○前書き
名探偵・天宮トオルが解決した『古典館事件』の顛末を記すにあたり、事件の理解を容易にするため、三つのキーワードを先に挙げておく。すなわち、『密室』『アリバイ』『色覚多様性』である。
【密室】
出入口が塞がれており、一見すると侵入/脱出が不可能に思える部屋。
【アリバイ】
犯行時刻に犯行現場にいなかったことの証明。
【色覚多様性】
色の見え方が多くの人とは異なるという特性。「色覚異常」「色盲」「色弱」とも。日本遺伝学会は「色覚多様性」という呼び方を推奨しているが、あまり広まっていない。
色覚多様性のうち最もよく知られているのは、赤と緑の判別が難しい「赤緑色覚異常」であろう。ただし誤解も多く、「赤と緑が逆に見える」「赤と緑が灰色に見える」など、間違った情報がしばし流布される。
キーワードは以上。それでは事件の詳細に移ろう。
○第一章
時代錯誤な人間たちが、時代錯誤な館にいる。
探偵、探偵助手、洋館に住む大富豪、執事、道楽息子――以上五名が応接間で顔を合わせている。私は部屋の片隅で、館の主が言葉を発するのを静かに待った。
「ようこそ、古典館へ。もっとも、村の連中は侮蔑をこめて『コテコテ館』と呼んでいるがね」
車椅子に座ったまま自虐的な笑みを浮かべる私の叔父――薬師院蔵之介。若くして不動産会社を起業し、莫大な富を築いた資産家である。一年ほど前に脳梗塞で倒れ、その後遺症で右足が動かなくなったのを機に社長職を退任した。そして快適な老後生活を送るための準備を始めた。
いちごと古代ギリシャをこよなく愛する叔父は、栃木県の農村に土地を買い、古典主義様式の洋館を建てた。荘厳でデコボコとした外観とは対照的に、建物の中はバリアフリーが徹底され、床には絨毯一枚敷かれていない。完成したのはほんの二ヶ月前。噂は耳にしていたが、実際に足を踏み入れるのは私も初めてだ。
「せっかく新居を建てたというのに、引っ越しの手続きや面倒な雑務に追われて人と会う時間が取れなくてな。君たちは記念すべきお客様第一号だ。ゆっくりしていきたまえ」
「何が客だよ、クソ親父」
薬師院蔵之介の息子で、私の従弟にあたる薬師院亮太がタバコをふかしながら毒づいた。
「実の息子をゲスト扱いとはな。おめぇーの家族観イカれてるよ」
「貴様の話はつまらん」
亮太の発言を一蹴し、叔父は滔々と語り始めた。
「血縁に縛られた人生ほど不自由なものはない。私と貴様の共通点は遺伝子だけ。それ以外は似ても似つかない――特技も、収入も、好きな野球チームも。ただ親子であるという理由だけで、価値観が異なる相手と友好を深めて何になる? 私は自分と話したい相手とだけ話す。共通の趣味を持つネットフレンドや、スワローズファンとな。ゲマインシャフトよりもゲゼルシャフト。血の繋がりより、クラスタの絆だ」
叔父の演説は止まらない。
「だいたい、貴様の生き方は古臭いんだ。三十歳にもなって、ろくな仕事もせずに風俗通い。他の楽しみといえばタバコにやけ酒、もしくはパチンコ――昭和か。元号に追いつけないジジイか。平凡と自堕落と時代遅れを組み合わせて、ダメ人間トリプル役満が作れそうだな。
正直、貴様のような面白みゼロのバカ息子に遺産を残すのはまっぴらだ。遺言状、書き換えちゃおっかなー」
おどける叔父に対して、露骨な舌打ちをする亮太。応接間にぴりぴりとした空気が漂う。
「貴様は主賓じゃない。私が本当に呼びたかったのは名探偵ただ一人。甥を招いたのは、『探偵を呼ぶなら探偵助手もセットの方がいい』と執事の助言があったから。息子に声をかけたのは、『たまには親族と交流するべきだ』と執事がしつこく勧めるから。甥と会うついでに息子とも顔を合わせておこうと気まぐれを起こしたまでだ。つまり貴様はバーターのバーター。トンカツに添えられた千切りキャベツにかけるドレッシング」
それまでの不機嫌そうな表情から一転。叔父は天宮に顔を向けると、快活に話しかけた。
「はじめまして名探偵。招待メールにも書いたが、私はあなたの活躍に関心がある。これまでどんな事件と関わり、何を考え、いかにして事件を解決したか。晩餐会の席で、たっぷり聞かせてもらおう」
「いくらでも話しますよ。守秘義務に触れない範囲でね」
天宮はいつもの自信に満ちたまなざしで、叔父を見つめ返した。
「良い目をしているな。一流は目つきを見ればわかる、それが私の持論だ。いやはや素晴らしい素晴らしい……」
愉快そうに呟いて、叔父は壁時計に視線を向けた。二本の針は15時55分を指している。
「もうこんな時間か。そろそろ部屋に戻らなくては」
両手で駆動輪を回して、叔父が私たちの前を横切っていく。
「16時から古代系アイドル『ハヤトス』のライブ配信があるんだ。古代ギリシャ語でソフォクレスの『オイディプス王』を朗読するという企画でな。遅れるわけにはいかん」
応接間から出て行く直前、叔父は車椅子を止めて、窓の側にたたずむ執事の方を振り返った。
「中森、あとは任せた。私は19時まで部屋にこもる。晩餐会には少し遅れると思うが、迎えに来る必要はない。客人への応対を優先してくれ。それと、鍵の件を伝えておくのを忘れないように」
「かしこまりました」
深々とお辞儀をし、叔父を見送る執事。名前は中森洞。フォーマルな黒スーツを着用し、首元には蝶ネクタイをつけている。
叔父が姿を消すのを待ってから、中森は口を開いた。
