「ということは、その女性は、溺れて心肺停止状態の恋人のことを、十分近くも放っておいたというんですか?」
「目撃者の証言によると、そうなるな。たまたま湖の対岸でバードウォッチングをしていた人が、偶然双眼鏡で見ていたんだ。女性が湖から男性を引き上げて岸に寝かせたんだが、携帯電話を取りだして通話し――これは救急への通報だとあとで確認が取れた――人工呼吸や心臓マッサージの救命措置を開始するまで、十分くらい時間があったそうだ」
「その間、女性は何を?」
「何も。ただ、ずぶ濡れで横たわる男性――自分の恋人を黙って見下ろしているだけだったらしい。途中、何度も腕時計を確認するような素振りをしながらな」
「時間を計っていた?」
「そう見て間違いないと思うが……いったい何のためだ? そのせいもあってだろう、ようやく始めた救命措置は間に合わなかった。駆けつけた救急隊員によって男性は死亡が確認されてしまったよ」
警部の話を聞いた探偵は、うーん、と唸って、コーヒーカップを口元に運んだ。応接テーブルを挟んだ対面に座る警部も、ミルクと砂糖をたっぷり投入したコーヒーをひと口すする。かちりと音を立ててカップをソーサーに置くと、探偵は、
「それで、その女性の処遇はどうなるんですか?」
「正直、悩ましいところだ。本来ならば、というか、何事もなかったら、恋人を溺死で失ったかわいそうな女性というだけで終わっていたところなんだがな」
「ところが、偶然にも、湖の対岸にいたバードウォッチャーが彼女のことを目撃していて、その様子を証言してきたというわけですね」
「そうなんだ。無視できない内容だろ」
「ええ……」
「見殺しにするつもりだったのかな?」
「だったら、救命措置も通報もしないで、そのまま放っておいたでしょう」
「最初は見殺しにするつもりだったが、やっぱりかわいそうになって助けようとしたとか?」
「その女性と男性は恋人同士だったということですが、仲はどうだったんですか?」
「一応、周囲の人に聞き込みはしたがな、仲睦まじい関係だったと、皆口を揃えて証言してる」
「見殺しにする理由がない、ですか」
「ああ。それとな、調べてみると、過去にも似たようなことがあった」
「何です?」
「半年くらい前、今回亡くなった男性が橋から川に落ちる事故があった。祭りの花火見物をしていたときだったそうだ。橋の高欄から身を乗り出すようにして花火を見ていた男性は、後方に列を成す客の塊に押されるようにして、高欄を乗り越えて川に転落してしまったんだ。その橋は古い橋で、高欄の高さの基準が今よりも低かった時代に架設されたものだったことも災いしたんだな。男性はそのまま川を流され、数百メートルほど下流でようやく引き上げられた。そのときは救急の到着が早く、現場で救急隊員が施した救命措置のおかげで一命を取り留めたそうだ」
「この半年で二度もですか」
「ところが、過去一年に範囲を広げると、もう一件ある。去年の夏に海で、やはり溺れかけたことがあるんだ」
「なんですって?」
「浮き輪で海面を漂ってるときに、浮き輪の空気が抜けたそうだ。そのときには足の届かない深さの沖にまで出てしまっていて、ライフセイバーに救助された。男性は泳げなかったそうなんだ」
「その二件の現場に、恋人の女性は?」
「一緒にいた。川のときは救急に通報しているし、海のときは、いち早くライフセイバーに異変を知らせたんだ」
「どちらのケースでも、しかるべき措置を取っているということですね。今回は、自らも救命措置を施している」
「それを行うまで、十分近くも放っておいたという謎はあるがな」
「女性に聴取はしましたか」
「それは、一応変死扱いになるからしたよ。だがな、俺の感覚だと、あれは本心から恋人の死を悲しんでいるように見えたな。見殺しにしようとしたとは思えん」
「十分も放っておいたことについては?」
「気が動転していたと。だがな、その質問をしたとき、彼女は一瞬、驚いたような顔をしたな」
「自分が恋人のことを、十分近くも放っておいたことを目撃されているとは知らなかった?」
「たぶんな。それと、もうひとつ気になることがある」
「なんですか?」
「彼女は三ヶ月前に、医学会が主催する心肺蘇生法を学ぶ講習会に参加している」
「講習会?」
「ああ。話を聞いたんだがな、その講習会では、人工呼吸や心臓マッサージ、AEDの使用方法などに加えて、心肺蘇生は時間との勝負だということも口ずっぱく教えているそうなんだ」
「聞いたことがあります。人は心肺停止してから、一分ごとに助かる確率が十パーセントほど低下していくんだとか」
「まさにそうだ。心肺停止後に蘇生させるまでは、十分くらいが限界と考えられているらしいな」
「十分……それって」
「彼女は、蘇生の見込みが立つぎりぎりになってから、やっと心肺蘇生処置をし始めたことになるわけだ」
「確かに解せませんね……。分かりました、ちょっと調べてみましょう」
「助かる。あからさまな事件性がないから、警察としては動きにくくてな」
警部は片手で探偵を拝み、もう片手で甘いコーヒーをすすった。
後日、探偵から連絡をもらった警部は、彼の事務所を訪れた。
探偵流儀 case-09いつか素晴らしい目覚めを

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