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銀泥荘殺人事件

目次

登場人物

  • 羽黒祐介(はぐろゆうすけ)   ……池袋に探偵事務所を構える名探偵。来年三十歳になる。この世で一番の美男子。
  • 根来拾三(ねごろじゅうぞう)  ……群馬県警の刑事。鬼根来と呼ばれている。
  • 山岡荘二郎(やまおかそうじろう)……銀泥荘の主人。美術評論家。45歳。
  • 山岡富士江(やまおかふじえ)  ……荘二郎の妻。41歳。
  • 山岡楓(やまおかかえで)    ……荘二郎の娘。20歳。
  • 山岡杏(やまおかあんず)    ……荘二郎の娘。11歳。
  • 萩本裕二(はぎもとゆうじ)   ……来客。彫刻家。43歳。
  • 小倉雅之(おぐらまさゆき)   ……来客。版画家。44歳。
  • 星野文子(ほしのふみこ)    ……来客。43歳。
  • 星野諭吉(ほしのゆきち)    ……来客。文子の息子。5歳。
  • 上沼栄之助(かみぬまえいのすけ)……料理人。51歳。
  • 三田村慶吾(みたむらけいご)  ……執事。40歳。



1 雪の中の銀泥荘

 ……真実はすべて、雪の中に隠されている。

            *

 銀泥荘とは、東京在住の美術評論家の山岡荘二郎が所有する群馬県の別荘のことである。
 一時、世を騒がせることとなった銀泥荘殺人事件とは、この銀泥荘で起こった猟奇的な殺人事件のことであった。
 死体が発見された時、現場は内側から施錠され、密室と化しており、床には人間の生首が転がっていて、ベッドの上には切り離された胴体が音も立てずに眠っていた。
 事件の幕開けを告げる夜明けには、銀色の仮面をかぶった怪人が出現し、人々を恐怖に落とし入れた。不可解な事実だらけで、解決が困難であったばかりでなく、この事件には一貫しておぞましく陰惨なオーラが漂っていたのである。
 銀泥荘は、山岡荘二郎の別荘に当たるが、それだけでなく古今東西の美術品を収蔵・展示する美術館としての機能も持っていた。そもそも銀泥というのは、絵の具のことで、粉末状にした銀を膠で溶かしたもののことをいう。
 山岡荘二郎は毎年、大晦日になると、この邸宅に客人を招いて、自分のコレクションを公開し、年越しパーティーを行うのが恒例となっていて、事件はこの年越しパーティーの直後に巻き起こったのである。

 さて銀泥荘は、群馬県の山奥にあり、当日は雪が降っていて、日が暮れるにつれ、次第に吹雪になろうとしていた。外界と隔離された世界、これはミステリー小説でお馴染みのいわゆるクローズド・サークルという身の毛もよだつ状況であるが、今回の事件もこのような環境の下で起こったのである。

 この難事件を解決したのは東京池袋に事務所を構える名探偵の羽黒祐介であり、群馬県警の根来警部がその捜査協力に当たった。彼らは偶然、この銀泥荘に居合わせたのである。
 羽黒祐介は、いかなる推理で謎を解き明かしたのか、そして、その真相とはどのようなものだったのだろうか、それを今から語るとしよう。

             *

 山岡楓は、白いマグカップを持ち上げ、ミルク混じりのブレンドコーヒーを一口飲んで、ふうとため息をついた。
 居間から窓の外を眺めると、灰色の空の下、あたり一面に白雪が舞い、降り積もっている。山並みも真っ白に染まった世界の中にある。
 楓は、都内の大学に通う女子大生だ。経済学部の二年生で、年齢は二十歳、色白な肌が美しい、可憐な少女だった。肩までかかる黒髪に、インド美人を思わせる大きな黒い瞳が特徴だった。
 彼女は今日の朝、銀泥荘に到着した時から、年越しパーティーのために色々と準備をさせられていた。
 年越しパーティーを開催するには、食堂にしろ客室にしろ、大掃除が必要な状況だった。それが午後三時の現在になってようやく一段落し、楓はコーヒーを淹れてこうして一息ついたところなのだ。
 この銀泥荘は、古風な洋館の外観をしているが、三階建ての現代建築である。三階には、楓の父の山岡荘二郎のコレクションである美術品を陳列する展示室がある。そして、地下にはそうした美術品の収蔵室があるのだ。
 一般の客に展示品を公開するのは、春と秋だけの一定の期間だけだ。その美術品のコレクションは主に、父、荘二郎が知り合いに見せびらかすためのものなのだ。楓は、今宵も父は知人を集めて、コレクションの自慢話をするつもりなのだろうと思った。
 料理人の上沼栄之助は、昼頃から年越しパーティ―のための料理を準備している。美術評論家の荘二郎は、持ち前の芸術の意識の高さから、料理についても相当に口うるさい。上沼は、父の舌を満足させるために、毎回、工夫を凝らした美味しい料理を振舞っていた。
 午後三時半、そろそろ星野文子さんとその息子の諭吉君が銀泥荘に到着する時刻になる、と思って、楓は壁にかかっている時計を見つめていた。
(それにしても、雪降りすぎじゃない? 大丈夫?)
 楓は、窓の外を再度、眺めるとそう思った。
 この銀泥荘は、別荘であるから風光明媚な山の中に建っている。その山という山が、今では雪に白く化粧をされている。大粒の雪が灰色の空から際限なしに落ちてくる。そして今、日本では低気圧による強風が起こっていて、舞い上がる雪も混じり、だんだんと世界が白く染まってゆくので、楓は心配になった。

「吹雪にならないといいけど……」

 と楓は不安げに呟いた。
 その時、銀泥荘のチャイムが鳴った。楓は、客人が到着したことを知り、嬉しそうに椅子から立ち上がって小走りで玄関へと向かった。
 そこにはすでに山岡家の執事に出迎えられている幼稚園児くらいの少年とその母親らしき女性が立っていた。楓は笑顔になるとすぐに声をかけた。

「星野さん!」

 星野文子は、楓の荘二郎の大学時代の後輩であり、その当時も父と共に大学の美術研究会に入っていて、今では荘二郎の関わっている美術倶楽部の会員なのだった。四十代前半の上品な結い髪の女性であり、その美しさはうっとりするほどだった。
 彼女は、執事に挨拶し終えるや、楓に気づいて、あっと声をあげた。

「楓ちゃん! 今日からしばらくの間、よろしくね」

 楓は、子供の頃からこの家族と親しく付き合ってきた。そのため、文子とは仲がいいし、子供の諭吉と会うこともずっと楽しみにしていた。

「こちらこそよろしくお願いします。あら、諭吉君、大きくなったねぇ」

 そう言って、楓は諭吉の頭を撫でる。
 幼稚園児の諭吉は、楓にとっては実に可愛らしいお猿のジョージのような存在で、いつも楓にマスコットキャラクターのような扱いをされている。
 楓は、諭吉が自分になついていて会うなり甘えてくると思っていたのだが、諭吉は、うううっとうなり声を上げて、なにか険しい表情をすると、とうっと叫んで、楓の足を蹴った。

「うわっ、なにすんの」

「こら、諭吉! 楓ちゃんに謝りなさい」

 と文子が怒鳴る。

「オレは、ハイパー仮面だぁ」

 と諭吉は叫んで、楓に飛びついてくる。楓は、どう反応してよいのか分からず、瞬時に攻撃をかわしながら、諭吉を背後から抱きしめる。

「ほんとにこの子はもう……、ハイパー仮面にハマってるんですよ」

 と申し訳なさそうに星野文子は、楓に謝った。
 ハイパー仮面というのは、今放送中の特撮ドラマの主人公である。宇宙飛行士である主人公が飛行中に、宇宙人であるハイパー仮面と衝突し、命を落としてしまう。ハイパー仮面は、宇宙飛行士に我が肉体を提供することで彼の命を救うことにした。二人はそれからというもの一心同体となり、悪の宇宙怪獣と戦うことになるという物語だ。ありきたりな設定だが、小学生の低学年を中心に絶大な人気がある。

「すごいお元気ですね。でも、諭吉くん、ハイパー仮面は、お姉ちゃんのこと、蹴ったりするかな」

「蹴るよ」

 諭吉は、笑顔でそう言うと絡みついてくる。また、わあわあと大騒ぎになる。三人でそのような押し合いへし合いを繰り返している。ただ、それもすぐに落ち着いた。
 しばらくして楓は、執事と共に、この二人を二階の客室に案内することになった。客室は、長方形の部屋にベッドが二つ並び、窓からは外の景色が眺められる。

「雪、大丈夫かなぁ。もう少し落ち着くといいけど……」

 と文子は窓に歩み寄ると、不安そうに言った。
 このようにして、星野文子とその息子の諭吉が、銀泥荘に到着した。日時は、大晦日の午後三時半頃。恐ろしいことにこの時、すでに惨劇は始まっていたのである。
 読者はすでに察せられたと思うが、本編はしばらくの間、女子大生、山岡楓の視点で描かれることになる。そして彼女は殺人事件の犯人ではないことをここにあらかじめ記しておくことにする。




2 群馬県警の鬼根来

 星野文子と諭吉が到着した午後三時半以降、大雪と強風の勢いは増す一方だった。
 そして、この星野文子たちの到着よりも一時間以上前に、銀泥荘の主人、山岡荘二郎の学生時代の友人で彫刻家の萩本裕二が邸宅に到着しており、荘二郎と書斎で話し込んでいた。
 このように銀泥荘の館内は一見楽しげな雰囲気が漂っているが、事件の不吉な予兆がまったくなかったわけではない。  当日の予定されている客人に小倉雅之という人物がいたのだが、午後五時を過ぎても彼は銀泥荘に到着せず、連絡も一切なかったのである。

「どこかで車がスリップして横転でもしていないか」

 と言って山岡荘二郎は、館の電話から何度か彼のスマートフォンに電話をかけたのだが、反応はなかった。そもそもこのあたりの山は圏外になってしまい、携帯電話が通じない。もし不慮の事故があったとしても、知らせることはできないだろう。そこで荘二郎は、山道の様子を見てくると言って、車で出かけた。
 帰ってきた彼は、

「山道には、交通事故らしきものも見つからなかったし、人らしきものは見つからなかった」

 と言った。
 午後六時を過ぎた時点で、邸宅には連絡のつかない小倉雅之を除いた全員が揃っていたとされている。当日の客人は星野文子、星野諭吉、萩本裕二。山岡家の関係者は、山岡荘二郎、その妻の富士江、娘の楓とその妹の杏、料理人の上沼栄之助、執事の三田村慶吾である。  事件発生後、根来警部によって容疑者と目されたのは、この十人である。被害者まで容疑者に含まれているのはそれなりの理由があるのだが、ここではそれに触れないでおこう。
 それでは、年越しパーティーの様子から見ていくとしよう。

             *

 銀泥荘の一階にある広い居間には、巨大なテレビがあり、人々がくつろぐためのソファーがL字に置かれている。一面には、広い窓ガラスがある。窓からは白い雪が吹き荒れて、暗くなってしまった世界が見えている。
 この時、執事と料理人を除いた人々が、ソファーに腰掛けてくつろぎ、さまざまな西洋料理を食していた。山盛りのポテトサラダ、蟹のクリームスパゲティ、ローストビーフ、チーズケーキなどなど。幼稚園児の諭吉も玉子入りのサンドイッチなどを食べている。
 山岡荘二郎は、四角い顔つき、黒髪を撫でつけており、ばりっとした高級なスーツ姿で、客人の前に現れて以降、美術評論家らしく、赤ワインを片手に、エジプトの猫の女神、バステトの像を先日買い求めたという自慢話をしている。近々、彼のエジプト芸術についての記事が某芸術雑誌に掲載されるらしい。
 星野文子も、萩本裕二も、ここにいる客人は、山岡の関わっている美術倶楽部の会員なのだ。美術の話に夢中になっており、テレビの画面の中のお笑い芸人の漫才や、演歌歌手の歌などには興味が湧かないらしい。

「旦那さまもいらっしゃったらよかったのに」

 と山岡荘二郎の妻、富士江が微笑んで、星野文子に言った。

「あの人は駄目なんですよ。ほんとに仕事一本で……」

 と文子はいかにも不満そうに言った。

「それに主人は、芸術関係のことは何もわからないので、東京の自宅に一人で残してきて、本人にとっても良かったと思いますの」

 と文子はさらりと酷いことを言う。
 自身も芸術家として活動している萩本裕二は、荘二郎の語るエジプト芸術に興味を抱いたらしく、

「それで、そのバステトの像は今どこにあるのですか?」

 と尋ねた。

「展示室にあるよ。せっかく銀泥荘においでになったのだ。ご覧になるかな」

 山岡荘二郎はさも嬉しそうに答えた。

「是非、拝見したいものですね」

「わたしもどんなものか、見せていただきたいですわ」

 と文子も言った。
 そこで山岡荘二郎は、萩本裕二と星野文子の二人を連れて、玄関ホールからエレベーターに乗り、三階の展示室に向かったということである。
 このようにして三人がいなくなると富士江も出て行ってしまい、居間に残されているのは楓の他には、妹の杏と諭吉の二人である。杏は小学五年生の女の子で、山岡家の末の娘だ。諭吉を自分の弟のように思っており、三人は楽しそうにトランプをしていた。

「大富豪は面白いね」

 と杏は微笑みかけて言ったが、諭吉はじっとしていられない性分なのか、カードをテーブルに投げ出して立ち上がり、

「鬼ごっこしようよ」

 と叫んだ。

「駄目だよ。こんなお家の中で、鬼ごっこしたらお母さんに怒られるよ。もしするんだったら、かくれんぼかな」

 などと話している。
 その時、チャイムが鳴った。

「小倉さんが到着したのかな」

 と楓ははっとして言った。厨房の方にいた執事の三田村が廊下を走ってきて、玄関に向かってゆく様が見えた。楓は執事一人のお迎えでは小倉に悪いと思って、自らも急いで玄関に走っていった。居間の前には長い廊下があり、その一方が玄関ホールになっている。
 玄関ホールで、インターホンの画面を確認した執事は、ぞっとして叫ぶような声を出した。

「小倉さんじゃありません」

 と言った。楓もそう言われて、さっと顔が青ざめた。こんな山の中で突然の来客だなんて到底考えられない。

「じゃあ、誰なの」

「強面の中年の男が……インターホンのカメラをじっと睨みつけているんです」

「一人?」

「後ろにもう一人、男がいます……」

「うそ、強盗かな……」

 と楓は恐ろしくなる。見も知らぬ他人がこんな山荘に用などあるはずがない。あるとしたらそれはこの銀泥荘にある美術品を盗もうとしているとしか考えられないではないか。

「開けない方がいいでしょうかね。こんな山の中ですから、もし犯罪者だったら大変です」

 三田村執事はそう言うが、小倉に関する情報を何か持ってきてくれた人物かもしれないし、せめてインターホンで会話だけでもしたら、と楓は勧める。

「もしもし、あの、なんでがしょう」

 と三田村執事は震えた声で尋ねた。

『警察だ! このドアを開けろ!』

「警察?」

 三田村執事はさらにささっと蒼ざめる。楓は、小倉さんの身になにかあったのでは、と不吉な想像をする。そして三田村にもっと話を聞きだすように促した。

「警察ですって?」

『そうだ。群馬県警の根来だ。これを見ろ。警察手帳だ。分かったな。分かったら、すぐにこのドアを開けろ!』

 みると確かに、根来と言う人物は警察手帳をカメラに向けている。抵抗すると後々ろくなことがないだろうから、三田村執事は頷いて、玄関のドアを開けた。
 ドアを開けると、虎のような鬼のような面構えの、肩の張った中年男がのそのそと入ってきた。凄みの効いた眼つき、比喩がくどくて申し訳ないが、東大寺の仁王像のような豪傑ぶりを感じさせる風体である。ふうふうと息を吐きながら、肩と胸が膨らんだり、萎んだりしているのである。

「ありがとう。助かったよ……」

 その根来という男はじろりと三田村を睨んだ。




3 名探偵 羽黒祐介登場

 根来と名乗ったその男は、頭や肩の上に乗っかった白雪を床に払い落とすと、手袋を取った。根来の後ろから、二十代ぐらいの色白の美男子が一人、玄関ホールに入ってきた。
 この人物ときたら、その面体、美しいこと極まりない。後で知ったところによるとこの人物こそ、人類史上最高の美男子にして名探偵の羽黒祐介だったのだが、楓はそんなことは何も知らず、一瞬にして心が奪われてゆくのを感じた。

