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未完成の暗号

目次

第1章 遺書の謎

 どの道こういう結果になるのであれば、もっと早くにこの決断をすべきでした。
 願いを叶えるには短すぎ、しかし、決して届かぬ夢を見続けたまま過ごすにはあまりにも長すぎる。それが私に残された人生の時間です。夢を捨てて割り切って生きることも出来ない未練がましい性分ゆえ、こうするより他に道はありませんでした。
 葬式は上げていただかなくとも結構です。部屋の退去費用などは、私の口座の残高から工面して下さい。最期までご迷惑をおかけしましたことをお詫びいたします。幼少の私を預かり、これまで育ててくれた叔父、叔母には感謝してもしきれません。不肖の身ゆえ、何の恩返しも出来なかったことをお許し下さい。
 それでは、私は父と母に会いに行きます。同じ手段で選んだ死ゆえ、再会は叶うものと信じております。

津田俊司つだしゅんじ

 読み終えると安堂理真あんどうりまは、その文章が記されているB5サイズの紙――ビニール袋に入れられている――をテーブルの上に置いた。縦書きの罫線が入った便箋で、鉛筆による手書きだった。これは文面からも分かるとおり、署名者である津田俊司という人物が残した遺書――と見られている。
 津田が首つり死体となって発見されたのは五日前のこと。変死体ということで解剖も含めたひととおりの捜査は行われたが、事件性のない自殺であると断定された。残されていた遺書も、筆跡鑑定の結果、本人の肉筆で書かれたもので間違いはないとの結果も出ている。にもかかわらず、その遺書が指紋等の付着を防ぐ目的でビニールに包まれた状態で保管され、かつ、新潟県警が不可解な事件捜査において協力を仰いでいる素人探偵の安堂理真に読まれているというのは……。

「この文面が、“暗号”になっているってこと?」
「そう」理真の問いかけに、新潟県警捜査一課所属の丸柴栞まるしばしおり刑事は頷いてから、「……らしい」と付け加えた。

 怪文書は、津田の死が自殺と断定された二日後に新潟県警に舞い込んできた。
『津田俊司の死は他殺だ。遺書の暗号を解けば犯人の名前が明らかになる』
 とワープロソフトで打たれた手紙が県警の郵便受けから発見されたのだ。当然というか差出人は不明。切手も貼られておらず封筒は白紙だったことから、郵便物ではなく、何者かが県警の郵便受けに直接入れたものだと見られている。
 色めきだった捜査一課は津田の遺族に連絡を取ったが、時すでに遅し、すでに津田の遺体は荼毘に付されており、彼が借りていたアパートの退去手続きも済み、さらに、津田の遺品はほとんどすべて遺族の手よって処分されたあとだった。ただ、変死捜査の証拠品扱いで警察が保管していた遺書だけは、遅れて遺族のもとに返却されていたため、間一髪の差で再押収することが出来た。“間一髪”というのは誇張ではない。あと一時間も警察の連絡が遅れていたら、津田の遺族は、その遺書を可燃ゴミとして処分するつもりでいたというのだ。

「で、どう? 読んでみて。暗号を解読できた?」

 応接室のテーブルに身を乗り出させ、ぐいと迫ってきた丸柴刑事に、

「そんなに簡単に解けたら苦労しないって」

 ため息交じりに理真は答える。

「さすがに証拠品を持ち出すわけにはいかないから、コピーを渡しておくわ」

 丸柴刑事は、津田の遺書をコピーした紙を差し出した。それを受け取り、改めてざっと文面に目を通した理真は、

「……私、暗号って得意じゃないんだよね」
「そんなこと言わないでよ。もう、県警としては理真だけが頼りなんだから」
「ねえ」と理真は、こちらに顔を向けてきて、「由宇ゆうはどう? 何か気づいたことあった?」

 私に意見を求めてきた。

「探偵が解けない暗号を助手ワトソンに振らないでよ」

 私は降参の意味で小さく両手を上げた。

「いや、でもさ」と理真は諦めず、「こういう暗号って、ちょっとした気付きがきっかけになって解けることが多いからさ、むしろ、ワトソンの柔軟な思考のほうが突破口になる場合もあるんじゃないかと」

 思考が柔軟じゃないからこそワトソンの立場にいるわけだが。
 そう。私、え江じま嶋由宇は、素人探偵である安堂理真のワトソンであり、遡れば、私は彼女が居住しているアパートの管理人であり、さらに遡ると、高校時代の同級生でもあるのだ。二十代半ばの女性同士の探偵、ワトソンのコンビというのは、探偵業界広しといえどもなかなかに珍しい取り合わせなのではないかと思っている。ちなみに、私の職業がアパートの管理人であるように、理真も“素人探偵”というだけあって探偵業を生業にしているわけではない。彼女の本業は作家だ。

「警察のほうでもさ」と理真は話し相手を丸柴刑事に戻して、「暗号を解こうと奮戦したわけでしょ」
「もちろん。色々と試してみたわよ。文章の漢字を全部開いて総仮名にしてみたり、ローマ字に直してみたり、数字に置き換えてみたりして。でもね、何が何やらさっぱり。意味不明な文字の羅列にしかならなかったわ」
「“犯人の名前が明らかになる”ってことは、名字か名前か、その両方か、この遺書の暗号に隠されているのは、そんなに長い文章センテンスじゃないってことだよね」
「たぶんね。姓名双方が記されているのだとしても、長くて仮名表記で十文字強くらいでしょうね」

 あんどうりま。まるしばしおり。えじまゆう。この場にいる三人の姓名でも、長くて七文字にしかならない。レジェンド探偵の“思考機械”こと、オーガスタス・S・F・X・ヴァン・ドゥーゼン教授なら、中点を抜きにしても十五文字を超えるが。

「まあまあな量のある文章だから、適当に文字を拾っていけば、何かしらの名前くらい容易に組み立てられちゃうよね。例えば……」と理真は受け取ったコピー紙に目を落として、「この文章に使われてる平仮名を拾えば、私たち三人全員分の姓名を作ることが出来るわ」

 理真が、懐から取り出した赤ペンで文章の平仮名に丸をつけていくと、確かに三人全員の姓名を平仮名で拾い上げることができた。

「問題は……それが、どんな法則で成り立っているかってことだよね。暗号というからには、必ずそれを解くための法則があるはず」

 手にしているペンで、こつこつと頭を叩いた。コピー紙を睨んで黙り込む理真と私。そこに、

「そうだ」と丸柴刑事が、「事件の詳細を話しておくわ。まだ大まかにしか教えてなかったから」
「だね」と理真も顔を上げて、「何でも、死体の第一発見者は県警の巡査だったとか?」
「そうなのよ。新潟県警地域部地域課所属の三崎涼子みさきりょうこっていう名前の巡査なんだけど、彼女の証言によるとね……」

 丸柴刑事は三崎巡査の証言による津田俊司の遺体発見経緯を話し始めた。


第2章 疑惑の“暗号”

 休日に買い物に出かけた帰り道、三崎涼子みさきりょうこ巡査は、愛車を駐めてある駐車場まで歩く道すがら、何気なく視線を向けた先にあったアパートの窓に目を留めた。一階の部屋のものであるその窓は数十センチほど開けられており、日差しの向きの関係から室内の様子がかなりはっきりと見て取れたという。いかな窓が開いていたとはいえ、本来であれば他人の部屋を覗き込むような真似を――まして警察官という立場で――するわけはないのだが、そのときばかりは事情が違っていた。窓から見える室内に人らしき姿が確認できたのだが、その人物は背中からドアに寄りかかったような体勢で床に座り込んでおり、ぴくりとも動いていなかったためだ。窓に近づいた三崎巡査は恐る恐る室内を覗き込み、即座に119番通報をした。ドアに寄りかかったように見えた人物は、ドアノブに架けた紐で首を吊っていたのだった。

