第一章 県警の失態
日本列島を襲う熱波は、新潟にも茹だるような暑さをもたらしていた。
新潟というと雪国というイメージがあるかもしれないが、夏は東京に負けないくらいに暑い。というか、今年は北海道でも三十五度を超える猛暑日の連続だというのだから、避暑地などというものは、もう日本全国どこにも存在しないのかもしれない。
そんな絶望的なことを私が言うと、安堂理真は、「山の上とか標高の高いところは涼しいと思うよ」と正論を言う。その表情は涼しげだが、額からはダラダラと汗が滴っている。化粧も崩れ始めている。
それでも、理真は美人だ。
私は、理真のキリッとした横顔を見ながら、理真には私の顔を見て欲しくないなと思う。私の場合、汗での化粧崩れは致命的な大事故である。
それにしても、新潟駅から新潟県警察本部に行くまでの僅かな行路で、こんなに汗だくになるだなんて、何たる暑さだろうか。『県庁前』までバスで移動しているので、徒歩時間はたったの四分ほどだというのに。
理真の仕事は作家である。作家である理真がなぜ猛暑の中、新潟県警察本部まで足を運んでいるのかといえば、もちろん取材のため――ではない。理真が警察小説を専門とするのであれば、そういうこともあるのかもしれないが、生憎、理真の専門は恋愛小説。
それでは、なぜ理真が新潟県警察本部に向かっているのかといえば、それは理真のもうひとつの顔の方に関係する。
理真のもうひとつの顔――それは素人探偵である。理真は、これまでも警察もお手上げの不可解な事件を数多解決してきた。
そして、私――江嶋由宇は理真の探偵助手――ワトソン役である。本業はアパートの管理人。自由業である小説家に負けないくらいに時間に融通が効く仕事である。
理真と私は新潟市内に住んでいて、もっというと同じ屋根の下で暮らしている(理真は、私が管理しているアパートの住人なのだ)。そんな私たちは、同じく新潟市を根城とする新潟県警と懇意にしている。
そのため、私たちが新潟県警察本部にお呼ばれすることは初めてではない。新潟県警が担当した"ABC殺人"の時も、部外者ではありながらも、捜査会議に参加させてもらっていた(文学フリマにて頒布している『殺人鬼いろは』参照)。
しかし、今回は、今までとは少し事情が違う。私たちは、県警から、何も用件を聞かされていないのである。
「突然令状を見せられて、逮捕されたりして。由宇が」
「私? 私が何か悪いことした?」
「アパートの空室でこっそり大麻を育ててるとか」
「生憎、ここ数年は満室御礼だから」
「案外儲かってるんだね。今度へぎそば奢ってね……と、そんな冗談はさておき、今日はどこの部屋に呼ばれてるんだっけ?」
「たしか二階の会議室を押さえてるって城島警部が言ってた」
私たちは新潟県警察本部の建物に入ると、一般来庁者の受付を顔パスで潜り抜け、エレベーターで二階に向かった。
会議室のドアは開け放たれており、中では城島淳一警部が、椅子に座らずに待っていた。私たちが入るやいなや、城島警部は、ドアをバタンと閉める。
「わざわざご足労ありがとう。お二人とも外は暑かったでしょ」
「はい。県警の建物は冷房が効いてて極楽です」
「これでもお役所だから設定温度は高めなんだけどね」
「外の暑さが異常ということですね」
私は、手で顔をパタパタ仰ぎながら、理真と城島警部が親しげに会話をするのを聞いていた。城島警部が所属する刑事部・捜査一課は、殺人などの凶悪犯罪を担当しており、私たちが付き合っている警察官は、ほとんどこの課にいる。
天気の話もほどほどに、理真と私は城島警部に案内された奥の席に座る。正面の席に腰を下ろした城島警部は、口を真一文字に結ぶ。
「安堂さん、今日ここに呼ばれた理由はなんとなく察しがついてるかい?」
「ええ」
まさか理真は私の大麻疑惑について話し出すのではないかと心配したのだが、杞憂だった。
「『パンナコッタ殺人事件』の関係ですよね?」
「さすが安堂さん、察しが良いね」
パンナコッタ殺人事件――それは今まさに世間を賑わせている事件であった。新旧メディアがともにこの事件の話題で持ちきりである。
この事件がなぜこんなに注目されているのかといえば、殺された被害者が有名人だからである。
被害者の名前は、パンナコッタ中林という。もちろん本名ではない。芸名だ。生前、『パンナコッタ』の愛称で親しまれていた彼は、昨年ブレイクしたばかりの若手お笑い芸人なのである。
そんなパンナコッタが、新潟市の路上で、刺し殺されたのである。心臓を一突きされて即死だったという。場所は万代バスセンターのすぐそばの繁華街。時間は深夜一時頃。暗がりで人がまばらな時間だったが、それでも犯行現場そのものを目撃した者は複数いた。にもかかわらず、犯人は未だ捕まっていない。
「パンナコッタ殺人事件は、新潟県内で起こった事件ですので、ずっと気にかけてました。事件発生からもう五日も経っているのに、警察からのリリースがほとんどないので、何か裏があるのではないかと」
「やはり安堂さんには敵わないね。まさにそのとおりだよ。この事件には裏がある」
「裏? どんな裏ですか?」
私は話に首を突っ込んだ。アパートの管理人の一日の大半は部屋でテレビを見て過ごしているので、私の立場は、さながらワイドショー漬けの"主婦代表"である(私は未婚だが)。
「これはくれぐれも内密にして欲しい話なんだが、パンナコッタは我々の"協力者"だったんだよ」
「協力者? それって公安の協力者ってことですか?」
「江嶋さん、詳しいね。たしかに協力者というと、普通は、公安の内通者のことを言うだろう。ただ、今回は違うんだ。パンナコッタは"薬物銃器対策課"の協力者だったんだ」
薬物銃器対策課は、新潟県警の刑事部内の、捜査一課とは別の部署である。たしか国際課と統合していたような記憶である。
「それって"マル暴関係"ですか?」
「いや、江嶋さん、それは違う。暴力団関係に関しては、組織犯罪対策課という別の部署があるから。今回は薬関係なんだ。もちろん、事案の展開の仕方によっては組織犯罪対策課と連携することになったんだとは思うけど」
「薬って、大麻ですか?」
「そうそう」
私は理真と顔を見合わせ、「私じゃないよ」「分かってるよ」と小声で言い合う。
「お笑い芸人の間で大麻が流行っているという情報があってね。芸人の中に大麻の密売人がいるんじゃないかという話があって」