「ああ、凍死するところでしたね」

 とその美男子は言った。

「よかったな。羽黒。人がいて……」

「もしこのお家に誰もいなかったら、動けなくなった車内で今頃、凍死してましたねぇ」

 根来はその言葉に深く頷きながら、三田村執事の顔を見ると、にこりと微笑んで、

「そういうわけです。今晩はどうぞよろしくお願いします」

 と、丁寧にお辞儀をする。

「一体なんなのですか、あなた方は。群馬県警ということでしたけど……」

 と三田村執事は不審げな目を向ける。

「群馬県警の刑事だよ。群馬県警捜査第一課、根来拾三ねごろじゅうぞう警部だ……」

 と名乗りながら、根来はずいずいと玄関ホールの中央に歩み出る。

「本当に雪山は怖いなぁ。こんな吹雪になるとは夢にも思わなかったよ。それにしても、広いお屋敷だな。別荘なのかな」

 楓は反応に困って、三田村執事の方をみた。三田村もどう返事をしてよいのやら分からなくなってしまったらしく、

「旦那さんをお呼びしましょう。少々、こちらでお待ちくださいませ」

 と言って、玄関ホールについているエレベーターに乗ると一人、展示室のある三階へと向かった。
 楓は、この根来という刑事のことはともかく、その後ろにいる美男子の羽黒祐介のことが気になって、しばし呆然として、彼のことをうっとりと眺めてしまった。

「すみませんねぇ。お嬢さん。山道で自動車が事故を起こして、運悪く溝にはまって動かなくなってしまいましてね。車の中にいては、どうすることもできないんで、民家を探してここまで歩いてきたんですよ。それにしても、こりゃあ本当に大変な吹雪だね」

 と根来は寒そうに両手をする。

「よろしくお願いします。羽黒祐介と申します」

 と美男子が丁寧にお辞儀をしたので、楓はにこっと笑って、

「あの、お兄さんも刑事さんなんですか?」

 と尋ねた。楓は、ずっとこの人のことが気になっていたので、二人のちょうど間に立っている根来の発言には反応もしないのだった。

「いえ、僕は刑事ではなく、私立探偵です。根来さんの知り合いで、この山奥で起きたという殺人事件の捜査をしていたところなのですが、こんな吹雪に見舞われては、もう捜査どころではありませんね」

 今夜はこの人は銀泥荘に泊まっていくしかないだろうな、と楓は思った。とにかくそれが嬉しかった。上手いこと、この人と仲良くなりたいと思った。

「わたし、あの、楓です。山岡楓。それでこの家は、わたしのお父さんの別荘なんです」

 楓は、いつも以上にはきはきとした口調で話した。祐介は、へえ、と感心したように呟いて、玄関ホールを見まわした。

「すごい別荘ですね」

「ええ。わたしの父は、山岡荘二郎といって、美術評論家なんです」

 と楓のその言葉に、羽黒祐介の瞳がきらりと光る。

「もしかしてテレビによく出演されている。『名宝鑑定TV』でコメンテーターを務めている……」

「そうです。そうです! ご存知だなんて嬉しいです」

 楓は、そう言いながら、うっとりと羽黒祐介を見つめているで、祐介は少し困ったような苦笑いを浮かべた。
 このようにして、名探偵の羽黒祐介と群馬県警の根来警部は、銀泥荘に宿泊することになった。もしこの二人が居合わせなかったら、この事件の真相は永久に謎に葬られただろうと考えられる。
 時刻は七時頃。もう外は真っ暗だった。
 祐介と根来は、その後、銀泥荘の主人である山岡荘二郎と玄関ホールで面会し、事情を説明した後に、二階の廊下の一番奥の部屋に案内された。
 そこは幾分、埃をかぶっている小さなタンスや丸テーブル、椅子などの家具が並び、しばらく使われていないと思われる客室で、長方形の部屋の中の寝具は、なぜかダブルベッドが一つあるだけである。

「おい、これは一体どういう冗談だ……」

 根来は、ベッドを見るなり、祐介の方に振り向いて言った。

「冗談ではなく、これが現実なんですよ。なんでも、先ほどご主人のお話では、この部屋しか空いてないらしいんですよ」

「男同士で、一つのベッドの上に寝るのか。いやだな。羽黒、間違っても変なことするなよ」

 ととんでもないことを言ってくる根来。

「しませんよ。なんですか、変なことって。僕だって、根来さんのいびきを真横で聴きながら眠らなきゃならないなんて拷問ですよ」

 と祐介もすぐさま言い返す。

「そう言うなって……。しかし、まあ、こんな猛吹雪の中で、どうにか命が助かっただけでも奇跡なんだから、贅沢を言っちゃあいけないなぁ。羽黒、今夜はよろしく頼むぞ」

「あらたまって言わないでください。気持ち悪いなぁ」

 とこんな会話をしているが、二人は実に仲が良いのである。
 根来は荷物を、椅子の上に放り投げると、

「じゃあ、せっかく宿泊するんだから、早速、この邸宅をくまなく探検しようぜ」

 と、完全に旅行気分な発言をする。

「駄目ですよ。別荘に赤の他人を泊めるだけでも、向こうからしたらいい迷惑だろうに、その上、勝手に歩きまわっちゃ……」

「そうか? でも、こんなでっかい別荘に泊まっていながら、部屋にずっとこもってんのはもったいないなぁ」

 と根来はさも退屈そうに、枕元のランプを触ったり、家具の引き出しを端から開いてみたりしている。面白いものは何一つ出てこない。窓の外を見ると、もう夜なので暗くなり、何がどうなっているのかよく分からないが、吹雪の勢いは先ほどよりも強まっているらしい。窓ガラスがガタガタと音を立てている。
 このようなわけで、群馬県警の根来警部と美男子の羽黒祐介は、年越しパーティーには参加せずに、二階の一番奥の部屋に二人揃ってこもることとなった。


4 恐ろしき大晦日

 山岡荘二郎側の話に戻るが、小倉とはそれからもまったく連絡がつかなかった。いよいよ山道での事故の可能性が高まるが、銀泥荘の人々は、この吹雪の中ではどうすることもできず、また何かが起こったというのは想像の域を出ていないので、とりあえず今晩は様子をみることにした。
 午後十時頃になると、杏と諭吉は館内で鬼ごっこを始めたが、すぐに母親たちに怒られて「静かに遊ぶこと」になった。楓は、その様子を微笑ましく思って眺めていた。
 この時刻になると、今年もあと二時間で終わりと言うことが名残惜しく感じられてくる。楓は、今年の一年を振り返って色々なことが思い出されて、妙に感傷的な気分になっていた。
「ねえ、あの二人の男、大丈夫かねぇ」

 とソファーで隣に座っている母親の富士江が、楓にそっと話しかけてきた。

「大丈夫って?」

「犯罪者じゃないかって心配してんのよ」

 なんだ、そんなことか、と楓は思った。

「それは大丈夫でしょ。だって、ふたりの内の一人は警察官だっていうじゃない」

「そう名乗っているらしいけどね。わたしたちには警察手帳が本物かどうか、鑑定なんてできないしねぇ」

 と富士江が嘆くように語る。富士江が心配していることは楓もよく分かる。しかし楓は、あの私立探偵の羽黒祐介のことがすっかり気に入ってしまって、微塵も心配は感じていなかった。今頃、あの人は部屋の中で何をしているのだろうか、食事は何か持参しているのだろうか、恋人はいるのだろうか、などいろいろな心配をする。
 その直後だった。三田村執事が居間と厨房をつなぐ出入り口から不審そうに歩いてきて、楓と富士江に話しかけてきた。彼の手にはコーラが半分ほど入ったペットボトルが握られている。

「あの、わたしのコーラ、飲んだ人いますか?」

 楓は首を傾げた。

「さあ、減ってるの?」

「ええ、冷蔵庫を覗いた時に気付いたんですけど、誰か間違えて飲んだのかなぁ。ちょっと薄気味悪いですね」

「捨てちゃえばいいじゃない。それで、代わりに新しいのを開ければ……」

 とせせら笑う楓は、資産家の娘であるから、三田村がたかがコーラの一本ぐらいで何をそんなに悩んでいるのか、よく分からなかった。

「他人に飲まれないように冷蔵庫に入れていたのですけど。まあ、新しいやつがまだ何本もありますから良いです。でも、それらはまだ冷えていないんですよね」

「氷を入れて飲めばいいじゃない」

 そう言って、楓は再び笑った。三田村執事は、そう言われて幾分恥ずかしそうな表情をうかべるとのそのそと厨房の方に戻っていった。

「嫌ねぇ、三田村は貧乏くさいことばかりを言って、あれは貧民の出なのですよ」

 と執事の姿が見えなくなると、富士江は苦々しくつぶやいた。

「じゃあ、お父さんと同じじゃない」

「そうねぇ、あの人も育ちが貧しいわよね。なにしろ下町の工場こうばの息子だからね。あの人のそういうところがあなたに遺伝しないか、いつだって心配しているのよ、わたし」

 と富士江は言った。楓は、やれやれ、と思った。富士江は、小さいころから裕福な家庭で育ったのである。いかにも下町の出身者を蔑視している口調で、富士江は言うと、アレルギーでも起こったようにぞぞっと二の腕を抱いて震え上がった。
 楓は、もう午後十時を過ぎたので、風呂に入ろうと思った。広めの浴場が地下にある。男性と女性とで時間を分けて入浴することになっている。自分が入浴する際は、異性が乱入して来ないように札をかけることになっている。
 楓は、脱衣室で洋服を脱いでーーそれはつまりブラジャーを外し、ショーツまで脱いだということであるーー溌剌とした肉体を鏡を映すと、浴室に移動して、広い浴槽に飛び込んだ。しばらく水死体のように湯船に体を浮かべている。大変、気持ちがよい。ぼうっとしてきて眠くなる。羽黒祐介のことを考えると顔が赤らむ。

(羽黒さん……)

 楓はあれやこれやと妄想にふけるあまり、うっとりしてしまい、口を湯に沈め、ぶくぶくとジャグジーのように泡を膨らませていた。こんなことをしていると、茹ってしまいそうなので、楓は耐えられなくなって、ざばっと湯から上がろうとした。  その時、ガラス戸がガラッと音を立てて開いたので、楓は慌てて、体を湯に沈めて、裸が見られぬように気をつけた。

「なんだ、杏か」

 楓は安堵の声を上げた。妹の杏がなぜか部屋着を着たまま、浴室に入ってきたところだった。

「今ね、諭吉と隠れんぼしているの」

「こんなところに隠れんのは駄目よ。ゆっくりお風呂に入れないじゃない。あと、お父さんの展示室と収蔵室も駄目よ。絶対、怒られるから……」

 と楓は姉らしく、杏に注意した。
 杏は、はあいと言って、眠そうに欠伸をすると、浴室から出て行った。

              *

「俺たちの飯はなんですか」

 と根来は、部屋の前の廊下を通りかかった三田村執事に尋ねた。午後十時を過ぎても何も用意されないとさすがに不安になる。執事は、わずらわしそうな表情を浮かべて、

「あなた方にお食事の用意が必要だとは思いませんでした」

 と文句のようなことを言った。

「あ、いえ、これは失礼しました。実はなにも持ってきていないんですよ。軽いものでも良いので、少しでもありましたら……」

「ええ」

 執事はあからさまに不満げであったが、二十分後にはサンドイッチと年越し蕎麦の残りをお盆に乗せて、持ってきてくれた。

「ありがとう。良いお年を」

 根来は、三田村執事にお礼を言うと、執事は冷たい響きの声で、ええ、とだけ呟いて、ドアを力強く閉めた。

「酒、ねえかな。せっかくの大晦日なんだし……」

 根来は物欲しげな目で、三田村執事が今しがた出て行ったドアを見つめた。

「根来さん。泊めてもらっておいて、それはないですよ。サンドイッチとお蕎麦を分けてもらえただけでも感謝しないと……」

 と祐介は、根来をたしなめる。

「わあってる。わあってるよ。まあ、ささやかな夕食だが、感謝しよう。これで今年も終わりだ。新年もよろしく頼むぞ。羽黒……」

 そう言って、根来はどんぶりを持ち上げ、熱々のかけ蕎麦をひとすくい箸でつまんで、ずるずると一気に呑み込む。そして、はふはふ言いながら、分厚いかき揚げを頬張り、汁をすする。

「そうですね。今年もお世話になりました」

 祐介もサンドイッチを頬張りながら、今年一年間を振り返った。
 この後、しばらく二人は「今年一年を振り返る」会話をすることになった。しかしながら、それは事件の話題ばかりなのであった。
 楓が風呂から上がり、溌溂とした肉体に滴る湯を白いバスタオルで拭い、部屋着に着替え、一階の廊下に戻ると、父の山岡荘二郎が神妙な表情を浮かべ、居間から出てきた。

「どうしたの?」

「小倉さんはついに今日は来なかったな。なにか、あったのかもしれない」

「事故とか?」

「ああ、そうかもしれない。そうでないかもしれない……」

 荘二郎は意味ありげにそう呟くと、居間に戻ってしまった。

(小倉さんの身になにがあったんだろう……)

 楓はそんなことを考えながら、エレベーターに乗り、羽黒祐介の泊まっている部屋に忍び寄った。そしてトントンと二回ドアを叩いた。ガチャリとドアが開いて、根来の鬼面が飛び出してくる。

「なんでしょう」

 楓は、根来には反応を示さずに、ひょいと室内に入り込み、羽黒祐介がベッドに座っているのを見て、またしても顔が真っ赤になってしまった。

「あの、どうされましたか?」

 祐介は困ったような、苦笑いを浮かべている。

「あの、なにかお困りのことがあったら、わたしに……」

 楓はそう言いかけると無性に恥ずかしくなり黙った。その後は、まじまじ床を見つめるばかりで、何をするでもない。ついに間に耐えられなくなって、楓は背後の根来を勢いよく突き飛ばして、部屋から逃げ出した。

            *

 そうこうしているうちに時刻は十二時寸前となり、食堂では年越しのカウントダウンが行われて、ちょうどの瞬間に酔っ払っている文子が派手にクラッカーを鳴らした。
 それから日本酒を飲んだり、ひとしきり盛り上がったが、午前一時には解散することになった。
 楓は自分の部屋に向かい、ベッドの中で眠ったのは、午前一時のことだった。

 後々考えてみるに、殺人はこれよりも前に行われていたのである。そして死体は、ある場所で首を切断されて、頭部と胴体とに分けられることになった。容疑者たちのアリバイがいずれも成立しなかったのは、このように犯行時刻が深夜から朝方にかけてだったからである。この時刻には、ほとんどの人間が眠りについているか、一人で行動していたのである。
 それは羽黒祐介と根来警部も同じであった。二人は年越しの瞬間に、持っていた緑茶のペットボトルでささやかな乾杯をしたが、これから初詣に行くでもないし、酌み交わす酒もないし、午前一時には二人ともダブルベッドでぐっすり眠ってしまった。
 このようにして、二人が目を覚ました時には、明けましておめでとうございます、と挨拶するには不吉すぎる元旦となっていたのである。




5 銀泥荘の惨劇

 五時半頃のことである。星野文子は陰鬱な面持ちで、エレベーターに乗り、三階の展示室の隣にある部屋に向かっていた。それはこういうわけである……。
 彼女は午前五時頃、客室での睡眠中に、奇妙な音が高鳴っていることに気づいて目を覚ました。その音は自分の寝ているベッドの下から聴こえてくるのだった。このままでは諭吉が起きてしまう。文子は、鳴り響いているのが、タイマーのようなものであることはすぐに分かった。

(一体、なにが……)

 これでは寝ていられない、と文子は不満に思いながら、むくりと起き上がって、ベッドの下を眺めた。黒くて平べったいタイマーのようなものが落ちている。しかし、そこには一枚の紙がテープでとめられていた。

(なんだろう、これ……)

