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探偵流儀シリーズcase-21 氷中殺意

目次

01

 松浦義和まつうらよしかずは、叔父である松浦春夫はるおに対する幾度目かの殺害計画を実行に移すことにした。
 これまで義和は、例えば、歩道を歩く叔父の背後に忍び寄り車道に突き飛ばし、あるいは、強盗の仕業に見せかけて暗い夜道で襲撃――当然顔を隠して――する、というような直接的な手段を取ってきたのだが、自動車に搭載されている緊急ブレーキの恩恵だとか、不審者――顔を隠した義和自身――の姿を目撃するや、すぐに春夫がスマートフォンで警察に通報してしまうなどの障害に阻まれてきていた。科学の発達というものは、まこと犯罪者にとって都合の悪いものだと義和は歯がみをした。
 そこで義和は方針を変更することにした。直接手を下すことが困難であるならば、間接的に殺すしかない。用いる手段は“毒殺”だ。
 この日、義和は、叔父の命を奪うための毒が混入された“あるもの”を入れたリュックサックを背負い、叔父の家を訪問した。

「いらっしゃい、義和さん」

 呼び鈴を押すと、いつものように、この家に家政婦として雇われている平野綾子ひらのあやこがすぐに玄関に出迎えてくれた。

「こんにちは……平野さん」

 これから人を殺そうとしているというのに、義和は思わず笑みをこぼしてしまう。これも平野綾子の美しさのなせるわざ業だった。彼女が返してきた笑顔を受け止めきれず、義和は目を伏せてしまう。

「今日は、どうされました?」

「ええ、ちょっと、近くまで来たもので……叔父さんと晴臣はるおみの顔でも見ていこうかと……」

「そうでしたか。お二人ともいらっしゃいますよ、どうぞ」

 平野綾子が横に一歩のけて、義和を招じ入れる。
 晴臣はともかく、できれば春夫は外出してくれていたほうがありがたかったのだが、致し方ない。敷居をまたいだ義和は、

「晴臣は、元気ですか?」

 すれ違いざま、綾子に訊いた。

「晴臣さんは、昨日から風邪を引いてしまっていて、お部屋で寝ていらっしゃいます」

 綾子は表情を曇らせた。そんなことではないかと義和は思っていた。ここ数日続いた晩秋らしからぬ陽気は一昨日で急になりを潜め、昨日からは急転直下ともいえる寒さが続いている。体の弱い晴臣は、この寒暖差についていけていまいと、義和も心配をしていたのだ。
 すでに妻に先立たれている春夫が死ねば、その遺産は、そっくりひとり息子である晴臣が相続することになる。歳の離れたいとこ従弟である晴臣のことを、義和は昔から可愛がっており、そのため晴臣もよく懐いてくれている。言葉巧みに自分の会社に遺産の出資をさせることは容易だろうと義和は踏んでいた。そうなれば、会社が抱え込んでいる負債を一気に解消することも可能だ。そのためにも、晴臣には元気でいてもらわなければ。

