01 祈、田舎に帰省する
街には、人と同じく“顔”がある。
札幌から帰省する車窓の眺めで、俺は、それを痛感する。
大都市に賑わう人々、街並み――地方に向かうにつれて、それらの活気が薄れて衰退していく様子。
大都市を『青春真っ只中の若者』とするなら、年老いていく過程をリアルに見ているようで、なんとも酸っぱいような切ない気持ちになるのだ。
ともあれ、俺、松山祈は、衰退の終着駅――西木幌町に年末帰省した。
+ + +
年明けて、一月一日元日。
厚手のコートにマフラーを羽織り、氷点下の外へ出る。
「うひぃ」
暖房が効いた家の中との温度差にうめく。
今日も今日とて雪深い。
実家に併設してある小売店の前に、紋付き袴姿の中年男が仁王立ちしている。
この男――米国人と日本人のハーフなので、和服が似合ってないことこの上無い。腕組みをしたまま、「おはよう」と無愛想な声をかけられた。
「おはよう。何やってんだ? 正月で店は休みだろ」
「……ああ。門松を眺めてたんだ」
松山城二。
この町で、唯一存在している小売店の店主で、俺の父親である。
ジョージの母親、つまり俺の祖母はアメリカ人だが、日本人の祖父の血を濃く受けついだらしく、黒髪黒目。顔立ちもそれほど彫りが深くはなく、優しげで知的な印象を与える善人顔だ。黙っていれば、往年の名俳優にも見える。 が――
「門松っていいよな……竹! って感じで」
「は?」
「今年は特に切り口の鋭さが良い。震えがくるほどだ……強盗に襲われたら、ダディはこれで撃退しようと思う」
このとおり。
口を開けば珍発言の連続なので、親戚中から呆れられている。こんなド田舎の店に強盗なんて来ねえし。
「祈、どこへ行く?」
「初詣だよ。絆たちと」
「そうか。今朝は大雪が降ったから、道に気をつけろよ」
店の自動ドアの脇に、除けられた雪の山が築かれている。『オレが除雪したぜ!』と主張せんばかりに、スノーショベルが雪山のてっぺんに突き刺さっていた。
さて、初詣である――。
農機具や除雪車が納められている倉庫を通り抜けると、三階建の農家の邸宅前で、手を振っている男女がふたり。
「祈―っ、あけましておめでとう!」
面長で目がつり上がった小柄な男に、さっそく新年のご挨拶をされた。
小学校からの友人で、幼馴染の梅沢絆。その横にいる、デカい日本人形に気付いて俺はたまげた。
「……花凛、一体どうしたんだ」
「振袖着てみたのよ。どう?」
成人式は来年のはずだが……?
農家の令嬢は、気取ったよう仕草で袖の端をちょこんと持ち上げた。竹中花凛。絆と同じく近所に住む幼馴染である。
「お姉ちゃんのお下がりなんだけど、似合う?」
「あ、ああ」
俺は口ごもった。正直全然似合ってない。
そもそも花凛は、肩幅がカッチリしていて和装が似合う体型じゃないのだ。
俺は和装が好きなのに――どうして俺の周りには和服が似合わない奴らばっかりなんだ?
特にコメントしなかったが、微笑みを浮かべていたのが良かったらしく、花凛は頬をぽっと染めた。俺は親父似の善人顔に感謝する。
「似合う似合う。鬼も十八っていうしな」
やたらと故事ことわざを好む絆が、こっそり野次った。
「なにそれ! 全然褒めてないじゃない」
花凛が濃いめのメイクの眉を寄せ、肩をますますいからせる。
おっ、ついに言い返したか。
高校生のときは、国語が苦手な花凛を、絆が難解な言い回しで密かに辱めるという謎のプレイが乱行されており、眺めるのを楽しみにしていたのだが。
予想外の返しに、絆も目を丸くしている。花凛、女子大生になって、ちょっと賢くなったらしい。
*
西木幌町に神社はひとつしか存在しない。
神主などはおらず、年老いた町民たちが独自に管理しているショボい神社だ。
「なんてこった……」
鳥居の下で、絆がニット帽の頭を抱えている。
拝殿へ続く石段。それは、階段と呼べるものじゃなかった。踏面に雪が積もったそれはもはや、ただの坂。巨大な雪のすべり台と化していたのである。
「昨夜来たときは、ちゃんと除雪されてたのに……」
初詣の提案主が、狐に似た顔をゆがめた。
「午前一時までは町内会役員が社務所に入って小まめに除雪してたのに。朝の参拝客のことも、考えてほしいなあ」
ついさっき見かけた、雪山に突き刺さっていたジョージのスノーショベルを思い出す。今朝は大雪だったらしいからな。
「俺と絆はいいとして、花凛は、初詣止めておいた方がいいんじゃないか」
気を使って提案してみたが、振袖姿の花凛は「だいじょうぶ!」と鼻息を荒くした。
薄桃色の着物の裾をはらりと捲ると、なんとこの日本人形、頑丈そうな長靴をお召しになっているではないか。この雪深さで、下駄で出歩くのはさすがに無謀だと思うが、まさか長靴を履いているとは。
「さあ、いくわよ!」
もっとも戦闘力が低いと思われた花凛が、ずんずん雪の石段を上がっていく。
一方、冬用とはいえ短靴の俺と絆は、花凛が築いた足跡をたどっていくしかなかった。情けないザマである。
ふいに、コートのポケットに入れてあるスマホのアラームが鳴り出した。
午前八時半――。
大学の一限目の講義に間に合うよう設定している目覚まし時計だ。時刻を認識するだけで、あくびが出た。
冬休みに入ったし、設定オフにしておくか。
02 幼馴染と初詣
吐く息が、ドブネズミ色の空に上がっていく。
石段の中段あたりまで上ったところで、俺はすでに帰りたくなっていた。
振袖娘カリンの後を家来のように付いていく俺と絆。はたから見ると、さぞかし滑稽な眺めに違いない。
「そういえば、最近空き巣の被害が出てるらしいわよ。知ってる?」
「知ってるよ」
唐突な花凛の問いかけに、絆がすぐ反応する。
「隣の石田さんちも空き巣に入られたって」
「うちは除雪機の燃料を抜かれたのよ。嫌になっちゃうよね」
農家の娘と息子は、深刻な表情で情報交換をしている。
ちなみに、この町の住人の八割は農家である。俺から言わせれば、倉庫にきちんと鍵をかけていない不用心さがむしろ問題なのだ。
「許せないわね、こんな高齢者ばかりの田舎町を狙うコソ泥がいるなんて」
将来の夢は、警察官、という花凛が憎々しげに吐き捨てた。
俺は、頭の中で花凛に婦人警官の恰好をさせてみる。和装よりずっと良い。ついでに、自分が痴漢容疑か何かで捕まるシチュエーションも想像もしてみた。少しだけテンションが上がってきた。
「ところで、祈は? 何をおいのりするの?」
わざわざ『いのり』を2回も強調して、振り向いた婦警さん……じゃなかった、花凛が尋ねてくる。軽いウインクまでしやがった。なにキメちゃった、みたいな顔してんだ。
「……んん」
何を祈ろうか――?
