0 クイズ
A:こんなことになるなんて。本当に運がない。本当に、ただただ、運がない。笑えるくらいに。そう、笑える。笑ってしまう。大外れだ。ギャンブルの才能がないのかもしれない。いや、それでも、ギャンブルこそが人生だ。
B:どうしてあの娘が死ぬんだろう? 不思議だ。殺すことはあっても、殺されることなんてない娘だと思っていた。不思議だ。
C:ストーカーというものが、こんなに恐ろしいとは、実際にされる立場になるまで、思ってもみなかった。
D:苦しい。地獄のように苦しい。
E:(言語化できない悲嘆)
F:また、母の夢を見た。
01 白雪姫
分厚いドアをノックする。しばらくして、「はい」と落ち着いた声が帰ってくる。その声を確認して私は中に入る。
「お連れしました」
そう言って、部屋の外の男にめくばせをするが、ぼんやりしている男は反応しない。
腕をつかみ、半ば引きずるようにしてその男を部屋の中に入れる。男はなすがままだ。
広い――私のマンションの全スペース合計よりも広い応接間、その中央にあるテーブル、挟むようにしてソファー。全て黒で統一されている。テーブルを挟んで向こう側のソファーに座っている中年の男が、ゆっくりとうつむいていた顔を上げる。私の雇い主、田古瀬グループの会長、田子瀬海老蔵だ。
すでに初老の域にある歳ではあるが、それを感じさせない堂々たる巨躯と見るものを威圧する眼光鋭い顔。まったく隙を見せない男、だったのは少し前の話だ。いつも隙なく整えていたはずの白髪混じりの髪がわずかに乱れている。それを見るたび、この鉄の塊のような男もやはり人間、人の親の部分もあるのだと毎回新鮮な驚きに打たれる。
「その方が、例の?」
感情の読めない目でこちらを見て言う海老蔵だが、声には困惑が混じっている。それはそうだろう。私だって信じられなかった。
「はい、この方が鍋島寄席也様です」
自分の名前が紹介されても、私がまだ腕をつかんだままの男、鍋島はなかなか反応しない。しばらくして鍋島の濁った目がゆっくりと部屋を彷徨い、最終的に海老蔵に定まる。
「どうも、体調がすぐれないようだな」
まだ困惑をひきずったままの声で海老蔵が言う。目はずっと無感情だ。
「ええ、何しろ、無理をして来ていただきましたので――」
「あー……あ、二日酔いです」
せっかく何とか言い繕おうとしたのに、鍋島があっさりと真実を言う。
私は腕を離す。もう大丈夫だろう、多分。
ぼさぼさの髪をかきむしりながら、ようやく頭が動きはじめたらしい鍋島は前に進み出て、海老蔵の前にどっかと座る。
「鍋島寄席也です」
「田古瀬海老蔵だ」
「ああ、はいはい」
世界のタコセグループの会長。資産ランキングで世界三十位以内に入る田古瀬海老蔵を前にしても、鍋島は態度を変えない。
「君のところの、和寺、だったか。彼に頼もうと思ったのだが、君を薦められてな」
「かずてら? ああ、あの探偵ね。尾行や盗聴器調査とか、まあいわゆる探偵業務ならあいつでしょうね」
「まさに、あなたが言うように数か月前にあった、屋敷に盗聴器が仕掛けられた事件で和寺探偵に仕事を依頼したのです」
横から私が補足する。
あの時は大変だった。企業スパイによるものかと疑われ、私自身も容疑者の一人になった。和寺探偵によって、手際よく電源タップに仕掛けられていた盗聴器は全て発見され、他には屋敷にも会社にも盗聴器がないことが確定された。
「けど、探偵業務じゃなくて『名』探偵業務なら俺の専門だ。それで、教えてください。どういう要件ですか? 来る途中で一応ざっくりとそこの、えー……秘書の方に説明を受けたんですが、よく分かりませんけど、確か――『白雪姫』についてですっけ?」
鍋島の声は気怠そうだ。それでも、私が彼を見つけ出した時からすれば雲泥の差で回復してはいる。
事件に巻き込まれた私の雇い主である田子瀬海老蔵、いや田子瀬家が、ダメージを最小限にしてこの事件を乗り切る方法として選択したのは探偵を使うことだった。最初にその話を海老蔵から聞いた時は、私も困惑したものだ。
海老蔵が言うには、田子瀬家のような名家が、醜聞を防ぐために使っている組織が昔からあるらしい。上流階級の人々のために汚れ仕事をする組織だ。さっきの和寺探偵もそこの所属だ。その和寺探偵に相談したところ、今回のようなケース 、つまり『難事件』を解決するにはうってつけの人材がいると紹介されたそうだ。警察が匙を投げるような事件をいくつも解決した名探偵。ただし、その組織に所属してはいるが、今現在どこにいるかが把握できていない、と。そして海老蔵は和寺に人探しを依頼した。
和寺探偵が、マカオのカジノに入り浸っている鍋島の情報を掴んだのが三日前。会長から指示を受けて現地に飛んだ私が見たのは、ぼろキレのようなスーツを身にまとい、ぼさぼさの髪と無精ひげで覆われ、最小レートでルーレットを勝負し続けている鍋島の姿だった。帰国するためのチケット代すらないどころか、パスポートを裏の質に入れて勝負し続けている状態。私が話しかけても、安ウイスキーで半分溶けているような鍋島にどこまで話が通じているかは怪しいものだった。それでも、何とか田子瀬家の力で帰国させること、その代わりに帰国後に話を聞いてもらうことだけは了承を取ることができた。もちろん飛行機の中でも事件の概要を聞かせていたが、機内のアルコールを片端から飲めるだけ飲んでいた鍋島の頭に残っていたのは「毒リンゴ」というキーワードだけらしい。
向かい合って座る海老蔵と鍋島にお茶を用意する。特に、鍋島は頭をまともに動かすためにも必要だろう。
「白雪姫……? 確かに、毒リンゴについての話と言えばそうだ」お茶を一口だけ飲んで海老蔵は私に目をやる。「柳生君、説明を」
名前を呼ばれた私は、鍋島に向かって一礼して説明を始める。もっとも、一度機内で説明しているのだが。
「はい。鍋島様。私は田古瀬会長の秘書をしております柳生邦子と申します」
自己紹介も一度しているが、覚えていないかもしれないので念のためだ。実際、名前を聞いて鍋島はへええ、と感心したような顔をしている。
「鍋島様に来ていただいたのは、ある事件について解決していただくためです。一週間ほど前、この屋敷で、その」ちらりと海老蔵の顔を窺ってから「毒殺事件が起こりました」
海老蔵の表情に変化はない。安堵と共に、恐怖を抱く。
「毒殺。リンゴで?」
「ええ、リンゴで。亡くなったのは」また、海老蔵の方を窺ってしまう。通常の人間なら耐え切れないであろう話題を前に表情を変えない雇い主を。「田古瀬会長のご子女、田古瀬真夜様です」
「はあ、なるほど」全く気遣いなどを見せない緩み切った顔で鍋島は相槌を打ち、「ひとまず、どういう事件か教えてくださいよ」
「もちろんだ。柳生君」
「はい」私は用意していた要点をまとめた紙の資料を鍋島に渡す。「二週間ほど前に、お部屋でお勉強をされていた真夜様が体調を崩されました。当初は風邪かインフルエンザだと思われておりましたが、重篤化して意識を失い、翌日に入院。三日後にお亡くなりになりました。16歳の真夜様のあまりにも突然の逝去に事件性が疑われ、警察の捜査が入りました。結果、真夜様が体調を崩される前に口にされていたリンゴに、毒物が混入されていたと判明いたしました」
「毒物ねえ。ええと、リシンか」鍋島は資料を確認している。「ああ、確かインフルエンザの似た症状が出るんだったな」
「さすが、詳しいな」
海老蔵が見直した顔をする。
「海外ドラマで見ました。あの有名なヤツです。見ました? あれ、滅茶苦茶面白かったですよね。それで? 犯人を見つければいいんですか? それが依頼内容?」
あまりにも単刀直入な問いかけに、私は海老蔵と思わず顔を見合わせる。さすがにこれに関しては私が口にするべき事柄ではないと判断して、雇い主の発言を待つ。
「ああ……そうだ」しばらくの沈黙の後で海老蔵が口を開く。「その通りだ。君は犯人を見つけさえすればいい。ああ、それだけでいい。詳しいことは、柳生君から聞いてくれ」
老獪な雇い主は、直接口にすることなく、私からほのめかすルートを選択したようだ。
「ああ、ええ。で、まあ、じゃあそれはそれでいいとして」濁った鍋島の目がぬらりと光る。「報酬の話はどんなもんですか?」
「ああ。もちろんだ。その話をしなければな。当然、君の調査費用は全てこちらで持つ。その上で、成功報酬としたい」何か言いかける鍋島を海老蔵は手で制して「ああ、分かっている。その条件の代わりに、報酬は十分なものを用意するつもりだ。これでどうだろうか?」
そう言って海老蔵が提示した金額は、横で聞いている私の喉が思わず鳴るほどのものだったが、
「いやあ、それだと、俺の借金がぎりぎり全部返せないんですよね。二割増しになりませんか?」
鍋島が食い下がる。
「分かった。いいだろう」
あっさりと海老蔵は承諾する。
その海老蔵の様子を、嘲り笑いの色を含んだ鍋島の目がじっと観察していることに気づく。傍目に見ているだけの私ですら気分が悪くなるような気味の悪い目の光。だがその光は見間違いだったかと思うくらいに一瞬で二日酔いの濁りに隠される。
「うう、じ、地獄のように頭が痛い」呻いて鍋島は弱弱しくお茶をすする。
「それでは、調査を開始してほしい。柳生君、全面的に協力するように」
そう言って、立ち上がった海老蔵は応接間をしっかりとした足取りで出ていく。
おそらく真夜が亡くなって以来ずっとそうであるように、自室にひきこもるのだろう。
「柳生さんだっけ、座ってくれよ」さっきまで海老蔵が座っていたソファーを鍋島は手で示す。「作戦会議といこう」
そして彼は乱れた髪をかきあげ、資料を、紙の束をぱらぱらとめくり、やがて後半のあるページで止める。
「こいつが犯人なんだろう? つまり、俺の役割はこいつのアリバイ崩しだってことだ」 真正面に座った私に、濁った目を向ける。
02 犯人①
つまりは、と鍋島は嘲る笑みを最早隠そうともせずに資料をひらひらと揺らす。ある名前を指さしている。
「こいつを犯人にしろ、という話だって理解でいいのか?」
身もふたもない発言に思わず固まる。困るのは、その発言がそれほど間違いではないことだ。気を取り直して咳払いをする。
「その前に、まずは現状をもう少し詳しく説明させてください。大体はその資料にも記されていますが」
「ああ、勝手にどうぞ」
言いながら鍋島はスマートフォンを取り出して弄り出す。態度は最悪だ。
「この屋敷では普段はお手伝いさんが雇われて掃除や料理等されているそうですが、真夜さんが毒入りのリンゴを口にされた当日、ちょうどお休みだったそうです。そのため、リンゴを調理したのも、真夜さんのお部屋まで持っていかれたのも、真夜さんのお母さま、想子さんです」
「調理も何もないだろ、偉そうに。リンゴだろ?」
嘲り笑う鍋島。視線の先は完全にスマートフォンの画面にくぎ付けで、こちらを見もしない。
「で、普通に考えたら一番怪しいのはその母親だな。事情聴取なんかは受けてるのか?」
「いえ、真夜さんを亡くされた心労で倒れて、そのまま入院されておられます」
「ははん、さすがは田子瀬家の威光だ。そうやって時間を稼いでおいて、その間にこいつを犯人にしたいわけだ」
鍋島はスマートフォンの画面から目を離さずに、資料に書いてある名前をぐりぐりと指で強調する。
「いえ、田古瀬会長も決してそういうわけでは」
「いいのいいの、分かりやすくていい。ああ、で、さすがに警察も捜査をしていないわけではないんだろう? 醜聞が漏れないように田古瀬家が人脈の限りで静かにさせようとしても、事件は事件だもんなあ。そもそも、捜査したからリシンが見つかったわけだろ」
「ええ。それも資料に書かれていますが」と前置きをするが鍋島に資料を改めて読む様子はないので諦めて続ける。「リシンが検出されたのは真夜さんの食べていたリンゴや入ったいた食器、そこからのみです」
「うん? 他は全くないのか? リシンが入っていた容器なんかも?」
「はい。とはいえ、そこまで不思議な話ではありません。警察の捜査が入ったのは真夜様が倒れてから三日後。その間にごみの収集もありました。元々毒物の入っていた何かが処分されていてもおかしくはありません」
「最初は風邪かインフルエンザかと思っていたわけだ。確かに不思議はないか」
「ええ、その通りです」
その時、鍋島のスマートフォンの画面がちらりと見える。チャート? 株取引か何かの画面らしい。
「どう考えてもそのリンゴを娘に食べさせたその母親が一番有力な犯人候補な気がするな。警察もそう考えているんじゃあないか? だからこそ、田子瀬家は焦っている。違うか?」
「違いません。ただ、ああ」どう説明してよいか迷う。「ただ、その、想子さん――あの方が犯人のはずがないというのは、おそらくご家族だけでなく、私も含めた、彼女を知る人間全ての共通見解のはずです」
「はっ、なんだそりゃ、聖人君子なのかい?」
「ああ、確かにそうです、いい方なのは確かです」
だがそれが理由ではない。うまく説明できる気がしないが、とりとめもなくなるのを承知で私はとりあえず思いついたまま話してみる。
田古瀬想子という人物は、若輩者の自分が田古瀬海老蔵の秘書として雇われて以来、出会う都度に声をかけてきてくれた。仕事で失敗した時には海老蔵と私の間に入ってとりなしてくれたこともある。少し年の離れた姉、あるいは若いもう一人の母、と勝手に思っているところもある。
娘の真夜と一緒にいるところも見たことがある。若々しい想子と真夜は、並んでいるところはまるで姉妹のように見えた。そして、関係性も母娘というよりも親友同士のようだった。休日に二人で出かけることも多かったと聞く。私の見る限り、想子が真夜に抱いている愛情は掛け値なしに本物だった。だからこそ、真夜が亡くなった時の憔悴は気丈な海老蔵の比ではなく、見ていられなかった。入院したのも、容疑から逃れる時間稼ぎのためというよりも、本当に入院をせざるを得ない状況だったという意味合いの方が大きい。
「はあ、なるほど、だから犯人とは思えないと」
私が並べた想子への印象は全く鍋島の心には刺さらなかったらしい。彼の声は全く無味乾燥だ。からからに乾いている。
確かにそうだろう。こんな話、だから犯人ではないと言われても、ああそうですか、で終わりだ。逆の立場だったらそう思う。だが違う。それだけではない。
「いえ、その、説明が難しいのですが、奥様は良家のお嬢様なんです」
「それが?」
「なんというか、その、ええと」説明が、本当に難しい。「頭の中がお花畑といいますか」結果、非常に失礼な物言いになる。
「うん?」
ようやく鍋島の興味をひいたらしい。顔はスマートフォンの画面の方向に固定したまま、目だけがこちらを向く。
「全然大人じゃあない、少女のままな印象なんです。こう、見た目だけでなく中身も若々しいというか幼いというか」どんどん失礼になっていく。「だから、その」
「犯罪するほど賢くないって言いたいのか?」
「激情に駆られて滅多刺しや殴り殺してしまうとかなら、まだ想像できるんです。でも、あの人が毒殺なんてできるとは思えないんです。計画なんて立てられないし、毒物を用意する方法も、発想すらないでしょう」
壊れた、と言って電源が切れただけのスマートフォンを半泣きで持ってきた想子の姿を思い出す。彼女に毒物を用意できるルートがあるとは思えない。
「リンゴの取り寄せの話もありましたが、あれだって、自分では取り寄せの仕方が分からず、毎年私か会長に頼んでいるくらいです。電話でよろしくと言えば済むのに、それができない」
「さっきまでの話よりはるかに納得できる。なるほど。別に、海老蔵さんが捜査に圧力かけてるのは、田古瀬家から犯罪者を出すわけにはいかない、ってだけじゃあないってことか。ちなみに、今年は取り寄せの電話をかけたのは?」
「私ではないので、会長でしょう。確認されますか?」
頷いて、鍋島は改めて資料に目をやり、
「で、こいつか。玉山翔我」
「ええ」
鍋島の言った、海老蔵がその男を犯人にしてほしい、という推測は決して的外れではない。口には出していないが、その意向は確かに存在する。海老蔵の指示の元でつくった資料の、半分以上を玉山についての情報が占めていることからもそれが分かる。
「動機という面では、彼が最も怪しい、と会長は思っています」
私自身は特に玉山と会ったこともないので、海老蔵や想子からの又聞きの印象になるが、それでも印象は最悪だ。確かに真夜を殺した犯人として一番に怪しいのは彼に思える。
「真夜さんの通っていたのは、両家のご子女が多く通われるE学園。玉山はそこの三年生――真夜さんの先輩にあたります」
