黒雀姫

 私の友人には一人、人殺しが居る。
 当時、麻雀に深く入れ込んでいた私は大学の講義後や休日によく雀荘に出入りしていた。雀荘では様々な人々との出会いがあり、特にKという同年の男とは互いの自宅を行き来する程仲良くなった。Kは学校に行かず働きもせず、親から与えられた戸建てに住み、彼等から貰える月百万以上の小遣いを当てに遊び暮らしている男だったが、その明瞭快活な人柄故に私を始め友人も多かった。
 ある日、Kは私を麻雀ではなく飲みに誘ってきた。今まで麻雀でしか彼と親交のなかった私は、これもまた一興とその誘いに応じた。Kに指定された店は薄暗く、寂れたバーで、私達二人以外に客は誰一人居なかった。金持ちの彼には似つかわしくないと思いつつも、雀荘で出会った人々等を話題にしながら飲み続けた。互いに顔が朱くなった頃、いきなりKはテーブルに突っ伏し、大声で泣き出した。Kのそんな姿を見たのはこれが初めてだったので、驚いた私が訳を尋ねると、彼はしゃくり上げながら語り出した。今朝早くに恋人から自宅へ呼び出されたKは、その恋人から別れ話を切り出された。何と、彼女はE大の医学部に通う男と二股を掛けていたのだ。更に彼女は、金だけが取柄の博打打ちよりも、将来性のある医学生を採ったと、悪びれもせず言い放ったという。
 以前、私はKから直接恋人を紹介された事があった。だが、紹介されるよりも前から私は彼女の事を知っていた。約一年前、突如麻雀界隈に現れた彼女は、早々に次々と『電脳(でんのう)』や『(バイ)サブ』といった異名を持つ男の猛者達を下していった。強く、若く、美しく、常に黒い長袖のセーターに身を包んだ彼女を、いつしか人々は『(くろ)(じゃん)()』と呼ぶようになった。Kも交え、私はこの黒雀姫と何度か卓を囲んだが、哭いた時と、()()った時と、点数申告の時にしか声を発さない無口な女で、遠慮会釈さよりもむしろ、陰陰滅滅な印象を受けたのだった。
 Kの「つらい」「悔しい」といったぼやきは次第に、「許さない」「殺してやる」といった呪詛へと変わった。完全に酔いの醒めた私は、そのまま彼を置いて自宅へ帰ってしまった。酷く薄情な選択をしたが、ここまで嘆き、激昂している人間に、一体どのような言葉を掛けてやれば良いのか分からなかったのだ。
 それから一週間が経過した日の昼頃。昨晩から深夜帯を含む午前中いっぱいの時間を使い、大学の課題を仕上げて疲れ果てていた私の元に、Kから電話が入った。自宅での麻雀へ私を誘うKの声は妙に明るく上ずっていたが、一週間前の彼の様子を思い起こせばその差が些か不気味であった。だが、バーに彼を置いて帰ってしまった罪悪感と、夕食に出してくれるという特上寿司の誘惑に負け、結局私は参加を了承したのだった。
 私がKの自宅に着いた十四時頃には既に、Kと他二人の面子は(サン)()に興じていた。他二人の面子である、縁なし眼鏡を掛けた二十代後半位の男と、怠惰萎靡な風貌だが目つきの鋭い中年男と卓を囲むのは今日が初めてであったが、私は彼等の事を知っていた。突如現れた女に敗れ、その伝説の糧となってしまった電脳と梅サブだ。
 この日のKは夕食の特上寿司の他、高級な酒と肴を大量に用意してくれる等、大盤振る舞いだった。無理矢理散財する事で、失恋の傷を癒そうとしているのかもしれないと思ったのと、バーに置いて帰ってしまった事に対する謝罪も兼ねて、私はKに「無理をしなくていい」と言ったが、意外にも彼の反応は平然としたものだった。
「大丈夫。俺はもう、あんな不義理な女の事なんざこれっぽっちも気にしちゃいない。どうでも良くなった。俺はただ、お前等と楽しい時間を過ごしたいだけさ」
 今思えば懸命な強がりだったのかもしれないが、そんなKの様子を見て、私は少し安心したのだった。
 夕食も終え、何回目かの半荘が終わり、時刻が二十一時を回った頃だった。Kは眠気覚ましと称して私達三人にコーヒーを淹れてくれた。それを飲み終え、新たな半荘を始めた時、私の身体に異変が生じた。瞼が突如として猛烈な重量となり、閉じられてしまったのだ。