去年は三人とも大学合格祈願だった。結果、全員見事に合格し、市外の大学へ進学したわけだが。
そういえば花凛は、去年の夏休みはアルバイトに明け暮れて帰省しなかったので、ほぼ一年ぶりの再会である。
「特に決めてねえな。絆は?」
「オレはあれだな、やっぱり。うちのサークルに女子が入会してくれるようお祈りするよ」
息を弾ませながら、絆が答える。
同じ大学に進んだ絆と俺は、学部は別々だが、腐れ縁よろしく同じサークルに入った。
推理小説研究会。
絆に誘われたから、といえばそれまでだが、他に興味があるものがなかったことが要因だ。しかし、その選択が大失敗だったのである。
サークルのメンバーは、留年を繰り返す長老と称される四年生、妙な関西弁を喋る三年生、そして一年生の俺と絆――総勢五名。女子がいない推理小説研究会。それつまり、『マリア』がいない京都の某私大推理小説研究会そのものだ。何のトキメキもドキドキもない。
なんだか無性にイライラしてきて、ふたりに挟まれていた俺は、振り向きざまに絆の体を思いっきり押した。
「うをぉおお!!」
バランスを失った絆は、手を前について転び雪のすべり台を滑降していった。
身に着けていたダウンジャケットが滑りやすい素材だったせいか、いっそ何かの競技を連想させるハイスピードだ。
「祈てめェーっ!」
「ぶわっはははっ」
「何やってんのよ! ガキかお前らは! 早く助けにいきなさいよ!」
ほぼスタート時点に逆戻りした絆の姿に爆笑していると、花凛にど突かれた。
昔から、怒った花凛には絶対に逆らえない。憐れな幼馴染を救出すべく、俺は渋々と昇ってきた道を下りていった。その間にも、花凛は振袖姿で、林に囲まれた石段をずんずん上がっていく。
「おまえマジふざけんなよ! 死ぬかと思ったんだからな」
温厚な絆がめずらしくキレている。本当に怖かったらしい。
「悪い悪い。でも、ちょっと面白かっただろ」
「……まあな」
ニマァと笑う絆。スリルと快感は紙一重。コイツもつくづく変人である。
絆に手を貸して、花凛の足跡がついた石段を再び昇っていく。
根っからの体育会系でない俺たちは、すでに息が上がり切っていた。はあはあ息切れしながら、互いに手を取り合って石段を上がっていく男たち――しかも片方は雪まみれ――その様は、はたから見ると……いや、もう考えるのも嫌になってきた。
「もお、遅いよ!」
坂の頂上では花凛が、両腰に両手を当てた格好で待っていた。
わたし怒ってます、のポーズだったが、本当にしてる奴を見たのは久しぶりだな。
幸い、そこからは大まかにだが除雪されていたので助かった。
鳥居をくぐって、薄雪を被った狛犬様の間を通り抜けると、ゴールの拝殿がある。古ぼけた切妻造りの屋根が目に入ってきた。
そろそろ賽銭を用意しておくか。
財布を取り出そうと、コートのポケットに手を入れたところで、
「ありゃ?」
絆が妙な声を上げた。
拝殿へと続く参道を塞ぐよう――巨体の人物が仰向けに倒れていた。
「え? えっ、ええっ!?」
小刻みな悲鳴を上げながら、花凛が俺の腕を掴んでくる。
人は想定しない事態に直面すると、大きく分けて二パターンの反応をするという――。極度のパニックに陥ってしまうタイプ、そして、妙に冷静になるタイプ。
俺は後者のようだった。
慌てふためく幼馴染たちを横目に、そろりと雪を踏みしめながら倒れた人物に近づいていく。
初老の男だ。どこかで見覚えがある。なんてデカい奴だ――。二メートル以上あるんじゃないか?
ウインドブレーカの上下を身に着けている。蓬髪の髪型といい、どことなくガリバー旅行記を連想させる。
「ぎゃあ、し、しんでる!」
背後で絆の悲鳴が聞こえた。
理由はきっとこれだろう――『ガリバー』は死んだように目を瞑っている、その額から鮮血が流れていたのだ。
03 メシア流血事件
ガリバーの額から流れる鮮血!
深手の傷か――!? 傷口に顔を近づけたところ、“死体”が、かっと目を見開いた。
「い、生き返った! 大丈夫ですか!?」
「うぅ……」
顔を顰めて唸っている。普段から物事にあまり動じない俺もさすがに興奮で声が上擦った。
「痛、痛たた」
初老の男は頭を押さえながら、ゆっくりと上体を起こす。
俺を見つめた後、愚鈍な動作で辺りを見回した。自分の置かれている状態がまったく理解できない、といった表情だ。
「ここは……ここはどこだ?」
「神社です」
「神社……? 私は、私は……」
まさか、傷を負った衝撃で記憶喪失に?
『私は誰?』とか言い出したらどうしようかと思ったが、幸いその前に絆が、彼が誰かを思い出してくれた。
「町内会長の樫葉さんだ!」
「ガリバーさん?」
「こんなときに何フザケてんだよ! ガリバーじゃなくて、か・し・ば!」
名前を聞いてようやく思い出す。
樫葉町内会長。一年ほど前に道外から移住してきて、猛烈に町政を語りつくし、半年前に町長に就任した変り種のオッサンだ。
自分のことを、西木幌町の救世主と称しているらしい。痛い。
「そうだ……私は樫葉太郎……西木幌町の――メシア!」
名を呼ばれた途端、彼は急に自信に満ちた様子になり、額から流血したまま咆哮した。
見た目もセリフも痛々しいことこの上ない。
「おうい!」
そうこうしているうちに、車道から軽トラが上がってきて、白髪の小柄なオジサンが走り寄ってきた。
この人は知ってる。町内会副会長の門脇さんだ。
俺が記憶している限り、この門脇さんは常に町内会の役員を務め続けている。温厚な人柄で働き者で評判である。
「会長ケガしてるべ! どうなってんだこりゃ!?」
何故か俺に視線が向けられたので説明する。
「わかりません。初詣に来たら、境内で会長さんが倒れていて」
「――もしかして、松山商店とこの祈くん? いやぁすっかり大きくなったなあ……はっ! そうじゃなくて、と、とりあえず救急車。祈くん、ケータイ!」
「待ってくれ門脇副会長」
通報しかけた門脇さんを、樫葉会長が手を挙げて制した。
「私なら平気だ。まだ痛むがキズは浅いようだし」
「いや、でも……」
「とりあえず応急処置をしてくれないか、社務所に救急セットがあったはずだ」
ウインドブレーカーのポケットから鍵束を取り出す。
立ち上がった樫葉会長の身長は、190センチといったところか。
さっきは横になっていたから余計大きく感じたんだな。それでもデカい。老人ばかりの田舎町で、一番の巨人であることは確実だろう。
ふたりは鍵を開けて社務所に入っていく。樫葉会長は、門脇さんに肩を貸してもらってはいたが、自力で歩けていた。
「どうする?」
つり上がった狐目をぎょろりとさせて、絆が俺と花凛を交互に見る。
推理小説マニアを称する絆だが、実際の流血現場では、怯えて何も出来ないチキン野郎ということが証明された。
「どうするって。大丈夫なんじゃない? せっかくだから参拝していこうよ」
意外にケロリとしているのが花凛だ。女が血に強いというのは本当だな。
「そうだな」
俺もそれに同意する。
ここまで苦労してやってきたんだから、本来の目的を果たすべきだ。
「お前ら……よくそんなに冷静でいられるな。うわ!」
絆が何かにつまずき雪に突っ伏した。
「くそ、なんで、こんなところに石が」
俺は蔑んだ視線を絆に送る。
これから一年間の幸を神に祈るというのに、元日からブザマに転んで醜態を晒し、もう奴は救いようがない。
「あ、絵馬があるよ」
雪まみれになった絆の傍らで、花凛が楽しげな嬌声を上げた。
絵馬だと?
