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虎の穴の殺人

目次

第一章

「現場写真もあるけど 見る?」

 新潟県警本部の会議室で、机を挟んで私たちの対面に座る丸柴まるしばしおり刑事が訊いてきた。捜査一課紅一点の彼女の言う「現場」とは、もちろん工事現場などのことではなく「殺人現場」を意味している。そこ(要は死体)を撮影した写真を、この私の隣に座るうら若き女性、安堂理真あんどうりまに見せようというのだ。
 現役警察官が何の嫌がらせをしているんだと思われるかもしれないが、そうではない。これは彼女たちの間ではごく日常的に行われているやり取りなのだ。丸柴刑事の確認の言葉も、形だけのもの。いちおう相手が民間人のため、死体の写った写真を積極的に見せるのはまずいということでしかない。訊かれた安堂理真も、見なくてもいいです、などと答えるわけがなく、

「見る」

 と、当たり前に即答した。彼女はこの手の写真を目にすることに対して躊躇というものがない。素人探偵たるもの、こうでなくてはいけないと私はいつも感心する。

 探偵の要請に応じて、丸柴刑事が机の上にファイルを広げると、理真はじっくりと穴が開くほど。私は眼鏡越しに、おっかなびっくり覗き込むようにして、それぞれ視線を向けた。理真と違い、私はこの手の写真を目にすることに対して未だに躊躇というものを大いに持つのだ。私は探偵じゃなくてワトソンだからね。
 私の隣に座る女性を「素人探偵」と紹介したが、彼女の本業はそれではない(だからこそ「素人」探偵なのだが)。安堂理真は新潟県新潟市に居を構える作家であり、ひとたび新潟県警管轄内で不可解な事件――いわゆる「不可能犯罪」というやつ――が起きれば、警察の要請に応じて探偵としての捜査協力を行っているのだ。そして、この私、江嶋由宇えじまゆうは、理真が居住するアパートの管理人かつ、高校時代の同級生であると同時に、理真が素人探偵として活動する際には、助手ワトソンとして一緒に現場に赴くのだ。

 理真が写真にじっと視線を落とす中、

「電話口で簡潔にしか伝えてなかったから、ついでに事件についても詳しく話すわね」丸柴刑事は説明を始め、「被害者は、縫原進矢ぬいはらしんやさん。二十三歳。サーカスの調教師見習い」

 丸柴刑事が、被害者の職業を「サーカスの調教師見習い」と呼称したことから分かるように、今回の事件が起きた舞台は、サーカス団の内部だ。
 半月ほど前から「清浦きようらサーカス」というサーカス一座が、新潟市郊外にある大型駐車場に巨大なテントを張って公演を行っている。

 110番通報があったのは、二日前の夜。通信指令センターの記録によれば、午後十時十五分のこと。

「人が死んでいる」

 震える声で携帯電話から通報してきたのは、サーカス団を束ねる、清浦政久まさひさ団長、その人だった。
 現場に駆けつけた警察が目撃したのは、サーカス団ならではというか……ともかく異様な光景だった。
 清浦サーカスは、公演を行う大テントに併設する形で、多くのコンテナハウスを置いて宿営地としている。それらは団員たちの宿舎や、事務所、演目に使う小道具、大道具を保管しておく倉庫などとして使われているのだが、現場となったのは、それらコンテナハウスのひとつだった。他のものより比較して大きめなそのコンテナの使用目的というのが。

「……虎」

 理真が呟いた。そう、このコンテナは、サーカスの演目で使役する虎の飼育を目的として置かれているものだ。理真がその動物の名を呟けたのは、事前に電話で事件の概要を聞いていたためではあるが、彼女が見ている写真にも、まさにその虎が映っている。
 丸柴刑事が見せてくれたのは、被害者の死体を撮影した写真ではあるが、そこに虎が映り込んでいたとしても無理はない。なにせ、被害者、縫原進矢の死体は、その虎の檻の中に仰臥ぎょうがした状態で発見されたからだ。
 私も覚悟を決め、(なるべく死体そのものに焦点を合わせないようにして)写真を詳しく見る。檻の大きさは、平面にして五メートル掛ける三メートルほどで、高さは二メートル程度の直方体をしている。コンテナハウス内の角にぴたりとくっつけて配置されているため、長辺と短辺それぞれ一面ずつはハウスの壁と接している。檻の奥隅に一頭の虎がちょこんと座っており、そこから二メートルほどの距離を置いて、被害者である縫原の死体が横たわっている形だ。
 この説明からすれば、被害者の死因は虎に襲われたことによるものだと、誰もが真っ先に頭に思い浮かべるだろう。理真も私も、事件の第一報を聞いたときはそう思った。だが、それは違う。死体を見れば(結局見ちゃったよ)明らかだ。被害者の頭から、何やら細長いものが突き出ている。それも二本。この写真からだけでは、それが何であるかの判別をつけるのは難しいが、被害者の頭部をアップで撮影した別の写真に目を移してみれば、その正体が分かる。被害者の頭から突き出ているもの、それは矢だ。一般的に想像する“矢”よりも短いのは、これが“クロスボウ”用の矢であるためだ。クロスボウから放たれた矢が頭に突き刺さったことによる脳損傷、それが被害者、縫原の死因だった。
 矢がクロスボウのものであると記したことは、当然推測などではない。クロスボウそのものが現場に残されていたのだ。死体の他に、一台のクロスボウが写った写真も添付されている。さらに言えば、このクロスボウの出所も判明しており、この清浦サーカスの演目で使用されている小道具だったことが確認されている。
 死体、凶器に加えて、さらに言えば――理真がファイルのページをめくった。ひとりの男の写真が現れる。

「この人ね」

 理真の言葉に丸柴刑事は頷いた。そう、今度の事件では、“死体”と“凶器”に加え、現場には“容疑者”までもが残されて(という言い方は変だが)いたのだ。

古佐野こさの兼高かねたかさん、三十歳。清浦サーカスで道化師、いわゆるピエロをしているわ」

 丸柴刑事が、最有力容疑者である男の情報を口にした。
 写真の男、古佐野は、やせぎすで目つきも鋭く、陽気なピエロに扮する姿が全く想像つかない外見をしている。とはいえ、世間では「ピエロ」という存在に対して、いうほど陽気で明るいイメージを持っていないのではないかと思う(私もだ)。世界的に有名なピエロに扮した殺人鬼もいたし、本邦においても、明智小五郎あけちこごろう先輩が解決した『地獄じごく道化師どうけし』事件など、ピエロと凶悪犯罪を関連付ける事件は枚挙にいとまがない。と、今はそんなことは関係ない。丸柴刑事が事件発覚の概要を聞かせてくれるようだ。理真に倣って、私も耳を傾けることにしよう。いつものように、ワトソンの仕事としてメモをとりながら。

「通報があった日は、サーカスの休演日だったんだけど……」

 その日、公演が休みであることから、団員たちは市内繁華街の飲食店で飲み会を企画していた。多くの団員が参加予定であったが、団長の清浦政久は、興業主催者である地元企業の重役たちに誘われ、団員たちとは別の飲み会に参加することになっていた。
 参加者が高齢者主体だったということもあり、清浦団長出席の飲み会は比較的早くに終了し、彼が宿営地であるサーカス会場に帰ってきたのは、時間にして午後九時四十分頃だったという。いつもは団員たちで賑わう宿営地も、この日はほとんどの団員が飲み会に参加しているため、ひっそりと静まりかえっていた。
 清浦は就寝前に、大テントも含めた一連の敷地内の見回りをするのが日課となっていた。というのも、数日前の夜中、公演で使用している敷地内に一般の侵入者があったためだ。侵入者は高校生で、窃盗などが目当てではなく、虎を間近で見たかったことが侵入の目的だったと語っていた。何でも、数日前にサーカス鑑賞に訪れ、芸をする虎の姿に感動を憶え、どうしても間近で見たくなったのだという。その高校生は無類の動物好きのとして周囲に知られていたという。しかし、虎を飼育しているコンテナには常時施錠がされているため、虎を見るという目的は達せられることないまま、団長に見つかってしまったのだ。こういう事情を鑑みて(施錠のされていなかった倉庫などに侵入した形跡はあったが、金品窃盗などの被害はなかったことが確認されたという。そのため、団長も被害届を出さないことにした)、警察もその高校生には厳重注意で済ませ、団に対しても、夜間の見回りをしっかりと行うよう指導をするにとどめた。
 このことがあってから、団長は毎夜懐中電灯片手に、就寝前の敷地内見回りを欠かさないようになったというわけだ。この日は飲み会からの帰りでほろ酔い気分だったため、少し休憩を挟むことにして、十時過ぎになってから見回りに出たという。
 異変に気づいたのは、虎が飼育されているコンテナに近づいたときだった。

「中から物音が聞こえました」

 聴取において清浦団長はそう証言した。飲み会に参加しなかった団員が中で作業でもしているのだろうか? 団長はそう思い、足音をコツコツと響かせながら、コンテナの出入り口に近づいた。ちなみに、このコンテナは通常の出入り口の他、数箇所に窓もあるのだが、虎の檻の他に、普段使用しない道具をしまっておく荷物置き場としても利用されており、それらの詰め込まれた道具によって、窓は全てが塞がれたような状態になっていた(本当は防災的にはアウトなのだが)。そのため、このコンテナに出入りするには、ひとつしかない出入り口ドアを使うしかない。
 ドアのノブを掴んで回した清浦団長は、ドアに施錠がされていなかったことに対して、「やはり団員の誰かが中にいるのだ」と思ったという。というのも、猛獣がいるという特性上、このコンテナのドアには必ず施錠をする決まりになっていたためだ。その鍵が開いているということは、イコール、中に誰かがいるに違いないという理屈だ。しかし、ドアを引き開けて覗き込むと、コンテナ中には照明が灯されていなかった。確かに物音を耳にしたのだし、施錠がされていないことも含め、中に誰かいるのだとばかり思っていたのだが、だとしたら照明が点されていないというのはおかしい。コンテナ内は全ての窓が荷物で塞がれた状態のため、月明かりが入ってくることもなく、中を照らす光源は団長が手にした懐中電灯だけだった。
 物音、解錠されていたドア、点っていない照明。これらのことを怪訝に思った団長は、出入り口付近の壁に設置されたスイッチを手探りで探し出して押し込んだ。コンテナ内に照明の明かりが満ち、清浦団長の視界に入ってきたのは、詰め込むように置かれた雑多な荷物、そして虎の檻。その中では、いつものようにプレダキング(虎の名前)が丸くなって眠っており……。
「ふぁっ!」というおかしな声を上げて、清浦団長は懐中電灯を取り落とした。檻の中にいたのは、プレダキングだけではなかった。男がひとり倒れている。顔を向こうに向けて仰臥しており、その体はぴくりとも動いていない。頭から突き出ている二本の細長いものがクロスボウの矢であることは、団長もすぐに分かったという。この状態から考えるに、檻の中に横たわっている人物がすでに死んでいることは明白だ。いったい何者であるか、よく顔を見て確認しようとした団長だったが、檻に駆け寄ることは躊躇した。なぜなら、檻の扉が開いていたからだ。全開していたわけではなかったが、檻の鉄格子の一部を切り取るように設置された扉が、僅かに開いているのが確認できた。プレダキングは腹部を上下させ、すやすやと眠ってはいるが、この状況で鉄格子に接近するほど清浦団長は豪胆ではなかった(悲しいことに、プレダキングは団長である清浦氏には、あまり懐いていないそうだ……)。
 さらに観察すると、檻の中に倒れた死体のそばには、二本の鍵が落ちているのが見えた。団長も見憶えのある鍵で、檻の扉の鍵と、このコンテナ自体のドアの鍵に間違いなかった。それを使えば猛獣の檻に施錠を行い、自身の安全を確保することが可能とはなるが、鉄格子に近づくことすら困難を極めるというのに、鍵を拾いに檻の中に身を投じるだけの胆力を絞り出すことは団長には不可能だった。ともかく団長は、携帯電話を取りだして110番通報を行った。
 最初に書いたとおり、この通報がなされたのは午後十時十五分のこと。事件か事故かを尋ねる職員の声に、清浦団長はささやくような小声で応対した。眠っているプレダキングを起こしてしまわないようにという配慮だったらしい。死体を発見したこと、場所、自分の氏名を震える声で告げ終えた団長は、通話を切ろうとしたところで、声に続いて体をも震わせることとなった。物音を耳にしたためだ。そこで団長は、そもそも自分がこのコンテナに入ろうと思ったきっかけを思い出した。その音は檻の反対側、雑多な荷物が置かれた辺りから聞こえてきた。直後、積まれていた荷物の一部が崩れ、再び団長は声を上げた。荷物が崩れたことが直接の原因ではない。その向こうに、身を潜めるように屈み込んでいた男を見たためだった。死体の人物とは違い、団長はその隠れていた男が何者であるかを容易に知ることが出来た。男は生きており、しっかりと団長と目を合わせたからだ。
 サーカス団に所属する、ピエロの古佐野兼高が、青い顔をしてそこに屈み込んでいた。さらに団長は、崩れた荷物の中に、あるものが混じっていたことも目にしていた。サーカスの演目で使用しているクロスボウと、数本の矢が散らばっていたのだった。


