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誘拐されたので解決RTAします!

目次

1

 立方体のそれぞれの面に、同じ大きさの正方形。計54マスのうち、それぞれ9マスずつ、赤、白、黄、青、緑、橙の配色。これを縦横に回転させて面ごとに色を揃える立体パズル。誕生してから久しいけど、おもしろいものは何年経とうが名作として受け継がれる。現代社会に万歳。ハンガリー生まれのルービックキューブ……いや、日本製だから日本生まれ? そもそも君は日本製かい? どこでもいっか。今それどころじゃあないし。
 ここ数日の訓練が実を結び、どのように動かせば思いどおりの位置に各色が来てくれるのか考えられるようになってきた。回転の作法もそれなりに身についてきた。今、最も思いどおりにキューブが移動している。
最後。右列の縦を最後に手前に90度回転させる。黄色が9つ並んだ。

「揃った? 揃った!」

 立方体を指先で回転させて6面とも色が揃っていることを確認したら、熱いものに触れたときみたいに手から離れた。机に転がったそれを、翼沙が手に取って眺める。その隣、すかさず一葵がスマホのタイマーを止めてくれた。「ははっ、37秒だって」と苦笑する。見せてくれた画面には「00:37.46」と記録されている。

「最高記録だね」

 目標は45秒、達成だ。「んぁ? 最短記録かな?」集中して縮こまった体を伸ばしながら言ってみた。「どっちでもいいんじゃない? もうこれ髙橋くんも星科さんも超えられないよ」一葵が肩をすくめると「でしたら、最終的に羽熊さんの勝ちですね」翼沙が微笑むようにはにかむ。
 要注意人物は戦意喪失状態だし、もう勝負はしばらくやらなくていいや。うん、満足だな。翼沙のほうに傾きながら「次、やる?」と尋ねてみた。

「そうですね、私は記録とか関係なく6面揃えるの頑張りたいです」

「お?」

「えっと、後でまたやります。ちょっと疲れたので」

 確かに、30分間も挑戦を続けたら相当疲れただろう。見られると恥ずかしいと言うから一葵とわたしは積極的に読書したり宿題したりしていたけれど、その間、キューブを回転させる音は断続していたし盗み見れば集中して立方体と向き合っていた。翼沙の、自分で固有目標を作って努力できるところ、見習いたい。
 正直なところ、ルービックキューブは攻略法を理解すれば6面を揃えるのは難しくない。しかしそれを第三者が教えてしまうのは推理小説のネタバレをするのと同義、マナー違反だ。
 一葵に視線を向けると、彼はかぶりを振った。

「60秒切ったときは自信あったんだけどな」

「おかげさまで、負けず嫌いに火がついた」

「それは何より。ご所望は?」

 10秒チャージ片手に「んー、自販機ココアかなー」そう答えると「それだけ?」一葵に眉を顰められて「スズ、ツバサ、イツキ、シュンタロ。たった4本だよ」指折り数えてみせた。翼沙は「ひとつ280㎖ですから1ℓ超えてます」眉をハの字にする。なぜだ、幸せの極致じゃん?

「本望だね」

「いや、1日で飲む量じゃあないよね?」

 一葵が指摘して、翼沙は納得したように声を漏らした。ココアは酒と違って規制されてないのに。それとも血糖値の話かな。血管年齢には年季が入ってる自信がある。それを言われたら控えないといけない気もするけど、それ以前にココアがおいしいのが悪いんだから仕方ないでしょ。
 ふと翼沙の目の前に広がっている裁縫道具や布が気になった。その手には、針と球体の何か。

「何作ってるの?」

「え? ああ、コサージュです。妹が母の日にエプロン作っているらしいので、私は飾り担当です」

 翼沙はそれを手のひらで転がした。カーネーションを模しているのかな、何層にも重なる花弁にはプリント生地のカラフルが映えている。小学生のころ流行っていた毛糸のポンポンみたい。

「妹さんいるんだ?」一葵が尋ねると翼沙は笑みとともに首肯する。

「今年14歳です。香坂くんは?」

「僕は上にいるけど、下にはいないよ」

「え、そうなんですか。意外です」

「確かに。妹いそう」

 翼沙の意見に同調すると、一葵は「なにそれ」と朗らかに笑った。そういうところだよ。駿太朗のウザ絡みとかもそういう感じで捌いてるのかな。

「エプロン、花だらけにするの?」

「いえ。練習してみて、1番うまく作れたのを使ってもらおうかなって」

「普通にうまいと思うけど」

「そうですかね? 嬉しいですけど……ここ、見てください。余分に出てしまっているの、わかりますか?」

 確かに真球とは言えないかもしれないけれど、コスタリカの石球より丸い。説明してもらっても、わたしには違和感に値しないほどの瑕疵だ。さすがリアル長女。末っ子の朱寿、ひとりっ子のわたしとでは比べものにならないほど長女として別格でいらっしゃる。
 感心していると、それぞれの用事を終えた朱寿と駿太朗が教室に入って来た。朱寿が「いまのところ誰?」と問う。「羽熊さん」一葵が言ってくれたので、わたしはふたりに「37」とドヤ顔を見せつけた。「マジ?」朱寿が目を丸くする隣では駿太朗が半笑いしていた。

「昨日の54秒で心折れかけてたのに。もう無理じゃん」

「じゃあ、ツバサの手伝いだね。さっき3面まで揃ってたから」

「ほんと? いいじゃん、成長期だ!」

 さすがトランポリン精神。駿太朗は恥じらいの笑みを見せる翼沙の近くへ椅子を引いて座った。

「ヒント、いる?」

「えー……んー、今日の帰りに4面までいけてなかったら、そのときに」

「わかった!」

 駿太朗のハイテンションの反面、朱寿は不機嫌を隠さずわたしの隣の机に浅く腰かけた。

「なんでハグも1分切るのかなぁ?」

 切りたかったからだよ。つきあい長いんだから、聞くまでもないくせに。
引っ掴んだルービックキューブを差し出して「ほれ。記録更新かココア、二律背反だよー」と煽ってみる。朱寿は「使いかた合ってる?」と苦笑する。「違うかも」とだけ返すと、受け取ってくれた。両手で立方体をもてあそびながら視線を翼沙に向けて「何作ってるの?」と問う。

「母の日の準備です」

「わー、偉いねー」

 この時期の風物詩、星科朱寿による上手な棒読みである。両親とふたりの兄にかわいがられる姫には、姫なりの苦労があるという。

「母君のご所望は?」

「娘と温泉旅行がいいそうですーぅ」

「お兄さんたちは?」

「リア充だから爆破する」

「予告に留めとけ」

「もう済ませた」

 親指を立てた朱寿は鞄を椅子に乗せると、上体を反らしながら「もー、旦那と行けっての」文句を宣う。「そう言うなよ」駿太朗が苦笑しながら返すが「どうせお土産狙いだろ?」瞬く間に看破した。
 よろしく。ダル過ぎ。
 いつもの気安いやり取りに続けられて。

「羽熊さんは?」

 翼沙の無邪気な瞳が向けられた。駿太朗、朱寿を続けて聞いたから飛び火したんだね。素直かよ。

「まあ、いろいろと。イツキは?」

 ほら。スマホいじっているなら答え給へ。

「花は買うかな、頼まれているし」

 すると、あっと声を零した。駿太朗が「どした?」と尋ねる。

「充電なくなった」

「スマホ使いすぎ」

「そんなに使ってないつもりなんだけどな」

「依存症じゃん」

「ほんとね」

「モバイルバッテリあるよ。使う?」朱寿が鞄を探りながら告げた。一葵は礼を言いながら桃色の円柱を受けとる。それを契機として、椅子を引いた。

「帰るの?」

「塾」

「ははあ、優等生は違いますねぇ」

「今度の中間、高入組に負けるの嫌じゃん? 50年後に後悔したくないし」

「ういー、宣戦布告されてるぞ」駿太朗に肩を組まれて一葵は苦笑。「ツバサにも」放置していた本を鞄に入れながら告げる。そんな焦らなくて良いのに。笑ってみせたとき、朱寿が「先週も読んでなかった?」立方体を眺めまわしながら指摘された。この本のことだよね? お前の目はどこにある?

「そ。もう期限だから返さないと」

「あいかわらず好きだねー、青葉玲作品」

 嫌いではないから「かもね」と返しておいた。朱寿は気にせず「じゃあ」と続ける。

「今年も誕プレ、図書カード?」

「いいの?」

「こっちとしては楽だからね。むしろ、それでいいの?」

「じゃあ、何か食べたい。おいしいもの希望」

「焼肉とか?」

 思わず駿太朗の案に指を鳴らした。それなら、まあ、朱寿と駿太朗はいいとして。 翼沙と一葵に体を向けたまま後ろ歩きで尋ねた。

「ツバサとイツキは? 肉、嫌い?」

 ふたりは顔を見合わせると、一葵は「いや、別に」と答えた。

「苦手? アレルギー?」

「あ。いや、好き」

 よし、一葵はクリア。

「翼沙は?」

「わ、私も、同じく」

「本当?」

「えっと、焼肉、行ったこと無くて……」

 翼沙は視線を伏せて泳がせた。

「それなら、みんなで行こうよ。わたしの生誕を祝わせて差し上げよう!」

 これで翼沙もクリアだよね?
 扉近くのゴミ箱にぺったんこの10秒チャージを放り入れてから、朱寿と駿太朗に視線を向けて敬礼してみた。

「ツバサもイツキもOKってことで。スズ、シュンタロ、いろいろ任せた!」

 後ろ歩きしながら、ご機嫌のまま教室を出た。返事は聞かない。肯定以外受けつけていない。皇帝気分でも許されてしかるべき案件だからね。素晴らしきかな、Birthday Girl☆
 右手首の腕時計を確認する――16時34分――トイレで軽くメイク直ししてからでいいかな。どうせ時間あるし。階段を通り過ぎて廊下を進んだ。
 休み時間はそれなりに混むけれど、この時間帯はもはや貸し切り状態。トイレの花子さんも居心地良いだろうね。
 鞄を肩にかけたまま、ポーチを取りだした。
 意識高い系のメイク専用ではなく、なんでもポーチ。メイク用品も入っているし、筆記用具や紙幣も入れている。そこから、携帯用ビューラー、リップクリーム、ロールオンオイルを引き抜いた。
 なおすとは言っても、リップクリームを塗って下がりかけのまつ毛を携帯用ビューラーで軽くあげなおすだけ。朱寿にはもう少しやれよと言われているけど、正直そこまでの熱量は無い。瞼を挟んだ日にはまつ毛すら上げない。
 そもそも国立大付属の、それなりに名門と謳われる高校だ。化粧禁止は生徒手帳に明記されている。この条文によって、隠れスクールメイクに命かける派、そもそも興味ないから何もしない派に分かれる。どちらに属するにしろ、退学にならない程度に規則や教員に従っていれば問題ない。
 今回は両まぶたともに無事だ。おかげで両目ともまつ毛が復活した。感覚的に視界が明るくなる。実際、虹彩がわずかながら半径を小さくした気がする。指先でつついてまつ毛の位置を良い感じに……ならないね。もういいや。
 仕上げに、こめかみのところにロールオンのオイルをくるくるした。数秒もすれば清涼感が目を開けさせてくれる。深く息を吸うと、ハーブの香りがかすかに鼻腔にたどりつく。心なしか、いや、錯覚だとは思うけれど体温も下がったような感覚がする。
春眠だろうと暁を覚えたら、夕方は辛い。4時起床なら19時くらいにはメラトニンが頑張ってくれてしまう丁寧なスケジュール管理。
 塾は18時30分からの80分間。このタイミングで眠くなるのは困る。エネルギー補給しておけばそれなりに誤魔化せるため、金曜日はいつも教室で30秒かけて10秒チャージする。今日の体調であれば、おそらく、授業前にふたたび補給すれば80分間は乗り切れるだろう。
 ボトルを軽く揺らしながら残り少ない蜂蜜色のオイルを眺めつつ、誕プレこっちにしてもらえば良かったか、と逡巡。いや、図書カードも焼肉も捨てがたい。自分の判断を信じよう。
 不意に右手首が気になった。ワイシャツの袖口のボタンを外して見ると、腕時計が手首の範囲から出ていこうとしていた。ベルト部分に指先をひっかけてシーソーのように動かしながら橈骨の上まで移動させた。これで君は正真正銘の腕時計だ。
もとの位置の皮膚が赤く跡になっているが、数時間くらい放っておけば治るだろう。ただ、ワイシャツの袖口と腕時計が橈骨付近でダブルブッキングしているのはなんだか気に入らない。悩んだ末に外して、リップクリームたちとともになんでもポーチに入れてチャックを閉めた。
 ポーチを鞄に押しこんだ代わりに、引き抜いた定期をポケットに滑りこませて歩き出した。
 トイレを後にしたとき、教室のほうから数人の笑い声が廊下に響いていた。



 塾の最寄り駅で電車を降りれた。今日は乗り過ごさなかった。わたし、偉い。鞄を肩に掛けなおしながら見上げると電光掲示板が16時58分だと教えてくれた。
 授業までだいぶ時間があるけれど、早く到着して自習するには小学生がうるさい。したがって、近くの図書館で時間をつぶす1択。借りた本の返却期限は明後日だし、忘れるよりは早めに対応しても損はしない。新たにもう1冊くらい良縁に出会えたら益そのものである。
 父は職業柄からか生来の気質ゆえか、読書家だ。しかし、書斎にある本を例外なく貸してくれるかというと、そう単純な話ではない。厳格というよりも、むしろ人情家でのんびりとした性質。父は父なりのルールに則っているだけだろう。きっといつもどおり発売から数か月も経てば、かしてくれるようになるはず。
 だからこそ自分で買う気にはなれないのだ。儚きかな、それが高校生の財布事情なりけり。
 翼沙のルービックキューブ挑戦中にも読んでいた、青葉玲『神葬』は物理的に相応の厚みがある。きっと単行本になっても5センチ近くになるだろう。まだ塾まで1時間近くあるし3読目だから、もう1回くらい通読できるのではなかろうか。あるいは、期限を延長してもらうのも、あり。決めるのは18時を回ってからでも遅くない。とりあえず、再読だ。
信号待ちの間、遅刻しないようにスマホの時計アプリで、アラーム再生停止、バイブレーション・オンにして、リミットは18時10分設定にした。
 スマホをポケットに滑りこませて、顔を上げたその先。駅から図書館までの道中にある、花屋が視界に入った。例年どおり飽きもせず母の日を全面に押し出している。今年の母の日まであと2日、最後の最後まで準備が疎かな不届き者にも手を差し伸べているらしい。 わたしが最後にカーネーションを買ったのは小学3年生だったと記憶している。
 母が失踪したのは、わたしが小学1年生の秋。
 推理作家・藤うらら名義の最後の著作『青写真と六腑と龍の声を乙姫に』を担当編集に渡したその日、家に帰らず姿を消した。当該著作は母が消えた1か月後に上梓された。その前後数か月、父は警察に協力を仰いだり引っ越し前の街に出向いたりして母の捜索に必死だった。母が帰ってくると信じていたのだ。同じく母が帰ってくると信じていたわたしも母の日には、おやつを我慢して溜めたお小遣いを握りしめてカーネーションを買っていた。
 しかし、リビングに飾ったその花は、2年連続5月の半ば、下校すると花瓶から消えていた。
 座敷童が住み着くには家が新しいし、その他の霊のみなさんについてもわたしが料理するとき塩がまかれているので居心地が悪いはず。また、屋根裏に誰もいないのを確認したから、家を自由に出入りできるのは鍵を持つ者、つまり、家族に限られる。ひとりっ子、なおかつ、飾った本人には心当たりがない。ゴミ箱には捨てられていなかったけれど、父の仕業であることは疑いようがなかった。
 気づいてからは買うのを止めた。
 理由を直接訪ねる勇気はなかった。聞いても、子ども相手に答えられるとは限らなかっただろうし。ちょうどそのころ、父の書斎「あいしたわ」と記された付箋を見つけて諦めがついたのも大きな要因だ。糊の粘着が弱まって、どこかから剥がれ落ちたのだろう。それに綴られた文字は、母の筆跡だった。殊に「あ」は、幼稚園や入学前にさんざん名前を書いてもらったから見間違えようがなかった。
 話せるときがきたら話してくれるかもしれないと期待していた。が、3日後には9回目の母の日、今年の秋の暮れで10年が経過する。嫌でも諦め時を心得ざるを得ない。
 とにかく、依然として母は失踪者である。
 幸運にも『神葬』は、次に予約している人はいなかった。2週間延長してもらい、おもしろそうな翻訳小説とともに借りた。GW課題テストが終わって浮かれているのかもしれない。いや、焼肉が楽しみだからか? 人の金で食べる肉がおいしいのは不変の真理。異論は認めない。
 スマホのロック画面を確認する――18時14分――ゆっくり歩いても授業には間に合う。
 図書館を出ると、日はすっかり傾いていた。10分以内には街灯が役割を果たそうとやる気をみなぎらせはじめるだろう。
 風が吹き抜ける。
 自然と肩が首筋を守ろうとした……おいおい、薫風さんよぉ。端午節が過ぎたくせに冷たいじゃあないか。ベストを着てこなかったのはわたしのミスだけどさ。塾に入るまでの、なけなしの寒さ対策としてブレザーのボタンをふたつ留めて靴下を引き上げる。
 そのときだった。
 身をかがめながら左足を曲げて靴下を指先に引っ掛けた、そのとき。
 背後から体を抱えられた。
 咄嗟に声を上げようとしたが、直前、口を塞がれる。相手の腕を引きはがそうと抵抗する。しかし、ほぼ両足が地面から浮いてしまっていることもあり、帰宅部の腕力でそれ以上は不可だった。
 すぐ近くに停車していた白い車に連れこまれた。
 目の前で扉が勢いよく閉められると、途端、車内は薄暗さを増した。代わりに、腹部に巻きつけられていた腕が外されてわずかながら動きやすくなった。
 不意をつかれた想定外の行動には誰もが対応に後れを取るものだ。さきほどまで引き下げて外そうとしていた首元に引っ掛けられた腕を押し上げた。生じた腕と体の隙間に、肩ごと自分の頭部をねじこむ。
 前方へ急発進されてバランスを崩しかけたが、座席を蹴って窓の目の前にたどり着く。
 車にはあまり乗ったこと無い。朱寿の家に遊びに行ったときの送迎以外なら修学旅行とかのバスくらい。それでも窓付近のボタンを押せば開けられるのは知っている。
 が、黒い粘着テープが貼られていて押せない。
 知識が通用しないなら物理だ。
 窓ガラスを叩こうと、拳を握って振りかぶった。同時に、襟を掴まれて背後に引き倒される。座面に背中が打ちつけられた。起き上がろうとする前に、胸倉を抑えつけられ、首筋に冷たい何かが触れた。
「騒ぐな」
 切迫した事態。低い声の端的な要求。首筋のひんやりとした鋭さ。
 身が竦み、声が出なかった。仮面の穴の奥にある、よく見えもしない、そこにあるだろう目。直感的に、無闇な抵抗は無意味だと悟った。
 車体の揺れが体に伝わっているのか、自分の鼓動が座面から跳ね返されているのかわからなくなってくる。
 目の前の、パーティーグッズのような白い仮面が場違いだ。
「おとなしくしていれば危害は加えない」
 その言葉を、信じるしかなかった。
 視界の端がぼやける。強く目を閉じてそれをごまかした。慎重にうなずくと、首の冷たさが消える。鈍い光沢を見せた刃が腰の鞘に収まった。その光景にわずかな安堵を覚えたが抵抗する気力は消え失せていた。
 次の瞬間。
 左ポケットが振動した。
 相手もわたしも、動きが止まった。
 5回目の振動。ようやくスマホだと思い至った。電話か、停止しそびれてスヌーズが騒いでいるか。
 ゆっくりポケットからスマホを取りだして、画面を相手に見せた。おとなしくしていれば云々なら、協力姿勢を見せて従順なふりをしているほうが良いだろう。
 わたしの手からスマホを抜き取ると、自らのズボンの右ポケットに押しこんだ。
 推理もののドラマやドラマでよく見る、白い手袋。
 皮革よりも手袋痕が残りにくくほかの素材よりも静電気が起きにくい。
 いつ使うかわからない知識が思考に浮かんで、沈む。
 そのまま左手を掴まれて、手首に2連の輪になった結束バンドが落ちてきた。端が引かれて、ジジジと輪が手首に沿う。肩を押され、上半身だけ背を向ける。座面に額を預けた。柔らかくも硬くもない。右手も同様に結束バンドが通されて、ギロの凹凸に軽く棒を滑らせたような音がする。布手袋の感覚が離れ、手首の圧迫感とともに背に取り残される。握りしめた右手を左手で包む。自分の震えか、車の振動か……もはやどちらでも良かった。
 今考えるべきは、そう、どうすれば良い?
 どうするべきなのか。ひとまず、冷静にならないと。
 ずっと自分の鼓動がうるさい。頭がさらに熱を帯びて真っ白になろうとする。不意に視界が暗くなり、後頭部に圧迫を感じた。目隠しだと思い至り、拘束が完了してしまったのを理解した。
 おとなしくしているように見えるだろう範囲で手足を動かそうとしてみた。無事に解放される保証とは限らない。逃げられるなら逃げたほうが良い。可能ならば。
 無理っぽいなら、無理なりにできることをしていたい。でなければこの行先不明のドライブでは平静を保てそうにない。
 朱寿もいじわるのつもりで行先を教えてくれないときはあるけど、どうせ目的地は彼女の家だ。ああ、友人が隣に座ってくれるだけでも安心は大きいんだ。いつものくそみたいな可能性に賭けたイケメンと恋愛したい願望は許すよ、この際。おかげで少しは思考できそうになったから。
 さて。考えるためには外部情報が必要だ。
 そのための五感。視覚、聴覚、嗅覚、触覚……あと何だ。味覚か。
 現状、視覚と味覚には期待できない。嗅覚については最初から無理だとわかっている。一部が焦げていた服を洗濯機に入れそうになったときに諦めた。料理中に焦げたんだろう。料理は炭化していなかったのにね。本当、一家にひとり翼沙だよ。これの改善のためには鼻腔に犬飼うしかないと思う。あるいは、火災報知器とともに生きる道を選択するか。いまのところどっちもやっていない。やったほうが良いのかな。いや、いらないな。邪魔。視覚については、周囲の若干の明暗はわかるが何か見えるわけではない。使えるときに使う。味覚も同様。
 残るは、聴覚と触覚。
 聴覚、耳だ。音は聞こえているけど、車の走行音やらわたしの鼓動やら、役立たずの5歩手前かな。三半規管は正常らしく、車の進行方向や方角変更はわかる。しかし、この地域の地理に昏いためどこに向かっているのかまではわからない。
 いや、どこに向かっているのかくらいはわかる。この犯罪における拠点だろう。その拠点の場所がわからないって話。わかったところで結局どうしようもないだろうけど。
 とはいえ、大切な情報源。創作物のキャラクターのようにうまくはいかないだろうけれど、できるだけ正確だと思えるリズムで秒数をカウントしておこう。アドレナリン大放出祭り真最中ってのを考慮すれば、それなりの品質保証が適う気がする。無理だったら無理だったとして。状況がレア過ぎるから努力不足だと責めるつもりはない。
 ひとまず、この秒数と、車の進行方向を組み合わせれば覚えていられるだろう。頑張れ、聴覚、いや内耳。方角にいたっては三半規管か。まあ、とにかく頑張ってくれたまえ。
 触角は……どうしようか。座面、触っとく? たぶん普通の車の普通の触り心地じゃあないかな。それ以上でもそれ以下でもない。おわり……おわり? 嗅覚より情報なくない? 嘘だぁ、何かしらあるでしょ。
 待って、触角って何。
 節足動物じゃあないんだな、わたしは。脊椎動物でありますからして触覚なんだよな。……じゃあ、考えかたが違うんだ。視覚は目。聴覚は耳。嗅覚は鼻。味覚は舌。他方、触覚を感知するための触覚受容器は皮膚全体にはびこっている。外界の情報を検出するのではなく、周囲の変化から情報を得られる。現状、最も使いやすい両手は背中のほうにあり、自由には動かせない。新しく情報を収集するのに向いているとは言えない。だから、触覚については、いままでの情報を踏まえて考察するほうが有意義だろう。現在進行で情報を集めるのは三半規管に任せればいい。
 たとえば、なんだ。ほら、あれ。
 手袋越しの手は、男性じゃあないかな。状況が状況だったから判断に自信はないけど、手が離されてしばらくした今も掴まれた感触がはっきりわかるくらい熱を持っている。
 少なくとも、駿太朗とのアイス奢りを賭けた腕相撲よりも強い力が掛けられただろう……中3の夏、野生の駿太朗が勝負をしかけてきた。明らかにナメてたし体格差も男女差もわからないほどバカじゃない。だから、不意をついて全力だしてみると半分以上も傾けられた。しかし、それに対して向こうも急に本気で応戦して、机に手の甲を打ちつけられた。結局、サッカー部のくせに握力45㎏超のゴリラは、アイスを奢ってくれた。試合には負けたが相手の良心につけこむとはまさにこのこと。痛かったのは事実だけど。世渡り上手の朱寿さんもちゃっかり「私ストロベリーにする」と乗っかってきたが、駿太朗は文句すら言わず彼女にも買ってあげていた……まあ、それ以前に、女子高校生ひとりを容易に車へ押しこめること自体、体力的に男性だろうな。あとは、抱えこまれたときほぼ足が浮いたのを考慮して、おそらくわたしより少なくとも10㎝は背が高いってことくらいか。
 ここまで考えたら疑問が浮かんでくる……なぜ標的にされたんだろう?
 わたしは、甚だ残念ながら希代の美少女ではないし、誠に遺憾ながらNiceなBodyではないし、折悪しく箱入りタイプの御令嬢ではない。標的にされるような固有ベクトルに心当たりが無い。あるいは、可能性は低いが、奇特な名前ゆえか……SNSアカウントの文字列はほぼ本名だから目に留まった場合も無いとは言い切れない。本名については、由来を聞かされたことはあるが、あくまでもわたしは名付けられただけだ……うん、キラキラネームについて意見を聞きたいなら親を誘拐してほしかった。
 あとは、そう。弱冠16年におよぶ半生において、殺したいほど恨まれた自覚は無いし犯罪に巻きこまれなければならなくなるような事柄に関わった覚えもない。
 他者との関係が希薄だからトラブルにまきこまれるとしても宿題忘れたとか学級委員が決まらないとか、いずれも朱寿か駿太朗に協力してもらうか、あるいは、生贄に捧げればどうにかなる程度のもの。犯罪の動機になり得るほどの内容ではない。こんなのが動機になり得るなら、推理ものやサスペンスものの世界観もびっくり、日本は世界屈指の切迫した犯罪大国である。
 そうだ。
 相手の短慮にしろ不可避な受動的理由にしろ、動機として、営利も政治も怨恨も当てはまりそうにない。なおさら、わたしでなければいけない理由がわからない。
 朱寿みたいなチビでもないし翼沙ほど華奢でもない。この前の健康診断では160くらいだった。わたしは同年代女子の中では高身長の末席くらいの体格だし、帰宅部とはいえ相応に抵抗した。そもそも合意の上でなければ抵抗されるのは織りこんでいるだろう。
 滅多に得られない機会の王道として挙げられる裁判員選び、選ばれる確率はおよそ0.1%だったと記憶している。国がランダムだって言っているんだから、ランダムなんだろう。ランダムである必要性も理解できる。他方、この状況については、ランダムに起こり得るとは思えないし思いたくない。
 何らかの恣意は働いている。そのためにこれを反例にするのは不謹慎だけれど、現場は図書館や塾があるから小学生だって多い。体格や腕力を考慮すれば年少者のほうが制圧しやすい。誘拐するなら…………あれ?
 そっか、これ、誘拐と仮定しても問題ないのか。言葉の意味に忠実なら、誘拐よりも拉致だね。お菓子もらってないし。けれど、事件として扱われるならきっと「誘拐」が用いられるだろう。
 だったら、仮定というか、そのものでは?
 そっか、わたし誘拐されてるのか。現在進行で。be動詞+being+過去分詞形じゃん。英語で習ったよ、最近。
 わぉ。なるほど、これは誘拐事件だ。
 そうとわかれば、だいぶ善後策がたてやすくなる。古今東西の誘拐事件において緊急性の高い要因は、時間。現実の話であればなおさら。
 どこかの何かの統計だった……誘拐被害者の死亡率は36時間以内におよそ90%であり、未成年被害者の死亡率は24時間以内におよそ99%だと目にしたことがある……統計って格好つけたけど、たぶん、ドラマのセリフだ。グラフとかは見てないし。ああ、しかも、日本ではなくアメリカのデータだった気がする。
 ともあれ、意図して事件を起こすのはいつだって人間だ。ならば遺伝情報の差異なんか些末なもの。日本もアメリカも大差ないでしょ。だったら、誘拐事件と時間の相関だってそう変わらない。 10年後の進研ゼミでやるだろうから要チェック。あいにく先行学習キャンペーン実施中。有難迷惑極まるね。
 未成年としては悲観すべきか憤慨すべきか。
 どちらも、否。今は利用するのが正解。
 データはデータに過ぎない。それをもとにして客観的に試行して、ただ結果を確かめる必要がある。大丈夫、落ち着け。まだ終わりじゃない。
 わたしが今できることは限られている。ならば、できることを疎かにしてはいけない。数学の証明問題と方法は同じ。前提を確認して結論を導くんだ。
 まずは、わたしはどうするべきか。
 あらゆる事件において、それが起きるなら機会、方法、動機が揃っている。誘拐事件も例外ではない。
 現状では機会、方法について、御覧のとおり、って感じ。とはいえ、結局のところ動機もなければ事件は起きようが無い。 これは現実でも創作でも同じことが言える。
 犯罪という一線を越えるためには、相応の動機が存在する。でなければリアリティが無い。理由が無ければ犯人だって現場に戻ろうとしない。
 犯人の言動の根幹を成す動機がわかれば、わたしがすべきこと、してはならないことを把握しやすくなるはず。
 凄腕捜査官でも敏腕諜報員でもない一般女子高校生には、犯人を怒らせて返り討ちにしたり誰もが想定外の手段を用いてお暇したり、なんて規格外の方法は御法度。もちろんできたらカッコ良過ぎるけど、仮に試してみたとして、犯人の逆鱗にでも触れたり人質としての価値が失われたりすれば文字どおり此の世とはおさらばせねばならん。大前提として、死にたいわけがないんだな。残念ながら。いいのいいの、勉強と一緒、なんでも丁寧にコツコツと。これなら得意だし。
 現状としては、戯れにゴーギャン作『我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこへ行くのか』の題名を借りると……わたしは図書館近くの路地から来て、わたしは誘拐被害者で、おそらく犯人の用意した拠点に向かっている……と、表現できる。
名作に怒られそう。その前に美術評論家が怒るね。
 よし。余計なことも考えられるようになってきたし、丁寧に考えてみよう。あと、真面目に。
 まずは計画性の度合いかな。
 犯罪に巻きこまれた側から申し上げれば、どのような計画であろうと迷惑この上ないのは共通している。おかげでしっかり客観的にとらえられる気がする。
 わたしが誘拐された場所。あの図書館から大通りに出るまでの、川に沿った舗装路。あの時間、たいてい人通りはない。今日も無かった。いつも人がいないわけではなく、午前中や午後の早い時間であれば親子連れが読み聞かせ会や運動教室に参加したり年配の方々がのんびり散歩していたりしている。が、わたしがあの図書館へ行くとすれば今日と同じように塾の授業前が多く、専ら人目は少ない。これは計画性の高低によって左右されない事実。
 しかし、計画に組みこむことはできる。それこそ、待ち伏せの機会としては絶好だ。特定の期日がなければ、目撃者が完全にいないことを確認してから実行することも可能。
 犯人からすれば目的を果たせなかったり逮捕されたりすれば失敗だから、露見しなければ誘拐の成功率が上がって安全ってわけでもないだろうけど、どのような万全も期すためにある。しかし、万全過ぎたら払うコストがどんどん上がっていく。
 それに、ふたりだから。
 ほら。
 あの。
 ね?
 抱えこまれてから車内に押しこまれるまでの時間がどれくらいだったか数えていなかったし冷静ではなかったから、正直わからない。わからないけど、でも、いわゆる「おそろしく速い手刀 オレでなきゃ見逃しちゃうね」案件だったんだよ。そう、あのとき扉が閉められてすぐに車は走り出した。つまり、車内にはもうひとり以上いた。実行役と運転役。役割がはっきりと分かれていたなら、人数分のコストが生じる。んで、標的がわたし。
 つまり、割に合わないのは明白。計画性を上げれば上げるほど、実行しないほうが良いと悟るものでしょ。それとも、バカなのかな。
 ひとまずこれらをもとに考えた可能性としては、そこまで考えていなかったか、考えすぎて頭悪くなったか、実行しなければならない理由があったからか……この3択? だったら、もはや3つ目であって欲しいんだが。
 待って、主観になってる。
 柿食べよう、柿。客になろう。
 よし。
 迷惑トリオこと機会・方法・動機の皆様は後ほど考えるとして。
 犯罪遂行とくに誘拐実行においてどのような道具が必要だろう?
 人質を一定時間捕縛しておける環境を用意するには、まず拠点が必要だ。移動があるならその足として、車。わたしみたいにおとなしくする人質ばかりでは無いから、拘束の道具も。人質に容姿を覚えられたくないなら、そういう服装や顔を隠す仮面とか。あとは……目的を達成するための連絡手段とか……思いつくのはこれくらいかな。
 とりあえず、車はあるね。乗ってる。入手方法まではわからないけど、変なにおいとか私の鼻腔は感知していないから手入れはそれなりにされている車両だと思う。ガス欠とかあれば鼻で笑ってやりたいところだけどね。
 拠点も、おそらく存在する。犯罪実行中なんだから可能なかぎり早く人目から離れたい心理が働くだろう。しかし事故を起こすわけにはいかないし、警察に車を止められるわけにはいかない。
 逮捕コースを回避するためにも、目的地までの最短ルートを最速で安全運転する。ならば時短のために少なくともルートを間違えるわけにはいかない。だからこそ、運転役と実行役の役割が明確に分かれているとしても、わたしの他にふたり以上は乗っているのに会話がひとつも無いのは引っかかる。そういうもんだって言われたら、そりゃ誘拐されるの初めてだから納得するしかないけどさ。
 非言語の意思疎通にも限界はあるし、会話で情報交換したほうが楽じゃん。それをしないのは、明確に特定の場所を正確に認識した上で向かってるってことだろう。どこ行きたいのかまったくわかんないけど。
 拘束の道具も、まあ、変だよね。結束バンドで2連の輪をわざわざ作るのは面倒だ。それなら粘着テープや手錠を用いるほうが簡単だろうし、普通に結束バンド1本でも問題ないでしょ。
 それぞれの道具を用意する難度はそれほど変わらないだろうし、なにより拘束に過不足ない。 また、道具がなくても暴力で黙らせる方法は選べる。騒いでいないのにタオルで口も塞いでいるのを考慮すると、総合的には粘着テープに軍配が上がる。わざわざ面倒なほうを選んだ意味がわからん。
 仮面は、うん、つけてたね。服装は黒っぽいことはわかった。連絡手段については、わたしのスマホ使えばいいんでねーかい?……これくらいかな。
 一般的な誘拐犯がどれくらい計画して準備するのか知らないけど、短慮ってほど短慮でもないらしいのを評価して、そうだね、上の下かな。
 さてさて。誘拐犯として優等生らしい方々の動機は何だろう。
 専ら挙げられるのは、営利、政治、怨恨かな。殊に営利のイメージが強いけれど、可能性も考えるだけ考えてみよう。さっきより真面目に。
 そもそも動機はあるのかって話から。言いかえると、犯罪の原因や契機かな。
 はーい、みんな大好き背理法。
 この犯人に良心が欠如していると仮定する。すると、2点の反証が挙げられる。
 第1に、動機が不明瞭であること。
 犯罪行為において、動機は犯人の悪意ある目的とも言いかえられる。目的の根幹を成す悪意は、大抵、言動に現れる。希に善意の面の皮を被っているが、それを見分けられないほどガキではないし、耄碌もしていない。
 いまのところ拘束時を除けば暴力行為は受けていない。暴言についても、使われた言葉は「騒ぐな」「おとなしくしていれば危害は加えない」このふたつだけ。反芻してみると、口調や言葉選びは脅迫より宣言の色が濃い。標的の生命を左右する権利を手にしても必要以上に脅かそうとはしていない。創作では抵抗できない人間がモノと同等に扱われる場面があるが、それは現実とて大差ない。相手を生物だと認識していれば、傷つけることに躊躇するのは良心の呵責があっては成し得ない。
 わたしがこうして思考していられるのは放置されるだけで相応の悪意には晒されていないから。おかげで、何に対して悪意が抱かれているのか少しも見えない。明確に犯罪実行の渦中にいるのに、犯人の動機がわからない。
 第2に、言葉どおり、おとなしくしているわたしに危害を加えていないこと。
 推理小説を嗜んでいれば、子どもでも犯罪に関する知識は相応に身につく。女性という性別、高校生という職業で、どのような悪意が生じる可能性があるのか思い至らないほど無知ではない。
 もとより動機がひとつでなければならないという決まりはない。本来の動機が別のところにあるとしても、それまでの過程は問われない。結局、犯罪成否とは目的の達成または未達のこと。
 人間の三大欲求のひとつにも数えられる要素は無視できない。が、いまのところその予兆は無い。ときおり信号待ちらしい小休止はあるが順調に車は目的地へ走っているし、わたしは座面に寝かされているだけだ。
 もちろん、刃物を突きつけられたときは恐怖した。しかしそれは刃物が用いられたことよりも、仮面の奥の、その瞳に何かを見たからだ。加えて、身体が竦んで瞳が潤むと、すぐに刃物を首筋から外してくれた。実情は異なるが、泣きそうになるほど怖がったらその原因となり得る行為をやめようとしてくれた、と受け取れる行動だろう。相手に罪悪感や良心の呵責を覚えていなければそのような行動をとる蓋然性は低い。
 以上の2点から、この犯人に良心が欠如しているという仮定には矛盾が生じる。
 したがって、この犯人に良心はある。事件を起こしている時点で、良心に満ちているとは言わないが。
 良心があるにもかかわらず犯罪を実行するに至ったならば、それを超越する悪意と結びついた動機が存在する。計画の度合いも相応だろう。
 また、計画されたうえで実行した犯罪行為なら、標的を調べる段階で適任を選べる。そのほうが動機もとい目的を達成しやすい。思考が至っていないだけで、わたしを標的にしなければならなかった動機は存在するのかもしれない。
 よし、動機は存在するし、標的はわたしでなければならなかったと仮定しよう!
 動機をそれぞれ言いかえると、営利はお金、政治は権力、怨恨は……怨恨だな。
 父は出版社に勤めるしがない編集者、母は失踪した推理小説家。親戚の話も含めて、ただの一般家庭だ。
 奪取できる金額には上限があるし、編集者を脅迫して得られる権力なんて無いよ。
 それに、これは編集者というより父に限った話になるけど、恨める要素あるか? 本かしてくれなかった翌日にケーキ買ってくる人間だよ? まあ、家族に見せる顔と仕事で見せる顔が違うのはあり得るか。それにしたって限度はあるでしょ。仮に、冷血な暗殺者を兼任でもしていた暁には世界が信じられなくなる。
 また、母に原因があるとして、なぜ失踪から9年も経過した今なのか。姿を消して5年以内であればわたしは小学生。幼く、背が急に伸びたのは中学生のころで当時はまだ小柄の部類だった。誘拐するにしても、今より多少は人質として扱いやすかったはずだ。あるいは、犯人側に、5年以内では犯行に踏み切れない事情があったのか? 踏み切れないままで良かったのに。
 お金と権力はもう羽熊家にはどうにもできないね。じゃあ、怨恨路線でも深めるか。
 わたし自身あるいは身近な人間が恨まれていると仮定したら、犯人の言動として過剰な暴力を選んでいないのは疑問。
 怨恨が動機であれば、深い恨みゆえの犯行ならば、それは当人あるいは関係者へ仕返ししたい感情を少なからず燻ぶらせた結果。最初から容易に制圧できたなら暴言も暴力も必要最低限なのは、理解できる。しかし、わたしは可能なかぎり抵抗した。そのとき、もっと乱暴な言動をぶつけたり怖がらせたりすることはできた。
 刃物を用いて抵抗力を削いだとはいえ、それはたった一度のみ……わたしが抵抗をやめたのは仮面の奥の、その目が怖かったからだ。すぐに殺されることは無いとしても、必要に応じて殺人を厭わない。そう気づかされたから……仮に、その目の恐ろしさに気づかなかったら、わたしがなおも抵抗をしていたら暴力は用いられたのか。わたしが冷静ではなかったし得られた情報が圧倒的に少ないから断言はしない。が、怨恨の線が薄いのを補強する材料になり得る気がする。
 もー、動機があるってわかっているのに内容はわからない。不明瞭なままだ。
 他にどのような可能性があるだろう。
 複数の人間が、ある目的のために、誰でも良いから誘拐した? いや、それはさすがに事件を題材とするにはコンセプトとストーリーが嚙み合っていない出来の悪さが露見している。相乗効果を図れる重要な要素なのに、もったいない。創作物であればたまに見かける乖離だが、創作と現実の相違として、人間の良心が挙げられる。
 道徳的な善悪を区別して正しく行動しようという心理こそ、本来、犯罪を実行する誘惑を引きとめ得る。それが法治国家の根幹を成す共通認――電子音と重い金属音に思考が遮られた――車の扉が開けられる音かだろうか。まあいいや、わかんないし。とりあえず、誰かが何かをしたんだ。ってことで保留。
 一旦、ここまでの思考をゆっくり振り返った。
 やはり、わたしは心当たりも無いし原因も思い至らない。反面、わからないだけで、標的がわたしでなければならない理由も、今でなければならない理由も存在するはずだ。
 ならば。
 裁判員制度とは大きく異なって光栄に思わないし責任感が刺激されることもない。進んでやりたいとは思わないしもちろん立候補してもいないが、現状、拒否できない。標的にされた者の責務として、この誘拐を誘拐殺人にしないために最善を尽くすしかない。考え続けよう。
 ひと段落ついたことで、他のことが気になった。
 しばらく車は止まっている。信号にしては長すぎやしないか? ボタン式信号の前でボタンを押さずにスマホいじってたときくらいの使途不明時間。
 不意に。
 左腕を引かれて身体を起こされた。
 それとなく座面から足を下ろしてみた。が、何もアクションは無い。これくらいの勝手なら許容されるらしい。
 少し離れたところで、シャー芯50本をまとめて折ったみたいな音がした。いや、ペットボトルのキャップ開ける音か? うん、朱寿が駿太朗に開けてって頼むとき、こういう音してたかも。なんかそんな気がしてきた。
 口元のタオルが引き下げられ、プラスチックの端が触れた……これ、ペットボトルです……液体は味わうまでもなく、水。健康志向なのかな。
 特に邪魔されるわけではないらしいから思考を再開した。
 動機が判然としないなら、あとは方法と機会を整理しておこうかな。御覧のとおりって、そういうことだけど、ほかにできることが無いから言語化したい。
 わたしが図書館に向かったとき、白い車は見ていない。
 第1に、さすがにそこまで周囲に無頓着じゃない。第2に、推理小説好きだし。幼稚園生のころの将来の夢は名探偵だった。第3に、未だ高校生探偵に憧れてる。この3つが根拠。
 普段から人通りが少ない道、車の通行も少ない。わたしが図書館から出たとき走行音は聞こえていなかった。つまり、数分単位のピンポイントではないとしても、少なくとも17時から18時15分までの間には犯行場所で待機していたと推測できる。
 塾は、毎週金曜日18時30分からの授業を受けている。図書館から塾まで15分かからない。17時30分までに最寄り駅に到着すれば必ず図書館へ行く。
 要するに、犯人はわたしが塾へ行く予定や過程を知っていたんだ。
 父は、曜日は知っているけど時間は知らない。放任主義とも言えるけど、中学受験のときから相応に成績は聞いてくるからそうとも言い切れない。
 中学3年生のとき塾へ通いたいと話したら「偉いねー」だけで全面支援してくれた。個別指導だから自由に授業が設定できると知るなり「好きにしていいよ」と完全に任せてくれた。遅刻したら先生から父へ電話されるらしいけれど、今のところセーフ。だから、父は塾の日程は把握していないと思う。あと知っているとしたら、豊永先生と朱寿たちか。
 誘拐犯は被害者と面識があったり親しかったりするという。これも、アメリカのドラマのセリフで聞いたのか、いや、翻訳されたFBI捜査官の著作で読ん……――