拝殿に上がるまでに三段ほどの階段がある。
その、木製の手すり部分に絵馬が一枚縛り付けてあった。神社でこういった類のものは一切販売していないから、自ら持ち込んで縛り付けていったんだろう。
「ええと……『ずっと一緒にいられますように 牧野響、小川笑美』だって。響と笑美も参拝に来てたんだね」
絵馬には、黒マジックで書かれた丸文字がのたうっている。
地元に残っている同級生カップルが書いたものらしい。俺は冗談じゃなく脱力して倒れそうになった。絵馬を手すりから解く。それを雪山へ向かって、思い切りぶん投げた。絵馬は雪の中に埋もれて見えなくなる。
「祈っ! なにやってんのよ」
「アイツらのためだ。こんな田舎で、こんなものを晒しやがって。恥を知れ」
「怖ェよ、お前……『祈り』じゃなくて、『呪い』に改名した方がいいって」
狐顔を蒼白にした絆が呟いた。こいつら何もわかってない。
こんな小さな町で、羞恥極まりないアホを晒している絵馬を、気を利かせてり葬り去ってさってやったというのに。
メシア流血事件に、同級生の恥ずかし過ぎる絵馬。
新年から愚かしいものばかりを見せつけられ、興ざめにも程がある。
さっさとお参りして帰ろう。
階段に足をかけると、ぎいと軋んだ音がした。
財布から五円玉を取り出す。賽銭箱に向かって、それを投げ入れた。
「ええと、推理小説研究会に女子が入って来ますように……うおっ!?」
願い事をした直後、俺はのけ反る。
賽銭箱の手前側――その木枠部分に、血痕がこびりついていたのだ。
04 額のキズと頭のコブ
「なんだ、君も参拝しているのか」
賽銭箱の血にドン引きしていると、後ろから呑気な声をかけられた。
振り向くと、社務所から樫葉会長が出てきたところだった。額の真ん中に絆創膏を貼っているのが、なんともマヌケだ。
「君は松山ジョージさんの息子さんだってね。君には、神社じゃなくて教会の方が似合ってるな」
冗談のつもりで言ったらしいが、全然笑えない。
むしろ不愉快だ。
たぶん俺がクオーターで、外人っぽい顔をしているからだろうが、余所からきたガリバーにそんなこと言われる筋合いはないと思う。
あ――なるほど。
睨み返そうとしたところで、閃いた。彼の額に貼られた絆創膏。つまり、この賽銭箱にこびりついた血痕は彼のものに違いない。
「会長、その傷。もしや、賽銭箱に額をぶつけてできたものじゃないですか?」
「……うむ?」
額に手をやりながら、会長は賽銭箱をぼんやりと直視した。
それにつられて、血痕に気付いた絆と花凛が、「ぎゃっ」と悲鳴を上げる。いや、気付くの遅いって。
しかし、会長の答えは何とも頼りないものだった。
「私はアレに額をぶつけたのか? ……わからない……まったく。思い出そうとすると、頭が痛んで……いたたた」
「頭大丈夫ですか?」
「ああ。傷は額だけじゃなかったようでね。頭のてっぺんにも大きなコブがあるみたいで」
皮肉にも動じない会長は、蓬髪の頭頂部を気遣うように触っている。
まてよ。頭にコブ――?
額のキズは賽銭箱にぶつけて出来たものだろうが。
「頭のコブに心当たりは?」
「いやあ。ないな」
もしかして、と呟いたのは絆だった。
「誰かに襲われた……とか?」
その発言に、会長が血相を変えた。
「襲われた、だって!? 駄目だ……それはマズイ! 非常にマズイ!」
半狂乱のメシアがわめきたてる。
「町内会長の私が、誰かの恨みを買ってるなんて、あり得ないことだ! 誰かに襲われたなんて、絶対にあってはならないことなんだよ! とにかく駄目、却下!!」
しらーっとした空気が流れた。
言いたいことは何となく理解できる。誰にでも愛される英雄でいたいのだろう、彼は。現実はそんな甘いものではないと思うが。
「ところで、あなたはここで何をしていたんですか?」
花凛が焦れたように質問した。
虚をつかれたのか、会長はしばらく目をぱちくりしていたが、「ええと」と回想を始める。
「――そうだ。朝に参拝客のために、除雪していたんだよ。今朝は大雪だったからね」
なるほど。
それでここの雪は、除けられていたわけか。どうせなら石段の方も済ませておいて欲しかった。
「君たち、石段を上がってきたのかい? 大雪が降ったし、誰かが来るとしても車で来ると思っていたから。お年寄りばかりだしね。まさか石段を歩いて上がってくる町民がいるとは」
たしかに、町民の半分以上は高齢者だ。
過疎化が進む西木幌では、学校はとうに閉校しており、数少ない子供たちは町から十数キロ離れた市立学校に通っている。
「除雪していたって、ひとりで?」
「ああ」
会長は花凛に頷くと、社務所から出てきた門脇さんをチラと見る。
「副会長と八時半から除雪する約束をしていたんだ。でも、彼がなかなか来ないんで、ひとりで始めていたんだよ。そこまでは覚えているんだが……」
痛たた、と頭を押さえる。それ以後の記憶は定かでない、というわけか。
「おれが遅れずに来てればなぁ」
社務所の壁に凭れていた門脇さんがぼやいた。
「約束の時間には着いていたけど、車道の入り口で、荒巻さんの婆さんに捕まってなぁ。なかなか抜け出せなくてなぁ。すまなかったなぁ」
申し訳なさそうに弁明する。
そうか、荒巻の婆さんに捕まっていた、というなら仕方がない。あの婆さんは他人に長話を聞かせるのが生きがいなのだ。俺なんか帰省した日に三十分も立ち話に付き合わされた。老若男女、見境なしだ。
「その間に、他の車が神社に上がっていったりしませんでしたか?」
「いんや。上がろうにも、入り口をおれの軽トラが塞いでいたからなぁ」
ふむ。
俺たちの方も、石段を上がっている間、誰かが追い越していったということはなかった。
神社の拝殿にたどり着くには、大まかに二つのルートがある。
ひとつは俺たちが徒歩で上がってきた石段。
もうひとつは、石段からは少し離れた位置にある車道。会長と門脇さんが軽トラで登ってきた道のことである。
ちなみに、拝殿の裏は激しい斜面になっていて、人が通れるような状態にはなっていない。
「祈」
とがった顎に手をやりながら、絆が尋ねてくる。
「オレたちが石段を登り始めたとき、お前のスマホ、アラームが鳴ってたな。あれは何時に設定されてたんだ?」
「八時半だ」
俺はポケットからスマホを出して、今の時刻を確認する。
ちょうど九時――。倒れた会長を発見したのは、今から十五分ほど前として、八時四十五分。
会長がここに着いたのは8時半だというから、もし本当に襲撃されていたとしたら、それは八時半から四十五分までの間ということになる。大まかにだが除雪が済んでいた状況から、犯行推定時刻は発見直前とみても良いんじゃないだろうか。
そして、偶然にも同時刻――八時半に、石段の入り口には俺たちが、車道側には門脇さんがいたのである。
「つまり、会長を襲った奴は、八時半よりも前に拝殿にいた――ということになるな。そして、まだここに潜んでいる可能性が高い」
「まだここにいるって……なんで?」
顔をしかめた花凛が絆に向かって、ますます眉間の皺を深くする。
「わからないか? 八時半から拝殿に続くルートは、両方とも塞がれていたんだ。オレたちが来るより前に、境内にいた犯人が外に出られるわけないだろう? ……っ」
探偵っぽく説明していた絆が、急に体を震わせた。自分の推測――犯人がここにいるかもしれないという可能性――に、今さら恐怖したのだろう。
「潜んでいるって……? ど、どこに?」
樫葉会長が、長身の体でせわしなく周囲を見渡した。
ここの境内は、周りを背の高い林に囲まれている。林のどこかに、得体の知れない暴漢が息を殺して潜んでいる――かもしれない。
「でも、林の方に足跡は見えないんだ。まさかこれが『雪密室』ってやつ?」
恐怖を紛らわせるためか、絆がやたらと大声を出した。
除雪されているのは参道だけで、林側には雪が積もっている。踏み荒らされた跡も見当たらない。
「……なにが『 雪密室』だよ」
この推理小説マニアめ。一応付き合ってやるか。絆の強張っていた表情がゆるむ。
雪密室とは――?
事件現場の周囲が雪一色で、足跡がない《もしくは被害者の足跡のみ》という不可能状態で、密室の様式のひとつである。
法月綸太郎の同名作品も有名だ。
しかしこれ、現実的には謎でも何でもない。特に雪国の人間にとっては。
たとえば、『地吹雪』という現象がある。
どんなに晴れていても、強風があれば、地表面に積もった雪が舞い上がり、浅い足跡であればたちどころに消え去ってしまう。
「低俗なことを言うな。雪密室は、推理小説の世界に存在する美しい謎のままでいいいんだよ。祈だって、そう思ってんだろ」
「まあな」
「ねえ、二人ともちょっと来てよ」
ミステリ談義に迷いこんでいた男たちに、花凛が振袖で手招きをしている。
「どうしたんだ?」
「私じゃなくて、門脇のオジサンが気付いたんだけど」
門脇さんは、参道の真ん中にしゃがみこんでいる。
「ここに石があるべ」
短い指の先には、たしかに石があった。結構デカい。
ちらほらと降り続ける雪に表面を覆われているが、直径は20センチ弱というところか。
「――で?」
なに?
