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探偵流儀シリーズcase-15 雨と猫と探偵と

目次

01

「今朝のニュースを見たか」

 探偵の事務所を訪れた警部は、言いながら応接セットのソファに腰を落とした。そこは今や彼の定位置と化し、尻の形に座面を変形させつつある。

「殺人事件のことですね」応じて探偵は、オリジナルブレンドのコーヒーを出して、「マンションの一室から女性の他殺体が発見されたとか」
「そうだ」と警部はカップに大量の砂糖とミルクを投入しながら、「鉄製の置時計で頭部を殴られていた。室内が荒らされていて、金目のものもなくなっていたため、流しの強盗殺人の線で捜査を進めているんだが……」
「その歯切れが悪さからして、警部はそうは見ていないと」

 すると警部は、うーん、と唸る。そこへ探偵は、

「しかも、目星をつけている具体的な容疑者がいるんですね」

 警部は黙って頷いた。

「でも」と探偵もカップを手に警部の対面に座り、「これといった証拠がない」
「よく分かるな」
「長い付き合いですからね」
「事件のあらましはこうだ」

 被害者の死体が発見されたのは、昨日の午後四時半のことだった。夕食を共にする約束をしていた同性の友人が被害者女性の部屋を訪れたのだが、いくら呼び鈴を鳴らしても応答がなく、携帯電話に架電してみても一向に通じない。そこで試しに玄関のドアノブを回してみると、施錠がされていなかったため、友人は女性の名前を呼びながら部屋に入り込んだ。

「そこで、頭部から血を流して倒れている被害者を発見したんだな。救急車を呼んだが、その時点ですでに女性は息を引き取っていたようだ。死亡推定時刻は午後三時から四時の間と見られてる。通報を受けて駆け付けた警察は、部屋が荒らされていたことから強盗殺人の線で捜査を開始した。死体発見者である友人の話から、被害者の女性は長年連れ添った恋人と同棲していたことが分かったため、その男にも連絡を入れた」
「もしかして、警部が目をつけている容疑者というのは」
「ああ、その恋人の男だよ」
「何か理由があるんですよね」
「もちろんだ。聴取した感じ、どうも怪しいし、友人の話によると、被害者の女性と恋人との関係は、あまり上手くいっていなかったそうだ。どうやら相手が浮気をしているらしい、と電話でよく愚痴を聞かされていたと。その辺りの事情がが動機になった可能性もある」
「浮気ですか。二人の関係は長いんですか?」
「付き合い始めてから六年というのが、今の感覚で長い部類に入るのならな。これも友人の話だが、結婚するタイミングを逃したまま、ずるずると関係が続いている典型だったそうだ」
「ははあ。殺された女性と、同棲していた男の、人となりは?」
「女性のほうは普通の勤め人だ。動物好きで、特に猫に目がなかったらしい。今のマンションはペット禁止だから、ペットオーケーの物件に引っ越して猫を飼いたい、といつも漏らしていたそうだ。
 男のほうはアパレルショップの店員だ。仕事柄、女性と知り合う機会が多く、もし本当に男が浮気をしていたというのであれば、そんな環境も要因になったのかもしれんな」

 それを聞き終えると、探偵は、

「その男にアリバイは?」
「ある。その日、男は女性と二人で車で街まで買い物に出かけたそうだ。部屋を出たのは午前十一時過ぎだと言っている。で、街についてしばらく女性の買い物に付き合っていたんだが、自分は友人に会うために別行動をとってため、女性はひとりでマンションに帰ったと供述している」
「具体的な時間は分かりますか?」
「ああ、女性のバッグにレシートが残っていた。マンションから街までは車で三十分ほどだ。十二時から二時くらいにかけて、複数の店舗で買い物をしたことは間違いないな」
「死亡推定時刻が三時から四時ということは、帰宅して少し経ったところで奇禍に遭ったわけですね。で、街で女性と別れてからの男の行動は?」
「午後一時頃から友人とずっと一緒だったと供述していて、その友人も認めている。実際、死体発見を知らせるために電話をしたとき、男がその友人のアパートにいたことは間違いないと思われる。携帯の電波をその近くの基地局から受けていたことが判明してるからな」
「その友人の証言は信用していいんですか?」