 夜中にこんなものを見つけるというのはいかにも薄気味悪いが、館の主人である荘二郎を起こすほどのことでもない。そう思って、文子はタイマーとその紙を拾い上げた。
 ところが文子は、その紙の文面を見て、真っ青になった。否、真っ青になったと表現するのが一般的だが、死人のように血が通わなくなり、肌が灰色になったというのが正確だろう。
 その紙には、数行の文章がしたためられていて、文章の終わりには、三階の部屋に一人で来ることが指示されていた。普通ならば、こんな不気味な指示に従う人はいないのだろうが、文子には従わなければならない理由があったのである。
 このような経緯から、文子が一人でエレベーターに乗り、三階の薄暗い廊下を歩いてゆくと、突き当たりにその部屋はあった。
 物置のような部屋なのだと荘二郎に聞いたことがある。その緑色のドアの上には、ガラス戸の天窓がついており、廊下の明かりが室内に差し込むようになっている。

(この中に何が待っているのかしら……)

 文子の顔は恐怖に歪んでおり、彼女は今に泣き出しそうに、あるいは狂ったように笑い出しそうになっていた。
 彼女は、指示された通り、部屋に入ろうとドアのノブに触れたのだが、鍵がかかっているのか、閂が差してあるのか、それとも内側で物が当たっているのか、ドアは一向に動く気配がない。

(どうしよう……)

 文子が予想していなかった展開に、困惑した。

「はっ……」

 文子はその時、背後に誰かが立っている気配を感じた。背筋が冷たくなった。恐る恐る振り返ると、そこには黒装束にソフト帽をかぶり、銀色の仮面をつけた怪人が立って、こちらをじっと見つめているのではないか。その仮面はニタニタと笑っているようである。文子は、恐怖のあまり叫ぶこともできずに、凍ったようにその場に立ち尽くした。

「あっ……」

 文子がようやく声を出したところで、怪人は、文子になにか嗅がせようと右手に持っている布を顔に近づけてきた。
 文子はそこでようやく血も凍るような叫び声を上げると、元来た廊下を全速力で走った。こうなると人間は速いものである。エレベーターなど使わずに一気に階段を駆け降りると、一階の食堂まであっという間にたどり着いた。そして助けを求める声を何度も何度も狂ったように上げ続けた。

            *

「悲鳴だ!」

 根来は、そう叫ぶのとほぼ同時にベッドから飛び起きて、ドアを閉け、暗い廊下を走りだした。祐介も遅れて部屋から飛び出す。
 一階の食堂から焦っているような声が聞こえてきたので、根来は迷わず、そこに飛び込んだ。そこには文子と楓が抱き合うようにして立っており、文子は息も絶え絶えになっている。

「助けて! 怪人が……」

 根来が二人のそばに駆け寄る。

「何があったのですかな」

「刑事さん! 今、文子さんが……」

 と楓が説明しようとすると、文子は悲痛な声を漏らして、頭を押さえ、椅子に座り込んだ。

「三階の部屋の前で不審者が出たのだそうです」

 と楓が代わりに説明した。

「なんですって。三階ですね。文子さん。その部屋とは一体どの部屋のことですか」

「三階の部屋は、展示室の他に一つしかありません! 廊下の突き当たりにある緑色のドアの部屋です」

 と楓も焦った口調で叫んだ。
 根来警部と羽黒祐介は、顔を見合わせると、すぐに玄関ホールにあるエレベーターを使って、楓に教えられた部屋の前に急行した。そして根来は、ランプの琥珀色の灯りが続いている廊下に異常がないことを確かめると、文子が入ろうとしたという部屋を見た。彼は、ドアを開けようとするが開かない。

「ここに逃げ込んじゃないだろうな」

 根来はドアを睨みつけるとそう呟いた。すると羽黒祐介が、

「根来さん。この天窓から室内の様子が見れるかもしれません。なにか足場になるものはないか、探してみましょう」

 と言った。
 その時、話を聞きつけて駆けつけたらしき、山岡荘二郎と三田村執事の姿がエレベーターの方からやってきた。

「不審者が出たとか……」

 と山岡荘二郎は根来の顔を見ながら言った。

「ええ。このあたりにまだ不審者がいるかもしれません。くれぐれもお気をつけて。ところで、なにか脚立のようなものありませんか? この部屋の中がどうなっているか見たいのですが……」

 三田村執事はそう言われて、すぐにエレベーターに乗って、下の階から脚立を運んできた。根来はすぐさま、脚立の上に飛び乗ると、ガラス窓の引き戸になっている天窓から室内を覗き込んだ。

「ぐえっ……」

 根来が見えた室内は、一部に過ぎなかったが、それでも部屋の半分以上を見渡せた。日頃使わない家具や、荷物が乱雑に置かれている室内。わずかに外の明かりが右側の窓から差し込んでいるだけの薄暗い室内の様子だった。しかし、そこに人間の顔のようなものが転がっているのがはっきりと見えた。それは切断された生首であり、男性のものだった。そして、その右側にはベッドが置かれていて、そこには頭部が切断されてなくなった人間の胴体が寝かされていた。白いシーツは血にまみれている。

「不審者がいるのですか?」

 と山岡荘二郎は不安げに尋ねてくる。

「いや、違う。それよりももっと恐ろしいものだ。人間の生首が転がっているんだよ」

 根来はそう叫ぶと、天窓のガラスの引き戸を開こうとしたが、内側からクレセント錠がかかっているのかぴくりとも動かない。根来は、悔しそうに「くそっ」と呟くと、脚立から飛び降りて、ドアのノブに触れたが、何度触れてもここはまったく開かなかった。

「何かが引っかかっているのか? それとも鍵がかかっているのか。山岡さん。どうやら、本当に人が死んでいるらしいので、このドアをぶち壊そうと思っているのですが、構わないでしょうな?」

「それは仕方ありません。しかし一体誰が亡くなっているのですか?」

「男性です。心当たりは?」

「もしかしたら、小倉じゃないかと思ったのですが……」

「小倉というのは……」

 根来は、山岡荘二郎の顔を睨みながら尋ねた。山岡荘二郎は困惑したような表情を浮かべながら説明を始めた。

「昨日、到着するはずだったわたしの知人なのですが、連絡がつかないまま、ついに昨日は顔を見せなかったのです。なにか事故に巻き込まれたのではないかと心配していたのですよ。だから……」

「百聞は一見にしかず、と言います。わたしが今ここで死者の外見の説明をするよりも、実際に見てもらった方が良さそうです。あまり気持ちのよいものではないが……。このドアをすぐに破壊しますから、斧のようなものを持ってきてください」

「分かりました。すぐに使えるか分かりませんが、よく手入れをしている日本の斧がそこの展示室にあるので、持ってきましょう」

 と山岡荘二郎はそう言って、三田村執事に展示室の鍵を持ってくるよう伝えた。しばらくして、三田村執事は展示室の鍵を持ってきて、その後、展示室から鋭利な斧を一つ持って来た。
 根来は、斧を受け取ると、何度もドアに叩きつけて、ついに穴を空けることに成功した。そこから手を入れて、内側の閂を外した。確かに閂はかかっていたようだ。そしてドアが開いた。

「うわっ……」

 と山岡は叫んだ。部屋の中央の床に、男性の生首が転がっていて、むごたらしい血肉にまみれた切断面をこちらを向けているのだ。右側には、ベッドが置かれていて、そのシーツは真っ赤に染まり、掛け布団もベッドの左側の床にずり落ちていた。そして、そこには首から上がなくなった人間の胴体が横たわっていたのである。




6 衣装箱の中の少女

「なんてことだ! この顔は……」

 と根来の隣に立っている山岡荘二郎が、室内の生首を見るなり大声で叫んだ。根来は、はっとして荘二郎の顔を見る。

「小倉さんですか?」

「違う。萩本です。年越しパーティーに招待した客の一人ですよ」

 そう言って、山岡荘二郎はしばし生首に釘付けになっていたが、直視できなくなったのか、顔を背ける。
 萩本という男が一体どういう人物なのか、根来にも祐介にも分からなかったが、とにかく何者かに殺されて生首になっている事実だけは疑いようがないので、根来は、すぐに現場検証をしなければ、と思った。

「三田村さん。申し訳ありませんが、警察への通報をお願いします!」

「かしこまりました」

 と三田村執事は焦った様子で言いながら、一旦、その場を離れた。
 根来は鋭い視線で現場を確認する。部屋は、物置のようである。男性の胴体が乗っているベッドも日頃使わなくなったものとみえて、この物置部屋に運んできたのだろう。左側の奥の方には洋服を入れる、大きな衣装箱が置かれている。木の椅子の上には、ハードカバーの本が乱雑に積まれていて、その上に白い封筒がある。その上には何も置かれていない。
 ところが奇妙なことに、その箱の右側の床に、ちょうど木箱が一杯になるぐらいの洋服が、無雑作に積まれていたのである。
 衣装箱の蓋がガタリと音を立てて動いた。根来は、あっと声を上げそうになった。その蓋はゆっくり上に開いてゆき、その中から少女の眠そうな顔が出てきたのである。

「ふにゃにゃ……」

 少女は、瞼をこすっている。

 その時、山岡荘二郎があっと声を上げた。

「杏!」

 根来と祐介はすぐに、杏が無残な死体を見ないように注意しながら、彼女を部屋の外に運び出した。杏は寝起きで、状況がまるで呑み込めていない様子で、うとうと目を細めている。

「君はいつから、あの箱の中にいたんだ?」

 と根来は尋ねる。杏はきょろりと目を開いて、根来を見上げる。

「昨日の夜から……」

「一体あそこでなにをしていたんだ?」

 杏は、根来の鋭い目つきを間近に見て、次第に目が覚めてきているようである。

「隠れんぼ、諭吉と……」

「諭吉というのは誰だい?」

「男の子……ちっちゃい……」

「それで君は衣装箱に隠れたまま、眠ってしまったというわけか、昨晩から……」

 隠れんぼをしている最中に眠るだろうか、あれは相当スリリングなもののはずだけど、と根来は若干の違和感を感じた。

「君がこの衣装箱の中に隠れたのは、正確には何時ごろのことだ? 覚えているかな」

「たしか、十時を過ぎたくらい……。十時半とか」

「もしや、君はその時に、このドアの閂をかけなかったかい?」

「かんぬき?」

「このドアのこれだよ……」

 と閂の差し込む金具を指差す。

「たしか、かけたと思う」

 そこで、ドアに閂を差してしまったら、諭吉という少年は絶対に見つけることができないじゃないか、と祐介は思った。

「これで謎が一つ解けたな。羽黒。この部屋のドアの閂が内側から差さっていたのは、密室でもなんでもなく、室内にこの子がいたからさ。この女の子が、閂をさしたんだからな」

 しかし祐介はまだ納得していない様子だった。

「ええ。でも、それは昨晩の十時半のことなのでしょう。山岡さん、あなたが最後に被害者を見たのはいつ頃ですか?」

「被害者を最後に見た時刻……。確か彼は年越しのカウントダウンの三十分ほど前までは居間にいて、談笑していたのですが、それから部屋に戻ったはずです。だから、午後十一時半頃までは彼が生きていたことは間違いなくはずです……」

 と山岡荘二郎は証言する。

「なるほど。こちらの少女によると、この部屋のドアの閂がかけられたのは、午後十時半のことです。ところがその一時間後の十一時頃まで、被害者は生きていて、一階の居間にいたというわけですね。ということは、被害者はこのドアが内側から施錠された後に殺されたというわけです。これは立派な密室殺人ですよ……」

「ええい、なんてこった」

 根来は祐介の話を聞いて、さも悔しそうに叫んだ。

「それだけではありません。一般的に、ミステリー小説で密室殺人という場合、それは「犯人が出れない密室」をさします。すなわち犯人が現場に入って、殺人を行ったという点については何の不思議もないのです。その後、どうやって施錠された室内から犯人が脱出したのか、そこに重大な謎が生じているわけなんです。しかし、今回はそれだけではなく、犯行以前にこの部屋が密室と化していて、被害者も犯人も外にいたことが分かっているのですから、被害者も、犯人も現場に入ることすらできなかったと考えられるのです。まさに現場は「犯人も被害者も入れない密室」だったことになります」

 祐介の言葉を聞いて、根来はいかにも不機嫌そうに現場を睨みつけた。祐介は、先ほどからやけにしがみついてくる杏の右の手のひらを見ると、人間の血がベッタリとついていた。

「これは……。どこかで血に触った?」

「ううん」

 杏は顔を横に振った。とはいっても、インドのダンサーのように左右に振ったのではなく、かぶりを振ったという意味である。祐介はこの血のことがひどく気になったらしい。
 その時だった。三田村執事が廊下を走ってきて、

「電話が通じません!」

 と叫んだ。

「なんだって、電話が通じないだと……? 」

 根来と祐介は驚いて、三田村執事の案内のもと、一階の電話機のもとへ急いだ。根来が受話器を耳に当てる。そしてボタンを触る。

「確かに、電話が通じていないな。これは、この大雪だから、つまり、どこかで電話線が切れたとか……」

 根来は、無意味に受話器をひっくり返しながら言った。

「仕方ない。俺たちの手で初動捜査をするしかねぇな」

 と根来は言った。外はまだ吹雪なのだ。

「まったくとんだ元日だぜ……」

 根来は憎々しげにぼやいた。遅れてエレベーターで一階に到着した山岡荘二郎は、電話が通じないことを知ると、さらに顔を蒼ざめて、

「根来さん。わたしたちにできることがあれば、なんなりと仰ってください……」

 と言った。

「まず、わたしたちは現場検証をいたしますから、その間にこの館にいる皆さんを居間に集めておいてください。現場検証が済んだら、皆さんの事情聴取を行いますから……」

 と根来は厳しい表情で言った。




7 現場検証

 山岡荘二郎や三田村執事と分かれると、羽黒祐介と根来警部は、エレベーターで三階の現場に戻った。

「さあ、現場検証を始めるか……」

 根来は、闘志に燃えている目まなこで、現場をじろりと眺めた。
 あらためてこの部屋を説明すると、ここはほとんど正方形の部屋で、入り口のドアから入って右側に窓があり、その下にベッドが置かれている。杏が一晩中、隠れていたという巨大な衣装箱は、出入り口から見て左奥の隅にあった。出入り口のドアにはシリンダー錠がついておらず、内側から金属の横木をスライドさせるタイプの閂かんぬきがついているだけである。この閂がかけられていたのである。
 萩本の生首は先ほどと同じように、部屋の中央の床に転がっていた。顔のない胴体はベッドの上に寝かされている。部屋は薄暗く、惨劇の匂いが漂っているかのように不気味である。
 ドアの真上にある天窓は、部屋と廊下をつないでいる。ガラス戸の二枚からなる引き戸になっていて、内側からクレセント錠がかかっているようだ。クレセント錠というのは、半月型の金具を締めることで引き戸を開かなくするものである。しかし、それも薄暗い室内である上に、廊下の明かりが逆光になっているためによく見えない。根来は、そのことに不満を感じた。

「よく見えんな、電灯をつけるか」

 根来は、これでは現場検証ができないと考えて、ドアの横についているスイッチを押したが、電灯は点かなかった。

「なんだ、切れているのか……」

 と、根来は首を傾げる。そこでスマートフォンのライトを使って、捜査をすることにした。
 二人は、死体を確認することにした。まずは切断された頭部。苦悶の表情を浮かべたままの生首、灰色になった素肌、床には鮮血が飛び散っている。

「鋸のようなもので首を切断されていますね」

 と祐介は言った。

「死後に切断されたのだろうな。この感じからすると……。しかし、ひでぇな……」

 と根来は忌々しげに言う。正確な死因は分からない。ただ後頭部に僅かなへこみがある。背後から鈍器によって撲殺されたのだろうか。この痕跡がしばらく根来の脳裏に引っかかっていた。

「次は、胴体の方を見てみるか」

 と根来は言って立ち上がる。
 胴体は、青いパジャマ姿だった。首から上が切断されてなくなっている。ここもやはり、鋸によって首を切断されたものと思われる。血肉が剥がれ落ちそうである。白いシーツの表面や、床に払い落とされた掛け布団の裏面には生々しい鮮血がついている。
 祐介はこの時、なにかに気付いた様子であったが、根来にはそれが分からない。
 祐介はその後、衣装箱に小さな血の手形が付着しているのを見つけた。これが杏のものであることは間違いだろう。しかし、祐介はそれ以外の家具を調べ始める。室内にはひとつだけ椅子が置かれていて、その上にはハードカバーの本が積まれていて、そのさらに上に白い封筒が置かれ、さらにその上に長い定規が乗せられている。それを一つずつ、床に置きながら、血の手形がついていないか確認する。そしてついに血の手形がついているのは衣装箱だけだと確信した。これが後に重要な手がかりとなるのである。