立ち上がった門脇さんは、なにやらドヤ顔をしていた。花凛が先を引き継ぐ。
「会長の頭のコブよ。転んだときに、これに頭を打って出来たんじゃないか、って」
……え!?
05 罰当たりな石【推理編1】
「会長」
ちょいちょい、と門脇さんが樫葉会長を手招きしている。
「ここに寝転がってみてください。そうそう」
「え?」
会長は参道の真ん中にある石を枕に、仰向けに横になった。
わりに素直だ。こいつ、カリスマぶってはいるが、実は格下の役員たちに踊らされているだけなのかもしれない。
「発見したときと同じだ……」
「そうね」
絆と花凛が頷き合っている。
たしかに。賽銭箱の前にあるボロい木造りの階段を下ったところ――樫葉会長が倒れていたのはそこだった。
「な?」
門脇さんが、白い歯をむき出しにして笑っている。
「会長は滑って転んで、賽銭箱に額を打ったんだな。そんで、よろめきでもして、後ろに倒れて石に頭を打った。そんなところじゃないべか」
思わず唸った。なんと――。
偶然が重なり過ぎてる感はあるものの、辻褄は合っている。
倒れていた会長の頭の下に、石があったかどうかまでは、発見時のパニックで覚えていないが。
あとは、会長がそれを思い出しさえすれば事件は解決だ。いや、もう事件ではなく、事故か。が、当の本人は腑に落ちない表情をしている。
「でも、それじゃあ、あまりにも私がドジってことに」
「やっぱり思い出せませんか?」
「――いや、誰かに襲われたというよりはマシだ。うん、そういうことにしておこう! ね?」
窪んだ片目を瞑り舌を出した。気持ち悪い! カリスマよりも、ちょっとドジでお茶目な愛されキャラクターを演じることにしたらしい。
「この石。変わってるな」
探偵気取りが抜けないのか、絆が現場を歩き回っている。よいしょ、と地面の石を掴み上げた。
「……それに、なんか変なのが付いてる……ひいっ!」
目の高さまで石を持ち上げた絆が、悲鳴をあげる。
「この石、目がある! 目が合っちゃったよ!」
「なにを言ってるんだ、君は……ほぉあっ!?」
近付いてきた会長が、今度は修行僧みたいな掛け声をあげた。一体何だっていうんだ。
「これは、ただの石じゃない! これは……これは狛犬様の頭だ!」
「こ、狛犬さまの!?」
わなわなと震える絆の手から、俺は石を奪う。
直径は20センチ程あるが、重さはさほどない。表面の隆起した部分は、よく見ると、耳だった。その下にある、睨むような迫力のある双眸――。
抱えたまま、拝殿に向かって右側の狛犬様に近づく。被った雪を払うと、なるほど、頭の部分が欠けている。
「そうだ、思い出したよ! 昨夜、社務所当番の役員に『狛犬に亀裂が入っているから危ない』と注意されてたんだ。それが今朝になって見にきたら、頭の部分が地面に落ちてたんだよ……!」
記憶の断片が戻ってきて、興奮しているのだろう。
会長が勢い良くまくし立てる。それにしても、何故よりによって狛犬様の頭部が割れるんだろう。縁起悪っ。
「かわいそう」
頭部が欠けた銅像を、花凛が悲しそうに撫でている。
小さい頃、神社の境内で遊んだ思い出がよみがえる。その頃から、俺たちを見守ってくれていた狛犬様が壊れてしまったのだ。
「でも、狛犬様の頭を、道の真ん中に放置しておくなんて……」
恨みがましそうに、会長を目の端で睨んだ。ここでケガをしたのは、天罰だと言わんばかりである。
「いや、放置していたなんて。それは無いよ!」
会長が慌てたように、首をぶんぶんと振っている。
「参道の真ん中に、だなんて罰当たりな! そんな場所には置いていないよ。たしか、除雪の妨げになるから、銅像の脇に置いておいたんだ……と思う」
やはり、はっきりとは思い出せないらしい。
だが、神聖な狛犬様――その頭部を参道の真ん中に放置する――という行為は、いくら常識外れな会長でもしないのではないだろうか。感覚的に。
では、なぜ狛犬様の頭部は、こんなところに在ったのだろう――?
なんだろう?
何かがひっかかる。
そもそも、こんなもので頭を打ったというのが……
「絆」
「なに?」
「さっき、お前が躓いていたの。あの狛犬様に、じゃないのか?」
「参拝しようってときに、転んだときのことか?」
狐顔の色がさぁーっと青くなる。
「そうだ! なんて罰当たりなことをしたんだ、オレは!」
「罰当たりついでに、それを枕にして寝転がってみてくれないか」
「なんだよそりゃ!」
「頼むよ」
俺の口調が重々しかったせいか、絆は渋々だが、先刻の会長のように仰向けに寝転んでくれた――狛犬様の頭部を枕にして。
「――やっぱり、そうか」
違和感の正体がわかった。
「何をひとりで納得してるんだよ」
「絆。今、お前が、狛犬様に触れている部分はどこだ?」
「は? どこだって、そりゃ」
少しだけ起き上がり、後頭部を手で触る。
「ここだよ。頭の後ろ側の」
「じゃあ、樫葉会長のコブがあるのは、どの部分だ?」
「さっきから何だよ。ええと、たしか、頭のてっぺん……!!」
うるさそうに答えていた絆の表情が一変した。
「気づいたか――? 仰向けに倒れて頭を打ったとしたら、コブが出来るのは頭の後ろ側――後頭部のはず。頭頂部にコブが出来ているのはおかしいんだ」
誰かが、あ、と声を上げた。
門脇さんだったように思う。一方、絆は悔しげに「そうか」と呻いた。
「なんでもっと早く気づかなかったんだ……そんな単純な矛盾」
「ねえ、待って。派手に転べば、頭のてっぺんを打つことだってあるんじゃない?」
振袖姿で大きな動作をしながら、花凛が反論してくる。
「どんな転び方をしたら、そうなるんだよ。ヘッドスピンじゃあるまいし。それに、会長は見てのとおり巨人――失礼ですけど、身長は?」
「192センチ」
「だ、そうだ。これほどの巨体が、頭頂部を打つほどの転び方なんてそうそうないだろう」
「……それもそうね」
花凛が赤面して咳払いをする。
「でも、じゃあ……どういうことになるのよ?」
「会長のコブが、狛犬様に頭を打って出来たものじゃなければ――」
俺はネズミ色の空を仰ぐ。
「隕石が落ちてきて、会長の頭を直撃した――という突飛な可能性は除くとして」
「どんな突飛な可能性だよ! 最初から除けよ!」
ツッコミうるさい。
「だとしたら、やはり誰かに襲撃されて出来たコブ、ということになる」
06 順序の確定【推理編2】
雪深い神社に重い沈黙がおとずれた。
話が物騒な方向に、戻ってきてしまったからだ。
誰よりも平和的結論を望む樫葉会長がさっそく取り乱し始める。
「私が襲われた、だって? この私が誰かの恨みを買っているとでもいうのか!?」
「落ち着いてください、会長。この町に会長を恨んでる奴なんて、いないべ」
門脇さんが必死になだめる。
「もし会長を襲った輩がいるとしたら……そいつは通りすがりの『賽銭泥棒』か何かに違いねえ」
「賽銭泥棒!」
メシアの目に輝きが戻った。
「そうか賽銭を盗もうとして、除雪にいそしむ私が邪魔で襲ったんだな! 西木幌町の住人の願いが込められた賽銭を盗もうとするとは許せんな」
年のわりに軽快な動きで、階段をきしませて賽銭箱を調べる。
「……ふん。鍵も壊されていないし中身も無事のようだ。町内で空き巣騒ぎがあったことだし、一応、交番に通報しておくか。よし、私が行こう」
不安げに周りを見渡しながら、会長が歩き出す。
泥棒だか暴漢がここに潜んでいるかもしれない――という説を、まだ気にしているのだろう。
「ちょっと待ってくださいよ」
先走る会長を絆が止める。
「賽銭泥棒って。そんな奴が、いつ、ここに忍びこんだっていうんです。会長が着いた八時半の時点で、拝殿への道は塞がれていたんですよ?」
「会長が来る前から、忍び込んでいたんだろ」
平然と答えたのは門脇さんだった。絆は、ふうん、と鼻白む。
「会長が来る前、ね。じゃあ誰もいない境内で賽銭を盗んで――いや、盗めなかったとしても、さっさと逃げれば済む話でしょ? わざわざ会長を襲ったのは何故だよ」
「盗もうとしたところに、ちょうど会長が現れたんだろ」
「ぬ……」
睨み合う絆と門脇さん。
「ずいぶんと賽銭泥棒説を推すんだな。もしかして、門脇のオジサンが会長を襲った犯人ってわけじゃないよな?」
「ちょっと絆! なんてこというのよ!」
行き過ぎた発言をした幼馴染を、花凛がとがめる。
「こんなチビっこい門脇のオジサンが、あんな馬鹿デカい会長を襲えるわけないでしょ!」
どうでもいいが、表現がイチイチ失礼だ。
幼馴染の不毛な争いを眺めているうちに、俺はまたあることに気付いてしまった。
……ん?