「晩餐会は19時に開始予定です。それまではどうぞご自由にお過ごしください。なお、古典館に滞在中、何か用があってご主人様の部屋に入る時は、扉の表示錠の色を必ずお確かめください」
「表示錠ってトイレの個室とかについてるアレのことか?」と、亮太。
「はい。施錠時は赤、開錠時は緑が表示される特殊な鍵です。誰にも邪魔されたくない時、ご主人様は扉をロックされます。表示窓の色が赤の時は、どんな理由があっても部屋に入ってはいけません。扉をノックしてもいけません」
「たしか19時まで引きこもるとか言ってたな」
「ええ。ですから晩餐会が始まるまで、部屋は施錠されたままだと思いますよ」
「客をほったらかして、勝手なヤツだな。けっ!」
亮太がいまいましげに、タバコを携帯灰皿に押しつける。
「説明は終わりだな? 偏屈な主人に雇われたアンタには同情するが、執事としての仕事はきっちりやってもらうぜ。俺たちを客室に案内してくれ。なんかもう疲れた」
「了解しました。それでは皆様、こちらへどうぞ」
中森の誘導に従い、廊下を歩く。私たちの部屋は館の南側に用意されていた。
「亮太様は角部屋、天宮様はその隣、ツカサ様は亮太様の向かいの部屋をお使いください。それではどうぞごゆっくり」
時刻は16時。ここでいったん解散となった。天宮や亮太と別れて、私は自分に割り振られた部屋に入った。
○第二章
客室で一人になった私は、特にやることもないので、漫然と時間を潰した。壁に貼られた館の見取り図を眺めたり、携帯で今日のニュースをチェックしたり。退屈には慣れていたので、苦痛ではなかった。
変化が起きたのは18時過ぎ。突然、誰かが扉をノックしたのだ。
「私です。執事の中森です」
扉を開けると、二時間前と変わらぬ姿の中森が立っていた。
「どうしました? 何か問題でも?」
「いえ。仕事が一通り済んだので、暇になりましてね。どうです? ご一緒にカードでも? 娯楽室に行けば、たいていのカードゲームは遊べますよ」
「いいですね。付き合いましょう」
私はお気に入りのマフラーを首にかけ、廊下に出た。
見取り図によると、娯楽室は晩餐室のすぐ側にある。一時間ほどカード遊びを楽しんでから、夕食の席に向かうとしよう。
中森と並んで、長い廊下を進んでいく。
「とても広い館ですが、建物の管理はあなたが全て一人で?」
「清掃や各設備の点検は代行業者に頼んでいます。私はただの連絡役です」
「普段は、館に寝泊まりを?」
「はい。ご主人様の身の回りの世話が、私の主な仕事ですので」
「食事もあなたが?」
「朝食だけは。昼と夜は外部の料理人を招いています」
「出張料理サービスですね」
「ええ、便利な時代になったものです……おや?」
一つ目の角を折れ曲がったところで、中森が不意に声を上げた。
「鍵がかかっていませんね」
中森は表示窓がついた扉を指差した。どうやら、そこが叔父の部屋らしい。
つられて扉の錠を見ると、表示窓の色は赤になっていた。
「いや、閉まってますよ」
「えっ?」
唐突に立ち止まる中森。なぜか私と扉の表示窓を交互に見比べている。
「たしか、施錠時が赤で、開錠時が緑でしたよね。表示窓は赤色なので、扉は閉じているはずですが」
私がそう言うと、呆然と立ち尽くしていた中森はハッとしたように、
「失礼しました。私の見間違いです」
両手で顔を覆い、ゴシゴシと目をこすった。
「大丈夫ですか? ずいぶんお疲れのようですが」
「ご心配なく。さあ行きましょう」
中森はそそくさと足を動かし、廊下の中ほどにある部屋の扉を開けた。どうして彼はあんなに慌てているのだろう。腑に落ちないものを感じながら、私は娯楽室へと足を向けた。
○第三章
「どうして探偵助手になろうと思ったのですか?」
テーブル越しに、中森が問いを投げかけてくる。
「特に理由はありません。大学時代に何社か面接を受けて、たまたま内定をもらったのが探偵事務所だった。私は流れに身をまかせただけです」
「なるほど。……ドロー2」
手元にドロー系カードがなかったので、デッキからカードを二枚引く。私たちは二人でUNOをプレイしながら、雑談を交わしていた。今のところ戦績は1勝6敗で私のボロ負け。中森はUNOが得意らしく、カードを出すスピードが異様に速かった。
「将来、探偵に転職するつもりは?」
「私には無理です。天宮と一緒に仕事をして、格の違いを思い知らされました」
これまでに天宮が関わった事件の数は四百を超える。そのすべてを解決に導いた彼は、まぎれもない天才だ。功績を認められ、三年前には、警察の代わりに事件を捜査する権限を持つ『名探偵』の資格を与えられた。
天宮が犯人を突き止める。それから警察が呼ばれる。しかし駆けつけた刑事たちは現場検証を行わず、告発された人物を留置所にただ連れていくだけ。そんな光景を何度見たことか。
「ですが、探偵助手は安定職とはいえないでしょう。最近は助手を取らない探偵も増えていると聞きますし……」
「探偵助手不要論ですか。たしかに助手に対する世間の風当たりは強い。平凡、無能、愚図、頓馬、馬鹿、間抜け……ネガティブな評価が常につきまといます」
私は携帯を取り出し、有名な動画サイトにアクセスした。
「最近では、こんなshort動画が話題になりました」