「ああ! 車谷亮輔!」
私はほとんど反射的にその名を叫んでいた。
「二人ともあまりにも話の飲み込みが早いね。もしかして、丸柴刑事からすでに話がいっていたか?」
「いいえ。そんなことはありません」と理真。
「ただ、車谷の件はあまりにも有名なので」
「たしかにそうだな。車谷の知名度は、パンナコッタ以上だもんな」
車谷亮輔は、元々は桂川奎と〈セクターゼロ〉というコンビを組み、日本一の芸人を決める〈Oー1グランプリ〉で優勝した経験を持っている。その後、多くの売れっ子芸人を輩出したことで、"神々の饗宴"とのちに呼ばれることになる決勝戦を〈セクターゼロ〉が制したのは、今から十五年前。〈セクターゼロ〉は八年前に解散し、今では車谷も桂川もそれぞれバラエティ番組の司会を多く務める中堅芸人だ。
今では、ではなかった。つい最近まで、である。
車谷は、芸人仲間に大麻を売り捌いていたとして、つい先月、逮捕されたのだった。車谷は、逮捕後、黙秘を貫いているという。
これはあまりにもセンセーショナルな事件だった。猫も杓子もこぞってこの"お笑い界の闇"を話題にし、スマホを触れば必ず『車谷』の二文字を目にする日々が続いた。
――その『車谷』が『パンナコッタ』に置き換わったのが現在の日本だということだ。
「城島警部、まさか車谷の逮捕とパンナコッタの殺害が関連してるんですか?」
理真が問うと、城島警部は、
「関連してる……かもしれない。関連してなければ良いんだけどな」
などと意味深な回答をした。
"主婦代表"の私は、手に汗を握りながら、二人のやりとりを見守る。
「城島警部、どういう意味ですか? 私たちを信頼して全て話してください」
「もちろん最初からそのつもりだが、それでもなかなか話しにくくてな。これには新潟県警の"失態"が絡んでるかもしれないから」
「失態? どういうことですか?」
「お二人にはちゃんと話すよ。実はな――」
城島警部は、今まで見たことないくらいに真剣な顔をしている。私は息をすることさえも忘れ、城島警部の次の言葉を待つ。
「車谷を逮捕できたのは、パンナコッタのおかげなんだ。パンナコッタを使った"囮捜査"によって車谷が大麻を売る現場を押さえることに成功したんだ。しかし、その一ヶ月後にパンナコッタが何者かに殺された。新潟県警は協力者を守れなかったのさ」
第二章 囮捜査講義
囮捜査とは、警察官もしくは警察官の協力者が、犯罪の証拠を得るために、過去に犯罪を犯したと思料される者に対して、何らかの働きかけをし、再度犯罪を犯したところを現行犯逮捕する手法である。
ドラマやアメリカのドキュメンタリーなどでは観たことがあったが、日本の警察が実際に囮捜査を行ったという話を聞くのは、少なくとも私には初めての経験だった。
新潟県警は、パンナコッタを協力者にして、一体どのような囮捜査を行ったのだろうか。私はそのことを聞きたくて仕方がなくて、実際に城島警部に「どのような捜査だったんですか?」と尋ねたものの、城島警部の回答は、
「実は詳しくは俺も分からないんだ。俺は捜査一課でパンナコッタ殺人事件を担当してるけど、一ヶ月間にパンナコッタで囮捜査を実行したのは薬物銃器対策課だからな」
というつれないものだった。
「江嶋さん、そうガッカリしないでくれ。囮捜査の内容については、薬物銃器対策課の人間がするからさ。あそこに俺の同期がいるんだ。今からここに呼ぶよ」
城島警部は会議室に置いてあった内線電話の受話器を取る。そして、電話口の相手と三秒ほどやりとりをすると、すぐに受話器を置いた。
「あと五分後には来るって。同期の百瀬っていうんだ。役職は俺と同じ警部」
やりとりのスムーズさからすると、百瀬警部との段取りはすでについていたということだろう。
「じゃあな。俺は仕事に戻るよ」
「え? 城島警部は同席しないんですか?」
「しないよ。俺がいると、百瀬も話しにくいだろ?」
なぜ城島警部がいると百瀬警部が話にくいのか、私には皆目分からなかったけれども、理真は、城島警部の真意が理解できているらしい。
「警察内部のセクショナリズムは大変ですね」
理真の言葉に、城島警部は苦笑いをしながら、「後は頼んだよ」と言い残し、会議室を後にした。
「理真、スクショなんとかってどういう意味?」
「セクショナリズム。組織の縦割りのことだよ。同じ新潟県警で、同じ刑事部でも、捜査一課と薬物銃器対策課とでは情報の共有も協力体制もないということだと思う」
「素人探偵の理真には協力を求めるくせにね」
「素人探偵だからこそ協力を求められるということかもしれない。捜査一課と薬物銃器対策課とでは直接やりとりはできないけど、素人探偵を介してならやりとりができると」
「なんで私たちが伝書鳩みたいな役割をしなきゃいけないわけ?」
「『伝書鳩』だと聞こえは悪いけど、『架け橋』と言ってもらえれば気分は悪くないかも」
警察の部署と部署とを繋ぐ"架け橋"。たしかに悪くない響きである。
「というか、理真、囮捜査なんてこの国で行われてるんだね」
「私もちょっと驚いた。囮捜査って、捜査機関が犯罪の成立に関わるわけだから、結構危ない橋だよね。でも、たしか〈機会提供型〉の囮捜査だったら法律的にも許されるっていう話だったと思う」
「囮捜査にもタイプがあるの?」
「そう。〈犯意誘発型〉と〈機会提供型〉。たとえば、違法薬物の購入を取り締まる場合に、その人に薬なんて買う気は無いのに、売人役の捜査側の働きかけによって買う気を起こさせて、それで実際に買ったところを取り締まるのが〈犯意誘発型〉」
「この薬をやったら痩せますよみたいな?」
「そうだね。最初は欲しくなかったのに、痩せると聞いたら欲しくなっちゃうかもしれない」
「それで買ってみたら逮捕、だなんてたまったもんじゃないね」
完全な騙し討ちである。
「だから、〈犯意誘発型〉の囮捜査は違法で許されてない。元々犯罪者じゃない人を、捜査機関の働きかけによって犯罪者に変えちゃうんだから当たり前だよね」
「それで、もう一つの〈機会提供型〉は?」
「あくまでもチャンス――機会を与えるだけってパターン。売人役の捜査側は薬を買う機会は与えるけど、それ以上のことはしない」
「薬とか興味ありますか、みたいな?」