第二章

 話を終えた丸柴まるしば刑事は、傍らにある紙コップを口元に運んだ。中身は温かいブラックコーヒーだ。

「ということは、丸姉まるねえ」対する理真りまも、自分の紙コップを手に取り、コーヒーを喉に流し込んでから、「サーカス団員でピエロ役の古佐野こさのさんは、クロスボウを使って被害者である縫原ぬいはらさんを殺害。現場を離れようとした直後、彼にとっては運の悪いことに、見回りをしていた清浦きようら団長が、現場であるコンテナハウスに近づいてきた。このまま外に出ては、現行犯で即お縄になってしまうため、古佐野さんは照明を消したうえで、一旦現場の荷物の陰に身を隠して清浦団長をやり過ごそうとした。ところが、縫原さんの死体を発見した団長は、すぐに110番通報をし、そのまま現場に留まった。そこに、身を隠していた荷物が崩れてしまったことで、古佐野さんはその姿を露わにする羽目に陥ってしまった。と、事件の概要は、こういうこと?」
「現状をありのまま捉えると、そうね」
「照明を消して隠れたはいいけど、そこまでするならドアに施錠もするべきだったと思うけど?」
「ああ、そのコンテナのドアは、外側からしか施錠できないのよ。内側から鍵を操作できるようだと、万が一虎が何かのはずみでドアを解錠してしまう可能性もあるからだって。檻に加えて二重のセキュリティを施していたってわけね」

 その処置は頷ける。理真の実家に『クイーン』という名前の三毛猫がいるが、この猫はレバー型のノブに飛びついてドアを開けてしまうことがある。猫の前足というのは、丸っこくてかわいいけれど、意外と器用なことが出来るものだ。同じネコ科の虎も油断は禁物だろう。それに加えて、猫と虎とでは断然パワーが違う。

「そういうことか」と理真は答えて、「じゃあ、古佐野さんは施錠は諦めて、団長が何事もなくコンテナの前を素通りしてくれることを祈っていた。ところが、運悪く物音を立ててしまい、団長の気を引く結果になってしまったと」
「うーん……始めは警察もそう考えたんだけどね」
「なに? 何かあるの?」
「関係者の証言をまとめると、ちょっとおかしな点が浮かび上がってきてね。まあ、それはあとで詳しく話すから、とりあえず、今は死体の諸元を聞いてみて」
「わかった」

 理真が素直に応じると、丸柴刑事は、

「まず、死体のあった場所」とファイルのページを戻し、当該写真に指を添えながら、「死体は、サーカスで飼育している虎――種類はベンガルトラで、名前は『プレダキング』だって――の檻の中で発見された。頭部を奥、足を扉側に向けた仰向けの状態で」

 理真と私も、改めて写真に目を落として頷く。被害者は、ほとんど頭頂部が奥側の鉄格子に接触しているような状態で仰臥している。丸柴刑事は続けて、

「死因は、クロスボウの矢を頭部に受けたことによる脳損傷。頭部には矢が二本突き刺さっていた。死斑の現れようから見て、死体に動かされた形跡はなし。矢は、現場で発見されたクロスボウから射られたものとみて問題ないと思う。拳銃から撃たれた弾丸と違って、矢には線条痕みたいな“印し”は付かないけど、クロスボウなんて、そこらで気軽に調達できる代物じゃないからね。矢のほうも、サーカスで使っているもので間違いないと確認が取れてるわ」
「なるほど」と理真は写真から顔を上げて、「いちおう訊くけど、矢は間違いなく“発射”されて刺さったもの?」
「そう」

 理真の発言は、矢がクロスボウなどの射出装置を使わず、手で握るなりして、直接被害者に突き刺されたのではないか、という可能性を考慮してのことだ。現代の法医学では、傷口の状態から、矢が発射や投擲されて刺さったのか、手で持って突き刺されたのかの違いまでも判別可能なのだ。もっとも、素手で矢を突き刺して硬い頭蓋骨を貫通させるというのは、かなりの腕力が必要とされるだろうが。

「それとね」丸柴刑事は続けて、「被害者は、檻の中で立っていたところじゃなくて、最初から仰向けに寝ていた状態で、頭部をクロスボウで射られたのだと見ているわ」
「虎がいる檻の中に寝転んでいた? いくら被害者が調教師だったからって、さすがにそれは……」

 理真が頓狂な声を上げる。私も当然意外に思った。何が悲しくて、わざわざ猛獣の寝床で横にならなければいけないのか。

「正確には“調教師見習い”ね」と被害者の肩書きを訂正してから、丸柴刑事は、「そう推理した理由は三つ。まず、矢は二本ともほぼ床と水平の角度で突き刺さっている」

 それは写真を見れば一目瞭然だ。確かに丸柴刑事の言葉どおり、二本の矢は、どちらも床面から数十センチの高さの位置に、床と水平に被害者の頭部に突き立っている。

「ということは、犯人は、スナイパーが狙撃をするときのような、腹ばいの姿勢になって檻の外から被害者を射たってことね」

 理真の言葉に丸柴刑事は頷いた。なるほど、床に横たわっている相手の頭部を狙うのであれば、そうするのがもっとも合理的で命中精度も高いだろう。

「もうひとつは、現場の壁の下側――ちょうど被害者の頭部がある高さ――に矢が刺さった痕跡がいくつか発見されたから」
「それって」
「そう、犯人が“射撃練習”をした痕跡だと見られてる。標的――被害者の頭部――と同じくらいの距離を狙って、クロスボウの命中精度と自分の腕がどれくらいかを図って、何度か射撃練習をしたのではないかと。拳銃と違って、クロスボウなら一度撃った矢を回収して再利用できるしね。おまけに、火薬の破裂のような大きな音もしないし。二本命中させたのは、確実にとどめを刺すためという狙いからかもね」

 丸柴刑事の言葉に、そら恐ろしいものを感じた。彼女の考えが正しいのであれば、犯人には「確実に被害者を殺しめる」という徹底した執念があったということだ。

「そして最後、三つ目、被害者の体内から睡眠薬が検出された」

「なるほど」と理真も納得した声を上げ、「そもそも、被害者が、どうしてむざむざ虎の檻の中なんていう危険な場所に横たわっていたのか、その謎が解決されるってわけね」
「そうなの。縫原さんに充てられているコンテナハウスの個室に飲みかけのジュースがあって、その中からも同じ睡眠薬が検出されてる」
「ということは、縫原さんは犯人に一服盛られて、眠ったところを虎の檻の中に運び込まれた、と」
「そう考えていいと思う。で、次に死亡推定時刻なんだけど、午後九時四十五分から十時十五分の三十分の幅が取られたわ。110番通報の記録が十時十五分だから、清浦団長が被害者を発見したのは、死亡したまさに直後だったわけね」

 それを聞いた理真は、数秒考え込むと、

「……ねえ、丸姉、現場の状況を考慮すれば、死亡推定時刻はさらに狭められる――というか、かなりピンポイントに限定されるんじゃない?」
「聞こうか」

 理真のその発言を予見していたのか、丸柴刑事は特段驚いた様子もなく、理真に話の続きを促す。それを受けて、理真は、

「それはもう、“古佐野さんが現場に身を隠していた”という事実に尽きるからだよ」
「どうして?」
「だって、そもそも古佐野さんは、なんで現場に隠れていたのか。何者か――団長だったわけだけど――がコンテナに近づいてくることが分かったからだよね。足音を耳にするかして。それで、“今コンテナを出たら、間違いなく近づいてくる人に見つかる”と思ったからこそ、現場に身を潜めてやり過ごそうとする選択をしたわけでしょ。ということはだよ、古佐野さんは、そのときまさに、“縫原さんを殺害した直後”だったことになる」
「どうしてそう思うの?」
「当たり前のことじゃん。だって、“被害者を殺害したら、すみやかに現場を去る”でしょ、普通。仮に、縫原さんが殺されたのが死亡推定時刻上限の九時四十五分きっかりだったとしようよ。そうだったら、団長が現場コンテナを訪れた十時十五分には、もうとっくに古佐野さんは現場を離れていたはずだよね。でも実際、古佐野さんは現場に隠れ潜んでいた。それはつまり、殺害後に現場を離れる時間的余裕がなかったから。よって、団長が死体を発見、通報した十時十五分という時間は、被害者が殺害された直後の時刻だということになる。つまり、死亡推定時刻は十時十五分直前と考えていい」

 理真の話を丸柴刑事は黙って聞いていた。もちろん私も聞いていたが、理真の言葉には特に異論を挟む余地はないように思える。

「でもね、理真」と丸柴刑事は、「ここで、さっき言った“おかしな点”てのが出てくるわけ」
「聞こう」

 攻守交代とばかりに、今度は理真が聞き手に回る。
 ちなみに、刑事に対して随分とフランクな口調と態度の理真だが、これには理由がある。理真と丸柴刑事は、素人探偵と刑事という関係を抜きにしても、古くからの知り合いで友人同士なのだ。先ほどから理真が口にしている「丸姉」という愛称からもそれは伝わってくる。仮に、この場に他の警察官でもいれば、理真もさすがに「丸柴刑事」と改まった呼び方をするだろうが、今、私たちがいる会議室には、この三人以外に誰の姿もない。それと、理真の呼び方からも分かるとおり、丸柴刑事のほうが理真(と私)よりもいくつか年上だ。
 ――閑話休題、丸柴刑事の話に耳を傾けよう。

