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後藤を待ちながら

目次

【前書き】

(注)本作は、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』と非常に似たタイトルですが、内容・結末ともにオリジナルの展開です。


【問題篇】

「先週で、もう三度目になるんです――その謎の手紙に呼び出されて、私、三度も駅前の『逆さピエロ像』に行ったんです。なのに、手紙に書かれていた後藤なんて人物は現れなかった」
 女性は顔を正面に向け、目の前に坐る男をじっと見つめた。女性らしい丸みを帯びた卵型の顔をボブヘアが覆っている。烏の濡れ羽色、という表現が似合う黒く艶めいた美しい髪だ。
「ある意味ストーカーよりタチが悪いよな。かといって、見知らぬ人物から手紙が来るという理由で大学を辞めるわけにもいかないし」女性の隣で、蒲生が珍しく真顔で反応する。「学務課、だっけ。大学の。そこの人には相談したの」
「いえ。男は『入駒幸いりこまさちの知り合いだ。手紙を見せれば分かる』と言って渡してくるそうで。だがら、学務課の人は私とその男が既知の仲だと思っているんです。今さら相談したって」
 入駒幸は声を震わせる。蒲生は女子大生から向かいの友人に視線を移すと、
「と、いうわけだ。ま、お前にとっちゃ友人の友人の妹の友人という遠い関係だが、話を聞いたら放っておけんだろう」両腕を組んで難しい顔をする碓氷に、蒲生はきっぱりと言った。「困っている美人を助けるのは紳士の務めだからな」



「手紙は毎回同じ種類の封筒に入っていて、消印もなし。同じ男が学務課に直接持ってきます」
 テーブルに、三枚の手紙が並べられた。レポート用紙を半分に切ったくらいのサイズで淡いブルーの背景。罫線も引かれておらず、飾り気のないデザインだ。三通の文面は共通していて、便箋の中央にたった一言、

