登場人物
橘 伊鶴
「新興ミステリ研究会」メンバー。無職で、小説家を目指している。
水原 悠太郎
「新興ミステリ研究会」メンバー会長。新潟出身。会社員。
諏訪井 光
「新興ミステリ研究会」メンバー。弁護士。
鷲尾 飛鳥
「新興ミステリ研究会」メンバー。帰国子女の大学院生。
土部 友華
「新興ミステリ研究会」メンバー。ミス研の合宿開催場所として自宅を提供する。
ZAN
「新興ミステリ研究会」メンバー。今回の合宿には参加をしていない。仏教や民俗学にあかるい。
土部ママ 土部パパ
土部友華の両親。パパは交通事故にあい、下半身不随である。
***
煉獄とは――
死者が天国に入る前に、
その霊が火によって罪を浄化されると信じられている場所
プロローグ
『男子高校生四人が行方不明 集団失踪か、警察が捜索強化』
【〇月〇日・〇〇市】群馬県**市で、同じ高校に通う男子生徒四人が突如として行方不明になる事案が発生し、警察は集団失踪の可能性も視野に入れて捜索を続けている。
行方が分からなくなっているのは、いずれも県立〇〇高校に通う二年生の男子生徒四人。警察によると、四人は今月〇日の放課後、学校を出た後の足取りが確認されておらず、そのまま消息を絶ったという。
家族からの届け出を受け、警察が調べたところ、防犯カメラには当日夕方、市内のコンビニエンスストア付近で四人が一緒にいる様子が映っていた。しかし、それ以降の行動は確認されておらず、携帯電話もすべて電源が切れた状態が続いている。
学校関係者によれば、四人はいずれも同じクラスの友人グループで、特段のトラブルや問題行動は報告されていなかったという。担任教師は「突然のことで驚いている。普段と変わらない様子だった」と話している。
一方で、同級生の証言では、四人が「忌み地に行く」「謎をとく」といった意味深な発言をしていたとの情報もあり、警察は交友関係や通信履歴の解析を進めている。
現場周辺では捜索が続けられており、警察は「些細な情報でも提供してほしい」と市民に協力を呼びかけている。事件性の有無を含め、慎重な調査が続いている。
【速報】男子高校生4人、突然消えるんだがwwwww
1 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:02:33.12 ID:xxxxx
ちょっと怖いニュース来てるぞ
同じ高校の男子4人がまとめて行方不明らしい
2 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:03:10.44 ID:xxxxx
は?家出とかじゃなくて?
3 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:03:55.91 ID:xxxxx
> > 2
> > 放課後に4人で一緒に帰ったまま消えたらしい
> > スマホも全部電源切れてるって
> >4人のX、謎ポストあり「忌み地いく」らしい
とりま顔写真貼っとく
(404 not found)
4 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:04:21.67 ID:xxxxx
それ事件だろ普通に、もしくは乱痴気ぱーてぃ
5 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:05:02.88 ID:xxxxx
コンビニの防犯カメラに映ってたのが最後とか
そこから足取り不明
6 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:05:40.19 ID:xxxxx
4人同時ってのがヤバいな、現代版神隠し?
1人ならまだしも
7 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:06:18.27 ID:xxxxx
なんか「これから行く」みたいなLINE残ってるって話出てるぞ
8 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:06:59.11 ID:xxxxx
> > 7
> > どこにだよ、群馬の山奥だろ?怖すぎ
9 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:07:33.12 ID:xxxxx
心霊スポット説出てるな
この辺に有名なのあったっけ?
10 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:08:05.77 ID:xxxxx
山じゃね?
近くに立入禁止のとこあるだろ
犬鳴トンネルみたいな、あれ牛首トンネルだっけ?
11 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:08:41.56 ID:xxxxx
でも4人まとめて消えるって普通じゃないよな
事故なら何か見つかるだろ
12 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:09:22.14 ID:xxxxx
誘拐とか言ってるやついるけど4人同時は無理ゲーだろ、男JKだろ?
13 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:10:01.98 ID:xxxxx
なんかこの前も似た話なかった?
集団で消えるやつ
14 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:10:37.45 ID:xxxxx
> > 13
> > やめろそういうの
15 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:11:12.66 ID:xxxxx
警察もまだ何も掴めてないらしいな
16 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:11:45.20 ID:xxxxx
普通に帰ってきてくれればいいけどな…
17 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:12:09.87 ID:xxxxx
こういうの一番怖いのは理由が分からんことだわ
18 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:12:55.34 ID:xxxxx
そのコンビニ、夜行くの無理になったんだが
19 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:13:21.66 ID:xxxxx
てかさ、4人とも同じ方向見て立ってたって話見たぞ
防犯カメラ
20 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:13:44.88 ID:xxxxx
> > 19
> > え、なにそれ
21 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:14:10.32 ID:xxxxx
いや知らん、まとめサイトで見ただけ
22 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:14:55.01 ID:xxxxx
こういうの後から変な噂増えるんだよな
23 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:15:20.67 ID:xxxxx
でも正直ちょっと怖いわ
なんも痕跡ないの
24 :風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:16:02.91 ID:xxxxx
これガチで闇深案件じゃね…
まとめサイトに現場に残された唯一の私物があるって書いてあった
『十角館の殺人』らしい。…なんで?
25:風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:17:22.64 ID:xxxxx
なんじゃそりゃ?なぜに綾辻行人?
26:風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:22:45.02 ID:xxxxx
事件の香りがするぜ…
27:風吹けば名無し:202X/0X/XX(X) 18:23:57.43 ID:xxxxx
真実はいつも1つ!
第1章 橘 伊鶴
1
「あれがパパの造ったツリーハウスですー」
と土部が紹介し、俺達は一様に頭上を見上げる。
何の樹だか判らないが、とにかく大きな樹だ。その上に、木材を組んで造った小屋が乗っている。地上から小屋の入口まで、これまた手づくりの梯子が伸びている。
「すごいですね!」と水原が声を洩らす。
DIYの域を超えている、と俺も思う。土部邸の庭には、他にも彼女の父が自作したらしいベンチやブランコが随所に置かれているけれど、このツリーハウスは最も手間が掛かった作品だろう。
土部の勧めに従って、水原と諏訪井が梯子を上っていく。梯子はロープで樹に固定されており、安定しているようだ。「橘くんもどう?」と諏訪井の声が降ってくる。
俺は適当に理由をつけて遠慮する。
「いやあ。高いところ苦手なんすよ」
一度に三人も登ったら、さすがに窮屈だろう。
鷲尾も地上に残って、土部と会話を交わしている。俺は改めて周囲を見回す。ツリーハウスを設置した樹は突出して高いが、この辺りは他にも木々が茂っており、直射日光を避けることができる。遠くの日なたでは、心なしか景色がゆらめいているように見える。
陽炎か――と、声には出さず呟く。
八月。夏真っ盛りである。
空は忌々しいほどの快晴。この季節の晴天は、もはや「天気が悪い」と云うべきだろう。日陰にいても全身に汗が滲む。俺がツリーハウスに登りたくないのも、暑苦しそうというのが本音だった。
「はあー。良い見晴らしですね」
水原の声が聞こえる。諏訪井が「ツリーハウスと云うか、物見やぐらだね」と続ける。ツリーハウスに到達した彼らの姿は樹の枝葉に隠れ、地上からでは部分的にしか見えない。
「落ちないでくださいねー」
土部が両手をメガホンがわりにして、地上から呼び掛ける。
隣の鷲尾が「落ちたら怪我で済まないよね?」と不安そうな声を洩らす。「うーん。たしかに。落ち方によっては」と土部。
高さとしては、建物の三階程度だろう。世の中には四階から落ちて生き延びる者もいれば、二階から落ちて死ぬ者もいる。
「こんなの、どうやって造ったの?」
「憶えてないなー。パパがこれ造ったとき、あたしまだ小学校の低学年くらいだったんじゃないかな」
「えっ。そんなに古いんだ」
「だいたい二十年くらい前?」
「大丈夫なのかな。老朽化と云うか……」
「さあ? どうだろう?」
地上でのやり取りなど知る由なく、水原と諏訪井はツリーハウスを楽しんでいる。「エアコンまであるじゃないですか」「ですね。電気引いてるんですね」等という声が聞こえる。樹齢百年を超えているだろう大木は、まったく揺れない。仮にツリーハウスが崩壊しても、木の枝に守られて落下は免れそうだ。
「友華さん、写真」
スマホを手に、鷲尾が土部に身を寄せる。ツリーハウスを背景に自撮りするつもりらしい。彼女達は普段からよく二人で写真を撮っている。丁度良い角度を探っている二人に、俺は「撮りますよ」と声を掛ける。
「ありがとうございます」
鷲尾のスマホを受け取り、俺は身を屈める。ツリーハウスまで収まるように、笑顔の二人を何枚か撮影する。いつもと違って、土部の方が少し硬い表情だ。場所が自分の実家なので恥ずかしいのかも知れない。
「確認してください」
スマホを鷲尾に返す。鷲尾と土部はスマホを見ながら二人で雑談を始める。水原と諏訪井はまだツリーハウスから下りてこない。
ふと、俺は煙草が喫いたくなった。
しかし、喫わない人がいる場所では喫わないと決めている。
この新興ミステリ研究会で喫煙者は俺ひとりだ。正確にはもうひとりいるが、今回の合宿には参加していない。総勢十名ほどのメンバーのうち、参加者は水原、諏訪井、土部、鷲尾、それから俺の五名。すなわち、研究会の立ち上げに関わった古株のメンバーである。
2
新興ミステリ研究会は、立ち上げから一年ほどの社会人サークルだ。
もともとは各自、ネット上で自作のミステリを発表していたメンバーが集まって結成された。発起人は諏訪井で、主目的は小説同人誌の製作・販売。メンバーは二十代から三十代が大半で、そのなかでも最年長の水原が会長を務めている。商業出版を経験している者はおらず、みなアマチュアだ。
研究会と名乗る以上、ただ書くだけではない。古典から最新作まで小説や評論を読み、読書会と銘打って、それらについて談義する。さらには今後の活動方針を考えたり、親睦を深めたりするため、今回、初の試みとなる合宿を開催する運びとなった。
合宿は二泊三日。開催地は群馬県某所――土部邸。
土部が自ら「なら合宿所はうちの実家でどうでしょう」と提言したのだ。
「ちょうど使っていない離れがあるんですよー。それに、家の周りには色々と怪しいスポットがあってですね、ミス研の合宿にお誂え向きって感じです」
彼女の両親も快く了承してくれたとの話なので、お言葉に甘えることにした。
そして当日を迎えた。
合宿参加メンバーのうち、諏訪井、土部、鷲尾、俺の四人は東京に住んでいる。朝早く上野駅に集合し、北陸新幹線で高崎駅まで行った。ただひとり新潟在住の水原は、自宅からマイカーを運転して来た。彼が東京組の四人を高崎駅で拾い、土部邸まで乗せてくれた。
市街地を離れ、田畑の広がる景色を抜け、細い山道をのぼった。
山の中腹に拓かれた住宅地だ。もっとも、どの家も土地が広く、家と家との間隔も空いている。なるほど、合宿に打ってつけの環境と云える。
土部邸は、なかなか奇妙な造りをしていた。
〈離れ〉と聞いていたが、建物自体は母屋と繋がっている。増築と表現した方が正確かも知れない。母屋は一階建ての擬洋風建築。そこに、簡素な造りの平屋を付け足した格好である。
離れの中に入って母屋の方へ廊下を進むと、母屋の外壁が内壁として現れる。母屋と離れを行き来するための扉は、本来は母屋の裏口であったものだ。両者は一見した限り隙間なく繋がっているが、大雨の際にはいくらか漏るらしい。
土部邸に到着してすぐ、彼女の両親と挨拶を済ませた。
「ああ……遠いところを、よくお越しくださいました。娘が世話になってますう。離れはねえ、あたしらも普段使ってませんもので、掃除も行き届いてないで済みませんが……どうぞ、どうぞ、自由に使ってください」
と、土部の母はえらく恐縮そうにしていた。
土部の父はその隣で、人好きのする笑顔を浮かべていた。事前に聞いていたとおり、彼は車椅子に座っていた。数年前、事故で両脚の膝から下を失くしてしまったのだ。それ以来、趣味のDIYが難しくなってしまったらしい。
「好きなだけ居なさい」
土部の父からはそう云われたが、合宿は二泊三日の日程と決めてある。
以前聞いた話では、土部のミステリ好きは母の影響らしい。対照的に父はミステリに限らず読書自体しないという話だった。
俺達は離れの座敷に荷物を置いた。離れには座敷が二つと洗面台、台所しかない。便所や風呂は、母屋にあるものを使うことになるようだ。
ひと休憩した後、土部の案内で周囲を見て回ることになった。まずは、都内ではなかなか考えられない広大な庭。ほとんど雑木林と云ってもよい。其処には、車椅子生活となる前の土部の父による作品が点在していた。
特にツリーハウスは、この家のランドマークという観があった。
其処から見下ろせる小世界において、今回の合宿は行われることになるわけだ。
3
庭を見終えた俺達は、土部邸の敷地を出る。
駐車場には車が二台、並んで停まっている。土部家の車と、水原の車だ。
「暑いね」
諏訪井が手を頭上に掲げて庇をつくっている。
太陽が真上に位置する時間帯だ。古びたアスファルト敷きの道路に影はない。全身がジリジリと焼かれる心地がする。
「で、これが放火殺人のあった工場だね?」
諏訪井の問い掛けに、土部は「放火殺人かは判りませんけどー」と苦笑した。
土部邸から道路を挟んだ斜め向かいに、廃工場が建っている。鉄筋コンクリート造の建物は壁が黒ずみ、一部が崩れ、窓ガラスは割れて、敷地内には不法投棄らしいゴミが散乱している。生ゴミは含まれていないのか、大して異臭を放っていないのが救いだ。
十年ほど前に、火災があったらしい。
「原因は煙草の不始末って話です。工場の内部で出火して、建物が丸ごと炎に包まれました。もう陽は沈んでいて、普段ならこの辺りは真っ暗なのに、昼間みたいに明るかったらしいですよ。あたしは既に上京してたんで、家にはいなかったんですけど。ちょうど、この道路に消防車が何台も停まって、放水して。延焼は食い止められましたが、中にいた工場長と息子の二人は焼死しちゃいました」
「家族経営だったんですか?」と水原。
「はい。他にも数人の従業員を雇っていたんですけど。火事があったときは、工場長と息子しかいなかったみたいです。工場は廃業となりまして、取り壊されもせずこのままに」
一同は目の前の建物を見上げる。
役目を終えた廃墟にも、真夏の太陽光は容赦なく降り注いでいる。
「その火事に、事件性は全然なかったの?」
諏訪井が面白がるように訊ねた。
「なかったんじゃないですかねー」と、自信なさげに首を傾げる土部。「何かあったのかなー。パパとママからは、何も聞いてないんですけど……」
実家を提供している以上、彼女は今回の合宿でホスト側の立ち位置だ。話題を広げてゲストの興味を惹きたい一方で、何も用意はできていなかったと見える。
「たとえば……」
助け船を出すつもりでもないが、俺は口を開くことにした。
「実は焼死じゃなくて、火が点けられたとき既に二人は殺されていたとか。ぱっと思い付くのはそういう線っすよね。見た感じ……大爆発でも起こったんでない限り、火が回る前に脱出できそうじゃないですか」
「たしかに」と、水原が頷く。「大きい建物じゃないし、窓もありますもんね」
「まあ、内部の構造は判らないっすけど」
実際のところ、警察はどこまで調べたのだろうか。火災による死者が出たとき、死体をいちいち検死などするだろうか。放火か否かという判断は、どこまで正確につけられるものだろうか。
「中に入ってみます?」
鷲尾が大胆な提案をした。
すぐに諏訪井が「いいね」と同調したが、水原が「やめておきましょう」と止める。ただの廃墟と違い、火災でボロボロになった工場である。小さな切っ掛けで崩落するかも知れない。現に一部は崩れているし、瓦礫やガラスの破片で怪我でもしたら面倒だ。
土部も水原の側に立った。
「それに、事件性は判りませんけど、たしか自殺の疑いはあったんですよ。多額の借金を抱えていたみたいで、どのみち工場は畳まないといけなかったそうです」
なるほど。焼身自殺であったなら納得だ。
逃げ出せなかったのではなく、あえて逃げ出さなかった。
「ふーん。現実はなかなかミステリにはならないね」
諏訪井は飄々とそんなことを云って、窓から内部を覗き込んでいる。
「此処はそんな感じですけど」と土部。「次にご案内するスポットは、もう少し謎めいてますよ。マカドマ様って呼ばれてる神像があって……」
4
それは真鍮製の黒い像だった。
高さは一・五メートルといったところ。おそらく人型だったのだろう。
過去形となるのは、その像が今や、当初どおりに屹立していないためだ。木造の小さな社の中で、像は大きく三つに割れて、台座から繋がっている部分の他は床に転がっている。
「昔、誰かが壊しちゃったんですよ」
土部が説明する。
「二十年くらい前ですかね。防犯カメラとかはなかったので、誰がやったのかは判っていません。当時もマカドマ様はこうして社の中にいたんですけど、朝になると社の扉が壊されていて、中の像もこの有り様になっていました。傍に金属バッドが転がっていて、おそらく誰かがそれを使ってやったのだろうと」
俺達は社を取り囲むように立ち、順番に、格子の隙間から中を覗いている。
社の中には神像の残骸があるだけだ。そもそも他に物を収められるようなスペースも空いていない。高さは二メートルほどあるが、広さは畳一畳より少し広いという程度である。
暗がりのなか、黒い像であることも相まって、細部まで観察するのは難しい。
顔がどこにあるのかさえ、見分けられない。
「社は修復されたんですけど、マカドマ様はそのままになっています。実は、これがどういう像なのか、誰にも判らないんです」
「マカドマ様なんて、聞いたことないですもんね」
水原の言葉に、俺は内心で同意する。
「ネットで調べても出てきません」と、鷲尾もスマホを見ながら云う。
「そうなんですよ。本当に謎の神像で……」
マカドマ様。
土部は神像と説明したが、それも定かでないらしい。仏像かも知れない。神道でも仏教でもない可能性だってある。ただ、マカドマ様という名前が、近隣に住む人々の間で伝えられてきただけ。正確にいつ頃から此処にあるのかも判らない。誰に訊いたところで、自分が産まれる前としか答えられないそうだ。
「でも管理者はいるでしょ?」
諏訪井の問いに、土部は「さあ」と首を傾げる。
「誰が管理してるんでしょう。少なくとも、この土地の持ち主はいると思いますけど。たぶんその人も、この像の縁起とかは把握してないんじゃないですかねー。誰も復元しなければ、誰も処分しない。そういうモノなんですよ」
此処は、土部邸の裏に位置している。
土部邸と廃工場の間の道路を、土部邸の土地を回り込むように進んでいくと、道路の端にポツンと社が建っているのだ。板垣の向こうには木々が茂っており、土部邸の建物自体はほとんど見えない。それでも頭上のツリーハウスはよく見える。
「ZANさんなら、何か判るかも知れませんね」
水原が、冗談交じりの口調で云った。
土部が「たしかにー!」と反応する。合宿には参加していないが、ZANは新興ミステリ研究会の会員だ。仏教や民俗学に造詣が深く、自身もそれらを題材としたミステリを執筆している。
「ラインで訊いてみます!」
真に受けた鷲尾が、格子越しにマカドマ様の像をスマホで撮影する。暗いうえに像は残骸だ。大した参考情報にはなりそうもないが。
「それより土部さん、あれだよね。神隠し事件」
諏訪井が、今度もニヤニヤしながら云う。
「何ですか、それ」と水原。来る途中の新幹線で、諏訪井、鷲尾、俺の三人は土部から話を聞いていたのだが、新潟から車で来た会長は知らない。
改めて土部が説明する。
「像を破壊した犯人は判らないって、さっき云いましたけど。実は像が破壊されたと思われる夜に、近くの高校生が四人、行方不明になったんですよ。何と云うか、不良だったみたいで、普段からよく夜遊びしていたという話なんですが。それきり誰も見つからなかったんです」
「それがマカドマ様の祟りなんじゃないか、ってことなんだよね」
「はい。誰が云い始めたのか判りませんけど、あたしの小学校でもみんな噂してて。まあ同じタイミングだったわけですからね。行方不明になった高校生たちは、マカドマ様の像を悪戯で壊しちゃって、それで神隠しに遭ったんだって……」
土部は語尾に意図的な余韻を持たせた。
鷲尾が社から距離をとる。彼女は既に聞いていた話なのに、今更になって気味が悪くなったらしい。スマホで写真を撮ったことも後悔してそうだ。
「ほお」と、水原は声を上げる。「ミステリと云うより、ホラーですね」
さて、どうだろうか。
神像を壊した祟りと云うと、たしかにホラーでもよく見られる道具立てだ。しかし、そうした噂や因習に対して、合理的な解決を与えるミステリだって多くの作品がある。ホラーもミステリも、発端にあるのは謎であり、異なるのはその取り扱い方だ。
俺は再び、像の残骸を見遣る。
もしも俺達がその当事者となることがあったなら、ミステリとホラー、どちらの顛末を辿ることになるだろう。いささか空想的に過ぎる疑問だが、こんなことを考えてしまうのは、あの占いのせいに違いない。
神隠し――その言葉を俺は、一週間前にも耳にしていた。
5
中野ブロードウェイの一角で、その占い師は商売をしている。
「アハハッ。よくぞ参られたな、お兄さん」
名前はアネモネ。
おかっぱ頭から前髪を無くしたようなヘアスタイルで、露わになった額からは二つ、小さな角が突き出ている。なぜか水着姿だ。それもマイクロビキニ。えらく若い女で、身体つきも相まって十代の前半にしか見えない。
「どうしたんじゃ。はよ座らんか」
しかも、嘘みたいに古風な言葉遣いをする。椅子の上で胡坐を掻き、不敵な笑みを浮かべ、二つの赤い目で俺を見上げている。
胡散臭いどころの話ではない。
「どうして、そんな格好をしてるんですか」
「うん? どうしてって、暑いじゃろう? 夏じゃぞ?」
「あー……」
屋外ならともかく、此処は屋内で冷房も効いている。が、それを指摘するのはやめておいた。云っても仕方なさそうだ。
半ば投げやりな気持ちで、俺は小卓を挟んで向かい側の椅子に腰を下ろした。
めちゃくちゃ当たる占い師を知ってるんだ――と云って俺に此処を勧めたのは、前の晩にクラブで知り合った女だ。朝まで一緒に過ごして、別れ際にもしつこく「絶対、占ってもらいなよ!」と念押しされたので、家に帰る前に寄ってみた。
占いに興味はないが、こんな機会でもなければ利用しないだろう。どうせ時間は空いている。それに、何かのネタになるかも知れない。そう思ったのだが……。
「さあ、何を占ってほしいんじゃ?」
「そうっすね。今後の運勢とか、お願いしたいです」
アネモネは「承知じゃ」と云い、小卓の上に乗った水晶玉を覗き込んだ。
「……ほう。お前さん、今は無職じゃな?」
「はい。そうっすけど」
どうして判ったのだろう。
平日の昼間に、私服でこんなところを訪れているからか。長く伸ばした髪のせいか。たしかに無職か、せいぜいフリーターと当て推量することはできる。
だがアネモネは、さらに先を続けた。
「一年前までは会社勤めか。これは、証券会社かのお?」
「すごいですね……」
当たっている。観察や推量のレベルではない。
俺に此処を勧めた女が、こいつの回し者だったのだろうか。
しかし俺はあの女に、これまでの経歴なんて話していない。では俺はもっと以前から狙われていて、調べを済ませたうえで、あの女との出会いも仕組まれていたことになる。そこまですれば説明はつく。
問題は、そこまでするだろうか、ということだ。
アネモネはその後も、俺に関する事項を次々と的中させていった。はじめのうち、俺は慎重に対応していた。詐欺師お得意のコールドリーディングでないのは確かだった。
「そろそろ判ったじゃろう。儂は本物じゃ」
不思議なこともあるものだ。
そのうち俺も面白くなってきて、いっそさらに投げやりな気持ちとなった。そして普通は初対面の人間相手に話さないようなことまで、自分から話していた。
およそ一年前、会社を辞めたのは、小説の執筆に集中するためだった。
証券会社は給料こそ良かったけれど、仕事以外の時間をとれなかった。俺には昔から小説家になるという夢があった。このまま、大してやりたくもない仕事で人生の時間が過ぎていくことに耐えられなくなった。
この一年間は、ひたすら小説を書いた。
書き上げた作品は、いずれも新人賞に応募した。
だが芳しい結果は得られていない。貯金だって無限にあるわけではない。このまま続けても商業デビューは果たせないかも知れない。離職期間が長引くほど、再就職は難しくなるだろう。
近頃の俺は、再び自分の生き方を迷うようになっていた。
「……ってわけなんすけど、どうですかね。このまま夢を追いかけるべきか、もう見切りをつけて就職活動を始めるべきか、占えるものですか」
「無論、占える」
アネモネは深く頷いた。
しかし――と、彼女は逆接の接続詞で繋いだ。
「お前さんの場合は無理じゃ。実に珍しいことにの。この世界におけるお前さんの運命は、間もなく絶える」
「え? それって……死ぬってことですか?」
「いいや。これは神隠しみたいなものじゃな」
いつしか、アネモネは真剣な表情になっていた。
カラーコンタクトではないらしい、赤い双眸が俺を見据えた。
「いわば、異界。お前さんは、此処ではない別の世界に迷い込むはめになるようじゃ。そこから先は儂でも見通すことができん。霧がかかっておる。死ぬと決まったわけではないが、その可能性も覚悟しておくべきじゃろう」
6
土部邸の離れに戻ると、諏訪井と俺は座敷の小型冷蔵庫で冷やしてあった『気分爽快ニシテ』を開けた。新潟県限定販売のビールであり、同じく新潟県限定販売の米菓『サラダホープ』と共に、水原が持ってきてくれたものだ。
昼間から飲酒しようという者は、他にはいない。
座敷は冷房が効いている。中央には座卓があり、俺達はそれを囲む格好で、薄い座布団の上に腰を下ろしている。座卓の上には、土部が用意した紙資料が人数分、配されている。
これから行う読書会のレジュメである。
京極夏彦『姑獲鳥の夏』を取り扱うことになっており、みな再読を済ませて合宿に臨んでいる。夏だし丁度良いだろうという、諏訪井のセレクトだった。
読書会の模様は録音し、後で文字起こしして、即売会で売る小冊子に収録する予定だ。
「じゃあ、始めますか」
水原のその言葉から、読書会は二時間あまりに渡って繰り広げられた。
課題本が『姑獲鳥の夏』で良かったと思う。俺も好きな小説だ。実のところ、俺は近年になって商業デビューした作家の本を読むことができない。自分がデビューできていないせいである。嫉妬か、あるいは挫折感に苛まれるためか、とにかく楽しめない。
我ながら了見が狭くて、嫌になる。
まだ無職のまま小説を書き続けるべきか、就職活動を始めるべきか、結論は出せずにいる。働き始めたところで、小説を書くことが不可能になるわけではない。合宿の参加メンバーだって、水原は建設会社、諏訪井は弁護士、土部は具体的な職種が判らないけれど、みな今日は有休を取得して来ている。大学院生の鷲尾は夏期休暇だ。結局のところ、俺は甘えているだけなのかも知れない。
占い師のアネモネは、俺にはもうそんなことで悩む猶予はなく、間もなく異界とやらに迷い込むと告げた。比喩ではなく、此処とは違う世界に消えるのだと。
当然ながら、俺は彼女の妄言など信用していない。聞かされた場ではいくらか衝撃を受けたけれど、中野ブロードウェイの外に出るとたちまち馬鹿馬鹿しくなった。
あの占いは何だったのだろう。
俺の経歴を的中させたのは、やはり事前に狙いをつけて調べていたためで、そうやって占いの力を信じさせたところに不安を与え、多額の献金なりに導こうという魂胆だったのだろうか。インチキ宗教なんかと同じ手口だが。
それにしては、そういう勧誘めいた話は出なかった。占いの料金三千円を払うだけで退店しようとした俺を引き留めたり、また来るように云いつけたりすることもなかった。だいたい、不安を与えるにしても、もっとマシな理由がいくらでもあるはずだ。
よりにもよって、異界なんて。
「やはり人が死ぬミステリは良いですね。前回の読書会は、日常の謎を取り扱った作品でしたらからね。我々としては消化不良なところがあったと思います。ミステリにとって重要なのは、まず読者の興味を惹く魅力的な謎ですよ。それは非日常的な殺人事件の謎でないと弱いでしょう。今回の『姑獲鳥の夏』では――」
最後に会長の水原が総括を述べ、読書会は終了した。
間もなくして、土部の両親が離れに姿を見せた。両脚の膝から下を失った父は車椅子に座り、母が後ろから車椅子を押している。板張りの廊下が小さく軋んだ。
「ご夕食は、七時ごろで良いかしらあ?」
その質問に、諏訪井が「ああはい、僕らはいつでも」と応える。
今日の夕食は、土部家が自信の料理を振る舞ってくれると云う。娘の土部は「世話好きな人達なんで気にしないでくださいー」と話していた。
土部の両親は車に乗って、買い出しへと出掛けていった。
スマホで現在時刻を確認すると、午後三時半を回ったところ。夕食までは時間があるけれど、水原の新潟土産や、他にも此処に来る途中にスーパーマーケットに寄って買った菓子類が豊富にある。この後は、それらを適当につまみながら、メンバーが互いのオリジナル作品について品評する予定だ。
その前に、三十分ほど休憩しようということになった。
土部と鷲尾が連れ立って座敷を出ていく。水原は座ったまま、土部が持ち込んだ『新本格ミステリを識るための100冊』という本をめくっている。諏訪井は三本目の『気分爽快ニシテ』を開ける。
俺は外で煙草を喫うことにした。
7
真夏の太陽は、依然として厳しく照り付けている。
俺は土部邸と廃工場の間の道路を進み、木陰となっているところで立ち止まった。煙草を一本、口に咥えて、ライターで火を点ける。夏の煙草は不味い。身体にスッと入ってこない。ただニコチンを摂取するための行為だ。
周囲の雑木林から、虫の鳴き声が響いている。
不思議なものだ。これまで、自分とは縁もゆかりもなかった土地……。
働き始めたとしたら、新興ミステリ研究会での活動はどうなるだろうか。一年前は、ちょうど退職予定のところに声を掛けてもらったから参加した。面白そうだと思って。深く考えることもなく。しかし限られた時間の中では、優先度をつけ、取捨選択をしなければならない。
研究会での活動は、俺にとって意義があるものか?