「そうそう。興味無い人が『要らないです』って簡単に断れるような弱い働きかけね」
理真の説明は明快で分かりやすかった。
「じゃあ、今回の囮捜査も〈機会提供型〉ってことだね」
「だと思う。そうじゃなきゃ違法捜査だからね」
二人の会話がひと段落したちょうど良いタイミングで、会議室のドアが叩かれた。
第三章 ムチャブリ囮捜査
「失礼します」
入ってきたのは、理真や私と大して身長が変わらない小柄な男だった。クールビズが推奨されている庁舎内であるにも関わらず、紺色の詰襟を着ている。
「安堂理真さんと江嶋由宇さんですね。日頃大変お世話になっております。麻薬銃器対策課警部の百瀬です」
短髪の百瀬警部が深々と頭を下げ、その姿勢を五秒間ほど継続する。安直かもしれないが、私は、百瀬警部に対し、好意的な第一印象を抱いた。
「百瀬警部、新潟の薬物犯罪は増えてるんですか?」
「特段増えてはないですね。コロナ前よりは増えましたが」
「コロナ期間は薬物犯が少なかったんですか?」
「新潟空港の国際線が運休してましたからね。海外からの密輸が無い分、案件は少なかったです」
「密輸案件は処理が大変そうですね」
「そうですね。重たい事件が多いですね。ただ、新潟空港の国際線はソウル、上海、ハルビン、台北としか繋がってませんから、密輸がそんなに多いわけではないです。成田空港がある千葉県警なんかと比べたら楽なもので」
理真と受け答えをしながら、百瀬警部は、先ほどまで城島警部が座っていた席に腰掛けた。
「車谷亮輔の件について、お話を伺って大丈夫ですか?」
「もちろん。捜査一課の城島警部から、安堂さんと江嶋さんに、知ってることを全て話せと言われています」
「それは助かります。早速ですが、パンナコッタ中林を使って囮捜査をしたというのは、本当ですか?」
「本当です」と、百瀬警部はハッキリと答える。
「いやはや、まさかパンナコッタがこんな恐ろしい目に逢うだなんて、ちっとも想像していませんでしたよ」
「パンナコッタはどんな人でしたか?」
「どんな人……というと?」
「人格というか性格というか」
「真面目でした。それから、サービス精神が旺盛とでもいうんですかね。我々のために献身的に働いてくれましたよ」
「囮として献身的に動いてくれたということですね?」
「そういうことです」
話を聞きながら、私はパンナコッタ中林の容姿を思い出していた。スキンヘッドだがイカつい感じは少しもせず、とろんとした愛嬌のある目をしている。体型はぽっちゃり系。彼氏にしたいとは思わないが、友だちにいて欲しいなと思える、安心できるルックスだった。要するに、パンナコッタは、ペットのように愛らしい男なのである。テレビでも専らイジられ役。そんなパンナコッタが警察犬のように献身的に警察組織のために動いたというのは、なんとなくイメージができる話だった。
「具体的には、パンナコッタには、どのような囮捜査に協力してもらったんですか?」
「パンナコッタには、購入役をやってもらいました」
「車谷から大麻を買う役ですね」
「そうです。車谷に関しては、信頼している芸人仲間にしか大麻を卸さないという噂がありましたから」
「それで警察は、囮捜査を実施するしかなかったということですね。警察官が車谷に、大麻を売ってくれと頼んでも売ってくれないわけですから」
「そのとおりです。どうしてもお笑い芸人の方の協力が必要だったんです」
なるほど。囮捜査が有効な状況であることは間違いない。
「協力者にパンナコッタを選んだのはどうしてですか?」
「いや、ですから、協力者は芸人である必要がありまして……」
「そうではなく、なぜ数多いる芸人の中で、パンナコッタに白羽の矢を立てたのですか?」
「ああ。そういう意味ですか。先ほども申し上げましたが、噂によると、車谷は、"信頼している"芸人仲間にしか大麻を売らないということでした。ですので、芸人だったら誰でも良いというわけではなかったんです」
「パンナコッタは車谷の信頼を得ていた芸人だったと」
「安堂さんの言うとおりです」
「ちょっと待ってください」
今の話は"テレビっ子"である私にはどうしても引っ掛かった。
「パンナコッタは"車谷派"でも"桂川派"でもない中立的な立場ですよ。どうしてパンナコッタが車谷から信頼されているということになるのですか?」
空気が凍った。
複数の友人との話の最中に、たまたま話題が自らの関心分野に飛んで、当然みんなも知っているだろうと思って話した内容が、実はとてもマニアックなもので、周りの人がドン引きするという経験はきっと誰しもあるだろう。
今私が置かれたシチュエーションというのが、まさにそれである。
「車谷派? 桂川派? 由宇、それって一体何の話?」
理真は眉を顰めている。
「これはお笑いに詳しい人の間では常識なんだけど、元々〈セクターゼロ〉のボケだった車谷とツッコミだった桂川は仲が悪くて、八年前にコンビ解消してからは、番組で一度も共演したことがないの」
「たったの一度も?」
「そう。それぞれ毎日のようにテレビに出てたのにね。もっというと、共演だけじゃなく、コンビ時代のエピソードも基本的にはNG」
「コンビ時代に何かあったのかな?」
「多分」
真相は私も知らない。車谷が逮捕された後には、桂川が、車谷と薬との関係を知り、車谷と縁を切ったのではないかという説が実しやかに流れていたのだが、桂川自身が「車谷が薬をヤッていたなんて知らなかった」と、この説を否定していた。
「それで、車谷と桂川は、それぞれバラエティ番組の司会をいくつも務めてるんだけど、それぞれの番組の出演者には、二人の"お抱え"の芸人がキャスティングされることが多かったの」
「メインのタレントが、他の番組の出演者を選ぶことってあるよね」
「そうそう。車谷の番組には、中堅芸人の山端拓司と錫川寛己が必ずと言えるほど出てて、それぞれ〈右大臣〉、〈左大臣〉って呼ばれることもあった。あとは、コンビの二丁目半歩、マルシンダース、トリオのスーパー春画期も重宝されてた」
「つまり、その芸人たちを車谷派って呼ぶわけね」
「そういうこと。他方、桂川派には……」
「由宇、もう良いよ。分かったから、その辺で勘弁して」
こういう話題は話し出すと止まらないので、理真に止めてもらえて助かった。
「話を元に戻すね。由宇が言いたかったことは、パンナコッタは、車谷派ではなかった、ってことだよね」