「――っ?」

 水を飲みこんだ直後。
 嫌な思考に気がついて、その拍子にむせた。
 咳きこんでいるとスカートに水がかかる。量的に、ペットボトルが跳ねて中の水が飛び出したのだろう。驚かせてしまったらしい。それは申し訳ないが、それどころでは無い。
 わたし、今、何考えた?
 今、何の躊躇もなく知り合いを疑おうとした。
 あまりにも自然な思考回路だったから見逃すところだった。動機は無いし、そういう人柄で無いと知っている。思い出が警鐘を鳴らす。
 途端に怖くなった。普通ではない状況下ほど本性が顔を見せると聞く。
 推理小説における消去法なら、わたしは正しいことをした。しかし、それでも、わたしは誰でも――好きや大切のカテゴリにいる人すら自然と疑うことができてしまった。これを受け入れたら、今までのようにわたしは彼らと笑いあえるのか?
 零れた水を拭いてもらいながら放心した。
 知りたくなかった事実だった。こんな状況でなければ、死ぬまで知らなくて済んだ自分の嫌なところだ。いや、時間ならある。今知ることができただけ良かったかもしれない。受け入れる間、誰にも邪魔されずにいられる。
 直後、手が頬に触れた。
 直感的に、女性の素手だと思った。冷たくて滑らかな、陶器のような皮膚だった。力加減も、朱寿よりも翼沙に近い感覚……ち、違うんだ、朱寿。君をガサツだと言ったわけではない。翼沙と比べただけなんだ。許してくれ。というか、そこは受け入れてくれ。
 よし。そうだ、結局は受け入れなければならない。だったらこのまま疑ってやろう。疑ったとしても、違うと確信できれば良い。
 条件は、今日、あの時間にわたしが図書館付近にいると推測できる情報を持つ人物。そうなると朱寿、駿太朗、翼沙、一葵、豊永先生に限られる。
 さすが、わたし。知人も友人も少ないね。
 さて。容赦なく疑おう。ひとりずつ精査していこう。
 豊永先生には、中学3年生の夏休みから個別塾の授業の担当をしてもらっている。名前は、野乃さんだったかな。そう、豊永野乃先生。
 朱寿よりは高いがそれでも小柄な、かわいらしい雰囲気の女性。「のほほん(擬態語)」の双子として生まれたような人。
 ちょうどはじめての授業が、彼女にとっても研修ではない初めての授業だったらしい。解説するときの若干慌てている初々しさが応援したくなる感じ。授業の最初に起立して挨拶するとき、隣でわたしの目線よりも下に頭頂部を見たときは衝撃的だった。噓でしょ? って。しばらく見つめてしまった。
 それでいて数学と理科に関しては博識、英語の解説もわかりやすかった。だいぶギャップ萌えだったね、あれは。
 国語はあまり質問したこと無いけれど他の生徒からの質問に難なく応えていたし、社会の年号やキーワードもある程度は頭に入っているらしくて休み時間に他の先生のサポートとして歩く辞書や話す計算機になっている姿を見たのも少なくない。
 こういうふうに思い出すと豊永先生だいぶ人間性を喪失しているっぽいけど、違う。そんなことない。

「どうしてそんなたくさんのこと知っているんですか?」

「んぇ? んー、たくさん……? たくさんかぁ。わたし、たくさんのこと知ってるように見える?」

「見えると言うか、実際、そうじゃないんですか?」

「そんなことないよー、むしろ知らないことばかり。だから、もーっと頑張らないとなあって思ってる」

「……」

「羽熊さん、塩化コバルト紙の性質は?」

「えっ、と。水です、H2Oに反応して色が赤に変わる」

「何色から、赤色?」

 反応すると赤に変わるのは前に文章題で見たけれど、最初の色は知らない。困っていると「本質は難しくない話だよ」先生はヒントをくれる。

「画材、そうだね、絵具かな。コバルト色って聞いたことあるでしょう? あれは何色?」

 空の色とかで用いられる、淡い群青……「青?」答えると、笑みを咲かせてくれた。

「そう、コバルトブルーだよね! そういった色の名前って、性質としても該当することが多いんだよ。感覚的に理解できるでしょう?」

「はい」

「塩化コバルト紙は、濃い塩化コバルト水溶液をろ紙にしみこませた試験紙のこと。それなら、そもそも青色だなーって考えられる。実際、水に反応すれば青から赤に色が変わる……ね。今のこれって、塩化コバルト紙の知識ではなくてコバルトって名前からの推測のようなものだったでしょう?」

「……かもしれないです」

「こうして、知識を繋げて考える。頭を動かすのは誰にだってできるし、コンピュータとかあるからね。知識量よりも、それを基にした創造が重要。アイディアって、そもそも組み合わせでしょう? だから、その練習を勝手にたくさんしてるような感覚かな。脳だって、電気信号が繋がって思考できているようなものだし。質は量があってこそ適えられるものだし」

 大学生になったとき、豊永先生のように考えられる人になりたいと思えた。
 小柄なかわいらしさはもう手遅れだったけど、知識面や説明する能力に関しては彼女を目標にして、今が――両肩を掴まれ、ゆっくり体を傾けられた。それに従って再び座面に横になった。数秒後、車が走り出した――何考えてたんだっけ? ああ、そう。授業ではよく会話してくれるけど、豊永先生の個人情報を知っているわけじゃない。塾に提供した程度の情報には目を通しているだろうけれど、それだけだ。母が失踪した話とかパーソナルな話題はまったくしていない。知らなければ動機にはなり得ない。
 さて。先生のお次は友人の御出ましだ。
 中学1年生、最初に話しかけてくれたのが名前順で隣の席にいた髙橋駿太朗だった。

「なんか名前かっけーね」

 前に掲示された座席表の名前の「羅」が気に入ったらしい。「なんて読むの?」から「へー、どーゆー意味?」極めつけに「あー、受験で覚えた! 七斗北星のやつでしょ?」ほぼ一方的だったが、おおよそ会話の条件は満たされていた。
 すると、これを聞いていたらしい後ろの席だった朱寿が背中を軽く叩いてきた。振り向くと、「わ、私も、星あるの、名字……星科、です。よろしくお願いします」新品の生徒手帳の在籍証明書の名前を見せながら言った。「ホシナスズ?」ふりがなを読み上げると笑顔を見せてくれた。今は、まあ、あんな感じだけど、とりあえずかわいかった。緊張してただけか?
 とまれ、好奇心旺盛で、いままでも何か始めるときは必ず誘ってくれた。応じるかどうかはともかくとして、嫌ではなかった。動画クリエイターに弟子入りしたりSNSで活動したり、やりたいことは尽きないらしかった。加えて学校では吹奏楽部キャプテンを務めるほど積極的に部活に取りくめるのだから、とんでもない体力と気力だ。
 高校生になってからはメイクにつき合うようになった。彼女の意識は同年代トップクラスだと思う。朱寿と仲良くなってなかったらスクールメイクしないまま社会に出ていた自信がある。
 駿太朗とはもう腐れ縁というか、中学1年生の最初で隣の席になったのが運の尽きだね。中学時代は3年とも同じクラス、高校で初めて違うクラスになった。おかげで、ことあるごとに話してくれるくらいの仲になれた。
 ふたりについて、もう少し具体的に思い出したほうが良いのかな。そうするとさすがに情報量が多すぎやしないか? 朱寿と駿太朗はこのあたりにしておこう。豊永先生も。
 続きましては高校入試組の、翼沙と一葵。彼らについても考えられることはある。
 わたしが高校生初日はじめて、否、学校生活において自分から初めて話しかけたのが、翼沙だ。高校デビューのつもりで、誰でも良いから話しかけようと思っていた。
 しばらく廊下をうろうろして困っているのは明らかだったから「どうしたの?」と聞いた。教室がわからないと泣きそうになってた彼女は、偶然にも同じクラスだった。軽く雑談しながら教室へ入った。出席番号のせいで席は離れていたけど、普通に話してくれそうな子だと思えた。
 自席に戻りながら少し前からずっとうるさいLINEを確認すると、すべて駿太朗からだった。廊下に出てやると「あの子、名前、何?」扉の影で待機していたらしく、突然聞かれた。頭トチ狂ったのかと思って聞き返すと「ココア1本」と言いながら土下座モーションに入った。

「わかった、わかったからまず土下座やめて」

 でかい図体を小さくする駿太朗と視線を合わせて「スガウチツバサ」と告げた。

「何? とりまキモいよ?」

「席、どこ?」

「まじでキモいって」

「ココア2本」

「いや、そういうことじゃ、もー……」文句を言おうとしたらモーションに突入したので「前から4列目、廊下から3列目」しかたなく教えた。高校入学式から同級生を土下座させてるやばいやつにはなりたくない。

「次は? 呼んでこよっか?」

「無理無理無理無理」

「はぁ? マジで何?」

「……あの子、かわいくね?」

「かわいいね」

「いや、かわいいよね?」

「うん、そうだね」

 新鮮な反面、こいつの恋愛相談は面倒だった。そういうのは朱寿担当である。

「スガウチさーん、ごめん、ちょっ――」

 教室内に呼びかけている途中、強く腕を引かれて廊下へ戻された。

「ばっかじゃねーの?!」

「バカでーす」

「はぁ?!」

「LINEでもインスタでも聞いたら?」

「無理だって、マジでもうさぁ」

「ほら、来ちゃうよ」

「ココア3本」

「4本でいいよ。お前のコミュ力どこ行った?」

 何か駿太朗が言い返そうとしたそのとき、翼沙が教室内から顔をのぞかせた。

「ごめんね、本読んでたのに」

「いえ、えっと……」

「わたし、内部進学だけど交友関係広くなくてさ。せっかくだから、仲良くできたら嬉しいんだけど……どうかな?」

 スマホの画面を見せながら言ってみると、それだけで意図が伝わった。

「ほ、ほんとですか?! あの、えっと、スマホ、バッグに……! あの、取ってまいります!」

 駆け足で戻っていく彼女を眺めながら駿太朗には「ちなみにわたしからは教えないから」と告げた。

「無慈悲?」

「呼んでやったじゃん。これ以上する理由、わたしにある?」

「ねぇわ」

「でしょ?」

「……150あるかな?」

「んー、ギリあるんじゃない? さすがにスズより高いし」

「俺が立ったら怖いかな」

「でも、土下座はしないほうが良いと思う」

「まじ?」

「普通はやだよ」

「わかった」

 本当か? 本当にわかったのか? 定かではないが、天パが若干膨らんでいるのを見るかぎり本気の焦りらしい。この際、いつもの仕返しだ。少し揶揄ってやるくらいなら許されるだろう。

「ツバサ!」

 急いで戻ってきてくれた彼女をそう呼んでみると、瞳をさらに丸くして固まってしまった。背後の駿太朗も何らかの反応をしたのでミッションはクリアである。

「あ、ごめんね。スガウチさん」

「ほんと? ありがと。んー、どっちが呼びやすいかな。ハグマか、アルラか」

「ある、ら……さん?」

「どっちもあまり聞かないよね、言いにくさはどっちもどっちだし」

「あの……あるらさん、って呼びたい、です」

 まじか、この子。警戒心って概念知らないのかな。とりあえず「ありがと」でごまかした。

「LINEかインスタ、やってる?」

「ら、LINEでしたら」

「じゃあ、これ。いい?」差し出した画面にスマホを翳してもらい、QRコードからアカウントへ飛んでもらった。間もなく、わずかに彼女の表情が緩む。無垢で純朴な雰囲気は、なるほど、わたしにも朱寿にもない愛らしさだ。

「お。スタンプか何かくれる?」

「は、はい! すぐに」

 後ろで足蹴にすると塊が動く気配があった。

「っうー……がうちさん」

 駿太朗はわたしの背後から斜め前方へ這い出るようにして、右ひざを床についた。自分のスマホを頭より高く掲げている。0.3土下座か、片膝立ちか。まあ、土下座よりはずっと良いか。

「髙橋駿太朗と申します」

「あっ、はい。須河内翼沙と、申します……?」

「僭越ながら、自分にもLINE教えてくださいませんか」

 翼沙から視線で意見を求められた。そりゃそーだよな、意味わかんないよな。

「ごめん、順番おかしかったね。でも、わたしがツバサと仲良くなりたいと思ったのは本当だよ?」

「は、はい……」

「嫌だったら、こいつのは断って良いよ。メンタル、トランポリンだから心配ご無用」

「トランポリン……?」

「ぴょーん、みたいな?」

「……ぴょーん」

 手の動きで表現したけれど、首を傾げられた。このあたりは説明が難しいんだよなー。豆腐とかガラスとか、そういう話じゃないし。諦めます。詳細は駿太朗に聞いてくれ。
 香坂一葵は、同じ部活で仲良くなったとかで、なんか、駿太朗に連れてこられてたよね。
 彼のスマホの充電がさようならするのは今日に限った話ではない。かといって依存しているようにも見えない。わたしのほうが教室でいじっている時間長いときもある。たぶん、バッテリそのものがダメになってるのか、あるいは、通学中の使用時間が長いのか。試しに家が遠いのかと聞くと、少し悩んで「そうでもない」と答えた。30分の電車通学や徒歩10分の距離を「え、遠くない?」などと宣う御令嬢を存じ上げている身としては、個人の感覚は信用していないし、するつもりも無い。

「本当だよ。家族の転勤と僕の高校進学が重なって、こっちに引っ越してきたから。ちょうどいいとこが見つかって。バスで1時間かからないよ」

「へーぇ、前はどこ住んでたの?」

「山のほう」

 日本の75%は山だよ。そう思ったが「オランダじゃなさそうだね」で済ませた。
 しかし、この男、ただの山育ちの珍獣ではなかった。それが判明したのは、GW課題のテスト結果が張り出されたときだ。本校のテストの恒例として、トップ10は順位に加えて点数までバラされる。
 無事に1位は守り抜いたが、このときの次席は一葵だった。その差わずか3点。
 中学生のころ何も考えずテスト解いていたらいつの間にか難易度おかしくされていた。満点が取れないのは承知の上だった。しかし、それでも今までのテストでは同級生と15点差以上離れていた。1問の正誤でも、あるいは、合っていた問題の配点によっては下剋上すら有り得た。帰宅部には帰宅部なりの矜持がある。成績保持を理由に朱寿の勧誘断りすぎたから殺されかねないし。
というわけで、珍獣・ヤマソダチはわたしの天敵に認定された。
 猛獣・スエッコ、妖怪・バイタリティ、珍獣・ヤマソダチはわたしの三大天敵である。猛獣は神出鬼没、妖怪と珍獣は一緒に行動していることが多いため性質が悪い。
 断れない性格なのかねぇ、苦労するぞー。とくに駿太朗の相手は。おもしろいけど、面倒なときはとことん面倒だから。
思えば4人とも駿太朗を中心とした人間関係だ。あいつ本当、いろんなとこから拾って持ってくるとか、ゴールデンレトリバーかよ。待てとおすわりくらい覚えろ。いや、躾けなかった朱寿とわたしに責任あるのか?
 よく考えなくても、わたし彼らの人間関係を完璧に把握してるわけじゃないや。親の交友関係も知らないのに他人の知ってるわけないよね。
 それ以前にさ。多数派の知ってる誘拐犯。少数派の知らない誘拐犯。
 これどうやって統計とったんだろう。疑似相関だったらキレるよ?
 しばらくほかの場面を思い出しながら、車に揺られ続けた。




2

 電子音、そして重い金属音。
 頭頂部のからひんやりと冷たい空気がにじり寄って来た。車の扉が開けられたらしい。さっきのは、停車してすぐの音と同じだった。あのときも扉が開けられたということを指しているはずだけれど、今回のようには寒くなかった。
 腕を引かれて体を起こされ、羽交い絞めの状態で車外に引きずり出された。急いで地面を見つけて両足を平面に乗せた。横になっている時間が長すぎたからか、おかえり重力って感じがする。
 直後、すぐに足元の重力が消えて腹部に圧迫を感じた。太い鉄棒で逆上がりをした瞬間の、その感覚が継続しながら、背に誰かの手が触れて支えられている。
 真面目なクラスメイトたちを逆恨みしながら数学の宿題を職員室へ提出しに行ったときに30冊前後あるノートを机へ落としたときのような音が響き、動き出した。
 方向はわからないが、移動中なのはわかる。等積変形するときの頂点の気分で後ろ歩きしているっぽい感覚。うん、リズムは徒歩だ、セグウェイとかスケボーではない。車移動が終わって歩いているなら、もうすぐ目的地もとい犯人のアジトに到着するのだろう。
 視界を塞がれていてもなんとなく周囲が暗いのはわかる。正確な経過時間はわからない。とはいえ、図書館を出た時点で18時を過ぎていたし、もうすっかり夜の時分だろう。
 実際、今は何時何分だろう。スマホ見れないのがもどかしい。
 さきほどから身体にまとわりつくのは冷気だ。5月も半ばなのに。夜だからか? 日中は晴れていたのに、あまりにも温度が下がるのが早い気がする。冷房ついてる? 外なのに? 正確な温度はわからないけれど、夏が近づくにつれて暖かくなってくる感覚は物心ついてからは認識できている。雨でも降らないかぎりこうも下がらないだろう。
 湿った雰囲気というか、朱寿の御令嬢らしい文学観いわく「雨降りの香り」もといペトリコールやゲオスミンは嗅ぎ取れない。わたしの嗅粘膜が仕事サボってるだけ? いや、さすがにそれくらいわかるよ。花粉症じゃないし。
 階段かな、歩調が遅くなって特有のリズムが腹部に伝わってくる。5段上ると、足元から温かい空気を感じた。すぐに体全体が包まれる。弱い風を感じ、直後、ふたつの別種の金属音が続いた。
 扉を閉めたらしい。さすが室内、温かい。
 しばらくそのまま平行移動すると、立ち止まった先で30度くらい右回転して、さらに体が傾いた。ジェットコースターが落ちる直前の、あの意味わからん角度に近い。拘束が邪魔すぎて何もできない……のが、幸いしたかもしれない。椅子に降ろされただけだった。
 先に何か言えよ。黙ってるけど起きてるっての。
 椅子に体を預けてため息をついた。布手袋が背後で何かしていると認識してすぐ、ジジジ音とともに手首が椅子の背に引き寄せられた。手足の拘束時に聞こえた音と同じだから、結束バンドで椅子と手首の拘束を固定されたのだろう。手首の結束バンドを2連にしたほうが椅子の背と拘束がより近接して結局は腕の可動域が狭くなる。これを見越してたのかな、計画的で何より。
 顔に巻かれていたタオルがふたつとも外される。急に視界が明るくなって、眩しかった。悪あがきで体を縮こまらせて影を得る。瞬きするたびに白さが和らいでいった。

「やあ、お嬢さん。手荒な方法で悪いね」

 用意していた言葉らしく、鷹揚とした口調だ。この声は、車内で聞いたものと似ていた。同じ人物から発された声にも思えるが、若干高く聞こえた。目隠しのせいで耳もタオルに覆われていたからか? いずれにしろすぐに別人だと疑うほどの差異ではないか。足音に視線が誘導される。背後から右側へと歩いて行く相手の足元が見えた。黒いスニーカーに濃紺のジーンズ。過剰に怯えているようには見えないよう、相手を刺激しないよう、ゆっくり顔を上げた。
 足音は止まっていた。そっと様子を伺うと、締めきったカーテン脇の階段を背にしてスマホをいじりはじめていた。20歳前後の、若い男性だ。駿太朗と同じくらいの身長だが、彼よりも肩幅はある。ピカピカの高校1年生と比較してそうなら、この人はきっと成長期は経たんだろうね。黒い帽子を浅く被っていて、これに加えてサングラスとマスクをつけていたら小学生が習う不審者像そのものだ。
 図書館近くのときは顔全体を覆う白い仮面をつけていたのだろうけれど、今は少しも隠すつもりが無いらしい。おかげで、数少ない知り合いを思い出しながらじっくり似ている顔を探せた。特徴が無いわけではないし、覚えにくい顔立ちとも言えない。癖毛の短髪から見える耳は、別にね、うん。福耳とか餃子耳とかになっててよ、こっちはそんなに種類知らないんだからさ。もー……とりあえず、見覚えは無さそうか。駿太朗とは体格とか髪質とか似てるといわれれば似てるけど、顔は雰囲気すら全然違う。
じゃあ知らない人だ。
 犯人像の推定は外れた。少数派の、知らないほうの誘拐犯らしい。
 あれ、もうひとりは? わたしが車に乗せられてすぐに車が発進したから少なくとも誘拐犯はふたりいるはず。この男性と、おそらく女性。
 どこかで降りた? それなら、タイミングは……10分くらい停車した、あのときだけじゃあないかな。信号待ちっぽいのはいくつかあったけれど、つまりそれは近くに歩道があるということ。車を降りるとき、必ず扉を開閉する必要があるから車内を見られる可能性が捨てきれない。ってか、そもそも車の扉の開閉を聞いたのは3回だけ。車に連れこまれるときに1回、その10分のときに2回。前者は自明、後者はわたしに水分補給させるための往復分のためだろう。
 じゃあ、もうひとりは、いつ、どこに消えた?
 直後、左背後から金属音が聞こえて咄嗟に顔ごと視線が向いた。扉が開けられた音だった。サングラス越しに目が合ったとわかった。
 もうおひとり、普通にいらっしゃった。黒パーカーに濃紺ジーンズ、サングラスとマスク。しっかりと不審者だ。体格を見るに、パーカーがオーバーサイズでわかりにくいが、女性だ。うん、ちゃんといらっしゃった。駆け足で背後を通り過ぎる。その手には、わたしの鞄があった。
 男性は声も顔も出しているのに、女性は体格すらも隠そうとしている……解放か、殺害か……彼らはどちらを選択するだろう。 なるべく自分を見せようとしない女性はともかく、声も顔も隠さない男性のほうは何をするか判然としない。目的が果たされるなら殺害をも厭わないかもしれない。もちろん、断言はできない。しかし違うとも言い切れない。
 車内での底知れない目を思い出して足先から頭頂部に向かってぶるりと震えた。
 改めて、これは誘拐事件だと認識しなおした。車内ではさんざん時間をかけてどうすべきか考えなければならないと自覚する。犯人の動機や目的が不明瞭な段階では可能なかぎり早期に状況を改善すること、ひいては、犯人の監視下から逃れることこそ生存を保証する唯一の道……できるだけ早く脱出しなければならないと信じる。
 ゆえに、わたしがすべきは、脱出RTAである。
 そのために、まずは敵を――犯人たちの言動、この建物の構造など――必要な情報を集めねばならない。幸運の女神には前髪しかないけれど準備不足が許されるわけではない。髪の毛掴まれたら普通は抵抗する。人間っぽさで有名なギリシャ神話の住民なんだからきっとそうする。
 さて。この場において、ほとんどの情報を握っているのは犯人だ。
 最優先課題は、彼らから情報を引き出すこと。それはわかりきっている。けど未だこちらから犯人に接触を図る気にはなれない。急がば回れっていうし、まずはできるところから。
 かなり閑静な場所に建てられた建物らしい。口を塞いでいたタオルもはずしたということは、騒がれたときのリスクを気にしなかったということか。じゃあ、ここアネクメーネ? いや、わたしもこの人たちも生きてるわ。ノンだよ、ノン。ノンアネクメーネ。ただ、周辺に建物が無い地域かもしれない。しばらく車で移動したから可能性はあるのではなかろうか。自宅周辺の地理さえ危ういから予想は「日本国内」にしておこう。
 広さといえば、この部屋はどれくらいだろう? そういえば室内が未観察だった。
 よし、今やろう。
 わたしが座っている椅子は部屋の中央付近、パノプティコン反転バージョンかな。周囲を見渡して、この部屋の広さの目算を試みた。が、普段やらないから要領がわからない。とりあえず長方形で、学校の教室よりは広い気がする。今重要なのは数字よりも内容とか家具の配置とか、そっちだ。そっちならできる。建物自体は2階建て、吹き抜けになっていて視線を上げれば柵越しに扉がふたつ見える。階段は右側から……17段、その先は狭い廊下になってる。それなりの高さの木製の柵のおかげで廊下が狭くても安全性は保障されるのかな。2階から細めの柱が、わたしの目の前と吹き抜けの左端のほうに刺さっている。1階では、その間にも扉がひとつある。背後はほとんど黒いカーテンに覆われていて、若干の冷気も感じるからかなり大きな窓があるんだろう。その右側には階段、左側には扉。男性はあいかわらず階段を背にスマホをいじっていて、女性のほうはその隣のソファーにわたしの鞄を乗せて、中身をひとつずつ出していた。
 高校生の財布に高望みしてるのか? 無駄だぜ?
 相応に計画的犯行だろうからその程度のこと知ってるんだろうけど。それとも、何か探してるのかな? だとしてもさ。入れてるのは、教科書、ノート、iPad、本、財布、定期、ポーチ、あとは筆箱くらいでしょ? 無いよ? ほんとに、何にも。朱寿ならよくわからないものたくさん入れてるからおもしろいのに。ルービックキューブだって、今週の月曜日に急に持ってきて「トップ総取りサバイバル! ちなみに、最下位は人権無し」と言いだしたときは「世の争いってこうやって起きるんだね」って返しちゃったよね。ところで、なんでこれ思い出したんだろうね? 朱寿のバグった発想は他にもたくさん……ああ、今ここでは人権無くすわけにいかないからか。
 そうだ。誘拐されたと実感しているのに、思考ではわかっているのに、どうしても本質的には死とは結びついていない。だからこそ、犯人たちにまで同じような感覚でいられたらたまらない。相手は人間で、殺したら死ぬんだと忘れさせてはいけない。
 犯人の男女、人質のわたし……ここにいるのは計3人。
 連れこまれてすぐに車は走り出したから複数犯なのは間違いない。あのときは車内を観察できるほど余裕はなかったから人数は断定できないけれど、ここにいるのがふたりだけなら実行犯はふたりだと仮定して問題無いと思う。実行役が男性、運転役が女性。
 実行役=男性=A
 運転役=女性=B
 うん、このほうが考えるの楽だ。女性、男性って、いちいちめんどくさい。
 この建物の部屋は少なくとも扉の数くらいあるんだろうけど、わざわざわたしから姿を隠したいならそもそも目隠しを外さなければよかっただけだ。外したのは、外すべきだったというよりもどっちでも良かったからなんとなく外したというほうが意味合いは強いだろう。
 仮にこのふたりを操る黒幕がいるとしても、ここにいなければ直接手を下せない。
 存在しないものにおびえるのはさすがにバカ。可能性を考慮しつつ、目の前にあるものを相手として考察を進めれば良い。
 あくまでも脱出のためにわたしが気をつけるべきなのは、今ここにいるふたりの言動や動機、それからこの建物の所在や構造だ。だいぶ興奮と緊張が安定してきたおかげで思考も落ち着いてできるようになっている。怖くない……のは嘘だけど、大丈夫。問題ない。
 これらを前提として計画を練ろう。
 SNSに満足いったのか、Aがソファーに腰かけた。「さて、と」つぶやきながら両足に肘を乗せると前屈みの体勢になった。口角を上げてみせると、

