首吊り死体の哀歌

「クマヲ、やばいことになってる」
 ファストフード店内で、坂崎美香さかざきみかは、小さなテーブルを挟んで座る同級生、久間野杜夫くまのもりおに声をひそめて言った。バニラシェイクを吸い上げていた久間野杜夫(愛称:クマヲ)は、ストローから口を離して、
「やばいこと?」
 頷いた坂崎は、さらに声のトーンを落として、
園子そのこが……疑われてるみたいなの」
井浦いうらさんが? 疑われてるって、何に?」
「……畠中はたなか先生のこと」
「畠中先生……あれは、自殺だって――」
「警察は、そうは見ていないらしいの」
「どういうこと?」
「偽装自殺じゃないかって」
「偽装自殺……。で、その犯人が……井浦園子さん?」
「警察は、そうじゃないかって疑ってる」
「……なんでまた、そんなことに?」
「兄貴から聞いた話によるとね――」
「聞いた、じゃなくて、無理やり訊きだした、じゃない? いつものように」
「そんなことはどうでもいいって!」
 僅かに声を荒らげた美香は、思わず周囲を見回した、が、店内を埋める客たちは誰もが各々の話に夢中で、他の席で交わされている会話にはまったく興味を向けていない様子だ。それが分かっていたからこそ、美香はクマヲをここへ呼び出したのだが。〝葉っぱを隠すなら森の中〟と、かのシャーロック・ホームズも言っていた……いや違ったか? ポワロか? 知らんけど。……とにかく、かの名探偵の言葉に倣うなら、さしずめ〝会話を隠すなら雑踏の中〟ということだ。


 一週間前の早朝、美香とクマヲが通う高校の国語教師、畠中和久かずひさが橋の下で首を吊っているのが、早朝に河川敷をジョギングしていた市民により発見された。すぐに110番通報がなされ、駆けつけた救急隊員によって、畠中はすでに死亡していることが確認された。
「畠中先生は、木の根元に膝を突いた恰好で、低い枝に結んだロープで首を吊ってたんだって」
「へえ。ニュースや新聞では、そこまでの情報は報じられてなかったね。さすが刑事の妹」
「高いところに紐を結んで完全に宙吊りにならなくても、そういう状況でも首吊り自殺って可能なんだってね」
「ひ非てい定けい型い縊し死」
「え? どうしていきなりお医者さんが出てくるの?」
「お医者さん?」
「患者さんの言うことにダメ出しばかりするお医者さんってこと?」
「それは、否定形医師」
「じゃあ、『違う、そうじゃない』的なこと?」
「……ああ、否定形意志、ってことね。違うよ。僕が言ってるのは、非定型縊死。足が完全に地面や床から離れて宙吊りになる、いわゆるみんながイメージする首吊りを〝定型縊死〟っていって、そうじゃないのを〝非定型縊死〟っていうんだよ」
「ふーん――って、そんなことはどうでもいいの。問題なのは、園子が疑われてるってこと」
「どうして井浦さんが?」
「……これもニュースでは報じられていないことなんだけど、まず、遺書がなかった。現場にも、畠中先生の自宅にも。スマホやパソコンのデータで残されているということもなかったみたい。変でしょ。国語教師なら、自殺する際には遺書のひとつでも残してしかるべきじゃない?」
「人によるんじゃないかな」
「絶対残すって。畠中先生って、元々作家志望で、妙に文学的な言葉遣いをする人だったじゃない。甘い言葉とか好きだし。ああいうタイプは絶対に遺書を書く。間違いない」
「そうなんだ」
「うん。で、こっちのほうが重要な問題なんだけど……畠中先生と園子がね……なんだ、いわゆる……教師と生徒以上の関係になっていたとか、いなかったとか。……あくまで警察の見解だけど」
「証拠があったの?」
「ない。スマホにもそれらしい記録はなかったって。かなり用心をしていて、記録が残るような連絡手段は使っていなかったのかもしれない。同じ学校にいるんだから、何かしらアナログな連絡手段を使うのは簡単だろうしね。でも、隣町で、畠中先生が高校生くらいの女性と仲良く腕を組んで歩いているのを見たっていう、先生の知り合いの証言が出たらしいの。で、実は畠中先生、近いうちに結婚する予定だったそうなの。相手は大学時代から付き合ってた同い年の女性。で、畠中先生のクレジットカードに、女性用の服やアクセサリーを結構な頻度で購入してる履歴があって、その婚約者に購入品を確認してもらったんだけど、自分が買ってもらった憶えのない商品も含まれてるって」
「じゃあ、いわゆる、痴情のもつれってやつ?」
「そうそう。兄貴――というか警察の考えでは、結婚するにあたって、畠中先生は二股かけてた女子高生――園子――に別れ話を切り出したんだけど、それに納得しなかった園子が……」
「畠中先生を殺した?」
「そう」
「自殺に見せかけて」
「そうそう」
「確かに、非定型縊死なら、被害者を宙吊りにするっていう力仕事は必要がないから、女子高生でも偽装自殺に見せかけた犯行は可能かもしれない。でも……それらは全部、状況証拠でしかないでしょ? 仮に、畠中先生が確かに女子高生と付き合っていた――浮気をしていた――としても、その相手として、どうして井浦さんが疑われてるの?」
「不運が重なったのよ。まず、畠中先生の死亡推定時刻にアリバイがない。その時間には、塾からの帰りで、ひとりで買い物をしていたらしいの」