幸いにして、メンバーはみな良い人ばかりだ。ミステリについて語れる人間など、俺の交友関係の中では他にいない。貴重な縁なのだろう。そこに打算を持ち込みたくはないのだが、つい考えてしまう。
現在の俺は、すべてが中途半端だ。
もっとも、過去どの時点を見たところで、すべてが合理的に整理されていた時期など無かったか。人ひとりがコントロールするには、人生は煩雑で、不確定な要素に溢れすぎている。にも拘わらず詮無きことを考えるのは、ひとえに俺が時間を持て余しているせいに違いない。
短くなった煙草の火を、アスファルトに擦って消す。
吸殻を携帯灰皿に入れようとした、そのとき。
不意に、世界が大きく揺れた。
「うおっ――」
俺は路上に膝を突く。地震だろうか。おそらくそうだろう。それしか考えられない。しかし揺れが大きすぎる。地面だけでなく、俺の意識まで揺さぶられて、引き裂かれそうな感覚。猛烈な吐き気が込み上げてくる。
異常だ。かつて体験したことがない、これは……。
激しい頭痛に、さらに小さく蹲る。頭が割れそうになるのを抑えるように両手で抱える。
うるさい――が、何の音だか判らない。虫の鳴き声か。それが増幅して重なって不協和音に変じている。ぐにゃり、ぐにゃりと、絶えず形を変える。
それらが、次の瞬間には一遍に止んだ。
「…………」
頭痛や吐き気も、急激に治まっている。わずかに余韻めいたものはあって、胸のあたりが気持ち悪いけれど。俺は路上に蹲ったまま、顔を上げた。
周囲の景色が変わっていた。
いや、もちろん同じ場所なのだが。雰囲気が様変わりしている。
霧だ。
急に霧が出て、遠くの視界が塞がれてしまった。先ほどまで頭上に広がっていた青空も臨めない。太陽がどこにあるかさえ判らない。だが奇妙なことに、暗くはない。近くにあるものは、晴れた昼間と同じようによく見える。
罅割れたアスファルトの道路。
板垣の向こうには土部邸の屋根。
その庭に茂った木々。
ひときわ高くに位置している、ツリーハウス。
しかし、何か違和感がある。何だろうか……。
俺はさらに周囲を見回して、そして目を疑った。
工場が建っている。火災のために壁が黒ずみ、一部は崩落していた廃工場。位置関係からして、その工場に間違いないのだが……。
無事なのだ。
崩落などしていない。壁は黒ずんでいない。窓ガラスだって割れていない。敷地内に投棄されていたゴミの山も見当たらない。新築とは云えないものの、まるで火災が起きる以前の姿に復元されている。
霧のせいでそう見えるのか?
俺は立ち上がり、工場の方へと歩き出す。
そこで、やけに涼しいことに気が付く。半袖ではやや肌寒いほどだ。霧で太陽が隠れたからと云って、ここまで急激に気温が下がるものだろうか。
不気味なほど静かである。
耳を澄ましても、虫の鳴き声ひとつ聞こえない。一斉に死に絶えでもしたみたく。先ほどの地震は何だったのか。そうだ、地震速報を見ようと思い付いて、ポケットからスマホを取り出す。
圏外になっている。
ネットにアクセスできない。
一体、どういうことなのか。俺は混乱しながら、再び工場へ向かって歩を進める。肌に湿気た空気が触れる。この霧は、本当に霧なのだろうか。何らかの有毒ガスという可能性はないだろうか。おかしなニオイはしないが……。
何にせよ、工場から火災の痕跡が消え失せていることには説明が付かない。
近くで見ても、やはりあの工場だ。だが、俺が知っている姿ではない。あんな変化は不可逆のはずだ。新興ミステリ研究会のメンバーでこれを見たのは、つい数時間前の出来事である。たった数時間で、ここまで修繕できるはずがない。
すべてが異様だ。
何が起こっている?
「……あっ」
俺の脳内でアネモネの言葉が蘇った。
あの奇抜な風体の占い師は、云っていたじゃないか。
『いわば、異界』
『お前さんは、此処ではない別の世界に迷い込むはめになるようじゃ』
全身に鳥肌が立つ。
まさか。あり得ない。そんな荒唐無稽なことが。
地震――おそらく地震だと思うが――それが起きたのは、ついさっきのことだ。まだ何も判っていない。それらしい状況だからと云って、安易な説明に飛び付くのは禁物だ。
そもそも説明になどなっていないだろう。
異界って何だ? どうしてそんなものが存在していて、突然、俺がそんなものに迷い込まなければならない?
冷静になれ。
ホラーではなく、ミステリの登場人物のように……。
そのとき、俺は背後に何者かの気配を感じた。
「えっ?」
振り返るのと同時、何か鋭利なものが、俺に向かって振り下ろされた。
呆気ない。
本当に中途半端なまま終わってしまった。後悔しようにも、何を後悔したらよいのだろう。その時間さえ、俺には与えられなかった。
俺の意識が、消えてしまう。
ああ……プロの小説家に、なりたかったな。
第2章 水原 悠太郎
1
これは既読……これも……いや、読んだ記憶はあるものの、どんな話だったのかはすっかり忘れてしまっている。あらすじを追っても、少しも記憶が蘇ってこない。内容を憶えていない本のことを「読んだことがある」と言い切ってもよいものなのだろうか? こんなことをメンバーの前で話したとき、「憶えていないということは、その程度の本だったんですよ」と橘が言ってくれたことがあったな、と思い出す。
私はページをめくる指を止めて紙コップを手に取り、中身の烏龍茶を喉に流し込んだ。今日はもう外出の予定はないが、何かの都合で車の運転をすることになるかもしれないと思い、アルコールは控えている。もともと積極的に呑むほうではないため、さほど苦痛に感じることはない。喉を潤し終え、『新本格ミステリを識るための100冊』の続きに取りかかろうとした、その瞬間――世界が大きく揺れた。
仮に立っていたとしたなら、とてもその姿勢を保ってはいられなかっただろう。それほど大きな揺れだった。床にあぐらをかいていても、起き上がりこぼしのように体が前後左右に揺さぶられた。座卓に置いた紙コップは間違いなく倒れるだろう。烏龍茶を飲み干しておいてよかったな、などと場違いな安堵が込み上げてきたのは、やはり冷静さを失っていたせいだろう。が、そんなどうでもよすぎる安堵は一瞬で消え去った。手にしていた『新本格ミステリを識るための100冊』が、ばさりと音を立てて床に落ちる。思わず両手で頭を抱えてしまったためだ。人生で何度か地震を経験したことはある。その中には震度5を超えるような巨大なものもあったが、
――これは……変だぞ。
即座にそう感じた。物理的な揺れ自体も相当な――恐らく、それこそ震度5を超えるほどの――ものだが、なによりおかしいのは……。うっ、と呻き声が漏れる。頭痛に耐えきれなくなったのだ。頭が揺さぶられている……地震なのだから揺れて当然、と言いたいところだったが、そういった感覚ではなかった。地面の震動が伝わっているのではなく、地面と同じように直接頭までもが揺さぶられている。そう錯覚――いや、確信した。まるで、地面、空気、空、自分も含めた、この空間自体が激しく揺れている、とでもいうような……。
地震はすぐに収まった。数秒……いや、あるいは数分? 時間の間隔すら記憶に残らないほどの――苦しみを伴った――揺れだった。揺れとともに頭痛も霧消した。あれほど痛みを感じていたことが嘘のように。逆流しかけていた胃液も胃に戻ったようだ。今度は場違いではない安堵のため息を漏らすと同時に、
「――諏訪井くん!」
私は座卓の対面に向かって叫んだ。そうだ、他のメンバーは無事なのだろうか。座卓の向こうには誰もいなかった……いや、床にうずくまっていただけか。座卓の縁越しに、諏訪井の背中が見える。その背中が、ゆっくりと持ち上がり、
「いや……びっくりしましたね……」
上体を起こした諏訪井が、ずれた眼鏡を外し、額に浮かぶ汗を手の甲で拭った。それを見て、私も自分の額に手をやる。汗で前髪が額に貼り付いていた。
「地震……だったよね……?」
私が問いかけると、
「ええ……凄い揺れでしたね」眼鏡を掛け直して、諏訪井は、「震度4……いや、5はあったんじゃないかな……」
「確かに……」
私は、無意識的に座卓に手を伸ばして紙コップを取り上げようとしたが、指がカップに触れる寸前、中身を飲み干していたことを思い出して……
「えっ?」
違和感を憶えた。紙コップは座卓の上に立っている。見ると、諏訪井も同じ違和感を察したらしい。ついさっきまで自分が口にしていた缶ビールのロング缶――紙コップ同様、座卓の上に屹立したままの缶――をレンズ越しに凝視していた。
二人は同時に座敷内を見回した。テレビ、戸棚、冷蔵庫、部屋にある家具調度の類いには何の異常もなかった。戸棚に飾られた民芸品の人形なども、倒れたり、位置がずれたりしているものはひとつもない。天井から吊り下げられた電灯も微動だにしていない。
「地震……だったよね……?」
「ええ……」
言葉こそ先ほどと同じだったが、しかし、意味合いはまったく異なる問答を、私と諏訪井は交わした。
「あんなに揺れたのに……テーブルの上のものも、家具も、何ひとつ倒れていない。僕が呑んでいたビールも……」
諏訪井は、座卓からビール缶を手に取り、すぐに置き直した。その持ち上げた様子から見て、中身はほとんど残っていないらしい。
「ということは……さっきのは地震じゃなくって、急激な眩暈か何かだったということ?」
「それにしたって、僕と水原さんが同時に眩暈を起こして、また同時に収まったというのはおかしいですよ」
「うん。それに……私は確かに物理的な〝揺れ〟を感じた」
「僕もです」
同時に体験した不可解な現象が、二人の間に沈黙を作った。が、すぐに、
「他のみんなは無事でしょうか?」
諏訪井が不安そうに口にする。それを受けて私が、
「橘くんは煙草を喫いに外へ。土部さんと鷲尾さんは」
そこまで言ったとき、襖が開いて、
「お二人とも、大丈夫でしたか?」
鷲尾が顔を覗かせた。
「鷲尾さん!」鷲尾の姿を確認すると、諏訪井はほっとしたように深い息を漏らしたが、すぐに表情を引き締め直し、「土部さんは?」
「それが……」と鷲尾も不安そうな顔になり、「友華さんはお手洗いに行ってしまって、そうしてわたしひとりになったときに、あの地震が……。わたし、お手洗いの場所が分からないので、とりあえず、この離れに来てみたんですけれど……」
「そうですか……」
鷲尾は座敷内を見回すと、
「橘さんは?」
「外へ煙草を喫いに出て、まだ戻ってきてないんですよ」
「外なら、屋内よりは安全だったかもしれませんね。家具が倒れてきたりすることはないです……し」
鷲尾の表情は幾分か表情が和らいだが、対する諏訪井のほうは、
「そのことについて、さっきも水原さんと話していたんだけれど……あれは、本当に地震だったのかな?」
「どういうことですか?」
「この部屋を見てみてよ」
諏訪井に促された鷲尾は、もう一度室内を見回して、
「……えっ?」
〝異変〟に気が付いたようだ。〝部屋に何も変化がない〟という異変に。
「あんなに揺れたのに……?」
「鷲尾さんは、地震が起きたときは、どこに?」
「リビングです。この座敷は大人数でくつろぐには狭いので、わたしたちはリビングで休憩しようということになって。それで、土部さんがお手洗いに行って、わたしひとりのときに地震が起きて、びっくりしてその場にうずくまっていたんです。ずっと目を閉じて。リビングはソファとテーブルがあるくらいで、背の高い家具がなかったもので……」
私と諏訪井のように〝異変〟には気付かなかったということか。
「で、でも……確かに揺れました!」
鷲尾は拳を握りしめて断言する。
「私と諏訪井くんも、そう感じたんだけれど……」
改めて座敷を見回す。〝地震〟が起きる前と、何ひとつ変わらない様子の室内……。
「とりあえず、土部さんと橘くんを捜しにいきませんか?」
諏訪井が立ち上がり、私もそれに倣った。
2
土部とはすぐに合流できた。離れから母屋へ入ると、すぐに彼女と鉢合わせたのだ。
「飛鳥! こっちにいたんだ! よかった。リビングにいないから、心配してたんだよ」
「ごめん!」
鷲尾は両手を合わせて土部を拝む。
「土部さんも無事でしたか?」
私が訊くと、ええ、と土部は笑顔を見せる。
「よかった。あとは、橘くんか……」
私たちの履物がある離れのほうの玄関に向かおうとしたが、
「どうかしましたか? 諏訪井さん」
踏み出しかけた足を止めた鷲尾に声をかけられた諏訪井は、神妙な顔でスマートフォンの画面を睨んでいた。
「圏外になってる」
「えっ?」
「さっきの地震の速報が入っていないか、調べようと思ったんだけれど……みんなは、どう?」
その言葉で、私たちも一斉にスマートフォンを取りだし、そして……。
「確かに……」
「圏外です……」
「ええ……」
私、鷲尾、土部は、ほぼ同時に呟いた。
「さっきのおかしすぎる地震といい、何か変だよ」見切りを付けるようにスマートフォンを懐にしまった諏訪井は、「とにかく、橘くんを……」
私たち四人は今度こそ足取り速く玄関に向かい、靴を履き、玄関ドアを開けた。そこで視界に入ってきたのは……。
「……何ですか? これ」
「……霧……か?」
鷲尾の疑問に諏訪井が答えたように、外は一面もやに包まれていた。確かに〝霧〟のように見える。視界は数メートルあるかないかといったところだろうか。五メートル程度離れた玄関先のスペースに駐めているはずの私の車も見えない。恐る恐る足を踏み出してみたが、移動するに特段支障は感じなかった。というのも、霧自体は確かに濃いのだが、その代わりという言い方も変だが、数メートル先までの視界はしっかりと確保されているからだ。少し進むと、私の車も目にすることが出来た。
「橘くんが喫煙するとしたら、どの辺りかな?」
諏訪井が訊くと、
「家の周りには近くに他の民家はないですし、どこで喫っても誰からも文句は来ないと思いますけれど……」
そう言って土部は周囲を見回すが、視界に入るのは白い霧ばかりだ。
「とりあえず、あの廃工場のほうに行ってみませんか?」
鷲尾の提案で、私たちは道沿いに歩き始めた。
謎の霧に包まれた中、私たちの足音だけが響く。歩きながら考える。……嫌な予感はしている。橘についてだ。あれだけの――いまのところは、こう表現しておくが――地震を体験したら、何を置いてもベースである土部邸へ戻ってくるはずだ。喫煙のためだけであれば、そう遠くへ行っているはずはない。私たちが玄関を出たとき、あの揺れが起きてから十分以上は経過していた。何事もなく無事であったなら、その時点で戻ってきていてもいいはずだ。しかし、橘は戻ってこなかった。ということは……。
「おかしい」諏訪井が声を上げた。「地図アプリも機能していないよ」
横から覗き込んでみると、なるほど、諏訪井が持つスマートフォンには地図アプリが表示されているらしいのだが、その画面は白く塗りつぶされている。ピンチアウトしてみるが、どこまで縮尺を大きくしても、地形などの地図としての情報が表示されることはなかった。
「GPSが効いていないんでしょうか?」
鷲尾が首を傾げる。
「この霧のせいで? そんなことあるかな?」
諦めたのか、諏訪井はスマートフォンをしまった。
「工場が見えてきた」
私は指を差す。視野の範囲に工場の灰色の壁面が浮かび上がってきて……。違和感を憶え、私は足を止めた。……灰色の壁面、それは、コンクリート打ちっぱなしの造りであることを物語る、いかにも工場然とした無味乾燥な壁なのだが……。
「えっ?」
諏訪井もやはり足を止め、鷲尾と土部も立ち止まった。
「壁が……工場が……」
諏訪井が呟いた。そうなのだ。壁が焼かれていない……。等間隔に並ぶ窓ガラスも一枚たりとも割れてはいない。まるで、火災など起きていなかったかのように。
「これは……いったい……?」
私たちは互いに顔を見合わせた。
〝揺れ〟を感じはしたが何も物的被害を生じない地震。圏外になったスマートフォン。
突如として発生した霧。そして……この工場。数時間前に目にしたときは、確かに火災の痕跡が無残に残っていたというのに……。
「あっ! あそこに!」
混乱した思考は、諏訪井の声で中断された。指が差されたほうを見ると……誰か倒れている? 視界に入るのは下半身だけだ。上半身は霧のベールの向こうにあるらしい。
私たちは駆けだした。それに連れて可視可能範囲も移動し、腰、胸部と、倒れている人物の全身が徐々に露わになっていき――鷲尾の悲鳴が霧に吸い込まれる。
黒いアスファルトの上に横たわっていたのは、捜していた橘だった。喫い終えた煙草、携帯灰皿、スマートフォンを周囲に散乱させ、胸を真っ赤な血で濡らしている、変わり果てた姿となって……。
3
橘の遺体は、私と諏訪井とで土部の自宅まで運び、母屋一階の使用されていない部屋に安置しておくことにした。死体を発見したのであれば、救急や警察に通報するべきなのだが、それは不可能だった。ネットだけでなく電話も通じなかったためだ。部屋の隅に寝かせた橘に、土部が白いシーツをかけてやる。完全に乾ききっていない血が、じんわりとシーツの生地に赤く浮かび上がった。死体発見時に、それとなく傷口を確認した。凶器はおそらく、幅数センチのナイフ――サバイバルナイフ――のようなものではないだろうか。刃渡りまでは分からないが、出血の具合を見るに先端は心臓を貫いていると思われる。包丁や果物ナイフなら分かるが、サバイバルナイフというものは一般家庭に普通に用意されているものだろうか? 犯人があらかじめ用意した凶器なのだろう。計画的犯行と見てとれる。しかも、心臓を一撃で仕留めている。かなりの手練れの仕業なのではないだろうか?