「E学園ね。金さえ払えば入れるで有名な学校だ」
茶々を入れる鍋島を無視して続ける。
「玉山と真夜さんは同じ軽音部に所属しており、その縁で一時期親しくなっていたようです。しかし、なんというか、玉山には悪い噂があり、それを心配した海老蔵が調査したところ、色々と出てきまして」
「要するに、半グレとつながりがあったと。というか幹部レベルか。へええ、まだ若いのに大したもんだ」
資料のその部分を眺めていた鍋山は無邪気に感心している。
「ドラッグに売春斡旋に違法ギャンブル。いいねえ。特に違法ギャンブルが。ギャンブル大好き」
「その調査結果を元に会長と想子さんが真夜さんを説得して、距離を取るようになりました。しかし諦めきれない玉山は、それ以降も真夜さんにつきまとっていたということです。何度か、この屋敷にまで押しかけてきたこともあります」
セキュリティーシステムに追い返された彼の監視カメラの映像を見せられたこともある。
「ストーカー化したと。そこは、田古瀬家の力で何とかならなかったのか?」
「相手は未成年ですから、そこまで強硬には出られなかったようです。玉山家の方に抗議はしたようですが、彼の家は――」
「いわゆる土地成金か。別に企業活動で金を持っているわけじゃあないから、田古瀬が圧力をかけるのも難しいわけだ」
「正直なところ、こうなることを恐れて、会長は動くおつもりでした。玉山、そして彼の属するグループごと潰そうと。タコセグループ会長としての力を使えば、それも可能でした。裏の知り合いに借りをつくるのを嫌がりながらも、それを本気で検討しているご様子でした。それほど追い詰められていたとも言えます」
「似黒巣組だろ? タコセグループとは黎明期の時からの付き合いだ。最近は疎遠みたいだが」
あっさりと日本最大の反社会的勢力組織の名を口にする鍋島に私は一瞬止まる。
「なんだ、何驚いてるんだ? 大企業の数々と似黒巣組との関係の話なんて、ネットどころか週刊誌でも取り沙汰されるような公然の秘密だろうに」
そう言われて、私は咳払いして平静を装う。
鍋島はスマートフォンの画面を睨みながら「なるほど、確かにここまでの話を聞くと動機の面では母親よりもストーカーの方がありえそうだ。こういう背景があるなら、毒物の調達も比較的容易そうだしなあ」
「その通りです」
「ただし、警察もそう思いそうなもんなのに困って俺を呼んだということは、壁があるってことだな」
「ええ、その通りです。彼には、アリバイがあります」
「そう書いてあるな」鍋島は眉を顰める。「けど、毒殺事件にアリバイ?」
不審に思うのももっともだ。だが。
「資料の4ページを御覧ください」
そこに書いてあるのは、かなり大まかではあるがいわゆるタイムテーブルだ。
10月13日13時:リンゴが屋敷に届く
10月14日10時:部屋で勉強をしている真夜に想子が調理したリンゴを届ける。
13時:真夜の部屋に想子が昼食を届ける。
この際、リンゴの入っていた食器を想子が回収する。
20時:想子が、真夜が体調を崩していることに気づく。
真夜を寝かせて看病に入る。
10月15日02時:真夜の体調が更に悪化。緊急入院。
10月16日18時:玉山の屋敷の訪問が監視カメラで確認される。
ただし、屋敷に人は不在。
10月17日未明 :真夜死亡確認。
「ここで重要なのは、リンゴが屋敷に届いてから、真夜さんが倒れるまで、玉山がこの屋敷に近づいていないということです」
「忍び込むことは不可能なのか?」
「監視カメラに映っていませんし、忍び込んだとして、リンゴが届いてから真夜さんが口にされるまでの間、屋敷には誰かしら人がいたそうです。特に13日の19時までは使用人の方がおられて頻繁にキッチンを利用していたので、そこに忍び込んで毒を混入するのはかなり難しいでしょう。そうなると、忍び込むとすれば13日の深夜から早朝にかけて、寝静まっている間くらいしかないはずが」
「そこに、アリバイがあると」
「そういうことです。夜通しクラブで遊んでいた、と。派手な遊び方をして目立っていたため、第三者からの証言もとれたそうです。もっとも、これのせいで一週間停学処分を受けているらしいですが」
よい気味だ、と思う。
「この屋敷に着く前の時点でリンゴに毒を注入しておくとかは?」
「リンゴは奥様――想子さんが懇意にしている果樹園からのお取り寄せです。想子さんが直接受け取ったらしいですし、それにそもそも他のリンゴからは毒物は検出されなかったそうですので」
これが、不可解なところだ。全部のリンゴに毒を入れたのならともかく、ひとつだけ?
「その果樹園って遠いの?」
「それなりに遠くはありますが、輸送途中でっていうのはさすがに無理がありませんか?」
鍋島の頭の中を予想して言ってみる。有能な秘書ぶりをアピールしておく。
「だろうなあ……このリンゴの取り寄せを頼むのは、事前に分かってるものか?」
「それ自体は、はい。毎年この時期になると取り寄せを頼んでいます。向こうの果樹園とも懇意ですし」
「リンゴ農家犯人説は難しいか」
「さすがに動機がなさすぎるかと。純朴な方々でしたし」
「ん、知ってるの?」
「ええ、一度、天候不順で今年は難しいかもという知らせが届いた時に、奥様の頼みで現地まで確認に来ましたから」
想子に泣きつかれて、助けを求めて視線を向けた海老蔵が済まなそうに首を振ったのを思い出す。顔が歪みそうになるのを何とかこらえる。私は有能な秘書だ。
一方鍋島は思い切り顔をしかめる。
「うわ、最悪だ」
「多めに手当てをいただきましたから」
「じゃあ、果樹園黒幕説はなしとして、リンゴは結構大量に届くのか?」
「はい、段ボールに入って、何箱分も」
「はー、そうすると……リンゴ一個だけに毒を注入するなんて、そんな妙な話はないはずだよなあ。罰ゲームのロシアンルーレットじゃあるまいし。それに、その方法だと真夜を狙うことができないか」
その通りだ。誰がその毒リンゴを口にするかが分からない。誰でもよいからとにかく田子瀬家の人間を殺したいのだったら、今度は逆にそのリンゴだけに毒を入れた意味が分からない。全部のリンゴを毒入りにすればよい。
「なるほどなるほど、問題は分かった。要するに、俺にしてほしいのはそのアリバイ崩しだ。アリバイを崩して、そいつを犯人にするのを期待されてる。で、一つ確認したい」
「はい?」
「この、被害者がしていた勉強って、具体的に何なんだ? 分かる?」
一瞬混乱する。
「か、関係ありますか?」
「まあ、一応」スマートフォンを眺めながら鍋島は頬をかく。「下手すりゃあ、一番重要じゃないか?」
疑わしい。怪しみつつも、私は記憶を掘り起こす。わざわざ資料にはまとめていなかったが、確かに聞いた気がする。
「数学の宿題、だったと思います」
「数学の宿題ね、宿題」鍋島は口の中で繰り返して「宿題を確認しないとな」
「……では、これからどうしますか?」
「ええっと、ちょっと、待ってくれよ」鍋島の目はスマートフォンにひきつけられている。「いや、待ってくれよ、本当に待ってくれよ」
目が見開かれ、血走っている。
一体何が、と思い、立ち上がって画面を横から覗き込むと、さっき目にしたチャート画面で、すさまじい勢いで色のついた棒が上に行ったり下に行ったりしている。
「あっ、あっ、あっ」
もはや資料を放り出して両手でスマートフォンを掴んでいる鍋島が喘ぐ。
「嘘だろ嘘だろ」やがて、何かしらの決着がついたらしく、鍋島は天井を見上げて虚脱する。「ああ、終わった」そのままのけぞり、軟体動物のようにソファにへばりつく。
「あの、次はどうされますか?」
「ああ、もういいよ」鍋島は軟体動物のままだ。声も死んでいる。「女子高生が死のうが世界が終ろうがどうでもいい。むしろ終わってくれ、世界」
「いやちょっと、鍋島様」
さすがに看過できず肩を掴んで揺さぶる。
「真夜様の死がどうでもいいとはどういうことですか」
「いいんだよもう。解決して報酬もらっても俺の人生は終わった」ぐらんぐらんとなすがままに鍋島の首が揺れる。「誰が死のうが関係ない。終わった。もうどうでもいい。あー、終わった、終わったあ、ああああああ!」
今度は一転叫び出す。情緒不安定だ。
「はあ……決めた。もらった報酬で借金は返さない。それを三倍くらいに増やしてから返済しよう。それなら何とかなる」
だが、鍋島は勝手に立ち直り姿勢を正す。資料も拾う。
「それで……次か。次は、本当なら母親に話が聞きたいんだが、入院中なんだよな?」
「ええ、会長に頼めば、話を聞く段取りはしてもらえるとは思いますが」
「それでもすぐにってわけにはいかないだろうしなあ。柳生さん、海老蔵さんには明日、想子さんに話が聞けるようにセッティングをお願いしておいてくれ。今日は、事件現場の調査に行こう。キッチンと、それから被害者の自室だな」
立ち上がった鍋島はところで、と私の方を向いて、
「田古瀬真夜のスマートフォンは警察?」
「ええ、警察で調査中ですが」
「じゃあ仕方ないな。まあ、経費で後で落ちるのはいいが、今持ち合わせがないんだよなあ」
スマートフォンを弄りながら、鍋島は全く悪びれたところのない口調で、
「五万貸してくれない?」 と頭を下げてくる。
03 捜査開始
いわゆるシステムキッチン。一見、食品も調味料も何も置いてあるようには見えない。生活感のかけらもない、まるでモデルハウスのキッチンだ。
「ええっと」そこに鍋島はずかずかと進み、パントリーや棚を片端から開けていく。
「ここが食器、ここに調味料類、で、ここの段ボールに詰んであるのが、例の?」
「ええ、リンゴです。どれも調査の結果毒物はありませんでした。無農薬で栽培しているからか、とてもおいしいですよ」
「オーガニック的なやつはいけすかないねえ」
喋りながら鍋島は次は食器類を調べる。
「この食器類からも毒の検出はなし、と」
「ええ。検出されたのは、流し台に置きっぱなしになっていたリンゴの入っていた食器だけです」
「調味料も全部棚に整理整頓されている。異様なほどに」
鍋島は引き出しに入っている塩や砂糖を確認していく。ナンプラーやチリソースなど、そこそこ珍しい調味料もたくさん入っている。
「想子さんは料理をしないですからね。基本的に、それを使うのは使用人だけだそうです」
「ほお、ドリップコーヒーと紅茶類が揃っているな。よく飲むのか?」
「会長は全く飲まれません。想子さんがお好きなようです。特に紅茶が。一方真夜さんは朝に一杯ブラックコーヒーを飲むのが日課になっているそうですが、逆に言うとそれ以外はコーヒー紅茶の類は飲まれなかったそうです」
資料を読みながら、私は自分がコーヒーを飲めないことをふと思う。私のところは逆だ。母はコーヒーをよく飲み、私は飲めない。コーヒー好きな母への反発? まさか。自己分析を自分で笑う。
「警察もそのへんは調べるか、当然。リンゴに毒入れるなんて変だもんな。普通、飲料にいれそうなもんだ。さっきの話で言うなら、同じ毒を入れるならブラックコーヒーの方がよほど入れやすいはずだ。苦味が強いから味も誤魔化せるしなあ」
確かに、リンゴに毒を入れるという方法自体が妙だ。リンゴは食べるが何も飲まないということはないだろう。飲料の方に混ぜてしかるべきな気はする。
あたりを調べていた鍋島はやがて金属の筒を手に取る。
「凝ったデザイン、いや逆か、シンプルすぎるデザインだな。これ、ケトルか」
「ええ。このキッチンのものはどれも想子さんのこだわりのものです。正直私も、最初家に呼ばれた時は、自分でお茶を入れようとしても、何をどうしていいのかわかりませんでしたよ」
と、私が喋っている間に、鍋島は浄水器からケトルに水を入れてお湯を沸かし始める。
「ちょ、ちょっと」
「何だよ? 警察の捜査は終わってるんだろ?」
「それはそうですけど」
やがて、ドリップコーヒーを淹れた鍋島は、なんの遠慮もなく棚をかき回して、見つけ出したコーヒーミルクとスティックシュガーを呆れるくらいに大量に入れていく。
「いやいや、ちょっと……」
「まだ地獄のような二日酔い、いや三日酔いか四日酔いから抜け出せていないんだ」
「人の家でよくそんなことできますね」
「ううん、この砂糖甘味が足りないな」
私の言葉を無視して、もはやカフェオレに近い色合いになったコーヒーにさらにスティックシュガーを数本追加する。
「それに、毒殺事件があった家で……」
「警察が捜査したんだから逆に一番安全だろ、多分」
胸焼けしそうなそれを鍋島は一気に立ち飲みして、
「ふう。玉山翔我はこの屋敷に来たことは?」
「会長がこの屋敷に入れることを禁止していたと聞いています。蛇蝎のごとく嫌われていたそうですから。お嬢様についた悪い虫だと」
「だとしたら厳しいな」鍋島は飲み干したカップを置く。「広い屋敷ではこのキッチンに辿り着くのも難しいし、そこで目当てのものを見つけ出すのも一苦労だ。人目を気にせず、コーヒー飲むだけでこの始末だぞ」
鍋島が周囲を見回すゼスチャーをする。
開けっ放しの棚、中身はかき回されており、スティックシュガーやミルクを取り出す際に一緒に出した他の調味料類はカウンターの上に置いたままだ。
「あなたの性格上の問題じゃあないですか?」
「はっ、それは否定はしないが、それでも初見でこの屋敷に忍び込んでキッチンの目的の何かを見つけるのがめちゃくちゃ難しいのは同意するだろ?」
「それは、まあ」
反論もないので頷く。
「玉山を犯人にするにはそれがネックだなあ。さて、どうするか」
何事か考えこむ様子をしながら、鍋島は特に片付けもせずにそのままキッチンを出ていこうとする。
「鍋島さん、どこ行くんですか?」
「被害者の部屋。あんまり見るべきものはない気はするけど。ほら、行こう」
そう言って部屋を出て行った鍋島の後を慌てて追うと、キッチンを出てすぐのところで立ち尽くしているところだった。
「クラブはいかないんですか?」
「クラブ? あー、玉山のアリバイな、はん」鍋島は鼻で笑う。「多分、行ったって仕方がない。アリバイは崩すけど、別の方向から崩す」
「どういう意味ですか?」
「あー、ところで、お嬢さんの部屋はどこだ? 二階? 階段どこ?」
鍋島は迷っている。実際、私も雇われて半年は所用で屋敷に来るたびに迷っていたから、笑えない。
「ああ、そういや、訂正。見るべきものはない、じゃない。あれを確認しないと」
「え?」
「宿題だよ、宿題。うまくいけばそれでほぼ解決だ」
そんな、奇妙なことを言う。
奇妙な気分だ。真夜が生きている時には、入ったこともない部屋に今、鍋島という胡乱な男と共に入っている。
女子高生の部屋、少なくとも、私が同じ歳だった時の部屋とは全く違う。キッチンや応接間にも似た、生活感のない、モデルルームのような部屋。部屋の主の趣味のようなものが全く見えてこない。勉強机、ベッド、カーテン、棚、全て高級品がシックな色合いで統一されている。部屋の主が死んでしまったというよりも、元々この部屋に主などいなかったようにすら感じる。
思い出す。長い黒髪。切り揃えられた前髪。整った顔。私が海老蔵に用があり屋敷に来た時に、時折出会うだけだったが、その度に私に向けて礼儀正しく挨拶してくれた。母親よりは年下で、けれど十近く年上の同性である私に、何の気まずさも照れもなく。そう、どこか人形めいて見えたものだった。この部屋と同じように。母親である想子と並んで、二人でこそこそと何か話している時だけ、年相応の少女のように感じた。
「ふうん」
私の回想は打ち切られる。
鍋島が入るなり、勉強机の下にある小さなごみ箱を調べだしたからだ。
この男が何やら許されないことをしているように感じて、監視する意味でも横から覗き込む。ごみ箱の中には何もない。
「ああ、ここも捜査されたのか。当然といえば当然だな。中身は調査済みなわけだ。それで、何も出てはこなかった」
「ええ、何も怪しいものはなかったと聞いてします」
「だよなあ。やっぱり、特に見るべきものは――」言葉を止めて鍋島は立ち上がり背伸びする。「そうだ、勉強は?」
「……え?」
「数学の宿題だったよな、確か」
「ああ、はい」
「数学ね」
勉強机の上を漁り、やがて鍋島は一冊のテキストを取り上げる。
「これかな」
それをぱらぱらとめくり、鍋島は納得したように頷く。
「間違いないな、宿題用のワークってやつだ。懐かしい。ええと、それで……ここか」
やがてどこまでやっているのか、その最新の箇所を見つけたらしく、ページをめくる手が止まる。
「んんん……ん」
そこから今度は遡って過去に戻るようにページをめくる鍋島は唸る。眉も寄せられている。何かを見つけたのか?
