「“直観”って信じるか?」
事務所を訪れた警部は開口一番に放った。それに応じて探偵は、
「……人間は何かの選択を迫られたとき、それまでの経験や記憶を参考にして、無意識に自分に少しでも有利なほうを選ぶ本能が備わっている、という説もありますね。それがすなわち“直観”の正体だと。で、警部、どうしてそんなことを訊くんです?」
「“直観”で人を殺したやつがいる」
「どういうことです?」
探偵は二人分のコーヒーを持ち、警部と対面するソファに腰を下ろした。
「昨夜のことだ……」
受け取ったカップにミルクと砂糖を投入しながら、警部は話し始めた。
昨日の夜遅く、ひとりの受験生が気分転換に部屋の換気をしようと窓を開けた。窓からは、数十メートル離れた位置に架かっている一本の橋が見える。その橋に街灯は設置されていなかったが、雲のない夜空だったため、おぼろげながらも、星と月の明かりで橋の上の様子を視認することが出来ていた。橋の上では、今まさに二人の人物がすれ違おうとしているところだった。その直後――片方の人物が、やおらもうひとりのほうに飛びつくと、足をすくうようにして橋の手すりを越させ、川に転落させてしまったのだ。受験生はすぐに携帯電話を掴み、119番通報をした。
「救急から警察に連絡が行き、すぐに警官隊が出動して片っ端から職務質問をかけたところ、いかにも怪しい男が引っかかった。その辺りは近くにコンビニもない寂しい地域で、深夜に歩いている理由を説明できなかったんだな。で、通報した受験生に面通しをさせたんだが、なにぶん夜のことで、目撃場所から現場までは距離もあったため、顔までは分からないそうだが、着ていた服や背格好は突き落とした人物に似ていると証言した。それと、鑑識による指紋照合が決め手となって、橋から被害者を突き落としたのは、その男でほぼ間違いがないだろうという結論になった」
「指紋というのは?」
「被害者は、突き落とされる瞬間に足をばたつかせたため、片方の靴が脱げて橋の上に遺留していたんだな。その靴から真新しい指紋が検出されたんだ。さっき説明したとおり、男は相手の足をすくうようにして転落させたため、そのときに靴に手が触れたんだろうな」
そこまで言うと、警部は甘いコーヒーを喉に流し込んだ。探偵も、こちらはブラックのままコーヒーに口をつけてから、
「で、その男は、どうしてそんな恐ろしい真似をしたっていうんです?」
「“直観”だと」
「そこに繋がるわけですか……」
怪訝な表情をした探偵の顔を見つめたまま、警部は、
「ああ、本人曰く『直観が働いた』んだと。前から歩いてくる相手を見て、『自分はあいつに殺されると直観した』んだそうだ。で、やられる前にとばかりに、相手を橋から突き落としたと」
「……」
「俺も、最初はそんな戯れ言は相手にする必要ないと思ったよ。だがな……」
「何かあったんですか?」
「大ありだ。突き落とされたほうの男は、数時間後に数百メートル下流の川岸で溺死体となって発見されたんだが……その男が、とんでもないやつだった」
「何です?」
「君も連日の報道で知っているだろう。ここ数週間で三名の犠牲者を出した通り魔。それが突き落とされた男だったんだよ。懐にナイフを所持していたんだが、それが被害者の傷口の形状とぴたりと合ったし、現場に犯人が残したと思われる指紋とも一致した。間違いない」
「つまり、突き落とした男の“直観”は当たっていたと」
「馬鹿馬鹿しい話だが、そう認めざるを得ない」
「先に通り魔のほうがナイフを抜いて、それを目にしたから反撃した、というのではないんですか?」
「目撃者の受験生が証言している。突き落とされたほうの男に、そんなそぶりは一切なかったそうだ。二人は、それはもう普通にすれ違って、その直後、片方がもう片方に飛びかかり突き落としたと」
ぽかんとした顔の探偵を前に、警部は、
「まあ、俺だって、そんな話を鵜呑みにしているわけじゃない。だがな、事実、突き落とされたほうは通り魔で、その通り魔がまだ何もしないうちに、男はいきなり突き落としたんだ。“直観”でもって、自分が殺されることを察知してな。……どうだ、何か“からくり”があると思うか?」
「……突き落とした男――以後、便宜上、ただの『男』と呼称します――と、通り魔との間に何か繋がりはなかったんですか?」
「ないな。一面識もない、これ以上ないほどの赤の他人同士だった」
「金品強奪目的だったということは?」
「目撃者がいたことを忘れるな。そういった行動を男は一切取っていない。本当にただ突き落としただけだというんだ」
「うーん……」と探偵は腕組みをして、「じゃあ、とりあえず男の証言を信じることにして、通り魔が本当に男を標的にして殺すつもりでいて、男はそのことを“直観”で察知したのだとして考えてみましょう」
「ああ」
「そうすると、男の行動はおかしくないですか?」
「どうして?」