「到着した救急隊員によって、その男性はすでに死亡していたことが確認されたわ。ドアノブに架けた紐を首に巻いて、自身の体重を使って首を絞めるっていう、宙吊りにならない“非定型縊死いし”と呼ばれる方法ね。部屋の机の引き出しの中から、封筒に入った遺書も発見されたわ」
「それが、これってわけね」

 理真りまは、丸柴まるしば刑事の手元に引き寄せられた、ビニール袋に入れられた便箋に目をやった。

「そう」と自身も遺書に視線を向けてから丸柴刑事は、「亡くなっていた男性の名前は、津田俊司つだしゅんじさん、三十五歳。市内の工場で働く作業員だったわ」

 丸柴刑事は鞄の中から取り出したファイルを開き、理真と私に見せる。現場の状況を写した写真が並べられており、その中に遺体を撮影した一枚もあった。丸柴刑事が話したとおり、“非定型縊死”であるため、顔に一部鬱血が見られるが(定型縊死――いわゆる通常の首つり――の場合には、こういった顔面の鬱血は見られないという)生前はかなり色白だったようだ。不健康に見えるぎりぎりの痩せ型で、整ってはいるものの、どこか厭世的な顔立ちをした男性だった。言い方は悪いかも知れないが、自殺しても仕方ない、と納得させられるようなタイプだ。

「この津田さん、幼い頃に両親を自殺で亡くしていてね」
「ああ、それで遺書には『同じ手段で選んだ死』って書いてあるんだね」
「そう。それも、ただの自殺じゃなくって、両親が一家心中を目論んだのだけれど、ひとり息子だった津田さんだけが生き残ったと見られたのね」
「そんな過去があったんだ……」
「そうなの。そのときも両親は今回の津田さんと同じように首を吊って亡くなったのだけど、津田さんだけは睡眠薬を飲まされたらしいの。いくら心中とはいえ、小さい子供に首つりをさせるのはさすがに躊躇したのかもね。でも、嚥下した量が致死量に達していなかったのか、心中が発見された時点で津田さんひとりだけは瀕死の状態で、治療の末に息を吹き返したの。もしかしたら、両親が無意識に『子供は死なせたくない』と思って、飲ませる睡眠薬の量を見積もりよりも少なくしたのかもしれないわね。両親が経営していた会社が倒産して、資金繰りもままならず、世を儚んでの一家心中だったと見られているわね。その後、津田さんは親戚に引き取られたのだけれど、その引き取り先の叔父夫婦が冷たい人らしくてね、『義務教育の中学までは面倒を見てやるが、高校に進学したければ自分で学費を稼ぐか、奨学金を出してくれる学校へ行け』と言われたそうで、猛勉強をして奨学金のある高校に入って、さらに大学にも進学したそうよ」
「苦労人だったんだね」
「そうね。でも、大学を卒業したあとは就職に苦労したみたい。勉強はできるんだけど、内向的な性格が災いして、人間関係が重視されるような仕事は不得手で、結局は、人付き合いの必要がない個人作業で働ける工場での仕事を選んだらしいわ」

 応接室にしんみりとした空気が流れる。それを払拭するかのように理真が、

「それで、例の怪文書が県警に舞い込んでは来たわけだけれど、一度は自殺ということで決着を見てるんだよね。その根拠はなに? 遺書の文面だと具体的なことは書かれていないものの、夢が叶わず人生に悲観して死を選んだ、みたいに読めるけれど」
「これは推測だけれど、津田さんは作家になるのが夢だったみたい」
「作家か……そうなんだ」
「実際、津田さんは、文学賞の公募に何作か作品を応募してはいたんだけれど、どれも一次落ちだったそうよ」
「まあ、厳しい世界だからね。それにしたって、三十五歳でしょ。世を儚むにしても、作家の道を諦めるにしても、あまりにも早すぎるよ。歳を重ねてからのほうがいいものが書けるなんて、小説の世界では当たり前にある話なのに……」

 理真は切なそうな吐息を漏らした。その顔を見た丸柴刑事も表情を曇らせて、

「……続けるわね。職場の人に聞き込みをしたところ、津田さんは普段から大人しいのだけれど、いつもに輪をかけて大人しくなるというか、仕事も手に着かないくらいに塞ぎ込む時期が何度かあったそうで、調べてみると、それが、津田さんが応募した文学賞の結果発表の時期と重なっていたの。遺書は鉛筆による手書きで、筆跡も津田さん本人のものと太鼓判が押されているわ。解剖でも、首つり以外に死因に繋がるような要因は発見されなかったしね。首の索痕などの遺体の状態も自殺特有のもので間違いないそうよ。現場には争ったような痕跡もなし。誰かに恨まれるような人付き合いも確認できていないわ。おまけにね、津田さんは死ぬ間際に、車とかパソコンとかの、売れるものは全て換金して、そのお金を自分の口座に入れていたの」
「そういう事実が重なっていたのなら、自殺と見ても間違いはないね」
「でしょ。で、自殺で片が付いて、諸処の手続きも終わった矢先……例の怪文書が送られてきた――というか、県警のポストに投げ込まれたってわけ。文書は総ワープロソフト打ちだし、使われた紙や封筒から送り主を特定するのは、まず無理ね。指紋も出てこなかったわ。ポストは監視カメラの撮影範囲外だったから、どんな人物が入れたのかも不明」
「警察のほうでも、他殺の観点からもう一度捜査をやり直しているんだよね」
「もちろん。現場周辺の聞き込みも、より念を入れて再開してるわよ。ちなみにね」と丸柴刑事は取り出した手帳を見て、「津田さんの死亡推定時刻は、死体が発見された日の午後二時から三時。三崎巡査が死体を発見して119番通報をした時刻は午後四時ね」
「亡くなって、すぐのことだったんだね」
「そうね。窓が若干開いていたから、津田さんは通行人に早く発見してもらいたかったのかもね。死体が痛んでしまう前にって」
「……」

 その言葉を聞くと、理真は腑に落ちないという顔をして黙った。それを察した丸柴刑事が、

「どうしたの? 理真」

 と訊くと、

「それはおかしいんじゃない?」
「おかしいって、どういう?」
「窓を開けたまま自殺した目的っていうのが、自分の死体を早期に発見してもらいたかったためっていうならさ、それは別の危険を孕んでることにならない?」
「なに?」
「自殺する瞬間、もしくは、その直後を目撃されてしまう可能性があるってことだよ」
「……ああ、そうか」
「そうだよ。津田さんの部屋はアパートの一階で、その窓は通りに面してたわけでしょ」
「うん。だからこそ、三崎巡査は津田さんの遺体を発見できた」
「なら、さっき言ったように、まさに自殺する瞬間や、その直後を第三者の通行人に目撃されでもしたら、すぐに止められるか119番通報されて、自殺未遂に終わってしまうことだって十分ありえる」
「津田さんの心情としては、窓を開けたまま自殺を遂行するということはありえない」
「私は、そう思うけど」
「同感よ。だったら、窓が開いていたというのは……」
「それだけで、すぐに他殺に結びつけるのは乱暴かもしれないけれど」
「再捜査する意味はありそうね。なぜ、窓は開いていたのか……」

