落ち着け。
ベテランミステリ作家、万代位は、自らに言い聞かせた。
万は、若手ミステリ作家、芭暮暗斗を――正確には、その死体を見下ろしながら、頭の中で計画を練り上げた。その計画は非常にシンプルだ。この部屋で自分が素手で触れた部分を入念に拭き、芭暮愛用のパソコンを鞄に入れて、ここ、ホテルの一室を抜け出すだけ。拭き取る場所には、芭暮を死に追いやったガラス製の灰皿も当然含まれていた。
幸いにも万は、ハットを被りサングラスをかけ、口元もマスクで覆い、さらにはロングコートを羽織うという、決して顔や体型を窺い知られない格好で部屋を訪れている。防犯カメラに映ったとて、それが自分であるとは決して見抜かれないはずだ。今日身につけた衣類は全て、帰宅後に慎重に処分する。警察は、防犯カメラに映ったその謎の人物を追うという空しい努力を続けることになるだろう。自分が今日ここに来るということを知っているものは、誰も――死んだ芭暮を除き――ひとりもいない。もし「あの噂」を警察が知り(間違いなく知るだろうが)自分に嫌疑がかかることになったとて物証もアリバイも何もない。逃げ切る自信はあった。
万は改めて、自分が手に掛けた若者の骸を見下ろした。
お前が悪いんだ。お前の才能を開花させてやった自分を裏切ろうとした、お前が……。
芭暮の死体は翌日早くに発見された。事件について話を訊きたいと掛かってきた警察からの電話に、万は快く応じた。話をする場所を万は自宅に指定した。落ち着ける場所のほうが「ぼろ」を出さずに済むだろう。もっとも、自分は「ぼろ」を出すほど喋るつもりはないが。万は通話を終えた携帯電話を折り畳んだ。
約束の時刻ちょうどに警察はやってきた。二人組の男で、片方はどこからどう見ても刑事以外何者でもないという風体をしていたが、もうひとりの、白いジャケットを着たほうは違った。刑事というには重みがないが、一般人というには眼光が鋭すぎる。疑問に感じた万に、向こうから身分を明かしてきた。刑事らしからぬのも無理はなかった。白いジャケットの男は民間探偵だったのだ。
探偵が警察の捜査に協力する。古風なミステリ小説のようなことが実際に行われていることに万は驚いた。時代錯誤も甚だしい。いまどきそんな設定のミステリを書いたら、「リアリティがない」との誹りは免れないだろう。
「ミステリ小説界の大御所、万代位先生のことは、僕も当然存じ上げていますよ」
探偵は気さくな口調で話してきた。それはどうも、と万は答える。
「万先生が凄いのはですね、お年を召されても全く創作意欲が衰えないことです。衰えないのは意欲だけではありません。書かれる作品自体についてもです。先生は大時代的な本格でデビューされ、その路線を独走してこられましたが、それだけにこう拘でい泥せず、時代の要請や流れを読み、常に作風を変化してこられました」
大ミステリ作家に対する探偵の賛美は続いた。が、どこか白々しくも聞こえるのは万の穿ちすぎだろうか。
「かつてのミステリの花形だった、警察を出し抜く民間探偵や、閉ざされた空間で起こる連続猟奇殺人といった設定に『リアリティがない』と世間の批判が集まるようになったら、警察官を主人公にし、都市で起こる現実感に満ちた、それでいてミステリ的ガジェットも巧みに盛り込んだ小説を書くようになりました。かと思えば、また王道復古的に『本格』の人気が再燃してくると、かつてのシリーズ探偵を復活させて『これぞ本格』という傑作を送り出しもする。脱帽以外に言葉が見つかりません」
ひとり語っている探偵の隣で、刑事のほうは挨拶以降、ひと言も口を開いていない。まるで、全てを探偵に任せているとでもいうように。
「特に、この数年上梓し続けている『幻想探偵シリーズ』は白眉ですね」
探偵がその話題を口にすると、万の動きが一瞬だけ止まった。
「中世ファンタジー風の異世界に住む賢者が、その世界で起こる不可能犯罪に対し、別世界にいる『名探偵』たちと意識の交信をすることで事件を解決していくという。伝統的なミステリの仕掛けを現代風の舞台と設定に落とし込んだ傑作で、話題となりましたね。それまで万代位のことは名前しか知らなかったような若い読者にも読まれ人気を博し、アニメ化までしましたからね。今や万代位は、三世代に訴求するミステリ作家ですよ」
「そんなに買ってくれるのは嬉しいがね、まさか、君たちは私のことを褒めちぎるために来たわけじゃないだろう」
万は半ば呆れながら言った。
探偵流儀 case-07老文豪は死なず

目次