「春夫さんをお呼びしてきますので、居間でお待ちください」

 綾子が居間へと続く廊下の先を手で示したが、

「すみません、喉が乾いたので、水を一杯いただきます」

「わかりました――」

「ああ、僕ひとりで大丈夫ですから」

 義和が、台所へ行こうとした綾子を制すると、そうですか、と綾子は一礼して春夫の部屋へと向かった。歩きつつ、綾子の姿が廊下の角に消えたのを振り返って確認すると、義和は歩を早めた。
 台所へ飛び込んだ義和は、背負っていたリュックサックを食卓に降ろし、中から小振りの保冷ケースを取りだした。蓋を開き、中に入れてあるものを確認する。それは、人の拳大の氷塊だった。
 叔父の殺害手段として“毒殺”を用いることにした義和だったが、問題なのは、何に毒を混入させるかだ。叔父家の家事は、ほぼ家政婦の綾子が一手に担っており、食事、飲み物とも、すべて綾子が調理、用意したものを住人全員が飲食している。そのため、確実に春夫ひとりだけが口にするものでなければ毒を盛ることは出来ない。真っ先に思いついたのは、春夫が愛飲している酒類だったが、これらはすべて春夫の自室に保管されているため、春夫の目を忍んで毒物を混入させることは非常に難しい。しかも、義和が毒殺に用いようとしている毒はシアン化カリウム、俗に言う青酸カリだ。この青酸カリという物質は苦みを持つ。下手な飲食物に混入させてしまえば、味の変化にすぐに気付かれてしまうし、味覚を損ねない程度の量に抑えてしまえば致死量に達しない。もともと苦みのある酒類は、青酸カリを混入させるのにうってつけなのだが……。
 叔父の春夫が“南極の氷”なるものを購入し、習慣である晩酌のグラスに落としてオンザロックを楽しんでいるということを聞いたのは、数日前のことだった。義和は「これだ」と思った。冷凍庫に常備されている普通の氷であれば、晴臣や綾子も口にするだろうが、ロックを作る目的で用意された氷であれば、春夫当人以外の口に入ることはあるまい。春夫が購入した氷の銘柄を聞きだした義和は、自分でも同じものを購入し、中にたっぷりと青酸カリを注入した氷塊をひとつ、こうして持参してきたのだった。この毒入り氷を、冷凍庫にあるものとすり替える。あとは、春夫がその氷を使って毒入りオンザロックを飲むのを待つだけだ。
 もうひとつの問題は、春夫の死が警察の捜査によって、どう扱われるかだ。恐らく死体は、春夫が晩酌をした翌朝、出勤してきた綾子によって発見されることになるだろう。その時間になれば、氷はすべて溶けきってウイスキーと混じり合い、氷に毒が仕込まれていたことは分からなくなるし、そう推理するものがいたとしても、それを証明することは不可能になるだろう。ここから、春夫の死は、自殺か他殺か、ということが問題にされるはずだ。春夫は飲食店を経営しており、昨今の社会事情から、店の売り上げは芳しくないと聞いている。そのことを気に病んでの自殺と判断してくれれば一番良いのだが、他殺の可能性を考慮するとなると、真っ先に疑いをかけられるのは息子の晴臣となる。家政婦の綾子に、わざわざ雇い主を殺す動機はないためだ。もしそうなれば、義和は晴臣にかけられた疑いを晴らすことに全力を注ごうと思っている。かわいい従弟を守るために奮闘する義和の姿は、晴臣に感銘を与えることになるだろう。そうなれば、晴臣が義和の会社に出資をさせる動機に拍車をかけることにも繋がるし、綾子も自分のことを見直して……。義和は、思わずこぼれてきた笑みを引っ込めると、周囲を見回して、誰の――特に綾子の――姿もないことを確認した。
 もしも、義和の奮戦空しく晴臣の容疑が晴れないということも考えられるが、それはそれで構わない。相続人が被相続人を殺害したなどの非行があった場合、相続が無効になる。そう相ぞく続けつ欠かく格というそうだが、そうなれば、遺産は春夫の兄である義和の父親が相続することになる。父親から資金を引き出すことは、晴臣から以上に簡単な仕事だと義和は思っている。とはいえ義和は、晴臣は無実のまま(当たり前だが)遺産を相続して欲しいと願っている。晴臣のことを可愛がっているのは本心からのことだからだ。
 冷凍庫を開けると、人の拳大の氷塊を詰め込んだ容器が置いてあった。冷凍庫内には他に何も入ってはいなかった。夏場であれば、アイスクリームのひとつでも入れてあるのだろうが。義和はケースを開け、その中で一番上にある氷を毒入りのものと置き換えた。すり替えをせず、氷をそのまま置いていくことも考えたのだが、あいにくと容器の中は氷でいっぱいで、新たに氷塊を追加するだけのスペースは残されていなかった。まあいい。もしも、叔父が几帳面に氷の数を把握していたら、数が合わずに怪しまれてしまう。容器内のスペースがどうあれ、氷はすり替えるのが最良の手段だと義和は判断した。
 すり替えた氷は、持参してきた保冷ケースに入れて持ち帰ったうえで処分する。ここまでの大きさの氷を溶かしてシンクに流すのは時間がかかるし、この大きさではトイレに流れるかも怪しい。屋外に放置しても、今の時期の気温では何時間も溶解はしないだろう。不確実な真似をして墓穴を掘ることだけは絶対に避けなければならない。こうして持ち帰るのが一番安全だ。保冷ケースをしまい、リュックサックを背負い直した義和は、戸棚からコップを取り、水道の蛇口をひねった。台所に来る口実だったのだが、緊張から本当に喉が渇いてしまった。洗ったコップを水切りに置き、最後に自分が仕掛けた“時限爆弾”の眠る冷凍庫を一瞥してから、義和は台所を出た。
 居間へと向かう途中、玄関前を通りかかったところで、義和は呼び鈴の音を耳にした。足を止めるが、綾子が応じる様子はない。まだ春夫の部屋にいるのだろうか。それとも、風邪を引いたという晴臣の様子でも見に行ったのだろうか。もう一度、チャイムの音。仕方なく義和は、靴をつっかけて玄関扉を開ける。敷居を隔てて立っていたのは、ひとりの男だった。