 二人の話を聞いて、私にもひらめくものがあった。

「あ、ねえ、理真、丸柴さんも、もしかしたら、目撃者はいたのかもしれない」
「津田さんが自殺するところを?」

 理真に訊かれた私は、

「じゃなくて、殺人現場」
「殺人現場?」
「そう。津田さんの死は実は他殺で、犯人は死体を自殺に偽装したんだよ。偽装、というか、解剖の結果、津田さんの死は首つりによる自殺であると断定されているわけだから、犯人が津田さんに自殺するよう強要したのかもしれない。で、犯人は、自殺により信憑性を持たせるため、津田さんを脅してニセの遺書を書かせる。遺書は鉛筆の手書きだから犯人自身には作成できないからね。でも、津田さんも唯々諾々と殺人者の指示に従いはしなかった。一見普通の遺書に見せかけた文面に、暗号を使って巧みに犯人の名前を隠したんだよ。その一部始終を目にしていた目撃者が、“これは殺人事件である”と教えたいがため、例の怪文書を県警の郵便受けに……」

 ……いやいや。言ってるうちに、自分でも突っ込みどころ満載の説だと気が付いた。が、ここは自分から否定はせず、探偵と刑事の顔を立ててやろう。的外れな推理を披露して探偵を引き立たせるのも、ワトソンの大事な役割だというし。

由宇ゆう、その目撃者は、どうして津田さんが書いた遺書が“暗号”になっていると分かったの?」

 案の定、理真から指摘を受けた。ごもっとも。そうなのだ。仮に、今私が言った推理――というか、ただの推測――が実際のものだったとしても、理真の指摘どおり、その遺書が“暗号”であると見ていただけで知り得たはずがない。まさか、津田自身が「私がこれから書く遺書には、犯人の名前が暗号になって隠されていますよ」などと口に出すはずもない。すぐ隣には、その犯人がいるのだ。

「仮にだよ」と理真は続け、「もしかしたら、目撃者には津田さんが書く遺書の文面を読んで、それが暗号になっていると気づけたとしよう」

 そうだ、その可能性もあるではないか。それならば、津田がわざわざ声に出さずとも、目撃者は覗き見ただけで遺書が暗号だと知り得る。

「そうだったらさ、直接、犯人の名前を通報したほうがよくない?」
「た、確かに」

 そりゃそうだ。理真の言葉に私は頷く。

「読んだとおり、あの文章は一見、まったく遺書として違和感のない内容で、とても暗号が仕込まれているようには見えない。それでもなお、それが暗号だと看破できたということは、それはもう、ひと目見てあの文章が暗号だと分かったということになる。それはつまり、目撃者には暗号の仕組みが分かっていたはずで、そこに隠された犯人の名前も読み解くことが可能だったはず」
「津田さんの死が他殺だったことを知らせるにしても、『遺書が暗号になっている』なんて胡乱うろんな言い回しをする必要ないもんね。直球ずばり、犯人の名前を書いて糾弾すればいい。その補足として、『あの遺書は実は暗号になっていて、こういう解き方をすれば犯人の名前が分かるようになっている』と追記しておけば済むわけだ」
「そういうこと。それに、その目撃者が犯行の様子を見ていたのであれば、ついでに犯人の外見的特徴もあわせて書き添えておくはず。性別とか、年齢とかをね」
「うーん……」

 言い返すことは何もない。

「でも、かと言ってね、由宇の推理を全面否定するわけにはいかない。なにせ、『津田さんの遺書は暗号だ』という意味のことを送ってきた人物は実際にいるわけで、それを犯行の目撃者がやった、という可能性は十分あり得る」

 理真の表情から、私に対するなぐさめではなく、本心からそう言っているようだ。

「自殺……遺書……暗号……か」

 理真は、ふう、とため息をついた。


第3章 巡査 三崎涼子

理真りま、とりあえず、死体の第一発見者から話を訊きたいでしょ」
「それは、もちろん」

 理真がすぐに答えを返すと、「ちょっと待ってて」とまる丸しば柴刑事は応接室を出て行き、少ししてから、ひとりの制服姿の警察官を帯同して戻ってきた。

「地域部地域課所属巡査の、三崎涼子みさきりょうこです。年齢は二十四です。よろしくお願いします!」

 理真や私よりも若干――ほんの若干――若い三崎巡査は、ぺこりと頭を下げ、理真と私も立ち上がって、「よろしくお願いします」と挨拶を返した。

安堂あんどうさんと江嶋えじまさんのお噂は、かねがね伺っていました。こうしてご本人とお会いできるとは感激です。私のいる地域部では、安堂さんにご協力いただけるような事件にはなかなか遭遇しないものですから……」

 私たちの対面に、丸柴刑事と並んで腰を下ろした三崎巡査は、やや緊張の見える面持ちで理真に話しかけた。探偵だけでなく、ワトソンである私の名前も出してくれ、気を遣ってくれているようだ。確かに、理真が関係するようないわゆる不可能犯罪は、そのほとんどが殺人事件に絡むため、捜査一課以外の部署と一緒に捜査をするということはあまりない。他部署にも、理真と私が個人的に親しくしている刑事はいるが。

「三崎さん、もっと安堂さんと一緒に仕事をしたいのだったら、捜査一課の刑事を目指してみない?」
「そ、そんな、私なんかには、とても務まりませんよ……」

 丸柴刑事の冗談めかした言葉を本気に取ったわけではないだろうが、三崎巡査は目を丸くして顔を左右に振った。丸柴刑事は、三崎巡査がいる手前だろう、理真のこともかしこまって名字呼びにしている。であれば理真も、丸柴刑事のことを「丸姉まるねえ」などといつものフランクな呼び方はしなくなるだろう。

「では、三崎さん、お話を聞かせていただいても」
「は、はいっ」

 理真にそう声をかけられ、三崎巡査は背筋を伸ばした。

「五日前のことです。私は非番で、古町ふるまちに車で買い物に出かけました。それで、買い物を済ませて駐車場に戻ろうとしたところ……」

 死体発見に至るまでの三崎巡査の話は、先ほど丸柴刑事から聞かせてもらったものとの相違は何もなかった。聞き終えた理真は質問をする。

「死体――そのときは、確実に死体だとは分からなかったでしょうけれど――を発見して、119番通報をしてから、救急車が到着するまでの間は、どうされてましたか?」
「上司に電話をして指示を仰ぎました。警察官である私が第一発見者になったので、何か出来ることがあるのではないかと。上司からの指示は、現場の保存を最優先して、誰も立ち入らせるなということでした。所轄署の警察官をすぐに向かわせるとも。実際、救急車よりも所轄のほうが到着は早かったです。その後は、第一発見者ですから、所轄署刑事からの聞き込みを受けました」

 その際の聞き込みの詳細も三崎巡査は話してくれたが、現場に不審な点があっただとか、怪しい人影を見かけたなど、事件性に繋がりそうな要素は何も見聞きしなかったと答えたという。

「被害者――自殺と決まったわけではないので、とりあえずこう表現しますが――である津田俊司つだしゅんじさんのことをご存じだったとか、面識があったとか、そういったことはありませんでしたか?」
「はい、何も……」