携帯を逆向きにして、中森に画面を見せる。ダウナーなトラックにのせて、インテリ系ラッパー『バストホップ』の鋭利な歌声が響きわたる。動画のタイトルは『探偵助手をDisってみた』。
ワトソンはしょせんホームズの影
事件解決は名探偵のおかげ
いてもいなくてもいいんだよお前
ついでについてくるだけのおまけ
動画が終わると、中森が感想を述べた。
「探偵助手のパブリックイメージを、的確にとらえていますね」
「同感です。しかし私は役立たずな助手にはなりたくない。ビル・ゲイツの側にポール・アレンがいたように、天宮に足りないものを補えるような存在でありたい」
「探偵の欠点を助手がカバーすると?」
「はい。例えば『知識』です。天宮は抽象的な思考にふけることが多く、現実世界にあまり関心がない。探偵活動に最低限必要な知識ぐらいは持っていますが、それ以外は皆無。専門的な話題にはついていけません」
「そこであなたの出番になるわけですね」
「毎日幅広い分野の知識を摂取し、どんな質問にも答えられるように準備しています」
「素晴らしい心がけです。体を鍛えているのも、仕事のためですか?」
「犯人を取り押さえるのは私の役目なので。ジムと少林寺道場に通い続けた甲斐がありました」
「元から強かったわけではない?」
「病弱な子供でしたよ。外見もガリガリのもやし体型」
「それは意外です。想像もつかない」
「持病もいくつか抱えています」
「人は見た目ではわからないものですね。……UNO! スキップ! 青の1! 私の勝ちですね」
「やれやれ、また負けた」
「そろそろお開きにしましょう。19時まであと5分しかありません」
カードを元の場所にしまい、私と中森は晩餐室に移った。すでに亮太は席に着いていて、私が隣に座ると、不思議そうに目をしばたたかせた。
「あれ? あの探偵は一緒じゃないのか?」
「仕事以外では互いに干渉しない主義でね。基本的にプライベートは別行動だ」
「ふーん。探偵と助手って、常にベタベタしてるわけじゃねえんだな」
当の探偵は、集合時刻を少し過ぎた頃にやってきた。
「遅れてすまない。近くの村でいちご農園を見学していたら、つい時間を忘れてしまってね。薬師院氏はまだかな?」
「配信が終わってないんだろう。叔父は趣味に生きる男だ。接客は二の次三の次」
「それは結構。まぁ、3分も経てばきっと来るさ」
ところが、あっという間に3分が経ち、5分が経ち、10分が経ち……8時15分になっても、叔父は一向に姿を現さなかった。
「妙ですね」
中森が不安そうに呟く。
「さすがに遅すぎます」
「あのバカ親父、約束を忘れてるのかもしんねぇーぜ? 呼びに行った方がいいんじゃねえか?」
亮太の提案に対し、中森は申し訳なさそうに、
「ご主人様は『迎えに来る必要はない』と言われました。命令は絶対です。逆らうわけにはいきません」
「真面目かよ。夕食の時間を決めたのは親父なんだろ? だったらこれはアイツのミスだ。遠慮するこたぁねーよ」
「ですが……」
中森は断固として動こうとしない。
「ったく。要するに親父の機嫌を損ねるのが怖いんだな? だったら俺が同行してやるよ。親父に怒られたら俺のせいにすりゃあいい。これで文句はねえだろ」
亮太は席から立ち上がり、中森を無理やり引き連れて、叔父を迎えにいった。晩餐室には天宮と私の二人だけが残された。
「悪いな、叔父のわがままに付き合わせて」
「気にしなくていいよ、ツカサ。君のせいじゃない」
それだけ言葉を交わしてから、私たちは無言で彼らを待った。晩餐室は不気味なほどに静かで、物音一つしない。
だが、その沈黙は意外な形で破られた。
館のどこかから、日常では耳にしない奇怪な音が次々に聞こえてきたのだ。
バリッ、バリッという破砕音。それに混じって、鈍器を叩きつける音。しばらくして床に大きな物が倒れる音。続いて、誰かが廊下を走る音。
真っ青な顔をした亮太が晩餐室に飛びこんできたのは、その直後だった。
「どうした? 何かあったのか?」
亮太の返事は簡潔だった。
「大変だ。親父が死んでる」
〇第四章
報告を受けた私たちは、犯行現場に急行した。叔父の部屋の前には、呆然と立ちすくむ中森の姿があった。ぶらんと下がった右手には金属製のハンマーを握りしめている。
破損した扉をあごで指しながら、天宮が声をかける。
「鍵を壊したのか?」
中森ははじかれたように姿勢を正した。
「鍵が閉まっていたので何度かノックしたのですが返事がなく……もしやご主人様に異変が起きたのではと思い、やむなく扉を壊しました。一度、脳梗塞で倒れておられますし、何よりご高齢ですから心配で」
「そのハンマーはどこから?」
「隣の物置から拝借しました」
「わかった。ひとまず晩餐室で待機してくれ。あとで詳しい話を聞かせてもらう。警察はまだ呼ばなくていい」
「かしこまりました」
床に散らばる扉の破片をまたいで、私と天宮は犯行現場に足を踏み入れた。
扉の真正面に置かれたパソコンデスクの前で、叔父は車椅子に腰かけたまま、首から血を流して息絶えていた。モニターには「本日の配信は終了しました」という一文が映し出されている。
凶器はすぐに見つかった。壁際に血まみれの包丁が落ちていたのだ。
「死因は頸動脈損傷による失血死。凶器はこいつで間違いない。形状が傷口と一致する」
死体の周辺を調べながら、天宮が所見を述べる。