「あとは密室の問題ですね。どこか抜け穴があると良いのですが……」

「窓はどうだ?」

 根来に言われて、ベッドの向こう側にある窓を、祐介は確認することにした。

「この窓は内側からクレセント錠がかかっている上に、外側からは面格子がかけられていて、腕を通すことも厳しいですね」  と言って、祐介は窓からの侵入説を否定する。

「だとすると、分からないな。犯人と被害者は、どうやってこの部屋に入ったのか。そして犯人はどうやって出て行ったのか……」

 と根来は頭を抱えると、怒りが込み上げてきたのか、室内を見まわす。

「くそっ、必ず犯人を逮捕してやるぞ……」

 これに対して、祐介は涼しい顔をしている。いつも以上に淡々とした口調で推理を語り出す。

「根来さん。この場合、密室にしたトリックはそれほど問題ではありませんよ。それよりも、犯人はなぜこのような状況を作り出したのか、これこそが事件解決の最大の鍵です。すなわち、なぜ犯人は現場を「入れない密室」にしようとしたのか、ということです。しかし忘れてはいけないのは、杏ちゃんはまったく偶然に、この部屋に入り、閂を差してしまったのです。それは犯人には予測のできないことでした。
 この部屋に隠れていた杏ちゃんと、死体を発見した星野文子さんの二人に事情聴取をすれば、なにか重大な手がかりが得られるはずです」

 羽黒祐介と根来警部はこのようにして、一通り、現場検証を終えると、殺人事件の死体発見現場から離れて、居間に向かった。
 居間には、この館にいる人々が全員揃っているとされている。山岡荘二郎をはじめとして、死体の第一発見者である星野文子、その息子の諭吉、荘二郎の妻の富士江、娘の楓と杏、三田村執事と料理人の上沼である。
 皆、恐怖に歪んだ顔をしている。そしてその顔で、根来や祐介の顔を食い入るように見つめている。根来が事情を説明しようとすると、文子が震えた声を上げる。

「萩本さんが殺されたって本当なんですか!」

「ええ」

「なんてこと!」

 文子が狂ったように叫ぶ。そして頭を掻きむしると、ヒステリックに何事か叫んで、根来にしがみついてきた。

「誰が、誰かが彼を殺したのですか……!」

「落ち着いてください。本日は吹雪のため、警察はすぐには来れませんが、わたしは群馬県警の捜査第一課の刑事です。そして、隣のこいつはちょっと有名な私立探偵です。我々、二人にまかせていただければ、犯人の好きなようにはさせませんから、ご安心を……」

「そんなことを言っていても、犯人はわたしを殺そうとしたんです! また現れます! あの人はまた現れます!」

 文子は、根来にしがみつきながら喚き散らした。諭吉が恐怖に歪んだ目でそんな母の姿を見つめている。文子の声は居間に響き、不安が伝染し、それまで落ち着いていた楓も凍りついたような表情で彼女を見つめるようになった。
 三田村執事は、頭を押さえ、わあっと叫んで立ち上がった。

「死体は、首と胴体を切り離されていました。そんな猟奇殺人鬼がこの屋敷の中にいるのでしょうか……!」

「落ち着きなさい……」

「犯人は萩本さんの首をちょん切ったのですね。あははは。残酷に殺されてしまったんだ……」

 三田村執事の目には、狂気に似たものが浮かんでいる。ここには杏もいるし、諭吉もいる。これは黙らせないといけない。

「黙らんか!」

 根来が一喝する。その怒号がどどどっと低く地響きのように館内に響くと一瞬にして、周囲の人々は静まり返った。

「あなた方の命は我々が守りましょう。しかし、このような状況だからこそ感情的になってはいけません。こういう状況で感情的になった人間は真っ先に殺される。テレビでも映画でもそうでしょう。それにこうして居間にいれば、狙われることはないはずですよ」

 根来は、不動明王のような表情で周囲に睨みを効かせたのだった。




8 始まった事情聴取

 この事件の謎を解決するには、まず死体の第一発見者である星野文子の事情聴取を行わなければならない、という話になって、一階の一室を借りることになった。
 その部屋は、取り調べ室のような見た目の部屋であった。中央にテーブルがあり、両側に椅子を並べ、根来と文子が向かい合って座り、祐介はその背後に立ってその様子をじっくり眺めている。

「星野文子さん、まずはあなた自身のことをお伺いしましょう。あなたは山岡荘二郎さんの知人なのですか?」

 と根来が尋ねた。
 文子は、貴婦人といった外見の上品な女性であるが、この不安な状況に、すでにやつれているように見えた。そんな彼女は、根来と視線を合わせないように気をつけている様子で、物静かに語り出した。

「山岡さんの大学時代の後輩で、美術研究会に所属しておりました。毎年、年越しパーティーに参加しておりまして、昨年は参加しませんでしたが、今年こそはと思いまして……」

「昨年というのは、一昨年のことですね?」

 と根来は言い間違えを正そうとする。

「ええ、そうです。なんだか年越しってややこしいですね。ええ、久しぶりの参加でした」

「旦那さんはお家に?」

「そうですね。わたしと諭吉だけで参りました」

「なるほど。わかりました。それで本題に移りますが、なぜ、午前五時半という時刻にあの部屋に向かったのですか?」

と根来は睨みを効かせた。

「それについてはお話ししようと思っておりました。五時頃のことでしょうか。夜中にタイマーのアラーム音に起こされて、目を覚ましたんです。どこにタイマーが仕掛けられているのか探したところ、ベッドの下に黒いタイマーが落ちていました。ところが、そこには一緒に手紙があったんです」

「手紙、それは一体、誰から?」

 根来の眼光はいよいよ鋭くなる。

「分かりません。ただ手紙には、五時ちょうどにあの部屋に来るように、と書いてあったんです」

 文子は恐ろしげに視線をテーブルの上に彷徨わせた。

「なるほど。その内容にあなたはしたがったと……」

「わたしはあまりの恐ろしさに、そのおぞましい手紙を細かくちぎって捨てました」

「捨ててしまったのですか。そんな大事な証拠を。それから?」

「部屋に着いたのですが、ドアは開きませんでした。背後に人の気配があったんで、振り返ったら、そこには銀のお面をつけた怪人が立っていて……」

「銀のお面をつけた怪人。あなたはそれをはっきり見たのですか?」

「ええ、でも誰かは分かりませんでしたし、そんな人物、思い当たる節もありませんでした。その人物は、右手に持った布でわたしにとらえようとしてきたので、すぐにピンときました。これはクロロホルムを嗅がせようとしているのだろうって……」

「その可能性はありますな」

 根来は、こほんと咳払いをする。

「わたし、一目散に逃げたんです……」

「犯人の身長はどれくらいだったか覚えていますか?」

「さあ、一般男性ぐらいだったでしょうか。でも、黒装束のコートのようなものを着ていて、よく分かりませんでした」

「もう一度質問しますが、怪人が誰であったか、心当たりはありませんか?」

「いえ、存じません」

 と文子は首を横に振った。
 そこで羽黒祐介の推理が光った。祐介は、根来の質問を手で止めると、机に手を置き、文子の顔を覗き込むようにしてある事実を追求することにした。

「いえ、あなたは怪人が誰なのか、心当たりがあるはずです。違いますか?」

「えっ、何のことですか」

 文子は突然のことに驚いて、祐介の美顔を見上げる。

「まず、あなたは手紙を捨てたとおっしゃいましたが、そのような重要な手紙を捨てるものでしょうか。あなたが手紙を我々に見せたくない理由、これはわたしたちには分かりませんがね。また、よほどの理由がない限りは、そのような差し出し人不明の手紙の指示に従うことはなかったはずです。その理由を仰らないところをみると、それはあなたの弱みなのでしょう。そして、あなたが居間で動揺している時、怪人のことを「あの人が」と口走っていたことからも、あなたは怪人に思い当たる節があると推理できるのですが、星野文子さん、いかがでしょうか……」

 これには文子も反論できなくなり、観念したような表情を浮かべて、うつむいた。

「さすが、有名な名探偵と呼ばれているだけのことはありますね。嘘はつけないものです。わたしは、たしかにあの手紙を読んで思い当たることがあったんです。その手紙には、こう書かれていました。『諭吉の本当の父親が誰なのか、周囲にバラされたくなければ三階の部屋に来い』と。実は諭吉は、行方不明の小倉さんとの間にできた子で、旦那の子ではないんです」

「なんですって……」

 と根来は驚いて、祐介の方を振り返った。祐介は腕組みをして、そのことを考えているようである。

「わたしはそれを知られたくなかった。だから、はじめ読んだ時、小倉さんからの手紙かと思ったんです」

 根来は頷くと、ちらりと文子を睨みつけ、重々しい声を出して尋問を再開した。

「諭吉君が旦那さん以外の男性との間にできた子であることはよく分かりました。年越しパーティーに旦那さんを連れてこなかったのはそんな理由があったのですね。その事実を知っているのは誰なのですか?」

「誰にも知られていないはずです。でも、誰かが察していた可能性はありますが……」

 根来は、黙々としてメモを取った。諭吉の父親は、小倉ということになる。

「なるほど。それではまた一つ、お尋ねしますが、あなたは何時頃まで年越しパーティーに参加していたのですか?」

「午後一時頃までですかね。その後は、自分の部屋に戻りました。自分の部屋には、すでに諭吉が眠っておりました」

 星野文子の話は以上であった。彼女には、とりあえずアリバイらしいものは何一つ持っていなかったので、ここで彼女の事情聴取を終えて、居間に戻ってもらうことにした。彼女がいなくなると、根来はじろりと祐介の方に向き直った。

「どう思う? 羽黒。残念ながら、犯人の外貌は銀色の仮面のせいでまったく見えなかったというわけだ。身長も分からなかった。手がかりはなし、というわけだな」

 すると祐介は、ふふっと余裕のある笑みを浮かべて、再び精悍な瞳で、根来の顔を見つめる。

「とんでもありません。犯人は重要な手がかりを残していきましたよ。まず第一に、犯人はなぜ星野文子さんを現場に呼び寄せたのでしょう? 第二に、なぜ怪人の格好をして星野文子さんの背後に現れたのでしょう? この二つの疑問を提示してくれただけでも、重大な手がかりですよ」

 と羽黒祐介はすでになにかを掴んだような表情をしている。

「そう言えば、そうだな。その点が気になるな。よく考えてみよう」

 と根来は口の中でもごもご呟いた。




9 少女と執事の証言

 続いての事情聴取の相手は、山岡杏であった。小学五年生の杏は、室内に入ってくる時、ちょっとぽかんとした表情を浮かべていたが、すぐに目の前の強面の根来を見て怯えてしまった。先ほど根来が人々の混乱を収めた時、杏はまさに猛虎の咆哮を目の当たりにしてしまったのである。
 杏は、体が強張ってどうしようもなく、椅子の上で縮こまる。

「優しいおじさんにすべて話してごらん。隠し事はしないこと、分かったね?」

 と根来は微笑むと、猫撫で声で言った。

「はい……」

「それじゃあ、いくつか、お聞きしようかな。杏ちゃんは、何時にあの部屋の衣装箱に隠れたのかな」

 杏はなんと言ってよいか分からなくなって黙っていたが、急かされることを恐れて、突然、早口で語り出した。

「あ、あの……十時半頃だと思います。諭吉が絶対に見つけられないところに隠れようと思って、あの部屋の衣装箱に入ったんです」

「その際に、部屋には異常はなかった?」

 根来はじろりと虎の眼まなこで、杏の顔を覗き込んだ。

「い、いえ……電気がつかなくて、部屋の中はよく見えなかったんです。でも床には生首らしいものはなかったし、とにかく隠れられる場所を探してたんです」

「その頃から電灯が切れていたわけだね。なるほど……」

 と根来は頷いて、メモを取る。そして、さらに質問を続ける。

「君がドアの閂をかけたのかな」

「は、はい。部屋の中で隠れ場所が見つかるまで、邪魔が入らないようにと思って、鍵をかけておこうと思ったんです。お父さんに見つかると何言われるか分からないから。でも、その時すごく眠くて、鍵をかけたまま、とにかく衣装箱に潜り込んだところまでは記憶にあるんですけど……」

 さすがに小学生五年生ともなると、物言いがしっかりしている、と祐介は思った。鍵というのは閂のことだろう。
 根来はその話に若干の疑問を感じる。

「なんで、そんなに眠かったんだろうね。まあ、でも十時半にもなると、子供は眠いものか。なるほどね。すると、閂を外すことも忘れて、衣装箱に入ってすぐに眠ってしまったということだね」

 杏の言う通り、午後十時半に、あの部屋が施錠されたのだとすると、被害者の萩本は、午後十一時半まで食堂にいたのだから、当然、彼は現場の室内に入れなかったことになる。それなのに彼はどうして、室内に切断された遺体となって、現れたのだろう。
 それはそれとして、隠れんぼの相手が見つからないまま、それを誰にも伝えずに眠ってしまった諭吉も、子供とはいえ、いかがなものなのか、と祐介は呆れた。
 羽黒祐介は、根来に代わって、杏に質問をした。

「しっかり思い出してほしいんだけど、眠くなる三十分ほど前に、なにか飲み物を飲んだ?」

 杏は、はっとして祐介の顔を見た。杏からみても、羽黒祐介は人類史上最高の美男子なのだから、子供とはいえ、どきどきしてしまう。根来に対する返答とは幾分違う様子で、頬を赤らめると、にんまり笑って、

「お兄さん……お兄さん……。えっとね、冷蔵庫のコーラを飲んだよ」

 と言った。

「コーラ?」

 祐介は首を傾げる。

「そう、三田村が飲んでいたやつ。半分しか残っていなかったけど、冷蔵庫で冷えていたの、それ一本しかなかったから、勝手に飲んだの」

 三田村執事のコーラを飲んでから、三十分後に眠くなったということなのか、と根来は思った。自分だったら、あの三田村執事の唇が触れたペットボトルなんか飲みたくないな、と彼は思った。

「ありがとうね」

 根来は、事情聴取の手応えを感じていた。杏を居間に戻すと、二人は杏の証言について話し合った。  根来は腕組みをしながら、自分の推理を語り出す。

「三田村執事のコーラを飲んで、杏が眠くなったということは、そのコーラの中に睡眠薬が入っていたということだ。そうだな、羽黒。三田村執事がなぜ、自分のコーラに睡眠薬を入れる必要があったのか。それは簡単な理屈だ。そのコーラを誰かに飲ませるためさ。その誰かとは、被害者である萩本のこと。つまり萩本を眠らせて、後々、殺害するつもりだったんだろう……」

「そうでしょうかね。三田村執事が犯人かどうかは分かりませんが、自分が飲んでいるコーラを誰かに渡しても、その人は普通飲まないと思いますよ。それに、コーラを渡された人が誰かに話したら、誰による犯行によるかはすぐに分かってしまいますからね」

 と羽黒祐介はすぐさま反論した。根来は、祐介に反論されると言い返せるだけの理屈を持っていないので、すぐに折れる。

「それもそうだな。しかし、俺はちょっと三田村執事のことがピリリときたぞ。次は、三田村を事情聴取するとしよう」

 このようなことから、杏の次に呼ばれたのは三田村執事だった。彼は、自分が犯人と疑われていると頭から決めつけているような不機嫌そうな表情で、

「残念ながら、わたしにはアリバイがありません。そうでしょう。皆さんがお休みになるまでわたしは眠れませんでした。つまり、わたしが就寝についたのは、午前三時頃のことであります」

 と語り出したのである。

「それは分かったよ。お前にアリバイがなかったのは分かったが、実のところ、今回の事件では、アリバイを証明できる人間は一人としていないだろう。それよりもだ、ちょっと聴きたいんだが、冷蔵庫に入れていたというコーラ、これについてなにか知っていることがないか教えてくれないか?」

 と根来は一番気になっているコーラについて質問することにした。

「冷蔵庫のコーラ、ですか。あれは不思議でした。わたしの飲みかけのコーラの中身が、いつの間にか、さらに減っていたんです。それで気持ち悪くなって、そのコーラは排水口に流してしまいました」

 そのコーラを勝手に飲んだのは、小学生五年生の杏だったらしいことは分かっているが、問題なのはそのコーラに睡眠薬が入っていた可能性があることだ。根来はこの問題について深く考え込む。