 三崎巡査は首を横に振る。死体の発見がまったくの偶然なのだから、それもやむなしだろう。

「それでは、三崎さん、死体発見時のことを思い出してみて、どうでしょう。改めて、他殺だと断定したフィルターを通して見てみると、何か現場に違和感や、おかしな点など、思い当たることはありませんか?」

 三崎巡査は、視線を斜め上に向け、口を一文字に結んでから、

「……いえ、何も怪しいところがあったとかは、思い出せません。すみません」

 答えて頭を下げる。いいんですよ、と理真は、

「では、今のところは、警察の再捜査の結果待ちとする以外にありませんね」

 三崎巡査の次に、丸柴刑事を見て言った。

「そうね。じゃあ、とりあえず今日はこんなところで……」

 丸柴刑事は、テーブルに出しっぱなしにしていたファイルを手に取った。その下には二枚の紙が置かれており、うち一枚はビニール袋に入れられている。丸柴刑事が持ってきた津田の遺書と、理真に渡したそのコピーだ。それを目に留めた三崎巡査は、

「――あっ? あ、安堂さん、もしかして……“暗号”をもう解いてしまったとか……?」

 目を見開いて、卓上の紙と理真の顔とを交互に見た。その視線を受けた理真は、

「えっ? あ、いえ、それはまだ……」
「そうなんですか?」だが三崎は、理真の言葉に疑いでも持っているかのような口調で、「で、でも、これは……?」

 と遺書――コピーのほう――の一部を指さした。その指先には、赤ペンで囲われた文字がある。

「ああ、これは、違うんです」

 理真は再び否定の言葉を口にする。それは、遺書に使われている平仮名から私たち三人の名前を拾い上げたときに、理真が書き入れたものだ。

「これはですね、単なるお遊び――などと言うと語弊がありますが――でして、暗号解読とは無関係なものなんです」
「そうでしたか……」

 それを聞くと三崎巡査は、ため息をひとつ漏らした。

「あとで、新しいコピーを渡すわね」

 丸柴刑事が言った。もらったコピーに、さっそく理真が赤ペンを入れてしまったためだ。

「それでは、三崎さん」と丸柴刑事は隣を見て、「また、何か協力を仰ぐときには連絡させてもらうわ。今日のところは、これで――」
「あ、あの……」三崎巡査は、丸柴刑事の言葉を遮るように、「も、もしよろしければ、私も、捜査に加えていただくことは可能でしょうか?」

 真剣な表情をして、捜査一課刑事の顔を見返した。

「えっ?」

 と丸柴刑事は、鞄にファイルをしまう手を止める。

「上司には許可を取ってあります。ですので、丸柴さんさえよろしければ……」
「うーん……そういう話になると、さすがに私の一存では……」と、そこまで言って丸柴刑事は、対面に座る理真の目を見て、「そうだ! 安堂さんと一緒に捜査するというのは、どう?」
「えっ? よろしいんですか?」

 三崎巡査からも顔を向けられ、二人の警察官の視線を同時に浴びることとなった理真は、予想外の展開に数秒間無言を貫く。

「ねえ、理真――安堂さん。ちょっと今は人手が足りなくてね、私、今度の事件は同行できないかもしれないの」
「……私は、構いませんけれど」
「本当ですか?」

 理真からの承諾の言葉を聞き、三崎巡査は卓上に身を乗り出してくる。

「とは言っても」と理真は続けて、「今回の私の役目は、この遺書に隠された暗号を解くことなので、外に出回るという現場作業はほとんどないと思います。ですので、私と由宇と一緒に、暗号を解読する作業が主な仕事になるかと思いますけれど」
「は、はい! よろしくお願いします」

 三崎巡査はその場に起立し、びしっと敬礼をした。


第4章 焼きそばは踊る

 丸柴まるしば刑事は捜査に戻り、応接室には理真りまと私、さらに三崎みさき巡査の三名が残された。
 理真が、「コーヒーでも買ってきましょう」と腰を浮かせかけると、「では、私が」と三崎巡査はいち早く立ち上がり、コーヒーを買い求めるため部屋を出て行った。

「素直そうな、いい子だね」

 三崎巡査が出て行ったドアを見ながら、理真が言った。

「そうだね」と私も、「丸柴刑事もだけど、事件捜査のときに私たちが一緒になる刑事って、ほとんどが年上だから、新鮮だね」

 三崎巡査が出て行くとき、理真は財布から千円札を一枚抜き、これで買ってきて、と手渡した。最初こそ恐縮して受け取ろうとしなかった三崎巡査だったが、この中で自分が一番年下だと言うことで納得させられ、平身低頭の姿勢で千円札を受け取ったのだった。いつもであれば、私たちのほうが刑事から奢ってもらう立場だったため、そういった意味でも新鮮な体験だと言える。

「お待たせしました!」

 三本の缶コーヒーを抱えた三崎巡査が戻ってくると、私たちはコーヒーで一服しつつ、雑談に入った。三崎巡査は、「ごちそうになります!」と深々と頭を下げてから、缶のプルタブを上げた。

「安堂さんは、これまでたくさんの事件を解決されてきたんですよね! お噂は地域部にも届いていますよ!」

 目を輝かせんばかりの三崎巡査に対して、理真は、

「そうですね。でも、私ひとりの力で解決できたわけじゃありませんよ。警察の方々や事件の関係者といった、多くの人たちの協力があってこそです」
「ははあ……ご謙遜を」
「いやいや、本当に」
「あの、サーカスで起きた事件も、安堂さんが解決されたと聞きました(『虎の穴の殺人』参照)。私、あのサーカスの公演前準備で、安全性を確認するための立ち会いに参加していましたから、感慨深いです」
「そうだったんですか」
「はい! 残念ながら、殺人事件自体は地域部の管轄ではないので、お会いすることは叶わなくて残念に思っていたのですけど、まさか、こうして捜査にご一緒できるとは、夢にも思っていませんでした。感激です!」
「あ、ありがとう」

 少しばかりしどろもどろに理真は返事をする。調子が狂っているようだ。いつもの捜査では、刑事には対等以下の立場として接しているため、こんな具合に崇め奉られる(?)ことに理真は慣れていないのだ。私も、ことさら探偵をヨイショするタイプのワトソンじゃないしね。と思っていると、

江嶋えじまさんは、安堂さんのワトソンなんですよね」

 三崎巡査は私にも話を向けてきた。

「そ、そうですよ」

 そんなにキラキラとした目で見られると、私のほうも調子が狂ってしまう。

「やっぱり、いずれは安堂さんの解決した事件を小説化するお考えがあるのでしょうか?」
「い、いえ、そこまでは、まだ……」

 そんな予定は今のところないが、もし、この事件を小説にする機会があれば、私は三崎巡査の描写にことさら頭を悩ませることになるだろうな、とは思った。
 その後も三崎巡査は、理真が解決した事件のことを聞きたがり、理真は直近に起きた、青果組合が作ったご当地ヒーローイベントで起きた密室殺人事件の話(『イチゴのヒーロー殺し』参照)などを話して聞かせ、三崎を感心させていた。
 といった雑談に一段落ついたところで、

「そろそろ、事件の話に入りましょうか」
「あっ! す、すみません、私、余計なことばっかり話しちゃって……ていうか、安堂さんに話させてしまって……」

 理真の言葉を聞いて、ソファの中で小さくなった三崎巡査に、「いいんですよ」と理真は声をかける。確かに事件とは無関係な雑談が続いたが、初対面である三崎巡査と私たちとの間にあった緊張がほぐれたことは、こちらとしてもありがたい。理真は物怖じせず、誰にでもぐいぐい行く性格だが、私は違うのだ。