「発見されたクロスボウは、普段は現場とは別の場所に保管されているものなの」
「じゃあ、古佐野さんが、それを凶器として使用するため、現場に持ち込んだってことね」
「そう思われてる。で、倉庫から現場までクロスボウを持ってきた、おおよその時間も分かってるのよ」
「どういうこと? その時間に何か問題があるの?」
「そう。あのね、現場と、クロスボウが保管されている倉庫との間を往復するためには、団員や従業員たちの宿舎用コンテナ群のただ中を通っていく必要があるのね。で、さっきも言ったけど、その夜は団員や従業員のほとんどが飲み会に出ていたんだけれど、不参加で宿舎に残った人も何人かいたの。そのうちの二人が、外を小走りに移動する足音を聞いたって証言してるの。音の聞こえ方からして、ちょうど虎の檻のコンテナと、クロスボウが保管されている倉庫との間を往復したようだと」
「それが、犯人、つまり、古佐野さん?」
「二人とも、わざわざカーテンを開けたり、外を覗いたりしたわけじゃなかったから、何者かまでは分からなかったそうなんだけど、まあ、普通に考えて犯人のものと見て間違いないわよね」
「そうだね」
「で、問題なのは、その足音を聞いたっていう時間なの。二人とも、午後九時四十五分くらいだったと証言してるのよ」
「それって、死亡推定時刻の上限……」
「そうなの。その時刻――午後九時四十五分――に凶器を取りに行って現場に戻ったのだとしたら、古佐野さん――があくまで犯人だとして――は、被害者を殺したあと、三十分間も現場に留まり続けていたか、凶器を持ってきたのち、三十分も時間を空けてから被害者を殺したということになる。どちらにせよ、解せないでしょ」
「前者なら、殺したあとに何かやる必要があって、そこに団長が接近してきたから。後者なら、殺す前に何かをやる必要があって、それが終わって実際に殺害を遂行した直後に団長が近づいてきたから。それぞれ現場に身を隠すことになった、と。古佐野さんは、そこのところについて何か証言はしてるの?」

 その話題になると、丸柴刑事は、はあ、と小さなため息をついて、

「それがね……容疑者の古佐野さんがね、犯行を全面否認してるのよ」
「往生際が悪いだけなんじゃないの?」
「最初は私たちもそう思ったんだけどね」
「何か変だと?」
「そう」
「どんなにど突き回しても白状しない?」
「そうなのよ、あんなにしぶとい犯人は久しぶり……って、おい!」丸柴刑事は理真の肩を手の甲で叩いてから、「あのね、今は警察の取り調べでは、そういうことは絶対にやってないからね! 人聞きの悪いこと言わないでよ」
「人聞きって、ここには私たちしかいないじゃん」
「とにかく……」と、ノリ突っ込みという器用な芸当をやってのけた丸柴刑事は、「聴取を続けているうちにね、どうも変だなと」
「現場にいたことについて、古佐野さんは何て証言してるの?」
「たまたま現場に行ったところで、縫原さんの死体を発見したって。それだけ」
「荷物の裏に隠れていた理由は?」
「死体を発見して呆然としていたところに、コンテナに近づいてくる足音が聞こえてきて、このままだと自分が犯人にされると思ったからだって」
「救急なり警察なりに通報しなかった理由は?」
「気が動転してたからだって」
「現場に凶器のクロスボウがあったことについては?」
「知らぬ存ぜぬの一点張りね」
「現場と倉庫とを往復したことについては?」
「そんなことしてないって」
「現場を訪れたのは、たまたまだと言ってるそうだけど、そもそも古佐野さんが虎の檻のあるコンテナを訪れることは、頻繁にあったの?」
「そんなことはなかったみたい。そのコンテナに用事があるのは、ほとんど調教師だけだって」
「やっぱり、めちゃ怪しいじゃん」
「そうなんだけどね……。古佐野さんは、何を訊かれても『気が動転していた』とか『知らない』とか言ってはぐらかすばっかりなんだけど、二言目には必ず『殺したのは自分じゃない』って、とにかくそれだけは譲らないの」
「現場で何かやましいことをしていたんだけど、殺人だけは自分の仕業じゃない、っていうふうに取れるね」
「でしょ」

 ここで丸柴刑事は、また深いため息をついた。黙秘を貫く容疑者に相当手こずっている様子が目に浮かぶ。


第三章

「それとね」と丸柴まるしば刑事は、「古佐野こさのさんには縫原ぬいはらさんを殺す動機もあった。古佐野さんは、縫原さんから結構な額の借金をしていたみたい。古佐野さんが縫原さんから返済の督促を受けたり、それについて言い争いをしているところを目撃したっていう証言も、何人かの団員から得られてる」

 それを聞くと理真りまは、

「死体、凶器、現場には容疑者、その容疑者には被害者を殺す動機まである。普通に考えたら、すべてそろった決まりの案件だよね」
「そう。異様すぎる死体の状況と、容疑者の全面的犯行否認および黙秘、加えて、さっき理真も指摘した、凶器の持ち込みと容疑者発見時刻の齟齬、これらの要因が、この事件を一筋縄ではいかないものにしちゃってるのよ、城島じょうしま警部が理真を頼りたくなったのも理解できるでしょ」

 今ほど丸柴刑事が口にした「城島警部」とは、理真や私とも懇意にしている、捜査一課でも古株の刑事だ。管轄内で起きた事件に対して、素人探偵である理真に協力を要請するかどうかの判断は、主に城島警部によってなされている。
 理真のもとに持ち込まれる事件は、ガチガチの密室の中で明らかな他殺体が発見されたといった、典型的な「ハウダニットどうやったか」ものばかりではない。事件現場があまりに異様だったり、普通では説明のつかない状況だったりという、「ホワイダニットなぜそうしたか」に属するものも多く含まれる。いや、統計を取ったわけではないが、理真が扱った事件は「ホワイダニット」関連の案件のほうが多いのではないかと思う。もっとも、これは理真の近辺だけに起きている状況ではなく、そもそも、現代においての不可能犯罪は、犯行手段よりも犯行目的に謎をはらむものが多くを占める傾向にあり……と、そんなことを考えてる場合じゃない。
 その要請を受けた素人探偵は、うーん、と唸ってから、

「あと、団長が死体――と、隠れていた古佐野さん――を発見した時刻、まだ団員たちは飲み会から帰ってきていなかったそうだけど、現場に古佐野さんがいたっていうことは、彼はその飲み会には参加しなかったのね」
「そう。それも彼の容疑を強めている一因なのは間違いないわね。被害者の縫原さんも、飲み会不参加組。下戸だったからだそうよ」
「飲み会参加メンバーは、何時に宿営地を出たの?」
「タクシー数台を呼んで乗り合わせて、午後五時に出発してる。話によると、古佐野さんも飲み会に誘われはしたんだけど、新潟の地酒を色々と味わいたいから、飲み屋のハシゴをする、って、ひとりで外出したそうよ。やっぱりタクシーを使って。記録によれば、古佐野さんは飲み会メンバーに遅れること三十分、午後五時半に宿営地をタクシーで出て、三十分かけて繁華街で降りてるわね」
「それから、ずっと飲み歩いていた?」
「間違いないと思う。実際、何軒かの飲み屋の店員から|証言《ウラ》も取れてるから」
「ここにはサーカスの興業で来てるんだから、一見の客になるよね。なのに、よく店員が記憶してたね」
「何軒かの店で、酔客といざこざを起こしてたから、店員も憶えてたの」
「いざこざ、か。しかも、何軒もの店で。……作為的じゃない?」
「同感」
「時間は?」
「午後七時と、八時、それと、九時ね」
「きっかり一時間ごとか……ますます……」
「作為的、って言いたいんでしょ。警察もそう考えたんだけど、“アリバイ工作”にしては変よね」
「だよね。被害者の死亡推定時刻直後に現場にいたところを発見されてるんだもんね」
「ちなみに、九時を最後に古佐野さんのアリバイは確認されてないけれど、その店を最後にして帰った可能性は高いわね。どうしてかというと、その店からサーカスの宿営地まで帰るのに、車で三十分強かかるから。サーカスの宿営地近くにはバス停もないから、帰るにはタクシーを使うのが最も早い交通手段になるわ」
「つまり、午後十時十五分に現場にいた以上、さらに遡って、凶器を取りに行くため、九時四十五分に現場と倉庫を往復している以上、九時半には宿営地に帰ってきていたい。だから、九時過ぎには店を出てタクシーを捕まえたはずだと」
「そういうこと」
「確認するけど、丸姉まるねえ、被害者の体に他に外傷はなかったのね」
「うん、なかった。頭部に受けた二本の矢だけ。衣服にも切り裂かれたようなところや乱れたところもなかったから、虎――プレダキング――は犯行時、というか、縫原さんが檻の中に入れられたときから、ずっと眠っていたのか、決して人間に――たとえ死体であっても――手を出さないくらいに、よくしつけられていたのか。だから、虎が死体に何かちょっかいを出したということはないわね」
「檻の鍵とコンテナの鍵が、被害者のそばに落ちてたそうだけど」
「そう。その二つともは縫原さんのもので間違いないわ。同じ鍵は被害者の他に、正規の調教師と、清浦きようら団長が常に持ち歩いている。その他に事務所として使っているコンテナハウスに合鍵が常備してあるわ」
「凶器のクロスボウが保管してあった倉庫は?」
「そこは特に普段施錠はされていないそうね」
「なるほど……」

 少しの間、黙考していた理真は、

「ひとつ、考えなきゃいけないのは、睡眠薬を盛られた縫原さんが檻の中に運び込まれたのは、いつだったか」
「古佐野さんの仕業と考えるなら、時間帯は二つに絞られるわね」
「うん、他のメンバーたちが五時に飲み会に出かけて、古佐野さん自身が五時半に出かけるまでの三十分の間か、サーカスに戻ってきた九時半過ぎから団長に発見されるまで――正確には、縫原さんを殺してしまうまで――の間か、このどちらかしかないはず」
「調べによると、そのどちらでも可能っちゃ可能。五時以降はほとんどのメンバーが飲み会に出発して人目もなくなっていたし、九時半という時刻も、まだ飲み会メンバーは帰還前で、しかも夜だから、人目を忍んで、眠らせた縫原さんを個室から檻まで運び入れる作業を行うのは難しくないと思う。ちなみに、檻があるコンテナと縫原さんの個室間は、敷地の裏側を通って往来できるから、宿営地に残っていた人の誰にも気づかれず、足音を聞かれることもないと思う」
「でも、檻があるコンテナと倉庫間は、そうではなかった」
「そのとおり。その間を行き来するには、どうしても個室コンテナ群の中を通り抜けていく必要があるわ」
「そもそも、眠らせてまで縫原さんを虎の檻の中に入れた理由は、なに?」
「単純に考えたら……虎に襲わせるため?」
「そうなるよね、恐ろしい話だけど」