私の不審そうな視線に気づいたのか、鍋島はその数学のテキストを渡してきて、
「何もないなあ……被害者の成績はどうだったんだ?」
「真夜さんは、正直成績は中の下、くらいだったそうです。想子さんの愚痴を聞かされたことがあります。特に数学が苦手だったと。ただ、この前の単元テストではかなり頑張ったと聞いています。想子さん、嬉しそうでした」
言いながら胸が詰まり、一度言葉を止める。
誤魔化すように受け取ったテキストをぱらぱらとめくる。数学が苦手だったという情報通り、最初の方はテキストにある問題の半分近くにバツがつき、所せましと正しい数式や答えが赤ペンで写されている。やがて授業が進むにつれて難しくなっていったらしく、バツが増えていく。とうとうほとんどの問題がバツばかりになり、書いてある数式や図も、赤ペンでのなおしも乱れていく。はみ出して余白がないくらいだ。何度も消しゴムを使ったせいだろう、すれて破れているページすらある。
部屋よりもよほど、真夜という人間の存在を感じられる。
ところが、最後の数ページになると、マルが増え、数式や図も整ったものに変わっていく。彼女が亡くなる直前にやっていたはずのページは、まだマルはついていないが、書いてある数式も図も見本にしたいくらいに美しい。いかに努力して、単元テストで点数をとるまでになったのかが分かる。
正直なところ、特に言葉を交わしたこともない、ただ雇い主の娘という関係なだけの田古瀬真夜という少女の死に、感情が揺れることはなかった。個人的に付き合いのある、想子の悲嘆を気の毒に思うくらいだった。そんな私が、真夜の宿題を見て、初めて彼女の苦悩や努力、息遣いを感じた。苦しくなる。このテキストの主、宿題をやっていた少女が、今はもうこの世にいないという事実自体に。
黙ってしまった私の顔を、じっと鍋島が観察してきているのに気づく。
「どう思う?」
静かな声で、そう言ってくる。
何の変哲もない、宿題用のワーク。そこに書き込まれた、今はもういない少女の痕跡。
「――ああ、きついですね、これは」
ようやく、私はそれだけ絞り出す。
「……はあ?」
だが、対する鍋島は素っ頓狂な声をあげ、
「どういう意味だ? え、何、その顔。感極まったみたいな。どうかしたのか?」
まるで理解できないのか、後ずさりして私から距離をとりすらする。
「なんか怖いな。まあ、結構収穫はあった。とりあえず、今日はこれで終わりで」
と、そそくさと鍋島は帰ろうとする。
逆に私は混乱の極致だ。そういう意味ではなかったのか? では、宿題を見せて「どう思う?」というのは、一体どういうつもりだったんだろうか?
「あの、鍋島様?」
「明日は田古瀬想子、母親に会えるように段取りしといてくれ。俺はこれからちょっと用があるから。あ、金ありがとう。事件終わったら返すから。それでは明日もよろしく」
言いながら逃げるように鍋島は去っていく。 宿題用テキストを握りしめた私は、まだ少し涙がにじんでいるというのに。
04 母親
いつも思うが、病院の清潔さは「漂白」という言葉を連想させる。元々清潔な場所だというよりは、徹底的な漂白によって穢れを落とした結果の清潔さ。だから、ずっとこの場所にいると自分も漂白されそうで、居心地が悪い。あるいは自分こそが漂白される際に消される汚れそのものではないだろうか。そんな風に思ってしまい、病院の清潔さには苦手意識がある。子どもの頃からずっと。
それはどのような病院でも同じらしい。VIP専用の、調度品に気の使われている病院の廊下、そこの清潔さもまた、私の居心地を悪くする。
漂白、いや矯正だ。私を矯正しようとする何かを、感じる。
一方で隣の男、鍋島はそのようなものとは無縁らしい。皴のついたスーツも、無精ひげもそのままに、まさに病院から排斥されるべき異物そのもののような格好をしているというのに、我が物顔で廊下の真ん中をずかずかと歩く。
「すげえよなあ。この病院自体がVIP用なのに、さらにこの階は特別だってよ。エレベータには表示されていなかったよな、この階。けど、病院のあるはずのない階って、ちょっと怪談っぽいよな。縁起悪いとか思わないのかな」
すれ違う看護師は職業的自制によって鍋島の世間話に反応していないが、私は気が気ではない。いつ怒鳴られたり摘まみだされてもおかしくないと思う。
「ここです。鍋島様、いったんお静かに」
幸い、そうなる前に目的の病室の前にたどり着けた。私は咳払いをして、ノックをする。反応はない。「失礼いたします、奥様」それでも、声をかけてからドアを開ける。
田古瀬想子は、起きていた。ベッドの上で、上半身を起こして、窓の外に顔を向けて微動だにしない。マネキンか何かのように見える。鍋島の言葉が蘇る。まるで怪談だ。
ぞっとする気持ちを押し殺して、「奥様」もう一度声をかける。
今度は反応する。ゆっくりとこちらに顔を向ける。マネキンでないことに内心安堵する。
想子は痩せている。いや、元々痩せていたが、それがひどくなり、やつれている。
「こんにちわ」
それでも品のよい笑みとともに会釈をしてくる。
かつては娘と並べば姉妹のように見えた若々しさは、この状況下では痛々しい。
「奥様、こちらは――」
「ああ、柳生さん。ええ、主人から、聞きました。探偵さんよね? どうぞ、何でも聞いてください」
「ああ、どうも」
ひょこっと一歩前に出る鍋島に私の心臓は縮む。想子は大分参っている。頼むから無神経な質問をして錯乱させたりしないでほしい。
「娘さん、ああ、真夜さんは、リンゴ、お好きだったんですか?」
「え?」
意味が分からない、というより意図が分からないらしい想子が首を傾げている。それは私も同じだ。
「よく、リンゴは食べたんですか? ああ、つまり、犯人が真夜さんを狙ってリンゴに毒を仕掛けるっていうのは、どのくらいありえそうなんですかね?」
妙な角度からの質問かと思いきや、露骨すぎるくらい露骨だ。
「ああ」想子は吐息のように声を漏らす。「あの子は、好き嫌いはありませんでした。リンゴでも何でも、私が出したものは、喜んで食べていて」
見る見る間に、想子の両目に涙がたまっていく。
私も、喉にものがつまったようになって、息がうまくできない。
「じゃあ、特にリンゴを頻繁に食べていたわけではないと」
全くそれを意に介さず、鍋島は気怠そうな態度を変えない。感情をこめない声で質問を続ける。
「あの日、リンゴを出すというのは前々から決まっていたんですか?」
「……いいえ、その、おやつに何をあげようかと思って、そういえばおいしいリンゴが届いたからと、ええ、私が思ったんです。あの日、あの時に」
感情のためか想子の言葉は次第にしどろもどろになっていく。涙がこぼれだす。
「ああ、すいません」想子は手で涙をぬぐい「毒のことですね?」
「ええ、まあ、そうっすね。しかし、そうなるとやっぱり前もってリンゴに毒を仕掛けておくのは妙な気がするなあ。リンゴを出すと決めた後、娘さんが受け取るまでの間に誰かが毒を入れるタイミングはありましたか?」
鍋島の無味乾燥な態度と口調が、意外にも感情に溺れそうになった想子を引き戻してくれたようだ。彼女は形のよい顎に手を当てて少しだけ考える。
「いえ。私はリンゴを一人で調理いたしました。お聞きかもしれませんが、お手伝いさんがその日はおやすみでしたから。そして、真夜ちゃんの部屋まで私が運んで、ノックをして、がんばっているって聞いたら、うんがんばってるよママって言って受け取ってくれて」
喋りながらまたぶり返してきたようで、滂沱のごとく涙が流れ出す。
「調理って、リンゴを剥くのを大げさな」
また、小声で鍋島が余計なことを言う。
慟哭している想子には届いていないらしいが、ひやひやする。それに、そもそも、間違っている。
ひょっとして、と思い、私は鍋島に顔を寄せて小声で、
「あの、リンゴってすりおろしリンゴですよ」
と教えてやる。
数秒、鍋島が固まる。
「すりおろしリンゴぉ?」
そして、すっとんきょうな大声があがる。
「え、ええ」
さすがにその声は届いたらしく、泣いていた想子が反応する。
「そうです、すりおろしリンゴ。ひさしぶりにつくってあげて……」
そしてまた泣き出す。
「風邪の時の子ども以外にすりおろしリンゴって食べるか? それとも、金持ちはリンゴをすりおろすものなのか?」
鍋島は小声でこちらに訊いてくる。
「知りませんよ、そんなの。大体、リンゴがすりおろしなのは資料に書いてありましたよ。やっぱり読んでないんですね」
「俺、小説とか読む時も重要そうなとこだけ飛ばし読みするタイプなんだよ。大体、リンゴがすりおろされてるなんて思いもしないし」
「結構大事なところでしょう、リンゴの状態なんて」
「リンゴの状態なんてまるかじりかカットされているかうさぎかくらいしか候補になかったんだよ、なんだよすりおろしって」
小声で私と鍋島が言い合いしているのは耳に入らなかったらしく、感情の波が少し収まったらしい想子が、ふう、と一息ついて会話に復帰する。
「とにかく、私が全部ひとりでやりました。すりおろすのも、調味料を入れるのも、運ぶのも。私が犯人だと思われるわけだわ」
想子の自嘲の笑み。痛々しいだけの笑みだ。
「んんん」すりおろしリンゴの件でリズムが狂ったらしく、鍋島は頭を掻きむしり唸る。「ええと、調味料っていうのは?」
「え? ああ、普通です。レモン果汁とお砂糖です」
「砂糖? すりおろしリンゴって砂糖入れますっけ?」
「ああ、真夜ちゃんは、リンゴそのままだとすっぱいって言って、ママお砂糖入れっていっていたから」
また想子の目に涙がにじむ。
「それ、いつの話ですか?」
「ほんの少し前。そう――」懐かしむ口調で「――あの娘が4歳くらいの時でした」
「やばっ……」鍋島は咳払いして、「リンゴをすりおろしたのは理由が?」
「ええ、あの子、お腹が弱いから、果物をまるごと食べるとよくお腹を下していたんです。だから、果物は火を通したり、調理してから食べるようにしていて」
「果物でお腹を下したのはいつの話ですか?」
「3歳だったかしら」
「やばっ……」また失礼極まりない呟きを鍋島がもらす。が、確かに、正直同感ではある。
「ええと」気を取りなすためか鍋島はまた咳払いを数度して「とにかく、あの日、リンゴ――すりおろしリンゴか、それを真夜さんが口にするかどうかは直前まで誰にも分らなかったわけだ。調味料の方に毒をしかけるのも、結局同じだ。その日レモン果汁と砂糖を真夜さんが口にするかどうかを事前に知ることはできない」
想子以外は、と私は心の中で付け加える。とはいえ、あくまでも念のためだ。鍋島に話したように、想子が毒殺犯だとはどうしても考えられない。
「というか、そうか。大体、調味料に仕掛けられていたら警察に発見されているか。いや、待てよ」
ぶつぶつと何やら鍋島は自問自答をしている。
「レモン果汁とか砂糖は小分けにしているタイプですか? あるいは、ちょうどすりおろしリンゴをつくった時に使い切ったとか」
「え?」
うまく対応できずに想子がきょとんとしているので、私が横から口を出す。
「いえ、レモン果汁は瓶に入っているもので、残りは警察の方にちゃんとチェックされたはずです。毒はありませんでした。砂糖は、仰るように小分けにされているタイプです」
「あ、ええ、そうです。私のいつも使っているものを使いました。お気に入りの、紅茶お飲む時に使っているものです」
ようやく話に追いついたらしい想子が言い添える。
「ああ、あの大して甘くないスティックシュガーね」
ううん、と鍋島は腕組みする。眉を寄せた表情からすると、どうも思ったように話が進んでいないようだ。
「あー、そうすると、こうなって、あーなって……リンゴが部屋に持ち込まれた後、誰かが部屋に侵入して毒を盛る可能性は?」
「いえ、ありませんわ。真夜ちゃんが時折トイレで部屋の外に出る以外は、部屋の出入りはありませんでした」
自分が不利になる証言をはっきりとするので、これは海老蔵会長も頭が痛くなるはずだと同情する。
「でも、いいですか、犯人は」突如として、想子の様子が一変する。目が吊り上がり、口が尖る。「あの男です」
「ああ、玉山翔我ね。やっぱりあなたから見てもそうですか?」
「ええ、ええ、そうです」想子はシーツを細い指で力の限り握りしめている。「あの男がやったに決まっている。まだよく分かっていない真夜ちゃんに近づいて、自分のものにしようとして、それで、ええ、私と主人で話をしにいったら、あの男、訳の分からないことを言って、真夜ちゃんを侮辱して、ああ、もう」
どんどんとヒートアップしていく。
「真夜ちゃんのための口座、ずっと私と主人が積み立ててきた口座、そのお金もあの男に騙されて使わされたのよ」
と、想子の口から私が事前の資料作りで話を聞いた時にはなかった話が飛び出す。
そんなことが、と私が固まると、その私を見て想子も自分が何を言ったのか気づいたらしく、固まる。
家の恥、ということか。まさか、金まで吸い取られているとは。
想子はふう、と息を吐いてから話を再開する。
「……あの時に、徹底的にやっておくべきだったのよ。そうすれば、こんなことには、こんな、こんな、真夜ちゃんが」
そして泣き出す。無理もないことだとは思うが、かなり情緒不安定だ。
泣き崩れる想子を、鍋島がじっと見ている。観察している。想子が犯人なのかどうか、この情動が本物なのかどうか、判定しているのだろうか?