「車椅子の駆動輪にロックがかかっている。どうやら被害者は殺されるまで、犯人の存在に気づかなかったらしい。普通なら逃げる素振りを見せるはずだからね。犯人はライブ配信を見ている被害者の背後から忍び寄って、頸動脈を一閃。凶器の包丁を投げ捨て、現場から立ち去った――こんなところかな」
天宮は手際よく仕事を進めた。雨戸が降りたままの窓に歩み寄り、鍵の施錠状態を確認。本棚やベッドに不審な点がないことを確かめると、扉の前にかがみこみ、壊された表示錠を丁寧に観察した。
「この内側のツマミを回すと、扉の側面から閂が飛び出て鍵がかかる仕組みのようだ。原型をとどめていないから、確かめようがないけどね」
「中森は『鍵が閉まっていた』と言ってたな。この部屋は密室だったのか。犯人はどうやって部屋から脱出したんだ?」
「脱出だけじゃなく、侵入の問題もある。被害者は19時まで自室に閉じこもるつもりだった。鍵をかけていた可能性は高い。そして僕は廊下で解散した直後、16時過ぎにこの扉の表示窓が赤色になっていたのを確認している」
「偶然通りかかったのか?」
「館を探検しようと思ってね。ぶらぶらと歩いていたのさ」
天宮はおもむろに顔をあげた。
「ところで、ツカサ。この館に来てから、見間違いをした人はいなかったか?」
「見間違い?」
「ああ、例えば色を間違えたとか」
「そういえば、中森と二人でこの部屋の前を通った時に、彼は何故か『鍵がかかっていない』と言ってたな。表示窓は赤色だったのに」
「本当に赤だったのか?」
「ああ。絶対に赤だった」
「なるほど、なるほど……それは重要な情報だ」
得心がいったように、天宮は深く頷いた。
「もうここに用はない。事情聴取を始めよう」
晩餐室に戻ると、事件の関係者が勢揃いしていた。平静を装っているが体の震えを隠せていない中森。せわしなくタバコを吸っている亮太。
そして、顧客が死んだと聞かされて、困惑する三人の出張料理人たち。
「君たちはいつ館に来たんだ?」
天宮が尋ねると、料理人の一人が代表して答えた。
「17時です。中森さんと簡単な打ち合わせをしてから、厨房に入りました。それから19時まで、三人とも夕食の準備をしていました」
「誰も厨房から出なかった?」
「一度だけ、私が持ち場を離れました」
「それはどうして?」
「包丁が一つ消えていたんです。一応報告しておいた方がいいと思い、作業に区切りがついたところで、薬師院さんの部屋に向かいました」
「けど、入れなかったんだよね?」
「はい。表示窓の色が赤の時は、絶対にノックするなと厳命されていたので。すぐに厨房に引き返しましたよ」
「人を殺す時間はなさそうだな。ちなみに何時頃?」
「18時少し前です」
「わかった。君たちは下がっていい」
料理人たちはホッと胸をなでおろして、部屋から退室した。残るは私を含めて四人。この中の誰かが叔父を殺したのだ。
「事件の流れを整理してみよう」
天宮が場を仕切り直す。
「被害者の生存が最後に確認されたのは16時直前。19時過ぎには、ここにいる全員が晩餐室に集まっていた。よって、犯行時刻は16時から19時までの三時間に絞りこめる。さて、アリバイがある人はいるかな?」
私はゆっくりと手を挙げた。
「部分的なアリバイなら。中森氏が私の客室を訪れたのが18時。それ以後、私たちはずっと行動を共にしていた」
「君の客室にいたのか?」
「いや、すぐに娯楽室に移動した」
「とはいえ、18時前のアリバイはないわけだ。他の二人はどうかな?」
中森も亮太も、無言で首を横に振った。
「ふむ。残念だが、アリバイの有無で犯人を特定することはできないようだ。密室の検討に移ろう。亮太君、死体を発見した時の状況を説明してくれ」
亮太は心を落ち着けるように、煙を吐き出した。
「俺と中森さんが晩餐室を出たところまでは覚えてるよな? 親父の部屋に行ったら、表示錠が赤色になってたんだ。しょうがねえから扉を叩いたんだが、反応はなし。さすがに俺も変だなと思った」
「その時、ドアノブには触ったかい?」
「いや、触ってねえけど。表示窓を見れば、鍵が閉まっているのは一目瞭然だし。中森さんも触れなかったはずだ」
「わかった。続けてくれ」
「中森さんは、親父が気を失ってるんだと考えたらしい。慌てて近くの物置からハンマーを持ってきて、鍵を壊した。扉を開けて部屋に入ったら、親父が死んでた。俺から言えるのは以上だ」
「了解。では次だ」
質問の矛先が中森に向けられる。
「例の表示錠だが、合鍵の類いは?」
「ありません。そもそも、あの扉には鍵穴がついていないので。外からの開閉は不可能です」
「窓はどうかな?」
「扉と同様です。外から操作することはできません」
「ありがとう。おかげで必要な手がかりが揃ったよ」
天宮が何気なく発した言葉の意味を、私は即座に理解した。
「まさか犯人がわかったのか? 密室の謎も?」
「もちろん解けたよ。ただ、真相を話すのは三十分ほど待ってほしい。少し出かけてくる」
呆気にとられた私は、反射的に言葉を返した。
「出かけるってどこに? 何のために?」
にやりと唇を吊り上げて、天宮は言った。
「近くの農村に。いちご狩りのために」
○読者への挑発状
探偵助手・薬師院ツカサは市民の義務をわきまえた常識人である。
この小説は、逃走する犯人を薬師院ツカサが捕まえた直後に幕を閉じる。
さて、本文の最後に登場する三桁の数字は何か?