「畠中先生の死亡推定時刻は?」
「死体発見前日の、夜七時から八時のあいだ。悪いことに、そのとき園子が買い物をしてた場所が〈メリコ〉なんだよ」
「死体発見現場の近くだね」
〈メリコ〉とは、全国にチェーン展開しているホームセンターだ。
「でね、さらに悪いことに……畠中先生が首吊りに使っていたのは、麻縄だったんだけど、その縄がね、メリコで売られてるもので、さらにさらに悪いことに、その日の午後七時半頃、女子高生が同じ縄を購入したっていう店員の証言もあるの……」
「その女子高生が井浦さんだという確認は取れたの?」
「分からない。写真も見てもらったんだけど、そのときの店員さんが年配の方で、若い子の顔はみんな同じに見える、とか言われて断定は出来なかったって。でも、うちの制服を着ていたのは間違いないそうなの。その店員の子供も同じ学校に在籍してるから分かったんだって。園子は学校帰りに直接塾に通ってたから、そのまま制服を着ていただろうし。支払いも現金払いだったから、購入者の記録も辿れなくって……」
「井浦さん本人は、どう言ってるの?」
「相手が高校生だから、『生徒全員に訊いている』というていでアリバイ確認をしただけで、具体的な聴取とかには動いてないみたい。でも、兄貴の話だと、時間の問題だろうって」
「状況証拠とはいえ、そこまで材料が揃ってるなら、警察としては動かないわけにはいかないだろうね」
「園子は犯人じゃないよ!」
「それは……」
「クマヲ! あんた、園子がそんなことをする子に見えるとでも言いたいの? 教師と交際したうえ、痴情のもつれで自殺に見せかけて殺すだなんて、そんな恐ろしいことをする子だって!」
「僕、井浦さんとはそんなに親しくないし」
「なんて薄情なやつ! 信じられない!」
「そもそもさ、どうしてそんな話を僕に聞かせるの?」
「決まってるじゃない。……あんたが園子の濡れ衣を晴らすのよ!」びしっ! と美香は、クマヲの鼻先に人差し指を突きつける。「名探偵の、あんたがね!」
 数ヶ月前、美香は、刑事である兄から仕入れた殺人事件の話を、何気なくクマヲに話したことがあった。するとその翌日、「犯人が分かった」という連絡がクマヲからあった。美香から聞かされた手がかりをもとに、独自に推理して犯人を突き止めたのだという。面白半分でクマヲの話を聞いた美香は、彼の推理が的中していることを確信し、その推理をそっくりそのまま兄に話した。クマヲの推理に納得した兄は、その推理をもとに新たに証拠固めを行い、見事、真犯人逮捕に至ったということがあった。
「名探偵って……」
 クマヲは、ぼさぼさの頭髪に突っ込んだ手を、わしゃわしゃと掻いた。いっそのこと、これで盛大に〝フケ〟でも飛び散らせたら、より〝名探偵〟っぽくなるのにな、と美香は思ったが、幸いなことに、クマヲの無造作な頭髪からフケは舞い上がらなかった。もっとも、ファストフード店の手狭な席でフケを飛ばされでもしたら、自分だけでなく近隣の席にまで飛散してしまい、えらく迷惑なことこの上もないのだが。
 改めてクマヲの頭部に目をやる。「美容師に髪型のイメージを伝えきれない」という理由から自分で切っているという、いつ野鳥が営巣を始めてもおかしくないほどの本当の意味での〝無造作ヘア〟。美容師にイメージを云々というのは、ただ単に美容室なり床屋なりに行くのが面倒くさいことの口実なのではないか、と常日頃から思う美香であった。
「……そんなことはどうでもいいの」
「えっ? なにが?」
「どう、クマヲ、これから現場に行ってみない?」
「えー、今から?」
「つべこべ言わないでさっさと食べて。行くよ」
 美香はトレイを持って立ち上がった。


 現場への移動はバスを利用した。最寄りの停留所で降り、すぐに見える川の堤防を越えて河川敷へ下り、二人は現場である橋の下へ向かう。
「クマヲ、寒くない?」
 川から吹きつけてくる風に、美香は巻いているマフラーを引き上げて口元を覆った。対して、セーター姿で、マフラーも、手袋も、防寒用の上着も羽織っていないクマヲは、ブルルと体を震わせてから、
「ちょっと……」
「上着を着てくればよかったのに」
「まさか、こんなところに来ることになるとは思わなかったから」
 クマヲは、ファストフード店で美香から話を聞くだけの用事だとばかり思っていたのだろう。美香は、クマヲが着用しているセーターを見て、
「あんた、いつもそれ着てるよね」
「気に入ってるんだ」
 嘘である。他に持っていないのだ。家計の事情とかそういった経済的な理由からではない。ここでも面倒くさいというのが理由だ。服を買いに行くという行為が、店で服を選ぶという行為が、面倒くさいだけなのだ。一度買った服は着られなくなるまで着倒す。それが久間野杜夫という男のジャスティス。彼の着ている服が昨日と違っていた場合、それは、着倒しすぎていよいよ服が寿命を迎えたか、何らかの事情――ジュースをこぼしてしまうなど――により、物理的にそれが着られなくなったか、季節による衣替えによるものか、のいずれ以外にありえない。衣替え自体もクマヲは極度に遅い。寒さ、暑さに耐えられなくなるギリギリまで、クマヲは夏もの、冬ものを着続けるのだ。よって、彼の衣替えは一般の人よりもおおよそ一ヶ月は遅くなる。