やがて、想子の泣き声が少し収まったところで、
「お疲れですから、そろそろ帰ります。最後に一つだけ教えてくださいよ」
鍋島が声をかける。
「……ええ、何かしら」
「真夜さんは数学があまり得意ではなかったと聞いています」
「え? ええ、でも、最近はがんばって……」
また、それによって思い出が蘇ったのか想子の目が潤む。
「ああ、らしいですね。単元テストでいい点数取ったんですっけ?」
「そう。本当に、いえ、今までも頑張っていたけど、本当にこれまで以上に頑張るようになって、そこまで頑張らなくていいわよって声をかけたくらいで……」
「その単元テストっていつあったんですか?」
「え? え、ええと」予想外の質問だったらしく想子の涙が止まる。「ええ、あれは、そう、確か、三週間くらい、前かしら」
「なるほど」鍋島の目が細まる。「三週間前……一つと言ったのに申し訳ないですけど、もう一つ。あの日、真夜さんの勉強のご様子はどうでした?」
「どう? ええと、普通だったと思いますけど」
「んー……」今度は鍋島は首を傾げる。「普通、と。ありがとうございました」
ぼかん、としている想子に頭を下げて、鍋島はまだ首を傾げながら病室から出ていく。
「あの人、大丈夫なのかしら」
想子は、鍋島の奇妙な態度に混乱した挙句、心配すらしている。案外、私たちが訪ねる前よりも元気になっているかもしれない。
だとしたら、よいことだ。
「私がサポートします。奥様は」私は、その細い手を、両手で握る。「お大事になさってください」
「ねえ、信じて」想子が握り返す。「私じゃあないの」
「分かっています」
「あの娘は、最期に、笑ったの。微笑んで死んだのよ。きっとあたしたちに感謝を伝えるために。そんなあの娘を、殺すはずがない。ねえ、信じて」
「信じています。心配なさらないでください」
そう言ってぺこりと頭を下げて、私は急いで鍋島の後を追う。
視界の端、想子が微笑んで見送ってくれる。
エレベーター前で、スマートフォンを弄っていた鍋島に追いつく。
「あの」さっきのやりとりはどういう意味なのか、と質問しようとしたが、
「よお、柳生さん」鍋島から話しかけられる。「あんた、想子さんのこと好きなのか?」
いきなりの質問に私がうまく返せないでいると、
「はらはらした様子で俺と想子さんのやりとり見守ってたけど。どうも雇い主の奥様ってだけじゃあないだろ」
「……何か関係があるんですか?」
私の頭がすっと冷えていく。
「柳生さんの想子評にバイアスかかってるかもしれないだろ?」
「なるほど」そう言われると、きちんと答えるしかない。「想子さんには、色々とよくしてもらえましたから」
「それだけか?」
鍋島はしつこい。
「想子さんというより、想子さんと真夜さんの母娘関係が、うらやましいというのは、あるかもしれません」
「うらやましいかあ?」
「友達とか姉妹みたいな母娘って、憧れてたんですよ。うち、母親厳しかったから」
どうして、ほとんど会ったばかりのこのろくでもない男に誰にも話したことのないこの内心を吐露しているのかと、我ながら不思議に思う。いくら問われたからとはいえ、いくらでも誤魔化せるのに。
「ふうん」自分から聞いたくせに鍋島は興味なさそうだ「ところで、犯罪行為って好き?」
「は? 嫌いですけど」
ちゃんとしなさい。口癖のようにそう言っていた母親の姿がちらつく。
「あ、そう。でも、柳生さんに貸してもらった金でやったんだし、やっぱ結果が知りたいだろ。俺、そういうところは義理堅いからさ」 不吉なことを言われて私は硬直する。
05 メッセージ
病院の近くにあるファミレスで、一番奥の席に座った座った鍋島が取り出したのは、ノートPCだった。テーブルに置いたそれを立ち上げて、スマートフォンとPCを両方同時に使いながら何やら設定していく。
「あの、鍋島様。一体どういうことでしょうか。犯罪行為というのは? それに、私が貸したお金というのは……あれは、捜査費用ということでは?」
さっきから私は気が気ではない。ここに辿り着くまで、万が一にでも第三者に聞かれたらと思って貝のように口を閉ざしていたが、もう耐え切れない。
「そうだよ、捜査費用だ。非合法な……ほら出た。見てみなよ」
そう言って鍋島はPCの画面をこちらに向ける。
画面に映っているものに一瞬混乱する。横長のPC画面の中に、縦長の画面がある。色とりどりのアイコンが並んでいる。
ちょうどそのタイミングで店員が水を運んできたので、私はどぎまぎしてしまうが鍋島は平然とその画面を隠そうともしない。実際、そうやって堂々としていると店員は何も怪しむことなく去っていく。
「これ、は……スマートフォン?」
店員の後ろ姿を見送ってから、私は喋る。そう、スマートフォンの画面だ。
「そのエミュレートだな。完璧ってわけじゃあないが、調べるくらいなら十分だ」
「あの、嫌な予感がするんですが、これって誰のスマートフォンですか?」
「警察に押収された田古瀬真夜のスマートフォンのコピー」
最悪だ。
「まず俺の知り合いの警察内部にいる――」
「いや、いいです、いいです、マジで。どうやってやったか経緯なんて知りたくありません」
最悪だ。それに自分の金が使われてしまった。
ちゃんとしなさい。また、母親の姿がちらつく。
「心配いらないって」
戦々恐々とする私を後目に、鍋島はかちかちとPCを弄りながら気怠そうに続ける。
「これ、結構安めに、かつスムーズに進んだんだ。雇い主の田古瀬海老蔵が協力してくれたからだよ。権力っていうのはありがたいもんだね。だからまあ、田古瀬会長の後ろ盾があると思ってくれていい」
「父親が、娘のプライバシーを覗かれるのをよしとしたと?」
「どっちにしろ警察に調査されるわけだし、そもそも俺を雇ったのがその父親だろう。ええっと、ふうん」
PCを弄っていた鍋島は、
「そこまで詳しいのを調べられるわけじゃあないんだが、あー、検索履歴やメッセージにぱっと見で怪しいのはなし、か。写真とかは――」
「ちょ、ちょっと」
さすがに慌てて止める。
「いくらなんでも、それをあなたが見るのは」
抵抗されるかと思ったが、意外にも鍋島はあっさりと、
「じゃあ、柳生さんがチェックしてくれよ。それで、妙なものがあったら教えてくれ」
PCごと私にパスして、備え付けのタブレットでメニューをチェックしだす。
「ほら、どうぞ。同性なんだから少しはマシだろ?」
言われて、抵抗がありつつも私は写真をチェックしていく。
最初こそ緊張と罪悪感があったが、すぐに義務的なものに変わっていく。中身が何の変哲もないからだ。料理の写真や、学友との自撮りらしきもの、新しい服や気になった風景など、逆に気持ちが悪くなるくらいに健全だ。
育ちのよいお嬢様の携帯を、ただ見ている、それだけだ。
鍋島が頼んだらしいポテトフライを運んできた店員を少し気にしながら、私は閲覧していく。
「ああ、そういえば例の話、今回のリンゴの取り寄せを頼んだのは、やはり会長でした」
ふと思い出す。ついさきほど、メッセージアプリで海老蔵から返信が来たのだった。
「じゃあ、海老蔵さんが犯人かな」
ポテトをつまみながら海老蔵は適当に答える。
「ふざけないでくださいよ――あれ?」
喋りながら惰性でチェックを続けていた。健全な思い出の羅列。だがひとつだけ。カメラで撮った写真以外の写真を探していると、ひとつだけ奇妙なものを見つけた。
「お、何かあった?」
「あ、いえ、多分、間違えて画面をキャプチャーしちゃったんだと思います」
私も覚えがある。寝ぼけていた時などにスマートフォンを触っていて、時間表示画面などを保存してしまうことがある。多分、その類だと思う、が。
「ただ、保存しているのが、その、見たことのない画面で」
無機質で、ただ黒の背景に白いメッセージウィンドウがいくつか縦に並んでいる画面。SNSにありがちなつくりには見えるが、ここまで無機質なものはあまり見たことがない。あるいは、詳しくないが設定をいじればここまでシンプルなデザインにできるのだろうか?
「ううんん?」
鍋島の声色が変わる。彼にとっても、予想外だったらしい。顔もいぶかし気なものになっている。
「ちょっと見せてくれ」
ずい、と私の横に来てPCの画面を凝視する。
「ふうん、これは……海外製の、匿名性の高いメッセージアプリだな、それの画面のキャプチャーだ」
画面を見た鍋島は一転、にやと笑い出す。探していたものを見つけたように。
「メッセージも、一定時間で消えていくヤツ、普通は、その画面を保存するなんて本末転倒なはずだ。それなのに、わざわざこれを保存した。このメッセージ画面を」
その画面には、意味の分からないメッセージ。
白いメッセージウィンドウに、
①小日向
②田古瀬
③大福
とだけ。
「ふうん、ふうん、なるほど、なるほど」鍋島は頷く。「んん、ちょっとだけ分かってきた」
言いながらPCを自分の手元に引き寄せた鍋島は更に弄る。
「ええっと、こうで、こうだから、そうやって……ほいほい」
キーボードで何やら打ち込んで、うんうんと頷く。
「あとは待つか」
そう言って鍋島はまた自分の席に戻る。
「あの、ちょっと、何してるんですか? 何をしたんです? これは、どういう意味ですか?」
耐え切れず矢継ぎ早に質問すると、
「どういう意味かと言われたら、知らん。でも多分人の名前じゃないか? 田古瀬ってあるし。で、これが」大あくびをしてから「単元テストの順位だったらいいなあ。いや、単元テストの順位からちょっとずれていたらなおいい。俺が何をしているかと言ったら、果報を寝て待っているだけだ。返信待ちだよ」
「返信って、誰からの、ですか?」
「そりゃもちろん」もう一度、鍋島は大あくびをして、「玉山翔我だよ」
「はあ。あっ」意味が分からず生返事をした後、思い出す。「そうだ、その玉山のアリバイはどうするんですか?」
「アリバイね。それは大丈夫だ。俺の頭の中では崩したから」
あっさりと鍋島が言う。
「それってどういう――」
「おい」
不意に、声をかけられる。
鍋島とPC画面に集中していた私は、全く気付いていなかった。
私たちの席の横に、三人組の若い男がいつの間にか立っている。三人のうちの一人、黒いジャージ姿でやたらとピアスをつけた短髪の男が、更に一歩前に踏み出し、私たちの席に半分乗り込んでくるような形になる。
「いっしょに来い」
男の手はポケットに突っ込まれていて、そのポケットは膨らんでいる。その先端が私の脇腹に触れる。硬い感触。ナイフを瞬間的に連想する。
助けを求めて周囲を見回す。ファミレスの客と店員は、こちらの状況に気づいていないが、気づいていても深刻な状況だとは思っていないようだ。
最後に、鍋島に視線を向ける。
「ここの勘定、払ってもらえるか?」 彼は男たちに向かって、へらへらと笑いながら肩をすくめる。
06 犯人②
チェーン店の喫茶店、その隅の四人席で、彼は待っていた。
三人組の男に連れられた私と鍋島が近づくと、触っていたスマートフォンから手を放す。
「悪いね、呼び出して」
「いや、こっちからメッセージを送ったんだ。文句を言う筋合いはないよ。ファミレスのポテトもおごってもらったし」
「はっ、どうせ停学中なんでね、いい暇つぶしですよ」
玉山翔我は口の片側を吊り上げるようにして笑う。
金の短髪、焼けた肌、ジャージ。どう見てもチンピラだ。だが、腕時計やピアス、指輪をはじめとしたアクセサリー類がどれも見てわかる、ごてごてとした高級品。アンバランスな男、いや少年だ。
鍋島が玉山の真正面に座り、私はためらいながらもその横に座る。
三人組は、私たちが座るのを見届けると散って、喫茶店の他の席に座る。
「で、あんたが幽霊?」
「面白いことを言うガキだな。探偵だって説明しただろ。でも、まあ、そうだ」
会話の意味が分からず私が二人の顔を見比べていると、
「ああ、お姉さん、このおっさん、真夜のアカウントから俺にメッセージ送ってきたんだよ」
「え? でも、玉山との、失礼、あなたとの連絡は絶っていたはずです。ご両親に言われて、それ以来連絡をとっていないと――」
「連絡先が残ってたよ。いや、マニアックなコミュニケーションアプリで、だけど。秘密裏に連絡取ってたわけだ」
「おっさんなのにそういうのに詳しいの、ちょっとひくよなあ」
「お前らみたいなデジタルネイティブとは違って、日々勉強してるんだよ、商売上。ああ、普通の方法じゃあインストールできないアプリもあれば、未表示の上にいくつか回り道を経由しないと起動できない設定をされたアプリ、エトセトラエトセトラ、そういうのがたくさん入ってたよ、お嬢様のスマートフォンに。そういうのが得意だったのか? それとも、お前が教えたのか?」
「あー……」玉山は目をぐるんと回して、「半分くらいはな。でも、あいつ元々そっち方面に詳しくはあったな。日本では使用できないアプリを無理矢理導入してたりとか、脱獄とか、そういうのやってたタイプだ。ああいう家だから、危ないことに憧れてたんじゃねえの?」
玉山の揶揄する口調に、大して真夜と親しくなかったにも関わらず瞬間的に頭に血が昇る。
「あなたねえ――」
立ち上がりかける私を、面倒くさそうに鍋島は手で制してから、
「お前にとって田古瀬真夜っていうのはどういう女だった?」
「普通の女だったよ」
「悪いが、俺の年齢からするとお前ら世代の普通が分からん」
「ほどほどに大人に従うし、ほどほどに大人に逆らう。やることはやる」
「やるって、何を?」
「だから普通だよ。酒もクスリもセックスもギャンブルも暴力も」
へらへらと笑う玉山。
私は苛ついて仕方がない。
「鍋島さん、こんなヤツの言うことを信じては――」
「いいね、そういう話が聞きたかった」だが鍋島は前のめりだ。「この事件が始まって以来、初めてちゃんと話が聞けた気すらする。ちなみに、真夜はその中だとどれが一番好みだ?」
「あんた」毒気を抜かれた顔をして玉山は一瞬黙ってから「まあ、ギャンブルかな」