 訊かれると、警部は難しい顔をして腕を組み、

「正直、微妙なところだ。高校時代からの友人で、しょっちゅう一緒にギャンブルや夜遊びに連れ立っている、悪友といったタイプの人間だな。遊び好きの軽薄な感じの男で、口裏合わせを頼まれれば簡単に応じるだろうというのが俺の印象だ」
「その友人と会う前、女性と買い物をしていたところを目撃されたりはしていないんですか? 男が実際は被害者と一緒に帰宅したのであれば、午後一時以降もずっと買い物に付き合っていたはずですが」
「それもあやふやなんだな。女性は買い物途中で知り合いに出会ったようでもなく、どこかの店員と顔なじみだったわけでもないので、女性が男と一緒にいたことを証言できる人物も見つかっていないんだ」
「では、もしその男が犯人だったなら、経緯はこういうことになりますね。
 女性と買い物に出かけた男は、供述とは違い、別行動を取ることなく、実際は女性と一緒にマンションまで帰ってきていた。そこで何かしら口論などが起きて女性を殺害してしまう。男は部屋を荒らして強盗の仕業に見せかけてから、こっそりとマンションを出て、悪友のもとを訪れて、『午後一時からずっと一緒だったことにしてくれ』と虚偽のアリバイ証言を頼む。で、マンションで死体が発見されたことで、警察からの電話を受け取った、と」

 探偵の話に、警部は大きく頷いて、

「ちなみに、二人が入居していた部屋は非常口の近くで、そこに繋がる非常階段を使えば、他の入居者に目撃されずにマンションを抜け出すことは難しくないだろう。しかも、非常階段を下りた先は、監視カメラなど一切ない裏路地だ」
「殺害現場は、そもそも容疑者の住まいなんですから、そこら中から指紋やら何やら出てきても全然おかしくありませんしね」
「凶器となった置時計は丁寧に拭われていたが、これは強盗に見せかけるための偽装だろうな。まあ、本当にその男が犯人だとしてだが」
「僕は警部の勘を信じますよ」
「買ってくれるのは嬉しいが、なにぶん今言ったように決め手がない……ああ、そうだ」
「何ですか?」
「いや、これは事件に関係があるかは分からんのだがな」と警部は断ったうえで、「今朝、男の奇妙な行動が目撃されてる」
「奇妙な行動? どんな?」
「バケツを持っていたそうだ」
「バケツ?」
「ああ、入居者のひとりが、男がバケツ――どこにでもある青いポリバケツだったそうだが――を持ってマンションに入っていくところを見たという話を聞いた」
「……事件と関係があるんでしょうか?」
「だから、分からんが、と言っただろう」
「ですね。それじゃあ、とりあえず現場を見てみます。案内してください」
「鑑識作業が終わって引き渡しは済んでいるから、男の許可なしでは部屋には入れないぞ」
「構いません。プロの鑑識を向こうにして、今さら僕が何か発見できるとは思ってませんから。マンションの周辺だけ見られればと」
「よしきた」

 警部は緩くなったコーヒーの残りを一気に飲み干した。

「雨、本格的にあがったみたいですね」
「そうだな」

 事務所を出た二人は、そろって空を見上げた。昨日の昼過ぎから断続的に降り続いていた小雨はやんでおり、雲の切れ間から太陽の光が差し込んできていた。



 警部は、運転する覆面パトを現場となったマンション前の道路につけた。車を降りた探偵は、

「水道がありますね」

 マンション玄関脇に備え付けられている共同水道の蛇口を見やった。

「バケツの件が気になっているんだな」
「ええ……」探偵は、玄関周辺をぐるりと見てから、「非常階段は?」
「向こうだ」

 警部はマンション横の、人ひとりがやっと通れる程度の狭い道を指さした。
 マンション裏口に設置された非常階段を何段か上り下りして、探偵は、

「注意すれば、足音を響かせずに階段を下りることは可能ですね。しかも、警部の話にあったように、人っ子ひとりいない寂しい路地です。ここからなら、誰にも目撃されずにマンションを抜け出せすことも出来るでしょうね」

 裏通りの左右を見回した。雨上がり直後のため、アスファルトはまだ黒く濡れている。警部も大きなため息をついて、

「やはり、地道に聞き込み捜査を続けるしかないみたいだな。それか、本当に流しの強盗の仕業なのかもしれんし」
「弱気にならないで下さい、警部。いざとなったら、男の友人を締め上げて嘘の供述をしたことを吐かせればいいじゃないですか」
「馬鹿言え。そんな手段で引き出した証言なんて、検察に突っぱねられるよ。だから、こうして君に協力を仰いでるんだ」
「もちろん、僕としても力になりたいのはやまやまですが……犯行が単純なだけに、手がかりの掴みようがありませんね。密室で見立ての首なし死体でも出てくるような事件のほうが、まだ手の打ちようがありますよ」
「そんな物騒な事件、君は手掛けたことないだろ」
「ものの例えですよ」今度は探偵がため息を吐き、「そうだ、買い物に使った車はどこですか? 見たところ、このマンションに駐車場はないようですが」
「ああ、このマンションには専用の駐車場がない。だから、殺された女性は近くの月極め駐車場を契約していたそうだ」
「ん? 警部、今、女性が、って」
「ああ、言ってなかったな。車の所有者は女性のほうなんだ。というのも、同棲していた男は免許を持っていないからな。こっちだ」