「…………おい…………おいっ」
 何度か軽く頬を叩かれ、私は目を覚ました。――一体、どれ程の時間、私は眠っていたのだろう。長かった様であり、短かった様でもある。壁に掛けられた楕円の文字盤のない、アナログ電波時計を確認すると、丁度分針が真上の十二時の位置を指しており、ほんのすぐ後ろを時針が追いかけていた。
 時刻は二十三時。約二時間もの間、私は眠っていた。
「どうしたんだよ、お前。麻雀の途中で寝るなんざ」
「済まないK……他の二人は?」
「少し前に寝室に入ったよ。ほら、手貸してやるから、寝るならお前もそこへ行って寝ろ」
 Kの助けを借りて寝室まで辿り着くと、既に電脳と梅サブはベッドに横になっていた。私も空いたベッドに横になると、まだ眠りが足りなかったのか、すぐにまた意識を手放し、翌日の昼過ぎまで眠り続けたのだった。
 数日後。講義が終わり、大学を出た所で私は二人組の厳つい男達に呼び止められた。男達は刑事だった。
 賭博の容疑で挙げに来たのではないかと動揺する私に対し、刑事の一人が語る所によると、数日前の二十三時頃、N町のとある住宅で、若い女が殺される事件が発生した。警察の捜査により事件の一週間前、その女から手酷く振られた元恋人……Kの存在が浮上した。警察に呼ばれたKは聴取にて、その日のその時刻は友人達と自宅で麻雀をしていたと証言したので、刑事達はその友人達から話を聴いて回り、証言の裏を取っているのだという。
 自分を挙げに来た訳ではないのだと分かり、一瞬安堵したものの、あの黒雀姫が殺されたというのと、友人のKがその犯人として疑われているという事実に、私は更に動揺した。それでも私はKのアリバイを刑事達に証言した。二十三時と言えば私が一旦眠りから醒めた時刻だ。その際、Kは確かに私の目の前に居た。それに現場の住宅があると言うN町は、Kの自宅からどんなに車を飛ばしても往復で二時間は掛かる。あの日、Kは何度か手洗い等で席を立ったが、せいぜい五分、十分程度の話だ。そんな短い時間で黒雀姫を殺しに行ける訳がない。
 刑事達は私の証言を聴き終えると、捜査への協力に対する感謝の言葉を述べ、あっさりと去っていった。どうやら私の証言を信じてくれたらしい。しかし安堵するのも束の間、私の脳裏にKがバーで発した呪詛の言葉が響くと同時に、恐ろしい考えが浮かんだのだった。
 ――Kは本当に、黒雀姫を殺す事は不可能なのか? あの日、私は麻雀の途中で眠りに落ちてしまったが、あの眠りがもし、睡眠薬等によって人為的に引き起こされた物だとしたら? あの眠気は、Kの用意したコーヒーを飲んだ直後に引き起こされた。有り得なくはないだろう。二十一時頃、コーヒーで私と他二人を眠らせたKは車でN町へ向かい、二十三時頃、黒雀姫を殺害。その後、帰宅したKはアリバイを作る為、トリックを用いた。Kの自宅の時計には文字盤がなかった。それを利用したのだ。五時半の時刻に時計自体を百八十度反転させると、時針と分針の位置は二十三時に近い物となる。Kは五時半になると、一度私達を起こして反転させた時計を見せ、今の時刻を二十三時と誤認させたのだ。
 刑事達を追い、彼等に私のこの推理を話そうかと考えたが、今は控える事にした。Kは友人である。易々と売る様な真似は出来ない。それにまだ、はっきりとした証拠もない。誰かにこの推理を話して意見を貰いたい。一度卓を囲めば誰であろうと皆友人である。雀荘には私とKの、共通の友人が誰かしら居るはずだ。そんな彼等の意見が欲しい。そう思った私は、知っている近くの雀荘へと足を向けた。
 幸いにも雀荘にはあの日、私やKと共に卓を囲んだ電脳が居た。(ツキ)に頼らない論理思考を基に麻雀を打つ電脳は、頭脳明晰な男と評判だった。そんな彼から意見を貰うのが最適であろうと考えた私は、彼にKの睡眠薬と時計を使ったアリバイトリックについて、語って聞かせた。
「……それって、()()で言ってる?」