『授業が終わり次第、駅前の逆さピエロ像にて待つ』

 そう書かれているだけだった。右端には、控えめな文字で『後藤』と記されている。ちなみに逆さピエロ像とは、碓氷たちが住む地域で最も規模が大きい駅の西口にある像のこと。ピエロが大玉に逆さに乗って芸を披露する、名前通りの銅像だ。
「三通とも、一言一句違わず同じ文章か。筆跡を見る限りは同一人物が書いたものだろうな」
お世辞にも達筆とは言い難い三通の手紙を、碓氷は鑑定人のように注意深く見比べている。「三通が学務課に届いた曜日は、バラバラだったのですか」
「一通目が学務課に届いたのは、先月最後の金曜日。二通目が今月の最初の週の木曜日。一番新しい三通目が、先週の金曜日でした」
「三通だけじゃ曜日の規則性なんて分からないか。手紙が届けられる時間は」
「私が学務課に呼び出される少し前なので、十三時前くらいかと。うちの大学は、十二時半から十三時半までがお昼休みになっています。いつもその時間で固定されています」
「その時間帯なら会社員でも昼休憩の人は多いでしょうね。勤務日が不規則な仕事の人間ってわけでもなさそうだ」
「入駒さんの大学の近くに、勤務先があるのかね」これは蒲生の言葉だ。碓氷は几帳面な手つきで便箋を封筒に仕舞いながら、
「勤務の合間に届けているのか、あるいは手紙を出した日がそもそも休みなのか。まだ何とも言えない」
 三通を元の位置に戻し、手紙の宛て主である女性に改めて問いかける。「この後藤という人物に心当たりはないのですね」
「ええ、まったく」
「後藤の外見は、学務課の人から聞いていますか」
「背は高めで、黒いコートを着ていた気がすると。それくらいです。課の人もそこまで注意を払って彼を見ていたわけではないみたいで」
「入駒さんの大学付近で、不審者を見かけたとかいう話は出ていないの」
 女子大生は両目を丸くして蒲生を見ると、「いいえ。そんな話が出ていたら、さすがに学務課の人も警戒して手紙を受け取らないと思います」
「そもそも、男の素性もろくに訊ねないまま手紙を受け取ること自体なあ」顔をしかめる蒲生に、碓氷は同意を示すように小さく頷く。幸は胸に手を当て不安の面持ちで、
「やっぱりストーカーなんでしょうか。でも、大学の外ではまったくそんな気配を感じたこともないし」
「ストーカーし慣れていれば、気配を消すのも難しくないのかも」華奢な肩を震わせる幸に、蒲生ははっとすると「ごめん、今のは冗談冗談」と慌てて前言撤回する。碓氷は呆れ顔で友人の失態を眺めながら、
「手紙で呼び出しておいて、ピエロ像にやってきた入駒さんをどこかに隠れて眺めていたのか。随分気弱なストーカーだな」
「けど、そう何度も大学に姿を見せていたらそのうち職員にも怪しまれるだろう。なんだって後藤はそんなリスキーな方法で彼女をストーキングするんだ。普通に後をつけるほうがよほど安全だろうに」
「姿を見られることは、後藤にとってリスクじゃないのかもしれない」蒲生の意見を受け、碓氷は思慮深げな顔で考え込んでいる。「ちなみに、入駒さんは三回とも手紙に応じたようですが、指定の場所には一人で赴いたのですか」
「まさか。大学の男友達に事情を話して、一緒についてきてもらいました。まだ人通りの多い時間帯とはいえ、さすがに一人じゃ怖くて」
「連れがいたのであれば、ストーカーが及び腰になって姿を見せなかったのも納得ですね。お姫様には騎士ナイトが付いていたわけだから」
 僅かに頬を赤らめる幸に、蒲生は少しばかり不満そうに唇を曲げている。
「そもそも、この後藤が本当にストーカーなのかもまだ分からないよな。もしかすると、入駒さんが知らないだけで本当に繋がりがある人物かもしれない」自身のストーカー説を覆すように、蒲生は力強く主張する。碓氷は椅子に軽く凭れると、
「それもあるが、『後藤』と職員に手紙を渡した男が同一人物かも不明だな」
「学務課を訪ねた男は『後藤』じゃなかったというんですか」碓氷の新たな仮説に、幸は意外そうな声を上げる。
「手紙を渡した男は、単なる伝達役に過ぎない線もありますよ。その男を仮にAとしましょうか。普通、『この手紙を渡してくれ』と言って差し出されたら、手紙を持った人物=手紙の送り主(後藤)と考えるでしょう。そこに盲点があったわけです。学務課の職員からAのことを聞いたあなたは、手紙を見て約束の場所に向かい、そこで当然Aの姿を探すでしょう。しかし、A≠後藤だとすれば、あなたが後藤を見つけられるはずはない。あなたの頭の中にある後藤の姿はAの外見なんですからね」
「頭の良いストーカーですね」幸が妙なところで感心していると、ウエイトレスが二杯の珈琲と一杯のココアを運んできた。議論はハーフタイムに突入し、各々が古き良き喫茶店の味を堪能する。ココアを半分ほど残し幸が手洗いに立ったところで、蒲生はテーブルからぐいと身を乗り出した。
「碓氷。ストーカーなんて物騒な話よりもっと面白いことを考え付いたぞ」
「どうせ、スパイが登場して彼女が国家レベルの大騒動に巻き込まれるとかそんなんだろ」
 蒲生はミステリ小説やスパイ映画のストーリーと現実をすぐに結びつける悪癖がある。
「もちろんそれも刺激的な展開だが、まあ聞けって。手紙の差出人である『後藤』は、彼女のずっと身近にいたのさ」
「どういう意味だ」訝しげに友人を見る碓氷に、蒲生は得意げな笑いを漏らす。
「入駒さんに付き添っていた大学の男友達さ。彼が後藤その人だったんだ」
「なるほど。要するに、入駒さんに惚れていたんだな。それで少しでも彼女に近づきたいがために、彼女が厄介事を抱えて自分に相談するシチュエーションを作り上げた」碓氷はいつもの気障な仕草で肩を竦めると、
「あり得る話だけど、入駒さんが必ずしもその男友達を頼るとは限らない。それこそ、蒲生の友人の妹だという女友達に付き添いをお願いする可能性もあったわけだろう。一度は誰かに頼んだが断られ、偶々その男友達――面倒だな、彼をBとでも呼ぼうか――に話が回ってきたとも考えられる」
 悔しそうに渋面をつくる蒲生に、碓氷は小さく微笑んでみせた。「でも、その逆ならどうだろうね」
「逆?」
「入駒さん本人が仕掛け人だった場合さ。手紙を渡した男Aは共犯者で、彼女はAに『この手紙をいついつに大学の学務課に届けてほしい』と指示した」
「彼女の自作自演? どうしてまた」
「理由は蒲生の仮説と同じだよ。入駒さんがBに恋慕していたんだ。だから、彼との距離を近づけるために事件を画策した。これなら彼女が相談相手を好きに選べるわけだから、何気ないふうを装ってBに事件のことを打ち明ければいい。Bが彼女の騎士になるかは、まあ神頼みというところだろうが」
「美人に頼りにされたらBも断れないだろうな」
「それは蒲生が美人に弱いだけだよ」碓氷はあっさりと一蹴する。「でも、だとすれば入駒さんが僕たちに相談してきた意味が分からないな。計画をふいにするようなものじゃないか」
 男二人で首を捻っているところで、入駒幸が席に戻ってきた。幸あるいはBの恋愛的策略説は碓氷と蒲生の中で一旦保留にして、手紙事件の議論は後半戦に移ることになる。



