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葡萄ずくめの殺人

 葡萄の酒といえばワインである。
 池袋の明治通り沿いにある羽黒探偵事務所では、最低二本はワインを常備している。酒に弱い私立探偵の羽黒祐介は、それを日々、少しずつコップに注いで飲んでいた。
「ワインがなければそれは人生ではない」
 と言った高名な美食家もかつていたそうだ。
 羽黒祐介はワイン好きの名探偵ということになるだろう。
 さて今回はワインがらみの事件である。

 ある秋の日、紅葉が染まり始め冷風の吹き荒ぶ早朝、祐介は探偵事務所の安楽椅子に深々と座り込み、讀賣新聞を読んでいた。安楽椅子で新聞を読むのは名探偵の条件である。
 探偵助手の室生英治は、祐介がひどく興味をそそられている様子で、とある記事を食い入るように読んでいることに気がついて、静々と近づいていった。
「なにか興味深い事件かい?」
「そうだね。実に不可思議だよ」
 と祐介は言うと、新聞を英治に手渡した。

(どれどれ……)
 英治はその新聞の記事に目を通した。その記述によると、代官山の洋菓子店のパティシエで、高名な酒井光定氏は、三年間もの自己格闘と研究の末、絶品のマスカットクリームケーキを作り上げた。
 氏は早速、試食会を実施しようと、長野県の山麓にある別荘に知人を呼び集めた。知人というのは美食家、パティシエ仲間、そして芸術家の三人だった。
 ところが氏は、試食会の後、自室で殺害されてしまったのだ。氏は包丁によって腹部を切り裂かれて失血死していた。彼の血まみれの右手には『世界ワイン大全』という広辞苑ばりの分厚さの本が握りしめられていたというのだ。
 そればかりではなく、部屋には料理で使用するはずの葡萄が散らばり、潰れていて、その上、赤ワインが床に流れていて、その外見はまるで鮮血のようですらあった。新聞やテレビではこれを「赤ワイン殺人事件」と呼んで、非常に面白おかしい話題として取り上げているのだった。
 つまるところ、世間はこれを赤ワインを血に見立てた「見立て殺人」だと騒いでいるのだった。

「『世界ワイン大全』とはね……」
 祐介は、すっと椅子から立ち上がると、窓の外を眺めた。明治通りに近いこの事務所からは車の走り抜ける喧騒が聞こえてきていた。
「きっとなにかを暗示しているんだ……」
 そういうと祐介は、英治の方に振り返った。

「実はこの事件に居合わせたという酒井光定氏の娘さんが今からここに来ることになっているんだ……」
「うちに事件解決の依頼があったのか……」
「うん。実は昨日、君がいない時にその方は訪れたんだ。そして今日、重要な証人を連れて再び訪れるということだよ。パティシエの娘さんだから、ささやかながらそこのレーズンバターサンドと紅茶でも淹れておもてなしをしようと思う。葬式後間もないティータイムで、満足してくれるかわからないけれど……」
「なるほどね」
「ところで、英治。この『世界ワイン大全』というのは酒井光定氏の若い頃からの愛読書として有名だった。そして今回のマスカットクリームケーキには、この世界ワイン大全の852ページに記されている山梨の葡萄農家の赤ワインが使用されているといつことなんだ。警察はこれがマスカットクリームケーキを暗示しているものだと睨んだらしいけれど、それだと何の意味もわからないし、そもそも852ページを指し示すものは何もなかった……」

「ふうむ」
 英治は長椅子に座り直して考え込む。英治にはもはや何も想像ができない。それよりもそのマスカットクリームケーキを一度食べてみたいと思った。それも酒井光定氏が死亡した今では叶わぬ夢なのだろうか。

 しばらくして、被害者の娘だという酒井ゆかりが被害者のパティシエ仲間だという森本忠氏を連れて、事務所に訪れた。
 酒井ゆかりは二十歳で、黒髪を可憐に結い上げている絶世の美少女だった。美少女というのは、どこか欠点がなければかえってつまらないものと世間では言われている。酒井ゆかりにも決定的な欠点があった。それは人並み外れてテンションが高く、言葉遣いが古めかしく異様なところだった。おまけに大正時代を思わせる渋めの和柄を貴重としたモダンな洋装で、柿色のロングスカートをはためかせて現れた。

