探偵は写真を傾けて、「で、そもそも、どういう状況で事件が発覚したんですか」
「それはだな……」

 三日前のこと。被害者の夫が会社を無断欠勤し、携帯電話にも出ないため、上司が彼の住居であるアパートを訪問した。玄関に鍵は掛かっておらず、室内への呼びかけにも応答がないため、中に踏み込んだ上司が、腹部から血を流し倒れている被害者を発見した。すぐそばに落ちていた包丁が凶器と断定され、それは台所にあったものと見られ、指紋は夫婦二人のものだけが検出された。

「無断欠勤したという夫は?」
「依然行方不明中だ」
「彼が犯人という線は?」
「であれば、そいつがジャックということになるな」
「そうですね。犯人以外に知り得るはずのない『刻印』が死体に残されているのですからね」
「ならばシロだ。夫は四年前に半年間海外出張に行っているんだが、その期間がジャックの犯行のうちの二件と重なる」
「完全なアリバイがあると。かつ、『刻印』のことは外部に漏れてはいないから、模倣犯でもあり得ない」
「そういうことだ。だがな、この夫、切り裂きジャックと無関係というわけではないんだ」
「どういうことですか?」
「彼のお姉さんは、やつの被害者のひとりなんだ。三年前に殺されている」
「えっ?」
「両親は早くに他界しており、たった二人きりの肉親だったそうだ。姉は弟の学費を捻出するために風俗で働いていたそうだ。その犯行を最後に、ジャックは雲隠れしてしまった。彼のお姉さんは、切り裂きジャック最後の被害者だったんだ」
「そんな関係が」
「アリバイの件といい、彼が切り裂きジャックだとは考えがたいだろう」
「確かに」
「だがな、妻に対する殺意は、なくはないかもしれん」
「というと?」
「夫婦の部屋から言い争いをするような物音がしたのを、近所の住人が聞いてる」
「夫婦喧嘩ですか」
「たぶんな。だが、その夫婦は普段から仲がいいので有名だったらしい。二人で腕を組んで出掛けたりするのを、近所の住人に何度も目撃されてる。同様の証言は職場からも聞かれてる。何でも、近々結婚三周年の記念日が来るから、夫が有給をとって二人で海外旅行に出掛ける計画もあったそうだ。実際、旅行会社に予約も入れてる」
「夫が犯人――すなわち切り裂きジャックであれば、四年前の犯行は何かしらのアリバイトリックが使われたということになりますね」
「ああ。しかし海外だからな。難しいだろう」
「ですが、どのみち犯人はジャック以外にあり得ないわけですよね。あの『刻印』がある限り」
「そうなんだ。被害者は、たまたまジャックに襲われただけだったのか?」
「ひとつの仮説として、ジャックは実は二人いた、というのが考えられますね」
「夫が海外出張時には、その相棒が犯行を重ねていたということか」
「はい。ですが、どうもしっくり来ませんね」
「俺もだ。だいたい、どうしてジャックは三年間も雲隠れしていて、今になって再び犯行を犯したんだ? そのターゲットが、これまでとは違い一介の主婦だったのはなぜだ? 夫が行方をくらましている理由も分からん」
「……警部、少し時間をもらえますか。色々と調べてみる必要があります」
「頼むぞ」



 後日、警部は探偵に呼び出され、彼の事務所を訪れた。
「謎が解けたって?」
「まだ推測に過ぎない部分もありますが」
「構わん。聞かせてくれ」
「はい。まず……今回の事件の犯人は、切り裂きジャックではありません」
「なに? じゃあ、あの『刻印』はどう説明する?」
「ジャックは犯人でこそありませんが、この事件に大きな関わりを持っています」
「どういうことだ?」
「殺された妻が、切り裂きジャックだったんですよ」
「……なんだと?」
「経緯はこうです。事件の起きた日、二人の間に何かのトラブルが起きて夫婦喧嘩に発展。夫は妻を台所にあった包丁で刺してしまいます。怖くなった夫は、そのまま逃亡した。刺された妻のほうですが、彼女は即死したわけではありませんでした。朦朧とした意識の中、彼女はこう考えたのではないでしょうか。『この事件を切り裂きジャックの仕業に見せかけて、夫を庇おう』と。そのために行うべきことは、ただひとつ。犯人と警察しか知らない『刻印』を自分の手の甲に刻むことです」
「凶器となった包丁を使って? だが、どうして今までの犯行とは違い、右手に刻印を?」
「彼女は左利きだったのではないでしょうか」
「――そういうことか!」
「加えて、自分で自分の手の甲に文字を刻もうとしたら、それまでやっていたような、手首側を上にして刻むことは難しかったはずです。自分の手の甲に何かを書こうとする動作を思い浮かべてみて下さい」
「……確かに。小指のある側が上になってしまう! だが、どうして彼女は、そんなことを?」
「三年前のことが無関係ではないのでしょうね」
「三年前……切り裂きジャックが雲隠れした年?」
「はい。同時に、あの夫婦が結婚した年でもあります」
「待て! まさか?」
「切り裂きジャックは、自分が殺した女性の弟と結婚したんです。そして、それ以来、ぴたりと犯行をやめた。殺された妻は幼少時、父子家庭で育ったのですが、彼女が幼い時分に父親が風俗嬢と関係を持ち、子供を捨てて逃げてしまった過去があったそうですね」
「風俗関係の女性ばかりを狙ったのは、それが理由?」
「彼女が死んでしまった以上、推測するしかありませんけれどね」
「そもそも、どうして夫は妻を刺したりしたんだ?」
「些細な感情の行き違いに過ぎなかったのかもしれません。刺したほうも、刺されたほうも、こんな結末になるとは予想もしていなかったのではないでしょうか。だからこそ、妻は夫の罪を庇おうとした」
「切り裂きジャックの仕業に見せかけて、か」
「はい。恐らく、夫に海外出張歴があることを彼女は知っていたでしょうし、であれば、その時期が切り裂きジャックの、つまり自分自身の犯行のいくつかと重なっていることも当然分かっていたはずです」
「自分の死が切り裂きジャックの犯行と目されている限り、夫に嫌疑が及ぶことはないということか。それにしても、なぜ彼女は、自分が殺した女性の弟と結婚しようと……」
「彼の境遇を知ってしまったのではないでしょうか。両親に早くに先立たれ、たったひとりの肉親である姉を殺人鬼に殺され、ひとりぼっちになってしまった彼に、自分の境遇を重ね、気に掛けるようになったのでは」
「彼のほうでも彼女のことを憎からず思うようになり、相思相愛になった、か」
「その可能性は十分にあると思います。彼女なりの贖罪の気持ちもあったのかもしれません。ですが、同時に激しい葛藤にも襲われたことでしょう。自分が犯してきた罪の意識に嘖まれることもあったと、僕は思います」
「だから、切り裂きジャックは消え去ったんだな。三年前に」

 警部は、ふう、と深いため息を吐いてから、

「なあ、逃亡した夫は、どうしていると思う?」
「愛する人を手を掛け、その場から逃げ出してしまった。彼女の死は新聞やニュースで知ったでしょう。罪の意識に嘖まれているのは彼も同じはずです。もしかしたら、もうすでに……」

 探偵は、事務所の窓に目を向け、沈みゆく紅い夕日を瞳に映した。

 夫が自殺体で発見されたのは、それから数日後のことだった。残されていた遺書には、妻に対する詫びと感謝の言葉が連ねられていた。

「愛する妻が、自分の姉を殺した切り裂きジャックだと知ることがなかったのは、彼にとってよいことだったのではないでしょうか」

 知らせを聞いた探偵は、警部にそう呟いた。




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