「疲れてるとこ悪いけどさ、名前、教えてくれる?」

「羽熊です」

「ああ、それは知ってる。間違えた、名前の由来」

 由来? 1/2成人式でも扱わないよ、そんな質問。
 この奇妙な質問の出所はどこだろう。名前は知っている、由来を知りたいなら……さっき車内で考えた、奇特な名前ゆえの誘拐説が的中した?……そんなふざけた話あってたまるか。却下だ、却下。頼むから他の案を採用させてくれ。
 名前を知るタイミングは限られている……同じイベントに参加したとき、何らかのメディアに本名で取り上げられたとき、犯人とわたしの共通する交友関係があるか、SNSアカウントの文字列か……これくらいかな。まず、前者ふたつは除ける。経験無いから。基本的に名字呼びだし。唯一の名前呼びをしてる翼沙とはまだ一緒に出かけたことない。本名が晒されるのはテスト結果が廊下に掲示されたときだけ。あくまでも校内の扱いだ。わざわざ校外で名前を出されるほど交友関係広くないし仲良くないのは自覚してる。ゆえに、外部の人間がわたしの名前を知る由は無い。
 したがって精査すべき可能性は後者ふたつ……犯人とわたしの共通する交友関係があるか、SNSアカウントの文字列か……いずれにせよ、計画立案の段階で把握は可能。やはり人違いや気まぐれの線は完全に消える。
 交友関係については、本当に、ね。あの5人ですよ。豊永先生、朱寿、駿太朗、翼沙、一葵。さっきも考えたけれどやっぱり恨まれるほどの心当たりはない。
 塾には5分くらい遅刻したことは何度かあるけれど豊永先生は聖女だから、まず心配が先行する。そういう性格だから同僚にも頼られやすいんだと思う。
 朱寿たちについては、わたしが何かやらかしてたとしても自販機の飲み物とかコンビニのお菓子を捧げて謝ればチャラにできる程度のものばかり。
 学校のほかの人とは話したことはあるけれど、それほど親しくしてない。話せるけど、別に友達ってほどではないくらいの関係性だと思う。帰宅部だから委員会くらいしか関わる機会がない。
 営利、政治、怨恨のいずれの動機を採用するのは不適だろうし、こんなことで犯罪に走るなんてことあるかい? 暇人過ぎでしょ。
 むろん、両親が関わってくるなら話は別。把握してるわけがない。わかるわけがない。無理。
 SNSアカウントのほうはhagumaやaluraだったりbearとかasterismとか入れてみたり、そういった文字列を入れているってだけ。時間をかければ名前の音なら推定できるかもしれない。
 やはり動機がわからないのがボトルネック。目的が掴めない。それに、今は穏やかだけれど、地雷を踏み抜……ああ、そうだ。なんか言わないと。忘れてた。反抗じゃないです、忘れてただけです。

「様式美ですか?」

「ん?」

「第三者が知り得ないことを聞いておくのって、生存確認のためでは?」

「だったら、君は怖がるべきだよね?」

「おっしゃるとおりですね」

 ふざけた受け答えも許容してくれる。この調子なら会話の中で情報を集めていける。背に腹は代えられない。引き際を見誤らないように、それだけは留意する。
 結局のところ、地雷か情報はトレードオフだ。お、これ二律背反だよね? 使いかたあってますよね? 面目躍如じゃん。やったねぇ。

「名字からシロクマになって、そこからおおぐま座になります。それで、おおぐま座を構成する星の固有名をとって、名前です。あ、名前はもう外国の方の当て字レベルの字面です」

「名字からシロクマって、何?」

「父へ連絡しているなら、それで通じるはずです。論理飛躍が大きすぎるの、そこなので」

 Aは体を起こして「飛躍ねえ」と独り言ちる。視線が右に流れ、それを追った。布張りソファーの上に、わたしの通学鞄の中身がすっかり引っ張りだされていた。その傍らにいたBが、慣れた手つきで生徒手帳をめくって内容を検める。彼女はAに向かって、ひとつ首肯した。

「羽に熊、有る流れ……羅生門だったかな。これで、羽熊有流羅?」Aは諳んじた。肯定すると「ハグマがシロクマって、どういうこと?」質問が重ねられる。これでSNSの可能性を除ける。漢字まで晒したことはない。つまり、間接的な交友関係の範囲に犯人はいる。ならば、きっと動機も近くに隠れているんだ。隠れているとは限らないか、見えてないだけかも。
 若干、視線は泳いだかもしれないが受け答えは意地を張って平然を見せた。

「音の共通点です。幕末の、倒幕の、新政府軍の指揮官が識別用でかぶっていた目印のひとつが白い熊と書いてハグマと言うんです」

「なるほど。羽から白の熊で、シロクマってわけだ」

「はい」

「それで? どうやったらシロクマがおおぐま座になる?」

「シロクマ。つまりホッキョクグマのことなんですけど、世界最大の熊でしょう?」

「世界最大、大きいってことか」

「はい、大きい熊なので、おおぐま座です」

「論理飛躍でいえばこっちもなかなかだな」

「知名度を考慮すれば許容範囲ですよ、名字からシロクマまでの道のりがムリゲーです」

「確かにな。指揮官判別の冠物だっけ? 初耳だよ」

「だから、交渉相手への生存確認を満たせます」

 この質問を電話口で思いついたのは、おそらく父だ。警察に通報していて体勢を整えた上で、連絡を待っているとしても。
 創作物でも誘拐事件が扱われることはよくある。それを参考にすると、生存確認のために犯人へ何らかの要求をするように入れ知恵する頭脳があっても、警察には誘拐被害者の名前の由来を聞く発想までは無いだろう。声を聞かせるよう要求したかもしれないが、そもそも犯人が応じる保証は無い。わたしのような人質を電話に出して余計なことを発言されては困るだろうし。
 交渉相手からの、本人しか知り得ない質問に対して人質に確認したうえで代理解答するほうが安全だ。実際、声を聞かせる要求に応じる気が無いからこそ父からの絶妙な質問の答えを用意することにしたんだろう。

「父親と母親、どっちが心配してると思う?」

「……わかりません。ちなみに、おおぐま座のニュー星とクシー星が、それぞれアルラ・ボレアリス、アルラ・アウストラリスって名前がつけられているんです」

「北と南ね。その共通部分から音をとって、漢字を当てた?」

「そういうことです」

「だいぶキラキラしてるね」

「……」

「嫌い?」

「いえ。可もなく不可もなく、です」

「誰がつけたの? 父親? 母親?」

「ふたりで考えたんじゃあないですか。そこまでは知りません」

 Aは「ふーん」と言いながらあくびをかみ殺した。再びスマホをいじる程度には緊張感が無いらしい。わたしも大概だけど。ゆっくり深呼吸しながら椅子に体を預けた。
 キラキラ。
 キラキラネームのことを指しているんだろうね。推量ですらないな、ほぼ確信か。一般的でも伝統的でもないことくらい、幼稚園児のころには気づいていた。自分の名前が奇特なことには気づいてもおかしいとは思っていなかったし嫌いになる要素すらわからなかった。自分の名前だし、両親が考えてくれたものだと感覚的にはわかっていた。このころは、名前を呼ばれるのが嬉しかった。
 小学1年生の、入学したばかりのころ。幼い子どもの無邪気さが残酷だと気づかされた。
 出る杭は打たれやすい。春のうちに学校に行くのは憂鬱になった。公園で隠れて時間の経過を待とうとしたこともあったし、教室ではなく保健室へ直行したこともあった。これを両親に言うのは負けた気がしたから避けていた。
 総合的に、当時、我慢はできたけれどそれなりに嫌だった。
 そうだ、誰だって嫌な環境に身を置き続けたいわけがない。今と同じ状況だ。
 依然としてAは穏やかな対応をしている。帽子はかぶっているけれど、それだけだ。髪型がわからなくても顔がわかってしまっている。向き合っていなくても、やはりその目には底知れない恐ろしさが宿っている気がする。わたしが余計なことをしなくても目的を果たせば……人質が不要になれば、きっと……可能性を捨てきるにはあまりにも切迫した内容であり慢心を呼びかねない。だったら、ずっと考慮しておいたほうが良い。
 あいかわらずBのほうはわたしに顔を見られないようにしている。覚えられたくないのだろう。事件化したとき、逮捕されないようにしたいのか? それとも、罪悪感? 後者だったら大歓迎だけど。懐柔できれば拘束を解いて逃がしてくれるかもしれないし。
 無理か、わたし人を懐柔できるほど心理とかワビサビとかわかんないし。まあ、そううまくはいかないよね、人生って。悲観するのも良くないし楽観するのも良くない。難しいね、人間って。
 ふたりはスマホのスクリーンを見せ合ったり文字を打ったりなど、双方か第三者か、何らかのやりとりしている。車内でもこうやってやり取りしてたのかな? いや、運転中は危ないね。違うか。
 ひとまず、わたしとの会話はオシマイらしい。
 今の会話を振り返っておこう。復習は覚えてるうちにってね。
 名前については、そう、わたしの交友関係から間接的にきいたのだろうと予想がついた。交友関係の狭さには自負がある。悲しいことにね。
 朱寿、駿太朗、翼沙、一葵、豊永先生。5人を疑いたくないからこそ車内で精査したけれど、結局、完全に候補から除外できるほどの成果は得られなかった。推理というには前提条件が曖昧だから断言は避けているだけかもしれないが、可能性は決して低くないのはわかってる。考えるのをやめるつもりは無い。いろいろ判明してから1回くらい殴らせてもらえればそれでいい。
 あとは、そうだね。Aは、わたしの父と母を気にしていた。いや、父のことを出したのはわたしだったけど、向こうは母をわざわざ話題に出した。母を気にしていたのだろうか。あるいは、過去に母に関わったことがある?……誘拐事件のほとんどは身内や知り合いの犯行。彼らの背後に……待って、飛躍しすぎ。営利、怨恨、政治ではないっていうのは満たす可能性があるけれど、それだけだ。
 なぜ今日あるいは自らが姿を消して9年後に決行するに至ったのか。別の問題が浮上する。彼らが母とつながりがあるとしても、背後にいるとは言い切れない。落ち着いて考えよう。まずは事実としてわかることから。
 よし。
 母はわたしが生まれる5年くらい前から失踪するまでの12年間、推理作家「かずらうらら」として活動していた。学生時代から横溝正史、松本清張の作品を好んでいたこともあり、作風も類似性が高かった。本格派や社会派と呼ばれるような、史実を基に作品を執筆することが多かった。わたしは当時を知らないが、ある事件を題材にした作品が犯人逮捕へ導いたことで地位を確固たるものにしたらしい。処女作からリアリティや社会性を武器にしていたとはいえ、それが決定的に一線を画する作品と出来事だったのは想像に易し……お? 犯人はふたりとも、そう、AもBも若い。Aは容姿や体格から考えておそらく20歳前後、Bの陶器のような手から推察するに彼女も同じくらいだろう。
 母が失踪したのは引っ越した直後、わたしが小学2年生になる前、7歳の誕生日から半年も経っていなかった。それが9年前。彼らもまだ義務教育を受けているころだったはず。少なくとも、当時、今のわたしよりも幼いくらいの年頃。
 それなら、いつ、なぜ、どのようにして母と知り合ったのだろうか?
 いや、考えるまでもない。母が子どもと関わるとしたら、それは事件関係者しかいない。取材の段階なら未成年者だろうと相手が拒否しなければ話を聞く機会を得られただろう。
 記憶の中の母は、ほとんど人生を創作に費やしていた。アナログノートに必要な情報と推理をまとめ終えると、あとは自らの執筆塔で創作に取り組んでいるイメージだ。わたしだけではなく、父すらも、その塔における執筆空間には入れなかった。残りのわずかな余裕は家族にも割いてくれていたのだろうけれど、優先順位では執筆が他の追随を許していなかった。失踪前も母は塔にこもる時間が長かった。そうだ、おそらく小説を書いていたんだ。作風から考えて、その小説も実際の事件をもとにした内容だった可能性はある。しかし、母が失踪してから出版された『青写真と六腑と龍の声を乙姫に』は、架空のX県警が連続猟奇殺人犯を追い詰める話だ。母が参考にしたと思われる猟奇殺人は国内外で発生していないことは、中学に上がってから徹底的に調べて確認した。
 不意に。
 およそ12年の活動期間における藤うらら作品全6作を、脳内で列挙して内容を思い出した。

『瓦礫と真夜中の機織り機』
 山奥で孤独死した老人とその人間関係を調べ上げて殺人事件の可能性を同僚に示唆した記者が間もなくして事故死した。その直前に送られてきた機織り機の写真。同僚は友人の死を悼み、ひとり調べなおす。ついに機織り機にこめられた意図から真相にたどりつく。
 山形県で発生した連続殺人事件を参考に、独自の解釈がなされていたが冗長な箇所が散見。読みにくいところもあった。まあ、大学卒業から間もないし処女作だから及第点。

『ひとり、ウラルの道を歩まん』
 特殊設定ミステリ。通り魔に刺された女子高校生が、見ず知らずの地(異世界と仮定していた)にて洞察力や推理力を武器に活躍しながら元の世界に戻る方法を探る連作短編集だ。カスパー・ハウザーやジョン・ブラッドモアなど歴史の謎や未解決事件をいくつか取り上げつつ、本筋として異世界に引き寄せられた謎について紐解いていく。
 特に、当時、正確な考証とSF視点から推理を語るのが大衆小説として受け入れられたらしい。

『見知らぬ土地の街灯にて』
 ある男女の心中から4年後、事件そのものが忘れられたころ。執念でたったひとり調査を続けていた警察の情報屋が、馴染みの刑事の協力を得て過去を振りかえる構図だ。実際に神奈川県で発見されたある心中遺体から殺人の可能性を推察したらしく、その推理をそのまま探偵役に語らせた。詳細は知らないけれど、これが捜査本部へ届いたことを契機として犯人が逮捕された。ゆえに、本作が藤うららの推理小説家としての地位を確立した。また、この本の初版から3週間後にわたしが生まれた。

『カサブランカの最終定理』
 ある富豪によって建てられた白い邸宅・通称〝カサブランカ邸〟は、呪われている……連続殺人事件により関係者が死ぬたびに、庭の白いカサブランカに墨が掛けられ、黒い花として手向けられる。最終的には、第三者が断ち切らないかぎり復讐の連鎖は続けられる、みたいな感じ。九州の、どこだったか忘れたけど街ぐるみの殺人事件が題材。
 わ、すごいネタバレしてる。ヤバすぎ。いや、他の誰にもしてないな。大丈夫。

『夜空と秘宝と最善の悪手』
 チェス対戦用AIとの試合に臨む希代のグランドマスターが、会場となるホテルで服毒自殺した。その1週間後に開催されたチャリティイベントでは、件のAI開発の中心人物だったシステムエンジニアと、自殺したグランドマスターの姉が、同じ事故に巻きこまれてそれぞれ重傷を負った。海外の事件だったけれど、現役プレイヤーとAIの対戦は注目されていたから、日本でも広く報道されて騒がれた。事件の疑問点は解消されているけれど、一応、現実では未解決扱いされたまま。

『青写真と六腑と龍の声を乙姫に』
 身体の一部が失われた遺体が連続して発見された事件について、殺人および死体損壊などの罪である医師が逮捕された。犯行方法や動機については丁寧に供述するが、奪った遺体の一部の在処は黙秘を続けた。事件から20年後、被害者のひとりの息子が、龍の声=ある手記を頼りに乙姫を探しはじめる。

 おもしろかったというか、まあ、おもしろかったけれど変だ。
 そうだ。
 最後の作品だけ、『青写真』だけは参考にしたと思われる事件が見当たらなかった。そもそも、医療関係者による猟奇連続殺人事件の数が多くない。海外のも探した。捕まったなら事件化されて記録されているはずだし、事件として扱われていなくても猟奇の牙にかかった遺体は目立つ。それがある地域に集中しているなら、存在する事案なら探せる……それでも見つからなかった。所詮はアマチュア学生だからわからなかったのだと思って、力をつけてから改めて挑戦しようと決めた。けれど、仮に、この作品だけ史実の事件を根底としていないのだとしたら? それは、なぜか……母の失踪と時期が重なるし、この作品が犯人の動機に関しても鍵を握るのならば……情報が足りない。
 こちらにもう少し主導権を分けてもらわないと。
 今のところわたしは、騒いでないし暴れてないし逆らっていない。おとなしくしている。
 相手を人間だと認識している限り乱雑な扱いをするには良心が邪魔をする。善意に悪意を返すのは難しい。返報性や性善説の存在がその証左だ。疑いすぎて視界を狭めるのは悪手、少しくらいなら気楽に。あからさまでなければきっとどうにかできる。
 よし、行こう。

「あの、おにいさん」

 呼びかけるとAは肩を震わせた。想定外の接触だったとしても、過剰な反応。あえて明言すれば動揺に見えた。おじさんと呼ばれなかっただけよかったと思ってほしいのだが?

「すみません、名前、存じ上げないので。ちょっといいですか?」

 Aはスマホをポケットに滑りこませると、目を合わせてくれた。
 さあ、犯人よ。抱け、罪悪感。寄越せ、情報。ついでに名乗れ。

「ここって、どこなんですか?」

「どこだと思う?」

「車、あまり乗らないので感覚はわかりませんが……」

 困った。
 朱寿の家に遊びに行ったときか、中学の修学旅行で乗ったバスくらいしか参考にならないんだなぁ。そのときは注意して距離とか時間とか考えて無いから正確な保証は無いし。もはや小学生のころ速さの計算問題を参考にしたほうが良いかもしれない。
 ああ、そうだよ、早さも時間もわからないのに距離なんか出せるわけない。途中で停車していた時間もあるんだから。
 いや、待て。わたしの感覚で計算する必要は無いんだ。
 わたしの知るかぎり車移動が多いのは朱寿だ。御令嬢っていったらあの子怒るけど、実際、姫だから。
 去年の母の日、朱寿はどこに行った? 何と愚痴っていたか……アジトだ、ムーミンのアジト! 埼玉県の、お寺とかあるところ。
 車で、1時間30分。確か、そう言っていた。朱寿の家は東京、わたしが車に乗せられたのも東京。埼玉県は東京都に隣接している。
 埼玉県は3800㎢くらい、東京は2200㎢くらいだったはず。
 60×60=3600
 61……いや、62でいこう。
 62×62=3844
 それと、うん、4.5=9/2使おう。それで、4.5の2乗が20.25だから……47?
 ってことは、47×47=2209かな。
 うわ、47って素数じゃん。計算やだな、正方形から長方形にしないといけないのに。まあ、いっか。あくまでも概算だし46にしよう。そしたら、
 前者を31×124
 後者を23×92
 それぞれを長方形と見立てて、短い辺同士が縦になるように重ねる。
 どんな道でも直線距離を進めるような交通網ではないから、まあ、朱寿の家からムーミンのアジトまでの移動距離はふたつ重ねた長方形における、縦の長さ~対角線の長さ、これに収まると仮定してみても大きな間違いではないだろう。
 埼玉と東京の位置関係的に逆鏡餅みたいになっているから、対角も何もあったもんじゃあないけど無視無視。
 縦が23+31=54
 横がぁ……23÷2=11.5……11.5だと? 四捨五入じゃい、12だよ、12!
 ってことで、62+12=74 かな。
 え、ルートの計算えぐくない?
 54×54+74×74の、平方根でしょ? マジっすか?
 でも、ここまで来たらもう戻れないよね、よし、やろう。
 引き算でなければ、足し算なら頑張れる。
 うん、50+4ならできそう。
 50×50+200×2+16=2716
 できたできた。
 こっちは、75から1引こう。
 25×3の2乗だから625×9=5625だね。
 んで、75×2を引いて、1を足すと……5476だ。
 そうなると、2716+5476=8192
 お?
 9×9って81だよね?
 9+9+9+9+9+9+9+9+9=81だよね? あってるよね?
 じゃあ、8192の平方根は90くらいだ。90になって欲しい。90にしよう……ってことは?
 1時間30分で移動できるのが54㎞~90㎞の範囲ってことだ。わたしの計算だと。
 で、どれくらい車で走っていたんだい?

「あの、今何時ですか?」

「ん? 23時くらい?」

 スマホの画面を確認すると、視線を戻された。わたしが図書館を出たのが18時15分くらいだったから、4時間45分のドライブだったわけだ。
 あ、でも、なんか20分……も経過してないか。10分くらいは停車していた時間があった。
 じゃあ、4時間30分の移動だね。うん。
 1時間30分=90分
 4時間30分=270分。
 お、3倍チャンス!
 じゃあ、誘拐ドライブで162㎞~270㎞を移動したってことにしよう。
 続いて、日本地図を思い浮かべる。
 最西端は東経122.55度の与那国島。最東端は東経153.59度の南鳥島。
 緯度は……覚えてる地名や名所が少ない。
 北緯40度が秋田の八郎潟。
 あとは……43度! あのコールドケースって舞台どこだった? 伏尾さん、どこ? 北海道なのはわかるけど、それだけじゃあ広すぎる! だめだ、わからん。
 中国の地理も、ちょっとなぁ。三国志ならわかるのに。ああ、近代も勉強しとけばよかった。そうすれば世界地図まで考えなくてよかったのに。
 ああ、グローバル……文句言ってられないか。よし、ヨーロッパかアメリカから逆輸入しよう。ミシガン湖とかでしょ? あとは、コルシカ島かな。
 ん? 北海道だったら、札幌辺りじゃね?
 40度が秋田、43度が札幌なら……――最西端も最東端も北緯は24度~25度か……まあ、それくらいだね。
 赤道がおよそ4万㎞だから経度1度につき111㎞。緯度を考慮して100㎞でいいや。
 与那国島と南鳥島の経度の差が31.04なら、およそ3000㎞の距離かな。
 じゃあ……ん? なんだっけ。ああ、そう。車で移動したのは162㎞~270㎞だ。
 3000㎞の……5.4%~9.0%だね。
 もうちょっと長いと思ってた。意外と短いねぇ。そうなると……

「関東は出たけれど、でも、そう遠くないくらい……ですか?」

「どうだろうね」

「……」

 は? 嘘でしょ、なんで聞き返したのこの人。え? え、ダル過ぎ。どこだと思うっつったじゃん。合ってるかどうかはともかく、近いかどうかくらい言ってよ。Oh,myブドウ糖!
 エネルギー無駄遣いしたわ。あー、無理。
 んー、時間はわかったからいいか。いや、誤認させようとしてる?
 とはいえ確認しようにも比較できる時計が無いんだよな。腹時計も睡魔時計も役立たない。腹時計の精度の低さは嗅覚と同レベルだし、23時が本当だとしたら睡魔時計狂いきってる。
 まったく眠くないのは交感神経とかアドレナリンが元気いっぱいだからだろうね。脱出前に軽く仮眠取りたいんだけどなぁ。
 やる気喪失していると、Bは歩み寄ってAに耳打ちする。何か話しているのはわかるが、内容までは聞き取れなかった。するとAは納得したように「あー」と零しながらわたしの目の前の扉から部屋を出た。
 どこ行ったんだろう?
 視界の端でBが立ち去ろうとした。

「あの、おねえさん」

 Aの反応とは異なり、Bはその場で立ち止まっただけ。振り向いてもくれない。終始、あまり関わろうとしてこない。
 あ。待って、何を話すか考えてなかった。そもそもBに言うことある? Aとの話はぜんぶ聞いてるじゃん。

「ありがとうございます」

 それでもBは立ち去らない。聞く意思くらいならあるらしい。
 それなら良かった。
 さーて、何のお礼ってことにしようかな。Bがわたしにしたこと、してくれたことは? 無さそ?
 ほとんどの世話担当がAだったからねー。あっ、

「あの、車で。お水。喉、乾いてたので」

 あれは女性の手だった。それなら、Aではない。Bだ。
 この推測は正確性にそれなりの自信があった。だいぶ落ち着いてからの出来事だったから。なにか反応してもらいたかったけど、Bはそのまま隣の部屋へ行ってしまった。少なくとも不快感は与えていないはず。お礼言われてイラっとするのは、煽られたときだけ。わたしは煽ってないから大丈夫。
 すれちがうようにAが同じ扉から戻ってきた。携えたコンビニの袋から、ソファーに商品が並べられる。メロンパン、サンドウィッチ、蒸しパン、スポーツ飲料、水。
 ココアも10秒チャージも無いんかい。売ってるでしょ、普通、どこにでも。

「どれがいい?」

「別に、どれでも」

「アレルギーは?」

「退屈アレルギーです」

「じゃあ問題ないね」

 そう言いながらAはメロンパンの袋を開けると、目の前に差し出してきた。わたしは肩をすくめるように腕を持ち上げようとしながら提案した。

「これ、外していただければ自分で食べます」

「誘拐されてる自覚、ある?」

「おとなしくしていれば危害は加えられないと伺ったので」

「必要以上のことはしてない」

「監視された状態で逃げようとするほど無謀ではありません」

「言うのは自由だな」

 おっしゃるとおり。
 実際、脱出RTA実行中だし、何も言い返せない。
 おとなしくメロンパンを頬張った。朱寿が好きそうな、しっとりタイプだった。今度、何かやらかしたときに捧げようかな。ローテーブルに置かれた袋にプリントされているのは、学校近くにもあるコンビニ名だった。
 ところで。
 メロンパン、サンドウィッチ、蒸しパン、スポーツ飲料、水……食べ合わせ考えてないでしょ、これ。生活する上で必要最低限の3つにも、人間の三大欲求にも数えられてるのに。食事ナメ過ぎ。
 ふと、水に視線が留まった。ペットボトル上部の、曲線部分の半ばまで水面が下がっている。

「車の中でくれた水って、あれですか?」

「うん。飲む?」

「いえ、聞いただけです」

 軽くかぶりを振ると、前髪の長さに気づいた。絶妙にウザい。帰ったら切る。首を振って目にかからないようにしてから再びメロンパンを頬張った。
 しばらくそれを繰り返して、認識を改めた。おしゃべりかと思ったけれど、Aは別に進んで会話をしたがっているわけではないらしい。Bがまったく話したがらないから、相対的に会話が多いだけだ。求める情報がなければ、わたしが話題を振らなければ、Aは話そうとしていない。
 何も音がなくなって、ひとりではないのにひとりでいるときみたいな感覚だった。でも、ひとりでいるときのようには落ち着けない。さっさと食べ終わって会話を再開したかった。
 不意に、寝起きの地を這うような音が聞こえてきた。
 音源は、Bが消えていった隣室からだ…… ― ― ― ……モールス信号の「レ」あるいは「O」のように、3回だけ繰り返された。バイブレーションの音か?
 すると、急に掛けられ始めたどこかの放送局のラジオが邪魔してBの声をかき消す。おかげで、その内容まではわからない。かかってきた電話に出たのはわかったが、それ以上はわからない。
 いや、誘拐犯は電話をかける側でしょ。私用の電話? 犯罪実行中に?
 そうなると、アラームのほうがあり得るか。わたしも図書館でそういう設定するし。
 となると、今、このタイミングが重要なのかな。Aが23時くらいだって教えてくれたばかりだし、覚えておけば警察に情報提供できる。仮に23時くらいでなくても、この状況に置かれてからの経過時間ならわかるから十分でしょ。とりあえず、不要不急かもしれないけど、正確な情報は多いほうが助かる……いや、早計だ。じゃあ、ラジオとわずかに聞こえてくるBの話し声は何だって疑問が生じるよね……覚えておくだけ覚えておこう。きっと考える時間はあるから。そのうち良い感じの解釈思いつくよ。たぶん。
 不変の真理見つけた……メロンパンにはココアが合う。というか、ココアが飲みたい……確信を得て食事を終えた。わたしが食事を終えるまでAは無言でメロンパンを持ち続けていた。
 不意にスマホをいじっていたAと視線がかち合った。「ずいぶん落ち着いているね」呆れるような、戸惑いにも近い口調だった。

「可愛げが無いんですよ。母にも、あいしたわ、って捨てられるくらいには」

「愛したわ?」

「過去形でしょう?」

 自嘲するように言った。
 実際、自分を嘲った。突然犯罪に巻きこまれた15歳の女の子らしく怖がったり泣いたりできない。
 もう少しくらい相応の言動ができれば、何かが違ったかもしれないのにね。
 途端にAの表情がこわばった。
 わたしの言葉か、スマホのスクリーンに映る内容か、どちらが原因かまでは判然としない。が、まあ、タイミングからして前者だろう。スマホは先ほどから時折いじっていたから。
 いつのまにか隣室から顔を覗かせていたBとうなづき合う。
 努めて表情を緩めるとAは「おやすみの時間にしよう」演技がかった様子で、立ち上がり言った。
 後ろに回りこむと、手首の拘束を椅子に固定していた結束バンドをハサミで切断した。腕を引かれて立ったが、また座るように促された。足首の拘束を切断、また腕を引かれ、今度は右へと歩き出す。階段を上っていく。それほど急ではない17段を上りきり、下階を拝んでみた。思ったよりも床が遠い。わずかに腰が引けるのを自覚した。ジェットコースターみたいに問答無用ならたぶん大丈夫な高さだけれど、バンジージャンプみたいに自分から行かなければならない状況ならキツい気がする。
 そうも言ってられない事態なら、飛び降りるのは可能ではあるだろう。ただ、この建物から脱出する直前に足を怪我して動けなくなるわけにはいかない。痛いし、連れ戻されかねない。スピードだけではなく安全も多少は考えないと脱出は成功しない。それを考えての2階移動か? 計画的で何より。
 いや、だったらなんで最初から2階へ連れてこなかったんだろう。人を担ぎながら階段上るの危ないからか? それなら今みたいに足の拘束だけ外して歩かせればいいじゃん。このタイミングじゃなくちゃいけなかったのかな。
 Aの表情がこわばった直後に?
 だったら、わたしの言葉じゃなくてスマホの内容が怪しい。
 ジャストタイミングだったんだろうね。
 見せてくれないかな? 無理だよね、知ってる。
 私の部屋の本棚が高さ180㎝だから、たぶん、それの半分くらいの高さの柵。それに守られた狭い廊下を進んだ、最も奥の部屋。1階で座っていたとき左側に位置していた柱の近くの部屋だ。一瞬だけ体を傾けて、柵の隙間からこのフロアと階下を繋ぐ柱との距離感を把握しておこうとした。あまり見えなかったけれど、思いっきりジャンプすれば届く気がした。
 失敗して怪我したらおとなしく諦めよう。
 直後、部屋に引き入れられた。放課後、翼沙についていった先で入れてもらった理科準備室くらいの広さだった。目の前には閉じられたカーテン、机と椅子の背後にはベッドが配置されていた。
 Aは机から椅子を抜き取ると、腕を引いてその前にわたしを誘導した。座るように促されて従うつもりだった。いまさら抵抗する気はなかった。
 なのにこの男、わざわざ椅子で膝カックンしてきやがった。高級レストランでウェイター修行してから出直してこい。バーカ。
心の中で悪態をついていると、先ほど同様、手首の拘束と椅子が結束バンドで固定された。さらに、両足首も椅子の脚に結束バンドでそれぞれ固定される。面倒なことはせず、1本だけによる固定だ。
 拘束の具合を確認して満足したらしく、Aは出ていって扉を閉めた。
 扉のほんのわずかな隙間から光が入ってくるが、室内は暗闇に包まれていた。ジェットコースターに乗せられた恨みを晴らそうと朱寿を引きずりこんで泣かせたお化け屋敷よりも暗い。暗所恐怖症だったらイチコロだね。
 正直なところ、1階での逆パノプティコンより随分と心安らいだ。
 外の様子はあいかわらず見せてもらえないけど、ひとり経過時間だけちゃんとカウントを続けていれば問題ないだろう。暗いほうがほかの余計なものが見えないから集中を継続しやすいし、ずっと知らない人に見張られ続けているよりはこっちのほうが気持ちは軽くなる。
 ひとつ深呼吸をして思考を再開した。
 無理に抵抗したり宥めすかしたりするよりもおとなしくしているほうがやはり得策だった。最初の言葉どおり必要以上に危害を加えてこようとはしていない。代わりに、動機がわからないままだけどね。
 そう、AとBは、それぞれ担当は違った。わたしへの対応も異なる。
 顔を隠そうとしていないのも、居心地が悪い。まるで見られても問題ないと言外に伝えられている感覚。Bは、帽子とマスクで隠してくれているけれど、Aは違う。ここまで手のこんだことをしているのだから、ただ殺すのは目的ではないらしい。しかし、殺害も選択肢のひとつにできるだろう。
 仲間割れは誘発できるだろうか? Bの反応に因るとしか言えないな。ワンチャンわたしに味方してくれるなら、選択肢が広がる。が、保証は無い。物静かな人ほど怒ると怖いって聞いたことあるし、調子に乗らないほうが良いんだろうね。翼沙や一葵にも。
 まあ、仲間割れの成否に関わらず、道具は欲しい。どのように脱出するにしても、道具がなければ作戦すら立てられない。秘密組織に所属する諜報員では無いから、この身ひとつではさすがに難しい。
 まあ、現状、無理だ。
 次に向こうから接触があるまで他のことを考えているしかない。他のこと、あと何考えたら良いんだっけ? 何かあったかな。