一瞬目を離した隙に、急展開が起きていた。絆が門脇さんに土下座していたのだ。
「ごめん! やっぱりオジサンは犯人じゃない!」
「わかればいいのよ」
花凛に肩を叩かれた絆は、「いや、ちゃんとした根拠があるんだ」と言い返す。
「いいか? 会長は頭のてっぺん――頭頂部を打たれている」
「……それが? さっき祈も同じことを言ってたよ」
「聞いてくれ。どんな凶器が使われたのかはわからないけど、普通に考えて、190センチを超える会長の頭頂部を打つには、さらに上の位置から打撃を加えなければならない。160センチもない小柄な門脇さんがそれをやった、というのはどう考えても無理がある」
「――絆、聞いてもいいか?」
得意げに自論を披露した絆に、俺はおもむろに切り出す。
「190センチを超える会長を襲った犯人ってのは、一体どんな怪物なんだろうな?」
「……は?」
「会長を超える巨人、というと、まずこの町には存在しない。この町以外の人間で、たまたま会長を襲う動機を持っていて、その人物がたまたま2メートル近い巨漢だった、という可能性も無きにしも在らずだがな」
「…………」
絆が頭を抱えた。ナンセンス、と悔しげに呟く声。
そう、ナンセンス。潔く認めて大変よろしい。俺もそうだが、生粋のミステリマニアゆえ、あまりに現実的でない可能性は受け入れられないのだ。
「そこまでの巨人じゃなくても、会長の脳天は打てるぞ。――会長」
俺は西木幌町のメシアを呼ぶ。
「賽銭箱の前に立ってもらえますか?」
「……え?」
戸惑いを見せながらも、会長は指示に従う。実に従順だ。
それにしても――コイツやたら操作しやすいな。心に秘めているS心が揺れる。いや、でもこんなオッサンが相手じゃな……。
下らないことを考えながらも、俺は階段を軋ませながら会長の背後に近づく。犯人のつもり。
「無理だろ」
背後で絆のつぶやきが聞こえた。
絆の発想は良かった。が、少し足りない。俺の身長は175センチあるが、確かにこの状態のままじゃ無理。だから――こうする。
「会長。しゃがんでください」
言われたとおりに、膝をつく会長。
一気に間合いを詰めて、俺は蓬髪の脳天を手刀打ちした。
「あっ!」
な? 出来ただろう。
「そ、そうか……これだけの巨人でも、しゃがんでもらえば頭頂部を打てる――! いや、でもっ、それはおかしいぞ祈!」
納得いかない、とばかりに絆が詰め寄ってくる。
「今のは、お前が指示したから会長はしゃがんでくれたんだろ? 犯人にそんな指示をされて、いうとおりにするバカがどこにいる?」
「いや、だからさ」
まだわからないか。
「最初っからしゃがんでたんだよ」
「さいしょから……?」
そう。
会長は元々しゃがんでいた――その状態で、背後から襲われたのだ。これが、もっとも無理がない《巨人の頭頂部襲撃事件》の解釈だろう。
「でもさあ、どうして、しゃがんでいたんだよ?」
「さあ……?」
そればっかりは、本人に思い出してもらうしかない。
もうその必要はないのに、会長は、賽銭箱の前で膝をついたままじっとしていた。
「――五百円」
「会長?」
どこか普通でない様子に、門脇さんが心配そうに巨人を仰ぐ。
「五百円……そうだ、五百円!」
静寂の神社に、しわがれた老人の叫びが響いた。
門脇さんが驚いてのけ反っている。とうとう狂ったか? いい加減、不安も最高潮になってきたところ、会長はすっくと立ち上がった。
「あったぞー!!」
表彰台に上った選手のごとく、誇らしげな表情で振り向く。
その手は、メダル――ではなく、シルバーのコインが握られていた。
「思い出したよ! 除雪してる途中、せっかくだから私も参拝しておこうと思ったんだ」
会長はぎょろりとした目を輝かせながら話す。
「賽銭箱の前で、五円玉を財布から取り出そうとしたら、誤って五百円玉を落としてしまってね……それを拾おうとして、しゃがんでいたんだ」
ぺろり、と舌を出す会長。皆呆気にとられていた。
せこい。せこすぎる!!
しゃがんでいた理由はわかったが、こんなに下らない理由だったとは。
しかし、ひとつの状況が確定した。
会長は落とした硬貨を拾おうとして、賽銭箱の前にしゃがんでいたところを、背後から襲われたのだ。
襲撃によって、会長は賽銭箱に額を打って流血――賽銭箱の血はそのとき付いたものだろう――、そして昏倒したのである。
こうしてあの発見時の状態が出来上がった。
「ストップ。まだ確認したいことがある」
頭の中で状況を整理していると、絆が制してくる。
「犯人の攻撃が、会長が額を打つよりも前だったかどうかは決められないんじゃないか?
会長が、自分で転んで額を打った方が先だったという可能性も捨てきれないだろ」
「No goodだな」
「何で?」
「額を打った会長を、さらに襲う理由はなんだ? 念には念をいれたかったから? まあいいだろう。でも、考えてみろよ」
寒さが身に染みてきた。白い息を吐きながら俺は続ける。
「額を流血するほど強く打った会長は、どういう状態になると思う――? まず、立ってはいられない。仰向けかうつ伏せ、どちらの体勢でもいいが、倒れることになる。想像してみろ。横になっている相手の頭頂部を打つことは難しいぞ」
説明された絆は、頭の中でシュミレーションしているのか、せわしなく表情を動かしている。
ハンマーのような武器だったら可能か。
が、横方向にスイングするよりも、上下に振り下ろした方が、明らかに力が込めやすい――すでに負傷している額にめがけて、凶器を振り下ろした方がよっぽど効率的だろう。
「無理に頭頂部を打たなくても、攻撃する部位は他にもたくさんある。会長が額を打って倒れた後に、攻撃がされたっていう順序はやっぱり不自然だよ」
「……ぐ、そうか」
狐顔を歪ませて、絆は悔しそうに呻いた。
順序が、状況が、確定されていく。しかしまだ謎は多い。
犯人は誰なのか、今どこにいる? 凶器は?
そして――動機は?
07 犯人はお前だ【推理編3】
推理小説は好きだ。
でも、そこに出てくる『名探偵』というものを、俺はあまり信用していない。
思うに、奴らは幸運に恵まれ過ぎているのだ。
たとえば推理が行き詰ったりする――と、身近な誰かが解決のヒントになる発言をしたり、重要な証拠品が見つかったりする。
それは、あまりに都合が良すぎる展開じゃなかろうか?