「それで、暗号のことですけれど……」

 と理真は、丸柴刑事から受け取った遺書のコピーを改めてテーブルの中央に持ってくると、それを見た三崎巡査が、

「安堂さん、先ほどは暗号解読とは関係がないとおっしゃっていましたが、この丸は?」

 理真が記した赤ペンの丸印のひとつを指さした。

「ああ、これはね……」

 理真が、この赤丸を書き入れることになったきっかけについて話して聞かせると、

「ふむふむ……」と三崎巡査は、食い入るように紙を凝視して、「……なるほど、確かに、ここに書かれている平仮名だけで、お三方の名前が組み立てられますね」
「でも、何の法則に基づいたわけでもなく、ただ拾い出しただけですから、これでは暗号を解いたとは言えません」
「ですよね。それに、これだと安堂さんたちお三方が犯人ということになってしまいます」
「違うわよ」

 と理真は顔の前で両手を振る。当たり前だ。

「もちろん、今のは冗談です」

 真面目な顔で言わないでもらいたい。

「ふむ……」と三崎巡査は、その真面目な顔のまま、「では、まず、この遺書に隠された暗号の“法則”を明らかにする必要があるわけですね」
「そうなんですけれど……。丸柴刑事も言っていましたが、警察のほうでひととおり考え得る暗号解読のパターンは試してみたそうですから、それでも解けなかったとなると……正直、かなり困難な作業だと思います」
「むむう……」

 腕組みをした三崎巡査は、改めて遺書のコピーに睨むような視線を落とした。そこに理真が、

「三崎さん、どうでしょうか。このまま紙とにらめっこをしていても始まりませんし、ここはとりあえず、お互いにこのコピーを持ち帰ったうえ暗号の解読に取りかかって、明日にでも改めて集合するというのは」
「……そうですね」
「ええ。明日になれば、再捜査で新たに得られた事件の情報が入ってくるかもしれません。そうすれば、この遺書とはまた別の方面から、事件解決の糸口が見つかる可能性もあります」

 窓から差し込む赤い陽光は夕日のものだろう。掛け時計を見上げると、サラリーマンが定時退社する時刻に差し掛かっている。事件の話を聞かせたりしているうちに時間が経ってしまった。

「ですね。承知しました!」

 三崎巡査のくれた敬礼に、理真も同じ形で応じ、私は会釈を返したところに、

「では、私、新しい遺書のコピーをもらってきます。もう鑑識の保管室に戻してあると思いますので」

 再び三崎巡査は立ち上がった。

「鑑識の須賀すがさんって、安堂さんと江嶋さんのお知り合いなんですね。事件でご一緒したことが何度かあるって、自慢されちゃいました」

 遺書の新しいコピーを持ってきてくれた三崎巡査が言った。鑑識の須賀洋輔ようすけさんか。そういえば、しばらく顔を合わせていないな。茶色に染めた髪で理真に気軽に話しかけてくる軽佻浮薄ぶりは今も健在なんだろうな。元気でやっているだろうか……。などと、まるで遠い異国の地にいる知り合いを想うようになっているが、同じ建物内の鑑識課にいるので、会いに行こうと思えばいつでも行けるのだ。まあ、行かないんだけどね。
 コピーを受け取ると、明日の午前十時に同じ応接室に集まることを約束して私たちは三崎巡査と別れた。理真の部屋に戻ると、私は夕飯の支度を始め、その間に理真はさっそく暗号解読作業に取りかかった。

「今日の夕食は、魚肉ソーセージとキャベツたっぷりの焼きそばだよ。たっぷりというか、具はその二種類しか入ってないんだけど」

 私は焼きそば山盛りのフライパンを居間のローテーブル中央に据えた。銘々が(といっても二人しかいないが)好きな分だけ皿に取って食べるスタイルだ。いちいちおかわりを盛りに行くのが面倒だからだ。消費期限の近い魚肉ソーセージが結構な量あったので、それに合わせた比率で焼きそばをしたら四人前くらいに膨れ上がってしまったが、なあに、理真が三人前分くらい平らげてくれるだろう。

「わー、ソースのいい匂い」

 遺書のコピーを睨んでいた理真が顔を上げた。私は焼きそばをする際、既製品のものにひと手間加えたオリジナルのソースを使うことにしている。

「どう? 暗号のほうは」

 箸と皿を渡しながら訊くと、

「さっぱり」と簡単な返事を返してきた理真は、一気に二人前近い量の焼きそばを自分の皿に盛り付けて、「何かさ、とっかかりが欲しいよね」
「例えば?」

 無理をしない私は、半人前程度の量を皿に取る。

「有力な容疑者の名前が分かってるとか。それなら、その名前を探し当てる要領で暗号の法則を見つけられる」
「そんなの、そもそも暗号を解く意味がないじゃん」
「私、暗号は苦手なんだって……」
「また、そんなこと言って。明日、何の成果もないまま本部に行ったら、三崎さんをがっかりさせちゃうよ」
「そりゃね、私も期待に応えたいっていう気持ちはあるよ。というか、むしろ、三崎さんのほうが先に暗号を解いたりして。こういうのって、型にはまらない柔軟な思考が大事だから」

 ワトソンの次は警察官を当てにし始めたぞ、この探偵は。そうこうしているうちに、フライパンの上の焼きそばはどんどん量を減らしていき、当初の目論みどおり、三対一の割合で理真と私の胃袋に収まる結果となった。


第5章 窓は閉ざされていた

 翌朝、約束どおりり理ま真と私は再び県警本部応接室を訪れた。見事な手ぶらで。昨夜夕食後、私も加勢し二人がかりで遺書と格闘したのだが、結局何も見いだすことは叶わなかったのだ。

「おはようございます、安堂あんどうさん、江嶋えじまさん」

 三崎みさき巡査が顔を見せた。彼女のまぶしい笑顔に申し訳なさが湧き上がる。

「いかがでしたか?」

 ソファに腰を下ろすと三崎巡査は、さっそく成果を訊いてきた。それに対して理真は、

「すみません。何も見つけられませんでした」

 素直に頭を下げた。思わず私も倣う。

「そうですか……」若干表情を曇らせた三崎巡査は、「私もです。ごめんなさい!」

 両目を固くつむって、顔の前で手を合わせた。

「謝ることなんてないですよ」

 理真は三崎巡査の手を下ろさせた。

「ですよね……」はあ、と吐息を漏らした三崎巡査は、「名探偵の安堂さんでも解けなかった暗号が、一介の巡査の私なんかに……」
「三崎さん、今日は時間がたっぷりあります。徹底的に暗号に取りかかりましょう。三人寄れば文殊の知恵と言いますし」
「……はい!」
「それじゃあ、さっそく――」

 理真が持参した鞄から遺書のコピーを取り出した、そこに、

「……どうぞ」

 ノックの音に理真が応答すると、ドアを開けて入ってきたのは丸柴まるしば刑事だった。

「どうしたんですか? 丸柴刑事。捜査のほうは?」

 理真が訊くと、

「その捜査でね、ちょっと気になる情報が得られたから、みんなの耳にも入れておこうかと思って」丸柴刑事は空いているソファに座ると、「実はね、容疑者――となではいかないかもしれないけど、怪しい人物が浮かんできたの」
「本当?」
「誰ですか?」