 「あるらになら解けるよ」

 不意に。
 脳内で母の声が響いた。
 妄想にしては鮮明だ。
 いつだ? いつ言われたんだろう。
 母を見上げた先には傘が見えた。雨が降っていたんだ。匂い、身にまとわりつくようなペトリコール。視界の端の黄色は何? 黄色い帽子だ、小学1年生が被るやつ。入学から母の失踪まで、夏休みを除くと6カ月間くらい……この期間の……記憶範囲を絞ると、見つけられた。
 5月の終わり。梅雨入り前で、傘を持ち歩いてなかった。
 走り去っていく少年の背を眺めていると、母は腕にひとつ傘をひっかけたまま「帰ろう」と左手をつないでくれた。幼かったわたしは歩きながら母を見上げた。

「あのおにーさん、ママの友達?」

「そう、お友達。よくわかったねぇ」

「走ってく前、ママに小さくお辞儀してたもん」

「よく見てたのね」

「うん!」

「きっと何でもわかるようになれちゃうね。なんでも解けるようになる」

「……できないよ」

「あるらになら」

「……?」

「とっておきの謎、あるらになら解き明かせるようにしておくから。大きくなって、必要だと思ったら解いてね」

「解けるかなぁ」

「大丈夫、あるらになら解けるよ。おばあちゃんになったとき、あなたは後悔せずにいられる」

「ほんと? ママは? ママは解ける?」

「ママには出来ないな。パパにも解けない。だから、あるらへのお願い」

「わかった、わたしがんばるね!」

 その3か月間のうちにわたしの誕生日と東京への引っ越しがあって、さらに2か月後に母は失踪した。すぐ父が必死に探し始めて、そのうち『青写真と六腑と龍の声を乙姫に』が書店に並んだ。依然として行方を追っても母は見つからなくて。わたしは母からの「あいしたわ」を見つけて、やがて父の捜索熱も冷めていった。
 引っ越した先の新しい小学校でもうまく人間関係は築けないまま、狭い世界の中で生きて。中学受験を経て、今の学校に進学したら、朱寿や駿太朗と話すようになれた。ほんの少しは世界が広がって、翼沙と一葵とも関わるようになった。
 少しは母が想定していた娘に……やめた。感傷的なのは性に合わない。
 それよりも気になるのは、母が言ってくれた「あるらになら解ける」は、どのような意図だったんだろう?
 ひとり分の足音が聞こえてきて、思考を緩めた。
 擦れるような金属音の後、扉が開けられた。ラジオの音がわずかに音量を上げたように聞こえた。たぶん、遮蔽物がひとつなくなっただけ。1843秒――およそ30分。
 だぼだぼパーカーのBだ。数秒、その場に留まると再び扉を閉めようとする。

「あのっ」

 足音はひとり、Aの姿は無い。Bだけに何か言うなら今しかない。膝を進めようとしたが、その場に留められた。
 焦るな。
 お願いを聞いてもらえるかどうか、小さい要求からコツコツと。勉強と同じ。

「すみません、あの……おてあらい…………」

 言いづらそうに伝えるのが正解だと思って、そうした。
 しかし、Bは無慈悲にも扉を閉めて駆け足で立ち去ってしまった。……あれ。行っちゃった……嘘でしょ?
 待って、Bさーん?
 駆け引きだってバレた?
 あまりにも鋭すぎませんかねぇ。
 えー、取りつく島もない感じですか。NHKで朝にやってる放送で「取りつく暇もない」は誤謬だと歌っている映像を思い出しながら真っ黒な天井を仰いだ。
 状況に則しているし応えるにも困らない、ちょうどいい要求だと思ったんだけど。早計でしたか?……駆け足が戻ってきて、直後、扉が開けられた。Bだった。わたしの背に回ると何かを切る音……そうか、ハサミを取りに戻ったんだ。確かにこのままじゃトイレまで行けないよね。なーるほど。盲点だ、盲点。
 刃物があれば問題なく切れるだろうにハサミを取りに1階へ戻ったということは、Bは刃物を携帯していなかったわけだ。
 あと、Bにはわたしの要求を飲んでくれる意思があるのもわかった。
 両足の結束バンドが切断され、立ち上がろうとした。が、肩を抑えられたので上げた腰を下ろした。直後、視界が真っ暗になった。この感覚、目隠しだ。車内のときと同じやつ。
 これで歩けと? 右腕を引かれながら、Bに合わせて移動した。歩けってことか。
 慎重に9歩進んで左に曲がった。廊下だ、あの狭いやつ。そこから17歩、今度は右。

「階段、気をつけて」

 ああ、目隠しを外すって選択肢は無いのね。マジか。お? Bの声、はじめて聞いた。やっぱり女性だ。高くて繊細な、朱寿の声から騒がしさを取り除いたような声。
 重心を左側に乗せてゆっくり右足を前に滑らせる。段差を探る……と、見つけた。
 高さ、どれくらいだっけ。そこまで急じゃなかったはず……1段、右足がたどりつく。右足に体重を戻して左足で次の段差を探った。
 人間は階段をリズムで昇降する。
 どこかの推理小説で探偵役が言ってた。読んでいるときは、ふーん、としか思わなかったけれど今わかった。Bのサポートもあって、何も見えなくても順調に17段を降りきれた。
 どなたか知らないけれど、男性のラジオパーソナリティが楽しくおしゃべりしている雰囲気だ。正直、今、それどころじゃない。できれば世間話じゃなくて応援してほしい。本当に。複数人の馬鹿笑いをお供に90度くらい右回転、平面を進みだした。方向的に、ピタゴラスの気分かな。
 合わせてくれているのか、Bはすこし歩みを遅らせてくれた。15歩進み、一度立ち止まる。金属音がして、今度は左腕を引かれる。まっすぐ6歩進む。何か硬くてそれなりの重量のものが床に落ちる音が響いた。

「今のは」

 何の音ですか――尋ねきる前に強く腕を引かれて背を押された。目隠しが外される。眩しさに目を慣らすために瞬きをする。明順応が完了する前に右手首の結束バンドが切断された。
 振り向くのと同時に扉が閉められる。
 室内を見渡した。ホテルみたいな、お風呂とトイレと洗面台がセットになっている部屋だった。朝に髪の毛セットしてからかなり時間が経過した。洗髪の誘惑はあるが、時間がかかる。風邪ひきたくないし。そもそもRTAなんだから、時短しないと。
 首を回してみるとすごい音が鳴った。やば。試験期間でもこんな音しないのに。肩も回すと同じくらいの音が鳴る。
 屈伸しながら、脱出直前もストレッチは必要不可欠だと確信した。関節が変な感じするとか足つったとか、絶対そんなの言ってらんないもん。
 あ、そうだ。もうひとつくらいBに要求してみようかな。ダメだったらまあ仕方ないけど、やっぱり道具は欲しい。
 扉をノックして「あの……」と、悪い女だなぁと自覚するくらいの弱弱しい声を出した。
 朱寿がたまに兄の面倒な友人相手に試してると聞いたけど、女性相手に効果あるのか知らないんだよな。どうなんだろう、いけるかな。

「すみません。生理、きちゃってて……ポーチ取ってもらえませんか。学校の鞄に入っているんですけど……」

 数秒ほど逡巡したらしいが、やがて足音が離れていく。

「……」

 鍵かけた? かけずに行ったよね? そもそも、この扉が閂型だから内側からしか鍵が掛けられないんだ。
 そっと握りを回すと、やはり抵抗が無かった。押してみると、音を立てて何かに引っかかった。椅子を倒して外開きの扉を押さえているらしい。廊下の幅には若干足りないが、人が出られないようにするには十分だ。
 Bを甘く見過ぎた。さすがにそこまで考え無しではありませんよね、ごめんなさい。犯罪実行中である自覚はあるんだ。ということは、わたしに逃げられたら困るのはAもBも認識しているらしいね。
 わたしへの対応の差はそれぞれの性格的なものであって、犯罪計画への猜疑とかそういうものとは別なのかな。じゃあ、仲間割れ誘発は難しい。
 口は災いの元、余計なこと言って面倒なことになるくらいなら潔く諦めたほうがメリットは大きいだろう。こういうときこそナッシュ均衡。数学者が出てくるミステリドラマも役立つね。
 そっと扉を閉めた。
 数分ほどで、外側から扉が開けられた。椅子から許可が下りたその隙間からポーチが滑りこんできた。礼を言って受け取ると、再びBによって扉は閉められた。
 ポーチをさかさまにして空っぽにする。ごちゃごちゃとした中から腕時計を選ぶ――23時58分――いつもなら寝ているか、朱寿の夜更かし電話につき合っている時間だ。
 しかしながら、眠くないどころか、冴えている。メラトニンよりもアドレナリンのほうが暴れまわってる脳内だからね。
 Aもそれほど適当に時間を言ったわけではなかったらしい。誤認させる意図はなかったんだ。23時過ぎに、あの会話をしたんだ。内容を軽く反芻しながら認識を固めた。
 さて。前髪用のパウダー、携帯ビューラー、櫛、目薬、リップクリーム、ナプキン、メモ帳、ペン、5000円札、イヤホン、ロールオンオイル。
 あとは、ポーチに着けてる缶バッチ……中学の修学旅行で駿太朗がくれたやつだ。いらないなら買うなよと思ったけれど、まあ、修学旅行に浮かれるのはしかたない。わたしも朱寿とおそろいのよくわかんないストラップ買ったし。これ、翼沙にあげようかな。いや、おさがりじゃなくて、駿太朗がちゃんと翼沙にあげたいと思ったやつが良いよね。いやぁ、余計な老婆心。若いって良いね、青春だ。アオハルアオハル。
 あー、爽やかになりたい。眠くはないけどさっぱりしたくなって顔を洗った。
 ハンカチ……女子力ぅ……いや、持ち歩いているよ。通学鞄の中にあるよ、本当だよ。
 なるべく両手で水気を取って残りはワイシャツで拭いてみた。うわ、最悪。濡れたわ。寒っ。皮膚にシャツが張りつく感覚が気持ち悪い。最悪。そのうち乾いてくれるんだろうけどさ。
 もういいや、一応すっきりしたから。前髪と額に軽くパウダーしながら受け入れた。うん、さらさら。
 目も変な感じするから、目薬をさした。打率2割。わたしにしては上出来である。瞬きしながらメモ帳、ペン、5000円札をスカートのポケットに押しこんだ。
 あとは、何が必要だろう? あー、そっか。あまり出さないほうがいいか。使ったのはナプキンだけって設定になるんだから。
 右手首の、ワイシャツの袖ボタンを外した。ブレザーごと袖まくりをして腕時計を装着して、少し肘側に引いて固定した。そのベルト部分と腕の間に、携帯ビューラーを押しこんだ。これで勝手に落下することは無いだろう。ワイシャツの袖ボタンを留めなおした。軽く腕を振って、問題ないと安心する。Bにバレたらまずいからね。
 残りをすべてポーチ内に戻して、使ってもないけどトイレの水を流した。手も洗っておこうと思って洗面台に向き合った。視界の端にペーパータオルが入っていた。マジかよ、これ使えば良かった。最悪。
 ペーパータオルの吸収力に感動、足元のごみ箱に捨てた。ワイシャツの水分もとれるかと思って押しつけると、若干湿った。感覚はそれほど変わらないけれど、もう諦めはついている。
 ポーチ片手に扉をノックする。

「ありがとうございます、助かりました」

「扉に背を向けて」

「はい、向けてます」

 言われたとおりにすると、のんびりと金属音が聞こえる、扉は開けられた。
 目を閉じてゆっくり息を吐いた。頭部に圧迫感を感じる。どうせ何も見えないなら、他の感覚に注意を費やしたほうが良い。聴覚と触覚に託そう。
 右手が掴まれた。
 素手ではない、布越しの手だ。布手袋か。いつ装着したんだ? 車内ではつけてなかった。だから目隠しされたままでも女性の手だとわかった。建物に到着してから装着したってこと? わたしの通学鞄探ってるときもつけてなかったのに、どうして今?
 考えているうちに手首の拘束が完了してポーチを取られた。
 右腕を引かれて復路を進む。ラジオはおしゃべりではなく最近の人気曲を流している……聞き覚えのある歌詞と旋律……4月に朱寿とカラオケ行ったときに歌ってた。
 23歩、そして立ち止まる。Bは「階段、気をつけて」と言いながら左回転した。

「はい、わかりました。15段くらいですよね?」

「…………17」

 わざわざ数えてくれたのかな。お優しいことで。
 先導に従い17段上りきる。念のため、そのまま右足を前方へ滑らせる。何もつっかえなかった。段差が無いと確信して、左足も階段を上りきった。さらに28歩。

「椅子、座って」

 Bは後方へわたしの腕を引く。Aのような雑さは無い。ゆっくり、重力を水増しする感覚。座面がわかり、体重を乗せた。何も見えない状態で歩き回るのは気が張り詰める。そっと肩を下ろした。Bが背後に回るのは足音でわかる。やはり、やりかたはAと同じらしい。手首の拘束をと椅子の背、両足首と椅子の脚とをそれぞれジジジと固定した。
 立ち去る足音の合間に金属音が聞こえて、階下のわずかなラジオだけが残った。
 次、様子を見に来るとしたら最短で30分くらいだろう。これがBの担当なのか、交互にくるのか、どちらかわからない。犯人がふたりで一緒に行動しないなら、ひとりずつ対応して脱出するのが最もあり得る可能性になるだろう。
 Aとの近接戦は避けたい。たぶん無理だから。Bなら、わたしとほとんど体格が変わらないか、わたしのほうが少し背が高いか、どちらかだと思う。Aのように上へ引かれるよりも横に引かれる感覚のほうが強いから。正確な数字はわからなくても、脱出の際に近接戦をしなければならないなら、そのときの相手はBでなければ、わたしに勝ち目は無い。
 およそ30分。
 次に確認に来るのはAかもしれない。ならば、拘束の切断に掛けられるのは30分以上ある。けれど50分は掛けたくない。ストレッチはラジオ体操以上に念入りにやりたい。AのあとにくるのはB、あるいは、Bだけが繰り返し確認に来ると仮定して、Bのときにここから脱出するのが直近の目標だ。
 そのためにも、まずは拘束を外さねばならない。
 左手で右手首のブレザーとワイシャツを探る。ボタンの位置がわかり、袖口の切れ目を見つけた。指先を伸ばして腕時計のベルトに触れた。ベルトに指先をひっかけて手首に近づけた。携帯用ビューラーを指先でつつくと手首へ落ちてきた。幸い、袖口に引っかかってくれた。これを落としたら終わる。
 おとなしくしていないことが知られるかもしれないし、せっかく掴めるチャンスをふいにするかもしれない。幸運の女神だって掴んだくせに離されたら激オコ事案まちがいなし。
 危ない危ない。
 まあ、これでちゃんと切れる保証は無いんだよな。
 ダイヤモンドはダイヤモンドで切断や加工をする。ならばプラスチックもプラスチックで削れると考えても的外れとは言い切れない……はずだよね? モース硬度を信じるよ、信じるからなモース氏。覚悟しろ。
 携帯用ビューラーの動作確認をして、右手首の拘束に引っ掛けた。挟んだまま、左手の摘まみに力を籠める。なんだか、柔らかい感触だった。プラスチックじゃなかったっけ? ビューラーの作用点付近に右手人差し指を滑らせた。
 柔らかい。ああ、ゴムだ。取り換え可能の、黒いやつ。
 爪先をひっかけると簡単に外せた。もう一度拘束を挟んで力を籠めると、ダイヤモンドの研磨機の疑似体験っぽい感覚な気がした。一気に削れない代わりに、必ず傷はつけられると信じられた。左の親指と人差し指は、諦める。慣れない右手でやって途中で落とすわけにはいかない。南無阿弥陀仏なら唱えられるから、少なくとも骨は拾う。
 単調作業の代わりに、思考はフリーだ。母との思い出を記憶の中から探した。
 両親の交友関係は知らないけれど、父のは学生時代の友人のほかは会社の関係者や一緒に仕事をした作家くらいだろう。母のは……本当に知らない。手掛かりを探さないと。母が失踪する直前に絞って思い出そう。できるだけ細かいところまで。
 ほとんどは今日すでに思い出した内容ばかりだった。
 思い出せるものから思い出してるから当然か。
 じゃあ探しかたを変えよう、埒が明かない。
 今は、心の中で温め続けたいような柔らかい思い出はいらない。AかBか、あるいはふたりの動揺を誘えるような、わたしの母を知っていると確信を得るための記憶だ。
 たとえば、なんだ、そうだ。失踪理由がわかれば探しやすくなるかな。
 母のほかにも、失踪した小説家は国内外で存在する。彼らの場合は、専ら病気が原因だと考えられている。
 父に聞いたこと無いから知らないけれど、それでも、親の体調には子どもだって相応に敏感だ。わたしは気づかなかった。……わかってる。だからといって、ありえないと言い切れるわけではない。
 保留した上でほかの可能性も考えよう。
 ほかのは……人間関係かトラブルか……さっき思いついたとおり、気になるのは仕事関係の問題だ。若いAやBと関わる機会として過不足ないし、ありえないわけではない。
 他の人間関係は知らないし。トラブルについては、そうだな、金銭、宗教、客死、自殺、犯罪くらいかな。
 直後、金属音が聞こえてきた。携帯用ビューラーを握りしめた。目隠しの隙間から光が入ってくる。
 誰だ、どっちだ?

「あの」

「おー。起きてるんだ。水、いる?」

 Aの声だ。
 じゃあ、Bと交互にくる可能性が高いのかな。いや、決めつけは危ない。

「いえ、あの、女の人は……?」

「ご指名じゃなくて悪いね。次をお楽しみに」

 それだけ言い残して、金属音が聞こえた。足音が遠ざかる。
 もう行ってしまった。
 あと数言は無駄話すると思ったのに。誘拐犯も暇じゃあないらしい。耳を澄ませると、階下から話し声が聞こえる。ラジオと混ざっているから、何を話しているかまではわからないけど。
 電話かけるならラジオ消したほうが良いよね? 手がかりわざわざ増やす努力をなさっているのかい? ほかに理由があるのか?
 保留していた思考を深めつつ、ビューラーに頑張ってもらい続けた。
 思考のほうに成果は無いが、しばらく続けていたおかげで、ダイヤモンド理論は立証された
 切断できた結束バンドを指でつまんで、両手首の角度を変えてみた。若干引っかかりはしたが、ほぼ音をたてずに拘束を解除できた。
 両腕を横へ伸ばす。
 風が吹いていたらもはや『TITANIC』のローズだよ。いや、ローズの肩からこんな音しないね。両手を組んで頭上で伸ばして、深呼吸して下ろす。
 あとは足だ。
 体を前に倒して床に手が届くか試した。手のひら全体とまではいかないが、体重を支えるには問題なかった。座面から離れ、床に両膝をついた。左手で椅子の背を掴んで横に倒した。
 音を立てないよう、慎重に床に置く。
 細く長く息を吐いた――Aが確認に来てから1042秒、残り758秒――最後に、足首の拘束は椅子の脚から抜きとるようにして外した。
 ローファーを脱いで足音を抑える。窓辺へ向かい、カーテンをくぐって外を見た。
 すっかり夜だ。広い道路を挟んだ先は、森。道路を左右どちらに進めばいい変わらない。
 だったら森に飛びこんでみるか。すぐに死にはしないでしょ。迷子も何も、そもそもここが何処かすら知らないし。
 激ムズGeoGuessrに挑むよりも念入りストレッチのほうが重要だ。窓辺から離れて、脱いだブレザーを立てなおした椅子に掛けた。
 音をたてないように体を動かす。ジャンプ以外の運動やストレッチを済ませ、ローファーを履きなおした。ブレザーを抱え、扉の影まで擦り足で移動、そこに潜んだ。
 残り56秒。扉の向こうから足音が聞こえてきた。抱えたブレザーの両袖を結んで、その背部分を軽く叩いて空間を作った。
 直後。
 すぐ隣、擦れる金属音。ゆっくり扉を開けるのはBだ。
 未だ。ダメ。気を抜くな。
 自分に言い聞かせる。
 その目の前で、Bは室内へ足を踏み入れた。人質不在に動揺した彼女の頭部にブレザーをかぶせて袖を結ぶ。混乱するその身体を部屋のベッドの上めがけて押した。
 倒れこんだBを視界の端で確認しながら、椅子を引っ張って廊下へ。
 外開きの扉、なおかつ、狭い廊下。勢いよく扉を閉めて柵のほうが椅子の背になるように倒す。
 これでBを部屋に閉じこめられた。
 もうひとり、Aを2階へ引き寄せるため、数秒ほどその場に留ま――ソファーの前でこちらを見上げるAの身体に隠れて、3人目がいる――どうしよう、どうするべき? 同時にふたりを相手にするのは想定していなかった。なんでわからなかったんだ、わたしを2階に連れて行ったのは3人目と話すためだったんだ。話し声は聞こえてたのに気づけなかった。できない、このままじゃ失敗する。チャンスはもう回ってこない、おとなしくしてないと知られた。おとなしかったから安全が保障されてたのに……体温が消えたみたいに、どこかへ。視界が揺れる。呼吸の浅さを自覚した。すぐそばの扉が必死に叩かれる。Bによるものか自分の鼓動か、判別できない。
 そのとき。
 Aが階段を上ろうとしたとき、3人目の人影がその体にしがみついた。Aはそちらに気を取られる。
 Bは部屋から出てこれない。
 Aは妨害されて追ってこれない。
 覚悟を決めるのは、今だ。
 1mくらいの柵を越えて、柱に飛びついた。登り棒の要領で1階へ降り立つ。
 扉はふたつ。
 柱付近、すぐ右側のほうか。窓際、左前方のほうか。
 この部屋にAに担がれてきたとき、どちらだった?
 Bにお手洗い行かせてもらったとき、どちらだった?
 外へ出るためにはAのほうを選べば良い。座らされる直前――しばらくそのまま平行移動すると、立ち止まった先で30度くらい右回転して、さらに体が傾いた――その椅子があった場所は、部屋の中央。2階の扉を見上げられる位置。
 窓際、左前方のほうの扉を開けて全力で走った。廊下の先、玄関を見た。 扉を押し開けて、5段だけの階段を飛び降りた。
 女性の叫び声、Bだ。2階のあの窓から姿を見られている。
 霧掛かっている山奥へまっすぐ飛びこんだ。あとは進むしかない。少なくとも動けなくなるレベルの怪我だけはできない。
 沢へ降りなければ事故や遭難は防ぎやすい。ここから離れるほうが先決だ。





3

 森の中は暗かった。だんだん無闇に進むのが怖くなる。方角が知りたい。腕時計はあるけれど、太陽が無い。今度からポーチに方位磁針メンバー入りだな。今は、太陽が無い。だったら星を見るしかない。天体観測は専ら教科書派。わかる保証は無いけれど、知識ならある。
 しばらく移動して、少し開けた道へ出てみた。
 東京ってこんなに緑豊富だったっけ。アスファルトは親友なんだろうけどさ。あー、そうだ。関東は出てるって自分で考えたんだった。
 雑に推測したわけじゃあない。そんな的外れではないはずだけど、結局、ここ、どこなんだろうね。
 視覚の既視感は無い。ただ、身体にまとわりつく感覚は初対面では無い気がする。知ってる場所ならこの後の行き先も決めやすいんだけどな。
 座ったら立てなくなる気がして立ったまま夜空を見上げた。太陽も月も、無い。加えて周囲に人口の明かりが無いからか、夜空のキャンパスに見惚れてしまった。
 ひとつ深呼吸して、再び見上げた。定番としては北極星を見つけたい。北がわかれば方角がわかる。北極星を見つけるには、おおぐま座もとい北斗七星を見つければ良い。が、如何せん、星が多すぎてわかんない。天の川から離れているから少ないほうなのにね。
 古代バビロニアの遊牧民の気分になれば、いけるでしょ。
 いや、トレミー氏のほうが良いのか? どんな顔か知らないけど。髭生やした爺さんだよね……思い浮かんだのはガリレオでした。別にいっか、この人も天文学の爺さんだし。今はもう地動説って感じだよねー。それなー……はい、仲良くなった。完璧。ってことで。星空のもと、メモ帳を開いた。
 記憶の中のおおぐま座を描いてみた。さすが名前の由来。なかなかの出来だ。これを、夜空から見つける。天の川から遠いから、春の星座は大きいものが多い。きっと見つけられる。おおぐま座は、すぐそばのこぐま座、とくに1等星である北極星を中心として、円を描くように1年を過ごす。北の空にあるからいつでも見ることができるけれど、この時期は特に高く昇るから見えやすいはず。
 いわゆる北斗七星における「ひしゃくの水汲み」ファーストステップ期間だ。
 教科書の写真では、おおぐま座の近くには春の大三角があった。おとめ座のスピカ、うしかい座のアルクトゥルス、しし座のデネボラ。スピカとアルクトゥルスを繋いだ曲線の先に、七斗北星。つまり、おおぐま座の背中からしっぽの部分。
 メモ帳のおおぐま座を目に焼きつけて、再挑戦。スピカは青白い1等星、アルクトゥルスはオレンジ色の1等星、デネボラは白い2等星……それっぽいのがある。しし座の1等星レグルスっぽい白い星も。さすが最輝星に名を連ねるだけの実力。まあ、全天21のアルファ星においてヤツは最弱だけど。
 そうなると、すんなりスピカ、アルクトゥルスは見つかった。
 なんでアルクトゥルスを先に見つけられなかったんだ? ちゃんと全天明度四天王の一角なのに。
 白っぽい星を探し過ぎてたせいで認識が甘かったから見えてなかったのか。ちゃんと全体を見ないといけないんだよ。まったく、もー、ゲシュタルトゲシュタルト。
 何はともあれ、春の夜空の正三角形は見つけられた。ここから、スピカ、アルクトゥルスとともに春の大曲線を構成する、柄杓の柄。そう、北斗七星が見える。絵と星が重なる。間違いない、おおぐま座だ。北極星を見つけるための、おおぐま座。柄杓の先の、ふたつの星。その線分の、5倍の長さ……

「……」

 思わず、北極星へ手が伸びた。唐突に、理解した。
 脱出RTAじゃあいけないんだ、解決しないといけない。
 北極星を見つけるための、おおぐま座。
 本当の標的を見つけるための、人質。
 星を繋ぐこと。繋いだ先で道標を見つけること。それが事件の構図と同じだとしたら?
 そうだ、わたしがすべきなのは解決RTAだ。
 思い至って、やがて伸ばした腕が重力に負けた。それでも星は変わらず美しく煌めいている。
 犯人の目的……動機は、営利でも政治でも怨恨でもない。失踪したわたしの母を見つけることだとしたら? 見つけた先で何をするのか判然としない。けれど、これでわたしが標的にされた理由も、犯人たちの対応についても納得いく説明が用意できる。直接の連絡手段は不要だ。誰ひとりとして真の標的の居場所を知らない。それでも、わたしを使って圧力をかければ姿を表すと考えたんだ。お金も権力も求めていないからわたしで構わなかった、恨みだって無いからわたしの扱いは丁寧だった。誘拐するのは、娘のわたしでなければならなかった。何らかの理由で必要だったから、AとBは誘拐を決行したんだ。だから「あいしたわ」の話で動揺を見せた。作戦の根底を揺るがしかねない情報だったから。大がかりな犯罪計画を立てて実行したのに、目的が果たされない可能性を突きつけられたから。スマホの内容と同じか、それ以上に衝撃だったろう。
 気づいたことがあっても、どうすれば良い?
 何ができるか、どうすればできるか、果たしてできるのか。母を見つける手段があるなら……とっておきの謎、あるらになら解き明かせるようにしておくから。大きくなって、必要だと思ったら解いてね……あの帰り道。「あるらなら解ける」母は言った。こうなるとわかっていたの? なのに、姿を消したの? とっておきの謎なんかより欲しいものはたくさんあった。解けなくて良い、それよりも

「っくし……」

 寒い。花粉症ではなくて、純粋に寒い。ブレザーを置いてきた弊害だ。風は吹いていないのに冷気が体に染みる。あの場ではブレザーで視界を奪ったほうが成功率は上がると思った、しかたない。ベストかセーターがあったらまだ良かったのに。でも、この季節でまだ良かったのか。冬だったらマジ無理。死んじゃう、凍死RTAと化す。室内へ行きたい、居座れるところだ。
 まずはここが何処なのか知りたい。関東から出ていたとしても中部地方か東北地方かで話は大きく変わる。距離が違いすぎる。どちらにしろ土地勘はないけど。方角がわかったところで航海しているわけではないから進むべき方向すら定まらない。移動の方法と時間から考えるに本州だろうし山中なのはわかるけれどさ、日本の75%が山なんだな、一葵くんよ。
 あー、歩くしかないのか。動いたほうが体温まるか。歩こう歩こう。人里におりればどうにかなるさ。いいよ、やってやる。ウラルの道じゃなくったって歩いてやる。
 勤勉すぎるアドレナリンに感心しながらアスファルトの道を進む。走るほどの気力も体力も無いけど、思考はできる。わたしになら解ける。それなら、そのための情報が存在するはずであり、あの日よりも後に仕掛けられただろうと予想がつけられる。あの帰り道から失踪までの間に、上梓の準備が進められた作品……『青写真と六腑と龍の声を乙姫に』 ……条件を満たす。何らかの鍵を握っていると信じられる。
 イレギュラーには何らかの意味がある、推理小説の鉄則だ。 題名あるいは内容、どちらかが、きっと鍵を握っている。藤うらら名義最後の著作。たったひとつ、他の作品とは大きく根底が異なる。他の著作とは作風そのものから違う。題名もそれに合わせて雰囲気を変えたのかな。従来の作風じゃあ、調査段階の労力が大きすぎる。忘れられた未解決事件を見つけて妥当な推理を構築しなければならないから。名前で本が売れるようになって、やりかたを変えたかったのかもしれない。子育てに時間がかかるのって幼児期じゃあないのかとは思うけれど、体験してないから知らんよね。わたしの就学前までの期間に『カサブランカの最終定理』『夜空と秘宝と最善の悪手』を執筆かつ上梓したってことは、5年間で2作品、それぞれの本の厚さもあまり変わらない。
 単純計算で2、3年間に1作品は調査を含めて執筆を完了するくらいの執筆速度だと推測できる。『青写真』の主な執筆期間の半分くらいはわたしが小学1年生のころだったはず。おそらくそれぞれの執筆期間が重なっているとこもあるんだろうけど。まあ、本人じゃないから正確なとこは知らん。
 内容は、母が書くにしては違和感あるけれど、それを除けばただの推理小説だ。特段、狂った内容ではない。具体的に舞台が明記されてないし。題名について考えようか。そもそも、何を意味しているんだろう。
 まずは、そうだな、両親にはわたしの名前という前科がある。あのレベルの名付けロジックは容易に廃れる感覚ではない。魂というか、細胞に刻みこまれてる。DNAの根幹に。生まれ変わらないかぎり変わらんでしょ。どちらか一方が勝手に決めたというよりは、ふたりで考えてふたりで納得、それから出生届って感じだね。うん、センスが噛み合ってる。運命的で何より。
 はぐまあるら
 あおじゃしんとろっぷとたつのこえをおとひめに
 文字数が一致するのは「青写真」だけど、それが何? 英語か。青写真って英語でいうと何? 普通にblue print? 意味的にはplanningかい? あの人「あるらにしかとけない」とも言い切ったけどさ、7歳にその英語力は求めすぎてません? 言葉選び的に、ほかの誰にも解けてはいけないのにさ。娘に期待しすぎです。まあ、英語にしてみるのは良案か。ハグマアルラだから、母音はAとUだけ。
 AOJASHIN TO ROPPU TO TATUNOKOE WO OTOHIME NI
 ここから、母音がAまたはUだけをピックアップすると、 A JA PU TA TU

「あじゃぷたつ?」

 何それ。あ、そうだ。父にも母にも解けちゃいけないのか。父はリヒト、母はウララ……母も、わたしと名前の母音が共通しているし、同じ文字数だ。何が違う?
 はぐまあるら   AUA AUA
 はぐまうらら   AUA UAA      
 なんかDNAの羅列見てるみたい。中学のときの生物のテスト思い出すなぁ。アナフィラキシーショック、違う、なんだ、ゲシュタルト崩壊だ。はいはい、閑話休題。順番にも注意しないといけないのはわかった。じゃあ「あじゃぷたつ」のうち、AUAの順になっているところをピックアップすると……

「じゃぷた? いや、JPT?」

 日本語能力試験? いやぁ、日本生まれ日本育ちの生粋の純ジャパニーズなんだよね。あれって日本語を母語としない方を対象とした試験だよ。え、もしかして母、娘を外国人だと思ってる? そんなわけないよね、自分がおなか痛めて生んだ娘だよ? うん、落ち着こう。小さいころの写真なら馬鹿みたいにたくさんアルバムに収められてるし、その線は無いと明言できる。
 JのPのT   JのPT   JPのT……?