「俺と同じだ。生きてたら気が合ったかもな。ちなみにどんなヤツ? 俺も参加できるのか? 紹介してくれよ。クスリは興味ないんだけど、賭け事には目がなくてな」
「なあ、おい」
不意に玉山から薄笑いが消える。上半身を前のめりにして、ぐっとこちらを感情の読めない目で睨む。
年齢不相応なその迫力に、一気に私の背筋が冷える。
「あんたら、どういうつもりだ? さっき言ったのは、あの女がそういうのにハマってたってだけの話だ。俺とは何の関係もねえ」
「ははあ」逆に、鍋島がへらへらと笑い出す。「態度を急変させて相手をビビらせるのが常套手段か? まあ、いいからさ、もっと色々教えてくれよ。セックスは? 学生はどこでやるんだよ? お前の家か?」
下世話な返しに、玉山が怯んだ顔をして、一瞬黙った後、
「学校でもけっこうやるぜ。屋上とか、準備室とか」
「ああいうのって鍵掛かってるもんじゃないのか?」
「合鍵もってるんだよ」
そこまで喋ったところで、乗せられたのを察したのか苛つきを隠さず、
「勘違いするなよ、俺がお前らに協力する理由なんてねえ。さっきまでのは親切だ」
「どうかな。俺が思うに、結構お前、いやお前らは追い込まれてるんじゃあないか? どこがケツもってるのか知らないが、世界のタコセグループに本気で睨まれて無事に済むとは思ってないだろ? 似黒巣からちょっかいだされて結構ケツに火が付いてるんじゃないのか?」
また、雰囲気が変わる。いや、私の読み取り方が変わったのか。玉山の感情が読めないと思っていた目が、ただ途方に暮れているように見えるようになる。
「世間知らずの令嬢を使って弱みと金を引っ張ろうと思ったら、まさか死なせるとはな。本気で父親が表も裏も使って殺しに来たら、お前程度のチンピラが太刀打ちできるわけないもんなあ」
「喧嘩売ってるのか?」
玉山は凄むが、もはや弱い犬が吠えてるようにしか感じられない。だが、代わりに、周囲から殺気を感じる。
「うっ」
思わず声が出る。
気のせいではない。確かに、周囲の客がちらちらとこっちを見ているし、腰を半分上げかけているものもいる。そういえば、よく観察してみれば、強面の客が多い。私たちをつれてきた、あの三人組以外も、全員そうだ。この喫茶店は、固められている。
やられた。罠にはめられた。
「おいおい、落ち着けよ、むしろ俺はお前らの味方なんだ」
それに気づいているだろうに、鍋島は薄笑いを崩すことはない。
「味方だと?」
「メッセージで送ったように、俺はタコセの会長に雇われた探偵だ。つまり、会長のお前らへの心象は俺次第ってこと。うまいこと、お前らへの真夜への死の責任を軽くすることだってできる」
「ふざけんな、知らないのか、俺にはアリバイがある。詳しく聞かせてやろうか?」
「別にいいよ。多分、そのアリバイはちゃんとしたものなんだろう。警察でもない俺がちょっと調べて粗が出るようなアリバイなら、お前を殺したくて仕方がない田古瀬海老蔵がとっくの昔に崩してる。金や暴力にものをいわせての偽証だとか、監視カメラの映像偽装だとか、そういうアホみたいな方法で偽のアリバイをつくったなんてわけがない」
私にずっと話していたように、鍋島は玉山のアリバイを重要視していない、いや、というよりもそのアリバイを信用しているという方が正しいのか。
「そこのアリバイはいい。ああ、でも、一応聞いておこうか。その後の話だ。クラブで遊んでいたのは分かったんだけど、その後は?」
「その後? 何の関係があるんだよ?」
「まあまあ、いいから。クラブで夜遊びした後は?」
「……寝たり、ぶらぶらしたりだよ」
「つまり、その後はアリバイはない、と」
「おい、そんなもの関係ないだろうが。アリバイがあるってことは、俺は殺してないってことだ。それだけだ。シンプルな話だろうが」
「あのな、そもそもお前が殺したなんて言ってない。もう一度言うぞ、お前らの真夜への死の責任を軽くしてやる、って言ってるんだ」
私にはいまいち意味の分からない鍋島の返しに、玉山の目が泳ぐ。
よくわからないが、効いているのは確かだ。
「……何が、訊きたいんだよ?」
「訊いたら答えてくれるのかよ」
「いや、ふざけんなよ、誰が答えるかって」助けを求めるように玉山は周囲を見回すが、何も起こらない。「まあ、とにかく、訊いてみろよ」
「友達が近くにいるのも大変だな」
面白がる鍋島に対して、玉山はうう、と呻く。
こと、ここにいたって分かる。玉山は周囲の目を気にしている。密告者だと見なされることを恐れている。彼の目は、いまやはっきりと怯えている。
「お前らの仕事をゲロれとは言わないよ。それと無関係そうなところだけ訊いてやるから、ちゃんと協力してくれよ」
「分かった」
拍子抜けするくらいに玉山が素直に返事する。
「お前は真夜と交際していた?」
「ああ」
信用すべきじゃあない。そう思うが、目の前の玉山の様子はとてもこれについて嘘をついているとは思えない。
「お前が勝手にそう思っているだけで、ストーカー化していたと資料にはあるが?」
「過保護な向こうの両親がそう言ってるだけだ。俺を気持ち悪い男扱いしやがって」
「真夜が倒れた後、誰もいない屋敷を訪れているお前が監視カメラに映っていた」
「いつものことだ。真夜に会うために。大体いつもは両親に門前払いされたりするが、あの日は誰もいなかった。知ってるだろ?」
「お前から見て、真夜は自罰的だったか?」
「じ、ばつ?」
テンポよく答えていた玉山がそこで初めて口ごもる。やましいことがあるとかではなく、意味が通じていないようだ。まあ、自罰的なんて言葉は日常会話では出てこない。
「ドMだったりとか、そういうこと」
鍋島がかなり間違っている気がする補足説明をする。
「あ、ああ。へっ、気になるなら、あいつの二の腕のあたりを見てみりゃいいよ」
強がりのつもりか嘲りの笑みと共に吐き出した玉山の言葉が、私の頭に不愉快な想像を突き立ててくる。本格的に目の前の小悪党への憎しみが抑えきれなくなってくる。
どうしてだろうか? 真夜への同情? いや、浮かぶのはむしろ想子の顔だ。そして、私の母親の面影が重なる。
「なんだよ、おい」私の目つきに気づいた玉山が嚙みついてくる。小さな犬のように。「親切に答えてやってるだけだろ、おい、やるのかよ?」
「なんだよ、喧嘩か? だったら俺は柳生さんにつくけど」
鍋島は明らかに面白がっている。
「おっさんと女だけで何ができるってんだよ」
また、殺気が強まる。周囲の席に座っている強面達がゆっくりと足の位置を変える、持っていたコップを置くなど臨戦態勢に入っている。
「名前から分かるように彼女は柳生新陰流の達人だし、俺は探偵だからバリツを使える」
びっくりするくらいさらりと鍋島が嘘を言う。
「バリツ、って、なんだよ」それでも、玉山の気勢は削がれている。「格闘技か?」
「嘘だろ、バリツ知らないのか?」
鍋島は鍋島で本気で仰天している顔だ。
ちなみに私も知らない。
「モリアーティ殺すのに使ったやつだよ。お前も滝に落とすぞ。まあ、いいや、分かった。あー、とにかく、いい情報だ。あとは、そうだな、結局、両親にバレた後もお前との付き合いは続いてたのか?」
「あ? ああ、いいお客だったよ。俺との付き合いをやめろって言われて、反発心かストレスか余計にのめりこんだ感じだ……ああ、その、これくらいでいいか」
周囲に目を走らせると、玉山のトーンがダウンする。どうやら喋り過ぎだ、と目でくぎを刺されたのだろう。
「もうちょっと、ほら、これ、見てくれよ」
鍋島はスマートフォンを差し出す。
何だろうかと私も身を乗り出し、確認する。
その画面にあるのは、画面キャプチャされた、例の「名前が三つ並んでいる画像」だ。
それを見た玉山の顔が、はっきりと分かるくらいに強張る。
「これ、何か分かる?」
「勘弁してくれよ」囁くように玉山が言い、声を潜める。「これは、言えない」
「なあ、おい」同じくらいに声を潜めた鍋島が、玉山の耳に口を寄せる。「身の振り方を考えた方がいい。真夜の父親は、グループじゃなく、お前一人に狙いを絞っているかもしれない。そうなりゃあ、今この店にいるお友達は簡単にお前を切り捨てる。俺が何とかとりなしてやるから、ほら、協力してくれって」
「頼む、勘弁してくれ」玉山は汗で全身を濡らしている。声は更に小さく、間違っても他のテーブルに聞かれないように。「それを喋ったら、ヤキ入れられちまう」
「じゃあ、ヒントだけでも」必死な玉山とは対照的に、まるでクイズでもしているかのように無邪気に絡む。「これ、人の名前だよな?」
「あいつの、クラスの、単元テストだ。数学。その、順位表」
掠れた、途切れ途切れの声で、息も絶え絶えの状態で玉山が言う。
別にそこまでまずい情報とは思えないが、どうしてここまで追い詰められて言うのだろうか。意味が分からない。
「本当に? この順位表が正解か?」
鍋島の追撃に、ぐるっと玉山の喉が奇妙な音をたてる。震える唇で、何とか言葉を吐き出そうとする。
「だ、だ、大福と、田古瀬が、逆だ。大福が2位、田古瀬が、3位」
「やっぱりそうか。なあ、それが原因だと思うか?」
「違う、違うんだ、そんなはずがない。だって、あいつ、苦しんで死んだんだろ? そんなはずが――ああ、だからあんた、自罰的とか言ってたのか」
青白い顔色で、玉山は何かに納得している。
「うん。色々と参考になった」そのタイミングで、唐突に鍋島は打ち切る。「ありがとう。さて、周囲の目が怖いし、帰ろうか、柳生さん」
言いながら、既に鍋島は立ち上がっている。千円札を一枚テーブルに置いて。
この喫茶店に入ってから、今まで、二人のやりとりの意味がほとんど分からない。何を訊いているのか。何に追い詰められていたのか。何を納得していたのか。まるで、分からない。分からないまま、やりとりが終わろうとしている。
何とか、外見だけは冷静で優秀な秘書の原型を保とうと努力をしつつ、私も鍋島に次いで立ち上がる。
「似黒巣組と揉めたくないなら、無事に帰らせてくれよ?」
周囲にそう声をかけて、鍋島はだらだらとした足取りでゆっくりと喫茶店を出ていく。
私は周囲からの威圧感から逃れるように、急いでその喫茶店を出たいのだが、鍋島に付き合ってゆっくりとしか歩けない。敵意に満ちた視線が四方八方から、針の筵だ。
ようやく喫茶店を出ても、鍋島はずっとぶつぶつと「千円札勿体なかったな」と独り言をつぶやいている。声をかけづらい。
「あの」喫茶店が見えなくなるくらいまで歩いてから、ようやく私は声をかける。「どういうこと、だったんですか?」
「え、どれが?」
「全部です」
「全部?」鍋島はあからさまに嫌そうな顔をして「全部説明するのは面倒だろ、さすがに。どうせこのあとすぐ、依頼人に話すんだからその時に一緒に聞いといてくれよ」
「すぐに会長に報告? ちょっと待ってください。ということは――」
「ああ、調査は終わりだ。この後は解決編」
鍋島はあっさりと言い放つ。
「そんな、今の、玉山との会話で、ですか?」
横で聞いている私には全く分からなかった。
「さっきの話はあくまで補完だよ。別にあいつと話す前からアリバイは崩れてたし、宿題を見た時から大体推理は完成してた。テーマもずっと前から決まってたしな」
「テーマ?」
「テーマは、『なぜリンゴだったのか?』だよ、もちろん。これをテーマにして解決だ」
「解決……鍋島さん、あの、玉山のことを本当にかばうつもりですか?」
「はあ? そんなわけないじゃん。アリバイ崩してあいつは地獄行きだよ。いやあ、有用な証言が聞けて良かった」
平然と恐ろしいことを言う。
なにはともあれ、これで鍋島は事件について何らかの結論が出たらしい。一緒に調査に付き合っていた私には、まるで何も分からないというのに。
学生時代から大体のことで上位にいた。上位でいることを望まれた私が、全くついていけていない。母の失望した顔が脳裏にフラッシュバックする。もう、あの母はいないというのに。振り払う。
ふと気づくと横にいる鍋島がじっとこちらを見ている。
「何ですか?」
「柳生さん」
「はい」
「いったん、犯人になってもらうよ、悪いな」
そう言われて、私の思考も足も止まる。
7 解決編・前段
客間ではなく、海老蔵の私室へと通される。私も、今まで入ったことのない私室だ。
鍋島の仕事が終わって報告があるそうです、そう私が伝えるとすぐに、そこに通すように言われた。
それにしても広い、と二階に上がりながら思う。この邸宅は、娘が死に妻が入院しているために、田古瀬海老蔵ただ一人しか住んでいない。そう考えると、途端に広く感じる。これまでは大して気にならなかった階段を上がる際の床のわずかな軋みが、やけに反響して聞こえる。
「鍋島さん」後ろについて階段上がっている鍋島に振り返らずに声をかける。
「あー、うん?」
見ずとも、足音からだらだらとやる気なさそうに上がっているのが分かる。
「もうすぐつきますけど、あの、さっきのいったん犯人にするっていうのは――」
まだ説明してもらっていない。
「まあ、いったんだからさ、いったん。別に悪いようにはしないから」
不安しかない。説明してください、や、やめてください、と言っても鍋島はのらりくらりとはぐらかしてくる。
「いやいやいや」言いながらも、もはや足を止めるわけにもいかず、階段を上がりきって、二階の廊下、奥へと進む。立ち入ったことのないエリア。
とはいえ、海老蔵は待ちかねている。もう、なるようになるしかない。本当に犯人にされるはずがないだろう。まさか、そんなはずが、ない、はずだ。
ノックをする。
「失礼します」
「ああ」
今まで聞いたことのない、弱弱しい返事。
動揺を何とか隠して、私はドアを開ける。
初めて見る海老蔵の私室は、思ったよりも普通だった。棚やハンガーラックがごちゃごちゃと置いてあり、意外にスペースとしては狭い。
椅子ごと壁にへばりついているように見える、力なく座っていた海老蔵が緩慢な動きでこちらを向く。かすかにブラウンに色づいた液体の入ったグラスを片手に、濁った視線が私を何度か往復する。