 理真と三崎巡査は、ぐいと顔を丸柴刑事に寄せる。

「亡くなった津田俊司つだしゅんじさんの叔父の、津田鉄雄てつおさん」
「叔父……その人って確か、両親を亡くした津田さんを引き取った?」
「そう。育ての親ね」
「昨日の話では、“育ての親”って言うには、津田さんのことを邪険にしていたそうだけど、それが動機ってこと?」
「ううん。正直、動機という動機は見つかっていないんだけど、津田さんの死亡時刻にアリバイがないの」
「それだけ?」
「うん。でもね、そのことを聴取したときの様子がね……」

 丸柴刑事の話によれば、津田の死を再捜査をすることになった一環で、津田を引き取った叔父と叔母にも話を訊きに行ったときのこと。最初は「もうあいつ私とは何の関係もない」と、聞き込みに訪れた刑事につれない対応を取っていた鉄雄だったが、ある質問をぶつけられると表情が一変した。その質問というのが、津田の死亡推定時刻にどこで何をしていたか、というアリバイを尋ねたものだった。津田の死亡推定時刻は、六日前の日曜日の午後二時から三時の間だが、その時刻のアリバイを訊かれると鉄雄は、急にしどろもどろになった。隣で一緒に聴取を受けていた津田の叔母――鉄雄の妻が、夫のその対応を怪訝に感じたらしく、「その日は朝からゴルフに行っていたじゃありませんか」と夫に代わってアリバイを口にすると、「ああ、そうだった……」と鉄雄は妻の証言を認めた。が、「どこのゴルフ場で、誰と一緒に回っていたか」と刑事に訊かれると、鉄雄は再び要領を得ない回答に戻ってしまい、結局、最終的には「憶えていない」とつっけんどんに答え、「急用を思い出したから」と一方的に聴取を打ち切ってしまったという。

「どこのゴルフ場に誰と行ったかを憶えていない? たった六日前のことなのに?」

 理真は呆れた声を上げる。丸柴刑事も頷いて、

「ちょっと考えられないでしょ。でね、県内のゴルフ場を片っ端から当たってるんだけど、その日に鉄雄さんがコースを回ったっていう記録は、どこのゴルフ場からもまだ見つかっていないの。ちなみに、妻のほうは友人と買い物に行っていたアリバイがあって、その友人や訪れた店の従業員からも証言は取れているわ」
「それは……怪しすぎるね」
「でしょ。それと、もうひとつ。その日曜日の午後二時から三時の間、どうやら津田さんの部屋の窓は閉まっていたそうなの」
「えっ? 二時から三時って、もろに津田さんの死亡推定時刻だよね」
「そうなの。津田さんのアパートと道路を挟んだ向かいにある家の人の証言で、その人は午後二時から三時まで一時間かけて、家の前の駐車スペースで洗車をしていたそうなの。で、洗車中に何気なく何度か道路の向こうを見たんだけど、いつ見てもアパート一階の窓は閉まっていたって、そう証言しているのよ」
「三崎さんが死体を発見したのは、確か……」
「午後四時です」

 三崎巡査が即答した。

「ということは」丸柴刑事がその言葉を受けて、「津田さんの死が他殺なら、犯人が犯行後に窓を開けてから逃走したってこと? あるいは、当初の見立てどおり自殺だったとしたら、津田さんが亡くなったのは死亡推定時刻下限の午後三時で、津田さんが首を吊る直前に窓を開けたということになる。どちらにせよ、窓を開けたという行動は不自然極まりないと思うけど」
「確かに……」

 理真はあごに手を当てて考え込む姿勢になった。丸柴刑事は、腕時計に目を落とすと、

「私、これから捜査に合流しないとだから、もう行くわね」
「うん、ありがとう」
「暗号のほう、期待してるわよ。三崎さんも、ね」
「あっ、はい」

 丸柴刑事にウインクを投げられ、三崎巡査は少し頬を赤らめた。

「さて……と」

 再び三人だけになった応接室で、理真はテーブルの上に遺書のコピーを広げると、

「それじゃあ、こちらも始めますか」
「はい」
「三崎さん、どんな方法を試してみましたか?」
「文章の頭の文字だけを拾ったり、全文をローマ字に直して逆から読んだりとか……」
「こっちではね……」

 今度こそ私たちは額を付き合わせて、暗号解読作業に取りかかった。

「そろそろ休憩にしましょう……」
「ですね……」

 理真と三崎巡査は、疲労困憊といった様子でソファの背もたれに深く身を預けた。疲労困憊なのは探偵と警察官だけでなく、ワトソンも同じだ。眼鏡を外して目を擦ると、鞄から目薬を取り出して点眼する。

由宇ゆう、次、目薬貸して」

 上を向いてまぶたを閉じている私も耳に、理真の声が入ってくる。続いて、「私もお願いします」という三崎巡査の言葉も。三人とも点眼し終え、目をしばたたかせている中、

「あんまり同じ文章を読みすぎて、ゲシュタルト崩壊を起こしかけてるわ」

 理真が呟いた。

「私、コーヒーとお菓子を持ってきますね」

 三崎巡査が立ち上がったところに、

「あ、三崎さん、それなら、ついでに遺書の新しいコピーも持ってきてもらえませんか」

 理真が声をかけた。なるほど、今ある遺書のコピーは、私たちの悪戦苦闘ぶりを物語り、鉛筆や赤ペンで所狭しと書き込みがされてしまっている。

「分かりました。念のため、一枚と言わず十枚くらいコピーを取ってきたほうがいいかもしれませんね」
「ああ、そうだ」と、そこに私が、「三崎さん、封筒もお願い出来ますか」

 昨日も丸柴刑事から受け取ったコピーを持ち帰ったのだが、いかなコピーとはいえ、重要な証拠物件を、しかも、人が人生の最後に書き記した遺書という文章が記されたものを、裸のまま折りたたんで鞄にしまったことに抵抗を憶えたためだ。そのことを伝えると、三崎巡査は、

「さすが江嶋さん、そういった心配りって素敵ですよね」
「ああ、いや……そんなんじゃ……」
「私、嬉しいです……」
「そ、それは、どうも……」
「じゃあ、封筒も一緒に持ってきます。でも、B5サイズの封筒ってあったかな? なかったら、A4の封筒でも構いませんよね」
「それは、もう」
「――三崎さん」

 そこに理真が割って入った。「はい?」と首を傾げた三崎巡査に、理真は、

「この遺書なんですけれど、発見時はどんな状態だったのですか?」
「発見時……ですか?」
「そうです。いま、由宇は紙を折らないで持ち帰りたいって言っていましたけれど、遺書の原書もそうでしたか?」
「……あっ!」と三崎巡査は手を合わせて、「ち、違います。遺書は、三つ折りにされていて、もっと小さな定型封筒に入った状態で発見されたんです!」
「遺書が折りたたまれていたことが、暗号解読に関係してるってこと?」

 私が訊くと、理真は、

「その可能性もあるし……あるいは……三崎さん」
「は、はいっ」
「封筒も持ってきて下さい」
「はい、B5がなかったら、A4サイズのものでもいいですか?」
「違います。実際に遺書が入っていた封筒です」