 麻雀の途中で無理矢理卓から引き剥がされたせいもあろうが、電脳の反応は恐ろしく冷ややかだった。
「そもそもさあ、キミの考えたトリックって、ボク達全員を眠らせないとダメじゃん。Kクンから聞かなかった? あの日()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。前の晩、徹夜でもして疲れてたんじゃない?」
 電脳の言葉に、私の推理はあっさりと瓦解した。
「どうしてもキミが起きないから、仕方なくボク達は三麻に移行したんだ。で、二時間位打ってたら、今度は年に勝てなくなった梅サンが根を上げてさ。そこで、その日の麻雀はお開きになったんだ。それが確か、二十三時少し前だったかな?」
 電脳は煙草を口に咥えると、ジッポで火をつける。
「それと参考までに。()()()()によく出てくるアリバイトリックにこんなのがある。実は殺人現場は犯人とそのアリバイの証人が居る場所の近くで、犯人は手洗い等と称して席を外し、その僅かな時間で犯行に及び戻って来る。そしてその後、遠くの偽現場まで死体を持って行く……というのだけど、警察が言うには、死体は損傷が激しく、現場も凄惨故に、別の場所から来た形跡はないらしい。だから、このトリックもありえないだろう。とにかく、Kクンに元カノサンを殺すのは絶対に不可能だ」
「それなら……一体誰が黒雀姫を殺したんだ?」
 私の疑問を愚弄するかの様に、電脳は大量の煙を溜息と共に吐き出した。
「……キミさ、ホントに(なあんに)も知らないんだねえ」

「あら、お久し振り」
 後日、Kの自宅を訪れた私を玄関先で出迎えてくれたのは彼ではなく()()()()()()。その姿を一目見た瞬間、私は全ての顛末を嫌でも悟らざるを得なかった。
「これ、疑いが解けた祝いの。Kの好きなやつなんだ」
 逃げる機会を失った私は、相手を刺激せぬ様、慎重に言葉を選びながら、ビニール袋に入れて持って来た酒瓶を差し出した。黒雀姫は左手を出して私から酒瓶を受け取る。今日の黒雀姫は、トレードマークである黒いセーターの袖を捲っていた。露わになった彼女の両腕の素肌には、白くなった古い物から、赤い新しい物まで、刃を用いたと思しき無数の創傷が刻まれていた。
「ありがとう。きっと彼も喜ぶわ。……でも、警察も馬鹿なものよね。虫一匹殺せない心優しい彼が、あの雌豚を殺せる訳ないじゃないの。だけど、彼があらぬ疑いを掛けられるのはこれが最後。これからはあたしが護ってあげるんだから。……薄汚い他の女達からも、ね」
 この時私は、彼女の笑顔を初めて見た。汚れてさえいなければ、素直に可愛らしいと思えた事だろう。
 電脳から教えられたが、殺されたのは黒雀姫ではなかった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。二股と言う不義理を働いていたのは、殺された女だけではなかったのだ。
「それじゃあ、俺はこの辺で」
「待って」
 辞そうとする私の肩を、黒雀姫は素早く右手で掴んだ。
「丁度あたし、Kに料理を作った所なの。肉まんに焼売、回鍋肉……彼って中華が大好きなのよ。良ければご一緒しない? 張り切って良いお肉も使っちゃった」
 泣きたくなる程の、失禁したくなる程の恐怖が私を襲ったが、それでも丁重に断りの文句を喉から絞り出した。
「……そう、それは残念」
 心から残念そうに、それでも素直に、黒雀姫は私の肩から手を放した。――もし彼女に、僅かでも正気や理性が残っていたのなら、きっと私は今、生きていない。
 私は()()()()()()黒雀姫を凝視しながら、彼女の腕が届く範囲の外まで後ずさりをすると、素早く踵を返し、全力で走ってその場から逃げ出したのだった。  あれから実に四十年近い年月が経ったが、Kに誘われたあの日を最後に、私は麻雀を打てていない。







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