「……どちらさまでしょう?」

 義和が尋ねると、小洒落たハットを頭に乗せ、白いジャケットを羽織った男は、人なつっこい笑みを浮かべて、

「探偵です」

「たた、探偵……?」

 義和は、あんぐりと口を開くしかなかった。


02

 それからすぐにやってきた綾子あやこに、「探偵」なる男は応接室へと招じ入れられ、ローテーブルを挟み対面する格好で義和よしかずも同席することになった。綾子から、「一緒に話を聞いてもらいたい」という春夫はるおの言付けを伝えられたためだ。その綾子は、二人を応接室に入れると、何やら忙しそうに、ばたばたと再び廊下に出て行ってしまった。
 深々としたソファに腰を沈め、毛足の長い絨毯に足を置いた義和は、

「……探偵……さん?」

「ええ」

 義和の疑問に、探偵は鷹揚と答えた。

「叔父――春夫が、何かを依頼したということでしょうか?」

「ええ、直接ではないのですけれどね。実は……」探偵は、少しだけ声を潜めて、「……甥御さんというのなら、お話ししてもいいでしょう。こちらのご主人、まつ松うら浦春夫さんがですね、警察に相談事を持ちかけたんです」

 突然現れた探偵に加え、「警察」という言葉まで出てきたことで、ぎょっとした義和は思わずソファの傍らに置いたリュックサックに手を触れて、

「警察に相談って、どのような……?」

「命を狙われている、と」

「い、命を……狙われている?」

「はい。いちおう、僕の知り合いの警部もざっと調査をしたのですけれど、松浦さんの周辺に、彼のことを恨むような人物は浮かんでこなかったそうです。松浦さんの証言に寄れば、歩道を歩いている途中に車道に突き飛ばされたですとか、夜道で怪しい人間に遭遇したというようなことがあったそうなんですが、どれも目撃者はいないし、防犯カメラにも映っていませんでした」

 そこのところは入念に下調べをしたうえで、犯行に――未遂に終わったが――及んだのだ。

「そんなものですから」探偵の話は続き、「警察が関わるにも限界があるということで、普段から懇意にしている僕のところに話を持ってきてですね、松浦さんの話を聞いてやってもらえないかと」

「ははあ……」

 義和は、ごくりと唾を飲み込んだ。と、そこに、

「お待たせしました」

 ドアが開き、春夫が応接室に姿を見せた。「これはどうも」と立ち上がって会釈をした探偵に、頭を下げ返した春夫は、

「わざわざ、お越しいただいて、申し訳ありませんね」

 自分もソファに――義和の隣に腰を下ろした。

「では、さっそくお話を……」

 話を切り出した探偵に、

「ああ、その前に……」手の平を向け、それを制した春夫は、「実は、ご賞味いただきたいものがありまして」

「賞味?」

 と首を傾げた探偵に、ええ、と春夫は、

「うちの店で出そうと思っている新メニューがあるのですよ。それを召し上がっていただいて、ぜひとも感想を頂戴したいのです。ちょうど義和もいることですし。感想を述べてくれる人数は多ければ多いほどいいですから」