「この手紙を、もう少し視点を変えて読みなおす必要があるかもしれない」碓氷は不意にそう呟いて、ブラック珈琲に砂糖とミルクを投入するとスプーンでゆっくりかき回し始めた。
「僕たちは、後藤という人物が入駒さんをピエロ像のところに呼び出すために手紙を渡したと、ずっとそう考えていた」
「そりゃそうだろう。手紙には、逆さピエロ像で待つと書いていたんだから」蒲生の言葉を、碓氷は「いや」と冷静に否定する。
「その前提が間違っているのかも。後藤が約束の場所に現れなかったのは、そもそも後藤には入駒さんに接触する意図がなかったとしたら」
「じゃあ、何のために彼女を呼び出したのさ」
「発想の逆転だよ。入駒さんを呼び出したのは、入駒さんを特定の場所に近づけたくないためだった」
 渦中の女性は、綺麗に整えられた眉をきゅっと寄せた。「私を、特定の場所に近づけない?」
「そう。ここで重要になってくるのは、大学の授業を終えた後の入駒さんの行動だ。手紙が届いた日、もし手紙で呼び出されなかったら入駒さんはどのようなスケジュールで動く予定だったのですか」
「そのときは真っ直ぐ帰宅するはずでした。私は週に三日ほど大学が終わってから雑貨店でバイトをしているのですが、その日はバイトも、友達との約束とかもなかったし。そもそも、予定があれば手紙の呼び出しには応じません」
「つまり、手紙の呼び出しによって帰宅が遅くなった。だとすると後藤の狙いは、入駒さんの帰宅時間を遅らせることにあったと考えることもできませんか」
「何のために、そんなことを」幸は碓氷に探るような目を向ける。蒲生はぱちんと軽快に指を鳴らすと、
「もしかすると、入駒さんの家には後藤にとって大事なものが隠されているんじゃないか。たとえば、どこかから盗んできた金銭を一時的に入駒さんの家の庭に埋めていた。それを掘り起こすには、家主がいては不都合だったわけだ。だから、嘘の手紙で入駒さんをピエロ像のところに呼び出して入駒家を無人に――あれ、入駒さんのお母さんは日中仕事だっけ」蒲生は小首を傾げながら隣の女子大生を見る。
「母はパートに出ています。私がバイトの日なんかは、母のほうが早く帰ってくるのですが。でも、もし蒲生さんの仮説が正しいとすると、母と後藤が鉢合わせする可能性もあったのでしょうか」嫌な想像を追い払うように、幸は首を横に振る。碓氷はほっそりとした顎に手をやりながら、
「ですが、入駒さんが必ずしも手紙の呼び出しに応じるとは限らない。半ば賭けみたいなものでしょう。手紙の文面も、『授業が終わり次第、駅前の逆さピエロ像にて待つ』というシンプル極まりないものだった。入駒さんを確実に呼び出したいのなら、もっと具体的な理由を添える必要があると思うんですがね。そもそも、入駒さんは後藤という人物にまったく心当たりがないにも関わらず、なぜ手紙の指示に素直に従ったのですか」
 机上の手紙をトントンと叩く碓氷の指先を見つめながら、幸はじっと考え込んでいる。やがておもむろに顔を上げると、
「私も、本当のところはよくわかりません。でも、手紙の文字に何となくだけど見覚えがあるような、懐かしい感じがしたんです。変ですよね、見ず知らずの怪しい人のはずなのに、会えるかも定かではない人なのに、ただただ後藤という人物を待ち続けていた」
 机から碓氷に視線を移し、少し悲しそうに笑んでみせる。碓氷はその微笑に魅入られたように女子大生を凝視していたが、やがてついと目を逸らすと再び手紙に手を伸ばした。
「授業が終わり次第、駅前の逆さピエロ像にて待つ。逆さピエロ像、か。どうして後藤は、この場所を指定したのだろう。たしかに駅前という場所は分かりやすいし、ピエロ像は目印にもなるが」
 前髪をゆっくり掻きあげる友人の仕草を眺めながら、蒲生はにやにやと薄ら笑う。「まるで金田一探偵みたいだな。といっても、親族たちの因縁とか土地の悪しき風習とか、そんな世界観とは無縁だがな」
「無駄口を叩くなよ。蒲生も真面目に考えて――親族? そういえば入駒さん、さっき母親はパートに出ていると言っていましたよね。失礼ですが、父親は」
 幸はココアが残ったカップの底を一瞬だけ見下ろし、それからにこりと笑みをつくった。
「父は、私が小学生のとき、行方不明になりました。友人と雪山に登って雪崩に巻き込まれたと聞いています。以来、ずっと消息不明。警察が山中を捜索しても父は見つかりませんでした。生きているのか死んでいるのかもわからないんです」
「そうですか。あの、無礼を承知でもう一つ。入駒さんの苗字は父親姓なのでしょうか」
「あ、いえ。実は私の母と行方知らずの父は再婚で、私は母の連れ子なんです。再婚したときには私はすでに学校に通っていて、姓が変わると色々大変だろうからって、父の計らいで夫婦別姓の形をとっていました」
「そうでしたか、いや、重ね重ねの失礼をお詫びします。ちなみに、父親の姓を覚えておいでですか」
「ええ。たしか――」
 そのとき碓氷の顔に浮かんでいた笑みは、眼前の霧が晴れくっきりとした視界に道筋を見つけた旅人のそれだった。