――ミステリを書いているから、ついこんなことを考えてしまう。
ミステリを書く。……そう、この新興ミステリ研究会は、ミステリを書くものたちの集まりだ。全員がアマチュアだが、プロ作家となるのであれば、それに最も近いのは橘だと私は常々思っていた。ネットに公開されている橘の著作「名探偵・梅川寿々絵最後の事件」を読んだとき、その凄まじさに私は震え、そして、嫉妬もした。同時に、これを書ける人間がプロになれていないというのであれば(橘はプロ志望だと、飲み会で聞いていた)、プロの世界というのは、とうてい私などが入り込める場所ではなかったのだな。と、諦めのような気持ちが湧き上がったことを憶えている。そうして、何度か飲み会で親交を深めるうち、嫉妬の念はいつの間にか消え、橘にデビューしてほしい、と心から思うようになり、それは時間の問題だろうと確信もした。「梅川最後」以外の彼の著作にも何作か目を通すうちに、その度合いはさらに高まっていったのだ。なのに……彼が、橘がプロ作家になることは……その手から新たなミステリが生み出されることは……もうない……。
「……殺されたんですよね」
そう呟いた諏訪井の視線は、中心部が赤く染まるシーツに向いていた。私も含めた他の三人の視線もそちらに向く。
「そう、としか考えられないね」私は視線を逸らすと、「自分の胸を突き刺しての自殺なんて考えられないし、そもそも凶器が残されていない。それに、橘くんに自殺する理由があったとも思えない」
「プロになりたがっていましたもんね、橘くんは……」
諏訪井の言葉に、鷲尾と土部も頷いた。彼がプロ志望だったことは、この場にいる全員が知っている。
「百歩譲って――凶器を何かしらのトリックで消したうえでの――自殺だったのだとしても、今、この場でそれをするというのもわけが分からない」
私が言ったあと、しばし訪れた沈黙を、
「とりあえず、リビングに行きませんか?」
土部の言葉が破り、それに従って私たちは部屋をあとにした。
「さっきの話の続きだけれど……」出された麦茶に口を付けてから、諏訪井は、「橘くんを殺したのは……何者なんだろう?」
そう言うと、リビングでテーブルを囲む私たちに順番に視線を送った。
疑っているのか? この中に、橘を殺した人間がいるのでは? と。まさか……。
いや、諏訪井は、橘殺害犯のことを「何者」と表現した。「何者」という言葉からは、まだ見ぬ第三者というニュアンスが感じ取られる。既知である私たちのことを差しているのであれば、「誰」と口にするのではないだろうか。本当は私たちのことを疑っているのだが、波風が立つことを懸念して、あえて「何者」という言い方を選んだということも考えられるが……。しかし、それはこちらからしても同じことだ。諏訪井も〝容疑者〟のひとりであることは変わらない……が、そうでもないのかと思い直す。私たちは全員、喫煙のために外に出た橘の姿を目撃している。そうして、謎の地震が起きて、死体となった橘を発見するまで、私と諏訪井はずっと同じ部屋にいたのだ。その間、トイレにも立たなかった。彼に諏訪井に橘を殺しに行けたはずがない。諏訪井と私は交互にアリバイを証明しあっている。鷲尾と土部についても同じことが言える。彼女たちもずっと一緒で……違う。鷲尾の言葉によれば、土部はトイレに立っており、その間、二人はそれぞれひとりになっていたという。ここから橘の死体発見現場まで、往復何分かかるだろうか。死体発見時は、霧の中を手探り状態で歩いていたため、片道数分は要したが、まだ霧が発生する前であれば、その数分で往復可能なのではないだろうか。……いや、鷲尾の話だと、土部がトイレに行ったのは、地震が起きる直前のことだったらしい。地震が収まって、鷲尾が私と諏訪井のいた離れの座敷に顔を出すまでは、一分とかかっていない。そのすぐ直後に土部とも合流している。そんな短時間で、あの工場脇まで往復するのはさすがに無理だ。まして、人ひとりを殺してくるとなれば、なおさら。そうなると、やはり、橘を殺したのは私たちの中の「誰」かではなく、まだ見ぬ「何者」かなのだと考えたほうが妥当だ。
今の考えを皆に話そうかと思ったところに、
「まだ、近くにいるんじゃないですか?……橘さんを殺した……犯人が、です」
鷲尾が言って、それを聞いた諏訪井と土部は頷く。そうか、私だけではなく、全員が同じ推理結果に辿り着いていたのか、思う。さすがはアマチュアとはいえミステリ作家たちだ。私も一拍遅れてから頷いた。
「戸締まりをしたほうがいいね」
諏訪井が立ち上がった。
「そうですね」鷲尾も腰を浮かせて、「手分けをして――」
「いや、全員で廻ろう。この家のどこに出入り口や窓があるのかは土部さんしか知らないから」
諏訪井の提案で、私たちは一緒に移動しながら、家中の戸締まりを行った。
最後に浴室の窓に施錠をし終え、再びリビングに戻ってくると、諏訪井が、
「土部さんのご両親は、まだ帰ってきていないよね」
「そうですね」
土部は窓を見やった。が、窓外に景色は映らない。相変わらずの白い霧。
「出かけられたのは、三時半くらいでしたよね?」
鷲尾がスマートフォンを見る。あらゆる通信手段が断たれても、時計の機能は生きている。私も自分のスマートフォンと、ついでにリビングの置き時計を照らし合わせてみる。
現時刻は午後五時半になろうとしている。
「二時間か」同じようにスマートフォンに目を落としていた諏訪井が、「ちょっと、遅いような気もするけれど」
「ですね」応じたのは土部だ。「赤沼ファルス――あ、いつも買い物に行くスーパーの名前です――まで、車なら片道十分くらいです。買い物に二十分かけたとしても、確かに、少し遅すぎますね……」
「この霧で帰れなくなったんじゃないですか? 地震のこともありますし……」
鷲尾が不安そうな表情を見せる。
「また話を戻すけれどもさ」と諏訪井が、「さっきのあれは、地震じゃなかったんじゃないかな? だって、現に建物なんかに物理的な被害は確認できなかったし」
「それじゃあ、帰れなくなった原因は……霧?」
鷲尾は、白く染まった窓を見る。
「もし、もしもだよ、土部さんのご両親が帰れなくなったのなら、こちらから〝向こう〟に行くことも出来なくなったのかな?」
諏訪井の言葉に返答するものは誰もいなかった。
「試して……みますか?」
土部が言って、私に視線を寄越す。合宿メンバーの中で、運転免許を持っているのは、私と橘の二人だけだ。橘がいなくなった今、車の運転が出来るのは私しかいない。
「そうだね……」
と懐に手を入れ、車のスマートキーを握ったところで、突如として脳裏に〝記憶〟が甦ってきた。〝記憶〟といっても、実際に体験した記憶ではない。それは、いつか見たはずの、いつ見たのかも思い出せない〝夢の記憶〟だった。
4
夢の中で、私は車を走らせている。辺りは一面の霧。
車は走る。霧の中の一本道を、延々と。どこへ行くとも知れない。運転の目的も分からない。それでも私は、何に疑いを持つこともなく車を走らせ続けている。夢とは――少なくとも私の見る夢はいつも――そういうものだ。夢が見せたシチュエーションを受け入れて、それに従うだけ。が、さすがに不安になってくる。本当に目的地に到着できるのだろうか? 目的地? どこに? 私はどこを目指しているのか。どうしてこんなに深い霧の中を走っているのか。この霧の向こうに、いったい何があるというのか。いや……〝霧の向こう〟などというものが、そもそもあるのだろうか……? 車を止めてUターンをして、出発地に戻るべきなのではないか?……というか、出発地ってどこだろう? 私はどこから来たのだろう? もう、どこへも行けないし、どこへも戻れない。私はこの霧の中、永遠に車を走らせ続けるだけ。それが運命。見てみろ、その証拠に、燃料メーターの針は一ミリたりとも動いていない。ガス欠で止まることさえ許されない。……そうだ、止まればいいんだ。夢の中の私はアクセルペダルから足を離そうとしたが……減速しかけた車体は、しかし、すぐに加速を取り戻す。アクセルから足を離せない。見えない力的な何かに押さえつけられているというのではない。私が、自分の意志でそうしているのだ……いや待て、自分の意志で自分の望まない行動を取るというのはおかしいだろう。だが、実際にアクセルペダルを踏み続けているのは私だ。私の意志なのだ。どうして? そうだ……これは本能だ。私の無意識下の本能が〝車を止めるな〟と脳に命令しているのだ。どうしてだろう? 車を止めると……何か恐ろしいことが起こる、それを本能が察知しているから? 恐ろしいことって何だ? 永遠に霧の中で車を走らせ続けなければならない。これ以上に恐ろしいことがあるか? あるからアクセルから足を離せないんじゃないか。ああ、そうか。それじゃあ、このまま走り続けるしかないか。死ぬよりマシだもんな。死ぬ? 死ぬのか? 車を止めたら死ぬのか? このまま走り続けていたって、どうせ寿命が尽きて死ぬぞ。早いか遅いかだけの話だ。時間の問題だ。時間の問題……つい最近、同じような言葉を思い浮かべたな。時間が問題なのか? いま何時だ? 車載ディスプレイの時計を見る――午後五時――
「――水原さん?」
「……えっ?」
土部の呼ぶ声に――本能的に――返事をした。
「大丈夫ですか?」
「顔色が悪いですよ?」
鷲尾も心配そうな顔を向けてきた。
「え、ええ……」私は、ことさら笑顔を作って、「この霧の中で車を出すのは危険だ。もう少し、様子を見てみようよ……。時間が経てば霧が晴れるかもしれないし……」
「……そう……ですね」
土部は折れ、鷲尾と諏訪井も反論はしなかった。運転免許所持者の私が言うなら仕方ない、という消極的な賛同だったのかもしれない。度胸がないんだな、そう思われたかもしれないが、別にかまわない。私は懐の中でスマートキーから手を離した。
土部の両親が戻らないまま、さらに時間は過ぎた。時刻は午後六時半。空腹を訴えるメンバーはいなかったが、夕食を摂ることに決めた。このあと、どんな事態が待ち受けているのか分からない。いざというときに空腹で動けない、などという事態になったら目も当てられない。冷蔵庫の中に消費期限が迫っている豚肉があり、カレールゥも見つけたので、ご飯を炊いてカレーを作ることにした。みんなが手持ち無沙汰となるので、四人全員で調理に取りかかることになった。材料を自分で用意できなかったため、私特製のカレーを振る舞えないことは残念だ。いつかメンバーのみんなにも食べてもらいたいと思っていたのだが、少なくとも、橘にはもう振る舞えないことが残念でならなかった。
調理といっても、カレーライスであれば、具材を切って煮て、あとはカレールゥを放り込むだけ。ご飯にしても、米を研いで炊飯器のスイッチを入れるだけだ。本来であればひとりだけでじゅうぶん出来る作業を四人で行ったため、ものの数分でもうやることはなくなってしまった。あとは具材が柔らかく煮込まれたタイミングでカレールゥを投入するくらいしか調理手順はない。
弱火で具材を煮込む、コトコトという音と、炊飯器が蒸気を吹き上げる音が響く台所で、私たちは食卓の椅子に腰を下ろした。
「……今、何時ですか?」
唐突に諏訪井が訊いてきた。土部が台所の掛け時計を見やって、
「七時ですね」
私も自分の腕時計を確認する。間違いはない。
「どうかしたんですか?」
鷲尾に尋ねられると、
「それにしては……外が明るすぎませんか?」
諏訪井の言葉で、全員が窓に視線を移した。外は相変わらずの白い霧に包まれていて……諏訪井の言うとおりだ。
「日が長い夏とは言え、午後七時なんて、もうとっくに薄暗くなっていていい時間ですよね。なのに、外の様子にまったく変化がない」
そうなのだ。霧の白さが視認できるということは、日が落ちていないということだ。夕日が混じって赤くなっていることも、夜の闇が浸食して暗くなっているということもない。
霧は、発生時と同じく、真昼の陽光を透かしているかのように真っ白いままなのだ。
「それと……」と鷲尾が、「霧自体が、少し薄くなっていませんか?」
彼女の言葉も正しい。発生直後は、磨りガラスかと錯覚するほどに窓は一面霧に覆われていたのだが、今は数メートル先にある樹木がうっすらと視認できる。
「確かめてみましょう」
立ち上がった諏訪井に続いて全員が玄関に向かう。私はコンロの火を止めるのを忘れなかった。
5
「……これは……明らかに異常だ。こんなの……ありえない」
玄関を出るとすぐに、諏訪井の言葉が納得できた。台所で鷲尾が言ったように、確かに霧は薄くなっている。しかし……それは、この家、土部邸の周辺だけなのだ。よって、家屋から十メートル程度離れた位置に、まるで壁のように霧が――発生時と同じ濃度のまま――立ちはだかったような状態となっている。
「どう考えても、ただの霧じゃないね……」
私が言うと、他の全員も頷いた。異常はそれだけではない。最初に諏訪井が指摘したように、外の明るさまでもが霧の発生当初と変化していない。腕時計を見る。七時五分。とっくに日の入りの時刻は過ぎていることに加えて、ここは群馬県。西に傾いた太陽からの日照は越後山脈によって遮られるため、この時刻でまだこんなに明るいということはありえないと思うのだが。
「土部さん、この辺りは、七時を回ってもまだこんなに明るいものなんですか?」
念のため、土部に訊いてみた。現地をよく知る人に確認を取ったほうがいいだろう。
「いえ……」が、土部は霧の壁を見つめたまま、「私も長年ここに住んでいますけれど、いくら夏とは言え、七時を過ぎてもこんなに明るいなんていうことは……」
やはりそうか。諏訪井も鷲尾も、呆気にとられた顔で目の前にそびえる白い壁を凝視していた、が、
「いつまでもこうしていても仕方がない」かぶりを振った諏訪井が、「とりあえず、中に戻りませんか。お腹もすいてきたし……あ、そういえば、鍋を火にかけっぱなしだったような……」
「私が止めてきましたよ」
「さすが会長」
笑みを浮かべた諏訪井に続いて、私たちは土部邸に戻った。
カレーライスを食べ終えると、私たちはこれからのことについて話し合った。が、答えが出せるわけもない。謎の地震、謎の霧、そして……橘の死。あまりに異様、異常すぎる出来事に立て続けに見舞われた状況下においては。
「やはり、車での捜索を試みるべきなんじゃないかと思うけれど」
諏訪井が言う。誰からも反論、反対意見は出ない。当然だろう。三人の視線が一斉に私を向く。視線を逸らす。あの夢の記憶が甦る。
――そうだね、と私が口にしかけた、そのとき、
「……何か聞こえませんか?」
土部の言葉に、全員がぴたりと動きを止める。……確かに、聞こえる。何だこの音は?
「外からですね」立ち上がって窓に顔を近づけた鷲尾が、「あっ!」
と小さく悲鳴を漏らした。私たちも駆け寄る。窓の外、十メートル程度の距離を置いて垂れ込める一面の白い霧、その一角に、僅かに赤と黒の二色が滲み混んでおり、しかも、それはゆらゆらと揺らめいているように見えた。諏訪井がクレセント錠を回して窓を開け放つ。音が大きくなった。
「……火……? 火事?」
咄嗟にそう思った。
「そうですよ!」と諏訪井も、「この音は、炎の燃焼音じゃないですか?」
言われて耳を澄ませてみれば、ごうごうという炎が燃えさかる音に聞こえる。ときおり混じるパチパチというのは、燃焼物が爆ぜる炸裂音か。
「あの方向にあるものって……?」
「工場ですよ!」
諏訪井と私は、そう叫ぶと同時に玄関に向かい走っていた。後ろから土部と鷲尾も追ってくる。外に飛び出し、赤い色が揺れる方向を目指して霧の中に突入する。視界が一気に数メートル程度にまで狭まるが、一度経験しているので戸惑うこともない。進むにつれ、それが火災だということが確実となった。燃えているのは、あの工場だ。
「これは……ひどい」
工場は文字どおり火に包まれていた。窓という窓からは紅い炎が吹き上がり、巻き上がる黒煙が白い霧を侵食している。工場の壁は視界の効く範囲ぎりぎりに見えているが、とてつもない熱波でこれ以上の接近は困難……いや、不可能だ。炎は建物前の路上にまで侵略の手を伸ばしており、橘の遺体を収容しておいてよかったと心から思った。鷲尾がスマートフォンをタップして耳に当てていたが、すぐに手を下ろした。119番通報を試みたが、やはりどこにも繋がらなかったのだろう。消防を呼ぶ手段がない以上、もはや為す術はない。バケツリレーなどの人力での消火活動が有効な規模は遙かに超えている。
ついさっきまでは何の異常も無かった工場が、見る見る炎に焼かれていく。……工場が火事? これは……?
「水原さん」隣に立つ諏訪井も同じことを思ったらしい。「これって、もしかして、あれなんじゃないですか?」
「土部さんの話にあった、工場が火災に遭ったという……」
「そうです。この火災が、そうなんじゃないかなって」
「待ってくれ! それじゃあ……」
あの火災が起きたのは十年前だと聞いていた。
「そうです。そう考えれば、異変が起きた直後に僕たちが見た工場に何の異常もなかった、ということにも説明が付くとは思いませんか?」
「つまり……」
「はい。僕たちは、十年前に、言うなれば……タイムスリップしてしまったんですよ。僕たちが感じた〝揺れ〟は地震なんかじゃなくて、時空の歪みか何かが発生したことによる人体への影響だったんじゃないでしょうか?」
「そんなことが――」
「あっ! 危ないです!」
鷲尾の声が思考を砕いた。直後、土部の悲鳴が続き、目をやると、メキメキという鈍い音を鳴らしながら、工場の壁の一部がゆっくりと傾いでいた。私たちは慌てて後退する。壁はついに、けたたましい轟音をあげて崩れ落ちた。その崩壊は偶然にも火元近くで発生したらしい。壁の破片は炎に被さるようにして散乱し、炎の勢いを削ぐ結果となった。
それから三十分もして、火災はほぼ沈静化した。そこかしこに黒い煙がくすぶってはいるが、紅い炎は現場のどこにも見当たらない。私たちも落ち着きを取り戻し、諏訪井は、この火災が十年前のそれなのではないか、というタイムスリップ説を土部と鷲尾にも聞かせた。
「……でも」話を聞き終えた土部は、「私たちが見た火災後の工場は、もっと原形を留めていましたよ」
確かに〝異変〟前に見た工場は、火災に遭ってこそすれ、建物としての体裁はまだかろうじて保っており、〝廃工場が建っている〟と表現してもよかったが、いま私たちの目の前の工場は、天井も壁も半分近くが崩壊し、〝工場跡〟と呼ぶほうが相応しいほどの被害を受けていた。
「それは、消防による消火活動の有無の差だよ。〝ここ〟へは消防が来られなかったわけだから」
「ということは……」と、それを聞いた鷲尾が、「今の時点で、未来は書き換えられたということですか? もう、最初にわたしたちが見た状態の工場は存在しなくなってしまったわけですから」
「あるいは、別の未来が生まれた、とか」
「〝世界線〟というものですね。でも、そうなったのなら、本来の世界線から私たちはいなくなっちゃった、ということですか?」
「うーん……僕たちの存在自体も分裂した、という可能性も……」
私もその辺りの事情を考察してみるが、頭がこんがらがってわけが分からなくなる。私は特殊設定ミステリは苦手なのだ。
「そういえば」世界線について考えるのを放棄した私は、「この工場火災では、被害者が出たという話じゃなかったでしたっけ?」
確認を込めて土部を見ると、
「そ、そうです。工場長と、その息子が……」
「じゃ、じゃあ……」
私は半壊した工場跡を眺め回す。
「……捜索してみますか?」
諏訪井が言った。あっちの〝世界線〟(まだそうと決まったわけではないが)でも、諏訪井は廃工場の中に入ろうとしていたことを思い出した。
「えっ、それは……」
鷲尾が一歩引いた。向こうでは最初に彼女が、中に入ってみます? と大胆な提案をしていたのだが、十年も経過したあとと、火災のあった直後とでは、やはり状況も心情も異なるということなのだろう。
「いや、でも、火災の直後だからこそ、まだ被害者に息があるという可能性も」
それは一理ある。もしも、この火災が本当に十年前の出来事なのだとしたら、中に工場長とその息子がいた、という事実も変わらないはずだ。
「捜索してみよう」
私は瓦礫に向かい、同時に諏訪井も歩を進めた。危険だから二人はそこに、と言ったのだが、土部と鷲尾も捜索に加わった。さらなる崩落の危険があるので、頭上に建物が残っている場所には近づかない、というルールを課したうえで、私たちは捜索を開始した。
そうして捜索を始めてから十分も経過した頃、うわあっ! という諏訪井の悲鳴が瓦礫に響いた。私たちは足下に注意しながら近づくと、
「これは……」
私は息を呑み、土部がそれを見せないように、鷲尾を強引に抱き寄せた。散らばる瓦礫の中、そこにあったのは、紛れもない人間の焼死体だった。
土部は鷲尾を連れてそこから離れ、私と諏訪井はハンカチで鼻を覆いつつ焼死体に近づく。
「衣服はおろか、皮膚も完全に焼けてしまっていて、年齢も性別も分かりませんね。身長からして、大人だとしか……」
「所持品なども、黒焦げで絶望的だろうね」
諏訪井と私は所見を言い合った。
「でも……ある意味希望が持てたと言えるんじゃないですか」
頬の汗を拭いながら、諏訪井が言った。
「希望?」
「そうです。ここがどういう場所――世界かは分かりませんが、僕たち以外にも人はいるということが証明されたんですから」
「……確かに。そうなると、この死体は、ここの工場長か息子のどちらか、ということになるね。ここが十年前の世界だという、諏訪井くんの説によれば」
「であれば、死体はもう一体あるはずですね」
「とても探す気にはなれないけど」
「同感です」
周囲を無秩序に埋め尽くす瓦礫の海を見て、諏訪井はため息をついた。正直、この死体を発見できただけでも幸運だったといえる状況だ(死体を発見してしまうことを〝幸運〟と評してよいのかは、また別の話だが)。
6
私たちは土部邸に戻った。途中で腕時計を確認してみると、時刻は午後八時を回っている。夏の北極圏でもあるまいし、こんな時間になっても日が落ちないというのは、これはもう明らかな異常事態だ。いや、実際には空は厚い霧に覆われているため、この霧を通して注がれる明かりが陽光だと断言は出来ないため、〝日が落ちない〟という言い回しが適当かは分からないが。
少し休んだあとで順番に入浴することにした。女性陣に先に使ってもらおうと思ったのだが、力仕事をしたからということで、男性陣を優先してくれた。言葉に甘え、さらに年功序列というわけではないが諏訪井が譲ってくれたので、私が一番に風呂を使わせてもらうことになった。ゆっくり湯に浸かる気分でもなかったので、私はシャワーだけで済ませた。熱い湯を浴びながら考える。ここがどういう状況になっているのかは知らないが(諏訪井説のとおり十年前なのかもしれない)、こうして蛇口からはお湯や水が出て、電気も使えるということは、少なくとも上水道や電気、ガスなどのインフラは機能しているはずだ。カレーを作ったときにガスコンロも稼働した。あの霧の向こうに出てみれば答えは見つかるのか? しかし……。永遠に霧の中を走り続ける車……。私はそれについて考えるのをやめた。
私がシャワーから上がると、入れ替わって諏訪井が風呂を使い終えて出てきた。彼もシャワーだけで済ませたという。さらに、土部がシャワーを浴び、最後の鷲尾の番になったところで、
「……あれっ?」
自分の鞄を覗いていた鷲尾が、頓狂な声を上げた。
「どうしたの?」
土部が訊くと、
「誰か、私の鞄をいじりましたか?」
女性の鞄を漁るなど、そんな不調法な真似をする人間はここにいないだろう。私たちがそろって否定すると、さらに鷲尾は首を傾げた。
「何かあったの?」
さらに尋ねてきた土部と、私、諏訪井にも向かって鷲尾は、
「鞄の中身が変なんです。私、メイク道具を入れているポーチを鞄の一番下に入れていて……お風呂に入るために取り出そうとしたんですけど、そうしたら……そのポーチが鞄の一番上になっていたんです」
「それって……」
私たちは顔を見合わせる。
「もしかして、工場まで行っているときに……?」
私が言うと、土部が口元を押さえて、
「私、玄関に施錠していませんでした!」
「その隙に、何者かが侵入した?」
諏訪井の言葉に、もう一度全員は顔を見合わせた。
「ごめんなさい!」
土部が頭を下げたが、誰も責めることは出来ない。あのときは突然の火災の発生に慌てており、私も――そして恐らく、諏訪井と鷲尾も――施錠のことなど頭からすっぽりと抜け落ちていた。あれほど厳重に戸締まりをしたばかりだったというのに。
諏訪井は、想定される侵入者のことを〝何者〟かと表現した。そう、この対象は〝誰〟かではない。私たち四人はずっと一緒だったのだ。侵入者がいるとしたら――鷲尾の言葉が真実なら、それは確実に存在するのだが――私たちの知らない〝何者〟かであるはずなのだ。
鷲尾の風呂は先延ばしにしてもらい、ひとまず私たちは家中の捜索をすることにしたが、猫の子一匹見つけることはできなかった。鷲尾の入浴時には、土部に脱衣所にいてもらうことにして、その間に私と諏訪井は、居間で座卓を囲み何かしらの対策を練れないか相談することにした。
「とりあえず、侵入者は家の中にいないことは確認できたね」
「ですね。あれほどの捜索を逃れることは不可能だと思います。家のことに詳しい土部さんも一緒に捜索したんですからね」
「ということは、その侵入者は、今は外に出ていることになる」
「何者で、何が目的なんでしょうか?」
「決して友好的な相手じゃないことは確かだろうね」
「僕たちの不在時に、こっそり侵入したくらいですからね。……水原さん、もしかしたら……」
「うん。橘くんのことだろう」
「はい、その侵入者が、すなわち、橘くんの殺害犯……」
二人の視線は同時に同じ方向を向いた。橘の遺体が安置されている部屋……。
「このままでは危険だ」
「そいつは、僕たちを皆殺しにするつもりだと? ポーチのことは鷲尾さんの勘違いという可能性も」
「分からない。けれども、そうしないという保証なんてどこにもない。鷲尾さんのことはどうあれ……橘くんを殺したやつが存在することは確実なんだ。そこへ来て、鷲尾さんの鞄のことだ」
「その二つを結びつけて考えるのは当たり前、ということですね。むしろ、そうしないのは楽観視しすぎ」
私は頷いた。
「これからは、全員まとまって行動することにしますか?」
「〝閉鎖空間〟のセオリーだね。もっとも、実際にそんな行動を取る人たちはミステリの中では稀だけれども」
「〝殺人犯と一緒になんていられるか!〟ってやつですね。死亡フラグだ」
「そうだね。でも、いま私たちが置かれている状況は、そういったミステリの中とは違う」
「ええ、〝僕たちの中に犯人はいない〟それははっきりしている」
橘の死亡時、全員にアリバイがあることは確実と見ていいだろう。
「ああいうミステリの中で、全員が一緒に行動した方が得策だというのは、そのグループに殺人犯が内包されているからだ。犯人が〝誰〟か分からないのだから、とにかく全員が自分以外の人間の行動を逐一見張っておいて、犯人の身動きをとれなくしてしまおうというわけだ」
「今回の殺人者は外部の〝何者〟かだということが確実視されています」
「そう。しかし、これにも大きな問題はある。犯人像がまったく想像できないという点だ。内部犯の場合は、誰が犯人かは分からないまでも、とりあえず〝この中にいる〟ことだけは間違いない。仮に、グループ全員が普通の人物ばかりだったら、犯人が自暴自棄になって暴走するという事態は防ぐことができる」
「誰が犯人でも、犯人以外の全員でかかれば、数で圧倒できるということですね」
「うん。グループ内に圧倒的に腕力や戦闘力に秀でた人間がいたとしても同じことだと思う。そういった人物は特にマークを厳重にしておけばいいだけだし、その人が犯人でないのなら、実際の犯人に対してその人物の存在は大きな牽制力になる」
「未知の犯人が内部にいる場合、全員がまとまって行動したほうがいいというのは、そういった理由からですね」
「話を戻すと、だから、犯人が外部にいて、その人物像がまったく想像できない場合は、全員がまとまって動くことは必ずしも得策とはいえない。もしも、犯人が圧倒的な武力を所持していたら、ひとまとまりになっている私たちを、これ幸いと一網打尽にしてしまうかもしれない」
「圧倒的武力って?」
「爆弾とか、マシンガンとか……まあ、そこまでは考えすぎかもしれないけれど、例えば、全員がいる部屋に毒ガスを噴射するということもありえる」
「毒ガスも考えすぎですよ。でも、確かに、相手の属性がまったく不明なわけですからね。日常生活でも、リスクは分散させるという手法はあります。でも、だからといって、どうしたら……」
私と諏訪井は腕組みをして黙り込んだ。そこに、
「見張りをつけるというのは、どうでしょうか?」襖が開き、土部の声がかけられた。「ちょうど飛鳥がお風呂からあがったところだったので、話はすべて聞かせてもらいました」
よく見ると、土部の後ろには寝間着に着替え終えた鷲尾も立っていた。二人がそのまま居間に入り、私と諏訪井同様、座卓を囲んで腰を下ろしたところで、
「見張り?」
訊いた私に、土部が、
「そうです。ツリーハウスを使うんです」
「ツリーハウスって、土部さんのお父さんが作った、あの?」
「はい。皆さんも上ったから分かると思いますけれど、あのハウスの位置は建物三階くらいの高さにあって、この家は二階建てです。加えて、家屋のすぐ隣だから、あのツリーハウスからなら、家の周辺を――屋根の上までも――いっぺんに監視できるんです」
「犯人の接近をいち早く察知しようということか」
「……いい考えかもしれない。ツリーハウスに監視役を一名置いて、残る三名は離れの部屋で過ごす。そうして、ツリーハウス側はもとより、離れからでも、何かしらの異常を確認したら、すぐに大声を出して、もう一方に知らせることにする」
「この静かな環境であれば、ツリーハウスと離れとの距離くらいなら、大声を出せば互いに届くでしょうしね」
私が頷いたところに、続けて土部が、
「あのツリーハウスへ行き来する手段は木に掛けた梯子だけですから、誰かがツリーハウスに入ってこようとしたって、梯子が軋む音ですぐに分かりますよ。それに、梯子を登り切った位置と、ツリーハウスの中にはある程度の距離がありますから、交代人員が来たと思わせて不意打ち、というのも難しいと思います」
その構造は、私も昼間に上ったときに確認していた。時間を確認する。午後九時半。よし、と頷いた私は、
「それじゃあ、色々と準備をすませてから、十時になったら見張りを開始することにしよう。まずは私がツリーハウスに入るよ」
7
飲み物と小腹を満たすための菓子を持って、私はツリーハウスに入った。梯子を登る際には、確かにギシギシと木材の軋む音がした。これなら、土部が言ったとおり、誰かが登ってきても確実に察知できる。昼間に一度見て分かっているが、電気が引かれていてエアコンまで設置してある。が、霧のおかげなのかどうなのか、昼間ほどの暑さを感じることはないため、稼働はしないでおく。と、先ほどから数時間前のことを「昼間、昼間」と表現していることが滑稽に思えてきた。時刻こそ午後十時を回っているが、今でも外はじゅうぶん明るいではないか。白夜が発生する地域では〝昼夜〟という表現を使い分けているのだろうか? と余計な疑問が湧いた。
開けた窓際に椅子を引き寄せて座り、土部邸を見下ろす。見晴らしは抜群だ。謎の霧は家屋周辺を避けるように発生しているため(これも謎のひとつだが)、建物に接近しようとする何者かがいたら確実に発見できるだろう。ここからは死角となる離れでは、鷲尾が番をしてくれているはずだ。
見張り……。対象となるのは、橘を殺した犯人……。
何者なのだろうか。何の目的で殺したのだろうか。この〝異常〟は橘の死と無関係ではないだろう。ここは本当に――諏訪井が推理したように――十年前の世界なのだろうか? このツリーハウスはどうだろうか? 土部の話では、これが作られたのは二十年前ということだった。十年分、経年が軽減していることが分かるだろうか?……分からない。昼間に一度登ったきりなのだ、仮にどこかに変化が生じていたとしても、気づけるはずがない。というよりも、もしも、ここが十年前の世界であるのなら、誰よりも土部が何かに気づいているはずだ。高校卒業後に上京したとはいえ、実家が十年分巻き戻されたのならば、さすがにどこかしらの変化を見逃しはしないだろう。いや……この家だけは時間の逆行を免れているということもありえる。霧がこの家の周囲にだけ発生しないのは、そのせいなのではないだろうか?