 春夫がそこまで言ったところに、「失礼します」の声のあと、ワゴンを押しながら綾子が入室してきた。そのワゴンには、四つの深皿が載せられており、そこに盛られていたのは……。

「かき氷、ですか」

 探偵は意外そうに口にし、義和は目を見開いた。

「そうなんです。ですが、ただのかき氷ではありません。これに使われているのは、南極の氷なんですよ」

 義和の口から、ぶふっ、という呻き声が漏れた。

「どうした? 義和」

「い、いえ……な、何でも、あ、ありません……」

 怪訝な目を向ける叔父に、義和は手を振ってその場をつくろった。

「へえ……南極の氷……」

 物珍しそうな目で探偵が見る中、綾子は皆の目の前にかき氷を配膳していく。

「何もかかっていませんね」

「そうなんですよ」探偵の言葉に、笑みを浮かべながら春夫は、「通常、水というものは、液体、あるいは雪や氷という固体として存在し、その後、蒸発して気体に戻り上空に昇り、また雨という液体と化して地表に降り注ぎ、この地球を循環しています。ですが、南極の氷は違います。南極に堆積した雪は降り積もって以降、溶けることなく氷という姿を留め続け、地球上の水の循環という枠の外にいます。つまり、その氷の中には、何千年、あるいは何万年もの昔の空気が閉じ込められているわけです。私はですね、氷というよりは、その中に封じられた太古の空気そのものを味わって欲しいと思いまして、あえて味付けはせず、掻いた氷をそのままの状態でお客様にお出ししてみようと、こう考えたのです。ペットボトルのブランド水を売るのが商売として成り立つのであれば、氷だけのかき氷というのもありだろうと」

「ロマンがありますね」

「そうでしょう」探偵の言葉に気を良くしたのか、春夫は満足そうに頷いて、「飲食という行為には、大きく二つの意味がありますね。体を維持していくための栄養摂取という必要性からのものと、嗜好品などの楽しみとしてのものと。私はですね、そこに“ロマン”という価値を付けたいと思っているのです。実は、この氷は、私が個人的にオンザロックを嗜むために購入したものだったのですが、この南極の氷は、ウイスキーという――あえてこう言いますが――不純物を混入させた状態で味わっていいものなのかと、疑問を感じましてね。南極というロマン、歴史、それのみを味わうのが本当なのではないかと。とはいえ、氷を囓るというのは、あまりに乱暴すぎますので、そうだ、日本には古来より“かき氷”なる氷の食文化があるじゃないかと。かき氷は夏の定番ですが、これは涼を求めるために口にするものではありません。これを食べる目的はロマンを感じ取ることです。むしろ、寒い冬という南極となるべく同じ環境下だからこそ、このかき氷を食する意味も深まるのではないかと」

「なるほど……」探偵は、目の前のかき氷を見つめて、「これは、氷を薄くスライスした、まさに“かき氷”というものですね。たまにあるじゃありませんか、ただかち割りにした細かい氷塊を“かき氷”と称して出しているもの。僕、あれにはどうにも納得がいかないんですよ。舌に載せたときの食感が全然違いますからね」

「まったく同感です。探偵さんのおっしゃるとおり、薄くスライスされた氷がミルフィーユのように幾層も重ねられたものでなければ、“かき氷”と名乗る資格はないと、私も思っております。……義和、お前はどうだ?」