第6章 あぶり出されたもの

 三崎みさき巡査は、十枚程度の遺書のコピーと、さらに、ビニール袋に入れられた一枚の定形封筒を手に戻ってきた。理真りまに頼まれて持ってきた、津田つだの遺書が実際に入っていた封筒だ。指紋を付けないよう、いつも持ち歩いている絹の手袋をはめた理真は、取り出した封筒をためつすがめつ、ゆっくりと見回していく。郵便番号を書く欄だけが印刷された、どこにでもある真っ白な封筒だった。

「……ここ、何か付いてない?」

 理真は封筒裏側の端を指さした。どれどれ、と私もじっくりと見てみたが、何もみつけられない。三崎巡査も、興味津々といったように、理真が掲げる封筒に視線を釘付けにしている。次に理真は、封筒を顔に近づけると、くんくんと匂いをかぎ始めた。

「これは、もしかしたら……」
「なになに?」
「何か発見されたんですか?」

 私と三崎巡査は、そろって顔を寄せる。

「三崎さん」
「は、はいっ」
「ライターを借りてきて下さい」
「わ、わかりましたっ!」

 三崎巡査は応接室を飛び出した。

「行くよ……」

 私はダイヤルをひねってライターに火を灯した。三崎巡査がどこかから借りてきた、アルミの光沢もまぶしいオイルライターだ。室内のわずかな空気の対流でもその姿を揺らめかす小さな火の上に、理真は慎重に封筒を――特に「何かある」と指摘した端を――かざした。ライターの火から立ち上がる熱気にさらされると、真っ白だった封筒の表面に、なにやら浮かび上がってくるものがあった。

「あぶりだし!」
「そう」

 私の声に、理真は封筒を注視したまま答えた。“あぶりだし”。みかんの絞り汁や砂糖水などで紙に文字や絵をかくと、液体が透明なため何も見えないが、それを火であぶってやると液体の部分が変色して、かかれたものが浮かびあがってくるというおなじみの遊びだ。みかんの汁や砂糖水が染みこんだ部分は周りの紙よりも発火点が低くなり、そのため紙が燃えない温度でも焦げ付きが生じることで起きる現象だというが、それはともかく、

「……出た!」

 理真は封筒をずらし、私はライターの火を消した。

「何か……書いてある」

 理真が指摘した封筒裏側の端。そこに、小さく文字のようなものが、あぶりだし特有の濃いオレンジ色で記されている。

「片仮名? 三文字か?」ごく小さなものであるため、理真は封筒に目を近づけて、「テ……ツ……オ……?」三文字を判読した。

 津田の遺書が入っていた封筒から、文字どおりあぶり出された“テツオ”の三文字。このことはすぐにまる丸しば柴刑事に電話で知らされた。

「……もう一度、津田鉄雄てつおさんに聴取してみるって」

 丸柴刑事との通話を終えた理真は、スマートフォンをテーブルに置いた。

安堂あんどうさん……」と対面に座る三崎巡査は、不安そうな面持ちで、「これが、被害者の残した“暗号”だったのですね……」

 スマートフォンの横に並べるように置かれた封筒に目を落とした。

「透明な“あぶりだし”で書かれていたから、今まで誰も気付かなかったんだね」

 私も封筒を、その隅に記された片仮名三文字を見た。そのあぶりだしを発見した本人である理真は、黙ったまま考え込むように虚空に視線をさしていたが、

「……そうなのかな」
「えっ? なにが?」
「だって」と理真も封筒を見やって、「“あぶりだし”だよ。しかも、遺書が書かれた紙じゃなくて、封筒のほうに。これって“遺書の暗号を解く”って言える?」
「うーん……」

 県警本部に舞い込んだ怪文書には、『遺書の暗号を解けば犯人の名前が明らかになる』と書かれていた。“あぶりだし”とは、確かに言われてみれば、『暗号を解く』という言い回しのニュアンスにはそぐわない方法だと私も思う。

「それと」理真は続け、「根本の問題に戻るけれど、もしこれが津田さんを――自殺に偽装して――殺した犯人の名前で、津田さんが遺書を書かされるときにこのあぶりだしを仕込んだのだとしたらさ、そんなの犯人が見逃すわけはないよ。仮に、犯人の隙を突いてこれが可能だったとしたなら、現場にはあぶりだしに使ったみかんが残されているはず。三崎さん、現場にそんなものはありましたか?」
「……いえ、なかったと……思います」
「犯人が持ち去ったとか?」

 私が言ったが、

「犯行後にみかんが食べたくなったから?」
「唐突すぎるか」

 それに、人を殺したあとにみかんを食べたくなるなど、相当なサイコパスといえる。
 理真は、俯き加減になり、下唇に指を沿わせて黙考の姿勢に入った。これは理真が考え事をするときの癖だ。そして、このときに導き出される推理は、事件の真相に迫る決定打となることが多い。
 しばらくして顔を上げた理真は、

「……やっぱり、津田さんの死は自殺だった」
「えっ? どうしてそう思うの?」

 訊いた私の目を見た理真は、だが、すぐに視線を正面に向け直し、テーブルを挟んで対面に座る三崎の右手を取り、その指を鼻に近づけると、

「……みかんの匂いがします。……この“あぶりだし”を書いたのは、そして、本部のポストに怪文書を入れたのも、三崎さん、あなたですね」


最終章 彼の最後の作品

 いっさいの抵抗も抗弁もすることなく、三崎みさき巡査は理真りまの言葉に頷いた。諦念の色を表情に滲ませたまま。

「私……津田俊司つだしゅんじさんのことは、ずっと前から知っていたんです。いえ、知っているというのは、私のほうからの一方的なものでした。俊司さんは、たぶん……私のことなんてもう忘れてしまっていたと……思います」

 三崎巡査が津田俊司と出会ったのは、今から数年前の図書館でのこと。同じ本の背表紙に伸ばした互いの手が触れあい、思わず引っ込める。そんなドラマのような出来事がきっかけだったという。どうぞ、どうぞ、とその本を譲り合っているうち、二人はどちらからともなく吹き出してしまった。三崎と津田が借りようとしていた本は、犯罪心理の研究について書かれたもので、男女の出会いを誘因したというロマンチックな雰囲気にはおよそ似つかわしくないものだったせいだろう。
 その場は挨拶だけ交わして別れたが、その後も二人は図書館において少なくない頻度で顔を合わせるようになったという。ただ、目が合えば二言三言会話を交わす、その程度の関係でしかなかったが。そのうちに三崎は、警察官になるための勉強というよりも、津田に会えるかも知れないという期待のほうに心を傾かせて、図書館に通うようになっていった。
 だが、次第に図書館で津田を見ることはなくなっていった。その後の調べによって、津田はその時期に引っ越しをしていたことが分かり、通う図書館が代わっていたためなのだろう。一方、三崎のほうでも、それを機会に警察官採用試験の勉強により身を入れるようになっていった。
 二人が再会――いや、三崎のほうで一方的に津田を再見したのは、約半年前のことだった。街で買い物をしていた三崎は、偶然津田を見かけた。あとをつけ、声をかけるタイミングを見計らっていた三崎だったが、その機会は訪れぬまま、津田はアパートの一室に姿を消してしまった。その部屋に掲げられた表札を見て、三崎は初めて津田の名前を知った。
 以来、三崎は何度も津田のアパート前まで行くが、呼び鈴を押すことも、あるいは外出中の津田を見かけても声をかけることも出来ないまま、時間だけが過ぎ去っていった。
「もしかしたら……私が勇気を振り絞って津田さんに声をかけていれば……あるいは未来は変わっていたのかもしれません……」
 三崎のその呟きは真実だったかもしれない。だが、二人の関係は悲劇的な結末を迎えることとなってしまった。
 六日前の日曜日、買い物に出ていたという三崎の証言は嘘ではないだろう。ただ、もうひとつの――そして恐らく主たる――目的を話していなかっただけだ。