……考えても詮無いことだ。すべては推測でしかない。確実なのは、今いるここが、私たちがいたのとは何かしらの〝別世界〟であること。あの工場が何よりの証拠だ。復元して、再び炎上した倉庫。発見された焼死体。
あの……周囲を覆う霧を超えてみたら、何か分かるのだろうか。諏訪井たちは、私に車を出せと無理強いはしなかった。私が発していた恐怖を感じ取ったのかもしれない。あれは……あの夢は正夢だったとでもいうのだろうか。いつ見たのかも思い出せず、あの瞬間まで、見たことがあった事実さえ忘れていた悪夢……。
眠気覚ましも兼ねて、持ってきた缶コーヒーを取り出す。砂糖なし、ミルクだけが入った愛飲している商品。私は執筆時にコーヒーが欠かせない。依存しているわけではない(と思いたい)が、〝飲んだからには書かねば〟というエンジンを動かす燃料的な意味合いで口にしている。執筆……。私が、私に限らず、諏訪井、鷲尾、土部が、再びミステリを書く環境に戻れることはあるのだろうか。もしも、ここから元の世界に生還できたら、この体験は恰好なネタになるに違いない。そう思うと同時に、その〝ネタ〟の中には橘の死も含まれていることにも思い至った。
橘……。デビューを待たずに、こんなわけの分からない世界で命を落としてしまい、さぞかし無念だったことだろう。世界中のミステリファンは嘆くがいい。あなたたちは、橘ミステリを読める機会を失ってしまった。
この新興ミステリ研究会はどうなるのだろうか。元の世界に戻れたとしても、前と同じように活動を続けることは難しくなるだろうか。良いメンバーに恵まれた会だ。彼ら、彼女らと知り合え、創作活動を行えていることには大きなやりがいと喜びを感じる。子供の頃から私の周囲にはミステリを読む人間は誰もおらず、孤独な読書体験を何十年と続けてきたが、ミステリを読み、書き続けてきて良かったと心から思う。この会をなくしたくない。橘を失ってしまったが、他の全員で何としても生還したい。そのためには……受け身でいるだけでは駄目だ。犯人が姿を現したときに備えて、何かしらの策も練っておかなければ……。
犯人……。どんな人間なのだろうか。まさか本当にマシンガンを装備しているとは思わないが。そもそも橘は刺殺されている。……いや、隙を突くことが出来たので、わざわざ銃器を使うまでもない、と判断しただけなのかもしれない。あるいは、残る私たちに無用に警戒されないよう、わざと刺殺を選んだのかもしれない――気配を感じて立ち上がり、振り返った。誰だ? 把握する前に胸に鈍い痛みを感じた。これまでの人生で味わったことのない激痛だった。体から力が抜ける……刺された? 犯人に? ……待て、私は梯子が軋む音など聞いてはいない。どうやってここに入ってきた? 缶コーヒーが落ちて転がる。何口も飲んでいなかったため、流れ出たブラウンの液体が床に広がる、そこに赤い液体が混じりあった。もう立っていられない……。膝をつく、横倒しになる。私の死を確信したのか、犯人は警戒する素振りも見せず、ただ私を見下ろしている。あれが……私――と橘――を殺した殺人犯……? 目の前にはコーヒーがブレンドされた血だまりがある。これをインク代わりにして……ダイイング・メッセージ……駄目だ……指一本動かせない。胸部を刺された人間はダイイング・メッセージを残す余裕もない。今後の執筆に活かせ……
第3章 諏訪井 光
1
ツリーハウスの見張りの交代は三時間おきにしよう、と提案したのは僕だった。
睡眠リズムを考えてのことだった。レム睡眠とノンレム睡眠のサイクルは一時間半おきに繰り返される。ゆえに、睡眠時間は一時間半の倍数にした方が良い。その方が、休息効果が高く、寝覚めも良い。
ツリーハウスの見張りをチェンジするタイミングというのは、次の担当者が起こされるタイミングということになる。だとすれば、一時間半の倍数である三時間が、見張り時間の単位として合理的だろう、という判断だった。
合理的――本当にそうだったのだろうか。僕は、離れで休む者の都合だけ考えていて、ツリーハウスで見張る者には配慮をしていなかったのではないだろうか。
見張りをしている間は、周囲の状況の変化に常に気を張らなければならないのである。事態が事態なので、一瞬たりとも気を抜くわけにはいかない。かなりの集中力を要するだろう。しかし、人間の集中力は、せいぜい一時間程度。三時間も持たない。
否、集中力だけが問題ではない。集中力以前に気にしなければならないのは、見張りをする者の身の安全だろう。
外に危険が潜んでいることは明らかだ。わずか数時間の間に、橘は殺され、工場内部でも焼死体が発見されているのだから。
ツリーハウスは〈建造物〉であり、その内部は外部から一応隔絶されている。しかし、完全に隔絶されているわけではない。
たとえば、梯子を登った先にある入口の扉は、閉じることはできるが、施錠できるようにはなっていない。もしも、《何者》かが梯子を登り、水原の抵抗を制して扉を開けたとすれば――。
鷲尾と土部と離れにいる間も、僕は不安で仕方がなかった。
離れの部屋は、『姑獲鳥の夏』の読書会をやっていた時とは違い、座卓が片付けられ、代わりに、敷布団が横並びに三枚敷いてある。水原が見張ってくれている間に、僕ら三人が眠るためである。
しかし、実際には、誰も横になっていなかったし、そもそも、どの敷布団に誰が寝るのかという振り分けすら決めていなかった。
三人は、座卓があった場所を囲うようにして、座っている。
オレンジ色の天井の灯りもついたままだ。
水原がツリーハウスに向かってから、一時間が経とうとしていた。
「そういえば、鷲尾さんって『魍魎の匣』は未読なんだっけ?」
「……諏訪井さん、今私に話しかけましたか?」
「まあ、そうなんだけど、別に大した話じゃ……」
「何ですか? 気になるんでもう一度言ってください」
「いや、まあ、本当に大した話じゃなくて……」
本当の本当に大した話ではない。ただ、沈黙が気まずかっただけだった。
先ほどまでは、僕は、女性陣二人に、延々と自分の仕事の話をしていた。民事事件の話は専門的過ぎてウケないだろうと思い、話題は刑事事件に絞った。弁護士一年目で担当した国選事件(被疑者がホームレスの窃盗事案)から始まり、今まさに担当している事件(中国人留学生の特殊詐欺事案)まで、守秘義務に反しない限りで、全件話した。
ところが、僕の話が尽きたところで、場はしんと静まりかえってしまった。ゆえに、僕は、昼間の読書会の続きともいえる話題を振ろうとしたわけだ。
本当に話すべきことは、橘の死や、工場火災などの、目の前で起きていることについてなのだろう。それが分かっていながら、あえて〈どうでも良い〉話をしてしまうのは、僕の悪い癖だ。《現実逃避癖》とでもいうのだろうか。
「諏訪井さん、本当に気になるんで、ダンマリはやめてください」
鷲尾が諦めなかったので、僕は仕方なく、「鷲尾さんって『魍魎の匣』は読んだことあったかなって気になっただけ」と、眼鏡のフレームを触りながら訊く。
「ないです。今回の読書会のために『姑獲鳥の夏』を初めて読んだくらいなので。ただ、読書会で皆さんの話を聞いてたら、『魍魎の匣』も読みたいなと思いました」
そういえば、読書会の終わり際には、『姑獲鳥の夏』の続編である『魍魎の匣』にまで話が及んでいたのだった。『魍魎の匣』の魅力を主に語っていたのは、橘だった。彼が亡くなってしまったという現実を、まだ僕は受け止めきれていない。生きるべき人が死に、死ぬべき人が生きるというのは世の常だとはいえ、彼みたいな前途有望な人は絶対に死んではならなかった。どうせ死ぬなら、彼よりも僕の方が――。
「友華さんは『魍魎の匣』を読んだことあるんだよね?」
僕が暗いことを考えている間に、鷲尾は、土部に話しかけていた。
「私は読んだことないよ」
「あれ? 読書会の時、『昔読んだことがある』って言ってなかったっけ?」
「すごい昔なんで、内容は全然覚えてなくって」
ならば、先ほどの『読んだことない』という回答は変だ、と鷲尾は思ったのだろう。彼女は、土部に対して、怪訝な目を向けている。
僕もそう思ったのだが、よくよく考えてみると、内容を全く覚えていない本のことを〈既読〉と言い切ってしまって良いのだろうか。内容を覚えていないのであれば、〈未読〉に等しいのではないか。
「それは、友華さんにとって『魍魎の匣』は記憶に残らない程度の作品だったということ?」
「そう」
僕としては、先ほどの『読んだことない』以上に、こちらにより強くツッコミを入れたくなった。『魍魎の匣』を〈駄作〉だと評する人には過去に一人も出会ったことがない(なお、映画版は除く)。仮に〈駄作〉だと感じたとしても、あの衝撃的なトリックとオチを忘れてしまうなどということが本当にあるのだろうか。
僕は、土部が『魍魎の匣』を斜め読みして、ちゃんと読まなかったに違いない、と結論付けることにした。『魍魎の匣』は〈鈍器本〉の名に恥じぬ分厚さだ。忙しい人は、物語の面白さに気付かないまま、さっさと読み飛ばしてしまうかもしれない。まあ、僕の場合は、高校生の頃、古本屋で買った二段組を、夢中になって一晩で読み切ったのだが。
「じゃあ、友華さんにとって忘れられないミステリ小説って何?」
「やっぱり……夏樹静子かなー」
「未読! ただ、聞いたことはあるよ。たしか『ミステリーの女王』!」
女子二人の間で話が盛り上がり始めたことに、僕は少しホッとする。そして、チラリと窓の外の景色に目を遣った。高さ二メートルほどの掃き出し窓である。
時刻は二十二時近いというのに、窓の外は相変わらず昼間のように明るい。
そのことは不気味で仕方なかったが、庭の様子がちゃんと見えるという意味では、安心だった。もちろん、高台であるツリーハウスのように、庭全体を見通せるというわけではない。しかし、僕が一番見たいもの――ツリーハウスへと続く梯子は、かろうじて見ることができる。
もしも《何者》かが水原を襲うとすれば、必ずこの梯子を登るはずである。
先ほどから、僕は、チラチラと窓の外を見て、人影が現れないか確認している。そして、今のところ、異常は一切確認できていない。
位置的に、鷲尾にも、窓の外が見えているはずであるが、何ら不審なものを見たという報告は鷲尾からもない。安心して大丈夫だろう。
安心して大丈夫――。
本当にそうだろうか。僕たちが今いる世界が〈現実世界〉だとすれば、すでに水原が襲われている可能性を消去することができるのかもしれない。
しかし、今いる世界は《現実世界》ではないように思える。ここが《十年前の世界》なのか、はたまた、現実と一切接点を持たない《異世界》なのかはよく分からない。ただ、今いるこの〈世界〉に関して一つ言い切れることは、夜になっても外が明るかったり、すでに廃墟となっていたはずの工場が復活したりと、あり得ないことが起きる、ということである。
この〈世界〉の中では、これまでの人生と同様に物事を考えてはならない。
これまでの人生で通用してきた《常識》が、この〈世界〉では一切通用しないということが、十分にあり得る。
「諏訪井さん、どこに行くんですか?」
土部に問いかけられて、初めて僕は、自分が立ち上がっていることに気が付いた。僕は、無意識に立ち上がり、玄関へと向かっていたのである。
「見張りの交代まではまだ二時間くらいありますが」
「土部さん、ツリーハウスを見に行こうよ」
「どうしてですか?」
「嫌な予感がするんだよね」
〈予感〉ではなく、単なる〈不安〉なのかもしれない。それでも僕は、自分自身を止めることができなかった。左右を気にしないままサンダルを履き、転びそうな勢いで、玄関を飛び出していた。
「待ってください」
振り向かずとも、足音で、土部と鷲尾が二人して僕を追いかけてきてくれていることが分かった。
とても心強かった。
2
ツリーハウスは、建物でいうと三階くらいの高さにあり、地上からはその内部を窺い知ることはできない。
ゆえに、僕が安心するためには、梯子を登ってみるほかなかった。
あくまでも安心するためだ。
梯子に手を掛けた僕の心に浮かんだのは、以前自分の小説にも題材として用いたことのある有名な思考実験――『シュレーディンガーの猫』だった。
五十パーセントの確率で毒が発生する箱に入れられた不憫な猫。箱の内部では、生きている可能性と死んでいる可能性とが等しく重なり、〈生きているが死んでいる猫〉という《奇妙》な存在となる。しかし、箱を開けた途端、猫の状態は、生きているか死んでいるかのどちらかに収束し、《奇妙》な存在ではなくなる。
今の水原の状況も、この猫にどこか似ている。
ツリーハウスの扉を開けるまでは、水原は、この〈世界〉ならではの不可解な死を遂げているかもしれない《奇妙》な状況。しかし、実際に扉を開ければ、そんな《奇妙》な状況は解消され、水原の無事が確認されるだけ。
〈シュレーディンガーの水原〉――自分で考えておきながら、なんだか笑えてくる。
ただ無事を確認するだけなのだ。そう頭を整理してしまえば、梯子を登る足取りも軽くなる。
ツリーハウスの扉はスケルトンであるため、扉を開けるまでもなく、水原の無事を確認することができる。
そろそろ梯子を登り切る。
「水原さーん」
僕は、敬愛する会長の名を呼びながら、梯子からひょこっと顔を上に出す。
僕が目の当たりにしたのは、恐れていた、《奇妙》な光景だった。
「諏訪井さーん、どうかしましたかー?」
すぐ足元で、土部の声が聞こえる。
僕は何度も瞬きを繰り返したのだが、《現実》に戻ることはない。それどころか、瞬きの度に、その色はより強く網膜へと焼き付いて行く。
真っ緋っか。
ツリーハウス内部の木の色が、元々なかったはずの緋色で染まっていたのである。
僕は梯子の足場を蹴り、急いで踊り場に飛び移る。そして、ツリーハウスの扉を開け放つ。
なお、これは、決して勇猛果敢な行動ではない。むしろ、その逆で、《現実逃避癖》の発露なのだ。
僕は、〈シュレーディンガーの猫〉のように、扉を開けることで、《奇妙》な状況が、《現実的》な状況へと収斂することに期待したのだ。扉を開けることで、扉の内部の状況がガラリと変わってくれないだろうか、と期待したのだ。あまりにも下らない期待である。
そして、当然ながら、その期待は裏切られる。
扉を開けても、《奇妙》な状況は、《奇妙》な状況のまま。
《奇妙》な状況。名付けるとすればそれは――『密室殺人』である。
3
先週、妻の不倫が発覚した。
不倫相手は、妻の職場の同僚――つまり新聞記者で、僕よりも三つ年上だった。
妻が不倫をしていることを知ったのは、本当にたまたまのことで、妻にとっても僕にとっても《不幸な偶然》だった。
密会現場に、偶然、鉢合わせたのである。そこは、都心にあるイタリアンレストランで、「トマトパスタが美味しい」と僕が妻にオススメした店だった。洞窟のような薄暗い雰囲気が素敵で、そのムードを味わうためならば、料理の単価がファミレスの倍くらいであっても構わない、と思えるような店だった。
僕がその日、そのレストランを利用したのは、自分へのご褒美だった。相続人が二桁人数いる面倒な案件を片付けたことを労うためだった。ところが、僕がトイレからカウンター席に戻ろうとした時に、手を繋いでいる妻と不倫相手とが、ちょうど店に入ってきたのである。
状況をすぐに飲み込むことはできなかった。
ドレスのような赤色のワンピースを着て、高いヒールを履き、シャンデリアの灯りに照らされた妻のことを、僕は、間抜けなことに、「綺麗だな」と思った。ただ、その後のことはよく覚えていない。
その日の深夜、妻は、自らの不義理を認め、僕に謝罪をした。あまり掃除が行き届いていないアパートのフローリングに額をつけ、土下座をした。大粒の涙を流しながら、「ごめんなさい」を何度も繰り返した。
そして、「今後のことは全てあなたが決めて」と言った。
今後のこととは、離婚をするかどうか、である。
この点について、僕は、微塵も迷わなかった。
僕は、妻を赦し、妻との婚姻生活を継続することを即断した。
妻との間には、子が二人いる。
双子の男の子であり、長男が奏哉、次男が凛哉という。ともに四歳。
僕の中に、妻と離婚するという選択肢がなかったのは、奏哉と凛哉の存在を意識してのことであるが、〈奏哉と凛哉のため〉なのかというと、それはちょっと違う。
〈僕の人生はすでに終わっていたから〉だ。
奏哉と凛哉が生まれた時点で、僕の人生は終わったというのが、紛うことなき僕の認識だったのである。
僕は、僕の人生を終わらせるために、妻と結婚し、子をもうけたのである。
少年時代から、僕は、一刻も早く自分の人生を終わらせたくて仕方がなかった。太宰治ではないが『恥の多い生涯だった』のである。
体重二〇〇〇グラム以下の未熟児として生まれた僕は、同い年の子よりも、体格面でも行動面でも知能面でも発育が遅れ、常に周りのお荷物だった。
保育園では、周りのみんなが器用に箸を使う中で、僕だけはスプーンすらも上手く持てず、べちょべちょと床に食べ物をこぼした。同い年の女の子から「汚い」と叱られた。
小学校でも、先生の言っていることや、黒板に書かれた文字がちっとも理解できなかった。先生は気を遣って、算数の問題の答えを聞く際に、僕だけを飛ばしていた。
運動も、全くできなかった。体育でバスケットボールをやっていて、一度もゴールにボールを入れられなかったのは、クラスで僕だけだった。
同級生の母親は、僕のことを指差しながら、「どうしてあの子は障がい者学級じゃないのかしら?」とヒソヒソ話し合っていた。
中学校、高校では、周りと比べられないために、友だちを一人も作らず、誰ともコミュニケーションを取らないように過ごした。進級するたびに、僕はいじめの対象になったが、いじめっ子は、僕の反応が憮然としてあまり面白くないことが分かると、標的を変え、僕には構わなくなった。
年齢が上がるにつれて、発育の差は相対化していったのであるが、歪んでしまった僕の価値観は、もう元に戻ることはなかった。
僕は、僕の人生をひたすら耐えてきた。キリスト教について本で学ぶ前から、僕には『原罪』の意識があった。僕は、自分の人生を、〈罰ゲーム〉の一種だと思っていたのだ。
大学は国立大学に入り、その後、大学院にも進学し、司法試験に一発合格して弁護士になった。この部分だけを切り出すと、僕の人生は恵まれた華やかなもののように見えるかもしれないが、決して違う。
僕が勉強に打ち込めたのは、勉強以外にすることがなかったからである。僕が勉強を頑張れたのは、親からも「お前から勉強をとったら何も残らない」と言われていたからである。勉強で大成しなければ、僕には働き口はなく、働けなければ結婚もできない。
そういう強迫観念の下、僕は必死で勉強を続けたのだ。それ以外の選択肢が、僕には用意されていなかったのである。
もちろん、勉強という点に関して、僕には一定の才能はあったのだと思う。集中する才能と、しつこく考える才能。これらの才能は、僕がここまで到達するのには不可欠のものだった。自分は恵まれていた、とも思う。
しかし、この才能があったからといって、生まれてきて良かった、ということにはならない。
僕が生まれ持った使命は、僕自身の人生を全うすることではなく、僕の子どもへとバトンを繋ぐこと。僕に与えられた才能は、そのための才能。僕はこの才能を駆使して、なるべく優秀な遺伝子を持った配偶者を捕まえ、子を残すのだ。僕の人生はそのためにある。僕の人生は《目的》ではなく《手段》に過ぎない。
僕は、僕自身の役目をしっかりと果たすことができた。
『弁護士』の肩書きのおかげで、立派な配偶者と出会うことができた。
僕の妻は、目鼻立ちが整っていて、背が高く、六ヶ国語を操る才女である。僕は、二人の子どもに、素晴らしい遺伝子を与えることができた。
双子は、僕に少しも似ていない。顔もまるで違うし、性格も違う。出生体重も、普通の範囲内。僕の子どもは、見事、僕を《克服》してくれたのである。それで、僕の人生は《満足》だった。
妻が不倫をしたことは、心の底から頷けることである。妻は、僕には分不相応な女性だった。わざわざ分不相応な女性と結婚したのだから、不倫されるリスクは織り込み済みだった。
僕が、妻との結婚生活を継続するのは、離婚という選択肢がないからだ。離婚というのは、どんな形であれ、子の人生を犠牲にしてしまう。何のために子の人生を犠牲にするのかといえば、親の人生のため、である。僕の人生はもう終わったものである以上、僕の人生のために、子の人生を犠牲にするというのは、明らかに背理だ。意味が分からない。
――本当にそれで良かったのだろうか。
僕の判断は、絶対に間違っていない。妻と離婚しないという判断は、絶対に正しい。
しかし、現実の僕はずっと思い悩んでいる。
離婚をしないという決定そのものに引っ掛かっているのではない。
その決定を即断した自分自身に引っ掛かっているのだ。
僕の人生は、本当にもう終わったものなのだろうか――。
僕は、妻の不倫のことを、誰にも話していない。新興ミステリ研究会のメンバーにも話していない。
妻との関係が拗れているこのタイミングで、泊まりがけの合宿というのは、僕からすると、絶好機だった。合宿の最中は、妻のことを考えなくて済む。子どものことも考えずに済む。色々なことを考えずに済む。
要するに《現実逃避》だ。
その意味で、僕は、この合宿に《非日常》を求めていた。全てを忘れさせてくれるようなスリルは、僕にとっては、むしろ大歓迎だったのである。
だとしても。
この合宿での出来事は、明らかに行き過ぎだ。
4
ツリーハウスの水原の死体――刃物で身体を複数箇所刺された刺殺体である――は、動かさずにそのままにすることにした。
〈現場保存〉という意味合いもあったが、それ以上に、死体を地上に降ろすことができなかったからだ。死体を背中に背負って梯子を下るなんて芸当はできないし、かといって、ドシンと死体を地面に落とすわけにもいかなかった。
そういうわけで、僕と鷲尾と土部は、ツリーハウス内部の惨状を目視しただけで、離れへと戻った。
相変わらず外は眩しいくらいの明るさであるが、橘に続くもう一人のメンバーの死は、元々暗かった離れの空気を、さらに暗くした。
「犯人は外部犯……ということで良いですよね?」
土部が口にした言葉は、〈推理〉というよりは、〈願望〉だった。
「そうだね。工場火災では一人分の死体しか見つからなかった。今が〈十年前の世界〉の焼き直しだとすれば、工場長かその息子かのどちらかは生きてるかもしれない」
僕も土部と同じ〈願望〉を口にする。しかし、鷲尾はそうではなかった。
「本当に外部犯の犯行と決めつけて良いんですか? アリバイを検討しなくて良いんですか?」
鷲尾の目は、ちゃんと《現実》を見据えているのだ。鷲尾は僕よりも年下であるが、僕なんかより、はるかにしっかりしている。
「私の認識が正しければ、私たちは三人とも一度ずつトイレに行ってます。ですから、私たちは三人ともアリバイがないはずです。私の認識は合ってますか?」
合ってる、と僕が答えようとしたところで、土部が声を上げる。
「でも、トイレに行ってた時間なんて、せいぜい一分か二分だよ。犯行機会ありとは言えないよ」
「一分や二分では殺せないとは決めつけられないと思う」
僕は、鷲尾の言っていることも、土部の言っていることも正論だなと思った。
常識的に考えたら、ツリーハウスの内部にいる水原を刺殺し、離れに戻ってくるのにかかる所要時間は、一分や二分では収まらない。水原が一度ならず何度も刺されていることを踏まえれば、なおさら時間がかかる。しかし、この〈世界〉において、果たして〈常識〉が通用するのだろうか。
水原が殺されていた《異常な状況》も考えれば、そのことは甚だ怪しいと言わざるを得ない。
「諏訪井さんはどう思いますか? 一分や二分で水原さんを殺すことは可能ですか?」
女子二人の視線が、一斉に僕に注がれる。このタイミングで僕に意見を仰がれたのは、僕が信頼されているから、というわけでは決してない。鷲尾も土部も、単に、多数決の原理に従おうとしただけだ。
こういう場面で、いつも意見を求められていたのは、僕ではなく、水原だった。
それは水原がこの新興ミステリ研究会の会長だから、という理由にはとどまらない、水原の人望ゆえである。水原は、感情に流されず、常に正しい判断ができる人物だった。それでいて、優しく、包容力があったので、皆が気兼ねなく相談事を持ち込めた。
水原の死によって、新興ミステリ研究会は、精神的な支柱を失ってしまったのだ。
「諏訪井さん、聞いてますか? 諏訪井さんの意見を下さい」
鷲尾に催促され、僕は口をパクパクさせた後に、結局、話題を逸らすことにした。
「水原さんが殺されていた状況なんだけど、鷲尾さんはどう思った?」
「どう思ったって……諏訪井さんはどう思ったんですか?」
「異常だと思った」
「どうしてですか?」
「うーんと、そうだね。ハッキリ言うと、僕は、ツリーハウスは《密室》だったと思うんだ」
「《密室殺人》ですか? どうしてですか? ツリーハウスの扉には施錠はされていませんでしたが」
《鍵の掛かった部屋》という典型的な《密室》ではない。ゆえに、説明をする必要があった。
「密室は、その機能面から、二つに分類できるんだよ。一つ目は、犯人が部屋に入れない場合。二つ目は、犯人が部屋から出られない場合」
無論、その両方を満たしている、つまり、犯人が入れも出られもしないという密室も多く存在する。ただ、理屈的にいえば、入れないor出られないの一方だけを満たしていれば《密室》が成立する。
「諏訪井さんは、今回のツリーハウスはどちらに分類されていると考えているのですか?」
「前者だね。犯人が入れるはずがないと僕は思ってる。タイプとしては《衆人環視の密室》に近いかな」