「A B C D E F……O P Q R S T U……ん?」

 立てた小指を戻した。 Tはアルファベット順で20番目だ。
 JPと言われて思いつくのは、日本の都道府県コード。20は、長野県。『青写真と六腑と龍の声を乙姫に』の舞台はどこだったか忘れた。けれど、龍宮城をすぐに連想できたし、そこに長野県も加われば、もはやあの塔へ行くしかないと信じられる。龍宮城は長野県にある。これが偶然だったら笑えるね。
 とりあえず、龍宮城へ行こう。身近に竜宮城はないけれど、龍宮城なら心当たりがある。龍の声だって、ちゃんと聞こえる場所だ。竜宮城には乙姫がいる。そこで何かすべきことがあるに違いない。
 乙姫様からの返礼といえば玉手箱。止められた時間を動かすための、開けてはならない魅惑の箱。それが手に入れば、幾星霜すら簡単に埋められる。




4

 小学1年生のあの日も、歩き続けてた。目的もなく。ただ、離れたかった。
 授業は簡単だったし、何より教室にいたくなかった。公園に留まっていたら大人に注意されて、お巡りさんや両親を呼ばれる大事になったことがある。ごめんなさいとは謝ったけれど、問題の本質は学校に行きたくないこと、それが改善されないかぎり素直に登校するつもりは毛頭なかった。
 目的地もなく歩いていると雨が降って来た。目についた公園の大型遊具の下で雨宿りをした。知らない場所かと思って歩いていたけれど、見たことあるような景色だった。理由は周囲を眺めているうちにわかった。母の執筆塔の近くだったから。ひとりで行くことは無かったから道や景色を意識して覚えようとしていなかったけれど、サブリミナル効果は相応だったらしい。
 遊具の下できょろきょろしていると、公園に新参者が現れた。濡れているのも気にせずリュックサックをベンチに叩きつける。それなりに大きな音がして、彼の動向を観察してしまう。 中高生くらいの彼は座面につっぷせたまま拳で殴りつけた。何かに怒っているのはよくわかった。しばらくそのまま動かなくなった反面、こちらはなんだか落ち着かなくなった。
 不意に、彼は座面に座りなおして空を仰いだ。何が見えるのか、同じように空を見上げた。どんよりとした雨雲だ。再び彼を観察しようと視線を下げると、目が合ってしまった。立ち去らなければ。咄嗟の判断で近くに放置していた黄色の帽子を被りランドセルを背負い、彼とは遠い出口を目指そうと遊具の下をくぐった。

「何してんの?」

 が、その先で待ち受けられていた。質問は変声期前の少年の声だった。自分が悪いことをしている自覚はあった。でも、それほど素直でもない。「……休んでた」とだけ言った。

「なんで?」

「疲れた」

「傘は?」

「……無い」

 彼はリュックを遊具の下に放り、雨の中どこか行った。数分すると缶のココアを両手に戻って来た。こちらへひとつ放り投げられたが、驚いて避けてしまった。少年を見ると「ああ、ごめん」彼はプルトップを開けたココアをわたしに持たせる。さきほど投げたココアを自分で拾って、遊具の柱に背を預けた。わたしはその隣にランドセルを置いてしゃがみ「お兄さんは?」と尋ねた。

「休みたかった」

「なんで?」

「疲れたから」

「怒ってたよ?」

「怒って、疲れたから」

「大丈夫?」

「ある程度は。それで、君は?」

「なあに?」

「学校サボって、なんでここにいるのかってこと。嫌なことでも?」

「変なんだ?」

 強くかぶりを振った。それだけは否定したかった。

「じゃあ気にしなくていいだろ」

「わたしも言っちゃった」

「何を?」

「……」

「何を言った?」

 責める口調ではなかった。純粋に、何があったのか知ろうとしているのはわかった。だから、正直に白状した。

「わたしの名前、変だって……わたしも、言った」

 途端に体が熱くなって、ズボンが濡れていった。
 繰り返し言われ続けて、やめてほしかっただけ。嫌だというだけでは何も変わらなかった。変えられなかった。だから、一緒に笑った。そうしたら、興味を失くしたらしく、言われる回数は減っていった。それがどうしようもなく悔しくて悲しくて、わからなかった。
 手から缶が抜き取られて脇に置かれた。袖口でどれだけ涙を拭っても止まってくれない。落ち着くまで、彼は何も言わなかった。やがて「友達は?」静かに尋ねられる。わたしは「いない」即答した。

「ひとりくらいいるだろ」

「……」

「これから作りな」

「イジワルする子だったら?」

「しない子と友達になればいい」

「いないよ。みんなイジワル」

「クラスの子みんなと話した?」

「……」

「じゃあもう少し頑張れるよ。名前変だって言ってきたの、3人くらいだろ?」

「19人」

「……。その子たち以外とは話せないの?」

「嫌だ。学校行きたくない。言ってない子たちだって、何考えてるかわかるわけじゃあないもん」

「わからなくても、良い名前だって言ってくれる子と仲良くなれたらいいね」

「いるの?」

「どっかになら」

「どこ?」

「僕と同じくらいの年齢になったら、ひとりは見つかるよ。たくさんの人と知り合うようになるから」

「絶対?」首を傾げた。

「いや、君の名前知らないし」

 答えの代わりに、そばに置いていたココアを差し出してくれた。機嫌はすっかりなおって、缶を傾ける。彼が隣で呷るココアの缶は、凹んでいた。



 その数分後。母が傘を持って公園の入り口へ現れた。
 今思うと、もう1本の傘はこの少年に渡すために持っていたらしい。受け取ってはくれなかったけどね。
 母にはなくてわたしが持っているものを使ったらいいと思って長野県を導いたけれど、それって本当に必要な思考だったのかな。
 偶然に近いヘリウムって感じ。ああ、やめよう。疲れた脳で考えても泥沼に陥るだけだ。
 希ガスとは異なり、わたしの思考は不安定だと自覚した。




5

 アスファルトが右へ曲がり、そちらへ。しばらく歩くと、暗闇に人工照明。ああ愛しのコンビニ。ようやくみつけた。5000円札しかないから無駄遣いはできない。気合とともに店内へ入った。
 目に入った白い布手袋、10秒チャージ3つ、板チョコひとつ、ココア、カフェオレを1本ずつ。抱えるのはダルいから袋も買った。公共交通機関じゃないとお金が足りなくなりそう。タクシーは使えない。そもそも見つかる気がしない。会計とともに、店員さんに最寄り駅とその方角を聞いた。

「スワ駅、あっちのほうにあります」

「スワって……諏訪湖の、近くですか? え、ここ、何県ですか?」

 眉を顰めながら「長野」だと答えてくれた。いや、不機嫌というよりも、何言ってんだこいつって感じか。カンガルーだね。店内の時計も腕時計も同じ時間――3時25分――を示している。
 日の出まで1時間くらい。
 おつりをポケットに突っこんで、コンビニを出る。星空を見上げ、周囲を見渡した。
 ここからなら、おおよその地理関係がわかる。方角もわかる。体も覚えてる。少し駆け足気味でアスファルトを蹴った。 10分くらいで、見覚えのある木が見つかった。カリンの木だ。日の光のもとで見れば淡いピンク色の花だろうけど、今は白っぽいことだけがわかる。この木の、すぐ近く。花の、マンホールのような円盤。覚えているとおりに回転させて模様を合わせる。カチリと軽い金属音が聞こえた。記憶のとおりに指先をひっかけてスライドさせる。地下へ梯子が続いている。暗い穴に体を落とす。ふたを閉めると頭上で勝手に円盤が回転する音がした。防犯は作動しているらしい。緊張したまま暗闇の中を進むと、一番下、足が平面についた。ここからは壁を伝って進むだけ。小さいころ、何度も通った。暗いのは少し怖いけど、進める。つきあたりにある段差は、階段のはじまり。当時は高いと思っていたけれど、今ではそうでもない。順当に上った。二重螺旋階段を採用した塔では、階段を上りきった踊り場まで立ち入り自由。その先は、母の執筆部屋。立ち入ることが許されない聖域は、内側から鍵の掛かる扉で閉ざされ続けていた。
 この踊り場の中央で手を叩くと……反響は、神秘を帯びる……龍の声が聞こえる。
 東は日光。西は京都相国寺。北は、焼失したけど、青森竜泉寺。南は信州妙見寺。日本四方鳴竜と類似する設計をとったこの塔も、鳴き竜が体験できる。この音は、真下にある母の執筆部屋にも聞こえていただろう。この音が聞こえたとき、階段を上って鍵を開けると顔を見せてくれた。
 今は、もう誰もいない。内側から鍵が掛けられているはずがない。信じきれない確信。コンビニで買った布手袋を装着して扉の握りを引いてみる。ひんやりとした拒絶のくせにあっけなく開いた。
 暗闇に視界が慣れてきてはいたが、この先は真っ暗で何も見えない。手を壁に触れさせて重心を外した右足だけを滑らせる。が、段差がない。その代わり、傾いている。斜め。スロープらしい。ああ、階段を上るよりもこのスロープを下るほうがずっと怖かった。
 下りきると、急に視界が白くなった。いや、違う。電気がついたんだ。眩しくて、何度か瞬きした。電気は問題なく通っているらしい。センサーが反応して自動で照明がついたんだ。
 ここが、母の執筆を支えた部屋……なんだろう、感慨深いってやつかな。ローマやギリシャの古代建築を目の当りにしたら同じ感覚になる自信がある。実際、円柱がそびえたつようなドーム型の空間からはそういった建築を連想できる。部屋の中央に重厚そうな机と椅子だけ。他には、家具がひとつも無い。本棚すらなく、情報整理のためのノートや資料書籍が床に平積みにされている。本当に、執筆のためだけに建てられた塔だ。
 スロープ終わりにローファーを脱ぎ捨てて机へと歩み寄った。真上を見上げる。ここが天井から最遠だ。期待とともに手袋を外して、手を叩いた。何度か叩いたが、龍の声は聞こえなかった。この上の空間では、音は反響しないらしい。

「『青写真と六腑と龍の声を乙姫に』……青写真、六腑、龍の声」

 3つを乙姫に捧げれば、何かが起こるはず。起こらなかったら知らんよ。手袋をつけなおしながら知っていることを整理したい。まず、龍の声。ここではないが、所定の位置で手を叩けばいつでも聞ける。おそらく、この塔そのものを指している。次に予想がつくのは、青写真。英語では意味を一意にできないから日本語として扱うべきだし、歳時記では冬の季語だけど今は関係ないと思う。物質じゃあないから捧げられるものじゃないし、それ以上に考えようが無いから。おそらく、ただの青い写真のことでもなくて、設計図のほうを指しているのだろう。作中では、事故で目覚めない恋人と描いた叶わぬ未来の計画を指していた。けれど、わたしは母の描いていた将来は知らないし、聞かされた覚えもない。「あるらになら解ける」ならば、物質として存在する物、つまり設計図が該当していて欲しい。該当している保証は無いけどね。そうなると、やはり最大の問題は六腑。内臓はあるけど、捧げられない。死ぬじゃん。意味違いとかなのかな。6つの腑、みたいな。いや、腑って何? もとの意味では漢方でいうところの大腸、小腸、胆、胃、三焦、膀胱のことだけど。腑がつく言葉……臓腑、心腑、腑分け……臓器に関するものが多い。そもそもこの文字だけでハラワタって意味だし。熟語でなければ……腑に落ちる、腑甲斐ない、腑抜け……考えかたって意味もあるんだ。じゃあ、6つの考えかたが必要ってこと? おー、腑に落ちる気がしなくもない。この路線で考えてみるか。
 さて。何を考えましょうか?……の前に。コンビニの袋から全部取りだした。板チョコと10秒チャージをふたつ完食した。口に残った微妙な甘さをココアの甘ったるさで胃に流しこんで準備完了。
 最初に、その場で壁際を360度見渡した。
 入り口には、扉は無いが弧にそって赤枠だけがある。そこをアナログ時計の12だとしたら、11に兎の浮彫モチーフ、9に牛の絵、8には青い扉、6に白い犬の絵、5には黒い扉、3に羊の絵、2には白い扉がある。3つの扉には、それぞれ同じ色の枠がある。靴下越しに床の冷たさを感じつつ、本やノートの間を縫うように壁際へ移動し、それぞれを観察しながら1周した。幸い、壁際には物が置かれておらず、歩きやすかった。足を止めたのは赤い枠の隣、兎のモチーフを前にした。兎の真上には満月もある。そこから壁に沿って反時計回りに13歩進むと、青い扉。龍と虎が浅く彫られてて、今にも戦いだしそう。他方、刻まれているのはそれだけでは無い。斑点のように、いくつか、いや、10以上の凹凸がある。点字にしては範囲が広いしサイズが統一されていない……どこかで見たことあるような、つい最近見かけたような配置……なんだ、これ。保留。扉の隣にある牛の絵は、墨汁で描かれていた。わたしの目線より若干下にある。誰が描いたんだろう。サイン無いからわからん。
 再び壁に沿って反時計回りに、今度は11歩進んで黒い扉の前にたどり着いた。イノシシと……何だろう。さっきの青い扉の龍が青龍だとすると、同じ四神のうち、玄武だろうか。亀と蛇のキメラみたいなやつ。イノシシは左下へ突進するように、玄武は悠然と右上を眺めているようなデザイン。加えて、この扉にも凹凸が存在する。範囲やサイズはさっきと同じくらいだが、配置は90度くらい時計回りに回転している。右側に上半身を傾ければ、青い扉の凹凸と重ならなくもない気が……やばい、骨折れかねん音したんだけど。左側に傾けると同じ音がした。おー、左右対称。また、白い犬の絵は足元付近に、壁に埋めこまれている。あいにく、動物とは縁遠い人生だ。身近な子でなければ、有名なわんこ? ハチ公、クドリャフカ、西郷隆盛の隣の、ほら、あの子……白い犬だった?……うーん、わからんな。壁に沿って白い扉のもとへ。こちらも11歩だった。扉には、虎と猿がいらっしゃる。んあ? さっきも虎いたよね。真後ろには青い扉の青龍と虎がいる。青龍、玄武、ときたら白虎かな。じゃあ、虎、イノシシ、猿……子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥……干支か。生物ヲタクかな。
 よく見ると、ほかの扉との共通点として、やはり白虎と申の浅彫りのなかに凹凸がある。青い扉と点対称、黒い扉のとは時計回りに90度くらい回転した配置だった。ここから赤枠まで、9歩。
 資料は学術書や書評などさまざまなジャンルが不規則に重ねられていた。ともに点在するノートの背に張られたシールは、黒、白、青、赤の4色。目測だと、白と黒は同じくらいの冊数、青と赤は合わせれば同じくらいの冊数になる。あとで布手袋を外したら内容を確認しよう。改めて壁際から離れて中心にある濃茶の木製の机へ向かう。唯一ちゃんと整理されている場所だ。この机の上に立って見渡した。全体を見たかった。今、扉は3つある。高さ2.0m幅0.8mといったところか。引きこみ戸らしく、それぞれ枠から3㎝ほど陥没していた。ノック音から察するにどれも木製だった。取っ手も指をひっかけられる箇所も無いため開閉方法はわからない。あるいは、ただの装飾であって出入りの用途ではないのか? わかるのは、赤い扉がどこかに存在すること。朱雀と、あとは巳かな。いや、黒い扉の真正面では無いから辰あるいは午か。虎と寅がいるし、龍と辰も有りか。あれ? おかしくないか? 牛から時計回りに扉の彫刻、壁のモチーフや絵を確認する……丑、卯、申、未、亥、戌、寅……干支を知ってるのに順番を知らない? 重複してないのに気持ち悪い。 気持ち悪いから保留。
 じゃあ、次に距離かな、知りたいのは。
 身長から計算すると、わたしの歩幅が72㎝くらい。13歩、11歩、11歩、9歩。合計44歩で1周できたから……45×72=90×36……円周は3168㎝くらい。つまり、机を中心として直径10mくらいの、円柱状の空間だ。それだけ広ければ、相応に仕掛けを施せるだろうね。自分の城には強いこだわりがある。推理小説家はそういう生き物だ。同種の生命体ならSNSで見たことある。あれは家じゃなかった。浪漫の具現だった。労力の割きかたは狂っていてもそういったものは存在するだろう。ひとまず、扉は開けるために在る。3つとも開けてみよう。開けかたがわかれば閉めかたもわかる。入り口を閉められれば赤い扉を見つけられる。ってことで、まずは青い扉。かかってこい。いや、つっかかるのは、わたし。かかってこいの対義語……さっきはよくわかっていなかったけど、円が大きいのと浅彫りのせいでわかりにくいだけで、若干湾曲している。平面ではないし引きこみ戸だから、左右どちらかにスライドできそう。浅彫りに指をひっかけて左右に揺すった。右へスライドしたのでそのまま力をこめる。トイレだ。すぐに閉めた。気を取り直して。次は黒い扉。左右どちらにも動きそうにない。開けかたが一致しないのかな。引いてダメなら押してみろって言うよね。両手を扉について体を傾けた。少し揺れた気がしてさらに体重を掛けた。が、動かない。押してダメならどうしろってんだい? それとも押す場所がいけないのか? テキトーに扉を押していると

「わっ?!」

 扉の右側に体重を掛けた途端、バランスを崩した。突然現れた窪みに体が吸いこまれた。湾曲した壁に手をつく。すぐ右の蛇と目が合ってビビったら背後に頭をぶつけた。この蛇許すまじ。いや、君は玄武の一部か? いずれにしろ、少なくとも先に回転すると言ってくれ。
 体を起こすと、窪み部分が回転扉のための空間だとわかった。湾曲をノックしてみると軽い音がしたが、押しても動かない。一歩引いて、回転扉の隠れていたほうを確認する。黒い鳥と光の輪のモチーフが現れた。真後ろをふり返ってみると、卯と月のモチーフ。古来より月にはウサギがいると言われている。金烏玉兎。それを考慮すると、これは烏、そうヤタガラス。光の輪があらわすのは太陽。じゃあ、隣の犬は? 視線を向けると、いつの間にか茶色の狐が現れていた。ジャンプで犬を飛び越えている。ゆっくり扉を左右交互に押してみると、キツネが現れる瞬間がわかる。扉と連動しているのだ。狐の周辺をよく観察すると細い切れ目があった。せっかくだから烏と卯を向きあわせた。ヤタガラスの3本の脚に小包が括りつけられていた。それを手に卯へ向かった。床の資料たちのせいで突っ切れず、半円を描くように移動した。何か蹴ったが、今は兎と月のモチーフが優先だ。正面のモチーフと扉が連動して動くならこちらも同様であるかもしれない。扉を開けたら烏と太陽のモチーフが現れたなら、その正面は、扉が開いているから卯と月のモチーフがすでに現れているのではないか。酉の右隣には戌がいる。干支の順番に則れば、卯の隣には辰がいてほしい。周辺に2匹目の龍もとい辰を探した。すると、右足が何かを踏んでわずかに凹んだ。直後、赤い扉が空間を閉じた。足元をよく見てみると、壁に星型の花が……竜胆が咲いていた……手の庇で影を作ると、わずかに紫色だとわかった。照明が強すぎて、扉くらい鮮やかでないと色がわかりにくいのか。
 再び同じ場所を踏んでみると赤い扉は同じ色の枠の奥へ開いた。閉じこめられてはたまったものじゃない。誘拐事件だけで結構。
 幸い、赤い扉は素直に動いて消えると、もとのスロープ終わりが現れた。ローファーも脱いだときのまま。安心して、同じ操作で赤い扉を出現させた。朱雀と、午だ。ユニコーンだっけ、違うな、ペガサス。羽の生えた馬のように見える構図の浅彫りだ。加えて、黒と青と白と同様に、凹凸がある。黒い扉のやつをさかさまにした配置ではなかろうか。あ。待って、白い扉まだ開けてない。さっき蹴ったのは推理小説評論書籍の山だった。ごめんなさいと思いながらなおした。その頂上にヤタガラスからもらった小包を乗せた。一旦、手ぶらになりたかった。白い扉は、引いても押しても開かない。足元を観察したり細かい歩幅で歩いてみたりしても何も起こらない。引いても押してもだめだったらどうするか。壊してみる? いや、それは器物損壊だなぁ。これも保留か。ともあれ、これで扉は4つある。黒、青、白、赤。ノートに張られたシールと同じく4つだ。何も意味はない? ただそう見えているだけ? いやぁ、推理作家がわざわざ建てた執筆のための塔だ。扉と絵の不一致にも意味がありそう。四神は勢ぞろい。干支は、竜胆が辰だとすると、丑寅卯辰午未申酉戌亥がいらっしゃる。じゃあ、狐は? 黒い扉開けたら戌の上ジャンプしたけど。茶色の狐が白い犬飛び越えるってのはThe quick brown fox jumps over lazy white dogだけだよ? なんで急にパングラム登場するのさ。急に言われても、いろは歌くらいしか思いつかないって。まあ、いろは歌くらい覚えてるか。メモ帳の新しいページを開いて、書いてみた。不安なのは、「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」はどっちがどっちだったか。どうだったっけ? あー、スマホ。Aに取られたままじゃん。現代人なのに。あのときは探すタイミングも見つける時間もなかったから仕方ないんだけどさ。もはやコンピュータになりたい。来たれ、ユビキタス社会。わたしがコンピュータになる……こういう世界観のSFあるよね、たぶん。推理小説とも相性良いからいくつか読んだことあるけど、徹底した論理であくまでも技術で想像を実現した世界が描かれていた。文字によって、その世界が描かれて……机の上には何もない。ノートも書籍も、パソコンすらも。あの人は、母は、どうやって小説書いてたんだろう。まさか原稿用紙に直筆? そんな文豪みたいなことするか? 書籍はそれなりの厚さ、つまり相応の文字数が費やされている。現代人、そこまでして腱鞘炎とともに生きるか? ノートパソコンとかタブレット端末とか、何らかのデバイスは使ってたんじゃあないか? 机を使わないなら用意する必要は無い。ノートも書籍も乗っていないならほかの用途があったはず。たとえば、執筆のため。机は重厚そうなデザインと質感。椅子を中心とした円形状。引き出しはないが、それぞれのパーツは厚く丈夫そうだ。また、机の端にコンセントプラグが接続できるようになっている。この机で電子機器の使用は想定されていた。ならば、その機器はどこに在る? なぜ今はここには無いの?

「……」

 疲れていると、どうしても良案と思えないものばかり浮かんでくる。気に入ったものでは無いからすぐ思考の渦に沈んでいく。これも保留。あ、そうだ。いろは歌といえばモールス信号。英語の符合と途中まで一致するんでねえかい? ほら、「O」と「レ」が一致するから、そうだよね。日本語は50文字だから富豪が、ちがう、符号。足りない文字については符号の数を増やして対応してる。27文字目の「こ」以降はなんか、んえー、って。うまい具合にね。モールス信号だったら、「ゐ」「ゑ」はどちらも長い。じゃあ、後ろのほうだ。日本語ってなんで50文字もあるんだろう。互換性、低過ぎ。

あいうえおかきくけこさし すせそたちつてとなにぬ
ねのはひふへほまみむめも や〇ゆ〇よらりるれろわを(ん)

 瞬間。
「互換性?」

イロハニホヘトチリヌルヲ ワカヨタレソツネナラム
ウヰノオクヤマケフコヱテ アサキユメミシエヒモセス

 脳内で50音が変な句切れかたをした。
 いろは歌も、カナで浮かんだ。
 いや、変じゃない。50音、いろは歌、同じ句切れかた。英語でもドイツ語でも、ほかのあらゆる言語でもアルファベットは30文字を超えない。50文字もあるのは日本語だけ。
 それに、色がついているのは……

「あい、し、た、わ」

 いろは歌だったら?

「イロ、ヲ、タ、セ……色を足せ」

 色。色って?
 扉とノートは4色。黒白赤青。四神もそれに一致する。動物は……青い寅、モノクロの丑、竜胆を見つけたなら卯は白い、赤い午、白い申、白い未、黒い亥、白い戌、茶色のfox……

「ふふっ、茶色のフォックス」

 自分の考えたことにセルフで笑いがこみ上げてきた。やばい、だいぶ疲れてるんだろうね、わたし。あー、さっきの補給も消耗したしアドレナリンも仕事飽きてるわ、これ。両手を首筋に当てながら題名を声に出した。発声に伴って首が震える。うん、引き際は心得ている。もう少し荒らしたら戦利品盗んでお暇だね。腕時計をつけてるのを思い出して確認する――4時32分だった。この季節、もうすぐ日の出だろう。うん、日の出目指して盗賊ごっこだ。寝ないようにするためにも壁際をぐるぐる回ろうね。目が回ったり徒歩で乗り物酔いしたりしちゃったらやめようね。
 よし。
 その場にいる生き物の色を六腑とするなら、竜胆も含めれば、10色。待って、わたしも生き物。2008年生まれの子年じゃん? ねずみ色って灰色だ。じゃあ、11色? あー、待って。被ってるんだよ色が。黒、茶、赤、青、紫、灰、白。無意識にこの順番にしちゃったらもう抵抗器のカラーコード鹿。鹿鹿。だめだ、ちょっと待って。真面目に考えよう。鹿じゃないんだよ、いないんだよ鹿は。
 まあ、カラーコードだから何だい? って話だよね。他にカラフルなものと言えば、乙姫に引っ張られて浦島子伝説のカラフルな亀が思い浮かぶ。島子の亀、ちゃんと扉と同じ4色はあるけれど黄色も入ってるんだよな。この塔に黄色のものある? わたしの思考回路はさっきからイエローカード出されてるけどさ。そういうことではないんだよな、残念ながら。

「ん……?」

 とてつもなく嫌な予感がする。カラーコードにおける紫は、青紫。竜胆も、青紫。つまり、パープルじゃなくて、ヴァイオレットで一致している。黒BLACK 茶BROWN 赤RED 青BLUE 紫VIOLET 灰GRAY 白WHITEから、色を足すと……AABBBCDEEEEGHIIIKLLLNOORRRTTVWWY……いろは歌もジャンプしてる狐も、この30文字のアルファベットでパングラムづくりを強要してる。もはやハラスメント。パングラム作りによるハラスメントだから、パンハラ。
 動揺して資料に躓いた。直後、足元に攻撃を受けた。白い扉の、申の足元から引き出しが飛び出してきたらしい。パンハラのほうが重要度高くて驚けなかった。ごめんな、申。
 引き出しにはノートが3冊入っていた。シールは張られていないが、他のノートと種類は同じだった。なんだっけ、このサイズ。学校で使っているのを横でふたつ並べたくらい。なんか、おっきめ。
 とりあえず、ありがとな申。撫でようと腕を伸ばしたら前方にバランスを崩して頭部を壁にのめりこませてしまった。そしたら引き出しが戻った。申の頭を何度かめりこませたが、何も起こらない。引き出しは、資料に躓いたから出てきて、めりこませたから戻ったらしい。
 パンハラ回避できないかとノートを検めた。3冊とも、ぱっと見でそういうもんじゃないと理解した。しばらく思考とともに体が硬直する。
 どれくらい経過したのか、急に照明が消えた。驚いて立ち上がると、数秒のラグがあって、再び照明が点いた。ノートをすべて腕に抱える。あとでちゃんと時間をかけなければならない。
 ほかに何をすればいい? もともと何しに来たんだっけか。たまて箱だ。ちょうど、他の資料の山の頂上に乗せた黒い箱が視界に入った。ヤタガラスからもらったやつ。これが、たまて箱? 想定していたのは、なんか、宝箱みたいなやつ。他方、これも直方体だから箱ではあるんだな。というか、匣? 中に手のひらサイズの何かが入っているサイズ感だ。

「は? 乙姫いなくね?」

 初歩的すぎて忘れてた。たまて箱は乙姫からもらうんだよ。これは烏からもらった匣なんだな。
 んで、龍はいるのに乙姫がいない。どうなってんだい?

「亀。亀亀亀亀亀亀」

 浦島太郎を誘った亀の正体が乙姫だったはず。

「オトヒメ……?」

 嫌な予感。浮かんできた予感に従って、トイレを確認したくなった。青い扉をスライドさせて開けた。中を念入りに確認する。良かった、トイレにいらっしゃったら謎解き投げ出して警察呼んでたわ。危ない危ない。
 よーし、続きを……いや――4時43分――もう潮時だ。わたしの脳が。色を足したパングラムは時間を掛けたらきっとできるだろうから移動しながら作ってみるとして。申がくれた3冊のノート。たまて箱では無いんだろうけど、この匣。そこら辺にあったものとともにコンビニ袋へ放りこんだ。
 赤い扉の脇に咲く竜胆の目の前の床を踏むと、赤が枠に溶けた。ローファーにつま先をひっかけて、スロープを上る。足の限界が近いのを自覚する。少なくとも、最寄り駅までは動いてもらわないと困る。こけそうになりながら階段を下って、龍宮城を出た。ちょうど日の出まもなく――4時48分――腕時計の短針を日光へ向けた。このとき、2と3の中間の方角が南。ふだんの出入り口は、龍宮城の東側らしかった。建物を回りこんで日の出を視界に入れた。ちょうど諏訪湖、富士山、日の出が同じ方角に見える。が、あまりにも眩しかった。龍宮城に隣接する小屋の影に隠れた。膝が小さく笑い始めた。立っているのもギリギリだと自覚する。駅へ向かう途中、一度だけ塔を見上げた。記憶の中よりも心なしか龍宮城は小さかった。最後にここへ来たときは7歳くらいだった。同学年のうち背は高いほうだったが、それでも120なかった。今は160くらいだから、40㎝くらい目線は高いんだ。

「そりゃそっか」

 歩きながら自覚した。わたし疲れるとよくしゃべるっぽいね。寝るよりは良いか。いや、良くないよ。寝たいよ。電車乗ったら寝るよ。3000と硬貨じゃらじゃら。どこまで行けるんだろう。都内だったら余裕だったのに。
 しばらくぼんやり歩いていると、四角の建物が気になった。交番だ。派出所のほうが正しいのかな。どっちだろう。出入り口から建物の中を伺ってみると、濃紺の制服を着た若い男性と目があう。お巡りさんらしき彼はわたしにきづくと大股で歩み寄ってきた。らしきというか、そのものか。

「どうした?」

「……あの」

「こんな時間に、何してるの」

 何って、何だろ。確かに、わたし何してるんだ? 威圧ではないのに、うまく考えられない。

「おぅい、イシカワ。何してるんだ?」

「タノウチさん、えーっと」

 奥からもうひとり顔を見せた。こちらは年配気味だった。

「……ここ、交番ですか?」

 ダメだ、何言えば良いかわからない。正直、もう疲れて脳が回ってくれない。龍宮城でエネルギーとか糖分とか使い切った。あ、まって、カフェオレそのまま置いてきちゃった。取りに帰ったほうが

「とりあえず、中おいで。寒いだろう? お茶、飲むか?」

 年配のお巡りさんはそう言った。迷ったが、記憶の中で駅まではまだ距離がある。休憩の誘惑には抗えなかった。間もなく温かいお茶が渡された。すこし苦い。でも、ほっとする感覚。膝から滑り落ちそうになったコンビニの袋を引き上げてあくびをかみ殺した。

「奥なら寝るスペースくらいあるけど、どうする?」

 この提案にはかぶりを振って固辞。まだ寝たくなかった。座った時点でもう負けてるかもしれないけど。足の裏がじんわり熱を主張して「もう歩かないよね?」と圧を発してる。ごめん、まだ歩く。
 胃の底のほうも温かくなって、細く長いため息が零れる。お茶の威力すごい。休ませてもらっていると、交番の前に車が止まった。お茶を机に置いてコンビニの袋を抱きしめた。
 年嵩のお巡りさんが出迎えに行った。彼が呼んだのかな。少し身を傾けてみると、青い車からふたり、スーツの男性が下りてきたのが見えた。年嵩のお巡りさんと同年代の人はチャコールグレー。30代くらいの、若いお巡りさんより年上に見える人は車より明るいネイビー。ふたりとも交番内へ入ってくると、警察手帳を掲げる。ネイビーが清水菊資巡査部長、グレーが長田直樹警部。
 お巡りさんたちと刑事さんたちが、少し離れたところで話し合っている……とくに気を張っているわけではなかったが「家出」という単語が聞こえた。
 何があったのか。言っても信じてもらえないかもしれない。それなら言わないほうが良い。もう疲れた。弁明できる気力は無いし、家に帰れるなら、もうそれで良いかな。もしかしたら車で送ってくれるかも。いや、電車が良いな。送ってもらうのは駅までで構わない。とにかく帰りたい。
 足音が近づいてきた。足元が見える。チャコールグレーのスーツ、長田さんか。何を言われるんだろう。視線を上げる気にすらなれなかった。すると、彼は片膝をついてわたしの左腕にそっと触れて持ち上げた。誰かの、何かに気がついた声が聞こえてきた。それにつられて視線を上げた。左手首、ワイシャツで見えにくくなっているが、結束バンドが輪になって巻きついたままだった。

「足首のも、同じだろう?」

 そうだった。右手首のは切断できたけれど他のはそのままだ。他のは、切っている時間が無かったから。余裕がなかったから。脱出RTAだったから、逃げられたらそれで良かった。「何か、あったんだね?」あまりにも優しい声だった。少し離れたところから年嵩のお巡りさんの「怖かったよなぁ、よく頑張った」と労わる言葉、とっさにうつむいて顔を隠した。
「まずは病院へ行こう。ご両親にも連絡を入れるから。な?」
首肯しかできなかった。何か言えば、声が裏返ったり震えたりするのを隠せる気がしなかった。電話番号を教えて欲しいと言われて、ポケットのメモ帳に書き、それを見せた。市外局番から推定したらしく「東京か」と長田さんはつぶやいた。何かを懸念するようで、期待するような声色だった。
 交番を出ると、車移動だ。長田さんは「嫌なら歩いて行ける。それほど遠くはない、すぐそこだ」と行ってくれた。指さしたほうに白い建物が見える。乗り気ではなかったけれど、歩くのはもう、ね。おとなしく後部座席へ乗りこんだ。
 病院に到着して数分すると、事前に必要な説明をしてくれたらしかった。検査着に着替えて手袋も腕時計も外してコンビニ袋ごと預けて、いくつか検査を受けた。その間、ずっと清水さんがそばで付き添ってくれた。

「あの、清水さん。長田さんはどちらへ?」

「東京の警察と連絡を取ってくれているんだ。ほら、君、東京在住だろう?」

「事件だったんですか?」

「え?」

 公務員だから9時始業ってわけにはいかないだろうに。仮に、わたしの誘拐が警視庁でも誘拐事件として扱われていたらこれほど時間がかかるのか。情報共有とはいえ、発生日時、被害者の様子、犯人の追跡はどうなるか……それほど量が多いとは思えない。何を話し合っているのか。それとも、

「父と、連絡がつきませんか?」

 途端に、清水さんの頬がこわばった。どうやら、そうらしい。AとBは一切父に連絡していなかったということ? いや、父には連絡したはず。父が警察に連絡せず交渉役を務めたんだ。あの父にそんなことができるのかな。まあ、務めたのか。それはさておき、スマホがあれば父に電話したかった。聞くのは怖いけれど、確かめたいことはたくさんある。LINEなら文字で聞けるし。
 次の検査のため、看護師が呼びに来た。直後、廊下に足音が響く。長田さんが「清水」と呼びかける声を聞いた。父と連絡がついたという内容だった。電話なら話せるだろうとオサダさんが言う。
 正直、まだ心の準備ができていない。でも善意を断るにはどうしようか。寝るか。検査中だと迷惑になりかねないから、制服に着替えてから寝よう。清水さんが目を話した一瞬の隙をついて、点滴を受けながら寝たふりをした。途中、長田さんが戻ってきて清水さんと何か話し合っていた。内容までは聞き取れなかったが、声量や音程から察するに大人の話だ。
 点滴が完了したタイミングで目覚めたふりをした。実際、少しは寝落ちしてたかも。制服は洗ってくれたらしく、きれいになっていた。着替えのときに腕時計を確認すると――8時24分――だった。
 ほっつき歩いていると、医者と話している長田さんと清水さんを見つけた。