 とはいえ、彼が今しがた自分のセーターに対して評した「気に入っている」という言葉はあながち嘘でもないだろう。見よ、クマヲが着用している(変な色をした)セーターのフロントに燦然と輝くスパンコールを。そのきらめきが形作るものを。熊を模したキャラクターの顔が大きく描かれ、その下に〈MORIのクマヲ〉と(おそらく)この胡乱なキャラクターの名前が記されている。本名――久間野杜夫は、幼少の頃より「クマオ」の愛称で呼ばれてきた。その長年にわたって呼び続けられた自身のニックネームに愛着を持っているのだろう。そこで見つけたこのセーターである。〈MORIのクマヲ〉。自分のニックネームが入っているうえ、フルネーム(?)自体が本名の単純なアナグラムだ。彼がこのキャラクターに愛着を抱いたとて決しておかしくはない。初めてクマヲがこのセーターを着用しているところを目撃した美香は、あまりの不意打ちに完全にツボに入ってしまい、救急車を呼ぼうか本気で頭をよぎるほどの呼吸困難に陥ってしまったほどだった。以来、美香が彼のニックネームを呼ぶときは、「クマオ」ではなく「クマヲ」と語尾を「WO」とすることを意識して発声するようにしているのだ。無論、このセーターに活写された〈MORIのクマヲ〉リスペクトゆえのことである。
「……そんなことはどうでもいいんだけど」
「えっ? なにが?」
「そうだ……」と美香は、肩に提げた鞄に手を入れ、取りだした一本のマフラーを、「これ、あげる」
 クマヲに差し出した。
「え、いいの?」
「いいよ。失敗作だし」
「失敗作?」
「そう、編み上げたあとに汚しちゃって。洗濯したら縮んだの」
 その手にあるマフラーを見て、クマヲは美香の言葉の意味を理解した。それは確かにマフラーだったが……。
「……それにしても、短くない?」
 受け取ったマフラーをさっそく首に巻いてみたクマヲだったが、彼の首を一周半程度したあたりで、マフラーの長さは尽きてしまった。クマヲは首からほどいたマフラーを改めて眺める。長さに加えて、マフラーとして見たら確かに幅も若干狭く、なんとも不安を感じさせるバランスだった。〝帯に短したすきに長し〟という慣用句があるが、さしずめこれは〝マフラーに短しタオルに長し〟とでもいいたくなるような代物だった。
「端っこ部分の汚れがどうしても落なかったから切ったの。いらないなら捨てるけど」
「いやいや、ありがたくもらうよ」
 クマヲはマフラーを首に巻き直した。なにぶん短いため、上手く結んでやらないとすぐに解けてしまう。
「坂崎さん、マフラーが編めるなんてすごいな、感心しちゃうな」
「そんなたいしたことじゃないわよ」
「でも、僕がもらっちゃって、本当にいいの?」
「……なにが?」
「だって、本当はこれをプレゼントしたい人がいたんじゃないの?」
「…………」
「その人に悪いよ」
「失敗作だし……こんなのあげられないでしょ」
「関係ないと思うよ。こういうのってさ、気持ちが大事なんじゃないかな。たとえ洗濯して縮んでしまった不格好なマフラーだったとしても、もらった人は嬉しいと思うよ。たとえ汚れた部分を切断した寸詰まりの変なマフラーだとしても――」
「うるさい! きりきり歩きなさいよ!」
「あいた!」
 クマヲの背中に、美香の平手が打ち付けられた。


「見えてきたわ、あそこよ」
 美香は、十メートルほど先に架かる、トラス形式鉄道橋の下。河川敷に自生している一本の木に視線を向けた。
「ここ。この枝に縄を結びつけて、畠中先生は死んでいたの」
 美香が指さしたのは、地面から一メートル半ほどの高さから伸びた枝だった。そこに生えている木はそれ一本だけで、周囲は背の低い雑草がまばらに繁茂している。
 木の根元に移動したクマヲは、縄が結ばれていたという枝を中心に、木全体、その周辺をじっくりと見ていく。そうしながらも時折、手をズボンのポケットに入れ、抜いては口元に運ぶという動作を繰り返しており、そのたびに静かな河川敷には、カリカリという何かをかみ砕くような音がこだまし、同時に香ばしい香りが漂う。
「現場検証をしながら豆を食うな!」
 たまらず美香は突っ込んだ。そう、クマヲは、ポケットに入れているナッツ類を食していたのだった。しかもポケットには袋などを介さない直入れである。クマヲがおやつ(主にナッツ類)をポケットに直入れしている、という驚愕の事実を知った美香は、どうしてそんなことをするのか? と尋ねたことがあった。返ってきた答えは、「チョコやアメだと溶けるから」だそうだ。開いた口を塞ぐことができず、美香はもうそれ以上この件について問いただすことをやめた。
「なに?」
 クマヲが振り向いた瞬間、セーターを彩るスパンコールに反射した陽光が美香の目を射貫いた。
「うおっ! 眩しっ!」
「坂崎さんも食べる?」
「いらんわ!」
 クマヲが差し出してきたアーモンドを、目を閉じたまま美香は拒絶した。風に乗って美香の鼻孔に届いた香りは、アーモンドのものだけでなく、風味豊かなかつおぶしのそれが混じっていたように感じたが、たぶん気のせいだろう。気のせいだと信じたい。視覚が閉ざされていることが幸いだった。