〇第五章
「中森さん、あなたは赤緑色盲だ」
不透明なタッパーを抱えて晩餐室に帰ってきた天宮は、だしぬけにそう言った。
「えっ、いや、その……」
口ごもる中森に、天宮が推理を語る。
「ツカサから聞いたよ。廊下を歩いている時に、表示錠の色を見間違えたそうだね。その話でピンときた。あなたは赤と緑の区別がつかない、先天性の色覚異常だとね。そして犯人はあなたの目を欺くことで、犯行現場を密室に見せかけたんだ。
被害者の様子を見に行った際、中森さんは表示錠が赤色になっているのを見て、鍵がかかっていると考えた。けど本当は緑で、鍵は開いてたんだよ。中森さんは赤と緑を見間違えたんだ。
これでもう犯人はわかっただろう? 中森さんを騙して、密室を作れるのは一人しかいない」
一息置いて、天宮は犯人の名を指摘した。
「君だよ、薬師院亮太。おそらく君は扉の前で『鍵がかかっている』とでも言ったんだ。色の判別に自信がない中森さんは、その言葉を信じた。あとは証拠を隠滅すればトリックは完成だ。幸い、中森さんが鍵を壊したおかげで、君は手を汚さずに済んだけどね。中森さんがやらなければ自分で壊すつもりだったんだろう。動機は父親の遺産かな?」
「ふざけんな!」
全身から怒りをにじませて、亮太は天宮を睨みつけた。
「俺はこの館に初めて来たんだ。中森さんが赤緑色盲だなんて知ってるわけねえだろ!」
「君は廊下でツカサと中森さんの会話を盗み聞きしたんだ。中森さんが表示錠の色を見間違えたのを知って、赤緑色盲の可能性に思い至った」
「仮にその方法で密室を作れるとして、入る時はどうするんだ。親父は鍵を閉めてたはずだろ!」
「あの手の表示錠には、緊急時に外から鍵を解錠できるように、特別な仕掛けが施されている。表示窓の部分を細い針のようなもので押しこむとロックが解除されるんだ。鍵が開く音は、ライブ配信の音声がかき消してくれる。君はそうやって部屋に侵入した」
「俺はやってない!」
涙を流しながら絶叫し、床に突っ伏す亮太。悔しげに腕を叩きつけながら、嗚咽混じりに胸のうちをぶちまける。
「たしかに俺は親父が嫌いだったさ。だからって殺したりしねえよ! お袋が三年前に癌で死んで、今じゃ親父だけがたった一人の肉親なんだ。なのに俺が犯人だなんて……うわぁああああ」
わんわんと泣き喚く亮太を無視して、天宮は中森に歩み寄る。
「あなたが赤緑色盲を隠したい気持ちはよくわかる。目の病気に対する世間の偏見は根強い。差別を受ける恐れがあるし、転職活動にも支障が出るかもしれない。だが、あなたが赤緑色盲を認めない限り、犯人の罪を立証できないんだ。殺人犯を野放しにするわけにはいかない」
手に持っていたタッパーの蓋を天宮が開ける。中には、隙間なくいちごが敷き詰められていた。ただし、赤いいちごは一つだけ。残りはすべて、成熟していない緑のいちご。
「あなたが赤緑色盲でないのなら、熟したいちごを選べるはずだ」
中森はしばらく逡巡していたが、やがて覚悟を決めたように、タッパーへと手を伸ばした。迷いのない動きで、目当ての果実を指先でつまみあげる。
彼が選んだのは、緑色のいちごだった。
満足そうに微笑む天宮。その意味を察したのか、中森は苦渋の色を浮かべて秘密を打ち明けた。
「もう言い逃れはできませんね……そうです、私は赤緑色盲です」
静寂が訪れた。私はゆったりとした歩調で二人の側に近づき、中森の腕を握り潰すように掴んだ。
「嘘をつくな」
〇最終章
痛みに耐えかねて、中森がうめく。緑色のいちごは手からすり抜け、床に落ちて潰れた。
「何ですか急に。嘘とは一体……」
「本当は見えているんだろう、成熟した赤いいちごが。あなたは赤緑色盲ではない」
腕から手を離して、私は説明を始めた。
「よくある誤解だが、赤緑色盲だからといって、赤と緑が絶対に識別できないわけではない。色の構成要素は『色相』『明度』『彩度』の三つ――色相の違いがわからなくても、明度差や彩度差で色を見分けることはできる。成熟したいちごと未成熟ないちごでは、見え方が少し異なるんだ。赤いいちごを選び取れる可能性はゼロじゃない。
要するに、この検査は無意味だ」
中森が不服そうに抗議する。
「どうして断言できるんです? 専門的な教育を受けた眼科医ならともかく、あなたはただの素人だ。ネットでかじった知識をひけらかして、他人を嘘つき呼ばわりするのは関心しませんね」
「知識ではなく実体験だ。私は赤緑色盲なんだ」
「なんだって!?」
天宮は明らかに動揺していた。額からねっとりとした汗が吹き出している。
「どうして教えてくれなかったんだ……」
「別に隠していたわけじゃない。一口に色覚異常といっても、症例は様々。私は軽度の赤緑色盲だから、実生活への影響はほとんどないし、極端に薄い色でなければ赤色と緑色の判別もつく。言う必要がないから、言わなかっただけだ。知っているのは、家族や親戚ぐらいだな」
私の告白を聞いても、中森はあくまでも食い下がった。
「あなたは今、こうおっしゃいました。『一口に色覚異常といっても、症例は様々』ーーまさにその通り。私は重度の色盲なんですよ。明度や彩度が違っても、赤と緑を判別できないほどにね」
「それが嘘だと言ってるんだ。娯楽室で何をしたか覚えているか?」
「娯楽室? ええ、もちろん覚えてますよ。二人でUNOを……」
不意に言葉が途切れる。ようやく自分が犯したミスに気づいたようだ。
「UNOのカードの色は、青・黄・赤・緑。デザインは統一されているから模様でカードの種類を見分けることはできないし、明度差も彩度差もいちごより小さい。赤と緑の区別がつかないなら、あんなに速くカードを出せるはずがないんだ」
険しい顔つきで押し黙る中森。ところが、私の指摘に犯人よりも衝撃を受けている人物がいた。天宮だ。
「赤緑色盲でも赤と緑を判別できる場合がある……? ツカサが赤緑色盲……? 中森さんが赤緑色盲でないなら、事件の様相はまるで違ってくる……赤と緑……赤と緑……」
うわごとを口走りながら、天宮はおぼつかない足取りで後ずさり、ふらふらと背後の椅子に倒れこんだ。
「なんてことだ。僕は推理を間違えたのか……?」
弱々しく呟く天宮には目もくれず、中森は開き直ったように反論してくる。
「私が赤緑色盲を装っていたとして、だから何です? 嘘をついたから犯人だとでも?」
「わからない」
「とぼけないでください。私がご主人様を殺したと考えてるんでしょう?」