「……」

「義和?」

「……え、えっ?」

 二人の話は、まったく義和の耳から耳へと通り抜けていた。今、彼が思うことは、ただひとつ。

「お、叔父さん……こ、この氷は、冷凍庫に入っていた……?」

 震える指で、自分の前に置かれた純白のかき氷を指した。

「もちろん、そうだ。ついさっき、綾子さんに作ってもらったんだよ」

「作ると言っても」と自分もソファに腰を下ろした綾子は、「ただ氷を機械で掻いただけですけれど」

 と微笑んだ。

「綾子さん」義和は、指だけでなく声まで震わせながら、「こ、このかき氷を作るのに、冷凍庫の氷を……全部使ったのですか?」

「いえ、氷の塊ひとつを、おひとり分として、四つだけ使用しましたが」

「そ、そのとき、容器の中にある、ど、どの氷を使いましたか……?」

「どの、と言われましても……ただ、容器の上にある氷から四つ出しただけですよ」

 どうしてそんなことを訊くのか? とでも言いたげに、綾子は小首を傾げた。
 ――ということは、自分がすり替えた青酸カリ入りの氷は、確実に使われている! この中の……どれかが……。
 義和は、目を皿のようにして四人に配膳されたかき氷を見比べたが、どれも見た目は同じで、違いなど分かろうはずもない。

「それじゃあ、いただくとしましょう。感想も聞かせて下さいね」

 春夫がそうしたのを契機に、探偵と綾子もスプーンを手に取って――

「ちょ! ちょっと、待って下さい!」

 立ち上がった義和は、両手を広げて三人を制した。スプーンを宙に止めたまま、春夫たちは義和を見上げる。

「……どうした? 義和」

「義和さん、お暑いですか? 暖房を弱めましょうか?」

 春夫と綾子の言葉に、額に頬に汗を伝わせている義和は、「い、いえ……」と返してから、

「こ、これ……このかき氷は……た、食べないほうがいいんじゃないかな……って……」

「何を言い出すんだ、義和」

 春夫は、きょとんとした顔を向け、

「こんなにおいしそうなのに……」

 綾子がスプーンの先端をかき氷に差すと、

「ストーップ!」

「わっ!」

 義和の大声に驚いた綾子は、スプーンを取り落としてしまった。

「どうしたんだ、義和。お前、さっきから変だぞ……」

「そ、そんなことは……」

 義和は横を向く。探偵の、何かを見透かしているかのような色をした双眸と視線がぶつかった。――その瞬間、

「あっ! お前、何を!」

 春夫の声にも構うことなく義和は、目にも留まらぬ速さで四人分のかき氷をワゴンに戻すと、それを押し、駆け足で応接室を飛び出した。
 端から見れば、何かの競技かと見まごうようなコーナリングで廊下を走り抜けると、義和はワゴンからかき氷を皿ごとシンクにぶちまけて水道の蛇口を全開にした。ほとばしる水が、かき氷を溶かし、どんどんと排水口へと流し込んでいく。
 ――これで、証拠は隠滅された。
 汗を拭った義和は、ふう、と安堵のため息をつく。あとは、この奇行に対して、どんな言い訳をつけるか……考え込んでいた背中に、