「どうだった? 何か手がかりは見つかった?」
「何もないよ」木の根元に屈んでいたクマヲは立ち上がって、「というよりもさ」
「なに?」
「現場は警察が徹底的に調べたんでしょ? そこを今さら再調査したって、何が出てくるとも思えないけど」
「らしからぬ言葉ね。警察が見逃していた手がかりを目ざとく発見するのが名探偵ってものでしょうよ」
「無茶言わないでよ……」
 クマヲは困った顔をして、再びポケットに突っ込んだ手を口元に運んだ。
「だから、豆を食べるな!」
「これは、かつおぶしだよ」
 どうりで今度は咀嚼音が聞こえなかったはずだ。――期せずして言質が取れてしまった。
「あのさ」
 かつおぶしを喉に流し込んだクマヲが口を開いた。またもコクのあるかつおぶしの薫りが風に流れくる。美香の心中に、無性におかかおむすびを食べたい欲求が湧き上がってきたが、それをぐっとこらえて、
「なに?」
「畠中先生の死が偽装自殺だったとして、犯人は、どうやってそれをやったっていうんだろう?」
「さっきクマヲも言ってたじゃない。否定形医師――じゃなかった」
「合ってるよ」
「私の中じゃ違ったの! その――非定型縊死なら、死体を高く吊す必要がないから、非力な女子高生でも犯行は可能じゃないかって」
「それは、いざ死体を吊す段になってのことでしょ。その前だよ」
「前……」
「そう。そもそも犯人は、どうやって畠中先生を殺したのか。生きている人間を首吊りの状態にして殺すなんて難しいよ。そうとう抵抗されるだろうし」
「兄貴から見せてもらった捜査資料によると――」
「無理やり、あるいは、こっそり見た、の間違いなんじゃ――」
「うるさいわね! とにかく、資料によると、畠中先生の死体に抵抗したような傷や衣服の乱れはなかったみたい。死因も首吊りによるものと断定されているわ」
「いつ縊こう溝は?」
「どんだけ~?」
「それは〝IKKO〟。縊死した人の首に残る痕のことだよ。さく索じよう条こん痕とも言うけど」
「あ、そっちなら聞いたことある」
「自殺での首吊りと、他人が首を絞めたのとじゃ、痕の付き方が違ってくるんだけど、今回は否定型縊死だから、その違いはあまり関係ないとは思うけど」
「じゃあ、いいじゃない」
「〝吉川線〟の問題もあるし」
「どこを走ってる電車よ、それ?」
「鉄道の路線名じゃなくって。首を吊った、あるいは首を絞められた人が、抵抗して首を掻きむしって付く引っ掻き傷のことだよ」
「抵抗して、ってことは……」
「うん。他殺だった場合、その吉川線が残る場合が多い」
「その吉川線があれば、他殺」
「そうとも限らないけどね。いざ死ぬつもりで首を吊ったはいいけれど、苦しみや恐怖を感じて、思わず首を掻きむしってしまった、っていうケースもあるらしいから」
「なるほど」
「でも、吉川線がなくても他殺の場合もある」
「なんでよ。首を絞められたら絶対に抵抗するでしょ」
「睡眠薬を盛られたとか」
「そうか」
「だから、畠中先生の死体に、吉川線があったか、体内から睡眠薬が検出されたか、それが分からないと、自殺か他殺かを判断するのは難しい」
「なるほど……。じゃあ、また捜査資料を確認してみるわ」
「それ以外にも、何かおかしな点があったら、どんなことでもいいから教えてほしい」
「わかった」
 美香が改めて捜査資料を(盗み)見て、その結果をクマヲに知らせることを約束して、その場は解散となった。


 翌日、再びクマヲは美香に呼び出された。場所も同じファストフード店。
「まず、結果から言うと、畠中先生の死体に吉川線はなかったし、睡眠薬も検出されなかったわ」
「そうか。そうなると……」
「そうなると?」
「睡眠薬が検出されなかったんだから、犯人は意識のある状態の畠中先生を非定型縊死に見せかけて殺害したということになるよね。服の乱れや外傷とかの抵抗した痕跡もないのに、いったい、どうやって殺したんだろう?」
「……園子には、無理?」
「相手は成人男性だよ。井浦さんじゃなくても、そうとう難しいと思うよ」
「じゃあ、やっぱり……自殺?」
 美香は安堵のため息を漏らしてから、フライドポテトを頬張る。
「でも、警察は井浦さんを疑ってるんでしょ」
「そうなの。兄貴の話だと、ついに明日にでも話を訊きに行くみたいなの……」
 美香は、二本目のポテトに伸ばしかけた手を止めて、沈痛な表情になった。
「索条痕と睡眠薬の他にも、何か死体におかしな点とかは、なかったの?」
「……なかった」
「そうかぁ」クマヲは、バニラシェイクを吸い込んでから、「まあ、確かに、畠中先生の死亡推定時刻前後に麻縄を買っていたっていうのは、ちょっと変だもんね。女子高生が普通にする買い物じゃないよ。あと、畠中先生が女子高生と付き合っていたらしいっていう状況証拠もあるし。アリバイも不明」
「でも、園子に畠中先生は殺せないことははっきりしたんでしょ?」
「うん……死体の状況から見たらね。警察も当然それは考えてるはず。でも……」
「でも?」
「逆に、井浦さんに畠中先生を殺せる手段があったのなら、一気に容疑は傾くことになるよ」
「手段って、どんな?」