「コーラはよく飲むのか?」

「ええ。ですが、仕事中は飲みません。仕事が終わった時に飲むことにしています。ただ、昨日は冷蔵庫を開けた時に、やたら中身が減っているのが気になったので……」

 と三田村執事は、なぜこんなことを尋ねられているのだろう、とでもいうかのような目つきで、根来をじろりと見ている。

「そのコーラに触れるチャンスは誰にでもあったのか?」

「それはあったでしょうね。厨房には、基本的に上沼さんがいましたが、彼もずっと厨房にいたわけではありませんし……」

「なるほどな。コーラについては以上だ。加えて、質問させていただきたいのだが、被害者の萩本に殺意を持っている人物というのは誰か、心当たりがあるかね?」

「さあ、わたしには分かりません。わたしはあくまでも執事ですからね。旦那さまのお知り合いのプライベートには触れません」

 という彼の口調からは、たとえ何か知っていても絶対に語らない執事魂が感じられた。

「分かった。それじゃ、アリバイはないという話だったが、一応確認させてくれ。昨日の十時半以降の行動を教えてくれ」

「ええ。わたしは午前一時頃まではあっち行ったりこっち行ったり、皆さんのパーティーのために駆けまわっておりました。旦那様のお申し付けで、十二時ちょうどに一階と地下階をつなぐ階段のドアの鍵を施錠することになっておりました。それで、そのためにはエレベーターを使うより、階段を使った方が近いので、階段を降りて、ドアを施錠いたしました。そして、居間のパーティー会場に戻りました。パーティーが解散になった後、わたしは展示室の施錠をしなければならなかったのですが、旦那様のお申し付けで、午前三時まで施錠をいたしませんでした」

「三時まで施錠をしなかった、それはなぜだね?」

「旦那様は、夜遅くまで美術品の展示替えをされていたのです」

 という三田村執事の話を聞くと、展示室の付近にそんなにうろついていたのなら、犯人と出くわしそうなものだ、と根来は思った。

「その時、誰かと会わなかったか?」

「いえ、どなたにも……」

 そう言って、三田村執事はにやりと微笑んだ。




10 金襴手の伊万里焼き

 根来は次に料理人の上沼を事情聴取することにした。上沼は、いかにも不機嫌そうな表情を浮かべていた。根来の事件の説明を聞いて、腕組みをしたまま黙っていたが、ゆっくりと静かな話し方で、

「犯人が誰かは存じません。わたしは料理の後片付けで二時頃まで眠ることもできませんでした。その間、ずっと一人の作業です。したがって、アリバイを証明することはできません」

 と言うと、首を横に振った。

「冷蔵庫にコーラがあったと思うんだが、これについて、何か知っているかね」

「コーラですか。三田村さんのものでしょう」

「勝手に飲まれていたそうだが……」

「存じ上げません」

「手を触れなかったかな」

「ふん。あれは三田村さんのものですからね。わたしがどうして触れるのですか……」

 と上沼は、幾分不機嫌そうに笑った。

「なるほどな。それじゃ、昨日の十一時半以降の行動を教えてくれ」

「わたしは、基本的にはずっと厨房にいました。年越し蕎麦も作らなければならないし、食器の後片付けも、一人で大変でしたよ。まあ、三田村さんも手伝ってはくれていましたが、彼は料理ができないので……。皆さんの食事が終わり、午前一時半頃にはようやく自由になれたので、入浴しようとエレベーターに乗って、地下の大浴場へ向かったのですが……」

 そういうと彼はなにか訳ありげに口ごもった。

「どうしたのですか?」

「浴場の入り口に「使用禁止の札」がかかっていたので、諦めて帰ってきました。あの札は主に、誰かが入浴をしている場合に他人が入ってこないよう、かけておくものです。そんなところでご婦人と出会ってしまうと、困ってしまいますからね。それで諦めて、部屋に戻ってベッドで寝入ったわけです。まあ、そんな具合です」

 そんな時刻に、誰かが浴室で入浴していたのだろうか、しかし、今のところ、そんな時刻に入浴していたと証言している人物はいない、と根来は首を傾けたが、

「分かった。ありがとう」

 と伝えた。
 料理人の上沼に続いて、山岡楓を呼ぶことにした。楓は、事件に巻き込まれて、すっかり落ち込んでいる様子であったが、室内に入ってきて、祐介の顔をみると、少し笑顔が戻ったようだった。根来の方には見向きもしない。そこで祐介が代わりに尋問することになった。

「羽黒さん……」

「お嬢さん。もう少しの辛抱ですから、どうか捜査にご協力ください」

 と祐介は相変わらずの美顔で訴える。

「わたし、協力します。なんとなりとおっしゃってください」

「午後十一時半以降のあなたの行動について教えていただきたいのですが……」

 と祐介が言うと、楓はううんと唸って、

「年越しのカウントダウンをして……一時には眠ってしまいました。それからしばらくの間、夢の中を彷徨っていたので、残念ながらお役に立てそうな話はありませんね」
 と申し訳なさそうに言った。

「なるほど。深夜に入浴はしていませんね?」

「入浴だなんて、まあ……、していません」

 と楓は顔を真っ赤にしてうつむくと、ちらりと祐介の顔をうかがう。祐介はこの反応に困ってしまった。

「それでは質問の内容を変えましょう。萩本さんが殺害された動機になにか心当たりはありますか?」

 と祐介は涼しい表情に戻して尋ねた。

「そうですね。わたし自身は萩本さんとはあまり付き合いがありませんので、その、つまり父親の知人なものですから、なにも動機に心当たりは……」

 捜査協力したいのにできないのがもどかしいのか、楓は少し悲しげに微笑んだ。

「でも、萩本さんのことはよく分かりませんが、小倉さんは最近、羽振りが良いようでした。彼は、なにをされていたのかよく知りませんが、貧乏でしたので、あまり美術品を持っていなかったのですが、最近は父親のコレクションをいくつも買い取っているようで、この前なども、父親が大切にしていた金襴手の伊万里焼きを買い取ったらしく、ご自宅に持って帰っていました……」

「金襴手の伊万里焼きをね……」

 祐介は、この情報をどう解釈してよいのか困った。しかし小倉の生活面になにか変化があったことは確かだろう、と思った。
 続いて呼ばれたのは、山岡荘二郎の妻の富士江だった。富士江は、わたしに関わらないでほしいというオーラを醸し出していた。

「わたくしは何も存じません。そもそも、萩本さんとわたしは何の付き合いもありませんからね。萩本さんは確かに立派な彫刻家でございますけれど、主人のお友達なのであって、わたしとは無縁の方ですからね」

「小倉さんについてはどうですか?」

 と根来は質問の内容を変える。
 富士江は、じろりと根来の顔を睨みつけると、

「わたしとは無関係です。なにか関係があると思いますか?」

 と言い切った。根来は呆れて、やれやれといった疲れた目つきで祐介にアイコンタクトした。

「わかりました。それでは、質問を変えますが、深夜一時頃、入浴されましたか?」

「まあ、下品な質問ですわね」

 と言って、富士江は軽蔑したように根来を見下す。

「そんな時間に入浴するわけないじゃありませんか」

 と不機嫌に言うと、彼女の鼻息は荒くなった。

 富士江にもアリバイはなかった。彼女も、一時頃には部屋に戻って、眠ってしまったそうだ。いよいよ深まる謎。
 気になるのは、上沼が見たという浴室の「使用禁止の札」である。何者かがこの浴室に誰も入ってこないようにしていたことは間違いない。しかし、その理由とは一体何だろうか。




11 展示室と小倉犯人説

 そして事情聴取の最後に、根来は、銀泥荘の主人の山岡荘二郎を呼ぶことにした。
 読者諸君は、おいおい、最後ということは、諭吉に事情聴取をしないのか、彼は隠れんぼの最中に杏を見つけられないまま部屋で眠ったという異様な行動をしているじゃないか、それを追求しないでなにが刑事だ、なにが探偵だ、とお思いになるかもしれないが、幼稚園児一人の行動を取り立てて、そのように大袈裟に考えることはあるまいと思う。
 山岡荘二郎は、古風な人間らしく、ばりっとしたフロックコートを着ている。時代錯誤的な洋装のオーラが、このクラシックなミステリー小説風な状況にはよく似合っているように感じられる。

「まず、殺された萩本さんについてお伺いしたいのですが……」

 山岡荘二郎の古風な雰囲気に、根来も幾分慎重になる。

「ええ、萩本というのは、わたしの大学時代の友人で、当時わたしが参加していた美術研究会のメンバーでした。彼自身、今でも彫刻などを制作しています。わたしは、彼のプライベートはほとんど知りませんね。彼とは美術の話しかしないのです。まあ、芸術活動以外では、平凡な会社員をしているようですがね」

 山岡荘二郎はそう言う終わると、さも興味がなさそうに自分の手の甲を撫でまわしている。
 そこで祐介が割って入り、山岡荘二郎に質問を繰り出した。

「少々質問してもよろしいですか」

「よろしい」

「萩本さんは、午後十一時半に自分の部屋に戻られたそうですね。それは年越しパーティーの最中で、カウントダウンの三十分前だった。どうも不自然な気がするのですが、年越しパーティーに参加しているのに、年越しの三十分前に戻ってしまったというのは、一体何があったのですか?」

「何も不自然なことはありませんな。彼は「体調が悪くなったから部屋で休む」といって、その場を離れたのですよ」

 すると萩本も杏と同じように何者かに睡眠薬を盛られたのかな、と根来は想像した。しかし睡眠薬を飲んで、体調が悪くなるというのも不自然である。
 この後、根来による事情聴取はさらに進んだ。

「なにか、萩本さんが殺された理由に心当たりはありませんか」

「犯行の動機、ですな、すなわち……。しかし、彼はある意味では性格もクセがあるし、敵は多かったんじゃないでしょうかね。実際に小倉と揉めているところを見たことがあります」

「行方不明の小倉さんですか。どんなことで揉めていたのですか」

 根来は、ついに重要な手がかりが得られるかと思って、興奮気味に机に乗り出す。

「いや、知りません。しかし美術に関する揉め事でしょう。それしか興味のない連中ですからな。それはわたしも同じだが……」

 そう言うと、山岡荘二郎はさも愉快そうにふふっと笑って、根来の顔をまじまじと見つめた。根来は反応に困って、視線を逸らした。

「昨晩の午後十一時半以降のあなたの行動を教えていただけますか?」

 と根来は気を取り直して尋ねる。

「アリバイというわけですな。ふっふっふ、面白い。わたしは夜遅くまで、美術品の展示替えを行っていたのです。そういう点では、わたしのアリバイは無に等しいですな、これは確かに。しかし、アリバイから犯人を暴き出そうとするのも、犯人の動機から暴き出そうとするのも、そもそも無理な話ですよ。彼が午後十一時半頃まで生きていたのは、はっきりしているし、一時頃に年越しパーティーが解散となってから早朝までは、皆部屋で眠っていたことでしょうから……。そして、犯行の動機については、これは他人には結局分かり切らないものです。つまり個人的な事情というやつはね……。人はささいなことで他人をいとも容易く殺害しますからね。それに、萩本のプライベートをそんなに熟知している人間がここにいるとは思えませんね」

 あまりにもふてぶてしい物言いに、根来は圧倒されてしまって、

「それは確かにそうですね。山岡さんがそう仰るのなら……」

 と、あからさまにたじたじになる。なにやら山岡は、手強いオーラを醸し出しているのだ。

「ええ、それよりも、いまだに行方不明の小倉について、調べるべきではないですか?」

 と山岡荘二郎はじろりと根来を睨んで、小倉犯人説を匂わせる。

「ああ、連絡がつかなくなっている、という……」

「ええ、彼が今どうしているのかまったく知りませんが、小倉と萩本はあまり仲が良くなかったのでね」

 と山岡荘二郎は意味ありげに笑う。

「以前、わたしがあまり気に入らないロシア美術の絵画を誰かに譲ってしまおうと思った時も、萩本と小倉の間で、どちらがそれを受け取るかで争いになってしまいましてね。その時、その絵画はロシア芸術に造詣の深い萩本に渡しましたが、小倉はそのことをずっと恨んでいたようですね。犬猿の仲ってやつですよ」

 根来は、そうなのかもしれない、と思いつつも、動機などから犯人は分からないと言いながらも、小倉の動機を匂わせてくる山岡荘二郎に陰険な性格を感じた。

「小倉さんは最近、あなたの美術品をよく購入していたのだそうですね」

「購入……? ああ、そうですね。この前も中国の書を一枚持っていきましたね。あれは宋代の有名な書家のものです」

「金襴手の伊万里焼きとか……」

「ああ、あれは素晴らしいものだった……」

 山岡荘二郎は、その美術品のことを思い出したらしく、うっとりと目を細めていたが、しばらくして悲しげにうつむいた。  祐介は、このことに疑問を感じた。なぜ、そんなに気に入っている美術品を他人に売ってしまったのだろう、美術評論家ともあろうものが安易に手放すものだろうか、と思った。

「ところで、この別荘内に、たとえばあなたの展示品の中に、銀色の仮面、黒装束、ソフト帽などはありませんか?」

 と根来は追求する手段を変更する。

「それはありますよ。日本の戦前の退廃したムードの中で上演されていた演劇で実際に使用されていたものです。結局、その演劇は、戦後しばらく上演されていて、それからもずっと劇団が保管していたのですが、その劇団が解散することになって、先月、わたしが譲り受けてきたのです……」

 根来が興奮した様子で、前にのめり出す。

「もしかしたら犯人が使用したのは、その仮面かもしれませんな。後ほど、実物を確認させていただけますかな!」

「ええ、構いませんよ」

 山岡荘二郎は、あまり関心が湧かないのか、無表情で自分の手の甲ばかり撫でている。
 このようにして、事情聴取を終えた羽黒祐介と根来警部は、山岡荘二郎と共にエレベーターに乗り、三階の展示室へと向かった。

「このエレベーターには、防犯カメラがついているのですね」

 と天井の角についている防犯カメラを眺めて、根来は尋ねた。

「その通りです。この別荘には、貴重な美術品が多数置かれている展示室と収蔵室がありますからな。もちろん、この別荘は高い塀に囲まれていて、部外者の侵入は不可能と考えておりますが、もしものことがあってはと考え、こちらのエレベーターには防犯カメラを設置しました」

「その映像、後で確認させていただけますか」

「わかりました」

 もしかしたら、重要な手がかりが映っているかもしれない、と祐介は思った。すぐにエレベーターは三階に到着した。  エレベーターから廊下に出るとすぐのところに展示室はある。入り口の観音開きのドアは赤く塗られ、中華料理店を思わせる絢爛たる外見だ。ドアは、鍵で施錠されているらしく、荘二郎は防犯性の高いディンプルキーをポケットから取り出して、鍵穴に差し込み、解錠する。

「こちらの鍵は、どなたが管理されているのですかな」

 と根来はすぐさま質問する。

「一階の三田村の部屋に、この邸宅のすべての部屋の合鍵と、展示室の鍵と、エレベーターの鍵をしまっている戸棚があるのです。それは七桁の暗証番号を入力しないと開けられない仕様になっています。その暗証番号を知っているのは三田村だけです。わたしも知りません。しかしながら、本日はわたしが展示替えを行っていたので、午前三時頃まで、展示室は施錠されておりませんでした。展示品の整理が終わった後に、三田村が施錠したのです」

 なるほど、と根来は頷く。つまり午前三時までは誰でも展示室に出入りすることができたわけだ。
 室内に入ると、まず彼らを出迎えたのは、西洋絵画、中国の磁器、アフリカの彫刻、日本の漆器や陶磁器の数々であった。展示室は長方形であり、交互に展示台によって仕切られていてるので、動線はS字に曲がりくねりながら奥へと奥へと入ってゆくものになっている。

「お二人ともご覧ください、この備前焼きを。展示替えをした時に、この備前焼きの壺を地下の収蔵室から持ってきたのですよ」

 と突然、誇らしそうに山岡荘二郎が微笑んだ。祐介と根来が何事かと思って見ると、展示品が並んでいる展示台の上に、見事な壺が置かれている。黒く焼き焦げた土のような地肌に、緑がかった釉薬が幾筋も垂れていて美しい。高さは、25センチといったところだろうか。