【解答篇】 

「入駒さん、ひとつ確かめておきたいことがあります。後藤という人物からの手紙が届き始めた前後、あなたの母親に変わった様子はありませんでしたか。どんな些細なことでもいいのですが」
 見目麗しい女子大生は、小鳥のような仕草で首をちょっと横に傾ける。「変わった様子ですか。特になかったような」
「後藤から届いた手紙のことを、あなたは母親に話しましたか」
「いえ、母を心配させたくなくてまだ何も伝えていません」幸の気丈さに、碓氷は感心したように頷いてみせる。それからもう一度、同じ質問を投げかけた。
「しつこいようですが、後藤の手紙の件が起きた前後で、母親に普段と違った様子は見られなかったですか」
「ううん、これといって思い当たるものは――あ、そういえば。本当に大したことありませんけど」
「どうぞ」
「最初の手紙が届くちょっと前、登山中の若者四人が山で遭難したというニュースをテレビで放送していたんです。それを見ていたときの母が、なんだかすごく深刻な顔をしていて。『誰か知り合いがいるの』と私がきくと、慌てたふうに『そんなことないわ』と否定したのですが」
「前置きが長いぞ、碓氷。そんなことが後藤の手紙とどう関係しているんだ」蒲生はテーブルの下で片足を小刻みに揺すりながら、探偵役の男を急かす。
「これからだよ。これで、僕の推測はすべて補強されたんだ。入駒さん、これはあくまで僕が勝手に組み立てた仮説で、警察のような捜査をしたわけでも私立探偵のように調査に出向いたわけでもない。まったくの机上の空論といってもいい。それでも、僕の話を聞いてくれますか」
「もちろんです。蒲生さんが太鼓判を押してあなたのことをお話していましたから。この手紙の謎について、碓氷さんならきっと納得のいく答えを導き出してくれるはずだと」荒野の中でたった一つ咲き誇る大輪の花のように、幸はにっこり微笑んだ。安楽椅子探偵もどきは椅子の中でもぞもぞと姿勢を改めながら、
「随分買い被られているようだけど、まあいいや――つまりですね、すべてに意味があったんです。手紙の差出人が『後藤』であったのも、呼び出した場所がピエロ像であったのも。もっと言えば、この手紙という手段にも後藤なりに意味を込めていたのかもしれない」一通目の手紙を開き、碓氷は教科書を朗読するかのように明瞭な口調で文面を読み上げた。
「『授業が終わり次第、駅前の逆さピエロ像にて待つ』。この手紙を書いた『後藤』は、手紙を届けた日に入駒さんに予定がないことをあらかじめ把握していたのでしょう」
「どうしてそう断言できるんだよ」幸の代わりに蒲生が反応する。碓氷は手紙を広げたままテーブルにそっと置くと、
「内通者に聞いていたからさ」
「内通者だと?」
「ああ。入駒さんの母親に、ね」
「え、あの。どういう意味ですか」幸が困惑の面持ちで碓氷を見る。蒲生はお手上げだと言わんばかりに両手を顔の横に持ち上げてみせた。
「僕の予想では、入駒さんの母親はあなたがいつバイトに行くかは把握していたが、バイトがない日に授業が何時に終わるかまでは知らなかった。だから、『授業が終わり次第』と手紙に書くしかなかった」
「つまり、後藤と入駒さんの母親は共犯関係で、後藤は母親を通じ彼女の予定を掌握していたと」蒲生は盛大に鼻を鳴らすと、オーバーな仕草で肩を上下させた。「とんだ想像力だな」
「あ、あの。碓氷さん。後藤と母は、一体どういう関係なんですか。もしかして、その、愛人とか」今にも泣き出しそうな顔の幸に、碓氷は焦ったように両手を体の前で振ってみせた。
「僕は、そんな下衆な推理はしていませんよ。入駒さんが後藤の手紙を見て、その指示に従ったことが証拠です」
 幸は小さく鼻を啜ると、長い睫に縁取られた両目を瞬かせる。
「あなたは、僕が手紙の指示に従った理由を尋ねたときに言いましたよね。手紙の文字に見覚えがあって、何となく懐かしい気持ちがしたと。合点がいくんですよ。この手紙を出した人物が、生き別れになった入駒さんの実の父親からのものである――という推理ができるとすればね」