「義和さん」

「うわっ!」

 声を浴びせられ、義和は仰け反った。台所の出入口に立っていたのは、白いジャケットを羽織った探偵なる男だった。

「こ、これは、ですね……」

 どんな僅かな痕跡も残すまいと、蛇口からの水を手ですくい、シンクの端々に流しつつ、義和は言い訳を考え続けていた。

「義和さん」再びかけられる探偵の声。「あなた、もしかして……春夫さんを毒殺しようとしていたのではありませんか」

「――は、はあぁ?」

 義和は思わず振り向く。勢いよく流れ出る水流が、シンクの底を叩き続けていた。


03

「なっ……な、何を……馬鹿なことを……」探偵の目を見返したよし義かず和は、「ど、毒殺だって? ど、どうして私が、そんなことを……」

「警部の調査で分かっています。義和さん、あなたの会社の台所事情は火の車だそうですね」

「だ、だからって、叔父を殺したって、私に遺産が入ってくるわけではない……」

「ええ。ですが、あなた、春夫はるおさんのご子息の晴臣はるおみさんとは、随分と仲がいいそうではありませんか」

 ――そこまで調べているのか。
 心の中で舌打ちをして、俯いた義和は渋面を作った。が、
 ――まあ、いい。

「探偵さん」と義和は、余裕とも取れる笑みを貼り付けた顔を上げると、「毒殺って、いったい私が何に毒を盛ったというんですか」

 さらに、ことさら笑みを強調して探偵と向かい合った。探偵は、義和の後方を見やって、

「水」

「――えっ?」

「そろそろ止めてもよろしいのでは?」

 義和の背後を指さした。蛇口からは、未だごうごうと勢いよく水道水が吐き出され続けている。

「そ、そうですね」

 義和が振り向いて蛇口をひねると、きゅっ、という音とともに水音も止まった。もう十分かき氷は洗い流されただろう。再び義和は探偵と対峙する。

「それで……探偵さん」義和は、表情だけでなく、声にまで余裕の色を載せ、「話の続きですけれど、毒殺って、どういうことですか。私が何に毒を盛ったと――」
「氷です」
「――えっ?」
「あなたは、春夫さんが購入して冷凍庫に入れておいた南極の氷の、そのひとつを毒入りのものとすり替えたのです。いずれ、その氷を使って春夫さんがオンザロックを飲む、そのときを待つつもりで。すり替えた毒入り氷は、ケースの一番上にあったものですね」

 水音が消え、静寂に包まれた台所に、ごくりという義和の喉音が響いた。

「だから、義和さん、あなたは先ほど、あのかき氷を口にしてはいけないと春夫さんたちを止めたのですね。自分の分に毒入り氷が回ってくる恐れはもとより、こんな状況で春夫さん、あるいは、綾子さんや僕が亡くなってしまっては、絶対に自分に容疑がかかってくると思ったのでしょう。あなたが訪れたその数十分後に、この家で誰かが毒殺されてしまうなんて、これを怪しまない警察はいませんからね。食べ残しのかき氷から、毒物――青酸カリでしょうか?――も検出されてしまいますしね」

 静寂に、今度は義和の歯噛みの音が聞こえた。

「はは……」義和の口から乾いた笑い声が漏れ、「探偵さん、さすがにその推理は飛躍しすぎですよ。いったい何を根拠に……そんな突拍子もない推理……いや、推測を……」
「あなたのリュックサックの中に、氷が入っていましたよ」

 しまった、と義和は唸った。

「あ、あんた……人の持ち物を、勝手に……」

「申し訳ないとは思ったのですが、あなたのリュックから、何やら水が漏れていたもので。あの応接室の絨毯に染みが出来てしまうといけないなと。あの絨毯、高そうでしたからね」

 ――保冷ケースの蓋の閉めが甘かったのか? ……いや、水漏れなどしていなかったのだ。自分が応接室を出たあと、怪しいと感じてこの探偵はリュックを調べたのだ。部屋に戻れば実際、絨毯に染みは出来ているのだろうが、それは中身を調べたあとにこの探偵がわざとこぼしたものに違いない。今の自分の言葉を正当化するために……。

「多少溶けてはいましたが、あの保冷ケースに入っていた氷塊は、自分が購入した南極の氷とよく似ていると、春夫さんも証言してくれました。どうして、義和さんは持参したリュックの中に、ひとつだけ氷を入れたりしていたのか。どうして、振る舞われたかき氷を口にしてはいけないと、あんな奇矯な言動まで取ったのか。これらの事実を組み合わせて僕が出した答えが、義和さん、あなたによる、毒入り氷を使った春夫さんの毒殺計画だったと、そういうわけです。どうですか、間違っていますか」