衝撃を受ける。これが、娘に死なれた海老蔵の本当の姿なのか。
「ああ、柳生君は、客間で待機していてくれ」
ため息混じりに力なく海老蔵が言う。
私は一礼してそのまま部屋を出ようとするが、
「ああ、ちょっと待ってくださいよ」鍋島がそれを制する。「柳生さんには残ってほしいんですよ」
「……何?」
酔いのためか、反応が明らかに遅れてる。
「理由は後で分かります。会長、あなたの不利益には絶対にならない。約束しますよ。もし終わった後で気に食わなかったら、報酬減額してくれたっていい」
その言葉に海老蔵は少しだけ考えて、
「分かった。柳生君も入りなさい」
そうして、海老蔵は立ち上がって部屋の奥をごそごそとやり、やがてタコセグループの会長にはふさわしくない、パイプ椅子を二つ持ってくる。それをかなり適当に設置して、
「客を迎える部屋ではないからな。これくらいしかない。座ってくれ」
オフィスチェアに座って酒を飲んでいる海老蔵、パイプ椅子に座った私と鍋島が車座となる、奇妙な状態になる。
だが鍋島は気にした様子もなく、咳払いする。
「じゃあ、報告しますね」
「ああ」
「犯人はこの柳生さんです」
マジかよ。
私が反応できないのと同じくらい、海老蔵も動かない。固まっている。
「まず」鍋島はお構いなしに話を続ける。「まず俺が気になったのは、リンゴに毒が混入されていたことでした。普通に考えて、白雪姫くらいしか前例がない。特に真夜さんはコーヒーを飲む習慣があるということでしたから、そっちに入れた方が確実だし味の変化にも気づかれにくい。あー……そういう意味でも、母親の想子さんが犯人っていうのは、納得できなくはありました。犯人には、リンゴに毒を混入しなければならない理由がある。そう考えた方が自然です」
ようやく、海老蔵が動き出す。ゆっくりとわずかにだが、体を前に傾けている。鍋島の話にひきこまれつつある。
「リンゴは想子さんが果樹園から取り寄せているもので、その配達途中に毒を混入することは不可能――いえ、かなり困難です。ただし、その果樹園の人間と顔見知りであり、田古瀬家行きに箱詰めしてあるリンゴを見に行ってもおかしくない人間であれば、話が別です」
ようやく、話がどこに向かうのか予想がつき、私の背中に冷たい汗が流れる。
「柳生さんは想子さんに仕事ではないとはいえ、リンゴの取り寄せを手伝わされていました。毎年どの時期にどれくらいの頻度で取り寄せるのかを知っていたし、去年はトラブルのためにわざわざ果樹園まで行くはめになったと愚痴ってましたよ。つまり、顔見知りだ」
鍋島は硬直している私に目を向ける。
「たまたま近くに来たから顔を見せました、とでも言って顔見せに来たふりをして、もう箱詰め終わってますかなんて質問をすれば、田古瀬家行きの段ボールを見つけることは難しくない。そこに毒を混入することもね」
「だが」海老蔵は頑なにこちらを見ようとしない。「動機がない。彼女には、真夜とほとんど接触がないはずだ」
「そもそもリンゴに毒を仕掛けるなら、標的は真夜さんのはずがない。あの時、たまたま想子さんがすりおろしリンゴを差し入れたから、真夜さんが被害者になりましたが、毒リンゴを真夜さんが口にする確率は決して高くない。想子さんが犯人でない限りは」
「つまり、本当に狙っていたのは、誰だ?」
「想子さんです。柳生さんはあなたの秘書だが、想子さんには家政婦扱いされていた。果樹園まで行かされたのもその一つですね。想子さんは悪意があるわけではないでしょうが、まあ、失礼ながら、ある種の人を苛立たさせるところが、うーん、ないこともないようですね」
「それについては、否定はできんな」ふう、と海老蔵は息を吐く。「あれは、良くも悪くも世間知らずの少女のままだ」
「もちろん、確実に想子さんが毒リンゴを口にするというわけではありません。可能性として一番高いだけです。だから、実際には標的は田古瀬家全てだったのかもしれません。想子さんの家庭をめちゃくちゃにしてやりたい、という」
否定しなければ。そう思うが、私の唇は震えて開いてくれない。
沈黙。
話し終わった鍋島は我関せずで黙っている。
私の口は相変わらず動いてくれない。ただ、唇の隙間から息が漏れるだけだ。
「だが、それだけで人を殺すものか?」
代わりに、海老蔵が反論してくれる。
「どうも、確執というか、執着があったみたいですね、想子さんに対して。あー、プライバシーの侵害になっちゃうかもしれませんけど、どうも柳生さんは自分の母親との関係に問題があったみたいですね。違う?」
厳しかった、私をちゃんとした人間にするために全てをかけていた母親の顔。それに従い続けて、私はタコセグループの会長秘書になれた。後悔はない。今となっては感謝している。けれど、想子のような母親に、想子と真夜のような母娘関係に、憧れていた。嫉妬していた。それを執着と言えば、そうなのかもしれない。
私は反論できない。
緊張感だけが、沈黙の中で張り詰める。
私のパイプ椅子がぎしぎしと音を立てて、その音を聞いて自分が震えていることを知る。
「と、まあ」その沈黙を鍋島が壊す。「こんな感じで、適当に犯人を決めることが可能です。ちなみに柳生さんはおそらく犯人ではありません」
途端、猛烈な安堵で私はパイプ椅子にへばりつくようになった。怒るところだろうが、猛烈な安堵のためにとても怒りは湧いてこない。ただ、喘ぐように深呼吸をするだけだ。
海老蔵も唖然とした顔で口を開けている。
今度は、先ほどまでとは別の意味合いの沈黙が続く。
「……どういうことだ?」
気を取り直したらしい海老蔵が問う。
「まず面倒なんで裏どりしていませんが、そんなことをしたら果樹園の方々に証言聞いたら一発でバレます。まともな知性があれば、このトリック――トリックと言っていいのか分かりませんが、これを労力かけて使っても大して意味がないことがすぐに分かる。ああ、それから、リンゴが出荷されてからどのくらいの時間がたって事件が起きたのか知りませんが、そもそも毒を混入したリンゴをそれなりの期間ほっといて大丈夫なのかどうかが怪しい。実験してみなければ分かりませんが、変色するなり腐敗するなりするんじゃないですかね?」
「そういうことではなく、ああ、どういうことだ、ではなく、どういうつもりだ、と聞けばよかったか? 一体、どうしてその、柳生君が犯人などと言った?」
今度は、海老蔵が私の方に目を向ける。
私は冷静沈着で有能な秘書の仮面をかぶりなおす。母親の望んでいた仮面だ。とはいえ、私に海老蔵の疑問の答えはない。
答えるのは当然鍋島だ。
「俺が言いたいのは、あなたが雇ったのは警察じゃあないってことです。個人での調査には限界があるし、そもそもこんな怪しい奴にちゃんと話をしてくれる人間は珍しい。だから、俺は捜査自体をほとんどしていない。推理材料はあなた方、協力者からのお話とこれ」鍋島はもうくしゃくしゃになっている資料の束を手で叩く。「これが全てだ」
「ハードルを下げているのか?」
冷徹な企業会長としての顔を取り戻した海老蔵が詰問する。さっきまでの弱弱しいものとは違う、いつもの彼の顔だ。体のサイズも、一段階大きくなったように感じる。人への詰問という行為がいつもの企業人としての彼の感覚を取り戻したのか。
その圧倒的な威圧感を前にしても、鍋島は変わらない。相手が誰であろうと、基本的に彼は変わらないのだろう。
「まさか。逆です。あー、いいですか、今回の事件はそもそも警察の動きも鈍い。だからそっち方面でも大した証拠や情報がないみたいだ。多分、誰かが個人的に『お願い』でもしたんでしょう」
言葉を切って、鍋島が下手なウインクをするが、海老蔵は微動だにしない。
「そういうわけで限られた情報の数々からは、それらに矛盾しない推理はいくらでもつくりだせる。さっきの柳生さん犯人説みたいなね。まあ、あれはクオリティ低かったですが。あー、つまり、俺が言いたいのは、これから俺がするのは多重解決だってことです。まあ、なにせ『毒入りリンゴ事件』ですからね、多重解決に決まってる」
そう言って何故か得意げに私と海老蔵の顔を見てくるが、意味が分からず二人そろって戸惑っていると、悲しそうに鍋島は首を振って、
「嘆かわしい。まあ、とにかく、俺はこれからいくつか推理する。それぞれの説のメリットとデメリットを上げる親切設計でね。あなたには、その中から自分にとって一番都合のいい説を選んでもらえばいい。きっとその説を、あー、真実だと警察にも思ってもらえるような『お願い』の方法もご存じでしょう。あるいは、似黒巣組に依頼するに足る個人的な納得ができればよいのかもしれない」
鍋島はパイプ椅子から尻を浮かせて海老蔵ににじり寄る。
「田古瀬会長、ここまで言えば納得してもらえるでしょうが、俺はあなたの味方です。雇い主ですからね。真実が第一だとか、社会正義が何たらとか言うつもりはない。誓いますよ。柳生さんが証人です」
勝手に誓約の証人にされた。
真実を求める名探偵としては考えられない鍋島からの提案に、海老蔵は異を唱えない。「あー、だから、一つだけ教えてほしいんです」
鍋島は自分のスマートフォンを取り出して海老蔵に向ける。
「これは本当ですか?」
そこからは、玉山と喫茶店で話していた内容が流れ出す。録音していたのか。
そこからしばらくの間、我々は誰も喋らず、ただただスマートフォンから流れる雑音混じりの会話を聞く。
海老蔵は、何かに耐えるように体を硬直させ、聞きながらぎくしゃくとした動きで時折琥珀色の液体を喉に流し込んでいる。
やがて再生が終わる。しばらくは誰も何も言わない。いや、待っているのだ。海老蔵の言葉を。
「……何のために、この話の真偽を君に伝えなくてはならない?」
グラスの中身が空になったタイミングで、海老蔵が言葉を絞り出す。
「さっき言ったように俺はあなたの味方ですよ。別にあなたの不利益になるようなことはしない。信じてくださいよ」
一瞬の逡巡ののち、また、海老蔵の仮面が剥がれる。体が縮み、無力な中年な男に戻る。
「ああ」ため息と同時に弱弱しい声がこぼれる。「分かった……不愉快ではあるが、概ね、この男の言っていることは事実だ。いくつか見解の相違はあるが、しかし、基本的には、そうだ。分かっている。あの娘は理想通りの非の打ちどころのない娘などではなかった。ごく普通の娘で、親にも変更し、悪い男と付き合い、道を踏み外しつつあった。それを、妻は認識することはできず、私は娘と玉山を引き離そうと試みた。それだけだ」
「よかった」鍋島は笑う。「俺の推理をやり直さないで済む。じゃあ、ここから三つ、説をご紹介します」
海老蔵の懺悔にも似た述懐に何の感慨も示さず、鍋島が続ける。
8 解決編・序
鍋島はびんと指を一本立てる。
「まず、あなた方の希望通りの説が基本です。俺はボーナスが欲しいんでね。つまり、玉山翔我犯人説だ。ただし、最初の推理は、あなたの期待とはちょっと違うかもしれない。玉山の属しているグループによる犯行。それが最初の説です。つまり、組織的犯罪だ」
「少しよろしいですか?」自分が犯人と名指しされた衝撃からようやく立ち直った私は、そこで声をかける。「ええと、私はまだここにいても?」
役目を果たした今、自分がまだここにいて推理を聞いてもよいのかどうか判断がつかない。
「俺は別に構わない。海老蔵さんは?」
「ことここに至っては、もう柳生君も関係者のようなものだ。そのままでいい」
海老蔵はそう言ってグラスに酒を新しく注ぐ。
「承知いたしました。お話を止めて失礼いたしました」
「いやいや。で、犯行の方法だが、非常にシンプルだ。リンゴを輸送しているトラック、それに忍び込んで毒を混入したんだ。トイレ休憩中とかかな」
「ちょっと待ってください」再び声を上げざるを得ない。「輸送中に毒を混入なんて可能性としてはほぼないと、そう仰ってませんでしたか?」
軽い会話の途中ではあったが、確かにそう言ったはずだ。記憶にある。
「相手が個人なら、そうだ。だが、相手が犯罪組織だったら? 人数がいればトラックの追跡も監視も、隙を見ての毒の混入も現実的なものになる」
犯罪組織、という表現で瞬間的に玉山の顔が浮かぶ。
「奴らか」海老蔵も同様のようだ。「玉山に協力したということか?――いや、筋が通らない」
自分で言って、海老蔵は首を振る。酔っていようとも、娘の死についてであろうとも、どこまでも冷徹なままだ。
逆に、横からある程度俯瞰しているはずの私がいまいち話についていけていない。
「玉山の犯行ならば、真夜を殺すのは男女関係のもつれによるものだと納得できる。だが、彼らの組織は、企業と同じだ。行動原理は利益。娘を殺すことが、彼らにとって利益になるとは思えない」
「でしょうね。むしろ、娘が死んだことによって、タコセグループ会長の本気の敵意が玉山と奴の属している組織に向いている。話の転がり方によっては、似黒巣組を動かすつもりでしょ?」
「その質問に答える必要はない」海老蔵の目にひやりとした光が宿る。「先に疑問を呈しているのはこちらだ。君の話は筋が通っていない」
「そもそも、筋が通っていないというなら、あー、リンゴに毒を入れる時点で筋が通ってませんよ。でしょ? さっきの柳生さん犯人説の時もそうですけど、俺の話の出発点、テーマはこれです。なぜリンゴだったのか? 真夜さんを殺すのにリンゴに毒を入れるなんておかしい。そうでしょう? それに、輸送中のリンゴに毒を入れたっていうのも妙だ。組織的犯罪だってことである程度人とか資金でカバーできるとしても、そもそもリンゴがその果樹園からここに取り寄せられることを知らなきゃどうしようもない」
やけになったのか? どんどんと自説を自身で否定していく鍋島を呆れて見ていたが、気づく。聞いている海老蔵の顔が、どんどんと蒼白になっていく。
ぐい、と大きく酒を煽ってから、強張った顔で海老蔵は言う。
「――盗聴器か」
盗聴器? 以前の盗聴器事件を思い出す。だが、それは何の関係がある?