「軽い脱水症状だったみたいだ、ほかに異常はなかったらしい」長田さんが教えてくれた。

 わたし、確か龍宮城で10秒チャージふたつとココア280㎖飲んだよね? それでも脱水症状なのか? あまり釈然としなかったが、軽くお辞儀しておいた。

「お父さんとは連絡着いたから、署で落ち合うことになった。10時前には到着すると思うから、向こうで待とうな」

「はい、ありがとうございます」

 車で移動するときも後部座席で仮眠をとらせてもらった。警察署に到着すると4階の会議室に連れていかれた。休憩のおかげで、茶色いfoxで笑いださない程度に回復した。
 長田さんも清水さんも、どこかへいってしまい室内ではひとりだった。
 コンビニの袋から、まず匣をとりだした。500ページ前後の文庫本を横向きに3等分したくらいの大きさ。時間ではないだろうけれど、きっと大切なものが入っているだろう。
 続いて、3冊のノートを取りだした。龍宮城内で軽く目を通してすぐに、3つの車が関わる事故についてのスクラップと人間関係のメモが母の筆跡で残されているとわかった。藤うらら名義の6作品には、交通事故に関する事件は扱われていない。この事件を基にした原稿が存在するとしても、未発表だ。『青写真』の代わりに書こうとしていたのだろうか。ならばなぜ発表を断念したのだろうか。単純に、推理が組み立てられなかったから? それとも……納得できる理由を探していると……会議室の扉が開けられた。顔を見せたのは、清水さんだった。背で扉を押し開ける。
 腕時計は――8時53分――別に隠さなくても良いのに3冊とも閉じてしまった。

「あの、父は」

 まだ1時間あるとわかっていた。それでも聞いてしまった。清水さんは両手に抱えた飲み物を机に並べながら自分の腕時計を確認しながら「まだ、もうちょいかかるかな。ごめんね」謝罪させてしまい、こちらこそすみません、の意をこめて軽く頭を下げた。

「コーヒー、ココア、リンゴジュース、水。そこの自販機で買ってきたんだけど、どれにする?」

「……どれでも大丈夫です」

「好きじゃなかった?」

「あ……いえ。あの、でしたら、刑事さんはコーヒー飲めますか?」

「え、ああ、うん。平気だけど」

「でしたら、ココアいただいても良いですか? ホットですよね?」

「うん、温かい。寒いなら暖房つけようか?」

「あ、いえ、そこまでではないです」

 ココアで暖をとった。正直、交番のときより寒くもないしのども乾いていない。たぶん、病院で脱水症状うんぬんといわれたから飲み物を買ってくれたのかな。ただ、4種類も買う必要あるか?
 清水さんはコーヒーを指先で手繰り寄せて少し離れた椅子に座った。「少し話を聞きたいんだけど、いいかな?」手帳を開きながら聞かれたので、問題ないと答えた。

「まずは、そうだな……君の名前は?」

「はぐまあるらです。はがきのは、クラブのく、濁点、マッチのま、朝日のあ、留守居のる、ラジオのら。この6文字です」

「丁寧にありがとう。そうだね、何があったのか知りたいんだ。どこからなら話せるかな?」

 清水さんは気遣う口調だ。4種類も飲み物を買ってくれたのも同様の感覚だろうか。
 幸い、時間もある程度は把握している。昨日の18時過ぎに図書館を出たところから覚えているかぎり話した。いくつか質疑応答を経て、刑事さんは手帳のメモを眺めつづける。しばらく彼を眺めていたが、目が合うのも気まずいから匣をいじくりまわしていた。そのうち側面に親指がフィットするくらいのへこみを見つけた指先に力をこめる。ボタンのようなものだとわかって、申の頭よりも多く連打した。
 1分間くらい押し続けたとき、匣は3回震えた。マナーモードにしたスマホが通知を受信したときのような感覚だった。違う、と言われたのだろうか。再び何度も押した。56回押した直後、57回目を押そうとしたとき、同じように震えた。56回のプッシュで正誤が判定されるらしい。
 単純な道具で必要な情報を伝える手段、短符、長符で文字を表すモールス信号が適任だろう。
 短符=・ 長符=―   ・×3=― 文字間隔=・ 単語間隔=・×7
 日本語の信号でも英語の信号でも同じことが言えるけど、56音ってどうなんだ? 英語はよく使う信号を短く設定しているから、スペルとモールスの長さが比例するとは限らない。日本語は、よくわからん。いずれにしろ、テキトーにやって当たるわけが無い。何か、指標となるような文字列が

「パンハラかぁ」

 不可避なのかな。ここまできたら。わかったよ、諦めますよ。ハラスメントに立ち向かってやろうじゃあないか。ふと清水さんと目が合った。パンハラに反応したのかな。知ってるのか、パングラム・ハラスメント。いまどきの刑事さんは違うね。……この人になら、手伝ってもらうのも……あ、違う。手伝ってもらうにしても、優先すべきは別にある。

「11年前って、何歳でしたか?」

「え? 11、何年だろう、2013年か、えっと……大学生だったかな」

「どれくらい覚えてますか? 例えば、何でしょう、スノーデン事件とかの年だと思うんですけど」

「絶妙な角度ついてくるね。オリンピック招致とか、同じ年かな。おもてなしとか倍返しとかも」

 なんとなく覚えているらしい彼に「でしたら、こちらは?」龍宮城で入手したノートを、それぞれ適当なページを開いて差し出した。
 1冊目は、2013年6月19日、山梨県で乗用車を運転していた碓氷泰之さんが衝突により死亡した事故に関する情報。 衝突の前に病死していたことが判明した事故。同年11月の、長野県で、暴走車が歩道橋に乗り上げて7人が亡くなる事故。

「……碓氷菜月」

 清水さんも、同じ名前を見つけて言葉を失った。いや、何が言いたいのかつかめていないだけか。半年以内に、別の交通事故で、同じ名字の被害者がいると指摘されただけにも見えるだろうし。
 碓氷泰之さんの病死。碓氷菜月さんの事故死。
 母が何を思って同じノートにスクラップしたか、わからない。それでも、このふたつの事故が関連していると考えたのだろう、と予想はつく。 加えて、2冊目の途中からは、また別の交通事故についてまとめられていた。2014年2月27日。山梨県と長野県の県境で、夫妻の死亡と同乗していた12歳の長男が重傷を負った交通事故に関するスクラップだった。
 最後の、3冊目。
 龍宮城で検めたとき、このノートがパンハラ回避にはならないとすぐにわかったのは、最初に開いたページに――

2013年6月19日  碓氷泰之ウスイヤスユキ (35)
2013年11月8日  碓氷菜月ウスイナツキ  (33)
2014年2月27日 香坂啓介コウサカケイスケ (33)
        香坂萌日コウサカモエカ  (36)
           昊弥ヒロミくん   (12) →3monthes
                (妹セナちゃん 9)

――これが書かれていたから……香坂……この名字が視界に留まり、動けなくなった。
 2013年。わたしは当時5歳くらい。単純計算で、母はひとつの作品を2年から3年かけて執筆する。発生から間もない事案を扱った作品は他に無いけれど、この資料の内容は『青写真』より母らしさがある。取得できる情報量が違うだけで作風に伴う執筆方法は同じだろうし、書きやすかったのではないだろうか。何より風化していないほうが情報は豊富だから。加えて、10年前に12歳だったなら、今年は22歳前後。Aの特徴に符合すると納得できる。 また、最後の事故から8か月後には母が姿をくらませた。無関係とは思えない。

「これ、母の資料です。藤うららって、推理小説書く人で、よく実際の事件を題材にする人でした」

 神妙な顔つきで、ノートを確認していく清水さんに言ってみた。聞いてるかなんて知らん。
 ノートの角を長めながら考える。気になるのは3点。 碓氷泰之さんの死亡から香坂夫妻の交通事故死まで1年以内の出来事であること。ヒロミくんとセナちゃんを除いて、大人たちの年齢がみんな近いこと。ひとつ、ヒロミくんの妹のことは書かれているのに、弟のことは書かれてないこと。
 母はなぜこれらの資料を数冊にまとめていたのか不明だし、どのような作品を書こうとしていたか全容はわからない。けれど、父に確認したいことがまた増えた。もうそろそろ心構えを進めないと。腕時計は――9時13分――を指していた。

「ごめんね、あっちで電話してる。何かあったら声かけて」

 清水さんは部屋の隅で誰かに電話をかけた。すぐに相手と話し始める。内容を聞かないようにする代わりに、匣のパンハラの覚悟を決めた。メモ帳とペンを用意して……黒BLACK 茶BROWN 赤RED 青BLUE 紫VIOLET 灰GRAY 白WHITE……ここから抽出した32文字AABBBCDEEEEGHIIIKLLLNOORRRTTVWWYを列挙。 うん、相応の文章が作れるはず。母音が極端に少ないわけではなさそうだし、WHがあれば疑問詞も作りやすい。いけるいける。よし、いこう。
 メモ帳を見開き9ページを真っ黒に染め上げたころ、清水さんが電話を終えて戻って来た。ハラスメントの内容を説明すると「うわぁ」とだけ言われた。
 時間をかければかけるほど安定して8語くらいずつに分けられるようになったが、一向に文章が作れない。「俺の英語力はRECKで使い切ったよ」 身近な大人はスマホで検索したくせにそう宣う始末だ。自分で頑張るしかないと悟った。
 ちょうど残りの5文字を並べると、BITOWが残る。 清水さんが飲み干したコーヒーも、微糖。
 なんとなく眺めていると、ノートを覗きこまれた。
「疲れてる? 疲れてるよね?」「いえ、疲れてないです。大丈夫です」「お父さん到着したらちゃんと起こすから」の問答になり、まだ眠りたくないと固辞していたら

「いや、大丈夫なら、ほら、ここ。TO取ろうか。ほら、こっち、NICEとくっつけたらNOTICEにもなるよ。気づいて?」

「B、I、W……」

 清水さんのおかげでわかった。なんでBITOWが気になったのか。

「スマホ、調べてもらえますか。空港、BWIって」

 アルファベットはよく略称に用いられる。都市名や施設名、公機関名にも。空港名も同様に、スリーレターが与えられる。BIWはオーストラリアのどこか。BWIはアメリカの

「ボルティモア空港だってさ。知ってるの?」

「いえ。えっと、エドガー・アラン・ポーが小説家として活動していた地です」

「エドガワランポ?」

「〝父〟のほうです、〝父〟」

「え? 江戸川乱歩が? 君、江戸川乱歩の娘?」

「……わたしが乱歩の娘だったら、清水さんや長田さんよりもずっと年上ですよ。確かに乱歩は日本の推理小説隆興の祖ですけどね」

 だめだ、この刑事さん疲れすぎてる。パングラムづくりにつき合わせたわたしに責任あるよね、ごめんなさい。腕時計は9時47分を指していた。

「世界初の推理小説とされるモグルガイ、違います、『モルグ街の殺人』を書いた〝推理小説の父〟って言われているんですよ、エドガー・アラン・ポー。そういう意味で言いました」

「あー……ごめん、頭使ってなかった」

「いえ。推理小説、よく読むので。たまたま知ってただけです」

 AとBが、父が捜しても見つからないわけだ。確信はないけれど、可能性として海外に逃げられたら警察ですら見つけるのが難しい。母の居場所はわからないままでも、見つからない理由は考えればわかりそうな気がする。

「じゃあ、その英語の文章、ボルティモアと関係してるってこと?」

「いえ、してないと思います」

 ここまでやって文章作れないなら、どこかで誤ったのか。英語は名詞と動詞があれば文章成立する。作れなかっただけで、誰かには何か作れるのかもしれない。だったら、どうするか。

「ブルートフォースですね」

 要するに、頑張るってことですよ。
 清水さんはものわかりが良い。首をかしげて1分も経たないうちに、何をしようとしているのか理解してくださった。引かれているのは分かる。わたしだってやりたくてやってるんじゃあないんだ。わからないから仕方なくこうしているだけなんだ。お分かりいただきたい。頭抱えないでください。

「何か手掛かりは? やみくもにやったって、もっと疲れるだけだよ」

「疲れていませんって」

「わかったから。箱、何か書いてないの? 反射のせいで黒いと文字が見えにくかったりするよ」

 いまさら見つかるわけ……ナマエハ?……清水さんは得意げに「ほら」と言う。何も言い返せなかった。名前? 羽熊有流羅ですけど、何か? 日本語のモールスなら56音だよ。やったね。
 符号を打つと――――――――――空耳? 思わず清水さんを見上げる。

「もしかして、今、老化を指摘されてる?」宙を見つめて苦笑する。

「すみません」あ。この場合は謝ったら認めるのと同義だ、ごめんなさい。「あの、でも、何も起こりませんね。この匣、開くと思ったんですけど」

「容器ではなくて装置なのかもね」

 じゃあ、この信号の受信先はどこだろう。何のために……考えるのは今はやめておこう。疲れた脳には無理。ただ、中に入ってるものを確認する必要がないなら――擦れる金属音――扉が開けられる音。 息が止まって、肩が跳ねた。清水さんが素早く立ち上がり、背に庇ってくれた。会議室の扉は、わたしのすぐ背後にある。ゆっくり振り向いた。 扉を開けたのは長田さんだった。「ノックしてください」清水さんの注意に対して軽く謝ろうとした長田さんを押しのけるように姿を表したのは

「パパ」

「あるら……!」

 思わず立ち上がる。直後、ずっと座ってたからか疲れていたからか、膝が勝手に折れた。その拍子にバランスを崩す。が、抱きしめられた。視界の端では、長田刑事が清水さんの襟首を掴んで引っ張っていった。「再会の邪魔するな」理不尽な理由だとは思ったけれど、その気づかいは有り難かった。
 そのうち長田さんたちの視線から生暖かさの波動を感じて、父を引き離して隣の椅子に座らせた。

「少々お話よろしいですか。東京でも聞かれたかもしれませんが」

「ええ、もちろんです」

 仕事モード? 父がしっかりしてる。順当に、受け答えていく。異変を知ったのは金曜日の帰宅途中、豊永先生から電話がかかってきたときらしい。「塾から電話ですか」長田さんが質問を重ねた。

「はい。塾の安全管理の一環ですね。この子の担任の先生から電話がありました。まだ娘が到着していない旨を確認しました。今まで一度もかかってきたことはありませんでしたから」

 思わず「知ってるの?」と父に問う。

「ん? あるらちゃんの塾、金曜日の18時半からでしょう? 遅刻したら授業開始10分以内に電話掛かってくるって。塾長先生、教えてくれたの覚えてない?」

 10分以内なんだ……父をナメ過ぎてました、ごめんなさい。「良い子だからね。覚える必要なかったかな?」反応に困って、「それ何時?」質問を重ねた。スマホかしてと頼めば何の疑問も持たず父は「うん、いいよー」とスマホを渡してくれた。画面上部の表示によると充電は半分を切っていた。再び父は長田さんの質問に答えていく。脅迫電話にて、車内で拘束された娘の動画を見せられたこと、他者への連絡を制限されたこと。淀み無い返答を聞きながら電話アプリを開いて履歴を確認した。


 あー、吉村さんは知ってる。父の友人だ。小さいころ、何度か会ったことある。
 わたしが病院で検査を受けていた時間と重なるから、この6時18分というのは、長田さんが「父と連絡がついた」と清水さんに伝えに来た直前だろう。これだけ電話かけたなら、LINEも相当な量だね。ひときわ目立つ「非通知」は、件の脅迫電話かな。ああ、本当に誘拐事件は存在していたんだ。ほかの名字だけのは作家さんとのやり取り………………いや、いい。今は聞かない。返答によって認識を変えざるを得なくなる。今は知りたくない。連絡について聞きたいことは一旦これでいいや。
 あとは、ほかの情報。ネット検索するかぎり、母が残した3件に関してほとんどノートのとおりの情報が見つかる。最中、昨晩未明に発生した個人山荘火事に関して放火の疑いがあると題がついた記事を見かけた。諏訪湖から徒歩で数時間の範囲。脱出RTAに成功したのが24時50分過ぎ、コンビニが3時25分くらい。場所と時期。あの建物とともに証拠も燃えたよね。本当、計画的でいらっしゃる。

「羽熊麗さん、でしたな」

 唐突に、長田さんの口から母の名が出た。父は訝しむように「え、ええ。はい」と肯定する。

「覚えてはいらっしゃいませんか。当時、しばらくわたしが失踪事件の専従を務めていたのですが」

「そ、れは……失礼いたしました。あのときは大変お世話ました」

「無理もありません、もう10年近くなりますからね。その後は」

「今もあの家で、彼女の帰りを待ち続けていますよ」

「そうでしたか……」長田さんはため息交じりにそう言う。 わたしも同じ感覚だった。自分で聞くまでもなかった。警察相手に隠すならわたしが聞いても無駄でしかない。わたしには知られたくないってこと? じゃあ、わたしが席を外せばすべて白状するの?

「パパって、干支、何?」

「未だよ」

「じゃあ、1979年生まれ?」

「うん、そうだよー」

「ママは1980年生まれ?」

「うん、申年だね」

 じゃあもういいや。邪魔者はさっさと消えて差し上げよう。休憩はもういらない。コンビニの袋を抱える。扉へ向かいながら、歩くのも問題ないとわかった。背後から「どこいくの」と尋ねられる。

「お花摘み」

「場所わかる?」

 答えられなかった。どこでも関係ないのに。もうどうだって良いのに。
 結局、長田さんに目配せされた清水さんがついてくることになった。これもきっと誘拐被害者への気遣いのひとつ。感謝すべきなんだろうけど、邪魔にしか思えない。案内に従わず、勝手に廊下を進む。後ろから「そっちじゃないよ?」と聞こえた。それを無視して階段へ向かう。

「待って、どこ行くの?」

「ついてくるなら静かにしてください、知らせるなら置いていきます」

「何を」

「父は何か隠してます。これじゃ、間に合わなくなってしまいます」

「待って、何の話か」

「わからないならそれで、信じてもらえなくて構いません」言い残して背を向けた。ポケットのお金に触れながら、どうすれば東京まで……腕を掴まれて「来たんですか?」清水さんを見上げた。

「ひとりにはできない」

 嗜めるような表情だった。主張には納得できる。が、今の気分的に謝罪するのは癪に障るから礼を告げた。直後、階上から「清水」と聞こえた。腕を離され、下ろす。長田さんは視界に私を捉えたまま構わず階段を下る。目を逸らしたら負け。上直筋、下直筋、内側直筋、外側直筋、上斜筋、下斜筋すべて微動だにさせない。瞬きすらしないよう眼輪筋に命じた。「君は何がしたい?」と問われる。

「自分の目的を果たしたいだけです」

「今でなければならないのか? お父さんは心配するだろう」

 今でなければならない。少なくとも父には頼れない。取りだしたスマホを長田さんに見せつける。

「BYOD端末なので、私用も仕事も、電話は一緒です。これが直近の履歴です」

「何がおかしい?」

「なんで青葉さんへ掛ける必要があると思いますか? 娘が誘拐されて犯人から連絡を制限されたのに、仕事関連の電話を優先する親がいると思いますか? カレンダーどおりの勤務で、わたしの塾から電話が来たときには金曜日の帰宅途中だったのに?」

 正確なタイムリミットはわからない。無駄な時間を過ごしているわけにはいかない。急がないと

「他のことは話してるのに、この電話のことだけは話していません。隠してます、絶対。この事件に関して言えないことがある。悪意に晒された不運だけじゃあない、ただの被害者なんかじゃない!」

 声が反響する。大声出していい場所じゃなかった。それは反省する。ただ、内容を訂正する気はなかった。わたしが抱える、言語化はまだできていない、この漠然とした嫌な想像が事実に近いなら?
 長田さんはついに同じ段まで降りてきた。ゆっくり膝を曲げて視線を合わせられても、わたしは睨み続けた。反対に、目の前では表情が緩める。いや、ただの笑みではない。違うのも混ざってる。

「すまなかった。君の前でする確認では無かったね。そこまで気づいているとは思わなんだ。本当にすまなかった」

「……」

「ただ、お父さんが君を心配しているのは事実だろう。いや、だからこそ……かな?」

 かなり強気に出たのに、バツが悪くなってきた。きっと長田さんも事件の構図が見えている。目を逸らした。その隣で「ちゃんと見ててやれ」清水さんに何かを握らせて、階段を上って行き、姿は見えなくなった。
 清水さんが受け取ったのは車の鍵だった。東京に着いたら起こすと提案されて、乗った。そうでもしなければ戦いきれないとわかっていた。警察署を出るとき、腕時計は10時32分だった。





6

「……おはようございます」

「もう起きたの。東京には入ったけど、まだ10分くらいかかるよ」

「どこにですか?」

「長田さんが警視庁側の情報をもらってくれてね。都内のホテルから電話が掛けられたとわかったから、そこへ向かってる」

「良いんですか? 長野県じゃないのに」

「上手い具合に交渉が成立したらしいね」

 そっか。長田さんがいろいろ働きかけてくれたんだ。右手首を確認――時計は、13時6分だった。
誘拐発覚後に父は警察に連絡しなかったから逆探知で場所を突き止められない。それについて聞くと、使用された盗難車両を追跡した結果、サブのアジトにされたホテルを特定。通話発信地点の攪乱プログラムが施された機器類が発見されたという。

「専門的な技術だったんですか?」

「いや、素人でも調べれば……あ」

「あー、すみません。何でもないです、黙ります」

 やっべ、捜査機密だ。清水さんも疲れてるんだろうね。わたしのせいで。悪いとは思ってますよ。
 ってことで、ひとりで考えることにした。再開された思考は、やはり事件の背景について。親同士の年齢差によるだろうけど、兄弟でも従兄弟でも現代日本ではあり得る範囲の年齢差らしい。AもBも若く、20歳前後だ。碓氷泰之、碓氷菜月、香坂萌日、香坂啓介、わたしの両親は、みな同年代。それぞれの子どもの年齢が近いのは理解できる。証拠はない。根拠は、当事者の年齢だけ。実際に何があったのか当事者しか知らない。が、推理になり切れない想像は止まない。犯罪は専ら親しい間柄において発生する。香坂という名字に強く反応してしまったけれど、じゃあ、碓氷はどちらさまなのかって話だ。長男ヒロミくん、妹セナちゃんの文脈ではもうひとりを語れないのなら、親戚が最初に思いつく。
 香坂萌日。碓氷菜月。 星科朱寿。羽熊有流羅。
 名前の共通点によって親しくなることもあれば、それこそが親しさの由来にもなる。
 中学生のころ、朱寿は改名したいと、わたしを前にして言い出しやがった。曰く、

「漢字2文字なのは同じなのは、まあ、いいんだけど、私だけ2音なんだよ?」

「嫌なの?」

「嫌というか、んー、いや、この名前に文句は無いの。仲間外れっぽさ拭えないって話。それにさ、月、太陽って続いたなら、お次は星でしょ?」

「自分の名字、忘れた? お星さま過ぎても面倒だよ」

「じゃあ雲!」

 勢いよく立ち上がったあの子に、そのときは「勝手に流れてろ」みたいな言葉を返した。内心では無理だと確信していた。自分も空を飛びたい。そう熱弁する朱寿は、雲にはなれない。圧倒的に、行雲流水には向かない。あの子の、自分で流れを作り出す能力は周囲をも変え得る熱量がある。仮に、わたしにも同じことができれば、変えられるのかな。
 袋からラスト10秒チャージを取りだし、ノートの内容とともに飲みこむ。まもなくホテルの駐車場に到着した。清水さんは、先行する長野県警の同僚と合流して用が済めば、すぐ戻ると言った。

「知らない人についていかないように」

 ああ、それ知ってる。なんだっけ。「いくらの軍艦巻き」予想で言ってみると「いかのおすし」すぐ訂正されて睨まれた。続けて「イカのお寿司」と復唱した。
 駆け足で去る刑事さんの背を車内から眺める。そんな呆れなくても良いのに。
 あ、そっか。お寿司のやつとしか思い出せなかったけれど、あれだ……知らない人についていかない、ひとの車にのらない、おおごえを出す、すぐ逃げる、何かあったらすぐしらせる……それぞれからピックアップして、いかのおすし。
 まあ、ね。5つのうち半分はできなかった自覚あるけどさ。わたし、知らない人にはついてってない。ひとの車に乗せられたことにも、わたしに非は無い。要するに、自分、悪くなくないっすか?
 ふと、視線の先。駐車場の端に停められた白い車から目が離せなくなった。
 正確な種類はわからないけど、似ていた。どこがと聞かれたら困るけど、あのとき乗せられた白い車と、似ている。

「……」

 うん。清水さんの注意によって制限されたのは「知らない人について行く」ことだけ。わたしが車から降りて歩いて行くことは可能である。
 よし。叱られたら言い訳せず「ごめんなさい」と申し上げましょう。開けられない扉の代わりに窓を開けて、そこから出た。普段乗らないから構造も仕組みもわからん。窓を開けられたらなんでもできるってことはわかった。
 白い車は、後部座席のほうの窓は黒っぽかった。扉が閉められて車内が暗くなったのは覚えているけれど、こうだったかまでは思い出せない。他方、前の窓はあまり黒くない。そちらへ回りこんで車内を覗きこんだ。目を凝らすまでもなく。
 思わず窓ガラスを叩いた。
 後部座席、黒い粘着テープが巻かれた人間の足。座席が邪魔で全身は見えない。それでも、抜け殻では無いし人形でもない。人間だ。「聞こえていたら扉蹴ってください!」数度蹴られたのが見えたし、鈍い音も小さく聞こえた。音に気づいてくれている。が、自力ではどうにもできないらしい。
 きっと、車内からは開けてもらえない。わたしが開けないと。
 周囲を見渡しても無駄に終わるだろう。すぐにスマホで車の窓ガラスの割りかたを調べる。が、いずれも車内から脱出するための方法ばかり出てくる。当然か、車外から窓ガラスを割りたいのは専ら泥棒くらいだろう。車内にある道具も、脱出用ハンマーなんて持っているわけない。ヘッドレストはすぐ目の前に、窓ガラスを隔てて……ヘッドレスト。清水さんが運転してきた覆面パトカー、あれにもヘッドレストがある。問題ない、わたしは「ごめんなさい」が言える良い子だから。後部座席の窓は開けたままだ。そこから車内へ体を突っこんでヘッドレストに手をかけた。案外すぐに取り外せたそれを抱えて、白い車のほうへ戻った。

「動かないでください! 大きな音、驚くと思いますが、怪我させたくないです!」

 叫んでから前部座席の横にある窓ガラスにヘッドレストの金属棒部分を突き立てた。窓ガラスは緩い曲面になっているが、端は平面上になっている。パスカルの法則を参考に、なるべく打撃面積を小さくしたうえで曲面を避けた個所を狙った。ガラスは粉々に割れた。人間界のものってこんな脆かったのかい? 呆然としかけたが、優先順位を思い出した。窓の際に残った破片をヘッドレストの金属部分で取り払い、車の上に乗せてから努めて注意しながら車内に乗りこんだ。膝や素手で割れたガラスに触れないようにしながら後部座席のほうへ移動した。頭部にかぶせられた上着を取り払い……知っている顔――その名を呼んだ。

「イツキ……?」

 暗がりで、彼の目が見開かれたのがわかる。そのとき、扉のポケットが明るくなった。手に取ると、見たことがあるケース……ああ、放課後に教室で見たことあるんだ。待って、どういうことだろう。どうして彼がここにいるのか。いや、別にいても良いんだけど、どうして拘束されているの? 視線がかち合う。青白い顔色がさらに悪くなったように見える。ひとまず、口を塞いでるテープを取り払うことにした。テレパシー実験成功させられるほど双子然としていない。この状況に心当たりはあるのかな? 話したくないなら、無理に聞き出しても効率悪い。必要な情報が得られなかったらただの浪費。話してくれるのを待つのが最善だろうか。
 しかし、今は時間が無い。
 正面から聞いてもだめなら、少し意地悪するか? してもいいかな? 怒る? まあいいや。勝手にイラついてくれ。この妹がいそうな相手ならどうにかなるでしょ。ああ、いないんだっけか?

「酷いことされたの? あのふたりに」

 すると、一葵は勢いよくかぶりを振った。やはり親しい間柄、あるいは身内らしい。
 体を起こすのを手伝いながら「ヒロミくんもセナちゃんも、まだ逮捕されてない」と言ってみた。
 肩を震わせるとゆっくり顔を上げた。ただ、その眼は怯え切っている。この反応なら、文脈は大きく外れていないのかな。あのふたりが母の資料にあったヒロミくん、セナちゃんとして話を進めて良いらしい。今は本当のことを言い当てるよりも、本当のことを話させることが優先されるんだ。
 口元のテープの端を見つけ、剥がしていく。

「警察の人がどうしたいのかは、まあ、ある程度はわかるけど……でもね、わたしの目的は、あの人たちの目的が果たされるとき、果たせる」

 外しきれて話せるようになってから「ねえ、どうしたい?」尋ねる。が、何も答えてくれない。
 両手で顔を上げさせてから改めて「イツキは、どうしたい?」まっすぐ見つめた。

「……兄さんと姉さんを、止めたい」

「わかった」良かった、それなら手伝える。一葵の両肩に手を置いて告げた。「止めよう、みんな。計画なんてぜんぶ壊そう」

「でも」

「50年後に後悔させたくない」

 意識して、目を逸さなかった。逸させなかった。わたしが父を信じられない代わりに、一葵には兄姉を信じさせたかった。
 彼のスマホの充電の消耗が激しかったのは、盗聴に使われていたからだとしたら……? 「親指かして」ロックを解除して、操作する。誘拐犯になった気分だった。探してみると、よくわからないアプリがひとつだけあった。続いて、LINEを開きたくて、再び指をかりた。一葵は何も言わなかった。
 最近のは、駿太朗が勝手に作った5人衆グループのほか、「兄さん」「姉さん」「alula」のログだった。グループがうるさいのはいつものこと、通知が3桁超えているなら1日以上は開いていないのだろう。わたしとの個人ログを開くと、昨日の18時17分に発信していた。車内のあのときのバイブレーションの正体だ。何を話したかったのかは知らないけど、今聞いても教えてくれないだろう。教えてくれるとしたら……一葵のスマホからの電話でも、きっとすぐに出てくれるはず。
 11回目、呼び出し音が止む。なるべく余裕がある、ゆっくりとした口調を心掛けた。

「どうも。ご加減いかがですか?」

「おかげさまで」

 Aの声。電話越しだから本人に限りなく近い合成音声ではあるけれど、彼の声。
 頭の悪い質問は避けたい。Aは、今のやりとりを聞いていた。わたしが一葵に驚いたように、Aもわたしの登場に驚いたんじゃあないか? ならば再び情報を開示して、交渉を優位に進めたい。

「セナさんは共犯者ですか?」

「……まあね」

「でしたら一葵も」

「いや、無関係だ」

「利用していただけ、ですか? スマホ充電消費が激しかったのは、変なアプリのせい?」

「そうだよ、ご明察」

「……わかりました、一葵が納得するならそれで構いません」

 納得するわけがない。置いて行かれたことに納得できるなら、一葵もわたしも、ここにはいない。
 沈黙の後、Aの長いため息が聞こえてきた。

「なぜ掛けてきたんだ?」

「予想はついていますよね?」

「どうだろうね」

 何度も誤魔化されてたまるか。ここで根幹がズレていたら交渉決裂しかねない。が、時間は無い。Aはもうわたしがいなくても目的が果たせる。反面、Aがいないとわたしの目的は果たせない。父のスマホは今わたしが持ってるけど、連絡先を覚えていないとは言い切れない。
 父が何らかの手段で再び「青葉さん」に連絡するまで。Aが警察に身柄を確保されるまで。それが、わたしの目的のタイムリミット。ならば、でまかせでも何でも、それっぽく聞こえれば勝ち。つぶさに自分の気持ちを言語化してる人間なんていないんだから。

「復讐でも愛憎でも、名前は何でも構いません。わたしはあなたの犯行の仕上げに協力できます」

「は?」

「未発表原稿の在処に心当たりがあると申し上げているんです。『青写真』ではなく、あなたが求めた真相が綴られた原稿ですよ?」

「あいにく、それはすでに確認したよ」

「父に、でしょう? 母がわたしにだけ解けるようにした暗号が存在したら、父も知る由はありません。それに、父が知らなかったからこそ、母にも接触せねばならないのでしょう?」

「……」

 沈黙が重い。どうして黙ってるの? 何を考えている? いや、わたしのミスだ。答えやすい疑問にすればよかった、あるいは、もとから母に接触する計画だったか。

「ちゃんと考えたんです。どうして誘拐の標的にされたのか。時間がありましたから。それでわかったんです。わたしはあなたに協力したほうが良いって」

「悪いけど、話が掴めないね」

「2013年から2014年の9カ月間に発生した、3件の車が関わる死亡事故がともにまとめられた母の資料を見つけました。当時12歳のあなたも巻きこまれた事故を含みます。当事者の相関まではノートに記されていませんでした。しかし、原稿が完成していなくても、少なくとも、草案は存在すると断言します」

「保証は無い」

「でしたら、なぜここまで調べたのだと思いますか?」

「……」

「当初は書くつもりだったんですよ。真正面から。あなたが明かして欲しかった3件の事故の裏にある真相を」

「……」

 頼むから、黙らないで。合ってる保証が無いのはわかってるんだ。的外れでは無い自信ならあるけど言い当ててる自信だって微塵も無い。自信が無いと悟られたら交渉すらできないとわかっているからはっきりと言ってみせているだけ。声が震えないようにするのに必死過ぎている。わかっている。

「ずいぶんとバカにされて、さすがに腹立たしいんですよ。娘を捨てたくせに小説は捨てられなくて、あげく題材とペンネーム変えたくらいで気づかれないと思われて……心外にもほどがあります」

新しいペンネームにした後の作風が好きなわけでは無い。その行動にも納得できないけど、作品は嫌いになれない。

「わたしだって一泡吹かせてやりたいんです。あなたも、9年前の意趣返しになるでしょう?」

「……3時間後。気が向いたら連絡する」

 電話は切れた。
 3時間後? 腕時計いわく――13時54分だ。3時間後は17時。何かはじめるの? それとも、17時に何か終わる?
 名前を呼ばれた気がして車外を見る。
 清水さんが周囲を見渡しながらわたしの名前を呼んでいた。いざ、怒られに行かん……が、扉がまたしても開かない。まったく車ってのはどうなってんだい?