 理真は眉根を寄せた。丸柴刑事も神妙な表情をして、

「でも、実際はクロスボウで射殺いころされている。どうして殺し方を路線変更したの? 倉庫まで往復する足音を残っていた人たちに聞かれる――実際に聞かれているわけだけど――危険を冒してまで。というか、その前に、どうして虎に襲わせるなんて殺し方をしようと思ったの?」
「その答えは、出てると思う」
「なに?」
「繁華街での古佐野さんの行動だよ。酔客と騒動を起こしたりして、一見の客なのに店員に自分の存在を記憶させたこと」
「やっぱりあれは、アリバイ工作だった?」
「そう考えれば、しっくりくるでしょ。で、それなら、さっきの疑問――縫原さんを檻の中に入れたのが、出かける前の午後五時以降か、帰ってきてからの午後九時半以降か、その答えも自然と出てくるよね」
「……そうか、出かける前ってことね。わざわざアリバイ工作をしてるっていうのに、実際に被害者が死ぬ機会を自分が帰ってきたあとにしたら、何の意味もないもんね」
「そう、状況からして、古佐野さんは縫原さんの死を不慮の事故に見せかけるつもりだったのかもね。調教師見習いである縫原さんは、何か用事があって虎の檻に入る。そこを虎に襲われてしまった、というふうに。事故という形に決着してくれるのを期待しているし、そうなることは確実視されるだろうけれど、念のため縫原さんの死亡時刻には、自分は遠く離れた場所で確実なアリバイを作っておこうという」

 そこまで言って理真は、ペンを手に取り紙に何かを書き連ね始めた。私と丸柴刑事は、黙ってそれを見守る。

「……できた。以上のことを考慮すると、この事件で古佐野さんが取った行動は、以下のとおりになると思われる」

 と理真は、書いた紙を私たちに向けて差し出した。そこには、

1.縫原さんに睡眠薬を飲ませて眠らせる。(午後五時半以前)
2.眠った縫原さんを、虎の檻があるコンテナ内に運び込む。(午後五時半直前)
3.タクシーで繁華街へ出かける。(午後五時半)
4.繁華街で目立つ行動をしてアリバイを作る。(午後六時から九時)
5.繁華街から帰ってくる。(午後九時半)
6.倉庫から凶器のクロスボウと矢を調達する。(午後九時四十五分)
7.檻の外からクロスボウで射殺する。(午後九時四十五分から十時十五分の間)
8.団長の足音に気づき、コンテナ内に身を隠す。(午後十時十五分直前)
9.団長に発見される。(午後十時十五分)

 と、九つの項目が書き連ねられていた。私と丸柴刑事が、それを読み終えたのを確認してから、理真は、

「この殺人計画の障害は主に二つある。虎が犯人の思いどおりに被害者を襲ってくれるかというギャンブル性と、もうひとつは、被害者を檻の中に放置する際、犯人も一緒に入っていかなきゃならないという危険性。まず、ひとつ目だけど、これはもう最悪、予定どおりにいかなくても、つまり、犯人にアリバイがある間に虎が被害者を襲わなくても、仕方ないと考えていたんだと思う」
「その場合、どうするつもりだったの?」
「犯人が帰ってきてコンテナに入ったとき、もし虎が被害者を襲っていなかったら、犯人が虎を興奮させるなんかして、被害者を襲うよう仕向ければいい。で、すぐに外に出る。アリバイという保証は無効になっちゃうけど、『帰ってきたときに物音がするのでコンテナ近づいたら、出入り口鍵が開いていた。おかしいなと思って中に入ってみたら、縫原さんが虎に襲われていた』と証言すれば怪しまれる可能性は低い」
「ふむ」
「ちなみに、縫原さんが途中で目を覚まさないよう、睡眠薬の量は調整していたんだろうね。この計画で一番最悪なのは、虎に襲われる前に縫原さんが覚醒して逃げ出してしまうことだもの。そうなると、縫原さんにしてみれば、個室でジュースを飲んでいたはずなのに、気がついたら虎の檻の中で寝ていた、なんていう奇妙すぎる体験をしてしまうことになる。そうなれば、自分が一服盛られたんだなと推察して、団員や関係者のほとんどは飲み会で出かけていたのだから、自分を檻の中に運び入れた、すなわち、睡眠薬を盛った嫌疑をかける相手も、自然と限定されてしまう」
「飲み会に参加せず、借金のことで自分を恨んでいる古佐野さんが怪しいって、真っ先に勘ぐられちゃうものね。で、もうひとつの障害“危険性”のほうは? どうクリアするの?」
「一番安全なのは、虎が自分を襲えないようにしてしまうこと。つまり、眠らせてしまう」
「虎にも睡眠薬を盛ったと?」
「コンテナと檻の合鍵が事務所にあるんだよね。前もって人目を避けて鍵を持ち出して、睡眠薬を混ぜた餌を虎に与えればいい。自分が縫原さんを檻に運び入れる時間帯に、確実に眠っておくよう量を調整してね」
「なるほど……まあ、概ね異議はないわね。縫原さんの体に虎のものによる損傷はなかったし、実際、彼が死んだのは午後九時四十五分から十時十五分の間だから、犯人――古佐野さんの思惑は外れて、虎は縫原さんに襲いかかりはしなかった。理真がいう、ギャンブルに負けたってことね。そこで、古佐野さんは最後の手段として、アリバイは無意味になってしまうけれど、縫原さんが目を覚ます前に彼を殺すことにした。で、問題なのは、ここ」と丸柴刑事は、理真が書いた項目のうち『6』を指さして、「なんで、クロスボウで殺した? 理真が言ったとおり、虎をけしかけて襲わせるべきでしょ。そうしないと事故にならない」

 理真と私の目を順に見た。が、私は当然のこと、理真にもその答えを返すことは出来なかった。その理真は、

「しかも、クロスボウを調達する際、コンテナと倉庫を往復するため、足音を人に聞かれてしまうという危険を冒してまでね」

 と続けた。

「ねえ、理真、由宇ゆうちゃん」と丸柴刑事は立ち上がって、「もう、これ以上ここで考えていても埒が明かないでしょ。これから現場まで行こうよ」


第四章

 丸柴まるしば刑事の駆る覆面パトに乗せてもらい、理真りまと私は一路現場となった清浦きようらサーカスを目指した。県警を出る際に丸柴刑事は、虎――プレダキングの尿検査を鑑識に依頼していた。理真の推理どおり、虎に睡眠薬が盛られたかを確認するためだ。
 ハンドルを握りながら丸柴刑事は、被害者、縫原進矢ぬいはらしんや以外の、飲み会に参加せずに宿営地に残ったメンバーのことを教えてくれた。

「飲み会に参加しなかったメンバーは、古佐野こさのさんを除いて、通報者である清浦きようら団長を含めると、全部で六人いるんだけど、そのうちの二人は容疑者からは除外していいと思う」
「どうして?」

 助手席から理真が訊いた。

「ひとりは団員で、“レジェンダリー岡本おかもと”っていう名前でサーカスに出ているマジシャンなんだけど、彼は午後九時から十時半にかけて、動画投稿サイトでテーブルマジックに関する生動画配信をしていたの。百人近くの視聴者が閲覧している前で本人が出ずっぱりで出演してたから、もう完璧なアリバイになるわ。
 で、もうひとりは、サーカス団で演者のアシスタントをしている、羽村鳴美はむらなるみさん。彼女は友人と映像通話をしながら、一緒のテレビドラマを観ていたの。九時から十時までの二時間ドラマをね。まあ、団長の通報で警察が来ちゃったから、結局ドラマは最後まで観られなかったそうだけど。当然、その通話先の友人から、ドラマが始まってから警察が来て通話を終えるまで、ずっとカメラ越しに羽村さんの姿を見ていた、と証言も得られてるわ」

 なるほど、今の時代、昔では考えられなかった方法でアリバイが成立することもあるのだなと、私は変に感心してしまった。

「ちなみに」と丸柴刑事はハンドルを切りながら、「二人とも、被害者に対する殺害動機みたいなものもないわね。でも、この二人は、容疑者としてじゃなくて事件に重要な役割を果たしてるの。この二人こそが、午後九時四十五分に、現場と倉庫との間を往復する何者かの足音を聞いたと証言している人物なのよ」
「なるほど」と理真は頷いて、「完全なアリバイがあって、犯行動機もないから、そのマジシャンとアシスタントの証言は信用に値するってことね」
「そういうこと。現場で発見された古佐野さんに対しても、特に親しくしていたとか、特に嫌っていたとかもないみたいだから、作為的に虚偽の証言をしている可能性もないと考えていいわね。で、飲み会不参加だったメンバーは、あと四人。その四人が事件の重要関係者として見られているわ」

“重要関係者”というのは、つまり、容疑者の言い換えというわけだ。

「まあ、ああいった怪しすぎる形で現場に隠れていた以上、古佐野さんが犯行と無関係ということはあり得ないと思うけど、縫原さんのジュースに睡眠薬を盛って、眠った彼を檻の中まで運び入れることは、その四人の関係者たち全員にも可能だったはずだから」

 まず、団長である清浦政久まさひさ。興業主催者たちとの飲み会に出席するため、彼が団員の飲み会には参加しなかったことはすでに聞いている。加えて、団長がタクシーで宿営地を出たのは午後五時十五分で、戻ってきたのは午後九時四十分だと確認が取れている(タクシー会社に記録されている、客の乗降時刻を参照したので間違いはない)。つまり、眠らせた縫原を虎の檻まで運び、帰ってきてから倉庫にクロスボウを取りに行ったという行動は、団長にも可能だったと考えられる。

「団長に縫原さんを殺す動機というのは浮かんできていないけれど、岡本さんや羽村さんのように、完全なアリバイがない以上、それだけで容疑者から外すのははばかられるでしょ」

 丸柴刑事の言葉に、理真も私も頷いた。「動機がないから容疑もない」そんな理屈は現代不可能犯罪に対しては通用しなくなっている。「動機なき殺人」というサイコ的なあれではないけれど、金品や怨恨以外の動機から誰かを殺してしまう事件など、枚挙にいとまがないというのが事実だ。

「二人目は、サーカス団の事務員を務めている、加川茅里かがわちりさん。彼女が飲み会に不参加だった理由は、十九歳で未成年だから。殺された縫原さんから、結構しつこく言い寄られていたらしいの。それで殺意まで抱くかは微妙なところだけれど、被害者に対して良い感情を持っていたわけではないことは間違いないわね。
 三人目は、曲芸師ジャグラーの、市田山暢雄いちだやまのぶおさん。三十五歳。彼は数日前の練習中に腕に怪我を負ってしまって、現在公演には出演していないの。その怪我のこともあるから、飲み会には不参加だった。被害者とはいまいち反りが合わなかったみたいで、何度か口喧嘩をしているところを目撃されてるわ。殺意にまで発展するかといったら、これまた微妙なところだと思うけどね。
 四人目、これで最後よ。調教師の照岡尚三てるおかしょうぞうさん。五十五歳。虎の世話は主にこの照岡さんが見ているわね。飲み会不参加の理由は、高齢で夜が早いからだって。動機面は、ないと言っていいと思う。なにせ、死んだ縫原さんは、唯一の自分の後継者だからね。彼自身、数年後の引退も視野に入れていたそうだから、せっかく育てている縫原さんがいなくなって一番困るのは、この照岡さんでしょうね」

 以上、四名。清浦団長以外の三人も、飲み会メンバーがいなくなってから縫原さんを檻に運び入れ、十時にコンテナ、倉庫間を往復することは、人目を避けて可能だったと見られている。