「あっ!? なんだべ、これ!」
……お? 境内を囲む林に入って、何やら探索していた門脇さんが妙な声をあげた。
「何か見つかりましたか!?」
意気込む絆に、拾い上げたものを掲げて見せる。
「絵馬? どうしてこんなところに捨ててあるんだか」
ガックリと肩を落とす絆。なんだアレか。
「ああそれ、拝殿に飾ってあったんです。でも、祈が……」
花凛がこちらを睨んでくる。なんだその冷たい目は。言っておくが、俺は絵馬を捨てたことを一つも後悔してないぞ。
「ふうん。前の晩は、こんなもん飾ってなかったのになぁ……『ずっと一緒にいられますように』だって。ははっ……名前が書いてあるぞ、どれどれ」
同級生カップルが残した絵馬を、門脇さんはニヤニヤしながら眺めている。ほら、こういう恥ずかしいことになるだろう。
「オジサン。今、前の晩に絵馬は無かった――って言いましたよね?」
「? ……ああ」
絆がまた閃いたようだ。
「ってことは、これは今朝に飾られたってことか。まさか……響と笑美が朝から潜んでいて、会長を襲って……まだここに隠れているんじゃ?」
ヤツが喋り終わるよりも先に、俺は電話をかけていた。
「ああ、響、久しぶり。今、どこだ? ――家か。……笑美も一緒にいるんだな? いや、立て込んでるときに悪かったな。じゃあな」通話終了。「いたぞ、ふたりとも家に」
「笑美も一緒にいたの? 私も話したかったなぁ」
花凛がうらやましそうに呟くが、冷めた気分で俺は答える。
「いや、直接話したわけじゃなくて、声が聞こえただけなんだ」
喘ぎ声が。
何かを察したのか、ニマリとした絆が「姫はじめってやつだな」と、例によって下品な古い言い回しをした。が、花凛は意味がわからなかったらしく、今回はスルーされた。
まあ――現実はこんなもんだ。
重要な手がかりなんて、都合良く見つかるわけがない。てか、イチャついてる最中に電話出るな! いちいち腹立つ奴らだな、クソっ。
「はいはい、刑事ごっこはそこまでだ」
門脇さんが小さな手をぱんと叩いた。
「寒くなってきたし、そろそろ皆帰ったほうがいいべ。会長も、そのケガ、病院で診てもらった方がいいんじゃないかな」
「うむ。じゃあ、そうさせてもらおうかな」
樫葉会長は額のキズに手をやって痛そうに顔を顰めた。
「ちょっと、待ってください!」
帰ろうとしている大人たちに向かって、絆が叫ぶ。
「まだ会長を襲った犯人がわかってないのに。このままでいいんですか!?」
「大丈夫。泥棒だか暴漢だか知らないが、さっきから林の方を見回っているけど、人っこひとり見かけねえ。念のため、おれが巡回しておくから。君たちはもう帰りな」
風邪ひくぞ、と門脇さんが絆の薄い背中を押す。
駐車場でエンジンがかかる音がした。視線を送ると、樫葉会長が二台停まっているうち一台の軽トラックに、巨体を屈めて乗り込むところだった。
西木幌町のメシアが早々と去っていく様を見ながら、俺は、夢から覚めた心持ちでいた。
どうして探偵の真似事なんてしてしまったんだろう……?
事件の真相が何だ。そんなのどうでもいいじゃないか。
好奇心だけで動ける絆と違って、俺は私利私欲のためにしか動かないのだ。
「せっかく事件の状況を突き止めたっていうのに。犯人はわからず仕舞いかよ!」
狐目を吊り上げて、絆が怒っている。なんて熱い男だろう。幼馴染ながらに感心する。
「他のアプローチから何とかならないかな? そうだ、凶器! 脳天を打たれているから、やっぱり棒状のものとか」
なあ、と情熱的な似非探偵に肩を叩かれる。
「さあ? 少なくとも、殺意はなかったんじゃないか」
「……殺意。そうか、殺すつもりならナイフとか、もっと殺傷力の強い凶器を使うはずだ。脳天を打っただけで済んだということは、殺す気はなかったってことだな。で?」
――で? 俺は両手を上げる。お手上げのポーズだ。
「それ以上はわからん。興味もないし」
「なんだよ頼りないな!」
何とでも言え。俺のやる気ゲージはゼロを振り切ったんだ。
車道と石段、どちらの道から帰ろうか迷っていたら、花凛が石段の方へ歩きだしたので、それに付いていく。早く帰って、暖房の効いた部屋でアイスクリームでも食べたい気分だった。
「動機は? うーん……会長が背中を向けてしゃがんでいたから、襲うには絶好のチャンスだったっていうのは理解できるとして」
「チャンスだと? 本当にそうだと思うか?」
「へ?」
「絆が犯人だったら、会長をどうやって襲う?」
雑談に付き合ってやるつもりで、適当に話題を振る。
「そうだな。社務所の陰に隠れて、こっそり忍び寄って……こう!」
武器を振り下ろす動作をする絆。俺は振り返らないまま答える。
「上手くいけばいいけどな。途中で気づかれたらどうする? たとえば、階段の真下あたりで。そうなったら、ただでさえ馬鹿デカい会長が、段上にいる状況で向き合うことになるんだぞ――壇上の巨人と。メチャクチャ怖いぞ」
「……それはそうかもしれないけど。気づかれず背後にいるんだから、やっぱり襲うにはチャンス!と感じるんじゃないかな?」
「背中を見せている瞬間だったら、その前にもあっただろう。思い出せ。会長は襲われるまで何をしていた?」
絆がはっとした表情になる。
「――除雪か。なるほど! 除雪をしていたなら、作業中に隙が出来る。腰をかがめる瞬間もあっただろうし」
実際にやってみるとわかるが、除雪作業というのは結構な重労働である。
スコップで雪を掻く音で、周囲の音は聞こえづらくなるし、背後から誰かに襲われても気づけないこともあるんじゃなかろうか。
「それに、あの拝殿に上がる階段。足をかけるたび軋む音がするだろう」
「昔遊んでたときは、そんなことなかったのにね。老朽化したんだね」
花凛が思い出したように口を挟む。
「もし、会長を襲おうとチャンスを狙っている犯人だったら、当然気づいたんじゃないかな? あの階段が軋むってことを――。だって、会長が階段を上がるところを見ていたはずなんだから」
あ、と絆が声にならない悲鳴を漏らす。
「そうか! あんなギシギシ音がしたら、会長に気づかれちまう! ……妙だな。犯人はそこまで気が回らなかったのか」
「難しい話じゃない」
地蔵のように立ち止まって動かなくなった絆を振り返る。
「犯人は、会長よりも先に神社に来て、余裕をもって背後を狙っていたわけではない――ってことだ。会長よりも後に着いて、犯人が最初に見た光景が、『賽銭箱の前にしゃがんでいる会長』の姿だったんだ」
「でも、それじゃあ……」
絆の不安げな声が、どこか遠くで聞こえているように感じた。
雑談に付き合う程度のつもりだったのに、これから俺は何を明らかにしようとしてるんだろう?
何を指摘しようとしているんだろう?