「おいおいおい、冗談だろう。遭難した彼女の父親が生きていて、妻と内通していて、彼女に手紙を出していた? アンビリバブルにも程があるぜ、探偵さんよ」蒲生は舞台俳優のように両手を大きく広げた。隣の女子大生に手が触れないよう配慮したことはいうまでもない。「じゃあ、あれか。後藤が入駒さんを手紙で呼び出し家に近づけなかったのは、その時間、元夫婦が彼女の家で逢瀬を交わすためだったのか」
「僕の推理はそんな醜聞的スキャンダラスなものじゃないよ」碓氷は優雅な仕草で珈琲カップを持ち上げる。
「言っただろ、すべてにおいて意味があったのだと。後藤はどうして、手紙なんて回りくどい方法で入駒さんを呼び出したんだ。彼女の母親と内通していたのなら、スマホの番号を教えてもらって非通知で彼女に電話をかけたほうがずっと楽だ。学務課の人間に怪しまれるリスクを負ってまでも、後藤は手紙という手段に固執した。つまり、入駒さんが手紙で呼び出された日は、後藤から入駒さんの母親への手紙が入駒家に配達される予定の日だったのさ。その手紙を実の娘に見つけられないようにするために、こんな遠回りな方法で入駒さんが早く帰宅しないよう仕向けた」
 安楽椅子探偵の推理を放心したような表情で聞いていた幸は、やがて長い長い息を吐き出すと蚊の鳴くような声で言った。
「父は、どうして私を逆さピエロ像に呼び出したのでしょうか」
 碓氷は陶器のカップをソーサーに戻すと、手元に転がっていたミルク入りのプラスチック容器を手に取る。蓋の部分を下向きにして、入駒幸の目の前に置いた。まるで、それを逆さピエロ像に見立てるかのように。
「後藤の読みをローマ字表記にし、ひっくり返してみてください。ゴトウ。G、O、T、O。これを逆にすると、T、O、G、Oでトウゴウ――すなわち、あなたの父親の姓である東郷になるではないですか」



 これは碓氷が蒲生から又聞きした後日談であるが、東郷は雪崩に遭ったものの命からがら下山し生き延びていたらしい。だが、このとき妻とともに生命保険に入っていた彼は、「このまま自分が死亡したことにして妻子に保険金が下りないか」とサスペンスドラマめいた想像を巡らせたのだという。だが、事はそう上手くは運ばない。被保険者の生命保険は、行方不明者の場合、家族が家庭裁判所に『失踪宣告』を申し立てなければ下りないのだが、幸の母親が申し立てをしていなかったのだ。これは、母親が失踪宣告のことを知らなかったのではなく、「夫はいつか帰ってくる」と頑なに信じ続けていた故のことだった。それから長い月日が経ち、妻子の現在が気になって仕方なかった東郷はとうとう我慢できず入駒家に手紙を出す。たまたま幸がバイトで帰りが遅い日に手紙を受け取った幸の母は、手紙を幸に見られたら彼女が混乱することを懸念して、夫婦で秘密裏に文通を続けることになった――という、聞いた者も開いた口が塞がらないような結末であった。
 この話を碓氷に聞かせ終わると、蒲生は誰にいうでもなくぽつりと漏らした。
「入駒さんは、来るはずもない『後藤』を待ちながら、どんなことを考えていたんだろうな。まさか、父親のことが少しでも頭に浮かんでいたなんて奇跡的なことはないだろうが。でもさ、そんな話があってもいいんじゃないかって、ちょっとだけ思ったよ。そんな世の中のほうが生きている価値もあるってもんだろ」 

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