「羽黒さん。わたくし、父が殺された謎を今、貴方に解き明かしていただきたく思い、参上いたしました。それで本日は、父のパティシエ仲間、森本忠さんにもお越しいただきました。事件の起こった夜も、森本さんは父の山荘にいらっしゃったのです。これで完全なる事件当日の再現ができるというものでして……」
 と妙に慇懃な口調でゆかりは語っている。
「すると森本さんも関係者の一人というわけですね。それで森本さんは、この事件についてどのような印象を抱きました?」

 森本忠は褐色の肌をしていて、大きなサングラスをつけていた。そしてその四角い顎には黒々とした髭がたんまりと生えていた。そしてジャラジャラと金属のチェーンがぶら下がった、いかり肩が張りに張った漆黒の上着をまとっていた。一眼見て只者でないことは明らかだった。実際、彼は「洋菓子の純粋精神の復活」や「我々日本人が忘却した日本的食文化の原風景の復活について」などの歴史的大著を著し、二十一世紀パティシエ界に一石を投じた人物なのだった。
「わたしは酒井さんに色々お世話になったものですから亡くなったことはただただ残念としか申し上げようがありませんね。しかしこればかりは早く成仏してもらうより他に仕方ありませんね」

「なるほど。犯人に心当たりはございませんか」
「そうですな。あの日、山荘にいた人物の中では彫刻家の炉端邦英が怪しいと思いますね。というのも彼は、赤ワインにひどく執着していたんです。芸術家の執着ほど異常なものはない。殺人の後に現場に、赤ワインを撒き散らすような奇っ怪な真似をやりかねないのは彼ぐらいです」
 という森本は、目の前のレーズンバターサンドの包装紙を静かに上げると、うっとりと見つめて、ひょいっと口の中に放り込んだ。
「うん。これはなかなか美味いレーズンバターサンドだ」

 ここで、ゆかりが事件当日の流れを話し始めた。
「あの日、山荘に訪れたのは父とわたしの他、それに森本さんと美食家の茂木都美子さん、そして芸術家の炉端邦英さんの五人でした」
 祐介は黙って聞いていた。茂木都美子は八十歳を過ぎた有名な女流美食家で、タレントとしても有名だったが、テレビでの活動はすでに引退していた。これに対し、芸術家の炉端邦英は四十代半ば、ロダンばりの彫刻家で現役なのであった。

 森本は、ゆかりから引き継いで話を続けた。
「わたしたちは五人で山荘に泊まる予定でした。初日の夜中に酒井さんが三年も費やしたというマスカットクリームケーキの試食会を実施したのです。わたしたちはその味に感激しました。想像を遥かに越える美味しさだったのです。茂木都美子さんなんか衝撃のあまり、椅子から転げ落ちそうになりました。そのせいで腰痛が悪化したようで、しばらく部屋に戻ったりしていましたね。炉端邦英さんは彫刻家で、アフリカ芸術、インド芸術に造詣が深いくせに、あまり甘党でもありませんから、黙々と食べていましたね。それでも彼も彼なりに感動したらしく、部屋に戻ると、自作の木彫りの人形を持ってきて、酒井さんに手渡していました。それは手のひらサイズのインド人の痩せた少年の人形でした。それがつまり彼なりの気持ちの表明だったのです」
「あなたはその時、何か致しましたか」
「わたしはパティシエですからやはり脅威を感じました。しかし酒井さんほどのお方なら必ずや成し遂げるだろうという期待の高さもあり、究極の芸術品ではあっても、それはどこか予定調和的な形式美を脱しきれていないという奇妙な失望感をともなっておりました。それと実は、ゆかりさんがわたしのファンだということで、白紙にサインを致しました」
「ゆかりさんがあなたのファンなのですか」
 祐介はパティシエのファンってなんだろう、と思いながらちらりと二人の顔を見た。作るケーキのファンということだろうか。

「実はわたしはアンダーグラウンドな音楽バンドなんかもやっていまして……それで白紙にサインをしたのですが」
「わたしが用意したマジックのインクが足りなくて字がかすれてしまって、そうしたら父が森本さんのサインを見て、非常に下品に笑ってなにか申し上げたんです。それで森本さん怒ってサインを書くのをやめてぷいっと部屋に帰っちゃったんです」
 と申し訳なさそうにゆかりが言った。