「本当にわからないんだ。一介の助手に過ぎない私には、事件の全貌を見通す力がない。この新しい事実が何を意味するのか、それを解き明かすのは私ではない」
そう、ここから先は探偵の役目だ。期待をこめて振り返ると、視界に信じられない光景が飛びこんできた。
食卓の椅子に体を沈め、ぐったりとしている天宮の姿。だらしなく開かれた口、血の気のない顔。目の焦点は定まらず、うつろな表情で虚空を見つめている。
「大丈夫か? 具合が悪そうだが」
両肩を掴んで体を揺らしても、天宮は反応を示さない。なんだこれは。天宮はどうしてしまったんだ。
「ふっ、ふはっ、ふはははは」
冷たく傲慢な高笑いが突如として晩餐室を満たした。声の主はなんと中森だ。
「どうやら探偵の心は死んだようだな」
大げさな身振りを交えて、嘲笑する中森。実直で慎ましい執事の面影は消え失せ、残忍な本性が剥き出しになっていた。その奥に見え隠れするのは、まぎれもない狂気。
「圧倒的なカリスマ性と類稀なる才能に恵まれた名探偵。事件現場では超然とした態度で犯人に挑み、カメラの前では余裕の笑顔を振り撒くことで、完全無欠の探偵像を守り抜いてきた。しかしその正体はーー不安に押し潰されそうな心を奮い立たせて、気丈に振る舞う虚構の英雄」
たっぷりと間をとってから、中森は続けた。
「失敗を知らぬ心は脆い。万年負け組の敗北と全戦全勝を成し遂げてきた天才の一敗では、重みがまるで違う。たった一回のミスで心が壊れてしまうこともあるのだ。その最上のサンプルが我々の目の前にいる!」
追い討ちをかけるように、中森はまくしたてる。
「もはやその廃人は推理を続けることができない。ならば、これまでに探偵が語った推理を真実とみなそうではないか。先生と親と探偵の言うことは絶対! 犯人は薬師院亮太だ!」
「起きるんだ、トオル。君の口から真実をを聞かせてくれ!」
必死の呼びかけもむなしく、天宮は椅子の上で、死人のように静止している。
「無駄だ。脳科学の知見によれば、心とは脳の別名に過ぎぬ。心の決壊は、脳の崩壊。その探偵の思考力はすでに失われている」
中森は天井を仰ぎ見て、勝利の雄叫びをあげた。
「成功だ! 私は完全犯罪を成し遂げたのだー!」
「…………犯人は薬師院亮太ではない」
「なにぃ!?」
驚くのも無理はない。魂を抜かれたように固まっている天宮の口から、わずかに声が漏れたのだ。その声には生気がなく、機械が発する合成音に似ていた。
「どうして喋れる!? 言語中枢がまともに機能するはずがない!」
中森の顔に恐怖が浮かび上がる。
「まさか、心と脳を同一視する脳科学の常識が覆されようとしているのか……?」
動かない体。見開かれた両目。力なく背もたれに身を預ける天宮の姿は、魂を抜かれた人形のようだ。
だが私にはわかる。彼の脳内では今まさに、めまぐるしい推理が展開されている。
これが探偵という生き物なのだ。精神が破壊されてもなお、その鋭敏な頭脳は思考をやめない。
「さっきの推理は忘れてくれ。僕は致命的な誤解をしていたんだ。ツカサのおかげで、ようやく真相にたどり着けた」
悔しそうにギリギリと歯ぎしりをする中森。不安と怒りのために顔は醜く歪んでいる。
「真犯人は中森洞、あなただ。これから事件の全体像を明らかにする」
抑揚のない無機質な声で、天宮は推理を語った。ギリギリギリギリという、犯人の歯ぎしりをBGMにして。
「犯人が立てた計画はこうだ。まずツカサと一緒に、被害者の部屋の前を通り過ぎる。そして『鍵がかかっていない』と言う。実際には閉まっているから、表示錠の色は赤。それを緑だと信じこませる。ツカサが赤緑色盲であることは、被害者から又聞きして知ったんだろう。
そのまま娯楽室でツカサと遊び、アリバイを確保。19時になったら晩餐室に移動する。被害者が一向に現れないので、自然と誰かが様子を見に行く流れになる。
この時、犯人が一人で部屋に向かったら、被害者を呼びにいくフリをして、早業で殺した可能性が生じてしまう。せっかくのアリバイ工作が台無しだ。だから犯人は亮太君がついてくるように仕向けた。そして、扉の鍵の状態を確認させた。表示錠の色は赤。当然、亮太君は『扉は閉まっていた』と証言する。
ツカサが部屋の前を通り過ぎた18時には、部屋の鍵は開いていた。
一方、亮太君が死体を発見した時には、部屋の鍵は閉まっていた。
この二つの証言により、18時以降に部屋の鍵が何者かによって動かされたという誤認が生じる。犯行時刻も自ずとその時間帯に絞られ、アリバイを持つ犯人は、まんまと容疑の圏外に置かれる。これが犯人が仕掛けようとしたアリバイトリックの全容だ。
あいにく、このトリックは不発に終わった。犯人は僕と同じように、赤緑色盲の症状を誤解していたから。
『赤緑色盲の人は赤と緑を絶対に判別できない』という勘違い。犯人はその誤った知識をもとに犯行計画を立案した。赤だと言えば赤、緑と言えば緑だと探偵助手は錯覚する――犯人はそう信じていたが、結果は見てのとおり。計画は失敗し、犯人はアリバイを失った」
「待て。その推理はおかしい」
天宮の話を遮ったのは、犯人の中森ではなく亮太だった。先程までの狼狽が嘘のように、今ではすっかり落ち着きを取り戻している。
「アリバイがある時間帯に、錠の色が緑から赤に変わったと思わせる。これがトリックの核心だ。たしかに成功すればアリバイを偽装できるさ。けどよ、逆の方が楽じゃねえか?」
「逆?」
私の疑問に対し、亮太は深く頷いた。
「ああ。錠の色が赤から緑に変わったと思わせるんだよ。ツカサさんの赤緑色盲を利用して、鍵がかかっているように錯覚させる。で、死体を発見する時に鍵が開いてるのを俺が確認すれば、アリバイ成立だ」
「どちらでも同じでは?」
「いや違う。赤→緑の場合なら、犯人は親父を殺した後、普通に部屋から出ていけばいい。開いてる部屋を閉じてるように見せかけるんだからな。
だが、緑→赤のトリックを実現するためには、親父の部屋に外から鍵をかける必要がある。わざわざ密室を作らないといけないんだぜ? そんな面倒なこと、犯人がするか?」
「その答えはすでに出ている」
天宮の一声で、私たちは話すのをやめた。ギリギリギリギリギリギリ。中森の歯ぎしりが晩餐室にこだまする。
「赤→緑のトリックには欠陥がある。犯人が被害者を殺してから死体が発見されるまで、扉が開いたままになってしまうんだ。これはマズイ。表示錠の色が緑なら自由に部屋に入ってもよい――それが被害者の定めたルールだ。館にいる誰かが部屋の中を覗いて、死体を発見するかもしれない。