「そういうこと。かといって桂川派というわけでもなく、今をときめく若手芸人として、車谷の番組にも桂川の番組にもバランス良く出てたかな。結構稀有な存在だったかも」
「だとすると、車谷から見て、パンナコッタは敵対する派閥の人間ではなかったけども、特段信頼している人間ではないということね。すると、車谷に対して囮捜査を仕掛ける場合には、パンナコッタよりも別の芸人の方が適任だったのではないかと」
「車谷派が信頼する、車谷派の芸人の方が適任かなって」
「百瀬警部、その辺りはどうですか?」
理真に話を振られた百瀬警部は、困った顔をしていた。もしかすると、マニアックな私の話について来れなかったのかなと心配になる。
「うーん、難しいですね。正直、当時はそこまで考えていませんでした。ただ、今の話を聞いて考えてみると、逆に車谷派の芸人は協力者には不向きかもしれませんね」
「どうしてですか?」
同時に発せられた私と理真の声が綺麗に重なる。
「だって、車谷派の芸人は、車谷に恩義を感じているわけだから、車谷のことは裏切れないでしょう。いくら公益のためとはいえ」
言われてみると、そのとおりである。それに、車谷派の芸人は、みな車谷を慕っていて、ことあるごとに車谷を囲んで飲んでいた、という話である。警察に車谷を売るようなことはしないだろう。
「百瀬警部のご指摘も踏まえますと、パンナコッタは、協力者として最も相応しいポジションだったかもしれませんね。車谷との距離が遠過ぎず近過ぎず」
「安堂さんの言うとおりです。まあ、当時は全然意識していませんでしたが」
「ちなみに、囮捜査への協力の対価はあったのですか?」
「え? 協力の対価?」
「お金です。パンナコッタは、有償で囮捜査に協力したのですか? それとも、無償で、ボランティアとして協力したのですか」
「ああ。なるほど。その話ですね。それはもちろん後者ですよ。警察の資金は市民みんなの血税から捻出されていますからね。我々の判断で、特定の市民に報酬を渡すわけにはいかないんです」
無料で囮捜査に協力するだなんて、パンナコッタは本当に献身的である。仮にそのことが契機となって殺害されたのだとしたら、なんとやるせない話なのだろうか。
「色々と前置きが長くなってしまいましたが、百瀬警部、本題の、新潟県警が行った囮捜査の中身について詳しく教えてもらえますか?」
「はい。まずパンナコッタに、車谷の楽屋へと訪問してもらいました。東京メトロポリタンテレビの〈はちゃめちゃ社会科見学〉という番組収録の楽屋でしたね」
「ちょっと待ってください」
私にはまたもや引っ掛かることがあった。
「〈はちゃめちゃ社会見学〉って、若手芸人が工場やオフィスなどにロケに行って、そのVTRを、スタジオにいる車谷、山端の二人が見てコメントする番組ですよね?」
「そうなんですか? 私は一度も見たことないので知らないのですが……」
「そうなんです。そういう番組なんです。すると、パンナコッタが〈はちゃめちゃ社会見学〉の出演者としてスタジオにいるわけではないですよね」
「そうですね」
「わざわざパンナコッタに、自らが出演しない番組の楽屋に行くように命じたということですか?」
「そうです」
「無料でですよね?」
「はい」
そんなのパンナコッタだって迷わ――
「快諾でした。パンナコッタは快く引き受けてくれました」
パンナコッタ、献身的過ぎるだろ!!
「パンナコッタは本当に良い方だったんですよ。亡くなられてしまったことが、本当に悔やまれます」
「それで、パンナコッタは車谷の楽屋に突撃したのですね?」
理真が話の続きを促す。
「はい。車谷はパンナコッタを温かく迎えてくれました」
「警察はどのようにして楽屋の中の様子を確認していたのですか?」
「パンナコッタの服の胸ポケットに入れた盗聴器で音声を聞いていました」
「小型カメラは使わなかったのですか?」
「使いませんでしたね。テレビ局からは許可を取ってませんでしたので、楽屋内を撮影するのはどうかなと思いまして」
「なるほど。警察からパンナコッタへの指示は?」
「パンナコッタの耳に小型のマイクを付けさせていただき、そこから新潟県警が指示を出していました」
警察は音声を使ってパンナコッタに指示を出し、音声によって囮捜査の状況を把握していたということのようだ。
「なるほど。話を戻します。車谷の楽屋に入ったパンナコッタに、警察はどのような指示を与えたのですか?」
「薬が欲しい、とねだれと」
え!? そんな直接的な!?
それは捜査手法として大丈夫なのだろうか?
〈機会提供型〉ではなくて、〈犯意誘発型〉にはならないだろうか?
というか、パンナコッタはそれで良いのだろうか?
仮に車谷が"シロ"だったとすれば、むしろパンナコッタが薬物常用者として車谷から通報されてしまうのではないだろうか。
そんなのパンナコッタだって迷惑こ――
「パンナコッタは、しつこくねだってくれました。『薬が欲しい。薬を使いたい』と」
献身的過ぎる!!
どうして無償でここまで尽くせるのだろうか。死後なので今更遅いかもしれないが、私の中でパンナコッタ中林の好感度が爆上がりしていた。
「それでどうなりましたか?」と理真。
「最初は車谷は拒否してました。『こんなところで何を言い出すんだ』と。しかし、パンナコッタが『やりたい。やりたい』としつこくねだりました」
「それって〈犯意誘発型〉になりませんか?」
「ギリギリセーフ、だと警察は判断しています。限界事例でしょうけど。とにかく、パンナコッタのしつこいおねだりに、ついに車谷も折れまして、ただ、『ここではマズいから、収録後、うちに来い』ということになりました」
「車谷の家に来い、ということですね」
「そういうことです」
「警察は、パンナコッタに、車谷の家に行くように指示したのですか?」
「はい。そうしないと証拠が取れませんからね」
警察側の事情は分かる。
とはいえ、パンナコッタは無償で協力しているボランティアに過ぎない。
もしかすると"犯罪の温床"になっているかもしれない車谷の家に乗り込むだなんて、そんなのパンナコッタだって迷惑こうむ――
「パンナコッタは、意気揚々と車谷の家に行ってくれました。『大物芸人に家に招かれるのはステータスだ』とか言って」
献身的にもほどがある!!