「山岡さん。すみません。あの仮面と黒装束はどこでしょうか……」

 と根来が不満げに言った。

「失敬しました。こちらです」

 と山岡荘二郎は謝ると、さらに展示室の奥へ奥へと二人を導いてゆく。その時……。

「ありませんな」

 山岡荘二郎は、低い声でぼそりと呟いた。

「仮面が、ですか?」

「ええ、この展示台の上に置かれていたはずの黒装束と銀の仮面とソフト帽がなくなっているのです。誰かが持ち出したのかもしれませんね。ただ、この展示室は、午前三時まで施錠されていませんでしたから、それ以前であれば誰でも盗めたわけですが……」

 と言いつつも山岡荘二郎、首を傾げる。

「すると、犯人がつけていた黒装束や銀の仮面やソフト帽はやはり展示品だったというわけですね」

 と根来は状況の確認をする。

「そうなりますね」

「しかし三時まで、あなたは展示替えをしていたのですよね。この衣装がなくなっていることに気がつかなかったのですかな?」

 と根来は、矛盾点を見つけ出したような気持ちになって、すぐに指摘する。

「展示替えといいましても、こんな部屋の奥の方までは立ち入りませんでしたからね……」

 と山岡荘二郎は、根来のしたたかな意図を理解したらしく、じろりと睨み返す。

「そうでしょうな。あなたが、この黒装束と銀の仮面を最後に見たのは、いつですか?」

「さあ。しかし、年越しパーティーの最中に、萩本、星野文子さん、そしてわたしの三人でここに訪れた時には、確かにあったと思うのですが……」

「それは何時ですか?」

「七時頃でしょうか。正確には分かりませんが……」

 根来はその言葉に頷く。一応は信用しても良いだろう。ということは、犯人が銀の仮面、黒装束、ソフト帽を盗んだのは少なくとも午後七時以降である。

「これはなんだろう……」

 その時、山岡荘二郎は展示台付近の床を見下ろして、ぼそりとつぶやいた。そこには銀色の懐中時計が落ちていた。

「これは奇妙だ。根来さん、ご覧ください。これは小倉が持ち歩いている懐中時計ですよ」

「なんですって、行方不明の小倉さんのものですか!」

 と根来は驚きの声を上げる。そして、根来はハンカチを取り出すと、さっとそれを拾い上げる。手の中でくるりと回転させると、側面に「M・O」のイニシャルが刻まれている。

「間違いありませんな。ということは、行方不明の小倉さんがこの黒い衣装と銀色の仮面とソフト帽を盗んだということじゃありませんか。そして懐中時計を落としてしまったのでしょう。これで犯人が小倉であることは間違いありません。ねえ、山岡さん。殺人鬼である小倉さんがこの邸宅のどこかに隠れているのかもしれません。居間の皆さんにすぐに注意を促してください」

 と根来が言うと、山岡は眩暈がしたようにくらりと揺れて、きっと宙を睨むと、

「わかりました!」

 と言って、展示室から走って出て行った。

「どうだ、俺の推理、いつになく鮮やかだろう?」

 と根来は嬉しそうに祐介に尋ねる。

「うーん。あんな大きな懐中時計を落としたら普通、物音が鳴りますよね。小倉さんが犯人だとして、彼は相当に気を配っていたはずです。彼はその音に気づかなかったのでしょうか?」

「ううん。そう言われると、相当間抜けな犯人だったと言うことか……」

 根来にとって、この懐中時計は、小倉が間抜けな犯人だったという証拠にしかならない。

「疑問はそれだけではありません。犯人は今回、凶行を行うために、黒装束と銀の仮面とソフト帽を盗みました。そして、それで正体を隠して犯行を行ったのです。しかし、考えてみるとおかしいではありませんか。なぜ、そんなことをしたのでしょうか。なぜ犯人はわざわざ危険を犯してまで、夜中に展示室に入り込み、そんな衣装を盗み、星野文子さんの前に姿を現したのでしょう。そして何故、自分の正体を隠すための服装をどうして事前に用意してこなかったのでしょう?」

 羽黒祐介は、その点がどうも引っかかっているらしい。

「犯人には犯人なりの都合があったんじゃねえかな……」

 と根来は、ひどく物分かりのよい発言をした。

「根来さん。その都合は一体なにか、ということなんですよ。根来さんはどう考えますか」

「星野文子の前に姿を現した理由は、そりゃあ、星野文子を殺害するつもりだったんじゃないか。そのためには姿を見せなくちゃいけない。だから正体がバレないように盗んだ衣装を身にまとったんだよ。なんか布を手に持っていたというじゃないか、クロロホルムを嗅がせるつもりだったんじゃないか」

 と根来は、小倉犯人説のことで頭が一杯になっていて、いまいち祐介の指摘が理解できないでいる。

「それも考えてみるとおかしいんです。怪人は、廊下に立っている文子さんの背後から現れました。怪人はどこに隠れていたのでしょう。僕が現場検証の際に確認したところ、死体発見現場の真向かいには、屋上への階段があって、人が隠れるだけの死角があることはあるんです。ところが、その死角から部屋のドアまでは5メートル近くありました。本人に気づかれずに容易に近づけるほどの距離感ではなかったんです。実際、怪人はかなり早い段階で文子さんに気づかれたために逃げられています。この計画はあまりにもずさんなんです」

「まあ、しかし、不自然な点があることは否めないな。もっと上手い手があったんじゃないかという気もする。星野文子を殺害するということであればな……」

 根来は、羽黒祐介の指摘する不自然な点に共感した。しかし、それでも根来にとって小倉犯人説は揺るぎない持論となっていった。




12 収蔵室とエレベーターの問題

 しばらくして居間から戻ってきた山岡荘二郎は、羽黒祐介と根来の二人の顔をじろりと見つめる。彼は、少し疲れているらしき顔色になっていた。

「皆には小倉に注意するよう伝えてきました。これからどうしますか」

「じゃあ、防犯カメラの映像を確認させてください」

 と根来は言った。

「わかりました」

 山岡はそう言うと、出口に向かって歩き出した。
 建物の防犯カメラの映像を確認するとーーこれらはインターネットに接続しないでも使える防犯カメラなのであるーーエレベーターの映像には特に変わった人物は誰も映っていなかった。当然、小倉の姿も映っていない。しかし小倉が映っていないということは、小倉が館に侵入していないことを意味しない。
 防犯カメラの映像を前にして、二人はそれを先送りしたり、巻き戻したりしながら、なにか変化が起きる瞬間を見つけ出そうとする。
 まず午後十一時半から十二時にかけての映像である。この間、エレベーターは使用されていなかったようだ。

「奇妙ですね」

 祐介が違和感に気がついて、呟くように言った。

「奇妙、というと?」

 根来が尋ねる。

「山岡さんのお話では、萩本さんは十一時半に居間から出て、二階にある自分の部屋に戻ったというお話でしたが、エレベーターは使用されておらず、彼の姿は映っていません。彼は自分の部屋に戻るのに、エレベーターを使わず、階段を使ったということですね。なぜでしょうか?」

「それは、萩本という男の自由じゃないか?」

 と根来は当たり前のことを言う。

「それは勿論そうですが、不自然でしょう」

「まあ、確かにそうだな。エレベーターが使えるのに、わざわざ階段を登るのは、中国からインドへゆくのにわざわざヒマラヤ山脈を登るようなものだもんな」

 と根来は、深いとも浅いともとれる譬え話をする。

「これが健康な人間ならば、階段を使うことも当然考えられます。しかし「気分が悪くなったから部屋に戻る」と言っていた人間が、エレベーターがあるのに階段を利用するでしょうか……?」

「どういうことだ。これは一体……」

 根来はこの不自然な点をようやく理解できたものの、それをどう考えてよいか分からずに、訴えるように祐介の目を見た。しかし祐介はそれに答えなかった。
 十二時以降になると、まず山岡荘二郎が二階から地下に降りてゆく姿が映っていた。
 一時になると、星野文子が一人でエレベーターに乗ってきて、一階から二階へ移動している。幾分、酔った様子で、エレベーターの中で盆踊りをしている。自室に戻るところなのだろう。
 一時半頃には、山岡荘二郎が地下から美術品用の大きな木箱を抱えて、二階へ向かっている。その木箱に何が入っているのか分からないので、根来が尋ねる。

「この木箱には、何が入っているのですか?」

「備前焼きですよ。展示室でご覧になりませんでしたか?」

 ああ、あれか、と祐介は思った。
 その直後、上沼がエレベーターに乗って、二階から地下に降りてゆき、すぐにまたエレベーターに乗って、一階に向かっている。これが証言にもあった、入浴しようとしたが入れずに戻ったということなのだろうか。つまり、この時には、山岡荘二郎も地下にはいなかったのである。誰もいないはずの地下、しかし浴室にかかっていた「使用禁止の札」……。
 二時十五分には、山岡荘二郎が再び、一階からエレベーターに乗り、地下に降りている。そして三十分後に彼は再びエレベーターに乗り、二階へと向かっている。この時は手ぶらである。
 三時になると、三田村執事が一階から三階に移動している。これは展示室の鍵をかけにゆくところだろう。
 これを羽黒祐介はメモした。

 12:13 山岡荘二郎 (2階から地下階へ)
 01:04 星野文子 (1階から2階へ)
 01:23 山岡荘二郎 (地下階から2階へ)
 01:35 上沼栄之助(2階から地下階へ)
 01:38 上沼栄之助(地下階から1階へ)
 02:15 山岡荘二郎(1階から地下階へ)
 02:48 山岡荘二郎(地下階から2階へ)
 03:02 三田村慶吾(1階から3階へ)
 05:27 星野文子(2階から3階へ)

「もし、小倉氏が誰にも見つからずに、この邸宅に到着していて、誰かの協力によって、館内に侵入していたとします。このエレベーターの防犯カメラに映らずに、三階のあの部屋に向かうことは可能ですか」

 と根来は、山岡荘二郎に尋ねる。

「それは勿論。エレベーターではなく、階段を使えばいいだけの話ですからね」

 と山岡荘二郎は、なにを馬鹿げたことを聞いているのだ、という不快そうな目つきで根来を睨んだ。

「そうですね。ところで、質問なのですが、なぜエレベーターにだけ防犯カメラをつけているのですか?」

「それはこういうわけです。エレベーターで地下に降りると、そこはもう収蔵室になっています。左側には浴室がありますがね。一階から階段で地下に降りる場合には、ディンプルキーの鍵が取り付けてあるドアがあります。これはどちら側からも鍵がないと開かない頑強なドアなのですが、エレベーターにはそれがありません。そこで防犯上、エレベーターにだけ防犯カメラを取り付けたのです。なにしろ、こちらのエレベーターは誰でも使えますからね。勿論、エレベーターも、我々が不在の時期には、停止させております」

 と山岡荘二郎は語った。

「ちょっと待ってください。こちらのエレベーターとおっしゃいましたね。ということは、エレベーターは一つではないのですか?」

 と羽黒祐介が驚いて、質問をする。

「さよう。エレベーターはもう一つあります。美術品を運搬するための大きめのエレベーターです。これは銀泥荘のもっとも奥側に位置していて、地下の収蔵室と、一階のホール、三階の展示室しか停止しないエレベーターになります」

「なるほど」

 祐介は何か考えている様子で、顎に手を当てている。そして自分の推理を語り出した。

「もし、小倉氏が館内に侵入していたとして、この吹雪では、外に逃げたとは到底考えられません。すると、この収蔵室というのは、もっとも良い隠れ場所ではありませんか?」

「それは確かにそうかもしれませんな。確認しに行きますか?」

「ええ、急ぎましょう」
 と祐介は言った。
 三人は、邸宅のエレベーターに乗り、地下に降りていった。地下には、収蔵室と浴室がある。収蔵室は、展示品をしまう棚が並んでいる部屋の他に、大型の美術品が床に置かれている部屋があった。こうした大型の美術品は、美術品用のエレベーターでないと三階に運べないのだろう。

「この中のどこかに、小倉が潜んでいるかもしれない。気をつけるんだぞ……」

 と根来はエレベーターを降りるなり、そんなことを囁いたが、祐介は収蔵室を見渡す限り、そんな気配は微塵も感じられない。
 エレベーターから降りた三人は、一階へと通じる階段があるという方向に向かって歩いていった。そこには、一枚のドアがあり、シリンダー錠の鍵穴が見えている。

「なるほどな。この鍵を開けられるのは執事だけ、というわけか」

 と根来は言った。一階へと通じる階段がある部屋に入るには、このドアを開けなければならないのだが、収蔵室側、階段側のどちらかの側から解錠するにも鍵が必要らしい。つまみがないのである。
 根来は腕組みをしながら考える。

「つまり、三田村執事以外の人物が12時以降にこの地下室に降りてくるには、あの防犯カメラ付きのエレベーターを使わなければならないわけだ。山岡さん。美術品用のエレベーターは人間は使えないのですか?」

「あれは当然、人間も乗ることができますが、あれだって三田村の部屋の戸棚の中にある鍵を使用しないと、運転できない状態にあるのですよ」

「なるほどな。そして、階段と収蔵室との間のドアは12時に施錠されたきり、シリンダー錠は今も開けられていない。ということはやはり、小倉が地下に降りてくるには、あのエレベーターに乗るしかないわけだ」

「そうなりますね」

 それはあくまでも現在、小倉が収蔵室のどこかに隠れている場合だ。防犯カメラの映像を見る限り、小倉の姿は映っていなかったのだから、小倉は現在、収蔵室に降りてきていないことになるのではないだろうか。

「しかし分からんぞ。三田村執事の協力さえあれば、エレベーターに映らずとも、この収蔵室に来ることが可能だからな。羽黒、隈なくこの収蔵室を探すぞ」

「お二人とも、あまり美術品には手を触れないでいただけますかな」

 と山岡荘二郎が厳しい声を上げる。

「中には、貴重なものもありますからな……」

 二人は山岡荘二郎の視線を背中に浴びながら、収蔵室を見てまわることになった。しかし人の姿はやはり確認できない。  しばらくして、祐介は、ある壺の前で立ち止まった。中国の骨董品らしき壺なのである。巨大な大壺で、一.四メートルほどあろうかと思えるサイズである。しかしいくらなんでも、この狭い壺の中に生きている人間が隠れているとも思えない。
 祐介はしかし、なにかひらめいたようだった。祐介の表情を見る限り、なにか重大な手がかりがこの大壺に隠されているような気がするが、根来はそれがなにかはっきりと分からない。

「そうだ。浴室にも行ってみよう」

 と根来が言って、三人は浴室に向かった。浴室は、何の変哲も感じられない。しかし祐介は脱衣室の隅々まで眺めていると、床に血痕を発見した。この血痕を確認すると、それが被害者のものかどうかは分からなかったが、祐介の中である疑惑が深まる。

「根来さん。もしも、死体を切断するとしたら、この浴室はぴったりだと思いませんか?」

「あんだって。ここで?」

「ええ。上沼さんが浴室に訪れた時、ここには「使用禁止の札」がかかっていたということでしたね。しかし、この時刻に入浴していた人はいないということでしたから、疑問があるわけです……」

 根来はそうかもしれない、と思った。しかしここで死体を切断した場合、それを三階の部屋まで運ぶのはなかなか難しい作業だと思った。

「切断した死体を三階まで運搬するとしたら、普通のエレベーターは防犯カメラがあって使えないのだから、死体を担いで階段を登るか、美術品用のエレベーターを使うしかないな。山岡さん。昨日、美術品用のエレベーターは使用できましたか?」

「いえ、わたし自身、美術品用のエレベーターは使用していませんし、そもそも、あの美術品用のエレベーターは、執事の部屋で管理されている鍵を使用しないことには、運転できないことはもう何度も申し上げている通りです」

 また三田村執事か、根来は、今度は執事に対しても疑いを強めた。小倉犯人説には三田村執事の協力がどうしても必要なのだ、と根来は思った。




13 小倉犯人説の否定

 根来の頭の中では小倉・三田村共犯説がいよいよ濃厚になっていた。根来の目は爛々と光り、猛烈な勢いで、居間に駆け込むと、三田村執事を呼び出した。そして三田村執事の部屋に案内させたのである。