「今挙げた四人にも、現場で話を訊けるから」

 丸柴刑事がそう言っている間に現場が見えてきた。広い駐車場の中、サーカスの巨大なテントが横たわり、それに併設していくつものコンテナハウスが並ぶ光景が、フロントガラスの向こうに広がった。本来であれば、その周囲は観客の自動車が隙間もなく駐められているのだろうが、事件が起きたことでサーカスの公演は急遽中止となっているため、駐車場はその空虚なほどの広大な敷地を寂しく晒しているだけだった。

 丸柴刑事は、現場に詰めている警察官に、車内で挙げた四人に順番に話を訊かせてもらえるように段取りを頼んだ。その間、私たちは現場となったコンテナハウスを訪れることになった。
 借りてきた鍵をドアの鍵穴に差し込み、丸柴刑事が回すと、ガチャリという金属音が鳴り、ドアが解錠されたことを知らせた。丸柴刑事がドアを引き開ける動作がゆっくりなのは、慎重にしているというよりも、ドアそのものが重いためだろう。真昼だというのに、ドアの向こうに覗けるコンテナ内は暗く、中の様子を一切見通せない。窓がすべて荷物で塞がれているというのは本当らしい。その暗さの向こうから、なんとも言われぬ獣臭が流れ漂ってきた。私は思わず理真と顔を見合わせる。丸柴刑事が手探りで電灯のスイッチを入れる。闇は電光で追い払われ、その中に居る臭いの主の姿を浮かび上がらせた。

「かわいい」

 黄色と黒の縞模様をまとった、その獣を見た理真の第一声がそれだった。檻の中でちょこんと前足をそろえて鎮座ましているのは、まさに虎。見よ、この爪、この牙、この尻尾。もし襲いかかられでもしたら、“虎殺し”と呼ばれる空手家でもなければ太刀打ちできる人間など地上にいないだろう。かように、圧倒的戦闘力を持つ、紛うことなき猛獣だと分かってはいても、私も理真の言葉に全面同意せざるを得ない。すなわち、かわいい。

「古佐野さんが隠れていたのは、そっちの荷物の山の陰ね」

 丸柴刑事の声で、理真と私は愛くるしい猛獣から、雑多な荷物の山へと視線を移動させた。

「で、縫原さんが倒れていたのが、そこ」

 再び檻の中に視線は戻る。が、今度私たちが捉えたのは虎ではない。その横、地面に描かれた人型の白いテープだ。血痕がほとんどないのは、突き刺さったクロスボウの矢が栓の役割をしたためだろう。ちなみに、現場検証は、さすがに調教師の照岡に虎を外に連れ出してもらってから行ったそうだ。
 檻を挟んだ壁の下側には、細かい穴が数個穿たれているのが見える。話にも聞いていた、犯人がクロスボウの試射をしたという痕跡だ。

「うおっ!」「ひゃっ!」

 理真と私は思わず抱き合った。突然、虎の唸り声が狭いコンテナ内に響いたためだ。理真の実家でクイーンが鳴らす喉の音とは、まるで別物。雷鳴のような低く重たいそれは、どんなに外見がかわいかろうが、彼(雌かもしれないけど)が猛獣であるという事実を否が応でも知らしめる。

「どうした? 虎」
「プレダキング、ね」

 呼びかける理真に対して、私は虎に付けられた名前を口にする。自分の住処“虎の穴タイガーズ・デン”で人間がおかしな事件を起こしてくれて、さぞ迷惑に思っているに違いない。いきなり入ってきた探偵とワトソンに対して、唸り声のひとつ上げたくもなろう。

「ねえ、プレダキング」と理真は檻のそばに屈み込み、「お前は、犯行の一部始終を見てたんだよね。何があったのか、教えてよ」

 その呼びかけに答えるはずもなく、プレダキングは、おろし金のような舌と、鋭い牙を私たちに見せつけるかのように大きくあくびをすると、その場に丸まってまぶたを閉じてしまった。そこへ、「用意が調いました」と、敬礼とともに警察官が入ってきた。私たちは“虎の穴”をあとにして、関係者への聴取のため、応接用に使われているコンテナハウスへと場所を移した。
 聴取は、調教師の照岡、ジャグラーの市田山、事務員の加川、団長の清浦、の順に行われることとなった。丸柴刑事から名前を聞かされたのとは、まったく逆の順番だ。


「惜しいやつを亡くしたよ」

 被害者について話を訊かれた調教師の照岡は、静かな口調でそう言った。
 理真を中央にして、横並びにソファに座る私たちの対面、低いテーブルを挟んで座る照岡尚三の体は、これで、さっき見た猛獣の使役が務まるのか? と疑問を抱かせるほど小さく見えた。

「大切な後継者だったのですよね」

 しんみりとした声で理真が話しかけると、照岡は、

「ああ、俺ももう歳だ。あと数年頑張って、あとはあいつに全部任せようと思ってたのに……これだ」照岡はため息を吐き、その小さな肩を落とした、が、その直後、「古佐野の野郎……」

 この瞳なら、どんな猛獣も尻尾を振って付き従うに違いないと思わせるような、猛々しいくも鋭い眼光を放った。

「待ってください、まだ、古佐野さんが犯人と決まったわけでは」
「……そうだったな」

 理真の言葉に、照岡は眼光を納めた。

「警察からの聴取と重複するかもしれませんが、お話を訊かせて下さい」

 次のこの言葉に対して、照岡は、

「こっちも言うことは同じだよ。あの日、俺は九時には床について寝ちまったんだ。何も見ても聞いてもいねえよ。で、夜中に団員の誰かに起こされて、何事だって思ったら……縫原が死んで警察が来てるっていうじゃねえか。もう、何が何だか分かんねえ状況だったよ」

 照岡は眠っていたため、岡本と羽村が耳にしたという、コンテナと倉庫間を往復する足音は聞かなかったらしい。仕方のないことだろう。そのあと、被害者や古佐野について、理真がいくつか質問をしたが、特に新しい情報は得られなかった。古佐野が縫原に借金をしていたことも知っていたという。

「だからってよ、殺すことねえじゃねえか。短絡的なんだよ、あいつは。しかも、なんだってプレダキングの檻の中で、クロスボウで殺すなんてわけの分からねえ非道い真似を……」

 再び照岡の瞳に眼光が戻りかけたところで、理真は礼を言って聴取を終えた。
 照岡が応接室を出て行くと、丸柴刑事が、

「どう思う? 理真」

 素人探偵に所見を訊いた。

「そうだね。心証的には、完全に“シロ”だね。縫原さんが亡くなったことで、心底気落ちしているように見えた。でも、照岡さんには、他の人にはない強い武器があるよね」
「“調教師”だということね。眠らせた縫原さんを檻の中に運び入れる際、猛獣のプレダキングをおとなしくさせておけるかもね」
「でも、それが反証的に、結局被害者をクロスボウで殺しているという事実からもっとも遠ざけていると言えるよね。照岡さんなら、プレダキングに命じて縫原さんを襲わせることも可能でしょ」
「なるほど」
「でもでも、それがまた反証となって、照岡さん犯人説を否定する材料にもなる。サーカスの虎に襲い殺されたなんて被害者が出たら、真っ先に疑われるのは調教師でしょ」
「そうか、縫原さんに対する殺意があったとしても、そもそも、虎を使うなんて手段を選ばない。わざわざ自分に疑いをかけるようなものだものね」


第五章

 ドアがノックされた。次の関係者が到着したらしい。「どうぞ」と|丸柴まるしば刑事の声に応じて入室してきたのは、曲芸師ジャグラー市田山いちだやまだ。その程よく筋肉がついた長身を使って、どんな曲芸を得意としているのかは分からないが、今はそれらを披露するのは叶わないことが見ただけで理解できる。彼の右腕は、包帯に巻かれた状態で首から提げられているためだ。長身を折りたたむようにしてソファの中に収めた市田山は、

「どうしたんですか。まだ俺に話を訊くってことは、犯人は古佐野こさのさんで決まりじゃないんですか?」

 先に質問をぶつけてきた。「捜査上、秘匿しておかなければならないこともありますので、そこのところは……」と丸柴刑事が返答を濁すと、

「まあ、いいですけど」

 と市田山は聴取される態勢を決めたらしい。
 被害者についての質問には、神妙な顔をしながら市田山は答えた。生前は反りが合わなかったと聞いていたが、こうしていなくなってしまうと、やはり喪失感に襲われてしまうのだろうか。しかも、虎の檻の中で頭部のクロスボウを矢を受けるという凄惨な死に方だ。
 市田山の口から聞かれたのは、被害者のことよりも、最重要容疑者である古佐野についてのことのほうが多かった。縫原に対しては、反りが合わないなりに意見をぶつけ合うこともあったが、古佐野という男のことを、市田山は口もききたくないほど嫌っていたということが言葉の端々から察せられた。
「意見が合わないことも多かったが、根はいいやつだった」
「陰湿で金に汚く、殺人を犯したと聞いても驚かなかった」
 前者が死んだ縫原、後者が古佐野に対する、市田山の評らしい。
 レジェンダリー岡本おかもと羽村鳴美はむらなるみが聞いたという足音は、市田山は耳にしていないと証言した。彼の個室は現場と倉庫の双方から離れているため、これは仕方がないと警察も見ているようだ。
 他には、特に新たな情報を聞けるふうでもなかったため、理真りまはそこで聴取を終えた。市田山が部屋を出たあと、例によって丸柴刑事に所見を尋ねられた理真は、

「怪しい、怪しくないは別にしてさ、クロスボウの弦って、あの腕でも引けるもの?」

 丸柴刑事は私と顔を見合わせる。頭の中に、包帯でぐるぐる巻きにされた痛々しい市田山の右腕が浮かんだのは、彼女も同じだっただろう。

 次の聴取者が来るまでの間に、丸柴刑事は本部に電話を入れ、クロスボウの専門家に意見を訊くことを頼んだ。私も“クロスボウ”というものを漠然と知ってはいるが、具体的にどうやって弦を引くのか、といった詳細な知識はまったく持ち合わせていない。理真りまにも訊いてみたが、彼女もそちら方面には疎いようで、首を横に振るだけだった。まあ、クロスボウに精通した二十代女子というものがいたら、それはそれでどうなんだと思わないでもないが。

 三度みたびしたノックの音に丸柴刑事が応じると、ゆっくりとドアが開き、若い女性が顔を覗かせた。まっすぐなロングヘアをなびかせた、この女性。彼女が三人目の聴取者、加川茅里かがわちりだ。

「鬱陶しかった、なんて言い方をしたら故人に対して失礼かもしれませんが、正直、縫原さんに対してはそう感じていました。彼、公演中は、勉強のために、特に照岡さんの舞台を袖でいつも見学してろって、団長から言われてるんですけれど、しょっちゅう事務室のコンテナに来ては駄弁っていましたから。で、私が用事で出かけているときは、きちんと舞台袖に行ってるらしいんですよ。あきれますよ。私に話しかけてくるときも、妙に馴れ馴れしかったですし。相手が女で年下だからっていう理由だけで、自分のほうが無条件で立場が上、みたいに思っちゃう男っているじゃないですか。本当、嫌になりますよ」

 一気にまくしたてた加川は、言い終えると最後に深いため息を漏らした。被害者に対して持っていた感情がよく理解できた。くだんの足音は、彼女も聞いていないという。ほとんどのメンバーが飲み会で出ていて、珍しく宿営地が静かだったため、その夜は――事件が発覚して起こされるまで――早めに寝たのだという。それを聞いたことを最後に、理真は加川の聴取を終了した。