献身的を通り越して、もはやただのバカなのではないか、という気さえも湧いてくる。
「それで車谷は、自宅でパンナコッタに薬を売った、と」
「安堂さんの言うとおりです。『ほら。これがお前の欲しがってた薬だ』という車谷の声が聞こえたタイミングで、警察は都内にある車谷の自宅に乗り込み、車谷に手錠をかけました。現場には、乾燥大麻が入った袋が一袋落ちていましたので、それも押さえました」
これで囮捜査は無事成功である。
車谷の逮捕自体は大ニュースであり、繰り返し報道されているが、このような逮捕の裏側についてはメディアには一切出ていない。
新潟県警が箝口令を厳しく敷いているのは、もしかすると、違法スレスレの捜査手法であることの自覚があるからかもしれないな、と私はぼんやり思った。
第四章 麻薬銃器対策課の隠し事
「新潟県警麻薬銃器対策課からの説明はこれで以上になります。囮捜査以降、パンナコッタとの関係は切れていましたし、殺人事件は捜査一課の所管ですので、パンナコッタが殺害された件に関しては、何も情報を持っていません。もし聞きたいことがあれば、城島はじめ、捜査一課の者から説明します」
「了解です」
私は百瀬警部に頭を下げ、謝意を示す。
「それでは失礼します」
百瀬警部がパイプ椅子から腰を浮かしかけたところで、「待ってください」と理真が釘を刺す。
「安堂さん、まだ何か私が説明すべきことがあるでしょうか?」
「もちろんあります」
「何を説明すれば良いですか?」
「麻薬銃器対策課が私たちに隠していることについてです」
目を見開いたのは、百瀬警部だけではなく、私もだ。今の百瀬警部の説明に、私はすっかり満足していたからだ。しかし、理真は、そうではないらしい。私には見えていない何かが、素人探偵の目には見えているのだ。
「我々がお二人に隠していること? そんなものありませんよ。我々はお二人を信頼して、全てを包み隠さずに話させてもらいました」
「とぼけないでください」
「とぼけてませんよ」
「それでは、私の方から矛盾を説明させてもらいますね」
矛盾?
先ほどの百瀬警部の説明に矛盾などあっただろうか――
「百瀬警部、どうして警視庁ではなく、新潟県警が車谷の事件を担当したのですか?」
私は先ほど以上に目を見開かれされた。
「先ほどの百瀬警部の説明だと、車谷の自宅は東京都内にあります。車谷の住居地及び犯罪の実行地、さらに車谷が逮捕された場所も東京なのです。さらに、犯罪にかかわるやりとりが行われたテレビ局も、東京メトロポリタンテレビですので、東京にあります。果たしてどこに新潟県警の出る幕があるのですか?」
「それは……その……」
「今回の話で"新潟"が関与してくるくだりはひとつしかありません。それは、パンナコッタ中林が新潟市内で殺されていることです」
「理真、それはパンナコッタの家が新潟市にあったから」
パンナコッタ殺人事件の事件報道において、そのように報道されているのを見た。
「由宇の言うとおりです。新潟県は、パンナコッタの住居地です。ですが、それ以上でもそれ以下でもありません。パンナコッタは囮捜査の協力者ですが、警察の事件管轄が、囮捜査の協力者の住所地によって決まるなどということはあり得ないですよね?」
百瀬警部は、俯いて、机を見たまま黙り込んでいる。理真による完全論破だ。
とはいえ、私は、首を傾げざるを得なかった。
「理真、百瀬警部の説明が矛盾していることは分かったんだけど、真相はどこにあるのかな? 今の百瀬警部の話は完全に作り話ってこと? 実際に囮捜査を担当していたのは、新潟県警じゃなくて東京の警視庁だってこと?」
「ううん。そうじゃない。囮捜査を担当したのは、間違いなく、新潟県警だよ。百瀬警部の説明には虚偽はない。ただ、本来すべき説明を省いて、私たちに隠しているだけ」
「じゃあ、何を隠してるの?」
「それはパンナコッタが囮捜査に協力した本当の動機――」
理真は、百瀬警部に向かって、言う。
「パンナコッタが囮捜査に協力したのは、新潟県警・新潟地方検察庁との間の"司法取引"として。百瀬警部、そうでしょう?」
百瀬警部は、しばらく体を硬直させた後、こくりと頷いた。
「認めてくれてありがとうございます」
理真が頭を下げる。
「ちょっと、理真、どういうこと? 私には全然意味が分からないんだけど!」
「由宇、説明するね。車谷の逮捕の前に、実は、パンナコッタ中林は、新潟県警に逮捕されてたんだよ」
「嘘でしょ? どうして?」
「おそらく自宅で大麻を使用したからだと思う。それだったら、新潟県警の管轄になるから」
ミイラ取りがミイラになる、というか、元々誰がミイラで誰がミイラ取りなのかが分からない。そんな話である。
「それでパンナコッタは、新潟県警の留置施設で身柄を拘束された。そこで、麻薬銃器対策課は、以前から噂になっていた、芸人間での大麻売買について、パンナコッタに自供を求めた」
「パンナコッタがどの芸人から麻薬を買ったのかを訊いたってこと?」
「そういうこと。その中で、麻薬銃器対策課の警察官とパンナコッタの間で、ある"取引"が結ばれた。そして、その取引は上部組織である新潟地方検察庁においても承認された」
「それが"司法取引"ってことだよね? どういう取引?」
「芸人の麻薬の売人の名前を告白し、さらにその芸人の逮捕に向けた囮捜査に協力することと引き換えに、パンナコッタを起訴猶予にして身柄を解放する、という取引だよ」
なるほど。それならば、パンナコッタが、お金をもらうことなく、あんな危険な橋を渡ったことにも納得できる。お金をもらわずとも、お金には代え難い"報酬"をパンナコッタは受け取ることになっていたのだ。
「このような囮捜査を伴った司法取引は、日本では前例がなく、許容もされていないと考えられます。ゆえに、新潟県警はこの事実をどこにも公表しておらず、百瀬警部も私たちに隠さざるを得なかった。百瀬警部、そうですよね?」
百瀬警部は再びこくりと頷いた。
「これで管轄の謎は解けました。パンナコッタの身柄を新潟県警が押さえていた以上、パンナコッタを使った囮捜査は、新潟県警が行わざるを得ませんからね」
「……安堂さんの言うとおりです。いやはや、素人探偵さんってすごいですね。正直見くびってました」
「お褒めいただきありがとうございます」
「安堂さん、このことをメディアに告発しますか? 『新潟県警の禁断の司法取引』として」
「その予定はありませんから、安心してください。私はただ、パンナコッタ殺人事件の真相を解き明かしたいだけです。そのために、百瀬警部からもう何点か訊きたいだけです」
理真の安心供与により、百瀬警部の表情が少し明るくなった。
「訊きたいこと? なんですか?」