「字がかすれていて、笑うというのは一体……」
「それがわたしにもよくわからなくて」
 羽黒祐介はしかし、なにか思い当たることがあるらしかった。

「森本さん。酒井さんは一体何と言って笑ったのですか?」
「さあ、覚えていませんが、字が下手だとかそんな話ではありませんか」
 と話をはぐらかす。そのはぐらかすところに秘密があると祐介は思った。

「それでは死体を発見した流れをお聞かせ願いましょう」
「わたしたちは試食会の後、皆部屋にこもってしまいました。外が風神雷神の到来を思わせるほどの風雨で、窓がガタガタと音を鳴らしていたせいで、殺害の時の物音は正直ほとんど気付きませんでした。そのためアリバイがある人物は一人もいません。娘のわたしは、父の部屋の隣に部屋があって、なにか叫び声のようなものを聴こえてきたので、あれっと思いましたけど、その後、しばらく静かだったので、何事もなかったんだと思いました。それから1時間ほどして父の様子を見に行きますと、ドアが開いた瞬間、足元の床が赤ワインの海と化していることに気がつきました。驚いて中を覗き込むと部屋の真ん中で父がうつ伏せに倒れていて、腹部から血が……。父の右手には『世界ワイン大全』が握りしめられていたんです……」
「それで警察を呼んだのですね」
「ええ」
「世界ワイン大全という本は、何故そこにあったのでしょう」
「壁側の本棚から落ちたものでしょう。他にも父の遺体の近くには沢山、本が転がっていて、太宰治の『人間失格』やルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の文庫本などが転がっていました。父は1メートルも這って、『世界ワイン大全』を手に取ったみたいですけど……。それと散らばった本の間に炉端さんにもらったばかりの木彫りの人形が落ちていました。どれも父と犯人の格闘で散らばったものだと思います」
「なるほど……」

 ここで祐介は真相に察しがついた。祐介は二人の顔を交互に見ると、
「お話はよく分かりました。そしておふたりが実は愛し合っていることも、こうして話し合っている間に密かに感じられることでした。もしもよろしければ、この真相はお話ししたくありません。それでもゆかりさんは真相を知りたいでしょうか。今なら依頼料はこちらからご遠慮致しますので、おふたりにはよく考えて決断してもらいたいと思うのです」
 そう言われて、ゆかりがすっと頬を赤らめ、そして同時に妙に深刻な表情に変わったのが英治の目にも明らかだった。ゆかりは森本の顔を見ると、森本は深く頷いて、祐介の顔を見た。
「真相を話していただきましょう」

「分かりました。それでは真相をお話ししましょう。被害者が握りしめていた『世界ワイン大全』。被害者は腹部を切り裂かれていました。1メートル這って移動しそのまま死亡したような状態で、立ち上がることはできませんでしたから、彼が『世界ワイン大全』という本に特別な意味をもって握りしめられたとは思えません。なにしろ彼は棚から転がって落ちる本を選ぶことができなかったのです。ですからわたしは彼が『世界ワイン大全』を握りしめたのは、乱闘の際、この本が床に転がった。ほとんど偶然であったに違いないと思います。ところが彼の枕元には、同時に何冊もの本が転がっていました。彼はそれらを無視して、一番遠いところにある『世界ワイン大全』を1メートル這ってまで選びました。そこには明確に彼の意思が感じられます。他の本では何故いけなかったのか。それはすべて薄い本であったからです。たとえば太宰治の『人間失格』やルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の文庫本が薄い本であるのは明らかなことです。彼はきっと「分厚い本」であればなんでも良かったのでしょう」
「何故彼は分厚い本を選んだというのです?」
「分厚い本のことを「鈍器本」と一般に言います。「鈍器」この言葉遊びなのですね。ドンキ。ドンキーdonkey。これはロバのことを指します」

「そうか。それでは、やっぱり炉端ロバタさんのことを指しているのか」
 と森本が焦った様子ですかさず言った。そしてゆかりの顔を見て、にこっと笑う。
「いえ、それは違います。床には手のひらサイズの炉端邦英さん作の木彫りの人形が落ちていました。もしも彫刻家である炉端さんを告発したいのであれば、donkeyロバなんて回りくどいメッセージにせずに、この木彫りの人形を掴めばよかったはずです。その方が小さいから気付かれる恐れもありませんし……」
「それじゃ老婆ローバである茂木さんのことか」
「それも違うでしょう。八十歳を越えた茂木さんには酒井さんの腹部を切り裂くような体力はないでしょう」
「それじゃお手上げだよ」
 そう言って、森本は笑った。