「よし、お前、正直に喋れ! 事件が起こった夜、お前はこの戸棚を開けて、鍵を持ち出したか?」

「い、いえ、わたしは確かに昨日、この戸棚を開けて、展示室と地下の階段横のドアを施錠しましたが、悪用はしておりません」

「じゃあ、開けてみろ」

 執事は震えながら、七桁の暗証番号を入力すると、戸棚の鍵が解錠されて開いた。そして戸棚を開くと中にいくつもの鍵がぶら下がっている。

「何の変化もありません」

 執事はそう言うと、なにやら安心したような表情を浮かべた。

「なるほどな。じゃあ、この美術品用のエレベーターの鍵をもらっていくぞ」

 根来はそう言うと、美術品の運搬用のエレベーターの鍵を掴んで、それを山岡荘二郎に手渡した。
 美術品運搬用のエレベーターは、地下階に停止していた。まさに倉庫や工場にあるような巨大なエレベーターであるが、美術品を運搬するためのものだから、ほとんど揺れないのだろう。ドアを開いて、エレベーター内を確認するも、死体を運搬したような痕跡は見つからなかった。

「痕跡なんか残っているわけねえよな。犯人もそこまで馬鹿ではない。まあ、いい。ところで、死体を切断した場所が浴室じゃなかったとしたら、あとはどこが考えられるだろう」

「まだ見ていないところがあります。それは屋上ですよ」

 祐介はそう言って、山岡荘二郎の方に振り返った。しかしここから先は、山岡荘二郎がそばにいると捜査しづらいので、彼には居間に戻ってもらうことにした。
 二人は、死体が発見された部屋の真向かいにある階段を登った。その上には、屋上に出られる引き戸がある。根来は、ガラス戸を開こうとしたが、降り積もった雪に覆われていてまったく開かない。

「こりゃダメだな。羽黒っち……」

 と呼び慣れないあだ名をつぶやきながら、根来は祐介の顔をチラリと見た。祐介は寒気がした。視線を合わせてはいけないと思ってうつむく。しかし祐介はすぐに足元の床を見て、ある確信を得ることになった。

「根来さん。ビンゴですよ。ご存知ですか、ビンゴ……」

「ビンゴの説明はいいから、何を見つけたか教えてくれ」

 と根来は呆れた声を上げる。

「ご覧ください。床の黒い塵が明らかに水に濡れた形跡があります。それも真新しい。そんなに時間は経っていないでしょう。そして、これはおそらく拭き取り忘れた血痕……」

 祐介はふふっと笑った。白い壁に茶色い液体のようなものがとんで跡になっている。

「確かにそれは重要な手がかりだ。殺人事件と直接関係があると証明するのは難しいかもしれないが、まだ雪が本降りになる前に、このように屋根がついている屋上の一角で死体を解体した可能性はあるな……」

 と根来も納得した。
 だとしたら、屋上で解体された死体を、この階段を使って三階のあの部屋に移動したのだろうか。それだけのことができるのは、やはり腕力のある男性だろうか。根来と二人で三階に戻ると、祐介は一つ気になる点があるらしかった。死体の発見された部屋の外の廊下の突き当たりーーそれは死体の発見された部屋と目の鼻の先だった。いや、鼻の先と上唇ぐらいだろうかーーに大きな窓があったのである。

「奇妙ですね」

「なにがだよ」

 自分には気がつけない矛盾点に祐介がどんどん気がついていくことに根来は、わずかにストレスを感じていた。

「実は今まで建物の構造をチェックしてきていたのですが、この大窓の真下は、ちょうど建物の裏側にあたります。この大窓から死体を突き落とせば、こちら側には窓がないものですから、まず人目に触れないし、死体は降り積もる雪に隠れてしまい、早々には見つからなかったはずです。そして翌日、犯人は車で出かけるふりをして、死体を回収し、どこか山の中にでも捨てることができたと思うんです。それなのに、犯人はわざわざ、この部屋のベッドの上に胴体を横たわらせて、首を床の中央に転がしました。そして文子さんを呼び出したのです、タイマーと手紙を使って……。犯人はまるで・・・・・・死体を発見してもらいたかったみたいじゃありませんか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「まあ、そういう犯人なんだろうね」

 根来は納得しているらしい。
 犯人が死体を発見してもらいたかった、それがいかに異常な状況であるかは根来にも分かる。普通、犯人というものは犯罪をできる限り隠すものだ。異常な状況ということは、その人物が異常な人物であることを意味しているにすぎない、これが根来の持論である。

「もしも、犯人が小倉さんであった場合、彼は死体を発見してもらいたいなどと思うでしょうか。彼は、この館の関係者ではありません。ならば一刻も早く、この館から死体を遠ざけたかったはずです。そうでないと死体を回収するチャンスを失ってしまいますからね」

「小倉が犯人じゃないというのか!」

 根来は驚いて声を上げた。

「それだけではありません。もし小倉さんが犯人であったとすれば、自分の存在を匂わせるあんな手紙を文子さんに送りつけたりするでしょうか」

 と祐介は言うと、根来は考え込む。

「根来さん。もう一度考えてみましょう。杏ちゃんがドアの閂をかけて、衣装箱に隠れていたこと、すなわち現場が密室となったことは犯人にとっても予測できない出来事でした。つまり偶然の産物であったわけです。だから犯人の本来の意図を知るには、もし現場が密室になっていなかったらどんな状況になっていたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、を推理するしかないのです」

 根来は感心して、このことについて深く考え込んだ。
 もう一度、祐介は死体の発見現場である部屋に入った。そして室内から天窓を見上げた。廊下の灯りが、逆光になっていてよく見えない。祐介は物置の中央に置かれていた椅子を持ってきて、その上に立ち、天窓を確認する。

「この天窓には、クレセント錠がついていたのでしたね」

 祐介が天窓の枠に触ると、左側の一枚の引き戸は元々固定されてあるらしく動かない。右側の引き戸だけが動くのである。二枚のガラス戸によって出来ているこの天窓。なにか仕掛けがあるのだろうか。

「なにか……」

 祐介は飛び降りて、物置の中を探りだす。そして、先ほど椅子から床に下ろした白い封筒の上に置かれていた木製の定規を拾い上げた。

「これは……」

 そこで祐介はあることをひらめいた。それは、祐介の脳裏に浮かんでいたある仮説を完全に証明するものだった。
 祐介は根来を連れて、居間に戻ると、ゆっくりしている楓を捕まえた。

「楓さん。失礼ですが、萩本さんと小倉さんの体型はとても似ていませんでしたか?」

「そうですね。似ていないこともありませんね。どちらも小柄で……。でも、それがどうしたのですか?」

「いえ、なんでもありません」

 祐介は、ふふっと笑った。
 これで銀泥荘で巻き起こった殺人事件の真相が分かったのだ。祐介はしかし、ある理由から、すぐには動き出さなかったのである。根来にも真実を伝えず、一人黙っていた。
 さあ、読者諸君、手がかりは提出された。銀泥荘殺人事件の犯人は一体誰だろうか……?




14 犯人との最後の対決

 事件の真相に気がついているはずの羽黒祐介は、なかなか動き出さなかった。動かざること山の如しとは、孫氏の言葉であるが、まさに今の彼のことであろう。
 外では、吹雪がまだ猛威を振るっていて、銀泥荘にいる人々は、行方不明の小倉が犯人だと決めつけて疑わないまま、時間ばかり経っていったのである。
 事件の幕が下りることになったのは、元日の夜のことであった。一同は再び上沼の作った料理を食堂で食べることになった。そして三十分ほどしてから、多くの人が強烈な眠気を感じ、うち数人は自分の部屋に戻ることになったのである。
 楓は食欲が湧かず、上沼の料理が喉を通らなかったこともあって、他の人々のようには、あまり眠気が生じなかった。楓は、料理の中に睡眠薬が仕込まれていたのだろうと推測したが、一体誰がそんなことをしたのか、分からないまま、朦朧としながら自分の部屋に戻った。

(気分が悪い……。でも、一体、誰がこんなことを……)

 料理を作った上沼だろうか、それとも料理を運んできた三田村執事だろうか、隣に座っていた星野文子だろうか。
 意識がはっきりしなくなってきて、楓はベッドの中で眠ってしまった。次に目を覚ました時、それは銀泥荘が不気味に静まり返った夜中のことだった。
 その時、なにか音が聞こえた。低い唸りのような音だ。これは美術品運搬用のエレベーターが動いている音だろう。楓の部屋の隣に、美術品運搬用のエレベーターが通っているのである。

(なぜ、こんな時間に……?)

 楓はのそりと立ち上がった。そしてふらふらと廊下に出たが、そのエレベーターは二階には止まらないので、上に向かっているのか、下に向かっているのかは分からない。どこに止まるのか、気になって階段を登り、三階に向かった。
 三階のエレベーターのドアの前に立つ。そのゴーッという音が内側から聴こえてきている。エレベーターのランプを見ると、どうやら三階に上がってきているようである。エレベーターが止まり、ドアがゆっくりと開いた。エレベーターの床には、青い寝袋のようなものが置かれていた。

(これは……)

 その時、楓はぐっと後ろから誰かに口を押さえられた。楓は恐怖のあまり、逃げようともがく。しかし抵抗した結果、振り返って、背後の人物が誰なのか、一目見ると黙ってしまった。

(お父さん……!)

 そこには山岡荘二郎が冷たい表情をして立っていたのだった。

「睡眠薬が効かなかったのだな……」

 荘二郎はそう言うと、それ以上は何も言わずに、その寝袋のようなビニールを掴んで、それを一台の台車に乗せようとした。

「それは……一体」

「死体だよ。人間の胴体だ」

 なぜ、と楓は尋ねようとしたが、言葉が口から出てこなかった。

「俺を告発するか。ふっふっふ。楓。父さんが事件の犯人だと知って、すべてあの刑事と探偵に教えてしまうつもりかね。それはお前の自由だよ。警察に真実を伝えるのも、父を憎むのもお前の自由なのだ」

 荘二郎は、そこで寝袋を台車に乗せることを中断すると、楓の方に向き直った。

「しかし、お前に心の余裕がまだあるのなら、騒がずに聞いてくれ。小倉と萩本はね、わたしの過去の秘密を知っている数少ない人間だよ。父さんはね、かつて盗品を無数に購入していたのだよ。この銀泥荘の収蔵室にも、名のある美術館やコレクターから盗まれたという美術品が隠されている。美に目が眩むのは美術愛好家の宿命というものだね。しかし彼らにとってその事実は、ゆすりの種でしかないのだよ。わたしはもう社会的にも著名な美術評論家であり、この事実が晒されれば、わたしの地位が揺らぎ、お前や杏にも不幸が訪れるだろう。秘密が彼らに知られ、実際にわたしは、あの二人にいくつもの美術品をゆずることになった。そんなこと、もう終わりにしようと思ったのだよ……」

 楓は、なんと声をかけてよいか分からず、沈んだ気持ちになって、その話を静かに聞いていた。しかし父子として生きてきた手放し難い関係が、結局、楓の心をこの哀れな父に同情させるよう揺れ動かした。

「お父さんを裏切ったりしないよ、わたし。でも、わたしが言わなければ、警察から逃げ切れるの……?」

「あの根来という刑事と、羽黒という探偵さえ欺くことができれば、わたしが犯人だという事実は永久に葬り去られることだろう」

 山岡荘二郎には、絶対の自信があるらしかった。
 しかしその時、荘二郎は、階段の下から聴こえてくる足音に気付き、楓をエレベーターの内側に隠して、美術品運搬用のエレベーターのドアを閉めた。
 階段を登ってきたのは、羽黒祐介と根来警部だった。二人は、山岡荘二郎の姿を確認すると、驚いた様子もなく、ゆっくり歩いてきた。

「山岡さん。こんな時刻に何をされているのですか?」

 と祐介。

「それはこちらの台詞ですよ。てっきり眠っておられる頃かと思ったが……」

「皆さん、すっかり眠ってしまったようですね。それはあなたが仕込んだ睡眠薬のおかげだ。残念ながら僕と根来さんはこのことを事前に予測していたので、食事を取らなかったのですよ」

 そう言って、祐介は爽やかに微笑んだ。

「何のことですかな。睡眠薬とは……」

「もう逃げられませんよ。真相に気付いたんです……。銀泥荘殺人事件の犯人はあなたですね?」

 と羽黒祐介は真実を見透かしたように、山岡荘二郎の目を真っ直ぐに見つめた。

「何を仰います。羽黒さん。なぜわたしが犯人だと思ったのか、是非お伺いしたいものですな」

「いいでしょう。この事件の真相をお話ししましょう」

 このようにして、羽黒祐介と山岡荘二郎の最後の対決が始まったのである。薄暗いランプ型の灯りがともっている廊下で……。

「この事件の最大の謎は、密室の謎でした。しかしこの謎は案外、簡単に解き明かすことができたのです。最大の手がかりは、衣装箱から出てきた杏ちゃんの右の手のひらに血がついていたことです。しかし、これはよく考えてみると不自然です。被害者が殺害される少なくとも一時間前に衣装箱に隠れてしまった少女の右手に、なぜ血が付着していたのでしょうか」

「それはつまり、被害者の血じゃなかったのではありませんかな」

 と山岡荘二郎はすぐさま反論する。

「ところが、被害者の血だったと断定できるのです。まず、衣装箱に、杏ちゃんのものと思われる血の手形が残っていたんです。それなのに、入り口のドアノブにはまったく血が付着していませんでしたし、部屋の至るところを探しても、血の手形はどこからも発見されなかったのです。杏ちゃんは隠れ場所を探していたわけですから、もし室内に入る前から、手のひらに血が付着していたのなら、もっといたるところに血の手形が残っていたはずです。ということは、あの手の血は室内で付着したことになります。僕の見る限り、あの部屋には被害者の鮮血があるのみでした」

「なるほど、筋は通っているようですが、なにか答えをお持ちなのかな?」

「答えはきわめて単純です。午後十時半の段階で、すでに室内には死体があったのです」

 この言葉に、山岡荘二郎は嘲るように笑い、殺意を込めた目で目の前を探偵を睨みつけると、こう叫んだ。

「あなたはもはや正気ではないようだ! 愚かな私立探偵め。お聞きしますが、萩本は何時まで生きていたのか、ご存知かな」

「午後十一時半まで居間にいたということでしたね」

「それでは、その一時間も前に彼が死体となって、部屋のベッドで横たわっている可能性はどれほどあるのかね?」

 山岡荘二郎は祐介に、ありません、と言わせようとしてきている。しかし祐介は動じる様子がまったくない。

「ところが、確かに杏ちゃんが部屋に侵入した段階で、室内のベッドの上に死体があったのです。これは極めて単純な理屈です。萩本さんが生きていた時、すでに部屋に死体があったのなら、その死体は萩本さんのものではない。つまり、それは別人の死体だったということになるのです」

「杏があの部屋に入った時、死体に気がつかなかったというのですかな?」

「杏ちゃんは床の上に生首はなかったと証言していますが、ベッドの上に胴体がなかったとは証言していません。さらに、その時、杏ちゃんは睡眠薬の効果で、意識が朦朧としていました。そして部屋の電灯は切れていて、室内が真っ暗だったのです。考えてもみてください。ベッドの上に寝かせられた胴体は、掛け布団が床に払いのけられていました。死体を隠したいはずの犯人が、掛け布団を床に払い除けるでしょうか。それでありながら、掛け布団の裏側には大量の血が付着していたのですから、以前、死体の上に掛け布団がかけられていたことは間違いないのです。死体から掛け布団を払いのけたのは、杏ちゃんだったというわけです……」

「なるほど。実に面白い推理だが、あの死体は誰のものだと言うのだね」

「小倉さんです」

「はっはっは……。小倉と萩本の顔はだいぶ違うよ。まったく君の言うことは下らんな。本当に恥知らずのアンポンタンだよ。吹雪の中で頭を冷やしたらよかろう……」

「そうです。確かに、現場に落ちていた生首は、萩本さんのものでした。しかし胴体の方は、小倉さんのものだったのです。二人の体格は小柄でよく似ていた。だからこんなトリックが可能だったんです」