 警部は歩き出し、探偵も何事か考えるような顔をしながら、彼の背中に続いた。

 その駐車場は、乗用車四台分のスペースしかない小さなもので、駐められているのは一台だけだった。

「あの車が女性のものだ」
「他は空いていますね」
「ああ、地主に訊いてみたが、現在契約しているのは殺された女性の一台だけだそうだ。この辺りは駅から近いので、移動には鉄道を使う人が多いせいかもしれないな」
「なるほど……」車に近づこうとした探偵だったが、すぐに立ち止まり、「あ、猫だ」
 駐車場の隅にある二匹の猫に目を留めた。同じ柄で体格が異なっていることから、親子であると察せられる。

「野良猫かな?」中腰の体勢になって、ゆっくりと近づこうとした探偵だったが、「――あっ!」
 二匹の猫は、危険を察知したかのように走り出し、路地裏に姿を消した。と、そこに、

「あー、逃げちゃいましたね」

 声をかけてきた人物がいた。見ると、近くの中学校制服姿の女の子が残念そうな表情をして佇んでいた。手にはスマートフォンが握られている。どうやら猫を写真に収めようとしていたらしい。

「君の飼い猫かい?」

 探偵が訊くと、女子は首を左右に振って、

「この辺りを縄張りにしている野良猫ですよ。でも、おかしいなぁ」
「何がだい?」
「あの猫、野良だけれど人によく懐いていたはずなんですよ。私も何度も近づいてモデルになってもらったことありましたから」

 握っているスマートフォンを見た。

「でも」と探偵は、「今の反応を見るに、とても人に懐いているとは思えないけどね。僕が初対面だったからいけなかったのかな?」
「いえ、関係ないですよ。私だって、初めて見たときから簡単に近づけましたし」
「ねえ、君が最後にあの猫ちゃんを見たのは、いつのこと?」
「昨日の朝ですよ。そのときは問題なく近づけて、頭まで撫でさせてくれたのに」

 そう答えると女の子は、おかしいな、と頭を傾げ、それじゃあ、と挨拶をして歩き去った。
 女の子の背中を見送り、無言でその場に立っていた探偵は、

「猫……」

 ぼそりと呟くと、車に寄って行き、その横で地面に両手をついて腹ばいになった。

「おいおい、どうした?」

 と警部も駆け寄る。

「……濡れています」

 車の下を覗き込んだ探偵が言うと、

「はあ?」警部は怪訝な表情をして、「そりゃ、濡れてて当たり前だろ。ついさっきまで雨が降っていたんだからな」

 と、すっかり晴れ間が広がる空を見上げた。

「警部」腹ばいの姿勢から立ち上がった探偵は、「容疑者の男は、車で買い物に行ったと供述しているんでしたね」
「ああ」
「男は免許を持っていない。ということは、運転したのは女性のほうということになりますね」
「そりゃ、そうだろ」
「そこに、つけ入る隙があるかもしれません」
「どういうことだ?」

 警部の目を見て、探偵はにやりと笑みを浮かべた。


02

「警部、容疑者の男は、買い物に行ってはいないんですよ」
「なに?」
「街まで買い物に出かけたのは、女性ひとりだけです」
「どうしてそんなことが分かる?」
「しかもですね」探偵は警部の疑問にすぐには答えず、「女性が街への移動手段として使ったのは、鉄道です」
「はあ?」
「車には乗っていかなかったんですよ。事件の経緯は恐らくこうです。
 昨日の午前十一時頃、女性は電車に乗って街まで買い物に出かけます。その間、男はずっとマンションの部屋にいました。で、午後三時頃、女性が帰宅します。そこで何かしら口論などの揉め事が起き、女性を殺害してしまった男は、友人に電話をしてアリバイ工作を頼みます。つまり、自分は女性と一緒に買い物に出かけたが、途中で別行動を取り、それ以降はずっとその友人と一緒だったと証言してもらうわけです。男は流しの強盗の犯行に見せかけるため、凶器となった置時計を拭い、室内を荒らして金目のものを回収したあと、非常階段と人通りのない裏路地を伝ってマンションを出て、その友人のもとへ向かったというわけです」
「……」無言で探偵の言葉を聞いていた警部は、「どうしてそんなことが分かる? 特に、女性が買い物の足として車ではなく鉄道を使ったということが」