「……」

 どれほどの時間、自分が沈黙していたのか、義和自身にも分からなかったが、数十秒か――あるいは数分か、経過したのちに、ようやく義和は口を開き、

「証拠は……」ひと言目は呟くように、「証拠は、あるんですか?」

 あとは怒鳴りつけるように、義和は声を浴びせた。
 ――ない。
 怒気を孕んだ口調とは裏腹に、心の中で義和は、にやりと笑みを浮かべていた。証拠となる青酸カリ入り氷塊は、自分の手でたった今、排水口に流れていった。もはや検出不可能なほどに希釈され、配水管の中に散ってしまったに違いない。とりあえず、叔父の殺害計画は中断を余儀なくされてしまったが、捕まってしまうよりは遙かにいい。また、ほとぼりが冷めた頃に計画を練り直すさ。心中で義和の笑みは、ますます大きくなっていった。勝ち誇った義和は、あらぬ疑いをかけられて心外極まりない、という批難の表情と口調のまま、

「で、あるんですか? 証拠は――」

「あります」

「……」あんぐりと口を開けた義和は、「はあ?」

「いや」と探偵のほうでは、はにかむような笑みを浮かべて、「ある、と断言までは出来ないのですが、賭けてみようと思いまして」

「……賭ける?」

「そうです。義和さんがすり替えた毒入りの氷塊は、まだ残っているかもしれないんですよ」

「……何を」馬鹿な、と続けかけた言葉を飲み込んで、義和は、「言っているんだ?」

「憶えていらっしゃいますよね。僕がこの家を訪れたとき、家政婦である綾子さんが、妙にばたばたしていたことを」

 憶えている。普段であれば、呼び鈴が鳴ると真っ先に玄関に飛んでくるはずの綾子が、あのときばかりは一向に姿を見せなかったのだ。おかげで、自分がこの妙な探偵を出迎えることになってしまったのだが……。

「あのとき、綾子さんはですね」と探偵の言葉は続き、「急に晴臣さんが発熱してしまって、その対処に追われていたんですよ。だから、僕の呼び鈴にもすぐには出てこられなかったというわけです」

 そういうことだったのか。晴臣の容体は大丈夫なのだろうか……。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。

「それが、どうしたというんですか?」

 多少の苛立ちを滲ませつつ、義和は訊いた。対照的に探偵のほうは、落ち着いた態度で、

「晴臣さんの熱を冷まそうとした綾子さんでしたが、彼女、ある失敗をしていましてね」

「失敗?」

 あの几帳面な綾子からは、あまり想像できない言葉だ。

「そうです。実は、綾子さん、昨晩までに晴臣さんの熱冷ましに使っていた保冷剤を凍らせておくのを失念していまして」

「そんなことに、何の関係が――」

 義和の体に電撃が走った。――まさか?

「そう」探偵は、彼の心中を読んだかのように、「まさか、ですよ。冷やした保冷剤がなく、冬場ということで氷の作り置きもしていなかった綾子さんは、やむを得ず、“あるもの”を晴臣さんの熱冷ましに使用したのです。それが何だったかと言いますと……」

 言わなくとも分かる……。

「そうなんです。綾子さんは、悪いとは思いつつも、春夫さんのオンザロック用の“南極の氷”を使って、“氷のう”を作ったのです。冷凍庫の中には、それしか入っていなかったもので。そのとき綾子さんは、容器の中の“一番上にあった氷”を使ったそうです。もし、この氷が、僕の推理どおり、義和さんがすり替えた毒入り氷だったとするなら、それはまだ氷のうという形で、晴臣さんの額に載っているはずなのです。無論、綾子さんがかき氷を作ったのは、そのあとのことです。僕は、これから懇意にしている警部を呼んで、晴臣さんの額に載っている氷のうの、それに入れられている氷を、鑑識で調べてもらおうと思っているのですよ」

 ――容器の一番上にあったというなら、それは間違いなく、自分がすり替えた毒入りの氷だよ……。

「これを突破口にして、あなたが南極の氷を買った購入履歴や、さらに、毒物の入手経路を調査するはずです。警察は」

 探偵のとどめの一撃が、義和を打った。
 この寒い時期に、オンザロックに使う他に、氷にそんな利用方法があったとは……。

「盲点、でしたね」

 またも心を見透かしたかのような言葉を、探偵は投げてきた。




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