「これも壊せ、と?」

「え。いや、押せば開くと思うけど……あ、の。レバー引かないと」

「さっき別の車で開かなかっ」

 レバー引きながら扉を押したところで何が変わるんだ?……そう思っていたころがわたしにもありました。ここまでくると脳筋だと自覚したほうが良いかもしれないね。
 どこかへ走っていってしまいそうな背に「清水さん」と呼びかけた。車の上に置いていたヘッドレストを駆け寄ってきてくれた彼に差し出しながら「ごめんなさい」と言った。恋する乙女がバレンタインチョコ渡すときって、きっとこんな感覚なんだろうね。何言われるかドキドキする。

「なんでここに……」

 天井付近を見渡してから「防犯カメラの死角だからじゃあないですか?」と答えたらキレられそうになったので「はさみ持ってますか?」すかさず話を逸らした。あっぶねぇ。

「は?」

「刃物無いと無理っぽいです」

 動けないのを良いことに車内の一葵を生贄に捧げた。すまんな、とは思ってるよ。まあ、原因は君だから。
 いつのまにか清水さんが困惑の視線を向けられていた。

「知らない人にはついていかない、知っている人だからといってついていかないほうがいいときもある。これくらいのリテラシ持ってます」

「なのに、車の窓ガラス壊すの?」

「根本の条件が違いますから。このとき優先すべきは人命救助と好奇心と信念です」

「それぞれの割合が気になるところだけど……フロント行ってくるから、今度こそ絶対にここから動かないこと、いいね?」

 今度こそって。注意は破ってないのにね。この車が気にならなければ動かなかったし。
 車内の一葵を確認する。ちゃんと怯えてて人質っぽかった。こうしてればよかったんだね、なるほど。人質の師匠だ、さすが珍獣ヤマソダチ。
 わたしが脱出できたからこうなったんだろう。手足の拘束、粘着テープは外すよ。お詫びにね。
 足に巻かれたテープを剥がしていると何か言われた気がして顔を上げる。が、目を逸らされた。言いたくないならいいや。剥がすのを再開した。

「あ、そうだ。スマホ、もう少し使ってていい?」

「え?」

「それとも、来る?」

「……」

「行かなくても大丈夫。でも、スマホかして欲しいんだよね。いろいろあって、今持ってなくてさ」

「そうじゃなくて」

「何?」

 さっきの言葉……兄さんと姉さんを止めたい……嘘だとは思わない。どうすれば良いのかわからないんだろう。わたしも母の失踪に関して何をすればいいかわからないまま保留し続けた。すぐに答えが出せないのは理解できる。
 青葉玲って、ママだよね?……気づいたとき、父に聞けばよかったのかもしれない。でも、聞けなかった。聞いて何が変わるのか想像できなかった。帰ってこないのは相応の理由があるから。その理由を知るのが怖かった。今も、こうしてつきつけられなければ避けて逃げていた。風に流される雲の気分で。それで良い、そうなってもしかたない。何が変わるわけでもないから……でも、今なら

「6人いたら6つの考えかたがあるから。わたしと一葵じゃあ、考えてることも願ってることも違うと思う。だけど、少しだけでも重なるなら、協力できる。何も隠さないで言いあえたら、善後策は見つかる。まだ遅くない」

 自分にも言い聞かせるつもりで言った。そうだ、まだ遅くなんかない。張りついたテープを、手を振って飛ばす。隣に座って、後ろを向いてもらった。結束バンドの使いかた、AとBと同じだ。そうじゃなかったらこんなとこいないか。バカなこと考えてないで、テープを剥がす続きをしよう。

「……怪我…………」

「ん? 救急車呼ぶ?」

 かぶりを振られてもわかんないって、双子じゃあないんだよ。思い当たる節から「TITANICってこと?」と首をかしげてみたが、通じなかった。

「ずっと同じ体勢ってキツいじゃん? ほら、あれだよ。I’m flying!」

「……」

 嘘だろ、名作だぜ? このポーズ、あのシーンだけだったと思うけど。

「羽熊さんは……羽熊さんは平気?」

「うん。検査したし、点滴受けただけ。まあ、念のため行きなよ、病院」

 対応は清水さんに任せたほうが良いよね、受け答えわかんないし。わたしは覆面パトカーで病院に送ってもらったから、そういう何かがあるのかもしれない。酷いことされてないってなら緊急性も低そう。
 粘着テープを外し終えたころ、清水さんがほかのスーツの方をふたり引き連れて戻って来た。おー、信頼されてない。いや、何かやらかすと信じられたからこその援軍か。手招きされて、援軍と位置を換わる。重くなったポケットを支えながら清水さんの隣へ駆け寄った。

「何かした?」

「何かとは?」

「……なんでもない。もういい? 車でおとなしくしてて欲しいんだけど」

 おとなしく……だと……? 無理じゃね? あー、寝てればいいのか。Aから電話が来るとしたら3時間後。試しに何度か掛けてみて気分を害したとか何とかってのは避けたい。やっぱり交渉は苦手。駿太朗に任せたらもう少し良い条件にできただろうにね。無いものねだりしても仕方ないけどさ。
 あれ。そういえば

「清水さん、電車、得意ですか?」

「ん? 得意って?」

「乗り換えとか、そういうやつです」

「東京の?」

「はい、東京のですね」

「調べればどうにか」

 そっか、長野県警の方だった。じゃあ「前の車を追ってください!」なら可能だけれど「レインボーブリッジに向かってください」は難しいということか。

「今日の17時からって、何かありますか?」

「この調子なら仕事だと思うけど。土曜日だし」

「さっきの方々と合流したりとかは?」

「君の御守が優先」

 なるほど、つまり、清水さんはずっといらっしゃるわけだ。3時間後も、きっと。Aからの電話は誤魔化しきれない。だったら先に伝えておいて協力をしてもらえるようにすべきか……あくびをかみころしている彼とミラー越しに目が合う……大丈夫、わざわざ飲みもの4種類も買ってきて選ばせてくれた人だ。話は聞いてくれる。

「あの」

「待って」

「はい?」

「重要なこと?」

「……わたしにとっては」

「長田さんに、あの、えーっと、もうひとりいたおじさん」

「長田直樹警部?」

「っ、そう。警部に電話しながら聞いても良い? 俺が君の話を理解しきれるかわからないから」

「わ、かり、ました」

 清水さんは一旦車外へ出ると電話を掛けた。数分もかからないうちに窓をノックされた。うん、窓なら開けるプロなんだよね。
 スピーカー状態にしたスマホを向けながらこちらにアイコンタクトしてくれた。
 話してくれという意味と受け取って、ホテルの駐車場に到着したところから軽く話し、Aからの電話のことを伝えた。清水さんからの視線は努めて無視した。
 数秒の沈黙。相手の周辺からのノイズが聞こえる。ドップラー効果っぽいから、車に乗っているらしい。どこかへ移動中らしい。

「どうするつもりだい?」通話先の長田さんに問われる。答えは決まっている。

「Aからの連絡を待ちます。必要があれば、移動もします」

「危険があるかもしれない」

「だとしても、50年後に後悔したくありません」

「わかった。清水から離れないと約束できるかい?」

「努力はできます」

「ははは、清水にも努力させるよ」

「ありがとうございます」

 清水さんは苦笑しながらスマホを回収し、窓を閉めるように言った。開けるときとは反対にスイッチを押しこむらしかった。
 外部から隔離されると、音が収まる。途端に緊張の糸が緩んだ。睡魔に抗っても無駄だと悟り、横になった。




7

 太腿が振動を感知する。瞬間、ポケットに手を突っこんでふたつのスマホを引っ張り出した。電話は……父のスマホのほうだった。「あるらちゃん」と表示されている。すぐに出た。

「よう」

「……どうも」

 直後Aは端的にカフェの名前、住所を言う。起き抜け暗記、咄嗟に体を起こす。聞き返すと

「仕上げ。ここの2階」

「はい? 通報しろってことですか?」

「もうしたよ」

「え?」

「仕上げだよ」

「通報って、何のために」

「じゃあな。ああ、様式美だったか?――健闘を祈る」

「待ってくださいっ、ちょっと!」

 呼びかけに応じてくれない。自分で通報したってこと? ヤケになってる? 事件化されるのを想定していなかったのか。いや、この情報化社会において誘拐事件の成功率は低い。わたしははっきり顔を見ているし覚えている。逮捕されないなんて、あまりにも楽観している。そうだ、なぜ顔を見せて声を聞かせたんだ? 人質に対するAとBの対応の違いを、殺害派か解放派かで分類したけれどそこから違った? 仮に捕まっても目的が果たせれば良いと認識していたら?
 Aはまだ通話を切っていない。雑踏の環境音が聞こえてくるだけ。場所はわからない。が、こちらから切るわけにはいかない。
 一葵のスマホ、パスコード知らない。持ってても意味ないのに、なぜ借りた? どっちに電話掛かってくるかわからなかったからだ。よし、思考が回り始めていなくもない。清水さんにカフェのことを伝えて調べてもらった。

「ここから近い。大通りに面しているから、車で向かう」

「道、わかりますか」

「カーナビがある。シートベルト締めて、やりかたわかる?」

 それはもう現代社会に感謝。きょろきょろしていると清水さんがシートベルトをどこかから引っ張り出してくれた。留め具を手渡され、それっぽいところに差しこんだ。間もなく、車は走り出す。
 スマホを耳に当てたまま、言われたカフェへ急いだ。駐車場を出てしばらく――腕時計は17時23分――いつのまにか周囲の環境音が収まった。
 話し声が聞こえ始める。Aの、舞台がかった声だ。

「さすが小説家は博識ですね。幕末の、倒幕の、新政府軍の指揮官が識別用でかぶっていた目印のひとつ……でしたか、ハグマさん?」

「失礼、どちら様?」

 女性の声だ。
 誰か。
 もしかして。
 期待がつのる。否定できる情報は無い。全力で耳を澄ませる。

「おや、聞いてませんか。ああ、携帯の電源を切れと命じたのを忘れてました」

「……飲み物は?」

 平然としたAの声とは対極に、女性の声は若干揺れている。

「ミルクティーを勧めたいところね」

「のんびりしてられないんですよ、あいにく。もう警察を呼んでしまったので。10分以内には到着するのでは?」

「そう。ならば世間話する余裕もないのね」

「はい。無粋で申し訳ない」

「こちらこそ悪いけれど、答えはあの日と変わらない――原稿は存在しない」

「いやぁ、ははは。娘さんには見抜かれてましたよ? 少なくとも草案は存在する。そうでしょう?」

「どこでそれを」

「聞くまでも無いでしょう? いや、電源を切っていたということはすでに聞いていましたよねぇ」

「……あの子はどこにいるの?」

「安全な場所に」

「どこの病院へ行ったの?」

「さあ。諏訪のどっかでは?」

「……無事なのね?」

「ええ。極力、怪我もさせていません」

 怪我らしい怪我は、拘束時の擦り傷くらいだけ。怪我は、確かに、極力させられていない。なのに、わざわざ含みを持たせたのは、なぜ? あのとき「あいしたわ」の話をしたのに、龍宮城で気づいた「イロヲタセ」の話はしていないのに、何を期待している? なぜこの人は期待できるの?
 わたしが諦めてたのに。なんで他人がそれをできるんだ?
 納得いく答えは浮かばないし、そもそもうまく考えられない。もはや知りたくないまである。いや、知りたい。そのために、そのためならわたしだって頑張れるんだと信じたい。自分が望んだことのために努力できると証明したい。

「清水さん、あとどれくらいですか」

「このあたりのはずなんだけど、駐車場が」

「次の信号待ち、降ります」

「……わかった。ドア、開けられる?」

「壊したらすみません」

「やめて」

 信号はちょうど赤。清水さんは緩やかにブレーキをかけると自分のシートベルトを外して後部座席の扉を開けてくれた。

「後ですぐ行くから。無理はしないこと。いいね?」

 彼の意図は察するまでもなく明確だった。シートベルトを引っ張って外そうとしたら、扉のついでに、外してくれた。「ありがとうございます!」いろんな意味をこめた感謝を残して車を降りた。人通りはそれなりにある。さすが土曜日、休日だね。電柱に記された住所を確認する。Aが述べた住所は近い。周囲を見渡しながら改めてスマホを耳に当てて電話先の音に注意する。ふたりの会話は続いていた。

「星の固有名に漢字を当てるとは、ずいぶん粋ですね?」

「……あの子は好いていない」その言葉に「違う!」思わず叫んだ。

 何事かと視線が集まる。が、今はそんなの関係ない。電話先からは反応無い。音声ミュートなんだろうね。ふざけんな。直後、すぐ隣、サイレンを鳴らしたパトカーが通り過ぎた。タイムリミットが近い。ここまできてRTA失敗? いや、無理。それは無い。
 通話先で「外が騒がしくなってきた」女性は言う。大丈夫、このあたりなのは間違いない。
 早く指定場所を見つけないと。

「……自分で呼んでおいて今更逃げるとでも?」

「あなたがいなくなったら、彼女たちはどうするの?」

「ははっ、そのままお返ししますよ!」

 言いたいことそのまま言ってくれた。その視線の先、カフェが視界に入った。あそこだ。人をかき分けながら走った。

「娘さんが納得すると思いますか?」

「ありえ――」

 直後、音声が消えた。電話が切られた。いや、違う。充電が切れたんだ。電源ボタン連打しても画面が反応しない。ポケットに押しこむとダブルブッキングだと2台のスマホが文句を言う。片側に重さが掛かる違和感もある。結局ふたつとも取りだして手に握った。
 指定されたカフェに駆けこむ。店員が何か言おうとしたが2階への階段を駆けあがる。ちょうど深く帽子を被った人とすれ違った。壁に向きあうようにして背を向けたからきっと女性だ。ぶつからないようにしつつ、スピードは緩めなかった。辿りついた先、見覚えのある顔を見つけ、歩み寄った。癖毛にはわずかに帽子の跡がついていた。黒いスーツ姿だと、印象は大きく変わる。メラビアンの言わんとしていることがよくわかる。隣にリュックのおかげで学生に見えなくもない。都会の夜、むしろ目立ちにくい服装にも思える。そういえば、Bの姿は無い。同じフロアには、ここにはいない。確かに、通話でも声はなかった。来てなかった? なぜ?テーブルに置かれた空のティーカップと1000円札を見てもわからない。Bだけ逃げた? ひとり置いて行かれた? ここにきてAも裏切られたってこと?

「ギリギリだったね」

生徒手帳とスマホを差し出される。受け取って、スマホを3つ重ねたまま手に持った。息を整えてから「引きとめておいてくださいよ」何かひとつくらい文句を言ってやりたかった。

「階段で会っただろ?」

 は? 階段?
 首を傾げかけたが、爽やかな甘い香りを思い出す。 確かに、その女性とすれ違った。

「……これでイツキは本当にひとりぼっちになります。それでよかったとは思いたくありません」

 目を丸くすると、Aは自嘲するように細めて頬を緩めた……どこか不敵な笑み……寒くもないのに腕が粟立つ。強気に「何ですか」と言ってみたが、あまり意味はなかった。

「勝ったと思ってる?」

「……負けでは無いと思ってます」

「卑怯になれない君の負けだよ」

「何の話ですか」

「破滅するにしても、破滅の仕方は選べた。それ以上を望めるほど俺は天才でも有能でも無い。断言できるよ、これで良かったんだ」

「何を」

 何を言ってるんだ、この人は。
 車内で見せられた、監禁場所で見せられた、底知れない恐ろしさの正体は。あのときは、殺される可能性が捨てきれないからだと思っていたけれど、今はもう最初から彼には殺害の意図が無かったのだと知っている。じゃあ、あのとき感じた恐怖は何? 過剰に怯えていただけ? とにかく冷静にならないといけないって努めていたけれど足りなかった? それだけ?

「いいよ、まだ時間があるらしいから。自白の練習にもなるし。そうだね、ガキのときはここまでは考えてなかった。けど、妹がやると言い出して変わった。変えなきゃならなかった」

 じゃあ、この笑みは、何? なぜこの人は笑っているの? 妹に置いていかれて、弟にあんなことして……いや。そうだ……このために事件を起こして弟を被害者にして妹を逃したのなら、この人の目的はもう、75%は果たされたんだ。
 叔母夫妻の死が事故では無いと知ったから、だからわたしの母を利用しようとしたんだ。叔母の友人だったから、推理作家だったから、両親の犯罪を世間に曝せると思ったんだ。自分自身の罪を明らかにしてもらえると信じたんだ。

「まあ、結局は、ね。それなりに上手くいったんじゃねぇの?」

 得意げな笑みとともにUSBメモリをつまんで見せる。ポケットに押しこむと、おもむろにリュックを背負う。
 わたしの母を見つけるための誘拐だった。そのうえで、本来の目的も果たせた。
 そういうことか。9年前とは違って、今なら、犯行を最後まで遂行できると確信できたんだ。
 当時、意図とは反して、わたしの母は3人の子どもたちを思って真相を闇に葬ってしまった。だから、わたしの誘拐を計画した。
 なぜ今なのか。妹と弟のためだ。セナがふたつの事件を繋げて考えられるようになって自分ひとりですすめるつもりだった犯罪計画にたどり着いてしまったから。一葵がわたしと知り合って情報を集めやすくなり、なおかつ、高校生になって独り暮らしできるようになったから。本来の目的を達成しやすくなったから。成人して、未成年のときより行動が自由になったから。
 目的を果たすための計画を進められる条件がすべて揃ったから。だから決行した。
 これで、事件は解明された。解決できた。なのに。それなのに、どうして。どうしてだろう。どうしてこんな悔しいんだろう。

「これで良かったなんて思わない」

 事件を起こした時点で、すでに勝算は高かったんだ……わたしが車内で抵抗を止めたあの瞬間……この人の勝利、わたしの敗北は確定していたんだ。ふざけんな、そんなクソな話あってたまるかよ。

「これが最善だったなんて、絶対に許さないっ」

 振り向いてAの背に叫んだ。

「兄さん」

 女性がAの進む道を遮る。
 Bだ。
 Bが大きな鞄を抱えて、そこにいた。逃げたんじゃ、逃げてなかったんだ。 そのすぐそばには、一葵もいる。連れてきたの? どこから? どうやってみつけたの? Bが鞄を投げ出してAに駆け寄りだきつく。一葵も遅れて駆け寄る。

「なんで」

「できない、できないよ……! 置いていけない!」

 Bは逃げなかった。逃げられなかったんだ。
 笑いがこぼれた。何もかも思い通りに行くと思うな、バーカ。
 直後、カフェに警察が踏みこむ。清水さんも紛れこんでいて、わたしは彼の案内に従ってカフェを出た。AとB、一葵がどうなったのかは見てなかった。そんな余裕はなかった。

「改めて事情聴取を受けてもらうことになっているんだけれど、大丈夫かな。疲れていたら後日でも構わないらしいけれど」

 気遣う声色。それがわかる程度には余裕がある。事情聴取とはいえ、今朝の10時くらいに話したことと同じでもいいんでしょ? だったら別に今日でもいいや。さっさとぜんぶ終わらせたい。

「聴取って、どこでですか?」

「最寄りの署。でも、無理しなくても」

「歩いてくのはきついですけど、乗せてくれる感じですよね?」

「体力的な問題じゃなくて、疲れてるよね?」

「いえ、疲れてないです。大丈夫です」

 このやりとり、もうやった気がする。結局、清水さんの心配を「問題ありません」で押し切れた。その延長で、駐車場の自販機でココアを買ってくれた。正直、今は何にもいらない。
 不意に。
 スーツの大人たちを前に肩身を狭くしている一葵を見つけた。そういえば、病院から脱走したのかな。いや、人里に下りてきたからか。
 お叱りがひと段落ついたタイミングを見計らって声をかけた。

「なんで場所わかったの?」

「……僕のスマホ、持ってるでしょ?」

 あー。そっか。そっちは、そういうことか。うん、持ってるね。
 あのアプリ。盗聴だけじゃなくてGPSとかで場所もわかるなんでもござれタイプな感じか。そりゃ充電すぐ消え去るよね。
 とりあえず、なんていえば良いのか思いつかなくて、缶を押しつけた。

「え……ココアだよ?」戸惑いには気づいていたが、構わず「いらない」と押しつけた。あれ?

 なんで今だったんだろう? どうして5月半ばでなければならなかったんだろう?

「おねーさんって、セナさんの誕生日って6月?」

 自分でもよくわからなかった、が、そう一葵に尋ねていた。なぜBの誕生日が気になったのか、わからない。わからないけど、知らなければならない気がした。一葵は無言で、わずかに目を見開く。

「……どうして君が泣いてるの?」

 なんでそんなこと聞くんだろう。「わからないよ、そんなの」捨て台詞を残してその場から逃げた。
 逃げた先の曲がり角に車の影。そっとその先を確認すると、男性の足元だけが見えた。見たことあるチャコールグレーのスーツ……ああ、長田さんだ。さらに身を乗り出した。

「これでよろしかったんですか」

 その問いは、わたしの父に向けられていた。

「50年後、後悔させるわけにはいきませんから」

 いつもわたしにみせる柔らかな声色で、はっきりと答えた。

「パパ」

 駆け寄って、しがみついた。優しく包みこんでくれた。
 爽やかな甘い香りがした。





8

 山荘で羽熊さんの姿を見たとき、頭が真っ白になった。なぜここに彼女がいるのか理解できなくて、なぜ兄さんと姉さんがそれを僕に隠そうとしているのか理解できなかった。いや、理解したくなかっただけ。本当はわかってしまった。だから、兄さんにしがみついたまま泣いた。いつの間にか眠って、目覚めたときにはもう日が昇っていた。体を起こそうとすると――――――今日も、同じところで目が覚めた。いつの間にかソファーにつっぷせたまま眠りに落ちていた。同じように眠るから同じように目覚めてしまう。腕に目を押しつけていると、チャイムが鳴る。しかたなく立ち上がる。適当に追い返せるかもしれないし、対応しなかったことで警察や記者あるいは親戚を名乗る人たちから電話がしつこくかかってくるのはもう嫌だ。画面を見ずにとりあえずインターホンをとった。

「おっ。ごめん、寝てた?」

 思わず顔を上げた。画面の奥で、彼女はマグカップを掲げていた。トーストを咥えて手を振る。

「……羽熊さん。どうしたの」

「寄り道」

「早く帰りなよ」

「森に?」

「家に」

「いやぁ、はははっ。ほら、いろいろあったじゃん?」

 原因は明白だった。あの事件、羽熊さんは巻きこまれた。あの夜、彼女は泣いていた。
 何も言えなくなった代わりにオートロックを解除した。数分以内に扉前のチャイムが鳴らされて、彼女を室内へ入れた。本来は良くないのだろうけれど、きっと僕に拒否権は無い。
 羽熊さんはカジュアルな私服にリュックサックを背負っていた。寄り道だというから、学校帰りだと思っていた。スマホのロック画面を確認すると――5月22日水曜日――平日だ。学校の創立記念日は10月。今日は学校のはず。彼女に視線を向けると、トースト片手に「ごはん食べた?」と首をかしげられた。思わず目を逸らす。あの日から食欲が無い。何もしたくない。

「成長期でしょ? 運動部でしょ?」

「いいよ、大丈夫だから。用が無いなら」

「あるよ、一葵の顔見に来た」

「……」

「何か食べる? あー、餌は? 人間の餌。あのー、ほら……フルグラとかシリアルとか」

「お腹空いてるの?」

「いや、わたしは朝ごはん食べてるよ。ほら、パンとココア。お、朝はパン派かい?」

「……そういう気分じゃないだけ」

「そう? わかった、じゃあ、出かける用意して!」

「出かけ……?」

「東京駅発長野駅行き、7時24分で行っちゃうから。着替え必要なら早く! あ、ちなみに上着持ったほうが良いよ。朝と夜、たぶん肌寒いから」

 断るタイミングを見失って、彼女の嵐のような勢いに流された。結局、ともに乗りこんだタクシーは7時くらいに東京駅に到着した。

「駅弁! ね、駅弁あったよ、食べる? おいしそうじゃん。……駅弁って駅のお弁当の略語だよね。そう考えると絶対に駅弁のほうがゴロ良いね。駅弁当、駅弁」

「……うん」

 大人げないのはわかっている。でも、話す気にはなれなかった。
 そのうち新幹線が到着して、15分くらい経過したのがわかった。羽熊さんの案内に従って、指定席に座った。窓際を勧めてくれたけれど彼女に譲った。景色を楽しめる気分じゃない。

「ね。『青写真と六腑と龍の声を乙姫に』って、知ってる? 未読なら今持ってるからさ。読んでみて」

 青い紙のカバーが掛けられた文庫本を受けとった。表紙をめくって確認する。著者は、藤うらら……姉さんの本棚でも見たことある名前だった。会話する気にもなれないし、羽熊さんもそれをわかってくれるらしかった。さっそくルービックキューブに夢中な彼女の隣で、お言葉に甘えて活字を読み進めた。何も会話が無いまま長野駅に到着した。上着を羽織って、在来線で移動する。行先は聞かず、案内に任せた。その道中、渡された本を読み終えた。

「どう?」

「え……面白かったと思うけど」

「そっか。今からね、それ書いたとこ行くよ」

「この話の舞台?」

「ううん、ママの執筆塔。つーかX県なんて存在しないよ? Xがつくの、テキサスくらいでしょ。お? イニシャルじゃないし、州じゃね?」

 ひとりで勝手に納得しながら考え続ける。頭良い人は何を考えているのかわからない。髙橋くんによるとそれが羽熊さんのおもしろさらしいけれど、僕はまだその域を知らない。
 下車して駅を出る。途中にあるコンビニで買い出しして、さらに歩くと高い塔に到着した。その塔に隣接する小屋の前で立ち止まる。彼女はリュックから単行本を取りだした……青葉玲『神葬』は、先日も放課後に教室で読んでいた本だ。

「あー、そういえばまだ言ってなかったね。申し訳ないんだけど、おいしいもん食べまくる旅じゃあないよ。すまんな、少年」

 それは最初からわかっていた。曖昧にうなづいておくと、、羽熊さんは話を続ける。

「ママの著作さ、どれもページ数が同じくらいなんだよね。本の厚さがほとんど変わらないの。だから、カバー入れ替えられたらどれがどれだかわからなくてさ」

 そういいながら、書籍の側面を割る――くりぬかれたところにはアンティーク調の鍵が収められている。「技術の無駄遣いだよね」笑いながら鍵をつかって小屋の扉を開けた。室内へ誘われて、従った。扉を閉めても天窓からの日光のおかげで十分に明るい。

「パパもママも、わたしのことよくわかってんだろうね。新作発売毎に郵便で書籍のやりとりしてるってバレないようにわざわざこんな準備してんだもん」

 奥へ進み、本棚に敷き詰められた書籍のうち、6冊を迷いなく押しこんだ。すると、本棚が左右へ動いた。目の前に、2m四方くらいの空間が現れた。正面に、左側に取っ手がある扉があった。

「おー、なるほどね。だから開かなかったんだねぇ」

 どこか楽しそうに独り言ちながら押し開けた。相当な重さに見えて、手伝った。ふたり同時に体を滑りこませた。直後、電気がついた。眩しくて、腕で目を庇った。背後で重い扉が閉まる音がする。

「一葵って朱雀、好き?」

「え?」

「知ってるでしょ、四神。麒麟をいれたら5匹いるけどさ」

 神様の数えかたって、匹? というか、好きって何がだろう? 彼女は「興味ナッシング?」と言いながら靴を脱ぎ始めていた。土足厳禁なのかな。靴を脱ぎながら「いや、別に」と答えた。

「あ、ちなみに、ここね? 最初の目的地。ママがここで小説を書いてたの。バカ広いよね、書くためだけなのに。推理作家って感じ。おかげでリュウグウノツカイの気分」

「なんでここに」

「途中なんだよねぇ、謎解き。色を足すから、手伝って」

「……絵を描くの?」

「俺の芸術が爆発するぜ?」

 よくわからないけれど、違うらしい。決めポーズの手を下ろして続ける。

「50音といろは歌、わかるでしょ? 50音の、あいしたわ。いろは歌に当てはめてみ?」

 あ、い、し、た、わ。早い順に並んでいるから探しやすかった。1、2、12、16、46だから、

「イ、ロ……ヲ、タ……セ?」

「そゆこと。パンハラかと早とちりして絶望したんだけどさ、まあ、違ったわけだ。あのまま続けててもたぶん完成しなかった。てか想定されてなかったから無理だよね。そもそも、グレーって表記が2種類あるんだよ。紫だって、パープルかヴァイオレットか、明確には指定されてない。一意性が無いのにやろうとしたってのがバカだったなーって。反省反省」

 羽熊さんは軽い口調とともにリュックを床に降ろした。
 両手を組むと頭上で伸ばす。教室でもよく見る、彼女が本気を出す前後の儀式だ。

「ノートの背にさ、それぞれシール貼ってあるでしょ? 黒いの全部集めてくれる? それが終わったら、白いやつ。ノート、ここに重ねるからよろしくね」

 言われるがまま、床に散乱するノートから黒と白のノートを回収した。黒が13冊、白が17冊だった。色分けして、床に重ねた。すぐに青と赤のシールが貼られたノートが勢いとともに重ねられた。黒、白、青、赤。それらを几帳面にそろえると、羽熊さんはスマホを取りだして床に伏せた。ズボンの裾を引かれて、隣に倣う。

「5分、動かないで。センサーが反応しなくなって電気消えたら暗くなるはずだから。暗くなって10秒は動かないでね」

 重ねたノートの目の前で、スマホのカメラを起動したまま待機する。
 5分は長い。動かないのと動けないのとはまったく違う。それでも、駐車場の車内で置いて行かれたのを思い出さずにはいられなかった。50年後に後悔させたくない……彼女の言葉に期待しないと言えば嘘になる。しかし、兄さんと姉さんを止められなかった時点で、後悔しないのは無理だ。

「あ、やべっ」

 床に話しかけるように「どうしたの?」と、尋ねた。くぐもった声で「動かないでって言っておきながら自分で動いちゃった。ごめん、リセットだからもう5分」申し訳なさそうに返された。なんだ、そういうことか。なんとなく生返事をした。

「ね、一葵。気になるから聞いていい?」

「…………うん」

「どうしておねーさんの場所わかったの?」

「……山荘のこと?」

「夜。あ、そっちも夜か。えーっと、脱走した後だよ。おにーさんのとこまで連れてきたじゃん?」

「……かくれんぼの延長だよ、ただの。別に理由は無いかな、ここかなって、それだけ」

 本当は、車内で聞いていた。
 どの駅を使って、どこへ行くのか。奪取したものをどこに保管するのか。ふたりの声はすべて聞こえていた。聞こえていたのに誰かが来てくれるまで何もできなかった。このまま何もできなかったら、後悔する。それだけはわかっていた。なのに、どうすれば良いかわからなくて、怖かった。
 解放してもらってすぐ最寄りの病院へ連れていかれて、検査を受けた。その間、ずっと考えていた。どうすれば兄さんと姉さんを止められるか……電車で追ってもきっと間に合わない。だから刑事さんや病院の方の目を盗んで病院を抜け出した。
 幸い、定期はポケットに入ったままだった。普段から交通系ICカードとしても使えるように定期にはあるていどお金を入れている。高校生になってサッカー部に所属してからは遠征もあるだろうからと多めに入れておくようにと兄さんが教えてくれた。
 それで足りるか定かではなかったけれどほかに最善手が思いつかず、タクシーで目的地の最寄りだろう駅まで急いだ。兄さんと羽熊さんの電話で、急がなければ間に合わないと知っていたから。ギリギリ残り3桁で持ちこたえて、駅に駆けこめた。
 プラットホームで電車を待つ姿を見つけて、姉さんを呼んだ。振り返ったときの頼りないほど泣きそうな表情。事実、すぐ崩れ落ちるように膝をついて泣き出してしまった。姉さんが泣いているときは大抵、兄さんの行動に納得できないとき……駆け寄って抱き寄せた。兄さんが何をしようとしているのか、察してはいたのかもしれない。察した上で、適えざるを得なかった姉さんの心は押しつぶされかけていたんだ。間に合って良かった。今思うのはそれだけだった。
 突然、周囲が暗くなった。
 驚きを理性で封じこめる。隣からシャッター音が聞こえて「もう良いよ、オケオケ」羽熊さんが言った。何を撮ったのか尋ねる前に、スマホのスクリーンを眼前につきつけられる。暗闇の中、細かい直線や曲線が舞っている。

「ノートの側面にさ、暗闇で蛍光する塗料で何か書かれてるんだよ」

 そう言いながらリュックを漁って、諦めてひっくり返した。携帯用プリンターで、今の写真を1枚出力する。筆箱からはさみを取りだして

「黒と白、何冊だった?」

「えっと……13と17」

 羽熊さんは「ういー」と言いながら写真に切れこみを入れた。

「はさみとカッター、どっちが使い慣れてる?」

「え、はさみ……かな」

 ふたつの切れこみを、まっすぐ切った。3つのうちひとつを抜き取って

「黒担当ね。これ、たぶん文字になってるから並べ替えて」

「文字?」

「ノートを重ねるとさ、それなりに厚みがある平面だから側面にもちゃんと文字書けるでしょ?どの順番か知らんからさ、並べ替え。まあ、いけるっしょ、パズルだもん」

 切られた写真に加えて、ハサミを渡された。彼女は写真の残りのうちひとつにカッターの刃を入れて作業を進める。
 何度も5分待って並べ替えていくよりは、写真をならべかえるほうが効率は良い。様子を見るかぎり、ノートの側面それぞれを線で繋げられるように、切り分けてパズルをすればいいらしい。しばらく続けると、横書きにされたカタカナが現れた。

「ハグマアルラ……?」

「うん? なにー?」

 並び変えたものを持ち上げるわけにもいかず、隣へ来てもらった。「オッケ、ありがと。じゃー、白いほうも頼んだ。わたし、まだ紫のが途中だから」新たに写真を受けとって同じ作業を進める。
 今度のは直線が多くて難航した。数分すると「いけそう?」羽熊さんは隣にしゃがんだ。

「あ、えっと、たぶんホクシンサマだと思うんだけど、何かまではわからない」

「ポラリスだよ、北極星の別名。和名ってやつかな、スピカを真珠星とか。その感覚」

「あ、うん」

 手の甲に、油性ボールペンでホクシンサマを加えた。その上にふたつの名前がある。ひとつはハグマアルラ。もうひとつは、

「ウスイナツキ……?」

 得意げな笑みを浮かべると、片手に納まらないくらいの、黒い箱を高らかに掲げる。
 何度か……いや、かなりの回数、黒い箱の側面を押している。押すのをやめると、耳障りな、高い音が響き渡った。
 直後、周囲の壁が、右回りに動き出す。揺れが大きく、バランスを崩した彼女を支えながらその場にしゃがみこんだ。

「ありがと。さ、六腑を手に入れるよー」

「待って、今何をしたの? 動くってわかってたの?」

「確信は無かったけど、何かあるかなとは思ってたよ。だって、龍の声で青写真を捧げたわけだし」

「え? どうして……」

「龍の声だし、龍同士なら聞こえんじゃない?」

 ああ、それについては何も思っていないのか。わかることを前提として行動しているんだ。

「今のは、モールス信号で龍に聞こえるように、ハグマアルラってやってみた」

「なんで」

「乙姫に捧げてなかったから。青写真も、六腑も、龍の声も」

「何の話?」

「読んだでしょう? 『青写真と六腑と龍の声を乙姫に』」

「それは……でも、塔はでてこなかったよ」

「うん、出てないよ。内容よりも題名にフォーカスするんで間違ってないと思うからそうしたの。青写真は設計図、つまり小説のプロットとか構成のことだったんだよ。このノート、ママがカズラウララを名乗っていたときに書いた小説の情報とか推理とかがまとめられてる。んで、黒が13冊、白が17冊、青が7冊、赤が8冊」

 動きがおさまり、立ち上がった。反時計回りに、270度くらい床はそのまま、壁と扉だけが回転したんだと思う。僕らが入った扉が若干右側にずれて、白から赤に代わった。黒だったのが白、青だったのが黒、赤が左にずれて青になった。