「ロバで暗示される人物がもう一人います。ここで思い出していただきたいのが、森本さんがマジックで自分の名前をサインした時のことです。マジックのインクが残り少なくて字がかすれてしまいました。それを見て、酒井さんが笑ってなにかを言ったということでした。その場にはゆかりさんがいましたが、おふたりはそれが何かわからないということですね。わたしは、森本さんが名前の「忠」と書こうとして、四画目の縦棒がかすれて薄くなってしまったのではないかと推察します。するとそれは「口心」となって、書きようによっては「ロバ」のように見えるのです。おそらく酒井さんは森本さんを「ロバ」みたいだと馬鹿にして笑ったのでしょう。それはパティシエ同志の実力に対する皮肉であったのでしょう。そしてその時の会話をゆかりさんが聞いていると思って、酒井さんは森本さんを暗示するdonkeyロバというダイイングメッセージを残すために、鈍器本を握りしめたのです。ところが犯人はこのメッセージに気付いても、鈍器本を隠滅しようとはしなかった。今さら本が無くなってもかえって怪しまれるだけです。かえって回収した本を処理に困るのが落ちです。なにしろ『世界ワイン大全』は分厚くて目立つ上、酒井さんの愛読書として有名でしたからね。それよりも「鈍器本」ということから注意を逸らすために、台所から盗んできた葡萄を床に散乱させ、赤ワインを撒き散らしたのです。つまり「ワイン」というミスリードを加えたのです。そしてワインがらみの見立て殺人だと思わせたのでしょう」
「見事です。さすがは名探偵だ……」
 と森本は突然、拍手をした。それはどこか悲しげな響きを秘めていた。

「まさに真相はその通りです。わたしもあのダイイングメッセージの意味はそのようなものだと思います。実のところ、わたしはすでに自首をしようと思っていたのですが、今日まで迷っていました。ゆかりに誘われて、亡霊のような気持ちで参ったのです。今のお話を聞いて、もうすっかり降参する気持ちになりました」
「当たっていましたか」
「ええ。わたしが酒井さんを殺害したのです」
「動機は何だったのですか?」
「マスカットクリームケーキです。わたしは洋菓子の純粋精神を高めようという思想で生きてきました。その原理の一つに「洋菓子のテーマは混在してはならない」というものがあります。マスカットの洋菓子はマスカットが主体でければならない。それなのに洋菓子界の権威ともいえる酒井さんのマスカットクリームケーキには、赤ワインが使用されていました。それが許せなかったんです。そのことを批判するためにわたしは森本さんの部屋に殴り込みをかけました。興奮したわたしは、包丁を持っていました。ここで口論になり、わたしは酒井さんの腹を切り裂いた。感情のほとばしるままに殺してしまったのです。
 わたしは貧しい生まれでね。小さい頃、病気の母に本物の栗を使ったモンブランを食べさせてあげたいと思って、アルバイト代を貯めてケーキ屋に連れて行ったんです。ところが出てきたケーキは、栗をほとんど使わず、代わりにさつま芋がふんだんに使用されていたんです。母は病気でその後すぐに死にました。不憫な母はさつま芋の味を栗の味と思い込んだまま死んでいったわけです。これはわたしの個人的な体験ですが、わたしはパティシエである限り、本物志向を貫こうと思ったのはこの時でした」

 そう言うと悲しげな表情を浮かべて森本は立ち上がり、ゆかりを見ると微笑んだ。ふたりの視線はぎこちなく震えていた。それから彼は、羽黒祐介から受け取ったレーズンバターサンドをうっとりと見つめていたので、祐介は一瞬ぞっとしたが、森本はそのままくらりと目を白くして床に倒れてしまった。彼はパティシエの夢が絶たれ、ゆかりという最愛の人を裏切ったことを自覚して、気を失ったのだった。

「英治。彼の姿をよく見ておきたまえ。芸術家は時として理想のために人をも殺すのだ」
 祐介の言葉は、英治の心につららのように突き刺さった。

 洋菓子界の悪魔はこのようにして、甘美なる葡萄の美味を追い求めて、罪を犯し、ついに倒れたのだった。




目次

----完




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