「囮捜査実施中のパンナコッタ中林の身柄についてです。この間、パンナコッタは"勾留中"という扱いですから、自由は与えられていませんでしたよね?」
「そのとおりです。手錠をした状態で、警察車両によって東京のテレビ局まで身柄を運び、囮捜査の間だけ手錠を外してました。車谷との間で、自宅に訪問する約束を取り付けた後も、一旦手錠をして警察車両内に戻しました」
「そして、手錠を付けたまま、警察車両で、車谷の自宅まで向かわせたということですね?」
「はい。そのとおりです」
パンナコッタの視点に立つと、厳し過ぎる扱いにも見えるが、逃走の可能性も考えれば致し方ないのかもしれない。
「パンナコッタに自由な時間は少しもなかったということですね?」
「はい。囮捜査を実行するのに必要最小限の自由しか与えませんでした」
「たとえば、囮捜査の最中に、パンナコッタが、車谷以外の誰かと接触するようなこともなかったと」
「なかったです……いや、ちょっと待ってください。一人だけ、囮捜査中のパンナコッタと会っています」
「どなたですか?」
「山端拓司です」
山端拓司――車谷派の〈右大臣〉。そして、〈はちゃめちゃ社会科見学〉において、車谷とともにスタジオMCを務めていた中堅芸人である。
なお、山端は、車谷が芸能界からいなくなった今では、車谷が司会を担当していた番組の多くを引き継ぎ、テレビに出まくっている。
「パンナコッタが、車谷の楽屋に行く前に、どうしても先輩である山端の楽屋に行って挨拶をしたい、と言いまして」
「それを警察は許可したわけですね」
「はい。山端の楽屋は車谷の楽屋のすぐ隣でしたし、パンナコッタの服には盗聴器が付いていますから、パンナコッタも変なことはできないだろうと思いまして」
「それで、盗聴器で聞いていた限り、不審なことは何もなかったと」
「そうですね。挨拶の後、パンナコッタは山端と五、六分話し込んでいましたが、我々が聞く限り、単なる世間話でした」
たしかパンナコッタと山端は、ラジオのレギュラー番組で共演していたはずだ。仲が良かったのだろう。
「それと、囮捜査中のパンナコッタの荷物はどのようなものでしたか?」
「もちろん基本的には手ぶらですよ。盗聴器とマイクを除いて、他に持たせたものといえば、現金くらいです」
「薬物購入用ですね」
「そのとおりです。少々無骨かなとは思いつつ、一万円札五枚を裸のまま持たせました」
「パンナコッタ自身の私物は持ち歩いていないということですね?」
「そうですね。パンナコッタの所持品は全て留置施設で預かっていて、囮捜査の際に着ていた服も、警察署が貸し出した物です」
「念のために尋ねますが、車谷が現行犯逮捕された時、パンナコッタは五万円をそのまま持ったままでしたよね?」
「もちろんです」
当たり前である。パンナコッタが車谷から大麻を買う直前に、警察が車谷邸に突入したのだから。
「ちなみに、車谷邸から見つかった大麻は、現場に落ちていた乾燥大麻一袋だけですか?」
「そうですね。証拠としては一つあれば十分かと」
「そうでしょうね。最後にもう一つだけ教えてください」
「なんでしょうか?」
「パンナコッタ中林の性格について、本当のところを知りたいです」
百瀬警部が頬を緩める。今日初めて見せる表情だ。
「この際なので安堂さんにはぶっちゃけた話をしますけど、正直、褒められた性格ではなかったですね。自己中心的で享楽的で気分屋で。先ほど安堂さんが、私の話には『虚偽はない』と言ってくれましたけど、この点だけは明確に嘘を吐いてました。パンナコッタ中林は、決して真面目でも献身的でもないです」
献身的に見えたのは、起訴猶予を勝ち取るという自らの利益のためだったということが、今では明らかになっている。
「今回の司法取引を持ちかけてきたのも、パンナコッタの方からなんです。彼は自分のためになるなら他人を犠牲にすることを厭わないタイプですよ」
「しかも」と百瀬警部は続ける。
「パンナコッタは、あれだけテレビに出て稼いでるのに、それ以上にギャンブルでお金を使ってたみたいで。多額の借金があるらしく、金を払え金を払えと警察に対してもしつこくて……」
「新潟県警にですか?」
「はい。司法取引で身柄解放された後に、『囮になってあれだけの危険を犯したのに、対価が起訴猶予だけというのは納得できない。金も寄越せ』と新潟県警に繰り返し電話してきたんです」
「殺される直前までですか?」
「えーっと、殺される一週間前くらいに、ピタッと電話は止みました。職員一同、ホッとしましたね。実際の話」
「電話が止んだ理由は分かってるんですか?」
「当時は分からなかったんですが、パンナコッタ殺人事件を調べている捜査一課から流れてきた話によると、どうやら殺される一週間前に、パンナコッタが複数の消費者金融への借金をまとめて返済してるみたいなんですよ」
「突然、パンナコッタに大金が入ってきたということですね」
「そうみたいです。多分ですが、ギャンブルで大勝ちしたんじゃないですかね。それは幸運だったかもしれませんが、その直後に殺されたんじゃ意味無いですよね」
最終章 ワトソンにも分かる
理真が、管理人室――私の部屋で、胡座をかきながら漫画本を読んでいる。
漫画本のページを捲りながら、理真が言う。
「由宇、お菓子食べたい」
「実家かよ! くつろぎすぎだろ!」
「実家みたいなものだよ。私の部屋と同じ建物にあるし」
「管理人室は共用スペースじゃないから! ここは私の住む家!」
「セクショナリズム激しいね」
「ここは警察の庁舎じゃない!」
私は理真の後頭部目掛けてモンゴリアン・チョップをするつもりでポーズを取ったものの、漫画本に熱中している理真はそのことに気が付かない。このままだと技が上手く決まりすぎて、理真に後遺症が残りかねない。"安楽椅子探偵"の助手はこき使われてシンドイに違いないと思った私は、スッと右手を収めた。
「理真、うちにお菓子なんてないんだけど」
「サラダホープはないの? 新潟県民の家には必ず常備されてるでしょ?」
「そんなことないよ。あれは新潟に来た人がお土産に買っていく物だから……あ、そうだ」
「お、なんだなんだ?」
「柿の種ラー油漬けならあるよ」
「良いのあるじゃん! さすが由宇は新潟県民だね」
「理真もでしょ」
私は冷蔵庫の奥底にしまってあった阿部幸製菓の『柿の種のオイル漬け にんにくラー油味』を取り出し、瓶の蓋を捻る。全然開かない。私ってこんなに非力だったっけ。
「ごめん。理真、蓋開かないんだけど」
「何ぃ!? 貸して貸して」
漫画本を床に置いて立ち上がった理真に、瓶を渡す。理真がいくら苦悶の表情を浮かべても、蓋はビクともしなかった。
「これ全然開かないね」
「もう一度私が試してみようか?」