 それを訊かれると、探偵は、

「警部、この一帯では、昨日から小雨が降ったり止んだりを繰り返していましたね」
「ほいほい話が飛ぶな……」困惑の表情を見せながらも、警部は、「ああ、降り始めたのは、昨日の昼過ぎからだったな」
「雨が降れば、地面はどうなります?」
「どうって……そりゃ、濡れるに決まってるだろ」
「はい。ですが、地面の上に何かが覆いかぶさっていたらどうでしょう。その下の地面は濡れますか」
「濡れないな」

 探偵は満足そうに頷いて、

「そうです。雨が降っている屋外だったとしても、そこが何かで覆われていたら、その下の地面は濡れるわけがありません。もちろん、ひどい土砂降りだったりしたら話は別ですが、昨日からの雨は断続的な小雨で、そこまでの雨量ではありませんでした。だから、雨が降る前からずっと駐車したままの車があったとしたら、その下の地面は乾いた状態を保ち続けていたはずです」
「車の下だと――? もしかして!」

 警部は、先ほどの探偵と同じように腹ばいになって車の下を覗き込んだが、

「……濡れてるじゃないか」

 その言葉どおり、被害者の車の真下の地面は他と同じように、一面濡れた状態となっていた。探偵は、「そうです」と答える。よっこらしょ、という声とともに立ち上がった警部は、

「だったら、君のさっきの推理は何なんだ? 何を根拠に、そんな……」

 不満そうな声をぶつけたが、探偵は笑みを浮かべたまま、

「男の仕業ですよ」
「なに?」
「男はてっきり、女性は街までこの車を運転して出かけたとばかり思っていたのです。駅まで近いとはいえ、その時点ではまだ雨が降っていたので、駅まで歩くよりはこの駐車場のほうが断然近いですし、もしかしたら女性が『車で行く』と言っていたのかもしれませんね」
「だが、実際は女性は愛車でなく電車で出かけた? なぜ? それに、どうして君にそんなことが分かった?」
「バケツと猫ですよ」
「バケツと……猫?」

 頓狂な声を上げた警部に、はい、と探偵は、

「さっきの親子猫、僕が近づこうとしたら、すぐに逃げてしまいましたよね。でも、今しがた話をしてくれた女の子によると、あの猫は初対面の人間でも警戒することのない、人懐っこい性格だったそうです。昨日の朝も、猫は女の子に接近を許して頭まで撫でさせてくれたそうですからね。ということは、昨日の朝から今までの間に、あの猫たちに何かがあったということです。今まで容易に接近を許していた人間を急に警戒しなければならなくなった、何かが」
「何かって?」
「水をかけられたからです」
「水だと?」
「そうです、バケツに満ちた水を、盛大にね」
「バケツ――あっ! 容疑者の男?」
「はい」
「今朝、男がバケツを持ち出したのは、猫に水をぶっかけるためだった?」
「いえ、男がバケツで水を汲んだ目的は他にありました。猫は、そのとばっちりを受けただけです。恐らく男は、この車の中に忘れ物でもしたことを思い出し、鍵を持ってこの駐車場へ向かいました。今朝のことです。……警部」
「何だ?」
「こうして近くに立っていると分かりませんが、車から数メートルも離れれば、普通に立っている視点からでも車の下というのは視野に入れることが出来ますよね」
「ああ、そうだな」