「津田さんのアパートの前を通ったとき、いつもの駐車場に車がなかったんです。だから、私、津田さんは遠出しているものだとばかり思っていました」

 確かに駐車場に津田の車はなかった。だがそれは津田が車を売り払っただけであり、津田本人は部屋にいたのだ。すでに、息を引き取って……。

「私、部屋の窓まで行って、期待していたわけじゃないんですけれど……窓枠に手をかけて引いてみたんです。津田さんが、どんな部屋に住んでいるのかとか興味があって……。そうしたら、窓に鍵はかかっていなくて、少し開けて中を覗いたら……」

 自ら命を絶つ際、やはり津田は窓を閉めていたのだ。そこへ四時になって三崎が窓を開けたことで、遺体が発見されることとなった。職務柄――いや、市民の義務として救急に通報し、聴取を受けることになった三崎だったが、死体発見の経緯を訊かれる段になって、咄嗟に嘘をついた。「窓は始めから開いていた」津田のことを知っていて、部屋を覗く目的で窓を開けたなどと証言できるはずもなかった。

「悲しみよりも、驚きの感情のほうが勝っていたと思います。もう、自分の見たものが信じられなくて……。そして、私も事件の関係者ということで捜査情報を耳にするようになって、そこで初めて津田さんの身の上を知ったんです。ご両親を早くに亡くされたこと、叔父夫婦に育てられたこと、作家になるのが夢だったことなどを……」

 津田の死は事件性のない自殺ということで決着がついた。遺留品などはすべて遺族である叔父夫婦に引き取られていったのだが、叔父夫婦のそれらの扱いを警察官仲間から知らされた三崎は……。

「ひどいって思いました。聞けば、遺族の叔父さん夫婦は、津田さんの遺品をすぐに全部処分してしまったというじゃありませんか。私、どうしてもそれが耐えられなかったんです。何とかして、津田さんが生きていた証を残すことは出来ないか……」

 そう悲観に暮れていた三崎の耳に、最後の頼みの綱とも言える情報が入ってきた。
「証拠品として預かっていた遺書だけは鑑識が保管していたが、それも昨日遺族に返還された」
 あの叔父夫婦の手に渡ったら、遺書もすぐに処分されてしまうだろう。その叔父の家に押しかけて遺書を譲ってもらえるよう交渉をしてみるか? いや、それでは間に合わないだろう。叔父の連絡先も知らない。とにかく今すぐに、叔父の手から遺書を取り戻す即効性のある手段はないか……。三崎の出した結論は、“津田の死は他殺である”という内容の文書を警察に出すことだった。“遺書が犯人の名を示す暗号になっている”と書いておけば、警察は即座に遺書を取り戻すだろう。
 三崎の目論みは成功し、遺書が処分されることは免れたが、問題は、犯人なきこの事件にどう落とし所を見つけるかだった。事件が未解決である限り、遺書は証拠品として保管され続け、自分のものとなる機会は訪れない。事件の流れを押さえておくため、三崎は事件の捜査に加わりたいと訴え出た。期せずして、県警が捜査協力を仰いだ素人探偵と一緒になることができ、丸柴刑事が持ってきた格好の情報をいち早く耳にした。「アリバイのない重要参考人がいる」その参考人を犯人として仕立て上げることが出来れば……。

「安堂さんが遺書の入った封筒に目を付けたことを聞いて、その封筒に何か細工を出来ないかと思いました。遺書そのものは、これまで散々調べられているので、今さら何か細工をしたら疑われるに決まっています。でも、封筒のほうはほとんどノータッチだったはずです。最初からあぶりだしが仕込まれていたのだとしても、ごまかせると思ったんです」

 三崎は、今朝休憩室にみかんが置いてあったのを思い出し、このトリックを考案したという。理真に言われて鑑識に遺書の新たなコピーと封筒を取りに行った三崎は、応接室へ戻る道すがら休憩室に寄り、みかんの絞り汁で封筒の端にあぶりだしを仕込んだ。書き込んだのは、丸柴刑事から聞いた津田の叔父、犯人に仕立て上げるべき人物「テツオ」の名。

「二時から三時まで窓は閉まっていた」というアパート向かいの住人の証言を理真は重要視していた。対して、三崎が死体を発見した四時には窓は開いていたという。であれば、窓を開けたのは誰なのか。なぜ、窓を開ける必要があったのか。さらに、そもそもの発端となった怪文書。あれは誰が何の目的で書いたものなのか。あの怪文書を警察が目にすることで、事件にどんな影響が現れるのか。そして、三崎が持ってきた封筒にあぶりだしが仕込まれていたこと。あぶりだしは津田が遺書を書いた時点で書き込まれていたのか。であれば鑑識が見逃すということは考えがたい。封筒はずっと鑑識に保管されており、何者もあぶりだしを仕込むことは不可能だ。それを行うには、封筒を鑑識から持ち出す以外にない。断片的だった理真の推理が繋がった。

 偽証、証拠改竄、三崎はいくつかの罪に問われるとともに、警察官を罷免させられることは免れない。だが、彼女の表情に悔恨の色は見られなかった。特別な計らいと叔父夫婦の許可により、津田の遺書が三崎に預けられることとなったのが、その要因なのかもしれない。
 その叔父、津田鉄雄だが、頑なに証言を拒んでいたアリバイが判明した。彼は、ゴルフに行くと偽って不倫相手と出かけていたのだった。警察が突き止めたその事実によって、叔父夫婦の今後がどうなるのかは誰も知らない。

 三崎は、津田が応募した小説を読んでみたいと願ったが、ああいった応募原稿は落選した時点で廃棄されることになっている。津田は自ら命を絶つにあたって身の回りのものをほとんど処分しており、彼が執筆に使用していたパソコンもリサイクルショップに売られ、ハードディスクは消去されてしまっている。もう、津田が書いていた小説を読むすべ術はない。三崎が手にした、鉛筆による肉筆書きの遺書だけが、津田がこの世に残した最後にして唯一の作品となった。
 罪を償ったあと、悲しい過去を吹っ切って幸せになってもらいたい。別れ際、理真は三崎にそう告げたが、彼女は寂しそうな笑みを浮かべるだけだった。

「いや、それにしてもさ」と仕事を終えて県警本部を出た理真は、「“暗号”っていうのが本当になくてよかったよ。私、全然解ける気がしなかったもん。内心、“こりゃ、やばいよ”って冷や汗ものだった。とうとう素人探偵としての私の看板にも傷が付くなって」

 そういうの、意外と気にしてたのか。

「まあ、そもそも」と私は理真の肩を叩いて、「あの遺書に暗号なんて仕込まれていなかったんだから、しかたがないよ」
「暗号をひとつ解くんだったら、十の密室殺人事件を解決するほうが、ましかもしれん」
「一度に十件も密室殺人が起きたら、この世の末だよ」
「さて、ちょうどお昼どきだし、何か食べて帰ろうよ。焼きそば以外で」

 三人前も食べたくせに、と思いつつ、私は記憶にインプットしてある、おいしい焼きそばを出すお店を検索し始めた。







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