「それって『コズミック』の《最初の殺人》ですか?」
鷲尾が名前を出した『コズミック』とは、第二回メフィスト賞受賞作である清涼院流水の『コズミック 世紀末探偵神話』のことである。この作品は、新興ミステリ研究会のオンライン読書会で過去に扱ったことがあるため、今回合宿に参加したメンバーは全員既読だった。
この作品のあまりにも有名なキャッチフレーズは『今年、一二〇〇個の密室で、一二〇〇人が殺される』。あまりにも壮大過ぎる連続殺人の幕開けとなった《最初の殺人》は、『平安神宮の密室』。文学フリマ京都の開催場所である『みやこメッセ』の目の前にある由緒ある神社を舞台とした殺人は、たしかに《衆人環視の密室》の代表例だ。
「そうそう。鷲尾さんの言うとおり。まあ、初詣の人混みの中での殺人と、今回のツリーハウスの殺人とでは、だいぶスケールは違うかもしれないけど。今回監視してたのは、不特定多数の参拝客ではなくて、たった一人だし」
「監視していたのは、水原さん、ですね」
うん、と僕は頷く。
「水原さんは、ツリーハウスで見張りをしてたんだ。当然、梯子を登ってくる不審な人物がいれば、それに気付かないはずがない」
「不審な人物を見たら、大きな声を出す、って言ってましたよね。水原さん」
僕は、再び、うんと頷く。
「でも、実際には、水原さんの大きな声なんて、僕らは聞いていない」
ツリーハウスと離れとの距離は、直線にして十メートルもない。同じ敷地内である。
そして、ツリーハウスの壁や扉も厚くないし、離れの窓は網戸にしていて閉め切っていなかった。
水原が大声を出したとすれば、確実に聞こえていたはずである。おそらく、離れよりは少し距離があるトイレまでも、水原の声は届いたはずだ。
「犯人はいかにして水原さんの監視をかい潜ったのか。犯人はいかにして《衆人環視の密室》を突破したのか」
自分で言いながら、僕は違和感を覚えた。
「今回の場合、水原さん一人の監視だから、《衆人環視》というのはオカシイね。《監視下の密室》が正確な表現かな」
鷲尾が首を横に振った。
「いいえ。諏訪井さん、《衆人環視の密室》で大丈夫です。なぜなら、私も見てましたから」
鷲尾が続ける。
「離れの窓から梯子の下の部分が見えますよね? 水原さんが何者かに襲われる可能性もあるかなと思いまして、窓から様子を見てたんです」
「それは僕も同じだ。だったら、やっぱり《衆人環視の密室》だね。水原さんと鷲尾さんと僕という衆人の環視があったんだから」
土部が、小声で、「ごめんなさい」と言う。
「私一人だけ監視してませんでした」
「それは全然構わないよ。そもそも、土部さんの身体の向きだと、窓の外は見えないし」
「そうだよ」と鷲尾も同調する。
「二人ともありがとう。許してもらった恩を仇で返すわけではないけれども、先ほどの諏訪井さんの説明に対して、一つ、指摘があります」
「指摘? 何? 説明にオカシイところがあった?」
「オカシイ、というよりも、抜け、ですかね。諏訪井さんは『不審な人物が梯子を登ってきたら、水原さんは声を上げるはずだ』と言いました。でも、梯子を登ったのは『不審な人物』とは限りません」
「……どういうこと?」
「私たちのうちの誰かが梯子を登ってきた場合には、水原さんは声を上げないと思います」
鋭い指摘である。内部犯――すなわち、僕か鷲尾か土部が犯人だった場合には、水原は、声を上げることなく、ツリーハウス内に普通に招き入れるかもしれないのだ。そして、水原が油断した隙を突き、犯人は水原を刺すことができる。
「私は友華さんとは違う見解です。梯子を登ってきたのがたとえ私たちのうちの誰かだとしても、水原さんだったら、声を上げたと思います」
鷲尾が土部の意見に異論を唱えた。
「水原さんは、橘さん殺しの犯人が内部犯である可能性も想定していたはずです。見張りの交代まではまだ時間がある段階でメンバーが梯子を登ってきた場合に、水原さんならば怪しんで警戒するはずです」
たしかに水原はそういう人物だ。用意周到で抜け目がない。
「だとしても、わざわざ大声を上げる?」
土部が食い下がる。
「百歩譲って大声は上げないとしても、警戒は解かなかったはず。不意打ちで刺されて、声も上げられぬまま死んでいくなんて考えられない。千歩譲ってそういうことがあり得るとしても、私と諏訪井さんは、離れから梯子の様子を監視してたんだよ? 梯子を登った人は誰もいなかった」
僕は、どちらかというと鷲尾の意見に同意だが、かといって、鷲尾が完全に土部を論破したとまでは思わなかった。
鷲尾が指摘するとおり、僕らのうちの誰かが水原を殺した犯人なのだとすれば、《密室》を破れた可能性は存在する。水原が警戒を解く可能性もあるし、僕と鷲尾の監視だって万全ではなかったと思う。少なくとも、僕は、常にじっと梯子を見ていたわけではない。
いずれにせよ、《密室》に関する議論は、ここで頭打ちだった。本当に《密室》だったかどうかもよく分からなくなってしまったし、何より、この議論を続けても肝心なことはちっとも分からないのである。犯人が内部犯なのか外部犯なのかも分からない。犯人が人間なのかそれとも《スーパーナチュラルな存在》なのかすら分からずじまいだったのだ。
5
外は明るいままだったが、時計の針は夜の零時を回っていた。
僕らは、本格的に仮眠をとる方法を検討せざるを得なくなっていた。
「僕がずっと起きてるから、女性陣は眠ってて良いよ」という僕の提案は却下された。勿論、僕が犯人だった場合に困るという理由で。
僕が犯人でないことは、僕にとっては分かりきってることなのに、それを二人に証明することは不可能だ。
むしろ、二人からすれば、僕は最も疑うべき存在なのだろう。
橘殺しも水原殺しも、ともに刃物を使った殺人である。これは女性が用いる殺害方法ではなく、男性が用いる殺害方法だ、と、エルキュール・ポワロならば断言するだろう。
この推理方法は、男女同権の今の世では時代遅れなのかもしれない。ただ、僕自身、目の前の華奢な女性二人が刃物を振り回す姿はあまり想像できなかった。
それに、僕には、僕が〈人を殺しそうなタイプの人間〉であるという自覚があった。仕事は弁護士だが、遵法意識は低く、正義感も強くはない。「執筆の糧になればと思って、試しに人を殺してみた」とか言いそうなのが、僕だ。
「もうみんなでずっと起きてるしかないんじゃないですか」
土部が言う。
頑張り屋の土部は、徹夜でYouTube動画の作成などをよくやっているので、いかにも土部らしい意見である。
最終的には、「一人ずつ順番に寝るしかないと思います」という鷲尾の意見が採用されることになった。
常に、二人が起き、一人が寝ている状況を作るということである。この方法であれば、寝ている一人が犯人であった場合には当然ながら安全である。さらに、起きている二人のうちのどちらかが犯人であったとしても、襲われそうになったときにすぐに寝ている一人を起こして、一対二の状況を作れば、身を守ることができる。
僕は、以前小説の題材とした《川渡り問題》を思い出す。あの論理パズルの前提は、数的同数であれば羊は狼に食われるが、羊側が数的優位であれば狼に食われずに済むというものであり、何だか今の状況と似ている。
「まずは諏訪井さんが寝てください」と土部。
「私も同意見です」と鷲尾。
「そんなに僕のこと信用できない?」と僕が尋ねると、「そうじゃないです」と二人は口を揃える。
「諏訪井さんが一番疲れて見えるからです」と鷲尾が言い、土部もうんうんと繰り返し頷く。
たしかにそうかもしれない。三人の中では僕が一番歳を食ってるし、普段子どもに合わせて早い時間に寝ているので、夜には弱い。
僕は、お言葉に甘えて、布団に潜らせてもらうことにした。いつ《非常事態》となって起こされるのか分からないので、熟睡はできない。それでも、横になって目を瞑っただけで、身体も心もだいぶ楽になった。
6
よほど疲れていたのか、微睡むだけのつもりが、完全に入眠してしまったようだ。
その証拠に、僕が目を開けると、離れの様子が変わっていたのである。
離れには、鷲尾も、土部も、誰もいなかった。
僕は、電気ショックを受けたかのように、敷布団から飛び起きる。
最悪の想像をしたからである。鷲尾か、土部か、もしくはその双方の身に何かあったのかもしれない。
しかし、それは杞憂だった。
僕が立ち上がった途端、「諏訪井さーん」という土部の声が聞こえた。非常時ではなさそうな、気の抜けた声だった。
掃き出し窓は網戸も含めて全開に開いており、その向こうに女性陣二人がいた。土部は窓の近くに、鷲尾はもう少し奥の、梯子のそばにいた。
「諏訪井さん、ベストタイミングです。ちょうど諏訪井さんを起こそうとしてたところだったんですよ」
「……何かあったの?」
「靴を履いて外に来てください。百聞は一見に如かずですよ」
靴を履く時間の猶予があるということは、やはり非常時ではなさそうである。僕は肩の力を抜くと、玄関までそろりと歩いた。
スニーカーを履いた僕が庭に出ると、鷲尾の姿が消えていた。
「あれ? 鷲尾さんは?」
「あそこです。諏訪井さんも中に入ってください」
土部が指差したのは、ツリーハウスである。たしかにスケルトンの扉の先に、鷲尾の背中が見えた。
正直、気は進まなかった。ツリーハウスの中には、まだ水原の死体があるはずだ。安置されている、という状態ではなく、殺害されたそのままの状態で。
とはいえ、年下の女性である鷲尾が入っているのに、僕が入室を拒否するわけにもいかなかった。それに、土部と鷲尾の雰囲気からすると、何かポジティブな発見があったようである。僕は、気合を入れて梯子を登る。
「諏訪井さん、《隠し通路》ですよ!」
鷲尾が指を差した先にたしかに〈それ〉はあった。出入り口がある辺とは向かいの辺。横たわる水原の死体の頭の先に、〈それ〉はぽっかりと口を開けていたのである。
「名探偵の真似をして、ツリーハウスの中を徹底的に調べていたんです。そうしたら、グラグラと揺れる床板があって、動かしたら、この《隠し通路》があったんです」
鷲尾は胸を張る。
たしかに胸を張って良いレベルの大発見である。僕には、鷲尾がミス・マープルのように見えていた(年齢も違うし、行動力も違うけど)。水原の死体を怖がっていた僕には、決して〈それ〉を発見することができなかっただろう。鷲尾の探究心と行動力には頭が上がらない。
しかし、僕には、どうしても鷲尾に指摘しなければならないことがあった。
「鷲尾さん、この穴は《隠し通路》にしてはあまりに狭すぎないかな?」
鷲尾が見つけた〈隠し通路〉は、長方形に開いていたが、僕が普段仕事で使うA3サイズの用紙、いや、B5サイズの用紙よりもさらに小さいくらいである。
少なくとも、僕の身体はこの穴を通過することはできない。足から入ったとすれば、腰のところで支えるだろうし、無理やり腰を通せたとしても、肩を通すことは絶対にできない。
女性であり、僕よりもはるかに細身である鷲尾でも、状況は変わらないだろう。もしも鷲尾が『魍魎の匣』を既読だとしたら、僕は、某キャラクターの名前を挙げて、こんな通路は通れるのは彼女くらいしか、と言っていたと思う。
「それは私も気になってました。この通路、狭過ぎますよね」
「そもそもこれって『通路』なのかな?」
「通路じゃないとしたら、何なんですか?」
「たとえば、小物用の収納スペースとか」
「それは違いますよ。かなり深いですから」
鷲尾は、右手に持っていたスマホのライトで、床下の穴を照らす。白色の鋭い光でも、穴の底までは届かなかった。底が見えないので、何とも言えないが、穴は少なくとも地上まで伸びているように見える。
「じゃあ、換気のための通気口とか?」
「それって普通床に付けますか? 天井の方に付けませんか?」
正論である。
「じゃあ、緊急用のトイレとか……」
「諏訪井さん、それ本気で言ってます?」
「いや、冗談だよ。もちろん冗談」
汚臭もしないし、と言うかどうか悩んだ末、控える。
「というか、諏訪井さん、《足場》のようなものが見えませんか?」
「足場?」
「照らしてみますね」
鷲尾がスマホを少し傾けると、ライトは真下ではなく、穴の縁の方に向く。たしかに穴の縁から下に向かって、手や足を掛けられるような凹凸があるのである。梯子というよりは、ロッククライミングのような感じだろうか。木材が不規則に凹んだり出っ張ったりしているのである。
「たしかにこの凹凸を使えば、かろうじて昇り降りはできそうだね」
「ですよね」
「ただし、スモールライトが必要かもしれないけど」
僕と鷲尾はこの穴を《隠し通路》と呼ぶべきなのかどうかを判断できないまま、一旦、ツリーハウスから降りることにした。
そういえば、ツリーハウスにいる間、完全に目を離してしまっていたが、土部は無事だった。庭に置かれたプラスチックの椅子に腰掛けていた彼女は、僕が梯子を降りると、すぐに声を掛けてきた。
「諏訪井さん、大発見でしたよね?」
僕は「そうだね」と素っ気なく返すと、何歩か後退りをし、ツリーハウスの外観全体を視界に収める。
櫓のような構造である。建物の床は地上から十メートルほどの高さにあり、その床を数本の木の柱が支えている。意識して見てみると、中央の柱が格別に太い。この柱の中が空洞になっていて、先ほど見た《穴》となっているのだ。
果たしてこれは《隠し通路》なのだろうか。もしも《隠し通路》として使えないのだとすれば、完全な手詰まりだ。水原の殺人は、人智の及ばない《超能力》によるということになる。しかし――。
このような《諦め》は水原が許さないだろう。彼は、少なくともミステリに関しては、徹底的な現実主義者だった。実世界に存在する道具立てのみで推理小説を構成し、解決の場面においても、それが現実的で実現可能かということに意を割いていた人物である。その水原の死が《非現実的な方法》で齎されて良いはずがない。そんなことでは水原の死が全くもって報われない。
水原自身は、カチコチの合理主義者というよりは、非常に柔軟な考えの持ち主である。新興ミステリ研究会内でも、まさに会長に相応しく、メンバーの意見をちょうどいいところでまとめるバランサーであった。
他方で、自作において水原が現実主義を貫いたのは、水原が私淑するミステリ作家の影響だろう。そのミステリ作家とは――。
「分かった!」
僕は反射的に声を上げていた。密室殺人の謎が解けたのだ。
具体的に説明できる解ではない。しかし、方向性としては、これで間違いないと、僕は瞬間的に悟っていた。水原が殺される方法としては、これしかないのだ。
「諏訪井さん、何が分かったんですか?」
眠気のためか、ほとんど目が閉じかかっている土部に対し、僕は、自信満々に「密室トリックだよ」と答える。
「鷲尾さんがツリーハウスから降りてきたら、離れの和室にみんな集合しよう。そこで、
僕は『さて』と語り出すことにしたいんだ。名探偵ではないけれど」
7
「……諏訪井さんの言ってることはなんとなく分かります。だけど、なんというか……強引過ぎませんか?」
鷲尾の指摘は、僕にとって残念なものではあった。かといって、僕が威勢良く反論できるようなものではなかった。
強引過ぎる、もう少し正確にいうと、余白が多過ぎる、ということに、僕にも自覚があったのである。
離れで僕が披露した推理というのは、以下のようなものだった。
ツリーハウス内で鷲尾が発見した床下の《穴》には、人間が通れるほどの幅はない。
もっとも、人間以外の何かが通れるくらいの幅はある。たとえば、凶器。
犯人は、凶器――何らかの刃物ということになるだろう――を《穴》の中を通して、ツリーハウス内に向かわせた。そして、いわば《遠隔操作》によって水原を襲い、水原を殺害したのだ。
つまり、ツリーハウスに侵入したのは、凶器を持った犯人ではなく、犯人が操る凶器であり、それならば、《穴》の広さは問題にならないという考えである。
これは決して完全なる僕の思いつきではない。水原が私淑する作家の某名作のトリックから着想を得たものだ。水原が殺されるのに、これほど誂え向きの方法はないだろう。
とはいえ、僕の推理は、鷲尾の指摘するとおり、あまりにも『強引』である。
この『強引』さは、水原が私淑する某作家のトリックのせいではない。僕の考察の甘さゆえである。
「諏訪井さんが想定している凶器って刃物なんですよね? たとえば、それを小型ナイフだとしましょうか。その小型ナイフをどのようにして《穴》から侵入させるんですか? 下から上に向かって這わせるってことですよね? どうやって重力の支配から逃れるんですか?」
おっしゃるとおりである。穴は床下に開いていて、そこから刃物を出現させるためには、床下からツリーハウス内に刃物を飛び出させねばならないのである。たとえば、小型ナイフをロープに結んだとする。しかし、それを上から下に落とすならともかく、下から上に持っていくということは困難である。『ゼルダの伝説』の『かぎつめロープ』のようなコントロールと威力が必要だ。《穴》の底にいる犯人が、《穴》の上にいる水原に向かって、ロープ付きのナイフを投げ、的確に急所を突き、縄を手繰り寄せてナイフを回収する。言葉で言うほどにはそれは簡単なことではない。何百回に一回か、何千回に一回かは成功するのかもしれないが、要するにそれは決して《現実的な手段》ではない。
「そもそも、犯人はどうやって《穴》の底に入ったんですか? どこかに別の入り口があるんですかね?」
土部が、さらに難点を突いてくる。
たしかに僕の推理だと、犯人はツリーハウスの《穴》以外のどこかの入り口から《穴》の底のスペースに到達したことが前提となる。しかし、そのような入り口は今のところ見つかっていないし、存在意義もよく分からない。仮にツリーハウスの底に《隠し通路》があるのだとすれば、普通は、ツリーハウスとの間を行き来できるようにするはずだ。それなのに、通れない。ツリーハウスとの接点はある。しかし、狭過ぎて通れない。それは一体何のための《隠し通路》なのか。そんな《隠し通路》は存在しないと考えるのが普通だろう。
女性陣二人からの追及に、僕は黙り込むしかなかった。
かといって、推理を撤回するわけにもいかない。僕が諦めてしまえば、水原の死は愚弄されたままなのである。
僕が貝になってしまったことで、いよいよ土部の眠気はピークに達したらしい。畳の上にゴロンと寝そべりながら、大きなあくびをする。
「そういえば、交代制だったね。友華さん、布団の上で寝て」
鷲尾が、土部をすでに敷いてある布団の方へと誘導する。土部は、「ありがとう」と「オリゴ糖」の中間くらいの曖昧な発音をした後に、布団の上できつく目を閉じる。
土部にタオルケットを掛けてあげている鷲尾に、僕は弱々しく謝罪する。
「ごめん。しょうもない推理しかできなくて」
「しょうもなくなんかないです。たしかに正解でもないかもしれません。でも、推理をして、可能性を一つ一つ検討していくことで、徐々に真相に肉薄していけると思うんです。『失敗は成功のもと』ですよ。そういうことわざってありますよね」
「多分」
鷲尾は帰国子女である。そのためか、自らが使っている表現が日本語として正しいのかどうかをよく気にしている。しかし、だいたいは間違っていないし、それどころか、海外経験がほとんどない僕よりも日本語の語彙が多いのが実情である。
土部が寝てしまったため、ここから一時間半くらいは、鷲尾と二人きりということになる。鷲尾が犯人である可能性もあるのだが、僕は、その可能性を考えてもなお、鷲尾の存在を心強く思っていた。このような極限状態であっても、鷲尾は、良い意味で、相変わらずなのだ。非常な現実に押しつぶされる様子もなければ、異常な現実に開き直る様子もない。
鷲尾は、いつもと変わらない声色で、僕に問う。
「ところで、諏訪井さんって、何のためにミステリを書いてるんですか?」
8
白天の下を、僕は一人で駆けていた。
照り返しの強いアスファルトを、力一杯に蹴飛ばす。
目的地は、はっきりと決まっている。
僕には、ついに《謎》が解けたのである。
きっかけは、鷲尾が僕に投げかけた質問だった。
――何のためにミステリを書いているのか。
これこそ、僕がずっと考えるのを避けていたことであると同時に、今の僕が考えなければならないことだったのだ。
妻の浮気を知った時に、僕が感じたように、子供にバトンタッチしたことで僕が人生がすでに役目を終えているのだとすると、僕がミステリを書く理由などどこにもないのである。
ミステリを書くというのは、単に、パソコンのキーボードをカタカタと打つというだけではない。また、論理を突き詰めたところで、それはミステリにはならない。
ミステリを書くということは、自らの人生を振り返るということだ。ミステリを書くということは、自らの人生に意味を与えるということだ。ミステリを書くということは、自らの人生を増幅させるということだ。ミステリを書くということは、自らの人生をさらに推し進めるということだ。
つまり、ミステリを書くということは、明らかに《生への固執》なのだ。
僕が新興ミステリ研究会の合宿に参加したのは、決して、《現実逃避》などではないのではないか。むしろその逆なのではないか。僕をこの合宿に誘ったのは、極めて現実的な《生への欲求》なのではないか。僕はミステリと関わることで、自らの生を謳歌しようとしているのではないか。
だとすれば、僕はここで死ぬわけにはいかない。同じ創作者である鷲尾や土部を死なせるわけにもいかない。
ゆえに、僕は、今回の事件に、正面から向き合うことにしたのだ。
ただし、登場人物である探偵として、ではない。創造者であるミステリ作家として、である。
〈この世界〉は、突如として、脱出不可能なクローズド・サークルとなった。そして、その後、クローズド・サークルにおいて、橘と水原が無惨にも殺された。
綾辻行人の『霧越邸殺人事件』では、クローズド・サークルの分類が行われているが、その中に、クローズド・サークルの作られ方に関する区別があったと記憶している。
大別すると、以下の二つだ。
犯人が意図してクローズド・サークルを作る場合とクローズド・サークルが意図せずに作られる場合。
前者の方が、一般的だと思う。同作者の『十角館の殺人』は典型だ。周囲と隔絶された孤島に犯人がみなを招待した理由は復讐=殺人のためだと、冒頭のプロローグにハッキリと書いてある。犯人が積極的にクローズド・サークルを作り、そのクローズド・サークルを利用して連続殺人を行うパターン。僕の過去作である『シナプス館の殺人』も明らかにこれだ。
他方で、後者――クローズド・サークルが意図せずに作られる場合もある。いわゆる《雪密室》は、その典型例かもしれない。犯人は天気までコントロールできるわけではないので、たまたま犯行予定日に雪が降って、犯行現場が周囲から隔絶されてしまうことがある。
また、天変地異などによってクローズド・サークルができた後に、そのことがきっかけで殺意が生じるパターンもある。僕が好きなパターンだ。代表作はいくつか浮かぶが、ネタバレになるためにここでは伏せる。
さて、現在の状況分析に話を戻す。この《白い霧》によって作られたクローズド・サークルは、犯人によって意図されたものだろうか。それとも、犯人が意図せずに作られたものか。
――前者である。
橘が殺されたのは《白い霧》の出現後まもなくなのである。橘殺害と《白い霧》の発生は、不即不離だ。奇妙な連続殺人は、《白い霧》の発生と同時にスタートしているのである。《白い霧》は、連続殺人の手段として、積極的に用意され、利用されているとしか思えないのだ。
犯人は、今回の連続殺人のために、《白い霧》を発生させた。これが、ミステリ作家としての僕の解釈=推理である。
だとすれば、明らかに、犯人は《スーパーナチュラルな存在》である。生身の人間が、こんな怪奇的な霧を操ることなどできるはずがないのだから。
この《推理》は、決して投げやりな思考放棄ではない。僕には、その《スーパーナチュラルな存在》に心当たりがあるのだから。
僕の右手には、大きめのカナヅチが握られている。僕は、この《推理》が思いついた途端、鷲尾に何も説明しないまま、縁側から離れを出て、倉庫に向かい、この武器を調達したのである。
そして、鷲尾の制止を振り切り、素足のまま、土部邸の敷地の外へと駆け出した。
この武器を使って《犯人》を殺す――いや、徹底的に《壊す》のだ。そして、殺人の連鎖を止める。
目的地に到着した。
そこはマカドマ様の社である。
マカドマ様の社の様子は、合宿の開始直後に土部に案内された時とは違っていた。マカドマ様の像が壊れていることには変わりがない。違っていたのは、マカドマ様が鎮座する社の方で、扉が壊れていたのだ。つまり、像も社もともにボロボロだったのだ。
それは見るからに無惨な状況で、過去に神仏に対して信仰心を持ったことのない僕でも、思わず憐憫の情を抱いてしまうほどだった。
かといって、僕は、カナヅチを握る手の力を緩めはしなかった。
今回の事件で悪さをしているのは、マカドマ様に違いがないのだから――。
「諏訪井さん」
僕がカナヅチを振り上げようとしたところで、背後から僕を呼ぶ声がした。少し上擦ってはいるが、聞き慣れた声だ。新生ミステリ研究会のメンバーの声である。
僕は、後ろを振り返る。
次の瞬間――。
胸のあたりを鋭い痛みが襲った。
刃物で刺されたのだ。
全身の力がスッと抜ける。
道路にカナヅチがボトっと落ちる。
続けて、僕の身体も道路にふにゃんと崩れる。
僕の最期の《推理》は間違っていた。事件の《犯人》は、《スーパーナチュラルな存在》ではなかった。
最期のシーンで網膜に映った犯人は、れっきとした人間だったのである。
【第4章 鷲尾 飛鳥】
1
I wish drink a cup of tea.