「ううん。いいよ。丸姉が来たら開けてもらおう」
丸姉とは、新潟県警捜査一課の丸柴栞刑事のことである。旧友であるため、理真は彼女のことを『丸姉』などと親しげに呼んだり、馴れ馴れしく家に呼んだりする。
……いや、ここは理真の家ではなく、私の家だけども。
ともかく、今日、理真が私の部屋に来た目的は、"帰省"ではなく、丸柴刑事と会って、パンナコッタ殺人事件について話すためだった。理真曰く、「推理はできたけど、確証はないから、城島警部に話すのはちょっとなあ」とのことだったので、とりあえず一番話しやすい丸柴刑事に声を掛けたわけである。
しかし、約束の時間ちょうどに丸柴刑事から電話があり、「ごめん。急遽残業が入っちゃって三十分くらい遅れる」とことだった。ゆえに、理真がまるで実家のように私の家でくつろぎ始めたというわけである。
丸柴刑事の電話から、そろそろ三十分が経つ。
理真が漫画本を拾い上げる前に、私は理真に事件の話を振る。
「ねえ、理真、パンナコッタ殺人事件の犯人が本当に分かったの」
「限られた情報からの推理だから、間違ってる可能性はあるけど、多分」
「限られた情報っていうか、パンナコッタ中林が刺殺された状況についての情報ってほとんど集めてないと思うけど」
昨日、私たちは新潟県警の会議室で、城島警部と百瀬警部と面談した。百瀬警部とはそれなりに長く話し込んだのだが、メインの話はパンナコッタを使った囮捜査に関してであり、パンナコッタ殺人事件そのものについてではなかった。
「そこはプロの犯行だよ」
「プロ?」
「殺しのプロ。だって、深夜の暗がりの中でいきなり現れて、急所を一突きだよ。周りに人がいたし、繁華街だから当然監視カメラも複数あるにも関わらず、一切尻尾を掴ませないんだから、完全にプロの犯行だよ」
言われてみるとそうなのかもしれないとは思うが、探偵の推理結果が"プロの犯行"というのは、だいぶ肩透かしである。仮にこれが推理小説だったら、読者から作者に殺害予告が届いても良い。
「じゃあ、理真は、『これはプロの犯行だね』って伝えるために丸柴刑事を呼んだの?」
「そんなわけないじゃん。今回の事件は物盗りじゃないんだから、報酬を約束してプロに殺害を依頼した"黒幕"がいるんだよ。私が丸姉に伝えるのは、その"黒幕"の正体」
「理真は"黒幕"の正体が分かってるの?」
「多分、ね」
理真は私にウインクをする。そして、漫画本へと手を伸ばす。
私は百人一首のプレイヤーのように、素早く漫画本を払い飛ばす。
「理真、教えてよ。黒幕の正体を」
「丸姉が来てからじゃダメ?」
「ダメだよ。気になるもん」
私がぷくーっと頬を膨らますと、理真は、「これだから可愛い助手を持つと困るんだよね」と、多分お世辞を言った。続けて、とんでもないことを言った。
「まず、前提として、車谷亮輔は冤罪」
「え!?」
あまりにもとんでもない。ワイドショーを見ている主婦が一斉にひっくり返って床に頭を打つレベルである。
「車谷は大麻の売人じゃないってこと!?」
「車谷本人はずっと黙秘してるんでしょ? それに、車谷邸で見つかった大麻が、現場に落ちてた乾燥大麻一袋だけっていうのもすごく怪しい。売人だったら、普通、家にたくさん在庫があるはずでしょ?」
「それはそうだけど、とはいえ、車谷は現行犯で逮捕されてて……」
「パンナコッタが関わった囮捜査でね。もしも、その囮捜査がヤラセだとしたら?」
囮捜査がヤラセ? そんなバカな――
「理真、それはさすがにあり得ないよ。たしかに囮捜査は司法取引によるもので、パンナコッタが信頼に足る人物ではないとしても、警察は囮捜査の様子をちゃんと見てたんだから」
「見てはいないよ。盗聴器で聞いてただけ」
たしかに事実はそうなのだが、かといって、果たして囮捜査がヤラセだとまでいえるのだろうか。私は理真のことを信じて良いのか分からなかった。
「整理するよ。警察官は、囮捜査の様子を音声だけで把握していた。そして、警察官が聞いた音声としては……由宇、百瀬警部の話を聞いてる時にメモを取ってた?」
「もちろん。スマホで」
それが探偵助手としての最低限の務めである。
「パンナコッタと車谷の発言部分だけ切り取れる?」
「やってみるね」
〜〜〜〜
【楽屋にて】
パンナコッタ「薬が欲しい。薬を使いたい」
車谷「こんなところで何を言い出すんだ」
パンナコッタ「やりたい。やりたい」
車谷「ここではマズいから、収録後、うちに来い」
【車谷邸にて】
車谷「ほら。これがお前の欲しがってた薬だ」
〜〜〜〜
「由宇、ありがとう」
「いえいえ」
「このやりとりを見て何か不自然だと思うところはない?」
「不自然?……特にないけど」
私には、薬物の売買に関する取引そのものに思えた。
「楽屋での車谷の対応はおかしくないかな? 『こんなところで』とか『ここではマズい』とか言ってるけど」
「別に普通じゃない?」
「本当? ここは車谷単独の楽屋だよ。監視カメラもないプライベート空間だよ? ここで大麻を売れないということはないんじゃないかな?」
「車谷は楽屋に大麻を持ってなかったとか」
「だとしたら、正直にそう言うでしょ。『今は持ちあわせがないんだ』とか。でも、車谷は『ここではマズい』と言ってる。オカシイよね」
なるほど。たしかに車谷の対応は不自然かもしれない。
「でも、理真、車谷とパンナコッタは、間違いなく薬の話をしてるよね」
「そうだね。『薬』って言ってる。ただ、『大麻』とは言ってない」
「つまり、理真は、ここで二人が指している『薬』は大麻じゃないと思ってるの?」
「そう考えた方が自然だね」
「じゃあ、何の薬なの?」
「あまり言いたくないんだけど」と理真は恥じらいを見せつつ、言う。
「精力増強剤。バイアグラとかね」
私が言葉を失っていると、理真は少し目を伏せながら、続ける。
「パンナコッタは『やりたい。やりたい』って言ってるけど、これも大麻をやりたい、って意味じゃなくて、性行為という意味で捉えるべきだと思う」
「でも、二人は男同士じゃ……」
「車谷は男色家だったんだよ」
車谷は冤罪である、というのとはまた違った衝撃である。ある意味ではそれ以上の衝撃だ。
「車谷は男色家で、過去にパンナコッタとも寝たことがあった。おそらくパンナコッタとしては、車谷に気に入られて、番組で使ってもらうための手段だったんだと思う。ただ、客観的に見ると、芸能界での力の差を利用した"性暴力"だよね。その時に車谷は、パンナコッタに精力増強剤を使わせたんだろうね。きっと車谷はこのようなことを他の芸人を相手にもよくやっていた」
「つまり、あの時の楽屋のやりとりは『大麻を売って欲しい』というものではなくて、『また薬を使って性行為をしたい』っていう意味だった、ってこと?」