「何かしらのトリックが使われたとか。睡眠薬を盛ることもなく、畠中先生を無抵抗のまま絞殺して、死体を首吊りに見せかけるっていう。あるいは、畠中先生が自分から首を吊るように仕向けたとか。脅しをかけるか何かして」
「園子がそんなことするわけないでしょ! いい? あんたの仕事は、園子の潔白を証明することなの」
「推理の結果、井浦さんが犯人だと確信することになるっていう場合も――」
「そんなの許さない!」
「むちゃくちゃだ」
「とにかく、頼んだわよ。園子の潔白を証明して」
 勢いよく残りのフライドポテトを口に放り込むと、完食したトレイを手に美香は立ち上がった。
「また現場検証に行くの?」
 あわててクマヲも半分ほど食べかけのハンバーガーを掴み取ったが、
「ううん。今日は用事があるから、私は帰るわ。あんたは現場検証をするなり、メリコの店員に聞き込みに行くなり、好きにしていいわよ」
「好きにしていいなら、僕も帰ろうかな――ああ、何かするよ……ええと、じゃあ、メリコに聞き込みにでも……」
 睥睨する美香から無言の圧を加えられ、クマヲはすぐに帰宅希望を撤回した。
「クマヲ」
「なに?」
「そのマフラー、してくれてるんだ」
 クマヲの首には、美香からもらった寸詰まりのマフラーが巻かれていた。
「せっかくもらったから。結構あったかいよ、これ」
「そう……」


 美香が帰り、ひとりでゆっくりとハンバーガーを食べ終えたクマヲは、井浦園子(と思われる女子高生)が麻縄を買ったというホームセンターメリコへ向かった。
 縄ってどこで売ってるんだろう? と広い店内をさまよい、迷子になりかけていたところに、クマヲは知り合いの顔を見つけて声をかけた。
拓馬たくまさん」
 名前を呼ばれて顔を向けた、その背広姿の青年は、
「……おお、クマオくんじゃないか」
 破顔して駆け寄ってきた彼こそ、捜査一課刑事で美香の兄、坂崎拓馬である。拓馬は、数ヶ月前に起きた、クマヲの推理で解決できた事件のことで彼に恩を感じており、以来、街で顔を見かけてコーヒーをご馳走する、ということを何度か繰り返す仲になっていた。
「もしかして、捜査ですか?」
 クマヲに言われると、破顔していた拓馬の表情はとたんに真剣味を帯びた。
「そうなんだ。まあ、詳しいことは話せないんだけど。いくら相手がクマオくんでも、こればかりはね……」
「デリケートな問題ですもんね」
「そうなんだ」
「容疑者が女子高生だとか」
「うんうん」
「しかも、その女子高生が、死んだ教師と付き合っていたという可能性も……」
「まいったよ。さすがに鬼の課長も二の足を踏んでね」
「でも、明日にもその女子高生に話を訊きに行かなきゃならない」
「重要参考人であることに間違いはないからね。これ以上引き延ばせない」
「つらいですね」
「ああ、少年課の女性刑事にも付き添ってもらって――って! おい! どうしてクマオくんがそんなことを知ってるんだ!」
「長いノリ突っ込みでしたね」
「――あ、わかった。美香のやつだな」
「そうなんです」
「あいつ、この事件のことをやたら訊いてくると思ったら。通ってる高校の先生が死んだ事件だからって、少し口を滑らせすぎたかな。勝手に捜査資料も盗み見たに違いないな」
 いかな妹相手とはいえ、こうも簡単に捜査内容を教え、捜査資料を盗み見られるとは、ここの警察のセキュリティは大丈夫なのか、と市民として一抹の不安を憶えなくもないクマオだったが、そんな心境はおくびにも出さず、
「実は、その容疑者の生徒と坂崎さんが友達で」
「そういうことか。それでクマオくんに相談が行ったというわけだね」
「はい。井浦さん――その生徒の潔白を証明しろ、って」
「とんでもない話だな。その井浦さんが犯人かもしれないっていうのに。探偵に真実を捻じ曲げろと命令するとは、ワトソンの風上にも置けないやつだ」
「美香さんは別に僕のワトソンじゃないです。そもそも、僕が探偵じゃないし」
「なにを言ってるんだクマオくん。この前のあの推理は見事だったぞ」
「……もし、よければ、その事件について詳しい話を聞かせてもらえませんか?」
「うーん……」と拓馬が逡巡したのは一瞬だけだった。「よし、コーヒーでも飲みながら話そうか」
 拓馬は、ホームセンターに併設している喫茶店へクマヲを誘った。


 ファストフード店と違って店内が静かだったため、二人はオープンスペースに席を求めた。ここならば、行き交う人たちの喧噪や車の走行音が、殺人事件についての二人の会話を掻き消してくれる。拓馬はしきりにケーキセットを、なんならがっつり軽食メニューも薦めてきたが、お昼を食べたばかりなので、とクマヲはコーヒーだけをご馳走してもらった。
「警察では、やっぱりその女子生徒――井浦園子さん、が犯人だと見ているんですか?」
 コーヒーに砂糖とミルクを投入して、クマヲが訊いた。拓馬のほうは、ブラックのままカップに口をつけて、
「犯人かどうかはともかく、事件に何かしら関係しているとは思っているよ。当初は単なる自殺だと見ていたんだけどね……。念のために自殺者の身辺を調べたら、近々結婚を控えていた女性がいたとか、自分が勤めている高校の生徒とただならぬ関係にあったんじゃないかとか、見過ごせない情報がどんどんと出てきたものだからね……」
「そうそう、畠中先生には婚約者がいたそうですね」