Caffeine consumed this morning in meinem körper wird bald aufgebraucht sein. Oolong-Tee und Wasser stehen gleich daneben, aber ich hätte jetzt Lust auf eine dampf aufsteigender schwarztee. Das reicht für vier personen, einschließlich Herr Mizuhara, der für die sicherheit zuständig ist, und wir schätzen, dass die zubereitung dieser menge etwa 10 Minuten dauern wird. Ungefähr 10 Minuten. Die viel zeit in anspruch, in der ich mich nicht um das baumhaus kümmere. Angesichts dieser umstände ist es wohl unvermeidlich, dass das trinken von vergiftetem tee misstrauen und verfolgungswahn hervorruft. Ich weiß, dass ich der wahrheit nicht näherkomme, wenn ich angst vor 「ソウイエバ、ワシオサンッテモーリョーノハコハミドクナンダッケ」verbrennungen habe. Nicht jeder versteht sofort alles. jetzt ist die zeit, auf die schneeschmelze……Hm? わたし、今のはJapanisch、そう、ワシオサンはわたしかな、鷲尾さんだもんね? なんだって? 集まれ日本語、返答の森。
「スワイサン、イマワたしに話しかけましたか?」
しかしながらスワイさんは沈黙を避けたいのになぜか猫に舌を持って行ってもらおうと四苦八苦してて、結局は彼ではなくユーカさんがたくさんお話ししてくれた。
好きな推理作家として嬉しそうにナツキシズコの名前を挙げたユーカさんに対して「実在する方なんですか?」発言は流石にBonkersが過ぎる。高木彬光の『邪馬台国の秘密 新装版』の半ばあたり、夏樹静子に対する「実力派の女流推理作家」という表現から「ミステリーの女王!」に言い換えたのは我ながらElephantだ。高木彬光は、物語の名探偵・神津恭介に魏志倭人伝に記録された邪馬台国の所在を推理させる手掛かりのひとつとして実在の推理作家の名前を挙げた……季節は同じ頃合い……ここが何処なのか、どのような手がかりがあれば推理できるのかな。
場所に加えて、白い霧の正体も未知だ。土部家の食器や道具を実験に使って良いなら遊んでいるところだけれど……橘さんが殺害されて、身元不明の遺体を目の当たりにして、今のところ取り乱すまではしていないものの誰もが緊張している。
弾む声が紡ぐのは、聞いたことない題名、知らないあらすじ。普段の読書会のときのような口調ではあるけれど、なんだろう。んー……以前の『魍魎の匣』読書会には聞き専で参加してみたけれど、そのときはものすごく熱く語ったような……是、語ってたよ。とっても。
題名に匣があるからか、友華さんは作品における匣に強く魅了されていた。京極夏彦が綴るDetailed Psychological PortraitにもHuman Dramにも興奮していたし、何よりBoxだけではなくてConceptとしての扱いがされるようなSchatztruheやPackageのような箱をも含めてThe fact that 京極夏彦 is thoroughly obsessed with the theme of 箱 in 『魍魎の匣』に感動していた。The torrent of words reminiscent of sorcery as seen in 『姑獲鳥の夏』にもユーカさんはso excitedで、
「本当にっ、あの、読んでいたら、私、解体されてて! 解体だからバラバラなんだけど、あっ、怖いよね?! ごめんね、でも、こう……あのっ、本っ当に! 匣、箱、はこ、ハコ! 物語が進行するにつれて京極夏彦の物語がじわじわ浸み込んできて、最終的には私も解体されちゃったの! え、飛鳥も解体されてみなよっ!?」
このときのわたしが取るべきだった最良の言動はCela reste enveloppé d’un voile de mystèreの状態である。
たしか、The Grottesco & Grim Mystery at the heart of the story are disappearance of a girl & mutilation murderだけれど、それよりも事件をどうにか理解しようと思考錯誤する登場人物たちがbordering on madnessなのにCaptivatedだって言ってたかな。友華さんの感想を聞くかぎりでは、なんだか、I pensieri dei personaggi sembravano imprigionati in quella scatolaだったし、実際に作中ではそうだったのかもしれない。未読だから分からないけれど。
途中から、Gartnerだったかな、“分解”と“再構築”って。なぜかComposabilityの話になっちゃって置いてけぼりにされた。だからこそ、あのときの友華さんの熱量の大きさは印象に残っている。話す熱量を定量化する方程式を立てられたら、そのときの友華さんと今こうして『蒸発―ある愛の終わり―』について話している友華さん、それぞれの熱量を数値化して比較することで近似性を証明できる。それくらい熱く語っていたはずなのに覚えてないなんて……そういう刹那的な生きかたからか、この空間の異質による影響か……
元来、ミステリ文学は専ら死を娯楽として扱う姿勢がみられるゆえにSer juzgado por los inquisidoresの機会が少なくない。それは、今のところわたしは、人の死に宿る強烈で鮮明な謎ゆえだと理解している。だから研究会メンバーが日常の謎よりも密室殺人や連続殺人に強い関心を抱く由縁も、理解はできる。作者の自作自演に過ぎないとしても、与えられた謎に積み上げられた論理に魅了されたいのだろう。そこに何か意味を見出せるなら――相槌を打ちながら窓の外も視界に入れていると、諏訪井さんもツリーハウスを気にかけている様子だった。彼は1人で何を考えて……否、一連の事件のほかに何があるだろう。きっと水原さんもツリーハウスで周囲を警戒しながら同じことを考えている。
誰が橘さんを殺害したのか。
工場で発見した男性遺体は誰なのか。
わたしは彼らと同様に真剣に考察を続けるべきなのかもしれない。確認したいことは両手に余るし、方法には見当がつく。けれど、待機するよりは体力を消耗する。この中ではわたしが1番の足手纏いなのは論うまでもない。せめて迷惑を掛けないよう、わたしはdon’t drive them to anxietyになるようにしていようと決めた。
However……My actions based on my own decisions led to the worst possible outcome. Carnegie said “Cultivate the mental attitude of accepting the worst that can possibly happen,” But, what needs to be improved in the current situation? Even if what montaigne said is true, que pourrait-on crearne altri que du malheur à partir de ces material et de ces graines qui nos son dados? Chi l’avrà detto un tempo――人生は地獄よりも地獄的である……と。
水原さんの亡骸を前に、わたしたちは何もできなかった。
この謎の空間に迷い込んだのは奇しくも金曜日。仮にこの空間におけるViernes Santoなら、これが水原さんが望んだ受難と死なら、日曜日に復活してSuperare la morteを証明してくれたら,Che cosa meravigliosa……せめて有栖川有栖が水原さんとともに地獄を巡礼して煉獄山の頂上にいる永遠の淑女のもとへ導いてくれたら良いのに。ミステリ好きなら案内無しで勝手にInfernoを満喫してSALIGIAを清める気なんてさらさらなくても7つのPとともにPurgatorio登頂するとともにオールタイムベストミステリに出会って、良い感じに張られた伏線からついには緋色の薔薇を見つけてこの世を動かすのは作者の偏愛だと知るものだと、その読書遍歴で悲惨な殺人も非道な裏切りもエンターテインメントとして楽しめる下地を育んできたミステリ読みであれば容易なことだと知っているつもりだった。
この不可解な空間――カ行が多い、よくわからない霧がかった場所だからヤマタイコクでいいや――入国後からわからないことばかりが続く。それでも、橘さんも水原さんも刃物による外傷は確認された。2人目の謎の遺体を含めて、発見は1人ずつ。
仮に殺人が超常現象によるものであればわからなければならないけれど、そうだとしたら1人ずつ殺害する必然性に欠ける。検視したわけではないから断定できないけれど、橘さんの外傷と水原さんの外傷の大きさはよく似ているように見えた。ならば、ある凶器を用いて不意をついて確実に犯行を重ねる人間が存在している可能性が高い。
入国直後に殺害されたと思われる橘さんは理解が及ぶ前に不意を突かれた可能性は否めない。しかし、水原さんは明確に警戒していたのだから一体どのような想定外の事態を前にする可能性が……誰かが水原さんを裏切った? まさか……『神曲』に思考が引っ張られ過ぎているだけだ、Vade Retro Satana! 裏切者がいても特定したくない。このまま、何も知らないまま…………離れに戻っていく友華さんと諏訪井さんの背を眺める…………このまま終わっても良い、のかな。ただ殺されるのを待つだけ?
クリスティの『そして誰もいなくなった』のように、正体を隠し通した犯人だけが目的を達成するとしたら。仮に私たちが巻きこまれている事件が笠井潔の大量死論を補強するとしてもしないとしても、友華さんが『魍魎の匣』における狂気的な営みと表現していた試行を用いてでも意味が解らないまま死に至るのは避けたい。怖いけれど、真実を真相を知りたい。
ひとまず、確実にわたし1人の警戒では足りない。疲れさせて申し訳ないが、2人に疑心暗鬼を解かないでいて欲しくて内部犯説を提起しておいた。
宮沢賢治の座敷童のお話だったか何かのような感じで互いを起こし合おうと、3人のうち誰が最初に横になるか決めることになる。最近読んだ照度と睡眠の関係性について論じた文章とは条件が大きく異なる。明るいのは事実だが、それとは無関係に、わたしは眠れない自信があった。お2人のどちらかに譲ると、諏訪井さんが最初に休むことになった。横になると数分ほどで落ち着かれた。すぐ起きれるようにしておくとはおっしゃっていたものの、事前にスマホでアラームを掛けていた様子はなかったから特に起床目標時間は無いらしい。それなら、相応に時間があるかな。
ZANさんならヤマタイコクの原点について調べるかもしれないけれど、彼の得意分野にはめっぽう昏いわたしには殺人犯の正体のほうがまだ考察の余地が残されている。
橘さん。
身元不明の死体。
水原さん。
諏訪井さん。
友華さん。
わたし。
誰もいなくなったとき、ヤマタイコクには6つの遺体が存在する――”The Adventure of the Six Napoleons”のようにHolmesだけが看破できたような動機が存在するとしたら? たとえば、”The ABC Murders”のような、いや。さすがにPoirotもOrder and Methodが通用しなくて困惑するしかない。6人の中に特定の本命が存在するというよりも、対象者だと仮定するほうが蓋然性は高いだろう。でも、けれど、”A murderer has always a tendency to repeat his crime,” however, 6人を殺しても目的となる死体の山は築けない。少なくとも犯人の目的は死体を隠すことではない。なぜわたしたちを対象としているのか。わたしたち6人の……1人知らない人がいるから5人の共通点か……5人の共通点としてあげられるのは、新興ミステリ研究会に所属しているということ。ミステリが好きで、それが高じてミステリを書いていること。あとは……あとは、何だろう。研究会メンバーの中で殊に親しい5人というわけでは無い。生まれ育ちも職業も、作風や目指しているものすら異なる。ミステリ好きの中から偶然集まった5人と言い換えても差し支え無いような気がする――Missing Linkが見つけられない。Closed Circleに囚われた探偵役もパズルのピースが揃いきっていない段階ではこのような感覚なのかな。
普段は気に留めない鼓動がメトロノームのようごとく静謐に響いている。頭の中で6つのバガテルが奏でられる。拍子に引きずられながら思考して、まもなく考察するには情報不足が否めないという結論に落ち着いた。きっとBorwein integralのようなものだ。まずは前提となる条件と現象を正しく認識する必要がある。細長く息をついて勢いよく空気を吸い込むと同時に立ち上がった。
武士道とは、死ぬことと見つけたり。葉っぱを探そう! 石ころでも可!
「あすか? どこいくの?」
「えっと……すこし、歩きたくて」
「1人じゃ危ないよ、あたしも一緒に行く」
「でも、諏訪井さんが」
「異変があれば気づくようにするよー」
あああ……わたしが制止するよりも先に友華さんは窓を開けていく。休んでいる諏訪井さんのそばにいて欲しかったのに。せっかくだから工場のほうも確認しておきたかったけれど、寝ている人を放っておくわけにはいかない。安全が優先だ。工場については、諏訪井さんが起きて友華さんが休んでから改めてお願いしてみようかな。
「あの、でしたら、軍手やビニール製の手袋ってありそう?」
「うん。使い捨てでも良い?」
「本当? ありがとう!」
キッチンにあったレジ袋をそれぞれ靴の上から履いて結び、PVC製の慣れない素材の手袋を両手に2重装着した。スプーンをひとつ、手袋をいくつか拝借して左ポケットに押し込み、歩いた時の違和感や音を意識の外に出して両手を握ったり開いたりして感覚を確認してからツリーハウスを見上げる。
離れていても先ほどよりも血液の酸化を強く感じる。
「友華さん、何かあれば呼ぶので。下で待ってて」
そう言い残して梯子を上った。
推理小説を読んでいれば流血沙汰だらけだ。ただ、それをエンターテイメントとして楽しめているのは、あくまでもフィクションだから――物語がいつまでもフィクションであり続ける保証はない。生きていく上で人間と関わるならダメージを与え合うしかない。どれほど苦しくても1人で生きていけないならダメージを許容する他ない――わたしの目の前にある解決せねばならない課題は、間違いなくノンフィクションだ。
怖い……それでもわたしは友華さんと諏訪井さんだけでも守りたい。
鑑識の真似事として、スマホで写真を撮りながら現場に臨んだ。
発見直後に諏訪井さんが扉を開け放ったけれど、惨劇はツリーハウス内部にて扉が閉じられた状態で起こったのだと状況が教えてくれる。完全に密閉されていないうえ発見時に諏訪井さんが一度開けたから多少の流動はあるが、目視ではエントランス箇所に血飛沫が見られない。扉が防いだためだろう。
赤の上にそっと足を乗せると想像よりも液体だった。独特な空気の重さと臭いが思考を重くするが、慎重に足を踏み入れる。
ハンカチ越しに水原さんの目元に触れ瞼を下ろしてもらい、顔にハンカチを掛けた。
さて。
密室破りの定石は古来から抜け道だけれど……屋根を外して出入りするとか別の殺害現場から遺体とかを移動させたとか、その辺りは除外したい。水原さんが見張りを開始してから諏訪井さんの予感が働いて発見するまで、およそ○時間程度。数分間における犯行、ある程度の時間をかけた犯行、いずれの仮定でも現場の見張りの存在には頭を悩ませられる。
改めてツリーハウス内を見渡した。
たしか友華さんの話では築20年くらいだったかな。橘さんはツリーハウスに上らなかったしもう話は聞けないけれど、水原さんと諏訪井さんの話では老朽化については言及されてない。あったとしても気にならない程度だったのだろう。群馬県は太平洋側かつ内陸部だから日本の高温多湿は顕著なはず。実際、ヤマタイコク入国前、高崎駅の時点でびっくりした。DIYの防腐処理がどれくらいの成果をあげられるのか知らないから断言はできないけれど、それを踏まえても通気については気をつけられた作りではなかろうか。実際、壁に隙間があるようには見えない。仮に雨漏りしていたら床に腐食が見られるはずだ。何らかの仕掛けがあるなら、その痕跡が見つかる。見つからないということは、存在しないか巧妙に隠されているか……天井と壁ではないなら、床はどうだろう?
一旦エントランス箇所に出て、ツリーハウスの下の構造を覗き込むように柵に寄りかかった。
「飛鳥ーぁ、どうしたのー? 危ないよー!」
そうだ、友華さんに近くにいてもらってたんだった。
「大丈夫ー、お手伝いするよー?」
「いえ、もう少し、あの、がんばる! 諏訪井さんはまだお休みになってますかー?」
「まだ寝てるよー」
「大きな声出してごめんなさーい」
地上からだいぶ離れているから、ジャンプしてがんばるのも棒高跳びの要領によるアクロバットが成功していたのだとしたら拍手喝采。まあ、わたしはともかく諏訪井さんなら気づいたはず。そもそもミステリで許されるアクロバットは論理だけ。Holmesだって消去法で真っ先に除外する可能性のひとつだろう。
怪しい場所はどうしても限定される――目星をつけた、ちょうど太い柱の上辺りの床板を調べた。動きそうなものを見つけて、スプーンをうまく引っ掛けると……床板が一部だけ外せた。蝶番の類は無い。上から嵌めれば元通りだ。ただし、密閉を支援するようなゴム製のものは見られないこともあり、筒状の抜け穴は目視できる範囲では赤い液体が壁面を伝って下へ流れている。
抜け穴は、滑り台の要領ならギリギリわたしが落下できるか否か程度の大きさだ。感覚的に、小学生の頃なら迷わず試して周囲の人間に怒られていたくらいの無茶だろう。さすがにこの条件下で試そうとは思わないけれど……スマホのライトでは照らしきれず観察しきれないが、おそらく、地上まで続いているのではないだろうか。試そうにも梯子のロープは短すぎるし解けなさそう。建築には大して明るくないから言い切れるわけではないけれど、このツリーハウス、不安定なところがあるのかな。まあ、落ちたら落ちた、だ。スマホでいくつか写真を撮影しておいた。
「……」
工場のほうへ行けない今、確かめておきたいのは2つ。ひとつはこの抜け道。もうひとつは、水原さんのご遺体について……わたしは羅生門の婆さん……よし、やろう。
群馬の夏は暑い。例に漏れず水原さんも厚着ではない。カレーを振る舞ってくださったときと変化は…………服装には変化が無い。靴も靴下も履いている。アクセサリー類も身につけていらっしゃらない。ボトムスのポケットを確認させていただいたところ、スマホだけ…………車のキーは? 高崎駅から土部邸まで、水原さんの車に乗せていただいた。車内に置きっぱなしでは無いはず。降りるとき彼がポケットに入れてたのを見た。使わないときはリュックに入れておくのかな。
あるいは――友華さんのご両親が車で外出されているときにヤマタイコクの揺れが起こった。車が何らかのトリガーになっていたの? 羅生門の婆さんだから、後で確かめさせてもらうとして、あとは……。
「……南無阿弥陀仏……ご冥福をお祈りします、āmēn、דּוֹחֶה――んぁぁ……どっこいしょ、わっしょい…………Requiescat in pace……」
ZANさんなら何が適切なのか、御存知かな。とりあえず、知っているものすべてを唱えた。黙祷のほうが良かったかもしれない気がして、しばらく手を合わせて沈黙を守った。その上で、5円玉2枚、50円玉4枚を水原さんに握ってもらう。ごめんなさい、六銭文を持ち歩いてなくて。
スプーンのツボのほうを握りしめた。
「…………」
――……刺傷は1箇所。腹部。15センチ程度。橘さん殺害の凶器と同じような刃物……――いつのまにか息を止めていたらしい。エントランス箇所でしゃがみ腕に顔を埋める。落ち着いてから、筋肉が変に緊張した左手をほぐして、スプーンを手放す。手汗で張り付いて梃子摺ったが、どうにか手袋を外して裏返す。
水原さんは亡くなっている――今更ながらフィクションでは無いのだと突きつけられた感覚だ。水原さんは、亡くなっている。発見時に認識したはずなのに。諏訪井さんも友華さんも憔悴している。それを既に理解されていたからだ――わたしだけ数拍テンポ理解が遅れているのだ。
我ながら衣類や手に血液が付かないように気をつけられていることに嫌悪を抱く。何が、フツウに見えるように、周囲を不安にさせないように、なのか。単にわかっていなかっただけに過ぎないのに。
だからこそ、もうわかりたくない。理解できなくて良い。そして誰もいなくなる――なんてことにはしたくない。諏訪井さんと友華さんと、生きてヤマタイコクから出国したい。
「……大丈夫」
אַל תִּהְיֶה חָכָם בַּמִּלִּים; הָיָה חָכָם בַּמַּעֲשִׂים――自分に言い聞かせながら立ち上がった。
何か落とせるものは無いかと右ポケットを探ると、3つ飴が出てきた。まあ、それぞれ4グラム程度だよね。自由落下や垂直投げ上げを試して、知っている物理法則と大差無いことを確かめた。
飴玉3つ、計測はスマホのストップウォッチだから、それほど正確性を望むわけじゃあない。重力加速度は9.8m/s^2でいいや。ツリーハウスのはしご1段の高さを目測して0.5メートル前後、段数から、およそ地上9メートルといったところかな。
ポケットに押し込んでいた新しい手袋を左手だけにつけなおし、ツリーハウス内へ再び足を踏み入れた。
抜け穴は、やはり深い。地上までの高さがあると仮定して確かめたいのは、ファンタジー式地上扉システムなのか、SF式地下経路システムなのか。1.4秒を下回っているなら前者、違うなら後者の可能性が高い。
試しに、穴の上でスプーンから手を離してみた。すると何度か壁面にぶつかって金属音を響かせながら落下していき、およそ1.8秒後に最後の金属音が響いて、やがて反響音さえも聞こえなくなった。うん、想像以上に大きな音だった。
「飛鳥ーぁ、大丈夫ーっ?」
「はーい!」
「今のってー、何の音かなーぁ?」
「いやーぁ、何ですかねーぇ」
実力派女優もびっくりな演技で誤魔化してみると、友華さんは「飛鳥ではなかったのかぁ、何だったんだろー?」納得してくださった模様。何でもやってみるのは大切だね。
スプーンは壁面にぶつかったけれど、頼むぞ飴ちゃん。耳をすませばシャカリと聞こえるはずだと信じて、穴の上で手を離すとともにスマホのスクリーンに触れた。
それぞれ1.38秒、1.47秒、1.45秒……ひとつ目は誤差にしては大きいような気がするけれど、この抜け穴の深さは10.4メートル前後かな。地下空間が存在している可能性があるらしい。その空間は一体どこに繋がって――異音に驚いて振り向き立ち上がると、まもなく友華さんが顔を見せた。
「ごめんなさい、お待たせしてて」
「いえー、気にしないで。それよりも、あれ……」
友華さんの視線はわたしの足元へ注がれる。
「抜け道だよ、きっと。諏訪井さんが起きたらお伝えしよう」
「そうだね。まだ寝てるかもしれないけど」
「休むの、次は友華さん、どうぞ。わたし、まだ起きていられる」
「え、でも、飛鳥は普段もう寝てるよね?」
「こんな状況だからかな。それに、みなさんも普段の感覚ではいないよ。だから休める人から休んだほうが良いよ」
釈然としていないご様子で梯子を降りていく友華さん。恩を着せるつもりは一切なく、交感神経優位すぎて眠れる気がしないだけだ。
ちょうど両足が地上に戻ったとき、離れに動きがあった。
お目覚めになった諏訪井さんになけなしの補足をするため一緒にスカイツリーに上がりなおした。その後、離れに戻ってからお話ししてくださった、人間が通れないのだから道具だけが通過した、という諏訪井さんの推測は、実現可能性に難がある。さすがに諏訪井さんはお気づきらしかった。間違い指摘反射なんてセンスに欠ける和訳がされることもあるけれど、使いかたが巧みだと議論が盛り上がりやすい。あとは、犯人の条件を満たせる体格があまりにも厳しいというのは彼の指摘のとおり。ゆえに諏訪井さんの推理を進んで否定する気にはなれなかった。したけれども。
そのうち友華さんが横になり、呼吸もゆっくりになる。読書会の休憩時にリビングで貸してくださったブランケットを取りに行く。その際、橘さんが横たわっている部屋の扉に視線が引きつけられた。
離れに戻り、ブランケットを彼女に掛けた。少し離れたところでは諏訪井さんはツリーハウスのほうを見つめている。
犯人は何者で、動機はどのようなものだろう――ノンフィクションと戦わなければならないのだから、敵対者には実体があって欲しい。お2人が何をどのように考えていらっしゃるのかわからないけれど、こちらも何をどう伝えれば変なふうに伝わらないようにできるのかわからない。
「諏訪井さん」
「ん?」
「あの身元不明の男性、どなただと思います?」
「工場長か息子か、どっちかじゃない?」
「でも、遺体は1人分しかありませんでした」
「片方は逃げ伸びたのかもね」
「でしたら生き残ったほうが、その……」
「犯人かも知れないって?」
「その場合は、動機がありませんよね」
「そうだね。そこから考えるならさ、だいたい、あれだけ黒焦げだったんだ。男性とは言い切れないよ」
「でも、骨格は男性でした」
「んん、たしかに肩幅はあったよね」
「あ、いえ。そうではなくて……骨盤を確認できなかったので断言は難しいのかもしれませんが、鎖骨が長くて傾きがありましたし胸郭が広かったので、男性の可能性は十分に高いと思いますってことです。友華さんが庇ってくださったおかげでよく見えなかったんですけど、頭部も、あの、だいぶ損傷が激しかったので、そのように見えただけかもしれませんが、乳様突起とかまでは見てなかった、ものでして……諏訪井さんから御覧になって、いかが、でしたか?」
数秒ほど沈思黙考した諏訪井さんだったが「ああ、ごめんね、何の意見を求めてるの?」質問を質問で返されてしまった。
「えっと……まずは、あのご遺体が男性か女性か、です」
「それについては、ごめんね、そこまで見てなかった」
「水原さんと残って調べていませんでしたか?」
「まあ、そう、なんだけど……」
諏訪井さんは言い淀む。得意とまでは言わないけれど、推理小説では猟奇犯罪やシリアルキラーなどと称して残忍な殺害方法が採用されることもあるから多少の耐性ならあるのに……未読数と知識量の欠如については自覚しているから談義はよく聞き専をしているけれど、顔の無い死体なら輪郭に触れている。それでも、諏訪井さんは、わたしでは水原さん相手のようには話してくださらない……ん? そういえばわたし内部犯説を俎上に乗せたっけ。
うん。
警戒レベルを上げてもらえた証左だ。
伏線を張った甲斐があるね、いとをかし。
縁があって新興ミステリ研究会に所属にしてから、メンバーからは良い刺激をもらえている。わたしの感覚との相違がおもしろいし、何より勉強になっている。とくに諏訪井さんはご自身のことをよく話してくださるうえに、ミステリに関して好みや認識が明確で言語化がお上手だ。話すのがあまり得意ではなくてしゃべろうとすると焦りがでてしまうわたしとは考えている内容や変遷が根本から異なっているのだろう。
わたしは自分がなぜ小説を、ミステリを書いているのかわからない。大学受験に向けた日本語対策が始まりで、自分の物語を読んで欲しいというよりもよろしければいかがですかくらいのお裾分け感覚のまま今に至る。みんな違うというのはわかっている。商業小説家デビューを目指している方々もいるし、ミステリ評論家として活躍している方もいらっしゃる。わたし以外のみなさんは、もう社会人を経験して働きながら小説を描いている。
橘さんも、水原さんも、友華さんも。そして、
「ところで、諏訪井さんって、何のためにミステリを書いてるんですか?」
数秒後。
諏訪井さんは突然立ち上がると、離れから飛び出した。
「え、諏訪井さん? あの、待っ……ゆ、友華さんっ、すみま、起きて起きて! ちょっと、走って欲しいのっ、おはようございます!」
「……ん?」
「コンニチサイっ、寝起きなのに!」
友華さんに体を起こしてもらってから諏訪井さんを追いかけるため、つま先に靴をひっかけた。離れから出たとき、ぎりぎり敷地内から出ていく彼の背が見えた。
弁護士は法律に詳しい引きこもりじゃあないの?