「橋を歩いていたところ、向こうから近づいてくる人物が自分を殺そうとしているんだと、直観でもって察知したんですよ。その場合、普通はどう行動しますか」
「どうって……」
「逃げるでしょう」
「……まあ、そうだな」
「絶対そうですよ。男も通り魔事件のことは知っていたはずです。あれだけ報道されていたんですからね。であれば、自分に殺気を向けている人物が、その通り魔だったと考えてもおかしくありません。通り魔の凶器が飛び道具ではなくナイフだということは報道されているわけですから、近づいてしまう前に逃げるのが一番ですよ。もしくは、突然逃げ出して相手を刺激してしまうことを恐れて、そのまま歩き続ける選択をしたのだとしても、その場合も、なるべく相手と離れようとするでしょう。何気ないふうを装って、橋の相手が歩いているのとは反対側に移動して、可能な限り距離を取ってすれ違おうとするとか」
「それが自然かもな」
「でしょう。自分に殺意を向けていると分かっている相手に対して、わざわざ接近していくというのは、愚行以外の何物でもありませんよ」
「……だというのに男は、むしろ相手に近づいている。橋から突き落とせるくらいにまで」
「そこですよ」
と探偵は指を鳴らした。それを受けて警部は、
「どこだ?」
「相手を突き落としたっていうところですよ。その結果からして、もうおかしいじゃないですか。『あいつ、俺のことを殺そうとしているな……よし、じゃあ、橋から突き落として返り討ちにしてやろう』この思考、行動自体が尋常じゃないですよ」
「そうかもな」
「ええ、逃げますって、普通は」
「だが、男が相手を突き落としたことは事実だ。先手必勝とばかりにな」
「それが答えなんじゃないですか」
「……どういう意味だ?」
「“直観”なんてデタラメですよ。そもそも男は、最初から相手を突き落とすつもりでいたんですから」
「何だって?」
「逃げもせず、わざわざ相手に接近していった理由は、それしか考えられないですよ」
「ちょっと待て、何のためにそんなことを? 両者に面識はないんだぞ」
「通り魔と被害者の関係って、そういうものじゃないですか」
「……おい、もしかして」
「だいたい、何の目的もなく深夜の町を徘徊していたというのが、そもそも怪しいですよ。男は、何か鬱屈した感情を抱えていて、その捌け口として、誰でもいいから橋ですれ違った人間を突き落としてやろうと画策していたのかもしれませんよ。現場は深夜の寂しい場所で、犯行に及んでも誰にも目撃されることはないと高をくくっていた。ところが、たまたま窓を開けた受験生が一部始終を目撃し、救急に通報したことで、まだ現場近くに留まっているうちに捕まることになってしまった。これは完全に想定外の出来事だったでしょう。そこで咄嗟に思いついた言い訳が、『“直観”でやった』という突拍子もないものだったわけです」
「その標的となって突き落とされたのが、偶然にも通り魔だったため、“嘘から出たまこと実”じゃないが、“直観”に信憑性を持たせる結果となってしまったわけか……」
「標的が通り魔だったのは、偶然とも言い切れないかもしれませんけれどね」
「どういうことだ?」
「通り魔のほうでも、男を“標的”にしようと思っていたんじゃないでしょうか?」
「なに?」
「でなければ、わざわざ一連の犯行に使用したナイフを持って外出なんてしないでしょう。現場は人目のない寂しい場所だったんですよね。通り魔の標的を物色するには打って付けじゃありませんか。本人が死んでいるので、もう想像するしかありませんが、通り魔の犯行というのが、一度標的とすれ違ってからナイフを抜いて襲いかかる、という方法だったのだとしたら……」
「一度は普通にすれ違うように見えた」
「ええ、ところが、通り魔がナイフを抜くよりも一瞬速く、相手のほうが行動を起こし、あえなく橋から転落させられてしまったと」
「ううむ……」
「こういう場合、もし男が自白したとしたら、確かに殺人罪には問われるでしょう。けれど、度重なる捜査に尻尾も掴ませていなかった通り魔を葬ったことで、それ以降の被害者を救ったという見方も出来るわけですから、警察としては複雑ですよね。無論、僕にとっても……」
ため息をひとつついてから探偵は、お代わりのコーヒーを炒れるためにソファを立った。
後日、男の知人が以下のように証言した。
――あいつ、普段から変なことを考えている、おかしなやつでしたよ。近所に手すりの低い橋が架かっているんですけど、誰かとすれ違う瞬間に簡単に突き落としてしまえそうで、いつか試してみたい、なんてことを……。
探偵流儀シリーズcase-17 “直観”
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庵字 フェアプレーを信条としています。 著者の作品一覧 本格ミステリ 探偵流儀 case-21まで公開中! 探偵と警部が活躍する短編シリーズ。 本格ミステリ 安堂…