 最後の聴取者である清浦きようら団長は、予想よりも早くに姿を見せた。その団長は、何か質問されるよりも先に、丸柴刑事に向かって、

「刑事さん、ちょうどいいところにいらして下さいました」
「何かあったのですか?」
「実は、クロスボウと矢の他に、現場に持ち込まれていたものがあったことが分かったので、お伝えしようと思っていたところだったのです」
「持ち込まれたもの? それは、倉庫からということですか?」
「はい」と団長は、片手に提げていた紙袋から何かを取り出すと、「これです」

 テーブルの上に置いた。

「いちおう、証拠品扱いになると思いましたので」

 団長はそれを、丁寧に大きなビニール袋に入れた状態で出してきた。丈夫な紐のようなもので、先端に樹脂製と思われる潰れたT字型の部品が付いており、中央部にも小さな部品が取り付けてある。この小さな部品は滑車状になっており、紐の表面を自由に移動させられる構造となっているようだ。

「……これは?」

 新たな“証拠品”から目を上げた丸柴刑事が訊くと、

「“コッキング紐”です」
「コッキン……何ですか?」

 名称だけ言われても、さっぱり分からない。ああ、失礼、と清浦団長は、

「クロスボウの弦を引くための補助器具です」

 クロスボウ用の道具――そうだ! わざわざ本部に手配してもらわなくとも、ここにはクロスボウに精通した人間がいくらでもいるではないか。理真も同じことを思ったのだろう、

「使い方を教えて下さい。その何とか紐だけでなく、クロスボウの弦の引き方から」

 テーブルに手を突き、前のめりになって団長に迫った。

「は、はい……」と気圧されたように体を引きながら団長は、同じ紙袋からもうひとつ、今度はクロスボウ本体を取り出して、「これは、倉庫にあった別のクロスボウですが」

 そう言って立ち上がると、クロスボウの先端――正確には、先端に付いている四角い取っ手のような部分――を床に付けて、

「この部分を“あぶみ”と言います。このあぶみを足で踏み、弦を手前に引っぱります。これが通常のクロスボウの弦の引き方です」

 なるほど、あぶみを踏みつけて反力を取ったうえで弦を手で引っ張るのか。これは、見るからに力のいる作業だ。

「ですが」と団長はゆっくりと弦を元に戻すと、「これをやるには、結構な力を必要とします。そこで、この“コッキング紐”の出番というわけです」

 今度は団長は、袋からまた別のコッキング紐を取り出すと、紐の中央にある小さな部品を弦に取り付け、紐自体はクロスボウの後端(台尻というそうだ)に引っかけて、紐端部の潰れたT字型の部品を両手に持ち、ゆっくりと引き上げた。すると、紐に引っ張られる形で、弦がぐんぐんと引かれていく。

「見た目には分かりづらいかもしれませんが、この状態ですと、先ほどのように弦を直接握ったやり方よりも、半分程度の力で弦を引くことが出来るわけです」

 確かに、団長の表情や腕の動きからも、先ほどよりはずっと余裕が感じられる。弦に引っかけた小さな部品が滑車の作用を働かせるため、少ない力でも弦を引っ張ることが出来るというわけか。

「で、団長」と丸柴刑事が、「その、コッキング紐というものが、現場に残されていた、つまり、倉庫からクロスボウや矢と一緒に持ち込まれたということですか?」
「そうなんです。プレダキングのコンテナは、あのとおり雑多な荷物が詰め込まれている上、コッキング紐も、このとおり、目立つものではありませんから、うっかりと見過ごしてしまっていたのです。今回のことがあって、改めて倉庫に入れてあるもので紛失品などがないか、棚卸しをしてみた結果、コッキング紐が一丁、なくなっていることに気づきまして、これはもしや、ともう一度現場を探してみたところ、こうして発見したという次第で……」
「ということは、古佐野さ――いえ、縫原さんを射殺いころした犯人は、そのコッキング紐を使ってクロスボウの弦を引いたということですか?」
「恐らく……」

 答える団長の歯切れが悪い。丸柴刑事もそれに気づいたのだろう、

「どうかされましたか?」
「いえ、もし、縫原を射ったのが古佐野だったなら、おかしいな、と」
「どう、おかしいと?」
「彼は、コッキング紐なしでも弦を引けるからです」
「それは……」

 丸柴刑事は黙ってしまった。つまり、古佐野――が犯人だったらとしてだが――は、わざわざ必要のない品まで、倉庫から持ってきたということになる。

「念のために持ってきた、ということなのでは?」
「そうなのでしょうか」

 そう言いつつも、二人とも表情は晴れない。と、そこに、

「それはないと思う」

 理真が声を挟んだ。私たちの視線を受けて、理真は、

「だって、丸姉まるねえも、由宇ゆうも、団長がやってくれたのを見たでしょ。コッキング紐を使って弦を引くには、紐を弦にセットするっていう動作の手間がかかる。犯人にしてみれば、一刻も早く殺人を終えて現場を立ち去りたいはずでしょ。素手で弦を引けるんだったら、そのほうが断然早いし、倉庫でもコッキング紐を探すという余計な時間を消費しなくて済むよ」
「確かに……」

 丸柴刑事は深い息を吐いた。

「ですが」と次に団長が、「このコッキング紐が現場にあったのは事実ですよ」

 テーブルにある、ビニール袋に包まれたコッキング紐を見やった。理真も、それにしばらく目を落としてから、

「丸姉、足音を聞いたっていう二人にも話、訊けないかな」
「岡本さんと羽村さんのことね。その二人なら、ここに待機してもらっていると思うけど」

 言いながら丸柴刑事が見ると、団長は黙って頷いた。

「ひとりずつ、話を伺わせてもらえませんか」

 理真の言葉にも団長は頷くと、足早に応接室を出て行った。


第六章

 最初に入室してきたのは、レジェンダリー岡本おかもとだった。ラフなその出で立ちからは、マジシャンという職業を感じさせない。オフなので当たり前だが。
 さっそく理真りまは、足音を聞いたときのことについて話を訊く。

「午後九時四十五分頃に、現場となったコンテナと倉庫間を何者かが往復する足音を聞いたそうですね」
「はい」と、“伝説的”という意味の言葉を芸名に持つマジシャンは、「俺は自分のチャンネルで、簡単なマジックの実演とやり方を解説した動画を投稿してるんですけれど、その夜は飲み会が開かれるって分かってたんで、宿営地が静かになっていい機会だから、前からやりたいと思っていた生配信をすることに決めて、告知をしていたんですよ。サーカスって、舞台と客席がどうしても離れちゃいますから、テーブルマジックみたいな細かいネタをやる機会ってあまりないんですよね。画面越しとはいえ、お客さんを前にしてマジックを生で披露することで、テーブルマジックでも場数を踏んでおきたいなって思って。やっぱり、失敗の利かない本番の数をこなさないと駄目ですよ。こういう感覚って、いくら練習を積んでも得られませんから。――ああ、話が脱線しましたね。で、いくつかマジックを披露して、トークもやって、休憩のために一旦撮影を停止したときがありまして、ちょうどそのときですね。足音を聞いたのは」
「確かに、虎――プレダキングのいるコンテナと、倉庫との間を行き来する足音でしたか?」
「聞こえてきた感じからして、そうだと思いますよ。休憩したのは一分くらいだったんですけれど、休憩に入った直後から足音が聞こえてきたのを憶えています。もしかしたら、休憩前から足音はしていたのかもしれませんけれど、配信中はヘッドセットを付けているし、マジックや喋りなんかで集中してもいるので、回りの音が耳に入ってこなかっただけだったのかも」
「それを聞いたのが、午後九時四十五分頃だということに間違いはありませんか?」
「ええ、配信中は常に時間配分を気にして、しょっちゅう時計を見ていましたから、それは間違いないはずです」
「そうですか……ありがとうございました」

 理真は礼を述べてレジェンダリー岡本を帰した。

 次に、彼と入れ替わるように、アシスタントの羽村鳴美はむらなるみが応接室に入ってきた。

「ど、どうも……」

 と両手を体の前で組み、上目遣いでこちらを見上げるように(実際は彼女は私たちを見上げるほど低身長ではないのだが)して、羽村は小さく頭を下げた。見るからにおとなしそうな女性で、彼女がアシスタントとはいえ、露出の高い衣装を着てサーカスの舞台に立つということがにわかには信じられないくらいだ。――いや、露出の高い衣装を着るというのは、完全な私の独断と偏見なのだけれど。
 その羽村は、「まあまあ、そう緊張しないで」と、美人刑事と美人探偵の二人に促され(ここに“美人ワトソン”と加えないところが私の奥ゆかしさだなあ。どうでもいいか)、私たちの対面に腰を下ろした。

「……す、すみません……え? 謝らなくていい? そ、そうですね……え? ……あ、足音のことですか。ええ、九時四十五分くらいでした。……そうです、ドラマを観ていたから分かるんです。これももうご存じかと思いますけれど、ひとりじゃなくて――ああ、もちろん部屋ではひとりだったんですけれど、スマートフォンで友達と喋りながら観てたんです。……はい、その友達も同じドラマを観ながらだったんですよ。アプリの映像通話機能を使って、相手の顔を見ながら。私、そういうのが好きでよくやるんですけど、普段はやっぱり隣室の人に気を遣って、テレビも通話も、あまり大きな声を出さないようにしてるんです。でも、その夜は隣接している部屋の人たちは、みんな飲み会に行っていたので、これを機会にとテレビのボリュームも大きくして、大声で話したり笑ったりしながら一緒にドラマを観てたんです。だから、外で多少の音がしても部屋の中まで聞こえてはこないんですけれど、そのときはたまたまドラマが静かなシーンで、私も友達もその場面に見入って無言状態になっちゃってたんで。足音も聞こえたんです。そのときは、せっかくのいいシーンなのに、うるさいな、って思ったんですけど……まさか、古佐野こさのさんが凶器を取りに行っていたところだったなんて……。え、まだ決まったわけじゃない? ああ、そうなんですか。でも私、それを思うと恐ろしくなって……。……はい、そうです。プレちゃんのコンテナと倉庫との間を走る足音でしたね。聞こえ方からして間違いないと思います」

 初見の印象とは裏腹に、羽村は乗ってくればよく喋る子だった。

「そうですか」

 と理真は答える。その言い方からして、もう自分に対する聴取は終わったと思ったのだろう、羽村は腰を浮かせかけ、理真も丸柴まるしば刑事も実際それを止めはしなかった。――と、そこに、

「ちょっと、いいですか?」

 待ったをかけたのは、私だった。羽村は、「は、はい」とソファに再びお尻を沈め、理真と丸柴刑事は意外そうな目で私を見る。

「あの、さっきの話……」と私は羽村に向かって、「足音を聞けたのは、ドラマが静かなシーンに入っていたからだとおっしゃいましたが」

 羽村は私の目を見ながら、うんうん、と頷く。私は続けて、

「そのドラマ、私も観ていたんですけれど、それって、あれですか。主人公が女装を解いてしまい、親友が呆然としているところに、主人公の恋人が鉢合わせてしまって、三人が数十秒間、バラードアレンジされた主題歌をバックに、黙ったままお互いを見つめ合うっていう、あのシーンのことですか?」
「そう! そうです! いやー、凄かったですね。主人公の秘密が、親友と恋人、どちらに先にばれてしまうんだろうって思ってたら、まさか、二人同時にばれちゃうだなんて。そのあとの、主人公のバック転土下座、あれがまた美しくて……」