「諏訪井さんっ!」
でも、そっか、頭脳労働だ。少しなら運動するのかな。じゃあ、それなら、何処だろう? 何処へ急いで行こうと思い立たれたんだろう?
同じように走って体力を消耗したところを狙われたら、さすがに世話無い。5人の中でわたしが体格も体力も劣っているんだから……肩で息をしながら目を閉じる
難しいことでは無い、はず――走ったおかげで脳の血流は増える。頼むよ前頭前野――ひとまず息を整えつつ、歩きながら考える。
整理しよう……友華さんは横になって休まれていた。起きていたのは、諏訪井さんとわたし。仮に諏訪井さんの思考でわたしが犯人ではないかと確信を得たなら、彼は友華さんを起こして優位な状況を確保しようとしたはず。そもそもそういう作戦だった。友華さんが犯人ではないかと推理を構築したときも同じで、少なくとも1人で急に走り出すとは思わない。諏訪井さんは直前まで取り乱す予兆すら無かった。だとしたら、そう、何らかの理由のために駆け出したんだ。何かを思いついた――思い至った……こっちのほうが正しいかな。
何に?
事件に関する何か?
私生活に関する何かを思いついたって、この変なところから出られなければどうすることもできない。それは、水原さんと諏訪井さんで話し合ってた。彼らが話し合った結果、方法がないと結論づけたなら今更わたしが考えなおしたって変わらない。仮に脱出方法を思いついたなら、諏訪井さんはわたしたちに共有してくれるはず。さっき密室について考えを共有する場を用意してくれたんだ。諏訪井さんなら、ご自身の思考を精査するためにもそうする。
だとすれば、何故?
今、この状況。脱出方法以外のこと……考えていたのは、おそらく5つのうちいずれか……橘さんの死について、工場で発見された身元不明の遺体について、水原さんの死について、犯人の正体について、ヤマタイコクについて……
1人で駆けだしたのは、わたしの協力を必要とはしていなかったからだ。わたしが足手まといになるような――まあ、順当に体力を使うようなことかな。
……重いものを運ぶ? 違う、水原さんのご遺体を移動させる以上に重要な重いものは存在しない。
……危険な場所へ? そうだとしたら、どうしてわざわざ走って行ったの? 白い霧の中を勢いよく駆け抜ける検証をしたかったなら急に駆けだす必要は無い。それに、水原さんと話し合っていたのは諏訪井さんだ。今になって何かに気がつかれたの?
「……ところで、諏訪井さんって、何のためにミステリを書いてるんですか……?」
もう一度、声に出してみる。それでも尚わからない。
この言葉で何を考えて、何に気がついて、何のために何処へ走って行っ――走って行った。そう、何の説明もなく、走って行ってしまった。急いでいらっしゃったということ?
そうだ、わたしはスカイ、違う、ツリーハウスを調べに行くとき焦ってなかった。走らなかった。証拠隠滅を危ぶんだ? とすれば、犯行現場……なのかどうか確かめられていないけれど、遺体が発見された場所へ?
でも鑑定機器がない今、指紋やゲソ痕の確認には限界がある。それでも急いで確認しに行ったとすれば、身元不明の男性の遺体だ。橘さんのご遺体は離れに運び込んだ。あの男性の遺体について何か閃いたから、調べたい衝動に駆られた可能性かな。わたしが建物から出たとき、諏訪井さんはちょうど敷地から出るところだった。建物から出てすぐに敷地から出たなら、友華さんを起こす時間を踏まえて、わたしの視界に彼の背は映らなかったはず。建物周辺から何か道具を手に入れてから走っていったんだ。十分な機器は無い。選ぶ時間も大してなかった。適当な武器を掴み取っただけ? いや、付き合いはまだ長くないけれど、犯人に襲われることを警戒しているなら気が触れたわけでもないのに1人で駆け出して行くような人じゃあない。
だとすれば、犯人像についてでは無く、例えば、他の事象に対する打開策を閃いたのかな。水原さんの車には目もくれず走って行ったということはわたしが考えた内容とは異なっている……から、どうしようか?
土部邸宅の周辺を知らなさ過ぎて読書会前に5人でお散歩した道をなぞっていたらしく、工場前に到着した。スマホのライトで中を照らして確認したけれど、諏訪井さんの姿は見えない。スマートライトだっけ、それがあれば何かできるのかな。鑑定とか、そういうの。やりたかったはずなのに今は違う。友華さんと合流して一緒に探したほうが良いのかな、おうちの戸締り確認したときみたいに。どうしよう、そのまま1周して戻りながら合流できるかな。
ん?
そうだ、物理法則はわたしが知っているものと同じ。スマホはポケットに入ってるから、迷子になったら大音量でアラームを掛けて迎えに来てもらおう。何なら、叫びながら諏訪井さんを探すよりも合理的だ。見つけられないなら見つけてもらえば良い。善は急げ、最大音量でなるべくうるさいものを探しながら再び歩き出した。
目印の祠が見えたとき。
黒い靴も見えた――倒れているのは、誰?
アラーム音が小さくなっていく。
祠の前。肩で息をしながら、膝をついた。
胸部を中心として赤が広がっていく。動かない、死戦期呼吸すら見られない。角膜はまだ混濁していないのに。散大も。離れを出たときは生きていた。走ってた。
「なんで……」
たった数分の出来事。
橘さんのときは水原さんが、水原さんのときは諏訪井さんが死亡を確認してくださった。わたしも、頸動脈に触れて脈拍を確かめれば良いだけなのに……目視するかぎりでは水原さんの刺創とおなじくらいの幅がある。同じ刃物が使用されたなら、肋骨を避けて深く刺さった、15センチなら心臓に到達している……同一条件下で救急隊員や医療従事者による救命活動がどれほどの成果を挙げられるか知らないけれど、わたしにはできない。
「……」
治外法権だ、こんなの。
諏訪井さんの手のそばにある握るハンマーと、彼のポケットからスマホを拝借。力任せに祠を壊して中に立ち入った。
初見では、経年劣化で風合いを帯びた黒い像に見えた。ただ、それ以上は目視では私にはわからなかった。素材によってはわたしでも壊せるかもしれないし壊せないかもしれない。けれど、確かめられる。
素手で触れると拒絶するような冷たさ、爪で表面を削ろうとしたが上手くいかない、腕時計を外してこすりつけてみても同じだ。腕時計のほうも傷がついたわけでは無いということはモース硬度の問題では無さそう。腕時計を打ちつければ柔らかい高音が短く響いた。諏訪井さんの手帳型スマホケースの磁石部分は反応しない。
確信まではできないが、おそらく真鍮製だ。比重は8.5g/㎤だから目測でも像そのものは400kg前後。わたし1人では起こせない。銅より硬いけれど金属の中では柔らかい部類とて自分の腕力を信じられる根拠が薄すぎる――うん、壊せない。
祠によって雨風から守られ続けていたとて腐食や欠損が見慣れないのは素材ゆえだろう。それでも、表面に傷がつかないのは何故だろう。物理法則が共通するのに、この異常は許される? ヤマタイコクの法則が掴めないけれど、これは小説なら許される範囲――どちらもこの空間が引き起こすマジックだろう。諏訪井さんはこの真鍮像に対してハンマーで何らかの刺激を与えることで、どうしようとしたの?
不意に諏訪井さんのスマホのスクリーンが明るくなった。ロック画面は、2人の男の子がケーキを食べている写真。以前、どこかのタイミングでも見せてくれた彼のご令息である双子くんたちだ。
「わあ、かわいいですね!」
「うん。僕じゃなくて妻に似たんだよね」
ええ、本当に。若いころの――不意に親戚の言葉が脳裏を過ぎった。
その瞬間。
「5+2=4+2+1」
きっと、読者への挑戦が挿入されるなら今だろう。今、このとき――How elegant……6ではなかったんだ、7だ。溢れていたのはとんでもない紅茶だったんだ。でも、絶対に、拍手なんかしない、これは喜劇なんかじゃあない!
早く、早く彼女と合流しないと――気配を察して、咄嗟に振り向いた。
目を丸くして口を引き結ぶ土部さんの姿がある。袖口含めて返り血は付着しているようには見えない。
「諏訪井さん、亡くなっているの?」
「……おそらく」
「そう」
土部さんは諏訪井さんのそばで膝を向けると、彼の首筋に手を伸ばす。数秒ほど触れている隙にわたしは祠から出て2人のそばまで近づいた。手を伸ばしながら立ち上がろうとする土部さんに向けて、ハンマーを大きく振って距離を置く。彼女はそのまま体勢を崩して地面に手をついた。
いつのまにか落としていたスマホはまだ騒いでいたけれど、構わず走った。
急に諏訪井さんが走りだした理由はやはり急いでいたからだろう。必死だったのだ。必死で生を掴み取ろうとしていたのに……!
奥歯を噛み締めて足を動かし続けた。走力について、持久はゴミだけど速度には自負がある。他方、土部さんには走る理由がない。急がなければならない理由はない。何らかの時間制限があるならわたしたちに睡眠薬でも盛って眠らせてから皆殺しにすれば良い。犯人側からすればそのほうが楽だし確実に標的を殺せる。薬物も銃器類も用いない理由はわからないけれど、刃物で殺害しなければならない理由があるのかもしれない。この凶器に血を吸わせなければならない、みたいな。そういう迷信レベルだとしても。手慣れ具合から察するに、わたしたちが初めてではないんだろうね。何回目だろう。
ツリーハウスに上る時間は確保できた。到着したときには喉が痛かった。脚力だけでは足りず腕力を借りて上りきった。
まもなく土部さんも到着した。ハシゴに手をかけようとしたところでハンマーを見せて牽制すると、彼女は手を下ろした。
視界が揺れる。頭も痛い。でも、ヤマタイコク入国のときよりは平気だ。
「シャワーのときに何もしてこなかったのは、あの時点で疑われたら水原さんと諏訪井さんを狙うのに都合が悪かったからですか? それとも、あるアクシデントによって計画通りに進まなかったからですか?」
凶器は、犯行に用いられて現場を離れるときには引き抜かれている。刺殺である以上は出血は絶対であり致命傷を狙っていることもあるから返り血は防げない。だから、こちらの土部さんは手を汚していない。
――落ちたら怪我で済まないよね?
――うーん。たしかに。落ち方によっては
わたしは覚えてるよ。真相も、おおよそなら、もうわかってる。この推測の根幹が正しければ、あなたはわたしを突き落とせる。けれど、それでも……
「わたしはあなたを信じます、友華さん」
背後、息を飲む音が生温い風に混ざる。
ああ、正解なんだ。
「――許す許さないの段階ではありませんね」
「……うん」
幼さ残る少女の、低い声。
犯人がわかれば、動機にも予想がつくと思っていたのに。
「マガタマ様は土部家の管理ですか? だから、こんな不可解なことに巻き込まれているんですか?」
「マカドマ様のこと、かな。管理されてるのはあたし達」
「……わたしで何人目ですか?」
友華さんは何も答えてくれない。
マガタマ様、違う、もういいや、なんでも。とにかく、なんだろう、マガタマ様は貧血なの? 吸血鬼伝説に倣ってるならまともな理由があって欲しいところだけれど……
意を決して振り返ると、横たわる水原さんのすぐそばに上下黒に身を包む少女がいた。喪服姿のように見えて、今にも泣きだしそうに見えて、幼い頃の自分の姿が重なった。
わたしは彼女へ歩み寄り、そっと抱きしめた。
直後。
鋭い痛みが全身を駆け巡る。
「ど……し、て……」
小さな身体に支えられて寝かされた。
痺れた身体は十分に動かせない。違う、それだけじゃあない。怖い。脈拍も汗腺もおかしい、制御できない。
大人を殺害するには子どもの体格や体力では一筋縄にはいかない。相手を制圧するための道具――こういった手作りスタンガンは便利だろう。ヤマタイコク云々のこともあるからあくまで推測の域は出ないけれど、手に握られたものを見る限りかなり簡単な作りをしている。現実世界とヤマタイコクでは時の流れが異なっている仮説は水原さんが生存している頃から存在していた。ヤマタイコクに移動してから用意したのは証拠を残さないため? 警察泣かせの証拠隠滅方法だ。
ああ、違う、今は、今考えるべきなのは――どこ? どこで間違えた? ヤマタイコク入国から友華さんのお母さんはメンバーと一緒に居た。だから、工場であの男性を――友華さんのお父さんを殺害できたのは友華さんだけ。なのに。10歳前後の少女が一般的な成人男性を意図的に殺害するのは体格的にも体力的にも困難だ。だから、事故だったのだろう。その事故の痕跡と死者の顔を焼失させるために遺体は燃やされた。わたしのメイクポーチの中には制汗剤スプレーが入っていた。高崎駅到着時に使ったから、友華さんも見ていたはず。可燃性ガスだから着火のときに用いられたのかもしれない。誰かが来たからか戻しかたが不十分になり、荷物の1番上に置かれる形になってしまったとしたら。そのうえで。わたしが殺されるのを回避しようとして、事故で彼女は自身の父親を死なせてしまったのではないか? そう考えたから、試しに友華さんに背を見せた。落下次第では死亡しかねないツリーハウスの上で。友華さんはわたしを突き落とさなかった。だから、友華さんはわたしを殺害する意思がないと判断した。
なのに。
何?
殺しかた?
お父さんの殺しかたが気に食わなくて口論になったとか、そういうこと?
橘さんを殺したんだから次の標的は譲れ、とか?
「許す許さないの段階ではない……そのとおりだよ、飛鳥。あたしはもう戻れない」
違う、そういう意図じゃあない。これだから言葉は嫌いだ、違う意味で伝わったら修正しないといけない、いけないのに、何を言えばいいの? どういう伝えかたなら正しく意図したとおりに
「けれど――ああ、待って。動かないで。危ないよ」
うまく力が入らない腕で無理やり身体を起こしながら匍匐の要領でその場からの退避を試みる。聞きたいことも涙も溢れてくる。身体が言うことを聞かない。肩にかけられた手を振り払うことすらままならない。
友華さんはわたしの首筋にかかった髪を手で避けると
「んー、これだとなぁ」
死刑宣告。
逃げないと。
殺される。
お願い、動いてよ。なんで動かないの、嫌だ。やめて、嫌、どうして、嫌――奥歯を食いしばるのと同時、再び鋭い痛みが全身を駆けた。
2
今年わたしは、お母さんが結婚した年齢になる。
父も祖父母もその年齢を目安に色々と準備を進めているけれど、わたしは何も関わっていない――やらなくて良いよ。代わりにやっておくから良いよ――昔から、やりたいこともやりたく無いことも、イッショクタ。わたしに決定権は無い。
周囲だけに非があるわけでは無い。虚弱体質ゆえに節目を迎えられないだろうと医者に悉く説明されただけでなく、抱っこして移動させてもらえるのだからハイハイ無用だと思っている節があったり3歳くらいまで言葉を話す素振りすらなかったのは自分も話さねばならないと知らなかったためだと初対面の小児科カウンセラー相手に述懐したりなど、わたしの責任も多分にある。
フツウはわかるでしょ。
次第にわからないとは言えなくなっていき、少しずつわからないことが怖くなっていく。知ることもわからないことも、どちらも怖い。
待ち合わせに指定された場所に目当ての人影はない。試しに周囲を歩くと、運良く喫煙所を見つけられた。喫煙者の暇潰しと言えば専ら喫煙だろう。入り口がどこかよくわからなかったが、迷路のようにいくつか角を曲がると車が数台ほど停められそうな空間があった。屋根とまでは言わないが返しのようなものがついた塀に隔てられて煙と臭いが篭っている。ここだけ江戸時代みたいな様相だ。
それぞれ屯する人々の中から――履き潰した青ラインの黒スニーカー、左手首にアンティークの腕時計、左薬指のシンプルな指輪、地毛だと話していた明るい茶髪――目当ての人物を見つけた。
においになれていないのもあるけれど単純に息苦しくなりやすいため、ハンカチを口元に当てたまま歩み寄る。言葉に迷ったが、ちょうどライター片手に懐から取り出した煙草の箱の中を覗きこんだ彼に思いつくまま話しかけた。
「コンビニでしたら駅前にありました。歩いて5分ほどですよ、神崎さん」
興を削がれたように煙草の空き箱を握りつぶしライターとともに着古したスラックスのポケットに押し入れた。
「お待たせしてすみません」
「んにゃ。前の仕事が早めに終わっただけだ。気にしなくていい」
「……ありがとうございます」
歩き出した彼の後ろをついていく。慣れているらしく、迷う素振りは無い。階段をリズムよく降りてく彼は踊り場で足を止めてようやくわたしが後れを取っていることに気づいた。見上げながら足を止めてくださる。
「まったく。伝えたのは俺だがね。大学院生は暇なのかい?」
「ご一緒するって約束しましたもん。諏訪井さんが不在なのに契約不履行ウンヌンで争うつもりはありません」
「よっ、法律家さん」
わたしが踊り場に到着すると、先ほど同様にさっさと階段を駆け下りていく。その背に「ただのひきこもりです」とぶつけてみた。
駐車場にたどりつくと神崎さんはその足で出入り口付近の機械へ向かった。その直前「白のレンタカー」加えて、4桁の数字を言添えた。駐車場には白い車が7台ある。レンタカーの平仮名は「わ」または「れ」だと水原さんから教えてもらった。ナンバープレートを確認していき、該当車する1台を見つけられた。
背後から電子音が聞こえて振り向くと神崎さんが車の電子キーを操作したところだった。
「後部座席、使うか?」提案されたが「いえ、大丈夫です」と返して車両の助手席に乗り込んだ。シートベルトを装着して膝に乗せなおした仏花を一瞥した神崎さんは「律儀なもんだな」独り言ちるようにつぶやいた。
「……中途半端は嫌です」
わたしには、彼らの死を弔う責任がある。それがわたしが生き延びた理由にもなる。論文は佳境だが就活が不要なため、調査時間を確保することは無理ではなかった。だから、これだけは果たしておきたかった。
「記事になりますか?」
「さあね、デスクのご機嫌次第かな。まあ、最近は娘さんが留学して夫婦仲も落ち着いてるらしいから俺が変なこと書かなけりゃいけるよ」
「そうですか」
「当事者から話が聞ける環境なのにフイにするほど無能じゃないんでね。献花の後は件の占い師に晩御飯だろ?」
「あっ、すみません。わたし免許もってなくて、自動的に往復の運転お願いしていただくことになってしまって」
「別にそれはわかってたから」
「…………突撃、ですか?」
「ん。すまん」
「いえ、すみませんでした」
ナビはしないほうがマシだから黙っているしかないため、車窓を眺めていることにした。
あの日……合宿初日の白昼。警察が現場に到着したとき、わたしはツリーハウスの上にいたという。
時間経過を紐として表現すると、ヤマタイコク入出国でハサミが入れられて別の紐が繋げられ現実世界に戻るときに切断されたはずの元の紐が合わさった状態が完成して、元の紐が成す現実世界とヤマタイコクが閉じた別の紐が存在するのではないだろうか。別の紐は輪を成して完結していて、元の紐である現実世界にはほとんど影響が齎されていない状態。にもかかわらず、炎天下の名に恥じない晴天のもと通報内容に基づいて現場にやってきたお巡りさんが事態を確認して、事件が認識された。ヤマタイコクではスマホが十分には使えなかった。消防にも警察にも連絡はできなかった。
一体どなたによって、いつ通報されていたのか。可能性は限られる。
病院で目が覚めてまず自分が生きていることに驚いた。次点では警察の介入があったこと……違う、間違えた。その次に、ZANさんアイコンから吐き出されていたエグ長LINEメッセージ。コピペして確かめたらおよそ1万文字×7だった。ほぼ中編小説。民俗学や歴史関連に明るい彼ですらマカドマ様に関する由縁はご存じないという。それに加えて、あの地域の行方不明事件について調べているネット記事を見つけたらしくご丁寧にもリンクを送ってくださった。
いつかのオフ会。
ミステリ好きが集まると、当然、ミステリに関する議論が白熱する。そのときは、後期クイーン的問題についてだった。わたしは、ミステリ版ミュンヒハウゼンのトリレンマだと理解している、と私見を述べた。物的証拠がないと事実として確定させられないから。循環論法や無限背進を防ぐためには、他に方法は無いだろう。
友華さんは、これを覚えててくれたのかな。だから第三者がいたという証拠を残そうとしてくれた……それが、スタンガンの火傷痕。実際、現場周辺から該当するような機材は発見されなかったため警察はそれを元に、わたし以外の何者かが同時多発失踪に関わっている可能性を無碍にしないでいてくれた。少なくともわたしの前では。
記憶を失っている振りをしたのも効いていたのかもしれないけれど。やるべきことを完了させるまでは精神病院や実家に閉じ込められたくないので加減したが、最近は情報通信の発達に伴い情報の拡散は数十年前とは比べ物にならない。
橘さん、水原さん、諏訪井さん、友華さん、友華さんのご両親――喜劇でさえあればPlaudite, amici, comedia finita estと、拍手とともに幕を閉じることを許されたかな。どうか彼らがもう苦しまないような環境に在れると良いと願わずにはいられない。
メールアプリを開いて、お気に入りの星をつけたメールを確認した。もう何度も確認しているけれどそれでも確認しておきたくなる。
いわゆる地取りを行った結果、合宿の1週間ほど前に橘さんに「よく当たる占い師アネモネ」を勧めた女性を見つけられたのだ。神崎さんに手伝っていただいたからというのもあるし、橘さんがご自身の中で好みのファッションを確立していたから相手の印象に残っていてくれたおかげだ。積極的に公募に挑戦されている分、インプットにも積極的だったのかな。その結果が公募三次を通過なら、もっと、その先を見せてほしかった。橘さんだけではない。水原さんも、諏訪井さんも。そして、友華さんも。
このメールの内容を神崎さんが要約すると、その女性いわく「たぶんどっかにメモしたんだけど、無いかもしんない。わかんない」という占い師のアジトについて「これかも」というスクショをおくってみるね、長くなってごめんね、ということらしい。何度読んでも、自力ではそこまで上手に纏められない。日本語、難しい。
せっかくアプリを開いたついでにメールの整理をしていると、
「っ――」
進行方向から目を逸らさない神崎さんから「どうした?」とだけ声が掛けられて「いえ、うとうとしてて……」Hypnic jerkとして笑って誤魔化しておいた。改めてスクリーンを見つめた。
たった数分前。
友華さんのアカウントからメールが届いていた。LINEではなく、わざわざメール。あの日から1週間は経過しているのに。ヤマタイコクでは電波は通じていなかった。一体これはいつ用意されたメールだろう?