「どういうことかね。説明したまえ」

 ここまで語ると、山岡荘二郎はじろりと祐介を睨みつけた。もう無視できないところにまで祐介が迫ってきていることを山岡は感じたのである。

「あの部屋に、杏ちゃんが入ってゆき、内側から閂をかけたのは午後十時半のことです。しかし、それよりも遥か前からあのベッドの上には、小倉さんの胴体が寝かされていたのです。それに杏ちゃんが気がつかなかったのは、電灯が切れていて部屋が暗かったことと、彼女が睡眠薬を飲んで、朦朧としていたからです。死体の胴体にかけられていた掛け布団を払い落としたのは、おそらく杏ちゃんでしょう。隠れる場所を探しているうちに払いのけたのです。その時に右手に血が付着したのです。彼女は、衣装箱の中に隠れました。そして眠ってしまったわけです。それから犯人は、萩本の首を持って現れた。これは十一時半以降のことです。ところが、この時、犯人は部屋のドアが開かないことに驚きました。半ば混乱したことでしょう。そして犯人は、天窓から萩本さんの首を室内に投げ込んだのです。萩本さんの頭部にへこみがあったのは、床に落ちた時の衝撃でできたものです。犯人が首を放り込んだ理由は、後ほどしっかり説明いたします。このようにすることで、室内には小倉さんの胴体と、萩本さんの首が揃ったわけです」

 山岡荘二郎は再度、嘲るように笑った。

「愚かな私立探偵め。貴様は、決定的なミスを犯している。天窓は、内側からクレセント錠で施錠されていたはずだ。どうやって、天窓から萩本の首を放り込むのだね」

「これは簡単なトリックです。天窓の左側のガラス戸は元々固定されていて動かないようになっていました。となると、動くのは右側のガラス戸だけなのです。このクレセント錠は、外側からみると、かかっているのかどうかは分かりません。実際、わたしたちはガラス戸が動かないということだけで、クレセント錠がかかっていると思い込んでしまいました。実際には、クレセント錠などかかっていなくて、内側の溝の上で、定規が横木になっていたのです。その定規は、引き戸の外側からでも容易に仕掛けられます。天窓に手を突っ込み、内側に手をまわして、定規を斜めに立てかけて、引き戸を閉めれば、定規は自然と倒れてちょうど横木になるのです」

 祐介は、一本の定規を山岡荘二郎に見せつけた。それは死体発見現場で見つけたものだった。山岡荘二郎は忌々しく思えてきて、口の中で、インドに伝わる呪いの呪文を唱えた。

「大した知恵だ。よし、確かにその通りにすれば、天窓は施錠されているものと思えるから、密室殺人は完成するというわけだな。よしよし、なかなか利口だ。だがな、何のためにそんなことをしたのだ。犯人にメリットがあるのかね」

「いいでしょう。この事件はそもそも犯人の行動の目的が常に不明確でした。そのために犯人の心理がどのように変化していったのか描けなかったのです。ここで犯人の行動の動機を考えましょう。そもそも犯人の最大の目的は、突然のように小倉、萩本の二人を殺害し、自らは容疑を免れることでした。しかし、それだけではありませんでした。犯人は、三田村執事に容疑をなすりつけようとしていたのです。もっと正確に言えば、三田村執事と小倉さんの共犯に思わせようとしていたのです。わたしにとって、萩本さんの首と小倉さんの胴体があの部屋に並べられていたことの目的はずっと謎でした。しかし三田村執事のコーラに睡眠薬が入れたのは、おそらく彼に深夜のアリバイを作らせないためのものだったのでしょう。それはつまり、彼を犯人に仕立て上げようとしたものなのです」




15 銀泥荘の殺人鬼

「分かった。君の推理を聞こう。説明したまえ」

 山岡荘二郎は、祐介を鋭く睨みつける。もう逃げ場がないのかもしれないという予感を感じながら……。

「脱衣所の床に血痕が発見されたことから、地下階に死体があったことは間違いありません。また、上沼さんが浴室に向かった時「使用禁止の札」がかかっていたということから、浴室が死体の切断に使用されたと見て間違いないでしょう。しかし、もしそうだとしたら、時刻的にーーつまり、小倉さんの胴体は十時半以前から三階の部屋に寝かされていたのだからーーそれは小倉さんの死体ではなく、萩本さんの死体だったと言えるでしょう。
 想像できるのは、萩本さんを殺害した現場は収蔵室であり、萩本さんの首を切断した場所は浴場だったということです。そして、切断された首は、あなたが備前焼きを入れていたというあの木箱の中に入れられて、三階に運ばれたということです。備前焼きのサイズが25センチですから、当然、あの木箱には人間の生首が入りますね。
 萩本さんは年越しパーティーの最中に「気分が悪くなった」と言って、自分の部屋に帰ったそうですが、エレベーターには彼の姿が映っていませんでした。彼は、階段を降りて、収蔵室に向かったのでしょう。そして犯人であるあなたと落ち合ったのです。そしてあなたに殺されたのです。
 さて、犯人の行動の動機を考えてみましょう。地下で殺害した萩本の生首を三階に運んで、三階の小倉と胴体と並べるメリットはなんでしょうか? 手がかりは、星野文子さんを脅迫して呼び寄せた、という事実です。
 こうは考えられませんか? 星野文子さんを呼び寄せて、まず三階の部屋で死体を目撃させ、彼女をクロロホルムで失神させた後に、死体を消失させて、地下にその死体を出現させる。さあ、どういう事態になるでしょうか。
 犯人は、死体を三階から地下に運んだということになるのです。ところが、12時以降は、地下室の階段のドアを開けられるのも、美術品用のエレベーターを使用できるのも、鍵の管理人である三田村執事のみです。一般のエレベーターはには、防犯カメラが設置されていて、死体が運ばれていないことは明らかな事実になります。この状態で、三階にあった死体を地下に移動したように見せかけると、死体を移動できるのは、三田村執事だけということになり、彼に濡れ衣を着せることができるのです。なかなか良いトリックだと思いませんか?」

「なるほどね。君は探偵をやめて、ミステリー作家になりたまえ。机上の空論を好き勝手並べ立てる三流のミステリー作家にでもなるのだな」

 と山岡荘二郎は、忌々しく思って、饒舌な皮肉を浴びせた。

「お褒めの言葉をありがとうございます。このトリックのポイントは、小倉さんの胴体を萩本さんの胴体に見せかけるところです。そして、あらかじめ地下に萩本さんの胴体を横たえておけば、萩本さんの生首を三階から地下に移動するだけで、一体の死体そのものが移動したように見せかけることができます」

「なるほど。なかなか面白いよ。ミステリー小説を書きたまえ。タイトルは「銀泥荘殺人事件」だな。しかしわたしはフィクションに付き合っている暇はない」

「フィクションではありません」

 祐介が動じることなく、次々と山岡荘二郎が練りだしたトリックを明かしてゆくので、山岡も手に冷や汗をかいている。

「さて、それでは犯人の心理を一つ一つ見ていきましょうか。犯人は、本来の計画であれば、星野文子が失神させ、彼女をどこかに閉じ込めた上で、小倉の胴体を大窓から落としーーすなわち、そうすると死体は大雪に埋もれて隠れてしまう。電話線を切っておいて、自ら、警察を呼びに行くふりをして、車にのせて、山中に捨ててしまうーー萩本の首のみを地下階に運んでしまうというものでした。ところが、犯人が萩本の首を木箱に入れて持ったまま、エレベーターで三階に上がると、部屋のドアは施錠されていて、開きませんでした。犯人は相当焦ったはずです。天窓から室内を覗きこむと、室内に誰かいるとは思えなかったことでしょう。それなのに、このドアは内側から閂をかける他に施錠の方法はありませんから、どう考えてもつじつまが合わないのです。室内でなにかがぶつかっているのかもしれないと思ったのかもしれません。ただ、この状態で小倉さんの胴体が発見されてしまうと、小倉さんが殺されていることが分かってしまいますから、とりあえず計画通りに、死体を萩本さんのものと見せかけるためにも、天窓から萩本さんの首を放り込んだのです。この後、彼が天窓に定規をかけて、施錠されているように見せかけたのは、天窓のみが開いていると、後から首が放り込まれたことが分かってしまうからです。すると胴体と生首は別物であることが判明してしまうのです。さて、犯人がさらに焦ったのは次の段階です。午前五時には、あらかじめセッティングしておいたタイマーが鳴り、文子さんが脅迫状を読んで、この部屋に来てしまいます。もし、そのタイミングで死体が発見されれば、小倉さんの死体を回収するチャンスは永遠になくなってしまう、そう思った犯人は、文子さんが死体を発見する前に失神させてしまうことを思いつきます。ところが、本来の計画ならば、暗い室内で襲おうと思っていたものを、ランプがついている明るい廊下で襲わなくてはならないのです。そこで、犯人は姿を隠す必要が生じ、あの銀色の仮面と黒装束とソフト帽を使おうと考えたのですね」
「なるほど。傑作だね。君は、なかなか焦って血迷っている人間の心理を再現するのが上手いよ。まるでリビングのテーブルの上にボーイズラブの漫画を放り出したまま出かけていった高校生の頃の楓の慌てぶりを思い出すようだ。しかし、それらはすべて推測に過ぎないね」

 山岡荘二郎は、最後の最後まで余裕をかましている。

「この推理にしたがえば、いくつかの疑問点を説明できるのですよ。
 死体があの部屋で発見されたことは、そもそも僕には疑問でした。死体は屋上で切断されたのだと推測した時のことが、あの部屋の前の廊下の突き当たりに大きな窓があることに気がつきました。ここは建物の裏側に当たり、ここから死体を突き落とせば、人目に触れることはありません。ならば、ここから死体を落とし、まわりこんで死体をどこかに捨てにゆくのがもっとも妥当な計画でしょう。しかし、犯人はそうしなかった。その理由が分からなかったのですが、犯人にしてみれば、あの部屋に星野文子さんを呼び寄せて、死体を発見させることがそもそもの目的だったのです。
 また疑問だったのが、犯人は、部屋の向かいにある屋上へと通じる階段で待ち伏せしていたのだと思われますが、ここからドアには5メートルもの距離があり、いくら不意を突こうとしたにしても、クロロホルムを嗅がせるには離れすぎていたことです。そして、実際に怪人は星野文子さんを襲うことに失敗しています。これはつまり、室内に入れなくなったので、隠れ場所を変更したせいなのです。
 また、そのために急遽、怪人の仮面と黒装束とソフト帽が必要になり盗んだために、ずさんな点が目立ったのです。
 ところで、脱いだ仮面や黒装束はどこに捨てたのでしょうか。星野文子さんが叫びながら逃げていった以上、あの場でぐずぐずしてはいられません。おそらく、目の前にあった廊下の突き当たりの大窓から外に放り出したのでしょう。そうすれば、吹雪の中ですから、すぐに雪が隠してくれます。そしておそらく今もまだ雪の中に埋まってことでしょう」

 それは一つの物的証拠になることな間違いなかった。

「しかし、なぜわたしだと言うのかね」

「理由は三つほどあります。第一の根拠は、定規です。死体を発見した時、この定規は現場にありませんでした。ところが、現場にあなたを残して、わたしたちが三田村執事と電話をかけに行ってから、部屋に戻ってくると、なかったはずの定規が増えていたのです。これはいくらなんでも不自然ですよ。あなたはわたしたちがいなくなった隙に、天窓にかけていた定規を外し、クレセント錠をひねってかけたのですね。そしてあの椅子の上の白い封筒の上に定規を投げ出したのですね。
 第二の根拠は、エレベーターの映像を見る限り、生首を地下から三階に運べたのは、木箱を持っていたあなたしかいないのです。手ぶらで移動していた上沼さんではありません。
 第三の根拠は、このトリックはこの銀泥荘の構造に熟知した人間でなければできないことです。それは小倉さん、萩本さん、星野文子さんではありません。そして、容疑がかかるはずだった三田村執事が犯人であるはずはありません」

「さて、犯人の心理を一つ一つ理解すると、犯人の未来の行動も自ずと分かってきます。犯人は一貫して、死体の回収に固執しています。必ずや、犯人は部屋に置き去りになっている小倉の胴体を回収し、荻本の胴体と交換しようとしてくることでしょう。吹雪が止んだら、警察が来てしまいます。その前に、あなたが決行することは分かっていました。
 実は、収蔵室の中国の大壺の中に、萩本さんの胴体が隠されていることは気づいていました。あなたは計画が狂いだしてから、すぐに萩本さんの死体を隠すことを考えました。それがあの場所だったのでしょう。しかし、わたしはあえてそれに気づかない振りをして、あなたが動き出すのをじっと待っていたのです。根来さんと打ち合わせて、犯人は今夜中に動くだろうから、睡眠薬を飲まされないように、夕食は取らないことに決めました。そして、三田村執事の部屋の戸棚は破壊され、鍵は盗まれ、美術品運搬用のエレベーターは動きだした。山岡さん、その美術品用のエレベーターのドアを開いてはくれませんか?あるのでしょう、萩本さんの胴体が……」

 山岡荘二郎は、ふうとため息をつくと、美術品用のエレベーターのボタンを押した。ドアはゆっくり開いていった……。  寝袋のようなビニール袋が置かれていて、その横に楓がうつむいて立っていた。山岡荘二郎は、ふうとため息をつくと、もうどこにも逃げる場所はないことを知ったのである。

「その通りです。なかなか見事な推理でしたな。わたしから答え合わせをしましょうか。わたしは確かに小倉と三田村の共犯に見せかけて、荻本と小倉を殺そうと計画したのです。そのために、三田村のコーラに睡眠薬を混ぜて、彼にアリバイを作らせないようにしました。彼がわたしの言いつけ通り、十二時には地下へと通じる階段のドアの鍵を施錠することが計画上必要ではありましたが、彼は仕事が終わった時にしかコーラを飲まないようだから、その点は大丈夫だと考えていました。まさか杏がコーラを飲むとは思いませんでしたがね……。
 小倉はあらかじめ殺害しておいて、屋上で首を切断し、胴体をあの部屋のベッドの上に寝かしておきました。
 また星野文子と小倉の関係は、小倉本人から聞いていたので、脅迫状に使用しました。最初から警察の到着を遅らせるために、電話線を切る予定だったので、脅迫は電話ではなく、手紙とタイマーのアラームを利用したのです。
 そして、わたしは十一時半以降に収蔵室で萩本と待ち合わせていました。彼はわたしをゆすっていましたから、そのことで反対に誘い出したのです。わたしも萩本もエレベーターの防犯カメラに映らないようにと申し合わせて、階段を使用しました。そこでわたしは萩本を絞殺し、すぐに一階に戻ったのです。
 十二時が過ぎてから、エレベーターで地下に降り、浴室で萩本の首を切断し、それをビニールで包んで、壺を入れる木箱にしまって、三階に運びました。そして、ここで非常に驚いたのです。小倉の胴体を隠してきた部屋が施錠されていたのです。わたしは、小倉が死んでいることが警察に分かるとまずいと考え、焦って天窓から生首を放り込みました。この時の行動が最大の過ちだったと思うのですが、わたしはさらに生首だけ通る天窓のみ開いている状況では、首と胴体が別人のものとすぐにばれてしまうと考えて、定規を使って、天窓が内側から施錠されているように見せかけたのです。
 問題はここからでした。星野文子があのタイマーのアラームで目を覚まして、死体を発見してしまうと思いました。そうしたら、もう小倉の胴体を回収するチャンスを永遠に失ってしまいます。わたしは星野文子が死体を発見する前に失神させようとしたのです。しかし、そのためにはランプがともっている廊下でも、わたしだと気づかせない格好を用意する必要がありました。その時にわたしが思い出したのが、あの銀の仮面と黒装束とソフト帽です。わたしはあれを持ち出すと、再度、エレベーターで地下に降りていって、萩本の胴体を大壺の中に隠したのです。そして、わたしはどうにか吹雪が止むまでに、この萩本の胴体と小倉の胴体をすり替えようと考えていました。ふたりの遺体は元々すり替えるつもりでしたから、同じパジャマを着せていましたし、血がついたシーツも用意していたので、すり替えはチャンスさえあればできないことはないと考えていたのですが、しかし上手くいきませんでしたな……」

 山岡荘二郎はうつむくと、そう言って悲しげに笑うのだった。山岡荘二郎は振り返って、エレベーターの中に入ると、一人で泣いている楓の頬を触った。彼の手に、涙が伝った。血にまみれている手に悲しみの涙が伝ったのだった。

「楓……」

 山岡荘二郎は、楓に話しかけた。楓は泣きじゃくる。荘二郎はしばらくその顔を見つめていたが、もはや父としてもう娘に語りかけることはできないと思ったのか、それ以上は何も言わずにエレベーターから降りると、祐介と根来の顔をじろりと睨みつけるなり、

「さあ、二人の人間の首を切断したこの殺人鬼をどこにでも連れていきたまえ……」

 と言って、また狂ったような笑い声を空虚に響かせたのだった……。




「銀泥荘殺人事件」 完

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