 会話を交わしながら、二人はゆっくりと遠ざかると、探偵の言葉どおり、視界に車の下の地面が映ったところで足を止めた。

「男も、気づいたんですよ。車に向かう途中、周囲の路面は上がったばかりの雨で濡れているというのに、この車の下だけは乾いたまま・・・・・・・・・・・・・だということに。それはすなわち、雨が降る前から、この車は一度もこの場から動かされていないことを意味します」
「――自分の証言が嘘だと分かってしまうということか! 車で街まで出かけた、という証言が!」
「そうなんです。男は焦ったでしょう。ただ、彼にとって幸いだったのは、警察がこの車を調べなかったとことです。無理もありませんね。被害者が奇禍に遭ったのは部屋に帰ってからなので、車は犯行とは無関係なわけですからね。しかし、この状態を放置しておくのは明らかにまずい。路面が乾くまでにはまだ時間がかかりますし、その間に警察が『車も調べる』と言い出してここへ来るかもしれませんしね。警察だけでなく、通行人などにその状況――この車の真下だけが雨に濡れていない――を目撃されることだって恐れたはずです。そこで男は……」
「急遽、バケツを持ち出して、車の下に水をぶちまけた。この車が動かされていないという証拠を隠蔽するために……あっ! じゃあ、猫が水をかけられたというのは?」
「そうです。たまたま、この車の下で雨宿りをしていたのでしょうね。雨が上がっても、まだ猫はその場から動かなかった。濡れた路面を歩くよりは、乾いたままの車の下のほうが居心地がよかったせいかもしれません。そこに突然、男によって水をかけられてしまった。猫はびっくりしたことでしょう。そして、そんな仕打ちをする人間という生き物に対して不信感を持つようになり、以来、近づく人間すべてを警戒するようになってしまった」
「……なるほどな」
「だから警部、女性が買い物の足としてこの車を使っていない、つまり、この車が昨日から動かされていないという証拠があればいいわけです」
「『車で買い物に行った』という男の証言が虚偽だと証明できるわけだからな。電車で行ったのを車で行ったと勘違いしていた、なんていう言い訳が通用するわけがない。ここから車で街まで行くには、Nシステムが設置された幹線道路を通る必要があるし、街に入ってからは至る所に監視カメラもあるしな」
「はい。ですが、車で『そこに行った』ことは一瞬でもカメラに映っていれば証明できますが、『行っていない』ことを証明するのは難しいでしょう」
「確かに、昨日の十一時過ぎから三時頃まで、すべての時間においてこの車がここから街までの道中に『映っていない』ことを確認しなければならんわけだしな。骨の折れる仕事だ。それに、不自然極まりないことだが、カメラのない狭い道ばかりを走ったんだと言われたら、覆すのは困難だ」
「はい。ですから、女性が利用していたガソリンスタンドも当たってみるべきだと思います。もし、最近オイル交換などをしていたら、その時点でのものと現在の車の走行距離を照らし合わせて、街まで往復するほど走っていないことが証明できるかもしれません。それと、彼女が鉄道を利用したのであれば、切符の購入に電子マネーなどの記録が残るものを使用した可能性もあります」
「うむ、それも調べよう」

 結果、オイル交換の記録も、監視カメラの映像も確認する必要はなかった。女性の車はその日ごとの走行距離が記録されるシステムを備えており、犯行のあった日は一メートルも動かされていないことが判明した。加えて、女性所有の電子マネーで、犯行当日に最寄り駅から街までの往復分の切符が購入されていたことも分かった。

 これらの証拠を突きつけたことで、容疑者の男も観念したらしく、友人にアリバイ工作を頼んだことを含めて、すべてを自供した。
 犯行の翌朝、煙草を切らした男は、車の中に数本の煙草を残していたことを思い出し、買いに行くよりは近いと駐車場に向かった。そこで車の真下が乾いているのを目撃し、女性が車を使用しなかった、すなわち、それを見つかったら自分の証言がすべて虚偽だとばれてしまうことを知った。それを隠蔽するため、急遽バケツを持ち出して水をまいたことも探偵の推理どおりだった。その際、二匹の猫が車の下にいたということも。一刻も早く証拠隠滅を図りたい男の胸中も知らず(当たり前だが)、二匹の猫は男の顔を見ると、呑気そうに「にゃーん」と鳴いたという。男も最初は先に猫を追い払おうとしたのだが、大声などを出して人目を引いてしまうことを恐れたため、そのまま問答無用で車の下にバケツの水をぶちまけたのだった。
 男が『車で出かけた』と証言したのは、女性は街まで行く際、いつも車を使っていたし、その日も部屋を出る直前、彼女が車の鍵を手にしたのを目撃していたからだという。駐車場がマンションの目の前にでもあれば、エンジン音が聞こえなかったことで車を使用していないのを知ることが出来たかもしれないが、あいにくと駐車場はマンションから離れた場所にあった。女性が車を使用したことに疑いを挟む余地は、男にはまったくなかったのだ。犯行動機についても男は供述した。自身の浮気が原因で始まった口論がエスカレートした結果だったという。

「それにしても……」と警部は、いま一度車のほうを見やって、「どうして彼女は、その日に限って車を使わなかったのかな? 小雨とはいえ雨が降っていたというのに」
「それは、たぶん……かわいそうに思ったからじゃないでしょうか」
「かわいそう? 何が?」
「雨宿りしている屋根を奪ってしまうことを、です。彼女はたいへんな動物好きだったそうですね。とりわけ……」

 にゃー、と鳴き声がした。路地裏から二匹の猫が、ひょっこりと物珍しそうな顔を覗かせていた。





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