アリバイトリックを実行した後なら問題はない。だが、被害者を殺してから、ツカサを連れて部屋の前を通り過ぎるまでの間に、死体が見つかってしまったら? 計画は水の泡、犯人のアリバイはなくなる。
犯人が密室を作ったのは、料理人や客人が部屋に入らないようにするためだ。つまり、密室はあくまでアリバイトリックの補助。それ単体では何の意味も持たない」
「親父を殺してからアリバイトリックを使うまでの時間なんて、せいぜい数分だろ? そのタイミングで俺たちの誰かが親父の部屋に入る? ゼロとは言えねえけど、確率は低いよな。その数分間のためだけに、犯人が密室を作ったとは到底思えねえよ」
「手間がかからないとしたら?」
「ど、どういう意味だ?」
「あとでわかる。さて、密室トリックの解明に移ろうか。仕掛けは単純。鍵が壊れていただけだ」
「はぁ!? 鍵が壊れてたぁ!?」
「あの部屋の鍵は、内側のツマミを回すと施錠され、表示窓の色が緑から赤に変わる。死体発見時、君は表示窓が赤になっているのを見て、鍵がかかっていると考えた。だが本当は開いていたんだ。ツマミと閂を繋ぐ部品が壊れていたせいで、鍵はかかっていなかった。その一方、ツマミと表示窓の連動は生きていたので、表示窓の色は赤に変わっていた。
犯人が扉に細工をしたのか、偶然扉が壊れていたのを犯人が利用したのか、それは分からない。いずれにせよ、このトリックを使えば、密室は問題でなくなる。
16時に被害者が部屋に閉じこもった時、彼は鍵をかけたつもりでいたが、実際には開いていた。だから犯人は易々と部屋に侵入できた。
殺人を終えた後はもっと簡単だ。すでに表示窓の色は赤になっている。普通に扉から出ていくだけで密室は完成する。
あとは死体発見時に扉を破壊されば、証拠は消滅。たいして労力がかからないうえに、死体発見のリスクも減らせる。良いことづくめのトリックだ」
「待て待て! その密室トリックは無理があるって! 俺と中森さんが親父の部屋に向かった時、鍵は開いてたんだろ? そんなの俺がドアノブに手をかけたら、一発でバレるじゃねえか。失敗するリスクが高すぎるだろ」
「失敗しても問題ない」
「何言ってんだお前!?」
ギリギリギリギリギリギリギリギリ。
「すでに説明したように、この密室の目的は、アリバイトリックが完了するまで誰も部屋に入れないことだ。つまり、死体発見時には密室はとうに役目を終えている。仮に密室の仕掛けが暴かれたところで、表示窓の色が緑から赤に変わったという事実は揺るがない。犯人のアリバイには何の影響もないんだ。
もしアリバイトリックが成功していたなら、密室は重要な役割を担うはずだった。実際、18時前に料理人が被害者の部屋を訪れている。表示窓の赤色は料理人が部屋に入るのを止めた。死体が見つかるのを見事に防いだ。
が、アリバイトリックが実行されなかったせいで密室の意義は失われ、脆弱で理由のない密室トリックだけが残った」
「待て待て待てぃ! もう言うぞ! 誰もツッコまねえから俺が言うぞ!」
亮太は大きく息を吸いこみ、心にたまったモヤモヤをぶちまけるように叫んだ。
「そもそも、アリバイトリックが無茶なんだよ! 赤緑色盲の症状を誤解していた件は、いったんおいとく。赤と緑の判別が難しいなら、犯人の誘導に騙されて、赤を緑だと信じるかもしれない。そこまでは百歩譲って許す。
けどな、扉の表示窓の色が問題になった時点で、赤緑色盲の人間なら自分の証言に疑いを持つだろ。『あの時は緑に見えたが、実は赤だったかもしれない』って。ツカサさんが赤緑色盲をカミングアウトしたら、証言の信憑性は一気に失われる。アリバイトリックも当然成立しない。
それだけじゃない。ツカサさんに表示窓の色が緑だと思わせた時点で、部屋に入られるリスクが生まれるんだ。扉の前を通り過ぎる時に、中を覗かれたら終わりだぜ? こんな隙だらけのトリック、普通使うか? 犯人は偏差値マイナス世界の住人か?」
「君は探偵助手についてどう思う?」
「なんだよ急に。まぁ、ツカサさんのことは割と尊敬してるけど……」
「そうじゃない。探偵助手という職業に対するイメージを聞いてるんだ」
「えーと、それはそのぉ……」
気まずそうに言葉を濁す亮太。私には彼の考えていることが手にとるようにわかった。遠慮しているのだ。ここは従兄として、背中を押してやらなければ。
「私のことは気にせず、思ったことを正直に言ってくれ」
「……わかったよ。ぶっちゃけ、探偵助手って無能がやる仕事だよな。探偵の相棒といえば聞こえはいいけど、実態はただのお荷物。推理力もない、洞察力もない、要するに優れた点が一つもない。そりゃ、助手を雇わない探偵が増えるわけだよ。存在価値が本気で謎だもん」
「その通り」
「いや、その通りって……流石にツカサさんに失礼すぎんだろ。俺の従兄は馬鹿じゃねえぞ」
「それもまた正しい」
「わけわかんねえよ! 今はな、アリバイトリックが無謀だって話をしてんだぞ!」
ギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリ。
「君の指摘どおり、犯人が用意したアリバイトリックには粗が多い。まともな神経の持ち主なら、こんなトリックは絶対に使わないだろう。それでも犯人はトリックがうまくいくと信じていた。トリックを仕掛ける相手が探偵助手だったからだ。
世間のイメージでは、探偵助手は無能で愚鈍な阿呆だと思われている。犯人の中森も同じように考えた。どんなに雑なトリックでも、探偵助手になら通用する、と。
こちらが緑と言えば緑と信じる――だって探偵助手だから。
赤と緑が問題になっても、赤緑色盲とは結びつけない――だって探偵助手だから。
表示窓が緑でも不審を抱かない――だって探偵助手だから。
『無能な探偵助手』というステレオタイプを前提として、今回の計画は組み立てられた。ツカサを館に呼んだのはそのためだ。しかし彼はストロングワトソン。計画は破綻し、犯人は内心焦りを感じていたはずだ。少しでも僕を困らせようと意味のない密室トリックを続行したり、誤った推理に便乗して赤緑色盲のフリをしたり……」
「私を差し置いて、ベラベラと喋るなー!」
歯ぎしりが止んだ。中森はジャケットのボタンを全開にして、晩餐室の中央でギリシャ彫刻のようなポーズをとっている。
「おい、探偵! 私が告発するつもりらしいが、貴公の推理には重大な欠陥がある。仮に私が犯人だとすると、辻褄のあわないことが二つも残っているぞ!