「うん。で、彼のカードに、女性ものの服やアクセサリーを購入した記録があったんだけど、その婚約者は身に憶えがないものも含まれていると……って、こんな話はもう美香から聞いて知ってるか」
「ええ、まあ。で、このホームセンターで女子高生が麻縄を買ったらしいって」
「そうなんだ。首吊りに使われていた縄がどう見ても新品同様だったから、いちおう出所を探っておこうということになって、死体発見現場に近いここで聞き込みをしてみたんだ。そうしたら、まさに死亡推定時刻内の午後七時半に、同じ縄を買った客がいるっていうじゃないか。しかも、その購入者は女子高生だったと。で、色々と調べてみたら、井浦園子という生徒が、同じ時間帯にこの近くにひとりでいたらしいということも分かったんだ」
「うちの学校の女子生徒全員のアリバイを調べたんですか?」
「いやいや。さすがにそこまでは無理だから、可能な範囲でね。死亡推定時刻の午後七時から八時という時間なら、高校生という身分じゃ、ほとんどの生徒は自宅にいたはずだろうし。井浦園子さんという、アリバイのはっきりしない生徒がいることが分かっただけでも僥倖と言えるよ」
 ため息を漏らして、拓馬はカップに二口目を付けた。
「拓馬さん、婚約者のほうは調べたんですか?」
 クマヲに訊かれると、拓馬はカップを下ろして、
「もちろん。原因が痴情のもつれであれば、婚約者のほうにも動機はあるわけだからね。でも、アリバイがはっきりしていたんだ。畠中さんの死亡推定時刻には残業で会社にいて、上司や同僚数名の証言もある」
「そうでしたか」
「で、明日には井浦さんに話を訊きに行かなきゃならないだろ。何か手がかりはないものかと思って、またここへ来てみたんだ。時間が経って落ち着いたところで、店員が、麻縄を買った生徒の顔や特徴を思い出したりしてないかなってね……」
「成果は、どうでした?」
「さっぱりだよ」
「表情が優れないので、そんなことじゃないかと思ってました」
「ああ、でもね、新しい情報がなかったこともないんだ」
「どういうことですか?」
「女子生徒についての新たな情報は得られなかったけれど、代わりと言っちゃなんだけど、死んだ畠中さんについてのね」
「畠中先生が、なにか?」
「うん、彼も、ここで買い物をしていたことが分かったんだ。死ぬ前日に」
「なにを買っていたんですか?」
「脚立だって」
「脚立」
「うん。持ち運びが容易な、軽くて、高さ一メートル程度のものだったそうだ」
「はあ……」
「何かの手がかりになるとも思えないけれどね。……そうだ、よかったら、クマオくん、捜査資料を見るかい?」
「いいんですか?」
「どうせ美香から内容筒抜けなんだろ。それに、クマオくんには恩もあるし、この事件も見事に解決してくれるかもしれないだろ」
 本当にこの警察は大丈夫なのだろうか、と再び胸中をよぎった不安はさておいて、クマヲはありがたく捜査資料を見せてもらうことにした。
 民間探偵が警察捜査に協力しているっていう例も全国にあることだし、と、言い訳めいた独り言を呟く拓馬を前に、クマヲはファイルをテーブルに広げ、ナッツを噛みながら目を通しはじめた。やおらポケットに手を突っ込んで引き抜かれたクマヲの指に、クルミが摘ままれているのを見た拓馬は、ぎょっとして目を見張った。しばらく無言でファイルをめくり、コーヒーを飲み、ナッツを噛んでいたクマヲは、
「……拓馬さん」
「なんだい?」
「これなんですけれど……」
 クマヲが指さしたのは畠中の死体を写した写真だった。しかも、首吊り状態のままの。高校生に死体写真を見せてしまったことを、さすがにばつが悪いと感じたのか、拓馬は、「ああ、これは……」と、しどろもどろになったが、クマヲは構わずに、
「ここ」写真の一部に指先を置いて、「これって、発見時から、こうなっていたってことですよね?」
「……ああ、もちろん」
 クマヲが指さしたのは、畠中の首の部分だった。そこには麻縄が食い込んでいるのだが、
「縄が、三重になっていますね」
 クマヲの言葉どおりだった。首吊りに使われた麻縄は、一方の先が木の枝に括り付けられ、もう一方は環状になって畠中の首が通されているのだが、その環状となっている部分の縄が三重に結われていたのだった。つまり畠中の首には、三本分の縄が食い込んでいることになる。
「変じゃないですか?」
 クマヲに指摘されると、拓馬は、
「まあ、確かに、あんまり見ない形だね、こういうのは」
「ですよね。どうしてこんなふうになっているんでしょうか?」
「首を吊った荷重でロープが切れてしまわないように太くしたんじゃないかって、僕たちは考えたんだけど」
「それなら、枝と首を繋いだ部分もそうするべきじゃないですか? でも、その部分は縄を二重三重にすることなく、普通に一本分だけになっています。それに、これは非定型縊死だから、全体重がロープにかかるわけじゃありません。通常の首吊り――定型縊死に比べたら、縄への荷重はずっと軽くなることは分かりきっています」
「それはそうだけど……。その縄に何か意味があるとも思えないし……。クマオくんは、なにか気になるのかい?」