 羽村は恍惚とした表情を見せる。確かにあれは名シーンだったが、今はそのことを話題にしている場合じゃない。

「だったら、その時間って、九時四十五分じゃなくて、十時だったんじゃありませんか?」
「……ええっ?」と羽村は怪訝な顔をして、「で、でも、私、ドラマが始まってすぐから友達と通話を初めて、そのときにふと通話時間を見たら、四十五分くらい経過したくらいでしたよ。それははっきりと憶えています」
「うん、そのシーンが、ドラマ開始から四十五分くらい経過した時間に流れたのは間違いないんです。でも、あの日は、直前に放送していたクイズバラエティ番組が十五分拡大版だったから、それに伴って、ドラマの放送開始も十五分繰り下げられていましたよ」
「……ああっ! そうでした!」一度立ち上がってから、羽村は、「そ、それじゃあ、私があの足音を聞いたのは、九時四十五分じゃなくて、十時だったことになります……ね」

 再びゆっくりと座ると、そう言って私の顔を見た。首肯した私は、隣に目を移す。と、理真が下唇に人差し指をあて、俯き加減で虚空を見つめていた。これは、理真が何か重要なことを考えているときの癖だ。三人に囲まれて、沈思黙考を続けていた理真は、

「――羽村さん!」
「は――はいぃ?」

 ソファから飛び上がった羽村に、

「団員について訊かせてもらいたいことがあるのですが?」
「みんなのことですか? うーん、私、ここに入ってから一年くらいしか経っていませんから……」
「構いません、分かる範囲で、教えてほしいことがあります」
「な、何でしょう?」
「古佐野さん、調教師の照岡さん、ジャグラーの市田山さん、事務員の加川かがわさん、清浦きようら団長、この中で、コッキング紐を使わないとクロスボウの弦を引くことが出来ないのは誰か、分かりますか?」
「それは……」と羽村は、記憶を探るように虚空を見つめて、「確実に言えるのは、市田山さんだけですね。ご覧になられたと思いますが、市田山さんは右腕を怪我してますので。怪我がなければ、普段は素手で難なく弦を引けていますけれど」
「そうですか……では、逆に、コッキング紐なしでも弦を引ける、という方は?」
「今、探偵さんがおっしゃったメンバーの中だと、私が知っている限り、加川さんだけとしかお答えできませんね」
「加川さんって、事務員の方ですよね? 彼女はコッキング紐なしで弦を引ける?」
「はい。一度やってみたことがあるんです。男性の団員たちからは、『難しいぞ』なんて囃されていまして、さすがに最初こそ手こずっていましたけれど、すぐにコツをつかんで素手で弦を引けるようになっていました。加川さん、ああ見えて中学、高校と陸上部だったので、体力や腕力には自信があるみたいなんです」
「そうですか……、あと、実際の公演でクロスボウを使う際、コッキング紐を使用することはありますか?」
「それは、あります。団員の中には、非力な人もいますので。私もたまにクロスボウを使いますけれど、そのときにはやっぱりコッキング紐を使わないと無理ですもの。私、学生時代は美術部で」
「そうですか……ありがとうございます」
「じゃ、じゃあ、私はこれで」

 ぺこりと頭を下げて、羽村が退室していくと、

「ちょっと、どういうことなの?」と丸柴刑事が、「岡本さんと羽村さんとで、足音を聞いた時間が食い違っちゃってる」
「そうだね」

 が、理真には特に慌てた様子もない。

「おかしいじゃない」さらに丸柴刑事は、「一分や二分なら分かるけど、さすがに証言が十五分も食い違うなんてあり得ない。岡本さんのほうだって、配信の時間を気にしながらだったんだから、九時四十五分という時刻を間違えるとは思えないし……どちらかが嘘をついているってこと?」
「ううん」理真は首を横に振って、「おかしいことなんて、何もないし、どちらか、あるいは双方が嘘を言っているということもない」
「じゃあ、これをどう説明すれば……それに、理真が最後にした質問、あれは何なの?」
「あれで、はっきりした」
「何が?」
「レジェンダリー岡本さんは九時四十五分に、羽村さんは十時に、どちらも確かに足音を聞いた」
「だから――」

 さらに言いかけた丸柴刑事を制して、理真は、

「ただし……二人が聞いた足音は、同じものじゃなかったの」
「えっ?」

 同時に声を上げた丸柴刑事と私、その二人に挟まれて座る理真は、

「これで、犯人が分かった」


第七章

「それじゃあ、理真りま」と丸柴まるしば刑事は、「犯人は、九時四十五分と十時、二回に渡って現場、倉庫間を往復したってことになるの?」
「そう」
「どうして?」
「説明するね」

 理真は、改めて丸柴刑事と私の顔を見る。二人ともが頷くと、理真も小さく首を縦に揺らしてから、

「まず、犯人によって、倉庫から現場に持ち込まれたものが三種類あったことが確認されている。クロスボウ本体と、矢が数本、それと、コッキング紐。これらは、すべて同時に持ち込まれたものなのか。違うよね。レジェンダリー岡本おかもとさんが九時四十五分、羽村はむらさんが十時、それぞれ違う時刻に足音を聞いていたことは事実なんだから、犯人は少なくとも二回に渡って現場と倉庫間を往復している。犯人にとって、倉庫から凶器を持ってくるという目的以外で、現場、倉庫間を行き来する用事なんてないから、この二往復は、どちらも物品の持ち込みを目的として行われたと考えて間違いない。じゃあ、どれがどういう順番で、どんな組み合わせで持ち込まれたのか。これを考えるのは容易いよね。“クロスボウ本体と矢”、そして、“コッキング紐”この組み合わせ以外あり得ないと思う。これら三種類は、どれもそれ単体だと意味をなさない物品だけど――矢は、手で直接持つことでも凶器として使えるけど、今回の場合はクロスボウから発射されたものと鑑識で証明されているからね――“クロスボウ本体と矢”が常にセットで取り扱われることに対して、“コッキング紐”はあくまでオプションだから。ここまでは、いいよね」

 私と丸柴刑事は頷く。

「じゃあ、次に、持ち込まれた順番を考える……といっても、これも考えるまでもないよね。“クロスボウ本体と矢”のほうが先に持ち込まれたはず。コッキング紐単品だけを先に持ってくることには、何の意味も見いだせないもの。だから、まず犯人は九時四十五分に“クロスボウ本体と矢”を、その十五分後、十時に“コッキング紐”を、それぞれ倉庫から持ってきたということになる。そして、被害者である縫原ぬいはらさんは、クロスボウから射られた矢で殺されている。このことから、犯人の行動の意味が見えてくるよね」
「意味、って?」

 私が訊くと、理真は、

「まず――そこに至った動機はいったん省いておいて――犯人は、縫原さんを殺害しようと――しなければならないと思い立った。その手段として、クロスボウを選択することを思い浮かぶ。でも、クロスボウは現場にはなく、そこから離れた倉庫に行かないと手に入らない。犯人は現場をいったん離れて倉庫へ。そこで目的のクロスボウと、それにつがえる矢を入手すると、現場へと戻る」
「それが、九時四十五分のこと」

 丸柴刑事の言葉に、理真は頷いて、

「で、縫原さんを殺害せしめようとしたんだけれど……ここで問題が起きた。犯人には、クロスボウの弦を引ききることが出来なかったんだよ」
「それで、コッキング紐が必要になった!」
「そう。で、犯人はコッキング紐を求めて、再び倉庫に取って返すことになるんだけれど、その間に十五分の間が空いているというのは、犯人はどうにかしてクロスボウの弦を引けないか、色々と試したからなんだろうね」
「それにしたって、十五分って長いわよね。どうして、素手で弦を引くことは自分には無理、と分かった時点で、すぐにコッキング紐を取りにいかなかったんだろう?」
「それはね、犯人には、“クロスボウの弦を引くためにコッキング紐を使う”という判断をすぐには出来なかったからだよ」
「すぐに出来なかったって、どういうこと?」
「それはもう、使い慣れてなかったからに尽きると思う。『クロスボウの弦を引けない……じゃあ、コッキング紐を取りに行こう』っていう発想にたどり着くのに、それくらいの時間を要したんだろうね。だから、犯人の条件を挙げてみると、こういうことになる。
“素手でクロスボウの弦を引くことができない”、そして、“弦を引くためにコッキング紐を使う”という発想にすぐには思い至らなかったことから、“普段からクロスボウを扱い慣れていない”」

 再び、丸柴刑事と私は頷いた。

「じゃあ、容疑者をひとりずつ、この条件に当てはめていこう。
 まず、最有力容疑者の古佐野こさのさんから。彼は問題なく素手で弦を引ける。清浦きようら団長が、そう証言していたからね。そもそもコッキング紐を必要としない。よって、この時点で犯人から除外される。
 その、清浦団長。彼が素手で弦を引けるかどうかは不明だけれど、もし引けなかったとしても、今回の犯人像には全然当てはまらないよね。だって、“素手では無理”と分かった時点で、即座にコッキング紐を取りに倉庫まで走るはずだもの。十五分も悪戦苦闘するとは考えられない。
 次は、調教師の照岡てるおかさん。彼も尋ねたわけじゃないから、弦を素手で引けるかは不明だけれど、団長とまったく同じ理由で犯人候補から除外できる。長年サーカス団に所属しているベテランの彼が、十五分もコッキング紐のことを思いつかないとは想像しがたい。
 曲芸師ジャグラー市田山いちだやまさんは、どうか。彼は右腕を怪我していて、素手では弦を引けないということが、アシスタントの羽村さんの証言から判明している。彼がクロスボウを使おうとしたら、コッキング紐は必要不可欠。だけど、彼についても照岡さんと同じこと、と言いたいところだけど、そもそも、怪我をして弦を引けないっていうことは自分自身がよく分かってることだから、わざわざあとからコッキング紐だけを取りに行くなんて愚行を犯すはずがない。クロスボウ本体、矢と一緒に、最初から持ってくればいい。そんなにかさばるものじゃないんだし」

 そこで私たちは、テーブルの上に置かれたままのコッキング紐を見やった。確かに、これなら片腕が怪我で塞がっていたとしても、首に提げるなどして本体、矢と一緒に持ち込むことは可能だろう。わざわざ二往復する手間をかけるのは馬鹿馬鹿しい。

「で、事務員の加川かがわさんだけど、」理真は続けて、「彼女は現場に出ない事務員だから、“コッキング紐を使う”という発想になかなかたどり着かなかったとしてもおかしくはない。でも、彼女も素手で弦は引けるんだよね。羽村さんの話によれば。だから、コッキング紐を必要としない」
「――ちょっと待ってよ、理真」と丸柴刑事が、「犯人候補がいなくなっちゃったじゃない」

 そうなのだ。古佐野、団長、照岡、市田山、加川、と、事件当夜サーカスに残っており、かつ、アリバイのない人物全員が容疑をすり抜けてしまったことになる。丸柴刑事じゃなくとも物言いを入れたくなるのは当然だろう。が、理真は少しも慌てた様子も見せず、