自分が疑われる状況で、主人を殺したのは何故だ?
探偵がいる場所で事件を起こしたのは何故だ?
これらの行動は、私にデメリットしかない。私が犯人なら、探偵の前で事件を起こすような愚行は犯さん。よって、犯人は私ではない!」
「被害者は車椅子で生活を送っていた。古典館の外に出ることはめったにないだろうし、あったとしても介助役として執事が付き添うのは確実。どこで被害者を殺そうとも、自分が疑われるのは避けられない。館に客がいるタイミングで事件を起こし、誰かに罪をなすりつける以外、選択肢は残されていなかった。
被害者に進言し、ツカサと亮太君を招待するように言ったのはあなただ。当初の予定では、ツカサを利用してアリバイを作り、自分は罪を逃れるつもりだった。あの赤緑色盲のトリックで」
「探偵助手の側には必ず探偵がいる。犯人は無能な探偵助手を利用したかっただけで、探偵の前で事件を起こしたのは不可抗力。そういうことか?」
私が尋ねても、天宮は微動だにせず、ただ口だけを機械的に開閉するだけ。
「違う。あのアリバイトリックを成功させるためには、探偵の存在が欠かせないんだ。
犯人が恐れていたのは、探偵でも助手でもない。警察だ。検視で死亡推定時刻を特定されたら、犯人の目論見は一瞬で瓦解する。それを防ぐために、犯人は探偵を利用した――警察の代わりに捜査を行う権限を持つ、この僕を。犯人は探偵の前で事件を起こすことで、クローズドサークルを作り上げた。
探偵助手の証言で、犯人にアリバイが生まれるのも巧妙だ。助手の言葉なら、探偵はまず疑わない。トリックさえ成功すれば、犯人は安全圏に逃げられる。あとは探偵が間違った推理を披露するのを待てばいい」
「ぐががががが……」
もはや中森は、言語を発することすらできない。天宮は事件を総括して、推理を締めくくった。
「犯人は警察の動きを封じた。探偵も翻弄した。ただ、探偵助手をなめすぎた」
「びょ、びょ、びょ、びょ……」
体内の空気が抜けたように、中森はぐったりと体を前に折り曲げて、食卓に顔をうずめた。戦いは終わったのだ。探偵の勝利という理想的な形で。
「おいおっさん。アンタが犯人なんだな」
亮太が食卓に詰め寄る。だしぬけに中森の体がビクンと痙攣し、急激な動作で床から跳びあがった。
思わず後ずさる亮太。床に着地した中森は堂々とした態度で、私たちに語りかけた。
「認めよう。薬師院蔵之介を殺したのは私だ!」
「ようやくゲロったな。どうして親父を殺したんだ?」
「古代ギリシャを汚した罰だ」
「……ヤバい、マジで意味がわかんねえ」
「てめぇごときに理解されてたまるかぁー! 古典主義建築の粋をこらした麗しの古典館。荘厳にして崇高なるシルエット、均整の取れたファサードはまさに様式美の極み! だが中身は!? バリアフリーの名のもとに単純化され、随所に施された現代風の装飾はただひたすらに軽薄……侮辱だ! これは古代芸術に対する許しがたき冒涜だ!」
「……とりあえず、このおっさんは頭のネジが全部外れた偏見まみれの古典主義マニアって理解でオッケー?」
「うるせぇー! 逃げる、私は逃げるぞ! 太平洋と大西洋を飛び越えて、いざアテネへ!」
奇声をあげ、入口の扉めがけて駆けてゆく中森。私は首のマフラーを外し、逃走する犯人の足を狙って、鞭のようにしならせた。
「うごっ!」
マフラーに足をすくわれ、中森は転倒。すかさず私はマフラーを両手で持ち、中森の首に巻きつけた。力を加え、死なない程度に首を絞める。
「あばばばばっ……地中海が見たかった……」
ほどなくして中森は気を失った。しばらく目を覚ますことはないと思うが、念には念。床に倒れた中森の両腕を、体の後ろに回してマフラーで縛り上げた。これで逃亡の恐れはない。
天宮の元に歩み寄る。心を壊されながらも事件を解決に導いた探偵は、瞼を閉じて静かに眠っていた。
「なあ、これからどうする?」
気絶した中森を見下ろしながら、亮太が疲れた声で言う。
「色んなことが起こりすぎてさ。正直、何から手をつけていいやら……」
「最初にやるべきことは決まっている」
私は携帯を取り出し、電話アプリのキーパッドを開いた。
「探偵助手最大の武器、それは平凡さ。流行りの映画は必ず見るし、料理が面倒ならコンビニで飯を買う。そして事件が起きれば、警察に通報する」
右手の親指がプッシュする三桁の数字――110。