「警察ではなく和寺に頼んだところからして、海老蔵さんもなんとなく疑ってたんでしょ、真夜さんを」
数秒の沈黙の後「仕掛けられていたのが、この屋敷だったからな」と海老蔵が吐息と共に認める。
「玉山に唆されたあの娘が、バカな真似をしたのだろうと、そう思っていた」
「もちろん、その目的はあなたの弱みを探るためだ。うまく行けばそこから脅迫でもしようとしたんじゃないですか? あー、ところが、まあ、大した情報は手に入らなかった。手に入った情報は、あなたが本気で玉山とその半グレグループとことを構えようとしていること、それから、あなたがしたリンゴの取り寄せの電話」
「あっ」私は叫んでいる。ようやく、繋がる。「じゃあ、狙ったのは、会長?」
鍋島は私に顔を向ける。
「海老蔵さんがさぞリンゴが大好きなんだと思ったろうな。自分を潰そうとしている海老蔵さんに、奴らは焦った。やられる前にやれ。乱暴かつ単純だが、犯罪組織が好きそうな原理原則だ。そう考えると、テーマが解決する。なぜリンゴだったのか? 犯人たちがリンゴの取り寄せを知っていて、標的がそのリンゴを食べると思っていたからだ」
そうだ。普段からリンゴを食べることのない真夜を狙ってリンゴに毒を仕込む、そんなことは最初からおかしかったのだ。標的が違った。ただ、それだけのこと。しかも、それが盗聴器から推測した誤った情報に基づいていたとは。
「リンゴのうち一つだけに毒が仕込まれていた理由は、単に輸送中の車に忍び込んで毒を仕掛けるという方法が時間的に制約が厳しかったからだ。だから毒を仕込めたのは一つだけ。そして、その一つに運悪く当たってしまったのが真夜さんだった」鍋島が海老蔵に向き直る。「あー、こんなところですかね?」
海老蔵は反応しない。強張った顔で、何度もグラスを傾けているが、酒は一向に減っていない。
「じゃあ、この推理のメリットを。ざっくりとした推理だから、ちゃんと考えたら細かい疑問点やなんかが山ほど出るだろうけど、そのほとんどを『組織だから』って理由でごり押しで解決できます。人的リソースや金銭を好きに使えますからね。それで何とかしてやればおしまいです。デメリットは、相手が組織だからこそ、証拠が出ないっていうね。実行犯が誰なのかも分からないし。庇い合ったらアリバイだって好きにつくれる。それから偶然が多いのが説得力にかけるかなあ。一個だけある毒リンゴを、早々にひいちゃったのも、それをひいたのが真夜さんなのも偶然。そもそも、その前提になる情報も盗聴器からその部分を偶然聞いてしまったから」
そして、なによりも、と鍋島は言葉を切り、溜めてから。
「――つまらない」
「……どういう、意味ですか?」
言葉も出ない様子の海老蔵の代わりに、私が疑問を呈する。
「え? そのままだよ。推理としては最悪じゃないか? 犯人は組織だから、その組織的な力で色々なところを何とかしたと。買収も脅迫も何でもあり。後は偶然。こんな推理、つまらないだろ。そういうわけで海老蔵さん、これが一つ目の推理です。まあ、俺は気に入りませんけど、他の二つとメリットデメリット合わせて考えて、これを採用したらよさそうなら、どうぞ」
本当に面白くなさそうに、鍋島は眉をしかめる。彼からすると、本当にこの推理はただただ、面白くないのだろう。面白さで彼は話している。
「まあ、次ですよ、次。次はもうちょっと面白いから」
まるで子どもが言い訳するように、鍋島は早口で言う。
9 解決編・破
私は、不意に嫌気が差してくる。
真実を探す手伝いをするのだとばかり思っていた。だが、鍋島はそんなつもりは最初からなく、私の雇い主もまた、そんなものを求めてはいなかったのかもしれない。事件が解決されようとしているのに、この場は私が想像していたそれとはかけ離れている。私は、探偵小説の名探偵の助手にでもなったつもりだったのだ。だが、それとはまるで違う。犯罪に巻き込まれているような感覚。
「二つ目も、ご所望の玉山翔我犯人説です」私の内心とは無関係に、鍋島の話は進む。「ただし、こっちは単独犯だ。玉山がその手で殺した。標的も真夜です」
「つまり、アリバイを崩したということか」
多少は顔色を取り戻した海老蔵は、口調にどこか期待をにじませる。
あるいは、この説こそが依頼した時に望んでいたもの、そのものなのかもしれない。
海老蔵に向けて、笑みを消した鍋島が目を向ける。
「海老蔵さん、玉山が話していた、ストーカーなんかじゃなくて普通に真夜さんと奴が付き合っていたって話に、異論はないですよね?」
黙って、海老蔵は頷く。
「さて、それと、さっきの盗聴器の件――玉山たちが、海老蔵さんが本気で自分たちを潰そうとしてきていると知っていた可能性を併せて考えると、当初聞かされていた構図とは逆のものが浮かび上がってきます。すなわち、海老蔵さんを恐れて玉山は真夜さんと距離を取りたい。なのに、真夜さんは離れてくれない。執着してくる」
それはまるで、真夜の方がストーカーと化したと言っているようなものだ。けれど。
「ちょっと待ってください。それはおかしいですよ」私は黙り込んでいる海老蔵と鍋島の顔を見比べながら「それは、真夜さんを殺す動機にはなりません。だって、現にそうなっていますけど、真夜さんを殺したら会長が玉山を見逃すはずがない。むしろ、より徹底的に潰そうとしています」
憧れていた真夜と想子の母娘関係。友達のような母。理想的な娘、崩れていく。ほとんど本能的に、それを避けたくて口が動く。
「玉山が恐れていたのは海老蔵さんじゃないよ。当然だろ? 怖いのは、海老蔵さんって最強のバックのいるストーカー、つまり真夜さんだ」
私は絶句する。かわいそうな被害者としてのイメージ、無垢な少女、鍋島に付き合って少しずつ崩れていたイメージが、決定的に崩壊していく。
「悪夢だよ。ストーキングしてくる女がいて、その父親はとてつもなく強くて怖い。彼女の機嫌をとり続けなければいつ殺されてもおかしくない。こんなことになるなんて。そう後悔してももう遅い。玉山は追い詰められていた」
「君は、私の死んだ娘の名誉を傷つけて何がしたい?」
押し殺した海老蔵の声。
「あー、不愉快に思うかもしれませんが、どうしてもここが玉山のアリバイを崩すには必要でね。まあ、ちょっと我慢してください。さて、テーマは同じです。なぜリンゴだったのか。理由は簡単です。たまたまリンゴが出たからだ」
また、私と海老蔵は黙る。私は意味がよく分からずに。海老蔵は、何かをじっと考え込んでいる。
「リンゴに毒が混入されたこと、そのリンゴが届いたばかりだったこと、そういった色々で玉山のアリバイは強固になったが、それは偶然だったところが多いんだと思いますよ。玉山の計画では、とにかく真夜さんが毒を口にする前後にアリバイさえつくっておけば、後は何とかなるんじゃあないかというその一点だった。実際、その通りです。両親には接近を禁止されているし、事件現場の屋敷はそれなり以上のセキュリティだ。忍び込んで毒を盛ったというのは現実的じゃあない」
つまりもっとシンプルに考えるべきだ、と鍋島は言う。
「近づくことができない鍋島が、真夜さんの口にするものに毒を盛る方法。ただそれだけを考えればいい。リンゴもアリバイも放っておくんです。さあ、そうすると滅茶苦茶シンプルな答えがでてきます。当然の話です」
「……共犯者」
私は無意識にその単語を口にする。
「ああ、いいね、素晴らしい」鍋島が海老蔵から私に顔を向ける。「そう、で、誰が共犯者だったら一番、真夜さんが口にするものに簡単に毒を入れられるか。それの説明にさっきの話が必要だったってことで。もったいぶるのもおかしい。もちろん、共犯者は真夜さんですよ。真夜さんが自分が食べようとするものに毒を盛ればいいんだから、簡単なことです」
「共犯者。まさか、真夜が自分の殺害に協力したとでも言うのか?」
「だとしたら相当イカレてますが、まあさすがに違うでしょう。あー、そうですね、多分、こんなんじゃないですか。俺、玉山役ね。『なあ、真夜。俺だってお前と一緒になりたい。でもお前の両親がどうしても許してくれないじゃあないか。そこでどうだろう、お前が俺と一緒になれないなら死んでやるって両親を説得してくれ。実際に自殺してみるっていうのはどうだろう、狂言自殺だ』……どうです、こんな感じで」
「狂言自殺」海老蔵は唸り、「だが、実際に真夜は死んでいる。何があった?」
「そう、真夜さんの狂言自殺が発端だとしても、疑問点がたくさんある。色々と考えました。どうしてリシンだったのか。それから、宿題」
「宿題?」
意味が分からないらしく聞き返す海老蔵だが、私は思い当たる。鍋島が、ずっと気にしていた、あの数学の宿題だ。
「そう、狂言自殺だとしたら、遺書がないのが気になりました。自殺だと思われなかったら意味がない。俺は、直前までやっていた宿題のどこかに、遺書めいたことを殴り書きにでも書いているかと思ったんですよ。でも、どこにもそんなものはなかった。そしてリシンを使った狂言自殺。変でしょ、普通使いますか、リシン? 自殺であまり聞いたことがない」
「では、やはり狂言自殺説は間違っているのでは?」
遠慮がちに口をはさんだ私に、ゆっくりと鍋島が首を横に振る。
「そもそも、狂言自殺でこの薬を飲んでくれと言われて、素直にその謎の薬を飲む奴はそうはいない。玉山だってそんなアホみたいな提案はしないはずです。だから、こういう提案をした。毒薬を渡して、『これをお前の夜食にでもふりかけろ、そして食べずに、体調を崩した演技をするんだ』とね」
つまり、毒は摂取しなかった、ということか?
「演技だと? 馬鹿な。あれは、想子は相当鈍い女だが、それでも、娘の体調不良の演技ぐらい見抜くだろう」
「だからです。だから、リシンを使って、そして遺書がなかったんですよ」鍋島は動じない。「リシンの症状はインフルエンザ等の症状に似ている。加えて遺書がない。つまり、最初は普通の体調不良の演技からスタートして、もし怪しまれたら、学校でもサボろうとしたのだと誤魔化せるわけです。毒入りのリンゴは捨てちゃってね。最悪なのは狂言自殺がバレることですから。一方で、うまく信じてくれれば、遺書の代わりに息も絶え絶えに毒を飲んだのだの、玉山と一緒になりたいのだのと言えばいい。その言葉通り調べたらリンゴからリシンが検出。ああ、本当に自殺しようとしたんだ、と信じてくれる。そういう算段だったんじゃないですか?」
「だけど、実際に真夜さんは死んでます」
私は反論する。何故だか意固地になって。いや本当は分かっている。勝手に抱いていた玉山と真夜についてのイメージを、崩されたくないだけだ。理想の娘。友達のような母。
「そう。もちろんそれは、殺されたんだよ、玉山に。あいつにアリバイがあるのは真夜さんが倒れるまでの間だ。その後は寝たり学校サボって遊んだりって話だから、ロクにアリバイはないでしょ。真夜さんは当初はあくまでも風邪か何かだと思われて一般の病室に入院していた。そこに玉山が変装するなりして忍び込むことは不可能じゃあない。想子さんがつきっきりだと言ってましたが、別に席を外すタイミングくらいあったでしょうしね。で、そこでリシンを打ち込む」
「え? 打ち込む?」聞き返す。「飲ませる、のではなくて?」
「無理やり飲ませるのは難しい。腕に注射とかしたんじゃないの?」
「いやいやいや」ようやく見つけた鍋島の推理の穴に、私はむしろ安堵する。「そんなわけないでしょう。注射痕が残っちゃいますよ。そんな情報、資料にはなかったですから」
ねえ、とばかりに海老蔵を見るが、彼は暗い目をしてじっと私を見返してくる。どういう意味だ?
「海老蔵さん、さっきの録音にもありましたけどね、玉山が俺に面白いことを言ってましたよ。二の腕のあたりを見れば、色々と面白いことが分かる。どういう意味ですかね?」
海老蔵は答えない。
「話の流れ的に、リストカットの痕でもあるんだと思いました。その自傷癖のこと、俺にくれた資料には書かれてませんでしたよね。田古瀬家の恥だと思って隠してたのかな、くらいに思ってました。でも、後から考えたらちょっと妙だ。色々と分かる、なんて、リストカット痕以外にも何か見つかるみたいな言い方だ。で、真夜さんが酒もギャンブルもセックスも、それからドラッグもやってたって話を併せて考えると、見えてきたことがありましてね。つまり、ドラッグをなかなかハードにやってた可能性だ。錠剤や吸引、炙りよりももっとハードにね」
嘲るような目が、海老蔵をじっと観察している。
「海老蔵さん、あなたは隠していた。俺や柳生さんだけじゃあない、ひょっとしたら警察にも握りつぶさせてるんじゃあないですか。真夜さんの二の腕には、無数のリストカット痕と注射痕がある。違いますか?」
ふうう、と海老蔵の深く長い嘆息。そして疲れ切った目が私と、鍋島の間を緩慢な動きで彷徨う。
「そうだ」感情のこもっていない口調。「その通りだ」
「そこまで計算に入れていたかどうかは別として、結果としてそのせいでリシンを注射したことは今のところ問題になっていない。ただ、それだけのことです」
喉が渇いたな、と鍋島がそこで言って、水を要求する。
のろのろとした動きで部屋の奥、小さな冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出した海老蔵がそれを渡す。
鍋島は一瞬でそれを、屈託なくこの上なく美味そうに飲み干す。
「ふう。最高。ええと、そうだ。この説だと、真夜さんが病院に運ばれた後に玉山がこの屋敷を訪ねたのは、狂言自殺のことを自分は知りませんでしたというポーズですかね」
補足して、こんなところかな、と鍋島は頷いてまとめに入る。
「この説のメリットは犯人が明確であるところ、そして証拠も揃えやすいところですね。玉山が病院に忍び込んで注射した証拠は探せるし――まあ、つくるのも比較的簡単なはずだ。デメリットは、この話はあなたが隠してきた娘に関する醜聞をある程度明らかにしなきゃいけないし、この話を知ってしまった想子さんの精神的ダメージはちょっとしたものになるだろうってことですかね。この説はこんなところか」
しばらくの間、手持ち無沙汰に鍋島が空のペットボトルをへこませる音だけが部屋に響いている。
10 解決編・急
待っている。鍋島の最後の推理を。
それは私だけでなく、海老蔵も同様のようだ。彼は何をするでもなく、ただ重く濁った視線でじっと鍋島を見据えている。
「じゃあ。最後の説、いきますか。ただ、あんまり期待されると困るんですよね。最後の説は、多分海老蔵さんが最初に思いついたやつですよ。玉山も同じことを思っていた。きっと警察の方々も、海老蔵さんの手前言い出せないけど、ずっとそれを疑っていたはずです」
鍋島の言葉はまるで謎かけだ。
いや、本当は、私にも分かっている。本当は最初から、その可能性は考えていた。確かに、誰もが考えるはずだ。だが、それを口には出さなかっただけ。
「テーマは同じ。なぜリンゴだったのか。で、答えもさっきと同じ。たまたまリンゴが出たからだ。さっきと違うのはただ一点。狂言自殺じゃなくて、本当に自殺したんですよ」
やはり海老蔵も予期していたのか、それを聞いても動かない。目だけで続きを促している。
「自傷癖があるのを俺に隠していたのも、俺がそっちの推理をするのを避けたかったからじゃあないですか? 最初からあなたは、自分の娘が自殺したのかもしれないと、そう疑っていたはずだ。執着していた恋人から両親によって無理やり引き離された。その悪い恋人には悪い遊びを教えられ、金を溶かしていった。アルコールにドラッグ。こう列挙したら、自殺したって全く不自然じゃあない」
「いいや、不自然だ。不自然なことばかりだ。自殺するのにリシンなんて手段を使うはずがない。睡眠薬なり何なり、いくらでも楽に死ねる方法はあるはずだ。遺書もない。あの娘がリシンを手に入れるルートがない。あの娘がリシンを保管していたのだとしたら、その容器が真夜の部屋から見つからなかったのも不自然だ」
早口で、祈るような真摯さで、海老蔵は反論する。事実、祈っているのかもしれない。自分の娘が自ら死んだのだと、自分のせいで死んだのだと思いたくないのかもしれない。