「そう考えた方が自然でしょ。まさか性行為を楽屋でやるわけにはいかないから、『こんなところで』『ここではマズい』ってなるよね」
私は、楽屋でのやりとりの真相に納得するとともに、車谷と桂川《かつらがわ》が、互いの話題すらもNGなほどに不仲になった理由についても想像した。多分、車谷と桂川は以前デキていたのだ。だとすれば、二人のコンビ解消は、夫婦でいうところの"離婚"のようなものであり、金輪際関わりたくない、当時のことは全て忘れたい、となっても不思議ではない。
「車谷としては難しい立場だよね。『自分は薬の売人ではなく、気に入った若手芸人に性暴力をはたらいているだけだ』だなんて警察に言えないでしょ。社会的にどっちがマシなのかって話になっちゃう。だから、車谷は、上手く冤罪を主張することができず、警察に捕まったままなんだろうね」
それは頷ける話である。
車谷は男色家で、楽屋で話されていた薬は精力増強剤だった――いや、待てよ。それだとオカシイ。
「理真、ちょっと待って。車谷の部屋では実際に乾燥大麻が見つかってるんだよね? それってオカシイよね? 車谷がシロなのだとしたら、どうして現場に乾燥大麻が落ちてたの?」
「もちろん。それは車谷が落とした物じゃない。パンナコッタが落とした物だよ」
そんなバカな。
「理真、あり得ないよ。囮捜査をしていた時、パンナコッタは盗聴器と現金五万円のほか何も持ってなかったんだよ」
それは理真が百瀬警部から確認していたことである。
「だけど、実際にパンナコッタは乾燥大麻を持っていた。その理由を考えることで、パンナコッタ殺人事件の謎も解ける」
「どういうこと?」
「説明の便宜上、少し話を変えるね。まず先に、パンナコッタがなぜ囮捜査でヤラセをしたのかについて考えてみよう」
「……分かった」
私は、"ワトスン役"らしく、見事に"ホームズ"の掌の上で転がされていた。
「パンナコッタは大麻の所持で新潟県警に捕まっている。パンナコッタがその大麻を芸人仲間から買っていたとしたら?」
「え? 車谷はシロなんだよね?」
「そう。だから、密売人は、車谷じゃない別の芸人ということになる」
警察が事前に掴んでいた芸人間で大麻の売買がされているという噂は本当で、しかし、売人は車谷ではないということか。
「当然、その芸人から大麻を買っていたパンナコッタは、司法取引で自らが起訴猶予となるために、その芸人を告発することができた。しかし、実際には、そうではない車谷を告発した。どうして?」
「それは……真の売人である芸人を庇うため?」
チッチッチと理真は舌を叩く。
「由宇は性善説なんだね。それは良いことなんだけど、百瀬警部の話を思い出して。パンナコッタは、自らの利益のためになら何でもする男。パンナコッタの行動は性悪説から説明しなきゃ」
「だとすると、えーっと……」
考えたけれども何もアイデアが出てこなかった。理真が指摘したとおり、私は根っからの性善説論者なのかもしれない。
「性悪な私が答えを教えてあげるね。パンナコッタは、真の売人をあえて告発しないことで、後で真の売人を強請《ゆす》ろうとしてたんだ。『あなたをいつでも警察に差し出せますよ』と言って、お金を毟り取ろうとしてたってわけ」
――それはたしかに悪い。パンナコッタの計画は、司法取引によって起訴猶予を勝ち取った上で、真の売人からお金を取るという、一石二鳥狙いというわけだ。
「そして、パンナコッタは、実際に、身柄が解放された後、真の売人を強請ってお金を取ろうとした。おそらく、パンナコッタから警察に対するお金の無心が止まったのは、真の売人がお金を払うことに応じたからだと思う。パンナコッタは大金を手にした」
たしか百瀬警部の話では、パンナコッタは消費者金融の借金をまとめて返済できるほど、突然裕福になったのだという。それは、ギャンブルで当てたからではなく、真の売人を脅した成果だったのだ。
「でも、真の売人は、また同じネタでパンナコッタからお金を取られるんじゃないかと不安になった。そこでプロの殺し屋にパンナコッタ殺しを依頼した」
ということは――
「真の売人=パンナコッタ殺しの黒幕っていうことだね」
「そういうこと。もっというと、真の売人=パンナコッタ殺しの黒幕=車谷邸で見つかった乾燥大麻の持ち主だよ」
バラバラだった話が急に繋がった。ただ、あまりにも急過ぎて私にはついていけない。
「どういうこと?」
「だって、車谷邸で見つかった乾燥大麻をパンナコッタに渡す人なんて、真の売人しか考えられないでしょ。車谷を"スケープゴート"とすることをパンナコッタと共謀した真の売人以外に、パンナコッタに"無料"で大麻を譲る人なんてどこにもいないでしょ」
たしかにパンナコッタが警察から渡された五万円は手付かずのままだったのだった。
囮捜査の開始時点でパンナコッタが乾燥大麻を所持していないことは明らかなのだから、囮捜査の開始後に、パンナコッタは無料で乾燥大麻を入手したことになる。入手先は、車谷を嵌めることで自らが助かる立場である真の売人しかあり得ないというわけだ。
「でも、理真、一体パンナコッタはいつ誰から乾燥大麻を渡されたわけ? 囮捜査の最中、パンナコッタに自由は与えられなかったわけだよ。行動は警察に把握されてるし」
「行動把握は盗聴器の音声だけでしょ? 口では世間話をしながら、筆談でやりとりをすれば警察にバレずに真の売人とやりとりできるよ。『大麻を貸してください。一緒に車谷を嵌めましょう。そうすれば、あなたは助かりますし、車谷の後釜としてのあなたの仕事も増えるかもしれません』とか書いて」
「あ、分かった……」
ピンポーン。
なんとも切ないタイミングでインターホンが鳴ってしまった。間違いなく丸柴刑事だろう。「開けて〜」という丸柴刑事の声も聞こえる。「はいは〜い」と理真が玄関へと駆けて行く。
丸柴刑事にインターホンを鳴らされてしまったことによって、発言の機会を奪われてしまったのだが、ワトソンである私にも完全に分かっていた。
事件の鍵を握るのはあの人物に違いない。
了
MysteryExhibition1_指定文使用部門:読者投票
以下のフォームから読者投票ができます。
MysteryExhibition1短編部門について、こちらの条件で結果を算出します
・投票の対象期間 :2025年9月1日~2025年11月30日
・作品の選択のみ :1point
・作品の選択&感想:3point
・悪意があると認められる行為や内容は除外
感想は、作者へ共有したり選考会で用いたりさせていただくことがあります。
(選考会で用いられたくない場合、フォームのチェックボックスを未選択にしてください)