「資料によれば、この縄の直径は三センチだから、それが三本分で、つまり、計九センチ分の縄が、畠中先生の首に食い込んでいたことになります」
「そうだね。当然、いつ縊こう溝もそのくらいの太さで残っていたよ」
 クマヲは、親指と人差し指を離して九センチ程度の幅を作り、それを自分の首にあてる。クマヲはマフラーを巻いていたので、二本の指は正確にはそのマフラーにあたった。
「いいマフラーをしてるね、クマオくん。でも、マフラーとしては、ちょっと長さが短いみたいだけど」
 クマヲは、ファイルを閉じて立ち上がると、
「ありがとうございました。コーヒー、ごちそうさまでした」
「も、もういいのかい?」
 拓馬にぺこりと一礼してから、駆け足でテーブルを離れた。寒風が吹きつけたが、長さに余裕のないクマヲのマフラーがなびくことはなかった。


 翌日、美香はクマヲに呼び出された。場所は畠中の死体が発見された場所。
「クマヲ」先に来ていたクマヲの姿を、木のそばに見つけると、「謎が解けたの?」
 駆け寄って美香は訊いた。黙ったまま頷いたクマヲは、
「結論から言うね……。井浦さんは犯人じゃない」
「本当に? よかった!」美香は胸をなで下ろして、「じゃ、じゃあ……畠中先生を殺した犯人は……誰なの?」
「……いない」
「えっ?」
「いないんだ。畠中先生を殺した犯人なんて。なぜなら……畠中先生は自殺だから」
「自殺……。でも、遺書がなかったのよ。前も言ったけど、畠中先生みたいなタイプなら――」
「遺書は絶対に残す……だね」
 美香は頷く。クマヲも小さく頷いてから、
「うん、遺書はあったんだと思う」
「え?」
「畠中先生が自殺した、ここに」
 クマヲは、木の根元を指さした。
「で、でも……」
「そう。実際に遺書は見つかっていない。どうしてかというと……犯人が持ち去ったからだよ」
「はあ? クマヲ、あんた今、犯人はいない、って言ったばかりじゃない!」
「僕は、〝畠中先生を殺した犯人はいない〟って言ったんだ」
「同じことでしょ」
「違うんだ。畠中先生は自殺だ。でも、その状況に手を加えた人間がいたんだよ。証拠隠滅罪にあたるだろうから、立派に〝犯人〟て言ってもいいんじゃないかな」
「……遺書を持ち去ったことが罪になるの?」
「……それだけじゃない。その犯人は死体にも手を加えている」
「死体に……」
「そう。僕が推理した、犯行の状況を説明するね」クマヲは、大きく息を吸い込んでから、「まず、畠中先生が、ここへやってくる。自殺するためだ。どうしてこの場所を選んだのかまでは分からないけれど、とにかく、ここで死のうと思った。選んだ手段は首吊りだ」
「非定型縊死ってやつ――」
「違うんだ」
「え?」
「非定型縊死じゃない。畠中先生は、完全に足が地面から離れて宙吊りになる、定型縊死を選んだんだ」
「どうしてそんなことが分かるの?」
「畠中先生は、自殺する前日に脚立を買っている。それもここに持ち込んだんだ。踏み台にするために」
「でも、実際は畠中先生は――」
「犯人が手を加えたっていうのは、それだよ。犯人は、定型縊死だった畠中先生の死体を下ろして、ずっと低い位置の枝を使って、非定型縊死に偽装したんだ。だから、畠中先生が実際に首を吊った枝は、もっと高い位置、たぶん……あのあたりに生えているものだったんじゃないかと思う」
 クマヲは、頭上にある、地面から二メートル半程度の高さにある一本の枝を指さした。
「調べれば、枝に何かを結びつけた痕跡が見つかると思う。成人男性ひとり分の荷重がかかった枝が、まったくのノーダメージで済むとは思えないから」
 クマヲは指を下ろし、視線も水平に戻した。美香も同じように視線を下げたところで、クマヲは、
「そうして、首を吊って亡くなってしまった畠中先生のもとに……犯人が現れたんだ。そこで変わり果てた姿となった畠中先生を発見した犯人は、畠中先生の死体を下ろすと、近くにあるホームセンターに行って麻縄を買ってきた。その縄を犯人は、低い位置の枝に結びつけて、先端を輪っかにして、そこに畠中先生の首を通して、また首吊り自殺の状態に戻したんだ。定型縊死から非定型縊死に、首吊りの方法を偽装したわけだね。最後に犯人は、遺書を回収して、脚立を川に投棄したんだと思う。非定型縊死なのに脚立があったらおかしいからね」
「どうして犯人は、そんなことをしたの? 定型縊死を非定型縊死に偽装したことに、どういう意味があるっていうの?」
「首吊りの方法を偽装することは目的じゃなかったんだ。それはあくまで、そうせざるをえなかったというだけなんだ」
「……意味が分からないんだけど」
「犯人の本当の目的、それは……畠中先生が首吊りに使った道具を回収することだったんだよ」
「脚立のこと? 脚立が見つかったらまずいんだけど、脚立がないのに定型縊死をしていたらおかしいから、非定型縊死に偽装して……」
「違うよ。首吊りに使われた道具は脚立だけじゃない。もうひとつ、重要なものがある」
「……それって」