「いる、ひとり。そして、これまで棚上げしてきた、“縫原さんに対する殺害動機”と、“どうして凶器にクロスボウを選んだのか”に対する解答も、その人物は持っている」
「誰? それと、動機と、凶器がクロスボウだった理由って?」
「ねえ、丸姉、由宇ゆうも」と理真は、丸柴刑事の質問にはすぐには答えず、「もしさ、虎の目の前で、眠っている人間が倒れている、という状況を目にしたなら、どう思う?」
「どう……って」

 丸柴刑事は私と顔を見合わせる。その問いかけには、私が、

「危ないと思う」
「危ないって、何が?」
「決まってるじゃん。このままだと、眠っている人が虎に襲われてしまうから」
「そうだよね。で、犯人も、それとまったく同じ状況を目撃して、由宇と同じことを考えたんだよ。『このままでは、眠っている人が虎に襲われてしまう』って。最善なのは、その人を起こして逃げさせることだけれど、そうするのは躊躇したんだと思う」
「どうして?」
「恐らく、人間だけじゃなく、虎も眠っていたから。下手に大声を出したりしたら、虎まで起こしてしまいかねないし、そもそも、静かに人間だけを起こすことができたとしても、その人が自分の置かれた状況を把握した途端、驚きと恐怖で大声を上げてしまいかねない。そうなったら、その声で虎が覚醒してしまい……」
「結局、襲われてしまう、と」
「そういうこと。だから犯人は、寝ている人間を殺さなければならない、、、、、、、、、、、、、、、、、、と考えた」
「――待て! どうしてそうなる」

 今度は私が物言いをつけた。

「犯人にとっては、大事なことだったんだよ。もし、下手に人間を起こしたことで、虎も一緒に起きてしまい、人間を襲って、最悪、殺してしまうようなことになったら、虎はどうなるんだろう、、、、、、、、、、、って」
「それって! 理真――」

 丸柴刑事が叫んだ。理真は、彼女を向いて、

「そう。さっき、私は、犯人も由宇と同じことを考えた、って言ったけど、あれは正確には違う。犯人は、同じ状況を目にして、こう考えたんだよ。『眠っている人が虎に襲われてしまう』、じゃなくて、『虎が眠っている人を襲ってしまう、、、、、、、、、、、、、、、』、って。丸姉も、由宇も、こういう事件を聞いたことがあるんじゃない? “人間を襲った動物が殺処分された”っていう」
「つ、つまり、犯人は……」
「そうなんだよ、由宇、犯人は、“虎を守るために人間を殺した”んだよ。もし、人間が死んだあとで虎が覚醒して、死体にちょっかいを出す可能性もあるけれど、そもそも虎に何かされる前に、その人間は別の死因で死んでいるんだから、虎に罪――という言い方も変だけど――はない。殺処分されることもない。そのために、眠っている人間を確実に、かつ、己の安全も確保したうえで殺すために必要なことは、“檻の中に入らず外から殺す”、そして、“明確に死因がこれと分かる方法で殺す”この二つを満たすものが、ここ、正確には、倉庫の中にあった。それが、クロスボウ」
「待って、理真」と丸柴刑事は、「サーカス内の容疑者たちに犯人候補はいなかった。ということは……外部犯ってこと?」
「そう。そう考えると、今まで考慮してきた犯人の要素から、“クロスボウの弦を引くためにコッキング紐を使う、という発想にすぐには至らなかった”という項目だけを残して、他の要素を新しく定義してやる必要が出てくるよね。つまり、“サーカス外部の人間である”、にも関わらず、“倉庫にクロスボウがあることを知っていた”、かつ、ここが大事なんだけれど、“クロスボウの弦を引くための、コッキング紐というものの存在を知っていた”。どう? 地味にこれって、かなり大事な要素だと思うんだけど。私、今日まで、クロスボウの弦を引く補助器具として“コッキング紐”なるものが存在すること自体、知らなかったもの」
「確かに」

 丸柴刑事と一緒に、私も頷いた。

「そして」と理真は続けて、「最後の要素、“虎の殺処分を避けるためには、見ず知らずの人間を殺す、という選択をしてしまえるほど、虎のことが好き”だということ」
「理真、それって……」
「丸姉、警察にまだ記録は残ってるよね。数日前にここへ侵入した高校生……」


第八章

 警察の訪問を受けて任意出頭したその高校生(一年生の女子だった)は、聴取に素直に従って犯行を自供した。
 犯行当夜は、侵入を見つかって警察から厳重注意を受けてから、わずか数日後という日にちだったが、だからこそ、“まさかこんなに早く再犯に及ぶとは思わないだろう”、と裏をかくつもりで、再びサーカス敷地内に侵入したのだという。時間にして午後九時半。虎のいるコンテナに施錠がされていることは前回の侵入で分かっていたため、今度は事務所に侵入して合鍵を盗む覚悟も決めていたという。だが、出来れば当然そんなリスクは避けたい。念のためと、虎のコンテナのドアノブを握った女子高生は、その夜はドアに施錠がされていないことを知った。これは好機、と中に侵入し、持参していた懐中電灯で中を照らした彼女が見たもの、それは、半開きに開けられたままの檻のドア、その中で眠る虎――プレダキング。そして、そこから一、二メートル離れたところで仰向けに倒れている、ひとりの男だった。
 男が眠っているだけだということは、すぐに分かったという。そのとき、彼女の頭の中に真っ先に浮かんだのは、理真りまの推理どおり、“このままでは虎が寝ている人間を襲ってしまい、殺処分されてしまうかもしれない”という憂慮だった。彼女はすぐに、前回侵入した際に、倉庫にクロスボウがあったことを思い出した。
 九時四十五分、倉庫まで往復し、クロスボウと数本の矢を現場へ持ち込むことに成功した彼女だったが、その細腕ではクロスボウの弦を引ききることは出来なかった。“早くしなければ、プレダキングが、あるいは男が目を覚まして、最悪の結果になってしまう!”悪戦苦闘すること十五分の、午後十時、彼女は、サーカスを観賞したときに、ピエロのひとりがクロスボウの弦を引く際に何か紐のようなものを使っていたことを思い出した。“あれ、、も倉庫にあるかもしれない!”倉庫へ取って返した彼女は、そこで“コッキング紐”を探しだした。

 女子高生の自供を受けて、古佐野こさのもまた、自らの犯行計画を自供した。
 縫原ぬいはらが飲むジュースと、さらには、その日のプレダキングの餌にも睡眠薬を混入させ、飲み会で人が出払ったところを狙い、眠りに落ちた縫原をコンテナに運び込む。計画どおり、その中ではプレダキングも気持ちよさそうに眠っていた。古佐野は熟睡している虎の目の前を易々と通過し、これも熟睡中の縫原を檻の中に横たえる。檻の清掃中の事故に見せかけるため、檻にもコンテナにも施錠はせず、鍵は縫原の体の近くに投げておいて、古佐野は悠々と夜の繁華街に繰り出した。
 ひとりと一頭に飲ませた睡眠薬の量の効果では、午後八時頃に先にプレダキングが覚醒し、縫原を襲い殺すはずだった。しかし、目を覚ましたプレダキングは、目の前に横たわっている調教師見習いに爪も牙も立てることはなく、睡眠薬の効果がまだ残っていたのか、再び夢の世界へまどろんでいくことになった。一方、縫原は体質によるものだったのか、どうせ死ぬのだからと、彼が飲むジュースに古佐野がむやみ多量に睡眠薬を混入させた効果だったのかは分からないが、数時間以上も眠り続けたまま、二度と目を覚ますことはなかった。
 すでにプレダキングが縫原を襲い殺しただろうと――そう思い込んでいた古佐野は、“死体の第一発見者”の演技プランをあれこれと考えながら、細く開けたコンテナのドアの隙間から腕を入れ照明のスイッチを押し、中を覗き込む。すでにプレダキングは覚醒済みで、檻の扉の施錠もされていないことが分かっていたための措置だった。が、そこには思いもかけない結果が待っていた。彼の計画どおり、確かに縫原は死んではいたのだが、その死因がまったく想定外のものだった。しかも、プレダキングは気持ちよさそうに眠っているではないか。何事が起きたのかを確認しようと、コンテナに入り込んだ古佐野だったが、そこで近づいてくる足音を聞いてしまう。窓がすべて荷物で塞がれているこのコンテナに、出入り口はドアひとつしかない。が、今、そこから出てしまえば、近づいてくる人物に確実に見つかってしまうことは必定。それならば、この雑多な荷物の陰に隠れてやり過ごしたほうがいい。そう考えた古佐野は、荷物の中に、倉庫にあるはずのクロスボウと、コッキング紐が紛れていることなど気づかないまま、物陰に身を潜めたのだったが……。

 ――絶滅危惧種であるベンガルトラの生息数は、地球上に二千五百頭前後。対してヒトは七十億人。どちらを救うかという選択を迫られたら、答えは決まっている。
 縫原を殺害した女子高生は、取り調べでそう語ったという。
 しかし、それは、縫原が彼女にとって、「名前も知らない他人」あるいは「七十億分の一のヒトという生物」だったからこそ出来た選択のはずだ。もし、虎の檻の中に倒れているのが、彼女の肉親や友人だったなら、そして、虎が眠っておらず、今まさに倒れている人間に飛びかかる寸前だったら。そして、彼女の手に矢をつがえたクロスボウが握られていたなら……。その選択は、どう変わっていたのだろうか。あるいは……。


 推理を終え、サーカスを辞する前に、理真は、最後にもういちどプレダキングを見せてもらえないかと清浦きようら団長に頼み、彼はそれを快諾した。丸柴まるしば刑事は、警察との連絡で席を外したため、理真と私の二人でベンガルトラと再対面することになった。
 ――また来たのか。と言わんばかりの顔で、プレダキングは私たちを迎えた。
 古佐野の計画では、プレダキングは午後八時頃に睡眠薬が切れて目を覚まし、檻の中に横たわる縫原を襲い殺してくれるはずだった。しかし、彼の思惑は外れ、プレダキングは、目の前に仰臥している人間に対して、その牙も爪も食い込ませはしなかった。相手が普段から接している調教師見習いだと分かっていたのだろうか。あるいは、サーカスで飼い慣らされ、常に人間と生活を共にしている彼(あるいは彼女)は、人間のことを自分の仲間と認識していたのか。それとも、ただの気まぐれに過ぎなかったのか。その答えを聞き出す術はない。
 私は、プレダキングを見て思う。こんなに立派な体躯をして、向かうところ敵なしの戦闘力を誇るはずの虎が、今や絶滅危惧種に指定されており、恐らく身体能力という点では全生物の最下層に位置するであろう人間が、地球上のいたるところに繁栄している。虎と生身で戦って勝てる人間はいない。しかし、種全体として見たら、人間は虎に対しての圧倒的勝者といえるだろう。鋭い爪も牙も持たない人間という種族が、こうして地球生物の頂点に君臨しているという事実を、虎をはじめとした――人間には到底及ばないほどの身体能力を誇りながらも、絶滅の危機に瀕している猛獣たちは、いったいどんな思いで見ているのだろうか。

「わあっ!」「ふぁっ!」

 私と理真は思わず抱き合った。プレダキングの喉奥から、低く重い唸り声が漏らされたためだった。






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