「最初のどうしてリシンなんて使ったかって話に関してはいったんとばします。遺書がない件についても、同じです。どちらも同じ理由からなんでね。リシンを手に入れるルートについては、そこまで困難だとは思いません。俺みたいなおっさんだって、ひたすら頑張ってインターネット関連の知識とスキルを詰め込んでるから、リシンの抽出方法を調べることくらいできます。ましてや、真夜さんならいけるでしょ。抽出するための器具もスペースも大した問題じゃあない。学校の理科準備室あたりを使ったのかもしれませんよ? 合鍵持ってたらしいですし」
玉山の失礼な話に鍋島が食いついていたのを思い出す。あの時から、これを考えていたのだろうか。
「容器も、そうですね、俺だったら容器を食いますね。別に大した量じゃないだろうし、死ぬんだったらそれくらい頑張りますよ。オブラートとかで容器をつくったっていいですしね」
鍋島は何でもないことのように言って、口を大きく開けて何かを飲み込むゼスチャーをする。
「でね、ちょっと自殺の動機についてですけど、さっきたらたらと列挙しましたけど、正直あれは全部副菜でね、メインディッシュは別にあると思ってるんですよ。といっても自殺の原因としては多分一般的なやつです。海老蔵さんは気に入らないでしょうが」
対する海老蔵は疲れ切った顔で黙っている。諦めているのか。
「家庭環境だ。あー、特に想子さんじゃないですか?」
「どうして、ですか? 想子さんがどうして」
私は熱に浮かされたように質問をする。理想の母娘関係。友達のような母。頼りない代わりにどこまでも優しい母。私の母とは正反対の母親である想子。
「どうしてって、そりゃそうでしょ。俺が真夜の立場だったら間違いなくグレるよ。四歳や三歳の頃に果物で腹を壊したからって未だにすりおろしリンゴ出してくるんだぞ? あとあれも地味にひいたな、真夜さんがトイレ以外は部屋の出入りがなかったって証言。あれ、逆に言うとずっと部屋の出入りを監視してたってことだろ? ヤバいよ」
「そんな、嫌だったら言えばいいじゃないですか。想子さん、真夜さんが嫌がるのに無理強いするようなタイプじゃないですよ」
「それをしないように、ずっと矯正し続けてきたんじゃないか? 今までずっと。だから、家庭内ではいい娘でいたし、反動で玉山なんかにハマった」
海老蔵からは反論はない。眉間にしわを深く刻み、微動だにしない。
「あー、では、置いといた話を。どうして遺書がなかったのか。そして、どうしてリシンなんてものを使ったのか。要するに、自殺だと思われないためです。そして、できれば憎悪の対象である想子さんが犯人になってほしい。他殺に偽装した自殺ですよ」
反論してほしい。そう思って待つが、海老蔵は苦悶の表情のまま黙っている。
だったら、私がする。反論しなければ。
「真夜さんは一生懸命勉強をしていました。鍋島さんも見たでしょう、あの数学の宿題を。どうして、死ぬ人間が直前まで勉強をするんですか?」
「だから、自殺っぽくなくするためだよ。それから、勘違いしてるみたいだけど、あれは宿題を一生懸命はしてない」にや、と鍋島は笑って、「一生懸命勉強していたのは、単元テストまでだ。そこまでは確かに努力が見えたが、それ以降は、解答解説を写しているだけだよ。解答がきれいすぎるとは思わなかったか?」
乱れていた、バツと赤での直しばかりの解答。あれこそが努力の跡で、最近の美しい解答は紛い物。そうだとすると、私が真夜という少女の存在を感じたあの数学の宿題は、むしろ彼女が気力をなくしていった過程そのものだったことになる。
「じゃあ、じゃあ――」
何かないか。私は反論を探す。どうしてこんなに必死になっているのか。私の中にある理想の母娘関係。私と母では築けなかった関係性。うらやましいと思っていたのに、それが全部嘘になる。
「あれは、何だったんですか?」思い出した。反論ではないが、疑問点。「画面キャプチャ―の画像は」
「あっ」鍋島は手を叩く。「そうだそうだ、忘れていた。この説の肝だよ。忘れてたマジで、ありがとう」
「……何の話だ?」
当然知らない海老蔵に、鍋島がスマートフォンを見せながら説明する。自分の娘のスマートフォンのデータをコピーされたという話を聞いても、怒るでも驚くでもなく、弛緩した顔で頷くだけだ。
「で、これですけどね、玉山は口を割らなかったけど、まず間違いないですよ。三連単です」
それで説明が終わったのか、鍋島は黙る。
だが、私と海老蔵は意味が分からず、ただじっと鍋島の顔を見る。
彼はその状況に動揺したようで、
「え、あれ? もしかして、三連単を知らないのか?」
奇しくも同時に頷く私と海老蔵。
「嘘だろ」大きくのけぞって、鍋島はパイプ椅子から転げ落ちかける。「さ、三連単で分からない?」
そういえば、聞いたことはあるような気がする。ひょっとして。
「競馬、ですか?」
「ああ、そうそう。まあ、ウマだけじゃないけどな。競輪でも、競艇でも」
「ギャンブルか」
ようやく追いついたらしい海老蔵が言う。
「そうです。まあー1位から3位までキッチリ当てると高配当、ってことです、簡単に説明すると。玉山のグループは違法ギャンブルもやってたって話でしょ。あー、かなりローカルなギャンブルですけど、E学園内で生徒相手にやってたんでしょ。単元テストの順位でギャンブルをね。あの画面キャプチャはいわば馬券みたいなもんだろ」
「じゃあ、真夜さんが、必死で勉強していた理由って」
今度こそ、完全に私の中での真夜像、そして連鎖して想子像が砕け散る。
「自分を二位にしたからだな。①小日向②田古瀬③大福だっただろ。普通に考えて自分が参加する単元テストのギャンブルには参加できそうもないけど、元々真夜が数学を苦手にしてて、二位を取るのがかなり難しかったことと、玉山が真夜にビビってたってこともあって、胴元も承知したってことじゃあないか」
想子の話を思い出す。真夜は口座の金を溶かしていた。そして玉山の話。現実の単元テストの順位は、これとは違っていた。つまり。
「今までの金を取り戻そうとして、大金を賭けてたんだと思う。で、それがぎりぎりで外れた。まあ、これがいわゆるラストストローだったってことじゃあないか? このギャンブルがダメだったら死のう、そう思ってたんじゃあないかな。そしてダメだった。さようなら」
鍋島はさよならをするように手を振る。
もう、私には返す言葉はない。
横の海老蔵もまた、黙って暗い目で聞いているだけだ。
「この説のメリットは、誰もが納得するところだ。さっき言ったように警察も、海老蔵さん、あなたも、どこかでこれを考えていたはずです。玉山も、自殺だと思いながらも、その責任をあなたに追及されることを恐れていた。まあ、実際、半分くらいは責任あると思いますがね」
「もう半分は、我々か」
嘆息した海老蔵が、上を見上げる。上にあるのはただの天井だ。
「デメリットは、まあ、この結論ならそもそも海老蔵さんは俺に金を払って調査させないだろうってことです。ほっといてもこの結論になりそうですからね。想子さんが犯人になるのと半々かな。あと、この説だと誰かに責任をとらせるのが難しい。似黒巣組を使って玉山に個人的にけじめをとらせるくらいですか。もちろん、想子さんの精神的ダメージも心配かな。さっきの説以上にね」
そこで私をちらりと見てから鍋島は続ける。
「ただね、俺は意外と大丈夫かもな、とも思ってるんですよ。想子さんみたいなタイプ、意外と図太かったりするから。長年、愛故にでしょうが、真夜さんを支配して理想の娘をつくりあげてきたくらいだ。海老蔵さんが思ってるよりもタフでクレバーな気はしますがね」
そうなのかもしれない。もう、私は以前の私の想子評を自分自身で信じることができない。
「では、好きなやつを選んでください。後はご自由に」
鍋島は立ち上がる。
私も、海老蔵も立てない。動けない。
そんな私たちを見下ろし、ふっと笑ってから、鍋島はそのまま部屋を出ていく。
10.5 答え
A:田古瀬真夜
B:田古瀬想子
C:玉山翔我
D:鍋島寄席也
E:田古瀬海老蔵
F:柳生邦子
11 すりおろしリンゴ
三日ほどもらった休みを満喫していた。
一日何もせずにマンションでじっとして、二日目、まだ一日休みがあることに安堵しながらもごろごろとソファーの上で姿勢を変える以外に何もしない。昼を過ぎて、まだ何も食べていない。そろそろ冷凍食品でも出してレンジで温めないと、空腹に耐えきれなくなってきた。そう思いながらも動く気がしない。
会長秘書という仕事を続けるのか。その自らへの問いかけが、ずっと私の頭の中をぐるぐると回り続けている。
惰性で触っているスマートフォンが、震える。メッセージが送られてきている。差出人を見て、目を丸くする。
どうしようか。迷ったのは一瞬だ。このまま腐るよりも、これを理由にして外の空気を吸った方がよい。
近場の公園に、人の姿はない。平日の昼間、郊外、ベンチと木が数本しかない小さな公園とくれば、こんなものだろう。
私はベンチに座る。約束の時間まではまだ少しある。
深呼吸で、外の空気を一日ぶりに存分に吸う。
動く雲を眺めながら、深呼吸を数度しているうちに、待ち人が来る。
「おお、悪いね、呼び出しちゃって」
声に視線を空から戻すと、あの忌まわしい名探偵が、鍋島寄席也が公園に入ってくるところだった。
もう会うこともないと思っていたからか、その姿がやけに懐かしく思える。
「ほら、金」
いきなり要件だけ言うと、鍋島は裸で5万円をそのまま渡してくる。
そう、借りた金を返す、彼にとってはただそれだけだ。
「どうも」受け取ってから、我慢できず、鍋島なのに、いや、彼だからか、つい、本当の悩みが口をつく。「あの、実は、仕事を辞めようか悩んでいるんです」
「ああ、そりゃそうだろうな。早く辞めた方がいいよ」
あっさりと返されて、私は仰天する。
あの事件があり、想子真夜母娘への幻想や尊敬すべき会長への信頼も崩れて、自分自身のアイデンティティも見失いかけて、それに付随するように今の一流グループの会社秘書という仕事が急に色褪せて見えて、のようなこの繊細な心情を、この男が理解したというのか? 馬鹿な!
「でも、そんな、こんないい仕事を辞めるとなると母にも怒られちゃいますし」
「え、お母さん生きてるの?」
「生きてますよ。あのね、誤解しているみたいですけど、別に私は母と関係がよくないまま死に別れたりとか、今も断絶しているとか、そんなのしてないですからね。ごくごく普通の母娘関係だと思いますよ」
強権的な母親を憎んだこともあったし、反抗したこともあった。思春期には壮絶な喧嘩をしたこともある。だが、それを経て、大学生になり親元を離れて、社会人になり、今は普通に話すただの母娘の関係になっている。
想子と真夜に理想の母娘関係を見出していたのは、ただの過去の残滓への反発。もしこんな関係だったらどうだっただろう、という夢想だ。照れくさいが、結局のところ母は私を愛しているし、私も母のことは愛している。いくつかのことに感謝しているし、いくつかのことは未だに許せない。多分、それが普通なんだろう。
「まあ、とにかく、金は返したからな。感謝するよ、ほんと。利息分ってわけじゃないけど、何か困ったら格安で相談に乗るから、もしも名探偵が必要になったら呼んでくれ。それじゃあな」
そう言って、私が辞めようかと悩んでいる理由すら聞かずに鍋島は去っていこうとする。
「ちょ、ちょっと」慌てて止める。「あの、ちなみに、鍋島さん、早く辞めた方がいいって仰ってましたけど、私が辞めようとしている理由って分かってます?」
「何を馬鹿な」鍋島は笑って「テストでもしてるのか? もちろん、危険だからに決まってるだろ。何の話だよ」
凍り付いた私の顔を見て、鍋島は首を傾げる。
「ん、どうした?」
「危険って、どういうことですか?」
「え? いや、だってすりおろしリンゴ……あー、じゃあ、まだ気にしてなかったのか、本当に? 精神的ダメージでかい海老蔵とかアホっぽい想子なら分かるけど、柳生さんも考えてなかったのか、そこまで」
笑いながら、鍋島は私の横に座る。
「まあ、五万の恩義もあるから、ただで教えるよ。四つ目の説だ」
四つ目。思いもしない話の展開に私は固まったままだ。体も思考も。
「三つ目の自殺説ですらぎりぎりなのに、この説を言ったら海老蔵が本気でぶちぎれて金貰えなくなる可能性あったから、あの場では言わなかったんだよ。ほら、テーマあっただろ」
「なぜリンゴだったのか、ですか?」
「それそれ。最初に事件を聞いた時から、テーマはそれだった。けどそもそも、その前提が間違ってた。それに気付いたのは想子と話した時だけどね、資料をちゃんと見てなかったから。まさか、すりおろしリンゴだとは思ってなかったからなあ」
「ちょっと待ってください」
私の頭がようやく動き始める。リンゴに毒が入っていた。その前提が崩れる。すりおろしリンゴだったから。リンゴ以外に何があった? 砂糖と、レモン果汁。けれど、レモン果汁は小分けタイプではなくて検査の結果毒が入ってなかった。だとしたら。
「砂糖に毒が入っていた?」
「そっちの可能性もある。スティックシュガーのうち一本に毒が入っていて、それがすりおろしリンゴに使われた。っていうか、そっちの方が自然じゃあないか? やっぱり、どう考えたってリンゴに毒を入れるってちょっと変だろ」
「ちょっと待ってください。普通、料理にスティックシュガーなんて使いません。普段料理をしない想子さんがたまたますりおろしリンゴをつくったから、普段使っているお気に入りのスティックシュガーを使ったんです」
「あの甘くないヤツな。あれもオーガニック的なのかな? 一本いくらくらいだ?」
どうでもよい。
「だとしたら、スティックシュガーに入っていた毒を真夜さんが摂取したのは、完全に偶然だということですか?」
「うん、多分」
「だとしたら、本当の標的は」海老蔵はコーヒーの類を飲まない。真夜は一日一杯のブラックコーヒー。「想子さん、ですか?」
「この説ならな。別にこれが真実ってわけじゃあない。あくまでも可能性の一つだ」
だとしても、いや、だとしたら。
「犯人は、誰なんですか?」
「わざわざ言うようなことかあ? 外部の人間にスティックシュガーに毒を入れるのは難しいだろうし、玉山や半グレ連中には真夜や海老蔵を殺す動機はあっても想子を殺す動機はない。つまり内部の人間が犯人だ。で、想子を憎悪を抱いていた人間については、自殺説の説明できっちりやったはずだろ」
いくら私でも、言わんとすることは分かる。
「真夜さんが、毒を?」
「ああ。というか、この説は自殺説とほぼ同じだ。違うのは、決心したのが自殺でなくて他殺。毒を入れたのが自分のすりおろしリンゴでなくてスティックシュガー。そこが違うだけだ」
「けど、信じられません。いえ、やはり無理ですよ。確かに、スティックシュガーに毒を入れれば、一番口にする可能性が高いのは想子さんです。けれど、確実ではありません。同じ家にいる以上、自分が口にする可能性はゼロじゃあない。現に、すりおろしリンゴに入れられて、自分の口に入ったんですよ? 現実的に、毒を入れられるわけがない」
「俺と同じだ」
苦笑しながら鍋島は親指で自分を指し示す。
「玉山が言ってただろ。真夜が一番ハマってたのはギャンブルだ。自殺にしろ他殺にしろ普通に生きることを辞めるきっかけも、三連単を外したからだ。筋金入りのギャンブル狂だ。ひょっとしたら俺以上かもな。あいつは、無数にあるスティックシュガーのうちの一つに毒を入れて、それに母親が当たるのにベットしたんだ。別に分の悪い賭けじゃあなかったはずだ。むしろ、鉄板のレースだろうな。だからこそ、すりおろしリンゴが出された時はまさか、と思ったろうな。体調を崩した時には、絶望したかあるいは笑い出したんじゃあないか? 自分のあまりのギャンブルの弱さに、笑いながら死ぬ。まあ、仕方ない。負ける時はとことん負ける。勝って当然の勝負でも負ける。それがギャンブルだ」
さて、と鍋島は立ち上がる。
「いや、待ってください」私は慌てて引き止める。「それで、その可能性がどうして私が仕事を辞めた方がいい理由になるんですか? 危険って、何がですか?」
鍋島は足を止めない。歩きながら喋る。
「真夜は頭がイカレたギャンブル狂の殺人者かもしれない。そして、憎悪の対象が母親だけとは限らない。だったら、砂糖に入れた毒が不発だった時の予備や父親用の罠があの屋敷にまだ複数仕掛けられたままでも驚かないな。俺だったら、口止め料も込みでなるべく高めの退職金をぶんどって、あの屋敷からは距離を置く。それじゃあさよなら」
そうして鍋島は公園を去り、後には、呆然とベンチに座ったままの私だけが残される。