「そう。ロープだよ。畠中先生が枝に結んだ、首を括るためのロープ状のもの。犯人は、それを何としても回収しなけりゃならなかった。でも、それを回収しただけだと、木の根元に死体が横たわっていて、そばに脚立があるだけで終わってしまう。不自然なことこのうえない。だから犯人は、その代用品として、麻縄を買ってこなきゃならなかったんだよ。成人男性の体重を支えられて、ある程度の長さのあるロープ状のものなんて、そこらに落ちてなんていないからね。近くにホームセンターがあったのは、犯人にとっては幸いだった。そうして縄を調達してきた犯人だったけれど、死体を元どおりに戻すなんて出来るわけがない。そのためには、死体となった畠中先生の首の位置を、地面から二メートルくらいの高さまで持ち上げないといけないけれど、そんなの絶対に無理だ。だから犯人は、宙吊りの定型縊死から、地面に膝を突いてもできる非定型縊死に首吊りの方法を偽装したんだ。これなら、首を上げる高さは地面から一メートルに足りない程度で済む。地面に横たえた死体の首に輪っかにした縄を通して、枝を使って滑車みたいにして引っぱればやれる」
「どうして犯人は、そこまでしてロープを回収しないといけなかったの?」
「たぶん、それが畠中先生と犯人とを繋ぐ特別なものだったからだと思う」
「特別なもの……」
「うん」
「それがなにか……クマヲには分かってるんだね……」
 クマヲは、ゆっくりと頷くと、
「……マフラーだと思う。手編みのマフラー」
「…………」
「ここからは推理じゃなくて、ただの推測に過ぎないんだけど……。犯人が、畠中先生の死亡直後に現場に来られたことから――麻縄を買った時刻が、死亡推定時間内だということが、それを示している――たぶん、畠中先生は、その犯人に〝今から自殺する〟と教えていたんじゃないかな。畠中先生のスマホには、それらしい通話記録も、メッセージアプリでのやり取りも残っていなかったそうだから、公衆電話を使ったんだと思う。で、その連絡をもらった犯人は、慌ててここへ駆けつけたんだ。畠中先生が死に場所に選ぶなら、ここだろうって見当がついたんだろうね。二人の思い出の場所だったのかもしれない。そこで畠中先生を見つけた犯人は、畠中先生の体を抱えて、首を吊った輪っかから頭を抜いて地面に下ろしたんだ。まだ助かるかもしれないと思って、咄嗟に行動したんだろうね。、
でも一足遅く、畠中先生はすでに息を引き取っていた……。そばにあった遺書には、自殺の理由が書いてあって、自殺の原因として犯人の名前も書かれていたんだと思う。畠中先生と自分との関係を誰にも知られたくない犯人は、遺書を回収して、さらに……もうひとつ、絶対に現場に残してはいけないものを発見した。首吊りに使われたマフラー。犯人が畠中先生にプレゼントしたものに違いない、手編みのマフラー。手編みのものとはいえ、そこから犯人に繋がる物証が出てくるとは思えないけれど、犯人にしてみたら、大きな意味があったのかもしれないね。そんなもので首を吊ったっていう事実自体が許せなかったのかもしれない。すべては、犯人に訊いてみなけりゃ分からないことだけれども……」
 クマヲの視線が、美香と合わさった。
「どうして……」クマヲの目を、じっと見つめる美香は、「どうして、畠中先生が首吊りに使ったのが、マフラーだったって……分かったの?」
「偽装した縄だよ。畠中先生の首に食い込んでいた縄は、どういうわけだか三重に巻かれてたんだ。僕は坂崎さんに、捜査資料に何かおかしな点があったら、どんなことでもいいから教えてほしい、って頼んでいたのに、首にかかったロープが三重になっているっていう、こんな事象を、どうして教えてくれなかったのかな……」
「……それに、何か……意味があるっていうの?」
「ある。いつ縊こう溝だよ」
「…………」
「わざわざ縄を三重にすることによって変わるもの。それは、いつ縊こう溝、索条痕だ。縄が三重になるということは、当然、首に残る索条痕の幅も縄三本分に、それだけ太くなるわけだよね。それにどういう意味、目的があったのか……。本来の索条痕と齟齬を出さないためだ。つまり、畠中先生が首吊りに使ったロープ状の何かは、普通の縄よりももっと太くって、それを隠すために、犯人は縄を三重にしたんだ。そんな太さで、首吊りに使えるようなロープ状のものって、なんだろう……。そう考えたとき、思い浮かんだのが……」
 川からの寒風が吹きつけた。クマヲは上着の襟を引き合わせてから、
「犯人は、回収したマフラーの両端を切断したんだと思う。枝に結ばれていた部分と……畠中先生の首に食い込んでいた部分だ。木片や畠中先生の皮膚片なんかが残っているかもしれないからね。入念に洗濯もしたと思う。生地が縮んでしまうくらいに……。でも、鑑識が徹底的に調べたら、もしかしたら何か残留物があるかもしれないけど」
「……かもね」
「ねえ、どうして犯人は、回収したマフラーを処分してしまわなかったんだと思う?」
「きれいだった思い出まで捨てることになるって……そう思ったんじゃないの……」
「そんなマフラーを、他の誰かにあげちゃうことって……あると思う……? どういう意味があったんだろう……」
 その質問に美香は答えなかった。二人の間を、さらなる冷たい風を吹き抜けた。
「……ふう」美香は、大きくため息をついて、「ねえ、クマヲ……今日は、マフラーしてないんだね……」

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