「賽銭箱の前にしゃがむ会長を見て、すぐに襲ったっていうのか? なんでだよ。全然意味がわからない……あ!!」
真相にたどり着いたか――。
頬を紅潮させながら、絆が「わかった」と息を弾ませる。
「やっぱり犯人は賽銭泥棒だったんだな! 自分が狙っている賽銭箱を横取りされると思って、あせって会長を襲ったんだ!」
「はあ!!?」
きっとコイツには、やる気のない探偵を舞台に引き戻す、天然のワトソン属性があるに違いない。
脱力しながら、俺はおもむろに口を開いた。
「ここに来る途中、お前らは、町内で空き巣騒ぎがあったことを話していたな。俺は知らなかったけど」
「なんだよ、いきなり。それがどうした?」
急かしてくる絆。ひとつ息を吐く。
「空き巣騒ぎに、怒って警戒している――そんな人間が、たとえば、だ。
神社の賽銭箱の前にしゃがみこむ怪しい男の姿を見たら、どう思うだろう? 賽銭泥棒と勘違いしても、無理ないんじゃないかな」
賽銭泥棒――。
今日は随分と、その存在に振り回された気がする。
目的とあらば暴力もいとわない、恐ろしい泥棒――暴漢が潜んでいるなどと、怯えさせられもした。
しかし、実際にそんなものは存在しなかった。
皮肉なことに、襲われた樫葉会長こそが――《賽銭泥棒》と勘違いされていたのだ。
「じゃ、じゃあ、犯人は会長を賽銭泥棒と勘違いして攻撃したってわけか……!? 青天の霹靂《へきれき》過ぎるぞ!」
「もし、この想像が当たっているとしたら、犯人は消去法でわかる」
絆の表情に緊張が走るのを見ながら、俺は続ける。
「会長を賽銭泥棒と勘違いしたのは、まず、門脇さん――ではない。普段から見慣れている会長を、彼が泥棒と勘違いするはずがないからだ。そして、俺と絆でもない。石段を滑って登り直してきた俺たちは、着いてすぐに、倒れている会長を発見した。時間的余裕がないのは明らかだ。残ったのは……」
振袖でずんずんと先を行く後ろ姿が、ふいに立ち止まる。
振り返った彼女の頬は、寒さのせいかそれとも緊張のせいか、いつもよりも上気しているように見えた。
「犯人はお前だ――花凛」
08 守るためにしたことは【補足編】
「なにか言った?」
振り返った花凛は、いつもと変わらない無邪気な表情だった。
結構デカい声で話していたけど、聞こえてなかったのか……?
いや、それならそれでいいのだ。
俺は首を振る。犯人はお前だ、なんて、幼馴染に言う台詞じゃない。
「――なんてね。ちゃんと聞こえてたよ」
「花凛……」
「わかっちゃったんだね。私がやったこと」
どこか寂しげに告白した花凛。
絆は信じられないというように目を見開いた。
「嘘だろ?」
俺も驚いた。
適当に適当な推理を重ねただけだったのに、それが当たっていたなんて。
「そうか……花凛が西木幌に帰ってきたのは一年ぶりだもんな。樫葉会長のこと、知らなくて当然か」
「樫葉さんっていうか、町内会長が変わったこと自体知らなかった。でも、町内会長を泥棒と間違えるなんて……ひどすぎるよね、私」
絆の呟きに、掠れた声で花凛が返した。
つい一時間程前のことを回想する。
雪に埋もれた石段を上がっていたときのことだ。絆が滑り落ちたせいで、俺と奴は、石段を登り直すハメになった。その間も、花凛はひとり先にずんずんと登っていた。
おそらく想像していたよりもずっと早く、花凛は境内に着いていたんじゃなかろうか。
そして――
「賽銭箱の前に誰かがしゃがんでいて……鍵を壊そうとしているように見えたの。途端に、カッときちゃって……」
薄桃色の着物生地をぎゅっと握る。
「気が付いたら、大きい男が血を流して倒れてた。私、すごく怖くなって……これは夢なんじゃないか、って思った。でも、夢なんかじゃなくて現実で……」
倒れている会長を発見したとき驚いていたのは、まったくの演技ではなかったのだろう。
「だけど、目が覚めた会長は何も覚えてなくて。私がやりました、って謝らなきゃと思ってたんだけど、なかなか言い出せなくて……ごめんなさい」
「本当のことを言えなかったのは、他に理由があるんじゃないのか?」
静かに尋ねると、花凛は、はっとしたように目を見張った後、気まずそうに目を伏せた。
「――そういえば、凶器は?」
とがった顎に手を当てて、絆が疑問を挟んでくる。自由なヤツだ。
「だって、花凛は何も持ってなかっただろ。凶器になるようなものなんて、現場には無かったし」
「あっただろ。『石』が」
「狛犬様の頭か!」
倒れた会長の頭の下に置かれていた石――狛犬像の欠けた頭部――のことである。
「狛犬様で会長を殴ったっていうのか? いや、違うな」
喋りながら、絆は自分の考えを否定する。
「なぜなら、あれは偽装されていた」
なかなかに冴えてきた推理小説マニアに、そうだ、と頷いてやる。
「会長自身が狛犬様の頭をあの場所に置いたということは考えづらいし、実際に石が凶器として使われていたなら、被害者の頭の下に置く意味がわからない。
石が置かれていた理由はひとつ――会長が頭を打ったのは『石のせいだ』と錯覚させるため。つまり、事故に見せかけるための偽装だ」
結果的に、会長のコブが後頭部でなく頭頂部にあったことから、事故ではないということが判明したわけだが。俺はわざとらしく咳ばらいをする。
「――最初から妙だなと思っていたことがある。現場には、絶対になくてはならないものが無かったんだ」
ちらと花凛を見ると、まだ赤い唇を結んだままでいる。
「無くてはならないもの?」
「会長は、除雪作業をしていたところを襲われたんだぞ。除雪に必要不可欠なものがあるだろう」
絆が微かな呻きを漏らした。
「あ! スノーショベルか」
雪かき用スコップ、ともいう。
あの場には、スノーショベルもスノーダンプも存在しなかった。不可思議な状況と言わざるを得ない。
「でも、会長は参拝しようとしていたんだろ? そのとき、スノーショベルをいったん社務所に仕舞ったんじゃないかな?」
「会長は『除雪の途中、参拝しようと思いついた』と言っていた。作業途中にわざわざ道具を仕舞う必要はないだろ。それに、社務所には鍵がかかっていたんだぞ」
額のケガを応急処置するため、会長と門脇さんは社務所に入った。そのとき、会長は懐から鍵を出して、扉を開けていた。社務所の鍵は閉じられていたのだ。
「貴重品じゃあるまいし、鍵までかけて仕舞い込むっていうのは、不自然にも程がある。スノーショベルは元々あの場に在ったんだろう――スノーショベルが凶器だったんだ」
花凛は溜息を吐いた後、慎重に頷く。
「そうよ」
振袖姿の娘がショベルを振りかぶって大男に襲いかかる――そんな場面を想像して鳥肌が立った。なんて非日常な光景だろう。
「凶器として使われたのに、あの場に無かったってことは……どういうことだ? 花凛がどこかに隠した……?」
「多分違うな」
今度こそ、明らかに狼狽したように花凛は肩を震わせた。
「ショベルを隠しただけじゃない、狛犬様を会長の頭の下に置いたり……。そんなことをする余裕が花凛にあったとは思えない。何故なら、花凛は間もなく俺と絆が上がってくることを知っていたから。だから、あれは他の人物の仕業だと考えなければいけない」
スノーショベルが消えていたり、狛犬様の頭部が置かれていることに一番驚いたのは、花凛自身だったんじゃなかろうか――? そして、それをやったのは……
「門脇さん、だろうな」
絆が息を吞むと同時に、脱力したように花凛がうつむいた。
「俺たちの後、境内に着いたように装っていたけど、本当は先に来ていて花凛が会長を襲うところを目撃したんだろう。そして、行動を起こした。会長を襲った人物など最初からいなかった――ということにするため」
「そうよ……」
花凛が苦しげに呻いた。
「あとは何とかしてやるから、友達のところへ戻れって――って。でも、なんで? ……なぜそんなこと?」
張りつめていたものが切れたかのように、泣き顔の花凛は踵を返し石段を駆け上がっていった。俺と絆は慌ててその後を追う。
すごい早さだ。
この運動神経の良さなら、動きにくい振袖姿でも会長を襲うことが出来ただろう。昔からそうだった。花凛は俺や絆よりも、外遊びが好きで運動が得意だったのだ。
境内には、まだ、門脇さんがいた。先刻までその場になかった黄色いスノーショベルで、除雪作業の続きをしていたのだ。
「君たち……帰ったんじゃ?」
ぎょっとした顔で、戻ってきた俺たちを見つめている。
「オジサン、どうして?」
「……」
「どうして……私なんかを守るために?」
今にも泣き出してしまいそうな花凛を見てすべて悟ったのか、門脇さんは力が抜けたように破顔した。
「決まってるだろ。それは、君がこの町の――西木幌の子だからだ」
象のような目で、まぶしそうに俺たちを見回す。
「この町は、人がどんどんいなくなって、学校もなくなって、子どもなんて数人しかいなくなってしまった。君たちは、私たちにとって……いや町にとって、大事な、貴重な存在なんだよ。
君らを守るためだったら、おれは、自分に出来ることなら何でもやる。町内会長なんて誰でも出来るからな。余所から来た人間よりも……君らのことが大事だから」
小柄な老人の迷いない言葉に、絆と花凛は圧倒されたように押し黙っている。
これを聞かされた俺たちは、いったい何を感じるべきなのだろう――?