「扉、等間隔配置じゃないよ。青、黒、白はわたしの歩幅で同じ歩数だからそれぞれ机と直線で結んだら垂直の関係にあるんだろうけど、赤い扉だけ白寄りなんだよ。それが、この仕掛けのポイントだった。たぶん、今、反時計回りに動いたのも」

 続いて、羽熊さんは口角を上げると「せっかくだから、一葵にクイズね。ちなみに、わたし分かるまで3日かかった」腕を引かれて、赤い扉の前へ誘われた。扉には鳥と馬が刻まれている。さっき四神の話題が出たから、この鳥は朱雀だろう。馬の背後にいるから、まるで聖書にでてくる有翼の馬に見えた。

「よく見て。大小の点が散らばってるのわかるでしょ?」

 言われてみれば。扉の広い範囲に、傷かと思ったけれど、それにしては数が多いし、点の形はどれもきれいだ。意図して刻まれたんだ。でも、どうして

「早くしないと答え言っちゃうよー?」

「え、待って。これが何か表してるってこと?」

「んー、正味そのまま」

 なんだろう、何の模様だろう?水玉にしては位置と大きさが不規則に見える。模様ではない?何かの位置を表しているのかな。そのとき、ぱっと頭に浮かんだのは

「ホクシンサマ……?」

 さっき、聞いた。北極星の別名だって。
 途端、目の前に星空が広がった。

「星座! 扉中央に、北斗七星! 離れた位置に夏の大三角もある」

 気づけたのがうれしくて振り向くと、羽熊さんは明らかに不満そうだった。
 意図せず、先日のルービックキューブの意趣返しになった。

「イロヲタセっていうのがパンハラじゃなくて、同じ色のシールが貼られたノートを重ねろってことだったんだよ。グレーって、GRAYとGREYって2種類の表記がある時点で使用するアルファベットが一意に定まらない。一意って使いかた違うかもだけど、まあ、そういうことなんだな」

 ご機嫌斜めだが説明はしてくれるらしかった。

「この扉は、それぞれ四季を表しているってこと? 赤は朱雀だから、夏だよね?」

「うん。まあ、扉の観察は六腑を回収しながら、追い追い」

 そういいながら赤い扉を押し開ける。その先は狭い部屋だった。
 中央の台座にはガラスの円盤――ドライフラワーにされた、桃色のカーネーションがガラスに覆われている――が静置されていた。指先で、フラジャイルに触れるような手つきでそっと触れる。
 話しかけるのは憚られて、数歩下がった。
 そのとき、はじめて扉の隣に羊の絵が壁に埋めこまれていると気がついた。

「ごめん」

「あ、いや……大切なものでしょう?」

「どうだろね、わかんない」

 円盤を手に取ると、部屋の中央に座する机の上に乗せた。興味を失ったように青い扉の前へ向かう。僕もそれに倣った。円盤は2㎝くらいの厚さだった。
 青は、龍と虎が刻まれている……青龍と虎、あるいは、白虎と龍? あっ、朱雀が赤い扉なら青に青龍、白に白虎、黒に玄武。それなら、春夏秋冬というのを青、赤、白、黒で表現しているのかな。加えて、青い扉にも星座が刻まれている。七斗北星は季節ごとに角度を変えながら北極星のまわりを1年かけて1周する。赤い扉では柄杓の柄が上部にあったように、青い扉では柄杓が下を向いて柄は右側にあった。北斗七星は4つの扉を経て「水汲み」している。
 羽熊さんはしばらく青い扉を観察すると、付近の床を強く踏みこんだ。すると、扉の左側に飾られていた兎の絵が回転して竜胆の絵に変わる。絵の額縁のような突起に指をひっかけてスライドさせると、50㎝四方くらいの空間が姿を現した。彼女が手を伸ばして中から取りだしたのは万年筆だった。
 左手で万年筆をもてあそぶ彼女に尋ねた。

「黒と白は良いの?」

「ここ、リュウグウジョウだって言ったでしょう。龍がいるから、龍宮城」

「青い扉の龍のこと?」

「あー、ううん。ここじゃあ聞こえないんだよね、龍の鳴き。後で聞かせるから。まあ、龍がいるんだなぁってことでよろしく。あとはー、りんどうって知ってる?」

「うん」

「漢字表記だと?」

「竜の、肝かな」

「そ。さすが一葵! ってことだから、龍の体内を探せば良いの」

「……待って、わからない」

「えー、んー……」

 少し考えると絵の扉を閉じて指さした。

「そんじゃあ、ねぇ。これが、竜胆の扉。ほら、これ竜胆。だから、認識としては、ここは龍の中。ここまでは良いよね? ってことで、真後ろ、向いて」

 ついて行けないなりに、言われたとおりに体ごと真後ろに向けた。ここからはあまり見えないけれど、きっと白虎が刻まれいる扉だ。

「正面にあるの、白い扉でしょう?」

「うん」

「でも、青い扉の正面は犬の絵なんだな。扉の正面は扉じゃあない」

「うん、そうだね。少しずれてる」

「キネトスコープみたいにさ、外側の壁が内側にそって90度分だけ回転しても、もとの扉とは別の部屋に繋がるの、わかる?」

「あっ、じゃあ、赤い扉だけが垂直じゃないというか、えっと」

「そ。上からみたとき机がこの円柱の中央にあると考えると、白と青を繋いだら直径になる。だけど、黒と赤を繋いでも中心を通らない位置関係」

「白と黒は元の位置と同じだけれど、竜胆の扉と赤い扉は別の位置になるってことだよね?」

「そーゆこと。言うの忘れてたけど、この匣は回転させる前の黒い扉からゲットしたの。ちなみに、青がトイレ、赤が出入口、白は開かなかった。まあ、白は、さっき押し開けたとおり、こっちから見れば引き戸だから無理だったわけだ」

 いつの間にか、羽熊さんは器用に、話しながら匣を何度も押していた。

「外側の壁と扉は一緒に動いてるから開けかたは変わらない。青はスライド式だったから、位置がずれても、横に移動したら出入り口を塞げてるって感じかな」

 押し終わると、さきほどと同様、耳障りな音が響いて壁が移動する。ただし、今度は内側の壁が半時計回りに30度くらい動いた。扉が見えなくなった代わりに、扉があった場所の先にそれぞれ狭い部屋が現れた。

「赤と白、よろしく」

羽熊さんは青い扉があった場所へ向かう。僕は近いほうだった赤い扉があったところへむかった。中央の台座にはUSBポートが静置されている。続いて、白い扉があった空間の先へ足を踏み入れた。台座には、ケースに収められた壊れた腕時計があった。シルバーを基調とした華奢なデザインだった。
 ふたつを持って空間を出ると、羽熊さんが机に腰かけながら手招きしていた。

「これで六腑が揃った」

カーネーションの円盤、万年筆、黒いスイッチ、USBポート、そして

「そっちにも腕時計あったんだ」

「青いとこにあった。一葵は、白いほう?」

「なんでわかったの?」

「シルバーとゴールドなら、正面かなって」

 ちょっと意味がわからなかった。確かに、白い扉があった先にシルバーの腕時計があったけれど、それがどうして青いほうにゴールドの腕時計があることと関係していると思ったんだろう?

「もう扉見えなくなっちゃったけどさ、まあ、4つともおおぐま座もとい北斗七星があったわけだ。ここまでいい?」

「え、あ、うん」

「じゃあ、北極星に当たる場所はどこだと思う?」

 龍の声を響かせるたびに、壁が動いた。回転したんだ。その中心は

「机……?」

「ご明察」

 視線を向けると、羽熊さんはいたずらっ子のように笑っていた。

「玉手箱にはね、時間が封じこめられてる。たどり着ければ、10年ごとき余裕で埋められる」

 直後、床が大きく揺れた。
 いや、下がって行く。円形の机が。腕を引かれて机の上、羽熊さんの隣に乗った。

「13冊あった黒いノートを重ねたらハグマアルラ、17冊の白いノートを重ねたらホクシンサマ。加えて、ちょうど赤と青を足したら15冊だし、紫だし。実際、ウスイナツキって名前が出てきたから正解だと思うよ。電気がめっちゃ明るいのだって、距離が離れても照らせるようにって設計だからじゃあないかな。壁際にはノートとか書籍を置いていなかったのは移動時に巻きこまれないように」

「待って、ついていけてない。ひとまず、これは大丈夫なの? 落ちてってるけど」

「うん? まあ、どうにかなるんじゃあない?」

「嘘でしょ?」

「ホントだって」

「なんで」

「ひとまず落ち着きなされ。考えてごらんよ。乙姫に捧げるべき青写真は、プロットノートから導かれる、3つの名前を指していた。龍の声ってのは、龍の鳴きじゃなくてこの匣から発される電波のことだったんだよ。道標となる北極星をみつけるためには北斗七星が見つけられないと無理じゃん? だから、ホクシンサマの前にハグマアルラによる龍の声を響かせる必要がある。んで、ふたつの声によって6か所から六腑を集められたから準備完了。最後は、乙姫へ龍の声を捧げる――龍の声で乙姫の名前を呼ぶ――ほら、乙姫のオトって、年下って意味でしょう?」

「そうなの?」

「『白髪爺さん』、知らんのかい?」

「……?」

「違うね、間違えた。『浦島太郎』、ご存じない?」

「それは知ってる」

「じゃあ後はグーグル先生に聞いてくれ」

 落下が止まり、机から降りた。スポットライトを浴びているような感覚だ。真上の空間からの光が、ほとんど机の面積範囲でしか降りてきていないんだ。

「ここまでストーリーが繋がるなら、信じても良さそーじゃん?」

 羽熊さんは黒いスイッチを握っていた。すると、壁に埋めこまれていた照明が点いて足元や白い壁まで照らされた。カーネーションの円盤、シルバーの腕時計を抱えて、壁際へ戻る。「一葵もおいで」と呼ばれて駆け寄った。
 シルバーの腕時計をケースごと壁から飛び出た引出しに乗せて壁へ押しこむと、壁がカーテンのように動いて埋めこまれた本棚が姿を現す。
 4段とも、絵本やアルバム、ぬいぐるみが収められている。年季の入ったキャラクターのぬいぐるみは、なんとなく見覚えがある気がした。
 続いて羽熊さんの後ろをついて行くと、同様の引出しにカーネーションの円盤をのせて壁へ押しこんだ。先ほどと同じく4段の本棚が現れる。最初の本棚より少し量が多く見えた。ぬいぐるみも収められているけれど、こちらは既製品ではなく手作っぽい印象で星のモチーフがついている。

「ほぅら。やっぱり乙姫様はとんでもない箱を持ってるんだよ。いやー、悪い女だねぇ」

 独り言ちながら手に取ったUSBメモリを光にかざしてニヤリと笑った。机のほうへ戻ろうとした彼女の後に続こうとすると

「羽熊家のはおもしろくないよ。てか、見るものだったら一葵のほうが多いんだから」

「僕の?」

「シルバーの腕時計の刻印、見てなかったの?」

 見ていない。正直にうなずいた。羽熊さんはUSBメモリをポケットに入れるとゴールドの腕時計をもって戻ってきてくれた。ゴールドの腕時計を僕の目線の高さに掲げて、時計盤の裏を指さした。確かに、筆記体で文字が刻まれている。これは……

「シルバーにNatsuki.Y、ゴールドにMoeka.Yって。Yが名字のイニシャルならナツキさんとモエカさんが姉妹って認識できる。同じようなタイミングで、同じ人から送られた、お揃いの品だったなら」

 そこまで言われて、ハッとした。
 菜月は母の名前、萌日は伯母の名前。
 旧姓は雪本だから、イニシャルはY。
 ゴールドの腕時計を受けとり、壁際を注視しながら歩く。引出しを見つけ、腕時計を収めて押しこむと、4段の本棚が現れた。絵本もアルバムもおもちゃも、ぎっしり詰まっていた。
 シルバーの腕時計で開けた空間に収められたアルバムや本の数のほうが、ゴールドのほうよりも少なかった――封じこめられた時間が短かったからだ。
 目の前の本棚からアルバムを引き抜いて適当に開いた。黄色い帽子と桃色のランドセルを背負った姉さんの隣に、ヘルメット片手に黒いランドセルを背負った兄さんと、手をつないでもらった僕がいる。姉さんが小学1年生になった年の春、それなら今から12年前……同じ場所と時間を共有して、同じ方向を見て、みんな綻ぶような笑顔だった。

「ヒロミくんとセナちゃんと一葵? じゃあ、一葵も1年生のとき黄色い帽子被ってた?」

 いつの間にか羽熊さんが隣にしゃがんでアルバムを覗いていた。首肯すると、羽熊さんはひとつ深呼吸をした。

「おにーさんさ、わたしのママに直談判したことあるの。そのとき、ちょうど1年生のとき、会ったことあるんだよ。きっと黄色い帽子で、一葵とわたしが同い年ってわかったのかな」

「なんでそれが」

「事件が起こる蓋然性の補強。あ、名前についてはママの資料に書いてあった。こっちにも」

 腕に抱えながら指先でつついているのは学校で使っているタブレット端末だ。充電ポッドに変換プラグをさしこみ、さらに六腑のひとつだったUSBプラグを接続した上で、先ほどのUSBメモリを差している。私服なこと以外は普段どおりに見えるのに、なんだか怖くなった。

「おねーさんの誕生日いつって聞いたじゃん? 改めてさ……今年の6月後半くらいで20歳になる?」

 探るような、遠慮するような瞳が向けられる。
 何も言えなかった。
 怖い。確かに、2004年6月19日生まれだ。なんで、どうやって知ったんだろう? あまり見ないようにしていたけど、ニュースでは、兄さんはもう、香坂昊弥だと本名も報道された。姉さんについては、19歳だとしか、まだ

「あのカフェでさ、当初はひとりで事件を起こすつもりだったって聞いたんだよね。でも、実際は妹を共犯者にしてるわけじゃん? なんでひとりでできるはずだった事件を妹に手伝わせることにしたのか……そうすると決めたとき、何の策も考えてなかったと思う?」

 聞きたくないけど、知りたかった。何が起きていたのか。どうしたかったのか。どうすれば良かったのか。誰かに教えてほしかった。「どうして10日だったのか、考えてさ」羽熊さんは続ける。

「2022年に少年法が改正されたってニュース、見たことない? 従来の未成年者のうち、18歳と19歳を特定少年として扱うって。起訴されるまで20歳未満なら、各機関の判断で報道がされないこともある。おにーさんの名前は出てたけど、おねーさんは年齢しか出て無いのは、そういうカラクリだよ」

「関係ある? なんで今だったのかなんて」

「おねーさんが起訴前に20歳になっちゃったら送検手続きをやり直されて何もかもが報道される。それを回避するために今、勢いよく自白してんだよ、あの人。起訴不起訴が決められるまでの……25日間くらいだったっけ? それまでにおねーさんを不起訴にする作戦のひとつじゃあない? 結局思いどおりってわけだ。むかつくよね」

「……言い切れる?」

「確信はない。でも、そうじゃなかったら、おねーさんも一葵みたいに車内に放置して無関係だって言い張れば良いだけだから。そうしなかったのは、理由が必要だったから……おねーさんが仕方なかったんだって納得できる余地を残すためとか……そういうやつかな。心当たり、ある?」

「なんでわかるの……?」

「12歳のとき、勝手にいろいろやらかしたのバレてたんじゃない? だから、今回は最後にはおねーさんも逮捕されるような計画にしてたんじゃあないかなって。仮に、あの日カフェに一葵が連れてこなくても、きっと、おねーさんはしばらくしたら自首したよ。同時逮捕を避けようとしたのは、進んで自白しておねーさんの不起訴を適える下地を整える時間が欲しかったからだろうね。破滅する方法は選べるって、そういうことだと思ってる。逮捕されるのが遅くなると必然的に送検も遅くなるんだろうけどさ。20歳バースデーまでにどうにかするためには、相応に情報をコントロールできる状況にしておくのがおにーさんには最善だったんじゃあないかな」

「……」

「事件が起きたら、どうしても解決が必要なんだよ。もちろん、今回みたいなときは、犯人もね。だから、なるべく誰もが納得できるように、自分の目的は果たせるように、いくつかの安全装置を配置していた。結局すべておにーさんの思惑どおりだって気づいたときはむかついたよ。けどね、一葵がおねーさん連れてきたときは溜飲下がったね。ざまぁ見ろって思った。お前が思うほど妹と弟は薄情じゃねーんだぜ、ってね。でも、まあ、それすらも計画の派生のひとつにされたらもう何も言えないよ。拍手喝采、お見事です。憎い演出、自分のすべてを賭けて妹と弟は守ろうとした……本人の心の内はともかく、この答えに辿り着いたら、それ以上は考えたくなくなった。納得したくなったというか、そうであって欲しくなった。どうしたって信じたいものを信じるんだよ、誰だって。主語大き過ぎる話好きじゃないけどさ、哲学者じゃねーもん」

 納得? 何を納得すれば良い? 信じたいこと? じゃあ何を信じればいいんだろう? 羽熊さんの「おにーさん、どんな人?」他意のない問いにさえ、何を、言葉が見つけられない。小さい頃から絵本や対戦形式のボードゲームにも勉強にもよくつき合ってくれた。何でも得意な、優しくて自慢の

「わからない」

 羽熊さんは「そっか」とだけ言って、スポーツドリンクのペットボトルを差し出した。髙橋くんがよく飲んでるやつだ。僕もこの前、買った。見上げると

「わたし、借りは返す主義だからさ。あの夜、山荘から逃げ出すとき、おにーさん食い止めてくれたでしょ? ほんとに助かった、ありがと」

 床に座ると、缶ココアを飲み始めた。僕はペットボトルを抱える。

「おにーさんとおねーさんが変だなぁって、気づいたんだよね? だから、最終列車でこっちに急いだ。到着してから電話かけるなんてなかなか策士だよね、強かというか。その調子ならあの駿太朗とやりあっていけそうで安心だよ」

「なんでそこまで」

「今日のチケット買うとき調べたの。新宿から富士見駅の最終列車到着が23時過ぎ、そこから霧ヶ峰の山荘まで車なら1時間かからないくらい。見張りが30分くらいで交互だったから、60分くらいならひとりが別荘からいなくなってても気づけなかった。24時くらいになったら人の話し声増えてるっぽく聞こえてたし、それくらいに別荘についたんじゃないかなーって」

 別荘についたのは日が変わるころだった。確かにそれは間違っていない。間違ってはいないけれど、どうしてそこまで僕の行動も、兄さんの行動も手に取るようにわかっているんだ? それに、

「恨まないの?」

「何を?」

「全部」

「……」

「全部違ったら、羽熊さんが怖い思いすることなかった」

「一葵も、家族と暮らせてたね?」

「……」

「ごめん、ただのイジワル。いや、そうじゃなくても……本当にごめん」

 彼女は缶を置いて頭を下げた。

「今回の事件さ。実は、わたしが完全な被害者とは言い切れるわけではないんだよ。ほら、見ているだけも加害者って言うでしょ?」

「何の話……?」

「まあ、ちょいと聞いてくれ。お願い」

「……」

「ここは執筆のための建物だって話したでしょう? ママの失踪は、もう10年近く前でさ。小説も書いていないとしたらここも使わないわけじゃん? なのに、埃被ってないし、仕掛けもちゃんと作動するし。これだけ大掛かりな仕掛け、使わないのにメンテしてるのも変じゃん? 定期的に、管理してたんだよ。鍵を持つ者なら自由に出入りできるから」

「……」

「わたしの前から消えただけ、父は母と繋がってたんだよ。本当、親の気が知れないよ。娘は捨てたくせに小説は捨てらんないなんてさ」

「でも、羽熊さんがそうしたかったわけじゃ、羽熊さんの責任じゃあ」

「性悪説うんぬんの話はしてないんだよね。おにーさんとおねーさんがこんな大それたことしたの、わたしの両親の行動がはじまりだっつってんの」

 声を荒げたわけではないけれど、強い口調だった。怒っているのか寂しいのか悲しいのか、判断がつかない。何を言おうとも、ここまでして自らの非を証明しようとしている彼女の思いを拒絶してしまう。もちろん羽熊さん自身が悪いとは思わない。けれど、否定したくない。できない。

「知識量にはそれなりに自信あるよ、そのために頑張ってきたのもあるし。けどさ、ママが失踪したときに作った暗号ゲームなら、解くために必要な知識を推測したなら、あまりにも正確過ぎている。ほぼ10年のラグだからね。だったらどうしてわたしが解けるレベルなのか……適宜、作り変えていたんだよ……3つの交通事故のこともおにーさんの主張も、忘れ去ってなんかいなかった。窘めるチャンスも計画を止めさせる機会も、この10年のうちに存在していたはず。けど、そうしなかった。わたしも、できることはあったのに何もしなかった」

 何も言えずにいると「恨まないの?」と、尋ねられて「何を?」と聞き返した。すると「全部」と返された。答えられないとわかった上で聞いたのか「ほんと、誰も彼も勝手すぎて笑えるよね。言えっての」彼女は自嘲しながら髪を耳にかける。ふたりともしばらく何も言わなかった。

「ね。おねーさんのさ、セナ、って漢字でどう書くの?」

「……石瀬に、夕凪」

「ひろみ、せな、いつき……わたしそういうの、好き。おにーさんが昊弥で太陽、おねーさんが瀬凪で水、そして一葵は花! 花は日光と水が無いと育たない……人と繋がった名前って素敵じゃん?」

「羽熊さんは」

「わたしは自己完結型だよ、あっちこっちいくけど、名字から名前にたどり着くだけ。なんやかんや自分の名前きらいじゃあないけどね」

 缶ココアとタブレットを抱えて立ち上がると、

「好きなだけ見てていいよ。わたしも好きに過ごしてる。時の部屋じゃあないから問題ないよ。時間の流れかたは地上と同じだから」

 部屋の中央へ戻っていくと、床に座ってタブレットを注視しはじめた。
 開いたアルバムに視線を下ろす。他のページも、ほかの思い出も見たくなって、時間は解けるように過ぎていった。
 不意に、羽熊さんが隣にしゃがんで「ごめん」とつぶやいた。

「好きなだけって言ったけど、16時だから移動しても良い? 会っておきたい人がいてさ」

 このままいつまででも居れてしまう。帰りの新幹線もあるだろうから、うなづいた。到着から6時間以上経過しているとは思わなかった。動き出した机の上、なんとなく「どうして今日?」尋ねた。

「ケーサツの方々にお礼言いたいんだよね。調べてみたら、お巡りさんって勤務に法則があるの。でも、4日で1タームなのか、3日で1タームなのか判断つかなくて。わたしが交番に来たのは午前6時前だったから、夜勤中だったのは確定していた。今日ならどっちにしろ16時くらいに勤務してるんだろうなぁって。刑事さんも、公務員だし17時までは働いてるでしょ、たぶん」

「……どうして誘ってくれたの?」

「せっかく観光地来たのにぜんぜん楽しめなかったから。パパに日帰りだったらいいよってお小遣いもらったんだけど、ひとりで行くのはなんか嫌だった。だから、誰か誘うことにしたの。中学から今の学校通ってるんだけど、結局3年間ずっと朱寿と駿太朗だけだったんだよね、まともに話してくれる人。つーわけで、交友関係はほんとに高校入試組とほとんど変わらない。選択肢が無いんだな、悲しいことにね。んで、朱寿さまは急にお誘いしたところで親から許可おりなくて断られるだろうし、駿太朗にも翼沙にも言えないことも言いたくないこともあるから。そうすると、誘いたいって思える人は他にひとりもいなかったんだよね。要するにポジティブな消去法だ。あとは、そうだ、あれだ。学校、一葵いないとそれなりに寂しいから」

 それなりに。そうはっきり言えるところが羽熊さんらしい。もしも、はっきりと言えたら……ふたりを止められたのかな。何でも無いって、どうだろうなって、誤魔化されたとき……あのとき、もう少し踏みこめていたなら。
 元の階へたどり着いたのに、机から両足を浮かせたまま、降りられなかった。宙に浮いたまま。踏み出せなかったから、こうなったんだ。ただ、事実として受け入れられた。
 後ろ髪を引かれながら駐車場を出た姉さんを確認した直後、兄さんは上着を脱いで後部座席へ投げてきた。視界が覆われる直前、一瞥されたときのあの表情はよく覚えている。悪いと自覚しているのに、許して欲しいのに謝る気が無いとき。姉さんを泣かせた後に形だけの謝罪をするとき。そんな顔、アルバムの中にはひとつもなかった。どうしてあの表情をしてから車を降りたのか、今ならわかる気がした。僕がふたりを止められなかったのは変わらない。変わらないけど

「明日、来れる?」

 羽熊さんは勢いをつけて机から降りた。リュックを背負いながら言葉を続ける。

「無理なら、また行くよ。これで一葵に中間試験勝っても気分悪いし、てきとーに何か勉強しよう? わかんないとこあってもお互いに先生できるでしょ? そうだ、教科書とか問題集かしてよ、持ってくの重いもん」

 駅で姉さんを見つけられなかったら。兄さんの逮捕に間に合わなかったら……50年後に後悔させたくない……あのときの羽熊さんの言葉にこめられたメッセージを、ようやく理解できた。あのとき、確かに、あのときは過去を悔やむしかなかった時間を、今からどうすれば良いのか考えられるようにしてくれた。

「ね、いいでしょ?」靴を履いて振り向いた途端、彼女は硬直した。開いてしまった距離を埋めると、突然「いないいないばぁ!」反応に困って、あふれる涙を拭い続けた。

「変顔バージョンあるよ? 朱寿と駿太朗が監修したやつ、とっておき」

「違う、そういうことじゃない」

「じゃあ……どうすればいい?」

「いいよ、大丈夫だから」

 今度こそ本心だった。なんか、悩むのすら馬鹿らしくなってきたって言うほうが正確な気はするけれど。塔を出て、交番と警察署へ向かう。目当ての人物はみんな警察官らしかった。「先日はありがとうございました!」頭を下げてリュックから缶コーヒーやココアを取りだすと「官民癒着です」笑顔で言いのけた。交番のお巡りさんは若いほうがイシカワさん、年配のほうがタノウチさん。緑茶をいただきながら古くからの知り合いのように談笑している羽熊さんたとを眺めていた。
 警察署では、会議室に通されて、駐車場で助けてくれた刑事さんともうひとりが面会してくれた。清水さん、長田さんだという。ノートパソコンの用意を進めながら清水さんが言う。

「東京のほうから情報提供があってね。逮捕時に容疑者が持っていたUSBメモリ、パスワードMATCHで開いたんだけどさ」

「はい? なぜ?」

「パスワード設定の問いが、〝ま〟は何?、だったんだよ。ハグマのマはマッチのマなんでしょう?」

「いえ、ただの和文通話表ですよ?」

「何それ」

「もう、あの、こちらのセンスは無視してください。説明しきれないです。それで、中身を教えていただける感じですか? 国家機密、じゃあないですね。なんとか機密。企業秘密。あ、捜査機密」

 羽熊さんの言葉に対して「事件に関することだから他言無用、約束できるなら」オサダさんが告げる。ふたりで顔を見合わせて、うなづいた。アルバムにあったような写真と、ほかのも。ここにも長い時間が閉じこめられていた。そのあとは少し会話して、気が済んで。並んで警察署を出た。もうすっかり日が傾いていた。1番星は……街中じゃあまだ見えないか。

「おなかすいたね。駅弁買おうよ」

「……肉! 肉肉肉肉肉肉! さっき信州牛ってやつ見たの! 良い匂いの波動を感じた! 良い匂いの波動はおいしさ指標といっても過言じゃないよ!」

 あー……行きのとき断ってごめんね?

「一葵はどうする? 何にする?」

「え、ああ。見てから決めよっかな」

「釜めしもいいよね、おいしそう。カツサンドとかおにぎりも捨てがたいし、あー待って、なんか味めぐりって書いてあるのもあったはず」

「……3つ買って、分ける?」

 羽熊さんは目を丸くして「天才っ?」と目をキラキラ輝かせた。小さいころから、兄さんと姉さんは優しくて、おやつでも外食でもよく3種類選んで3人で分けて食べてた。それを思い出しただけ。いつも僕を優先して考えてくれていた。だから、おかしいなと思ったときにはもう遅かった。それに気づけたなら、これから僕にできることはきっとある。ちゃんと見つけられる。

「ひとつ聞いていい?」

「ん?」

「今朝どうしたの? 朝ごはん食べながらみたいだったけど」

「ダラダラしてたら時間やばくなっちゃってさ。キッチンの食パン持って駆けこみタクシーしたんだけど、なんか、色々考えてたら食べるの忘れてたよね」

 苦笑する彼女に対して、改めて思う。羽熊さんに友達が少ないのは、きっと本質的に不思議な子だからだ。人目を引くけれど、近づいて良いのかわからない。そう、相手を遠慮させてしまう、何か。髙橋くんと星科さんが特殊だったというか、限られた人しか近づいてはいけないような、そういう雰囲気。髙橋くんが須河内さんに会いに行きたいからって連れていかれたけれど、それがなければ僕も進んで関わろうとはしなかった。
 だって、初対面のとき、よくわからないけど

「はじめまして。君、佐伯くんって感じの方ですね。あっ、駿太朗の言っていた部活の同期って佐伯くんのことですか?」

 改名させられたから。
  すかさず隣の女の子が「はぐ、荒ぶるな荒ぶるな。落ち着きたまえ静まりたまえ」と笑いながら指摘してくれたけれど当人はよくわかっていない様子だった。

「ああ、なんか、すみません。わたしは羽熊です。羽熊有流羅。こっちのちっさいのは」

「ちっさい言うな」

「チビは星科朱寿」

 わざと「チビ」を強調する。
 星科さんの相手をしながら

「それで、佐伯くんはどうされた感じですか? あー、駿太朗が拾ってきた感じですかね?」

 ああ、佐伯は確定なのかな? 
 実際、数日は佐伯呼びだった。

「香坂ぁ? えー、なんか、違くない?」

「違うと言われても」

「下の名前、なんだっけ?」

「え? あ、えっと……一葵、です」

「じゃあ、そう呼ぶね。よろしく、一葵」

 実際話してみれば、まあ不思議なところもあるけれど、気さくで表情豊かな女の子だ。
 前を歩く羽熊さんは振り向いて笑顔を見せた。

「ね。今度、うちに来てよ。一緒にご飯食べよう! 料理は任せて」

「料理、得意なんだ?」

「オムライスだけ。ちゃんと美味しいよ」

「わかった。楽しみにしてる」

「焼いた卵は、出汁派? 甘い派?」

「兄さんが作るのは甘くて、姉さんが作るのはあまり甘くなかった。どっちも好き」

「じゃあ、オムライスの卵はどっちでもいいの?」

「チキンライスと甘い卵って合うの?」

「わたしは好き。というか、甘いものが好きだからお菓子作り並に入れるよ、砂糖」

「それは、健康的に大丈夫?」

「ご覧のとおり」

「……」

「なんで黙っちゃうのさ」

 そのとき、後ろ歩きをしていた彼女がスーツ姿の人とぶつかりかけた。咄嗟に腕を引いて防ぐ。

「危ないよ、周り見て」

「ごめん、ありがと。それとさ、3つめ、これにしよ?」

 選ばれたのは釜めし弁当。確かにおいしそうだけれど……反省してるのかな? 苦い表情になったのを自覚する。「こういうの苦手?」と首をかしげているあたり、本当にわかっていないんだろう。わかっていないなら、反省もしていないのだろう。

「いや、食べたこと無いかも」

「じゃあ初めてなんだ! わたしも初めて。でもさ、もう見るからにこんなの絶対おいしいじゃん? いけるいける、大丈夫!」

 少なくとも、跳ねるようにレジへ向かう様子からは感じられない。しかたなくふたつのお弁当を片手にその背中についていった。駅の時計が視界に入った。もうすぐ18時になる。

「新幹線、何時?」

「18時17分」

 羽熊さんが襲来して、もう半日経ったんだ。

「もっと遅い時間が良かった? たまて箱、まだいたかった?」

「いや……キリがないと思う。それに遅くなり過ぎたら、警察に補導される時間になりかねないよ」

「そう? 高校生って言えばいけるっしょ。違う、間違った、大学生」

「良くないよ」

「えー、いけるって。朱寿じゃないから小学生には見えないし」

 よく星科さんこき下ろすよね、羽熊さん。まあ、星科さんもやってるけど。本人の前でも平気で言いあうから、悪口じゃなくて戯れているようにしか見えない。付き合いの長さが為せることだろう。
 この前は「新作に浮かれてたのは認めるけどさ。アルラと私の服、値段一緒とか一生かけても解せんよね。まじ無理、この世の仕組み頭悪過ぎ。あのコミュ障とりあえず縮め。おいこら珍獣、笑うな。10センチ寄越せ」聞き上手を装っていたら飛び火した。仮に身長のやり取りをしても、たぶんまだ僕のほうが高いくらい星科さんは小柄だ。加えて童顔だから、制服じゃなかったら確かに小学生に見えるかも。思わず「ああ」と声が溢れた。

「ふははっ、納得しやがった! 朱寿に教えてやろう!」

 羽熊さんはポケットからスマホを取りだす。さすがに焦って止めようとした。「否定してる時点で共通認識じゃん?」と言われたら認めるしかないんだけど、でも本人に伝えるのは待って欲しい。

「か、可愛らしい感じだから! それだけだよ!」

 彼女の手を掴んで画面を見ると――カシャリ――内カメラで写真されたと理解した。その写真を見せられながら

「焦り過ぎ。駿太朗も、こういうこと、よくやるでしょ?」

 確かに、もう何度かやられてる。髙橋くんに限らず羽熊さんにまで……我ながら術中にハマり過ぎてしまった。恥ずかしくて顔を逸らした。

「からかわれなれてんじゃないのかな、末っ子さん?」

そうだよ、慣れてるよ。睨みつけると――変顔だった――思わず吹き出した。耐えきれず声を上げて笑った。羽熊さんも笑い出す。笑いが落ち着くと、「ね、明日、木曜日だよ」彼女は言った。

「学校だね」

「そ、学校。来れそう?」

「うん」

「ほんと?」

「宿題なんにもやってないけどね」

「それくらい手伝うよ!」

 羽熊さんの足取りはさらに軽くなる。鼻歌とともに、今にもスキップし出しそうなくらいだ。何がそんなに楽しいんだろう? 振り向くと、両手を上げて左足を曲げる。

「あのね、今ね、カナクリシソウがゴールテープ切ったときと同じ気分! およそ11日23時間30分だってさ! いやぁ、おかげで駅弁のおいしさ跳ね上がるよー、相乗効果だね!」

 何を言ってるのか、まったくわからない。けれど、なんだろう、嬉しさを体現する羽熊さんを見ていたら内容なんて些事にしか思えなかった。だから新幹線の座席に着いて駅弁を開いたとき、もとの位置がわからないくらいの散らばりを前に、ふたりで笑いあえた。




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