わたしは震える手でスクリーンに触れて当該メールを開いた。
エピローグ 土部友華
【E-mail】
メールアドレス:****@zmail.com.jp
件名:ごめんなさい
飛鳥へ
突然のメール、ごめんなさい。飛鳥が無事で、このメールが届くことを願っています。
もし届いているなら、どうしても自分の気持ちを、自分の言葉できちんと伝えたくて、動画を送ります。
言葉だけではうまく伝えきれない気がして、動画を作りました。
心の準備が整ったら、お時間のあるときに見てもらえたら嬉しいです。
飛鳥を含め、新興ミステリ研究会の皆さんには酷いことをしてしまったと思っています。本当に酷いことをしてしまいました。許されるとは思っていません。
今まで本当にありがとう。
最後に、私は飛鳥のことが好きでした。大好きでした。
さようなら。
【mp4データ】
00:00:32『あーもしもし。えっと、こんにちは、というか、ごめんなさい。飛鳥、無事でしょうか。この動画がいつ届くかはよく分かりません。届いていると信じて、続けます。きっと今何が起きているか、よく分からない状況にあると思います。私も正直、どうして自分がこんなことをしたのか、よく分かっていません。でも、できるだけ、飛鳥には真実を伝えたくて、動画にしてみました。橘さん、水原さん、諏訪井さん、ママ、パパを殺したのは、私です。長い告白動画、というか懺悔の動画になると思いますが、最後まで見てほしいです。まずは、私の生い立ちから語ります』
【動画内_土部の回想】
「友華はママとパパの自慢の娘よ。頭が良くなって、大きくなったら、立派にお勤めを果たすのよ」
「うん! ママ! 友華がんばる!」
「そのためにはたくさんの本を読まなくちゃね」
「うん!」
「まずはそうね、ママの好きな夏樹静子の作品からかな。アガサ・クリスティも全部読んでおくのよ」
「なつき……? あがさ……? うん、がんばる!」
私は一人っ子で、ママからもパパからも愛されて育った。両親から与えられるすべてを独り占めにし、二人の夢と希望を背負うよう育てられてきた。私は両親の言うことをよく聞く、とても良い子だった。生涯、一度きり怒られたことがあるとすれば、幼い頃に聖書を読んでいたときだ。「世界で一番売れている本」が聖書なので、そんなベストセラーを読めばきっと賢くなれるんじゃないかと手に取った。読んでいる私を見つけたときのママの怒りようは大地が割けるのではないかと思ったほどだ。「異教なんか読むんじゃない!!」ああ、たくさん読書をしなくちゃという真面目さが仇となってしまった。その日はとても落ち込んだのをよく覚えている。
二回目に落ち込んだのは、小学生のときだった。
私の家は、群馬の山奥にある。周囲に民家はなく、目の前に小さな町工場があるだけだ。家の後ろ側には、マカドマ様という地域で祀られている祠がある。年に何回か、マカドマ様の祠に地域住民が集まって、けんちん汁という群馬のローカルフードをみんなで食べる集会があった。
私の家から徒歩十分くらいのところには、養豚場があり、豚肉になるために出荷される豚が飼われていた。その豚たちが搬送されるときに、とんでもない鳴き声を出す。自分たちが殺されるということが分かっている悲痛な叫びだ。その声が夜な夜な聞こえてくることもあるため、私はよくうなだれていた。
小学校の夏。真夜中に突然、私はパパに離れに呼び出された。叩き起こされ、眠い目をこすって時計を見ると夜中の十二時。わけも分からず、ジャンパーを羽織る。パパに急かされ、離れに急ぐ。パパの大股に、発育の遅い私は小股で必死についていった。
「え!? なに!? どういうこと」
本邸の通路を通って離れに入った瞬間、私は悲鳴をあげた。離れの座敷には、学生服を着た男性四人、拘束され寝転ばされていた。地元の男子高生のようだ。手足を縛られ、口元はガムテープで固定されている。全員の目には恐怖の色が伺えた。何人かは失禁している。生臭いアンモニア臭が鼻につく。彼らの頭の先にママとパパが立っている。ママの手には、鋭いマカドマの剣が握られていた。
そして――。
そして、ママとパパは立っていた。この異様な状況に、混乱が止まらない。
「ママ、ママ、一体どういう――」
「友華。友華も、土部家の人間なら、儀式を成し遂げなきゃいけないの」
「え、儀式?」
「マカドマ様への貢ぎものよ」
「は? ど、どういう。意味が――」
「マカドマ様には生きている人間の血が必要なの。しかも、誰でもいいのではなくて、条件があるの」
「ちょっとまっ――」
「そこに座ってよく聞きなさい!!」ママの突然の怒号に私は萎縮した。こんなに怒鳴られたのは、生まれて初めてだ。私は、その場にしゃがみ込んで急いで正座をした。私の目の前には男子高生の足がバタバタと抵抗を示すかのように揺れていた。パパは下を向いて黙ったままである一方、ママは鋭い目線で私をまっすぐに見据えた。
「マカドマ様が何の神様かは、前に教えたわよね」
「えっと、確か文学の、神様?」
「文学のなかでも、特異な神様なの。ミステリ文学の神なの」
「え? ミステリー?」
「神様というのは概念なの。人々が信仰し、意思を持った概念が神様となって自立し始めるものなの。その神の意思は使者しか体現できない。ミステリの神様というと変に聞こえるかもしれないけど、実在するの」
「えっと」と私は混乱する。「ちょっと、何を言ってるか、よく分からない」と言いたかったけれども、ママの態度を損ねないように黙っていることにした。
「ミステリ小説は、エドガー・アラン・ポーが『モルグ街の殺人』を一八四一年に書かれたのが最初なのは知ってるわね。そこから百八十五年の月日が経った。人々はミステリを嗜好し、ミステリは発展していった。何億人もの人がミステリを愛してきた。それらの信仰が概念に意思を与え、神格化した神様のひとつがマカドマ様。でも、マカドマ様はほかのミステリ文学神とは、一味違うの」
ふぅ、とママが息を整えた。
「マカドマ様は慈悲深い方なの。それがこの結果。今からこの男子高生を捧げるの」
「……」
「マカドマ様は、ミステリ小説でモノのように扱われる被害者たちの命の軽さをとても嘆かれたの。物語の道具でしかない被害者たちの命。彼らにも葛藤や苦しみがあるはずなのに、そんなものは度外視して、密室だの首無し死体だの、残酷で悲惨な死に方をする。みんな同じ命の重さのはずなのに、被害者たちの命は道具でしかなかった」
(でも、ママ。それはフィクションの話だよね……?)私はママが何を言っているのか分からず、涙が出てくるのを感じた。
パパが突然、声をあげた。
「友華。混乱しているのも分かる。パパもママの家に嫁いだときは、すごく混乱した。だって、ミステリなんて、空想の世界の話だろ? でもそうじゃないんだ。人々が信じれば、形が与えられ、言葉を得る。ミステリ文学の神がいるように、被害者たちの魂が集まって形を得ることもあるんだ。その魂たちを救済しようというのが、マカドマ様だ。それがいかに小説のなかの話であっても、世界中の人間が信じる限り形となるんだよ。で、マカドマ様の使者は代々、土部家が務めてきたんだ。今から、マカドマの剣で高校生たちを殺す。この剣でしか生贄は殺せないんだよ」
そういってパパは、禍々しい赤茶色をした小型のマカドマの剣を取り出した。形は普通のサバイバルマカドマの剣と変わりないが、刃先から柄の部分まで濁った赤色に覆われていた。
「パパの言う通り。マカドマの剣は、『モルグ街の殺人』で使われた剃刀が練りこまれているのよ。友華も知ってるでしょ?この神聖な剣でしか、生贄は捧げられないの。マカドマ様は、被害者たちの救済のために、ミステリ小説を消費している人間の生き血を必要とする。それが友華の目の前の彼ら。地元の文学部の高校生を、肝試しと騙して連れてきた。文学部のなかでも、ホラーとかミステリ好きを特に集めたの。最近の子はSNSで簡単に繋がれてありがたい。昔は、生贄候補に接触するのも大変だったもの。彼らを捕獲する際に抵抗にあって、まさかマカドマ様の像を壊すとは思っていなかったけど……」
ママはため息まじりに「関係ない。像があってもなくても、もう概念は神格化しているから」と言って男子高生たちに視線を向けた。
私は声を絞り出して言う。「ママ、パパ、もうやめて!」
突然、ママが目の前の男子高生にマカドマの剣を振り下ろした。噴き出す血。男子高生の必死のうめき声。
鈍い衝突のような気配。世界が一瞬、音を失った。
ママは包丁を持ったまま、動かない。呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。私は声を出せなかった。 目の前で起きたことが現実なのかどうか、確かめる術を持たなかった。
「さあ、友華もやるのよ」
ママが私のほうに駆け寄ってくるなり、無理やり私を立たせ、マカドマの剣を握らせてきた。ママの顔は男子高生の返り血で真っ赤だ。私は手と足が震えて、上手く立てない。ママと私がもたついている間に、パパは事務作業のようにもう一人を殺していた。
ママの激昂が耳に張りつく。
「ゆうかぁ! やるのよ!! 殺すのよ!!」
目の前がくらくらする。全部が真っ赤だった。
「マカドマ様の使者になるのよ! ゆうか!! 殺して!」
私は泣きながら、わけも分からず手を上下に振った。マカドマの剣が肉に刺さる感覚が柄から伝わってくる。人間の肉の感触。私はどうやら男子高生の背中を何回も刺しているようだった。生臭い血の匂いが、脳のなかに広がるような感覚を覚えた。
「マカドマ様からは逃げられないの! 逃げると自分の命を捧げなくちゃいけないの! そんなの友華も嫌でしょう」
「パパも覚悟を決めたんだ。お前を守りたい、友華! 殺してくれ!」
パパとママの声がだんだん遠くなる。
(あぁ……。養豚場の豚の鳴き声だと思っていたのは、実は人間の悲鳴だったんだ……)
マカドマ様の使者になった夜は、うっとりするような満月の日だったようだが、家の周りを覆う霧のために周囲は何も見えなかった。
ママとパパは生贄の儀式には必ず参加することを条件に、アメリカ留学までさせてくれた。アメリカで両親から逃げてしまおうか何度も考えたが、結局日本に帰ってきてしまった。
海外にいても、日本作品、翻訳作品を問わずミステリをたくさん読んだ。これがマカドマ様が育んできた数々の作品たち。たくさんの作品が、被害者をモノ化していて、敬意を表していないようだった。清涼院流水の『コズミック』なんて、密室卿という謎の人物が千二百個の密室で千二百人殺す、というとんでもないストーリーだった。人の命をなんだと思っているのか。これでは、マカドマ様も怒るのはしょうがない。しかし、著名人を殺すと目立ってしまうので、身近にいるミステリ好きを殺すしかない。犠牲者はいつだって弱者と相場が決まっている。
アメリカ留学から日本に帰国し、社会人になった私は立派にマカドマ様の使者を務めた。つまり、定期的に四人のミステリ好きを殺して、血を捧げた。生贄を捧げるときには、異次元に飛ばされる。霧が外世界との関係を断絶してくれる。電波も通じない。外の人とも会えない。証拠が残らないようになっている。
そして予想外だったのは、生贄の儀式の際にママ、パパと私が男子高生を殺した時の背格好に戻ったことだ。どうやら男子高生たちがマカドマ様の像を壊してしまったことが原因で若返ったらしい。ママは成人した現在の私と同じくらいの背格好で、外見は瓜二つだった。そしてパパは足が治った状態であった。私は、小学生くらいの背格好に戻ってしまったのだ。
――だから。
だから、新興ミステリ研究会のメンバーが異界に飛ばされたあとに、土部友華として話してたのは――。
私、友華ではなくて、ママ。その目的は、みんなを合宿と称して集めて生贄に捧げる儀式のため。
そう。生贄の条件は、ミステリ好きな人間、四人。社会人になった私は、ミステリ小説を書くのが好きと嘘をついて、社会人のミステリ研究会に入った。そこでメンバーと仲良くなって、皆を誘き出す必要があったのだ。ママにミステリ小説を読むよう教育されていたのも、生贄に近づくための教育だった。私を想ってのことではなかったのだ。
生贄はより多くミステリ文学を嗜好し、より心の闇を抱えた人間がいい。マカドマ様は被害者を物語のギミックとしてないがしろに扱う、特に本格ミステリ小説の愛好家を憎む。彼らを贄として捧げることで、より多くの「被害者」たちの魂が救済されるようだった。悩みを抱えた生贄たちが殺される場面は、非常にドラマティックで情念の印象を残す。「被害者を人間化する」ということをマカドマ様は望んでいるのだ。
どうやら土部邸は、人間の心の闇を引き出すような謎の効果を持っているようだった。この異界の霧のせいなのかもしれない。
ママがマカドマの剣を研ぎながら、不意に私に話しかける。
「人間っていうのは、行ったことのない土地とか場所に行くと、急に人生を振り返ることをしだすの。そういうふうにできてるの。だから旅とか、仕事帰りにいつもと違うカフェとか行ってしっぽり過ごして、自分を見つめ直す。その後、何も解決していないはずなのに、急にすっきりした気持ちになったりするの。それを使うのよ、友華」
私は、霧が満ちてきた外の景色を細い目で見ながら、返事をする。
「わかってるよ、ママ」
小説家を目指す無職の橘をまず私が殺した。彼が、小説家という夢を諦めるべきか、他の仕事を探すべきか、悩んでいたのは知っていた。彼は、合宿参加メンバーのなかで唯一の喫煙者だ。一人目のターゲットとしてちょうどよい。橘が一人で喫煙所に出てきたところで、私はマカドマの剣を振り上げ、彼に向けた。
私は橘にマカドマの剣を刺した。橘の虚ろな瞳は血の気を失っていく。彼の商業小説家になりたいという夢は叶わずここで死んだ。私は、橘の死体に何も感じず、ただただ死んでいく橘を見つめていた。失血死。この三文字のなかに、多くのドラマが詰まっている。血液が体外に流れることで、酸素を心臓やほかの臓器に運ぶ機能を失う。やがて臓器不全、心臓が止まる。失血量にもよるが、橘が死ぬのに一分から四分はかかるかもしれない。より繊細な死への過程を、マカドマ様は喜んでいるに違いない。
橘の吸いかけのタバコにはまだ火が灯っていた。
「小説家ではないかもしれないけど……。本物の被害者にはなれたよ」
私は、次の生贄を殺すために現場を後にした。
ママの作戦はとても慎重だった。悲劇的でドラマティックな生贄の最期を描くために、一人ずつマカドマの剣を刺していく計画を練った。計画の実行犯はパパと私で協力して行う。若返り私の代わりを務めているママは、下手に容疑をかけられないために、アリバイがない状態での殺人は行わなかった。ミス研のメンバーが油断する瞬間があっても、ママにアリバイの証明ができない場合は、殺人の行動に移す指示は出さなかった。私、ママ、パパはトランシーバーで随時連絡を取り合って連携して行動していた。
橘の次は、パパが鷲尾――飛鳥――を殺す番だった。
ママとパパの誤算が生じたのは、私のはかない恋心だった。飛鳥を殺そうと廃工場からパパが出ていこうとしたときだった。
私は無意識にパパを刺し殺していた。
「あ……」
そう声を発した瞬間には次の行動に移っていた。パパの死体にガソリンをまき、迷わず火を放った。衝動的だった。と同時に、どこか頭ではこの死体がパパであることをミス研メンバーにばれてはいけないと冷静に考えていた。パパが車いすに乗っていない状態で死んでいるのがばれたら、とても不自然だ。また、ママの存在も感づかれてしまうかもしれない。これ以上の失態はママに怒られる――。
今思うと、もうすでに私は壊れていたのかもしれない。
生贄の儀式の成功と、飛鳥を守りたい心がないまぜだった。
――ママに怒られないよう、名誉挽回しなきゃ。焦った私はミス研メンバーが工場に偵察に来た隙に離れに忍び込み、飛鳥のバッグを漁った。目的は、飛鳥の携帯電話に入っている私の写真を消すため。ママから、顔写真などの証拠は残すなとあれほど言われていたのに、飛鳥のなかの思い出に残りたくて、思わず写真を許してしまった。画像の削除。想い出の削除。データの削除は、人を殺すことと同じくらい容易い。急いでいた私は鞄をぐちゃぐちゃにしたままその場を去ってしまった。後からママに「化粧ポーチが普段ある場所になかったせいで、他のメンバーが外部犯の疑いを持ってしまった」とトランシーバーごしに怒られた。ママは「パパのことについては後で話す。今は生贄の儀式に集中して」と聞いたこともない冷たい声で言い放った。
次の狙いは、水原会長。彼はメンバーのなかでも最年長なので、大人の余裕、というか特段何かにすごい悩んでいるという感じを一切感じさせない。が、小説を書くくらいだ。小説を書く者は大抵病んでいるに違いない、というのがパパの持論だ。
ママの作戦どおり、ツリーハウスで一人ずつ監視をすることになった。ちなみに、若いころのママは私にそっくりだ。今まですり替え作戦を何度も決行してきたが、怪しまれたことは一度もない。思ったとおり、みんな、異界で話す土部のことをママだと気づいていない。人というのは、結局他人のことなんてそれほど気にかけて見てはいないのだ。
「う、いくら子供だからって、こんな小さい穴通れないよ」
文句を言いながら、私は必死にツリーハウスへの抜け穴を進んだ。体じゅうが傷だらけだ。ようやく到着。
そして――刺殺。いつもの作業。
水原会長が死ぬまで時間がかかりそうだった。何かダイイングメッセージを残そうとしているのか、腕を必死に伸ばしている。でも、ミステリ小説のようには上手くいかない。それもそうだ、人間なのだから。小説のようにはいかない。
彼の葛藤と生きざまがミステリ神への贄となると思うと不思議と達成感に包まれた。ふと視線を下にすると、血の赤と飲みかけのコーヒーの黒が混ざり合って水たまりになる。まるで交わらない理想と現実を示しているかのように。
「あなたのミステリ執筆活動も道半ば、いくらミステリに誠意を示したって、届かない。だって、ミステリ文学は、被害者の命をないがしろにするのだから。会長が悪いんじゃない。自作で簡単に人を殺してしまうから。その報いだよ。会長の死は意味のあるものなんだよ」
ああ、マカドマ様、早く私を救ってください。早く儀式を終わらせてください。
「魍魎の匣を読んでいない、いや、読んでいる」「好きな作家は夏木静子」そう答えたママ扮する土部に私は相当ひやひやした。土部邸のなかに盗聴器を仕掛けており、私はミス研メンバーの会話を盗み聞きしている。魍魎の匣を読んで私は興奮してしまい、ミス研メンバーに熱く語ったことがある。夏木静子も人気作家ではあるが、古い時代の作家なので、今を生きるミス研メンバーには古い印象を与えてしまう。
(ママ、ミス研メンバーと話を合わせないと、ばれちゃうよ……!)
そう思うと同時に、私はとても安心した。ママだって、ミスをする。私がミスをした「飛鳥の化粧ポーチ」のミスとおあいこじゃないか。私は内心の焦りを隠せないまま、次の殺人の準備に取り掛かった。
飛鳥が水原を殺すために使った抜け穴の存在に感づいた時は少し焦った。穴から一つの飴が私の頭に落ちてきたのだ。びっくりした私は咄嗟に身を縮ませた。後からスプーンや飴が落ちてきたが、それだけでは私の存在に気づくまでの糸口にはなっていなさそうだった。
「このまま、なにもかも、ばれてしまえばいいのに」
私は片手に掴んだマカドマの剣を強く握りしめた。
そして、三人目の被害者が諏訪井。彼も自分のことや家族関係で相当悩んでいることは知っていた。言語化が上手だと飛鳥がよく言っていたが、言語化が優れていることは、つまり苦しみや悩みを具現化しやすいということだ。彼の死もマカドマ様がきっと喜んでくれるだろう。
友華に扮したママが寝たふりをしつつ、家の外に出て悲鳴をあげ、男で唯一生き残っている諏訪井をおびき寄せる作戦だった。男である諏訪井のほうが、女である飛鳥を気遣い、咄嗟に判断して対処を試みるという理屈だ。しかし、それを決行する前に、諏訪井が家の外、私が潜んでいる祠のほうへ金槌を持って走ってきた。ちょうど私が潜んでいる茂みの方向へ向かってくる。
(弁護士だから!? 正義感が強いのかな。この状況を打破しようとしている?)
計画にない出来事に焦った私であるが、諏訪井が一人になる絶好のチャンスだった。彼が持っている金槌に気をつけながら、マカドマの剣を振り下ろす。勇敢な諏訪井ではあったが、弁護士の彼は普段、事務仕事。たいして私は何人も殺してきた殺人鬼。
勝負は一瞬だった。
私は思い出していた。諏訪井さんに、「なぜミステリを書くのか」と飲み会の席で聞いたことがある。彼はいつものようにべろんべろんに酔いながら、しかし視線だけは真面目にこう言った。「僕がいたということを残したいから」と。
目の前で死んでいる諏訪井さんの手から落ちた金槌。確か、裁判では裁判長が木槌を持って場を収めるのだっけ。持ち主を失った金槌を見て、私は呟く。「諏訪井さんは、可哀そうだ。諏訪井さんはミステリ作品を何作品も書いている。もう夢が叶っているのに、まだ追い続けている。自分を悲観して追い込むことで、自分をいつも鼓舞している。そういう呪いにかかっているんだ」
諏訪井さんを殺したことで、彼の苦しみに終止符を打った。感謝はされないと思うが、それが一つの救済になってほしいと思うのは、殺人をした自分にとってあまりに都合がいい言い訳だろうか。
殺人の緊張を終え、一息ついていた。諏訪井の死体は後で片付けるつもりだった。
「また、計算外!」
なんと、飛鳥が祠の近くでうろうろしている。私は必死に近くにあった別の石碑の後ろで息をひそめる。どうしよう。今殺そうか、でも――。彼女は、私の大切な人。彼女の境遇に、どこか自分の人生を重ねてしまっていた私がいた。彼女なら、私のことを分かってくれるはず。
否定すればするほどに想いが強くなっていく。私は、飛鳥のことが好きなんだ――!
私がぐずぐずしていると、ママがやってきた。どうやら、ママと飛鳥が揉めているらしい。私は混乱した。頭のなかがぐちゃぐちゃだ。
――飛鳥を殺せば全て終わる。
――飛鳥が好き。死んでほしくない。
何が起きているのか分からず、二人が揉めるツリーハウスのところまで来た。私の心が揺れる。地面がゆらゆらして、世界が歪んでいくように思う。しっかりしなきゃ。殺人鬼がいなければ、立派な被害者も存在しない。
「――許す許さないの段階ではありませんね」
「……うん」
私は、ママに、ママに従っていれば、いいんだ。ママの立派な子供。マカドマ様の使者。
「管理されている」「生き血」「捧げるために」。ああ、一体これは誰の言葉。
――「許す」「許さない」。
ママ? 飛鳥? 橘? 水原? 諏訪井? パパ?
――マカドマ様?
一体、一体、私は――。
「――誰か助けて!!」
私は自分の涙で視界が揺らいでいた。ふと、誰かに抱きしめられる、そんな、気がした。
しかし私の使命は、殺人。必死でマカドマの剣を振り回した。
00:48:22『飛鳥? 飛鳥、最後まで動画を見てくれてありがとう。私が振り回したマカドマの剣は、どうやらママに刺さったみたいなの。無意識なのか、意図的なのか、もう自分でも分からない。でも、幸か不幸かママもミステリ小説が好きだったから、生贄としては適格だった。こうして今回の生贄の儀式は終わったの。私はね、飛鳥、やっぱりあなたに生きていてほしかった。飛鳥を殺すなんてことはできなかった。だから、これでよかったの。スタンガンを当てて気絶させたのは、ごめんなさい。霧が晴れて現実世界に戻るまで、時間がかかったから飛鳥を無為に傷つけたり、悩ませたくなかった。何より、血で汚れた私を見てほしくなかったんだ』
00:49:51『告白、させて。飛鳥、私は貴方のことが好きです。私、だいぶ前から自分がバイセクシャルだって気づいてた。日本だとすごく肩身が狭かったんだけど、ママとパパがなんとか許してくれたイギリス留学で、多様な恋愛の形があるって知ったの。そこでね、幼い頃にママに禁止されたキリスト教にも出会いなおしたんだ。聖書も読んだ。マカドマ様以外の宗教、初めてだった。教えもシンプルでね、「汝の隣人を愛せ」っていうの。同じく帰国子女の飛鳥の考え方とか生き方に惹かれるのは時間の問題だったんだと思う。本当に、独りよがりな想いをぶつけてしまってごめんなさい。巻き込んで、ごめんなさい。ママがいない今、私がマカドマ様の使者を続けます。マカドマ様は、ミステリ文学の神。マカドマ様がいないと、ミステリが続かなくなってしまう。これまでの被害者たちの死と救済が無駄なものになってしまう』
00:52:09『飛鳥、どうか、ミステリのことを嫌いにならないでください。被害者がいて、犯人がいて、謎があって、真相があって、たまに名探偵がいて、ようやく花開く。被害者たちの物語が、ミステリには必要なのです。私は、もう、飛鳥の前には現れません。どうか、私のことは忘れて。でも、被害者のことは覚えていて。ミステリの物語を続けていってください』

完
あとがき
第1章執筆担当 凛野冥
企画会議の際に私が『SIREN』みたいなことがやりたいと云って『SIREN』の魅力を熱心に語り始め、まるでお話にならなかったところ、皆さまが上手く咀嚼し、ミステリとしての興趣を加え、オリジナルな作品に仕上げてくださりました。感謝の念に堪えません。
第2章執筆担当 庵字
このメンバーの中ではミステリ歴の若いお二人に、大事な解決編とエピローグをお任せしました。さながら、ウォーズマン体内リングで最上階を新人のジェロニモに託したロビンマスクのような心境でしたが、この選択は間違っていませんでした。お二人は見事に我々中堅、ベテランの期待に応えてくれました。皆さん(特に視葭さんと尾ノ池さん)おつかれさまでした。
第3章執筆担当 菱川あいず
三番手は、最も気楽なポジションでした。後続の視葭さん、尾ノ池さんに、大きな負担・責任を押し付けてしまい、申し訳ありませんでした。お二人の功績には頭が上がりません。次回も三番手が良いです。
第4章執筆担当 視葭よみ
犍陀多のために何万里も銀の糸を輩出した極楽の蜘蛛よりも良い気分です。
悪霊退散。
プロローグ&エピローグ執筆担当 尾ノ池花菜
解決編の担当ということで、貴重な機会をありがとうございました。作中で友人を殺せて楽しかったです(※この物語はフィクションです。実在の人物とは一切関係ございません。)