オジサンには申し訳ないけど、少なくとも俺は、愛郷心を揺さぶられたりしなかった。
余所――か。その考えは間違ってるよ、門脇のオジサン。
俺もついさっき、道外から移住してきたという樫葉会長に対して、同じようなことを思ってしまったけど。
過疎化が進んだこの町がすべきことは、外からの人間やモノを積極的に受け入れることだ。そうしないと、この町は、本当に数年もしないうちに地図から消えてしまうだろう。
「また降ってきたか」
しわがれた呟きに、灰色の雲で覆われた空を仰ぐ。
真冬の西木幌は、放っておけば数日で雪に閉じ込められてしまう。市内で唯一、この町だけが豪雪地帯の指定を受けているのだ。
まるで、外とを遮断するような雪の降り様に、門脇さんが疲れたように溜息を吐いた。
09 祈、離郷する
「門脇のおじさん。俺、今回のことは黙っておきますね」
白髪にまとう雪を払いながら、門脇さんが頷く。
「そのほうがいいだろうな……会長の方は、おれが適当に誤魔化しておくから」
真実を打ち明け、落ち込んでいる花凛に、気遣うような視線を向ける。
「何も気に病むことなんてないべ。いいか? あれは通りすがりの賽銭泥棒の仕業だった。そういうことにしておこう。――な?」
「黙っておく代わりといっては、なんですけど」
うつむいている花凛の代わりに、ふてぶてしい笑みを浮かべて俺はいう。
「オジサンの家にルノワールの絵がいくつかありますね。それをひとつ、譲ってくれませんか?」
「はあ?」
完全に意表をつかれたのか、小柄な老人は目をしばたたかせている。
「祈くん、絵画に興味があるのか。でもなぁ、あれは贋作といっても、結構貴重なもので」
「お願いします。オ西木幌の子のためなら、何でもしてくれるんでしょ?」
「…………わかったよ。一枚だけだぞ」
「ありがとうございます」
渋面を作った門脇さんに、満面の笑みを返す。
おい、と絆に肘で小突かれた。
「お前どういうつもりだよ。門脇のオジサン困ってるだろうが……ん?」
着信音が鳴り出した。絆のスマホだ。誰だよ、とグチりつつ、ダウンジャケットからスマホを取り出す。
「はい。母ちゃん……えっ、マジ!? わかったすぐ帰る!」
「どうした?」
「空き巣逮捕!! 空き巣の野郎、オレんちの納屋に入りやがって、うちの父ちゃんと兄ちゃんに返り討ちにされたってよ! 現行犯逮捕だぜスゲーよ! ってことで、オレ帰るわ!」
狐目を興奮に輝かせながら、脱兎のごとく去っていった。
なんというか、感情の切り替えが上手い男だ。
門脇のオジサンにさようならをして、俺と花凛は石段を下っていく。
雪に埋まった石段を歩くのも今日で何度目だろう。ほんの一時間の出来事だったというのに、どっと疲れを感じていた。
「なんか色々ごめんね、祈」
「ん?」
「私さ……警察官になる夢、諦めるわ」
心細げなその声に、先を歩いていた俺は振り返る。
「どうしてだよ」
「だって、人を殴っておいて知らないフリをしようとしたんだよ。そんな人間、警察官になる資格はないよ」
「まあ、会長が頑丈だったからよかったものの、下手したら死んでたかもな」
「……だよね」
「でも、その行動力とか正義感とかさ。凄いと思うよ。そこは誇ってもいいんじゃないかな」
俺の言葉に、花凛は伏せていた瞳を上げる。
「花凛のそういうところ、俺は尊敬してるよ」
「……祈」
「なんて顔してるんだよ」
少しだけ乱れた髪を、優しく梳いてやった。
「ところで、花凛。お前に頼みたいことがあるんだけど」
そこで、俺は、出来るだけ穏やかで品の良い笑みを浮かべた。
目の前の幼馴染は頬を染めて、惚けた表情をしている。俺は親父似の善人顔に感謝する。
「その振袖なんだけど。――脱ぐとき、俺に手伝わせてくれないか?」
「……え?」
「俺は和服が好きなんだ」
「…………はあ?」
「なぜかっていうと、和服ってのは、きっちり着付けられているように見えて脱がせやすくて隙だらけ――上品さとエロスを併せ持つ最高の衣装だ。それなのに日本の女子ときたら冠婚葬祭とか特別なときにしか身に着けないときている。正直お前に似合ってると思わないけどそれでも目の前にいたらやっぱりチャンスと思うだろ。袂から手を挿し込んだり帯を崩したり紐を何本もしゅるしゅる解いたり襦袢を脱がしたり、それからそれから」
興奮で訳が分からなくなった頃、拳を振り上げている花凛がぼんやりと視界に入った。
「久しぶりに会って少しはカッコよくなったと思ったのに、中身は全然変わってない……っ! このド変態野郎ーっ!」
「!!」
冗談でなく、目の前に星が飛び散った。
後、暗転――
それから、どうやって家に帰ったかは覚えていない。
雪まみれ過ぎて、母ちゃんに驚かれたことだけは覚えている。
+ + +
「事件だ、祈!」
離郷の日。
玄関前で帰り支度をしていると、息を弾ませた絆がやってきた。
「雪男が出たんだってよ!」
「……雪男?」
「神社の階段を尋常じゃない勢いで転がり落ちてきて、雪まみれの姿で走り去っていったんだって。雪男に違いないって、荒巻の婆さんが町内で触れ回ってるぞ!」
「……」
それ、俺。
まだ微かに痛む肘をさすりながら、密かに舌打ちをした。人を妖怪扱いにしやがって。
「今日、札幌に戻るんだってな」
「大学で第二言語のテストがあるからな」
「お前、中国語だっけ? オレと同じくドイツ語を選択しておけば、あと二日はいれたのに。――ところで、あの絵、どうするつもりなんだ?」
「絵?」
「とぼけるな。門脇のオジサンから脅し取ってたルノワールの絵だよ」
脅し取った、なんて人聞きの悪い。
「親父にあげたよ」
「おじさんに?」
「アイツ、にわかの絵画マニアだからな。喜んでたよ。代わりに、カリフォルニアへの旅費をもらう約束をした」
「カリフォルニアって……ああ、米国のお爺さんとお婆さん家に行くのか」
「Yep!」
米国人なのは婆ちゃんで、爺ちゃんは生粋の日本人だが、カリフォルニアの土地が気に入ったらしく、居を構えて暮らしている。
今の俺にとって、あれほど開放的でスリリングな街は無い。
「祈、いくぞ」
軽トラの前で、親父が気取ったポーズで立っている。札幌行のバスが出ているターミナルまで送ってくれるらしい。
でも、一方で――
この町の子だから。ただ、それだけの理由で、無条件に守ってくれるような、そんな閉鎖的な故郷も悪くないとは思うのだ。
「じゃあな」
「おう、また」
数日後には大学で再会するであろう絆と、軽く挨拶を済ます。
遠くでこちらに小さく手を振っている花凛の姿が見えた。
またそう遠くないうちに帰ってくるか。
銀世界に染まった田舎町を軽トラックが通り過ぎていく。
雪に反射した光の眩しさに目を細めながら、ガラにもなく、俺はそんなことを思った。