名探偵創造 ー天童アキラ最初の事件ー
プロローグ ≪試行AE#3を開始します≫「V山荘殺人事件」
雪が、降っていた。
犯人が存在しない殺人事件。
そう呼ばれる未解決事件がある。V山荘殺人事件。推理小説マニアなら誰もが知る、現実の謎だ。
十年近く前、冬山の中腹に建つ小さな宿で、ひとりの宿泊客が密室の自室で刺殺死体で発見された。
V山荘は、近隣のスキー場が閉鎖され、経営が傾いていた。
主人は半ば投げやりに、信じがたい格安の宿泊プランを打ち出した。その結果、集まったのは奇妙な顔ぶれだった。
節約旅行に目を輝かせる大学生。冬山登山に初挑戦するというビギナー。「こういう怪しい企画が好きで」と笑う世捨て人等々。それぞれが、それぞれの理由でV山荘を訪れた。
年齢も、職業も、目的も、何ひとつ共通点がない。つまり誰にも、被害者を殺す動機がない。
事件当夜山荘には、客が六名、主人が一名。全員が見知らぬ同士で、到着したその日に初めて顔を合わせた。共通の知人もいなければ、事前の接点も一切ない。
そして――犯行時刻、被害者を除いた六人全員にはそれぞれアリバイがあった。
更に、密室。凶器も見つからない。
吹雪に閉ざされた山荘に、外部から侵入者が現れ、犯行後に立ち去ることも不可能だと思われた。
それでも、死体はそこにあった。
警察は総力を挙げて捜査し、メディアは連日センセーショナルに報じた。
だが、犯人は特定されないまま捜査は打ち切られ、事件は今なお未解決として語り継がれている。
現在でも、新たな考察動画やまとめ記事が定期的に更新され続けているほどに。
動機なし。機会なし。手段なし。
それでも事件は起きた。V山荘の、あの雪降る夜に。
この事件を解き明かせる名探偵は、この世界のどこかに、存在するのだろうか?
1 探偵・天童アキラ・ダイジェスト
天童アキラにとってどのような事件も解決して当然というものではない。彼は確かに、事件の真相を直感的に見抜く才能がある。その自負はある。だが同時に、それに頼っていては事件を解決できないということも痛いほどわかっていた。だからこそ、地道な捜査を行う。それで直感の裏付けをしていって、その先にあるのが事件の解決なのだ。
「で、まだ現場にはついてませんけど、警部の中ではどうなんです、事件の絵、描けてるんですか?」
「概要を聞いただけですよ。現時点では把握できているのは65%程度。このまま捜査に突入しても早期解決の確率70%。ただ――」
言いながらも動かしていた天童の足が止まる。ようやく、見えたからだ。真っ白い雪を屋根に被ったこじんまりとした山荘が、木々の間に見える。
「あれが、V山荘ですか」
「ふいー、ようやくですね」
部下たちがめいめいに喋る。
「雪のせいで車で直接乗り込めませんでしたからね。捜査前に体力を消費してしまいました。推測される業務効率83%に低下」
呟いてから、
「よし、行きましょう」
天童が歩行を再開する。部下たちもついてくる。
狭い。
それが、V山荘を見て回った最初の感想だった。この狭さ、そして単純さは考えることが少ないという点ではありがたい。だが。
「工夫のしどころがねえなあ」
殺害現場である客室の前、廊下を見渡しながら、呟く。アンパンを齧る。
「天童警部補」そこに、部下の一人が駆け寄って来る。「用意、できました。今回使ってなかった客室を取調室ってことでいいですね」
「おうご苦労さん。じゃあ、一人ずつ話を聞くとするか」
本来ならば署に呼び出して一人一人取り調べをしたいところだが、立地が立地なので、まずはこの山荘で一気に関係者の話を聞いてやろうという流れだ。
だがそれにしても、と天童アキラは思う。厄介なことになりそうだ。さっき触りだけ聞いたが、どうも全員にアリバイがあるらしい。更に、この狭さとシンプルさ。
「長い付き合いの事件になりそうだねえ」
天童は独り言を言う。煙草が吸いたくなってくる。娘に禁煙を命令されたが、捜査中にはついつい吸ってしまう。
これまでの長い経験から、こういう事件の方が手ごわいことを天童は知っている。よれたネクタイをぐい、と引っ張って、気合を入れ直す。
天童は床に張り付くようにしてドアと床の隙間を観察する。
「うーん」
「何か分かったか?」
相棒役の先輩刑事、長谷川からの質問に、
「うーん」
もう一度天童アキラは唸る。
「おい、聞いてるか?」
「聞いてますけど、うーん、何もないですね。不自然なこすれた後や破損はなし。まあ、普通の経年劣化だけです。ワイヤーとか使ったトリックじゃあないっすね」
「あっそ」
「興味ないんすか?」
「まあな。正直、密室がこの事件の解決にそこまで関係あるとは思えん。そもそも他の六人にはどうも時間的に犯行が不可能だからな。それこそ、何かの偶然で密室になったってだけの話かもしれんだろ」
「素晴らしいですね、先輩」
突如として天童は立ち上がる。
「おお、どうした、てっきり密室馬鹿にするなって泣きながら怒ると思ったが」
「そんな人間だと思われてたんですか、先輩? マジ? それはともかく、正直なところ、僕も同意見です。まだどうやって密室が成立したのかは分かってませんが、何故密室になったのかについては、偶然というのが可能性としては高いと思います」
「偶然ねえ。自分で言ったことだが、そんな偶然に密室ってできるものなのか?」
「そもそも密室が出てくるミステリは犯人が計画的に密室をつくったものばかりなのかというと、そんなことはありません。犯人の意図しない密室になったパターンはかなり多いですよ。どうしてかというとですね」
「短めに、かつ、今回の事件に関係ある話に限って頼むわ。多少乱暴でいいから」
長谷川がそう口を挟むと、横で現場の見張り役をしていた警察官があからさまにほっとした顔をする。副流煙扱いされている。
天童アキラは、凶器にしか興味がなかった。
アリバイ、密室、動機の不在、全て枝葉にすぎない。凶器という確実な物証を確定できれば、それでこの事件は解決できる。そう信じていた。
だから、聞き込みは部下に任せて、さっきからずっと検視調書を読み直している。
「ナイフ……」呟く。「傷口が浅いから、細かい形状までは不明瞭。それでも分かることは多い。刃長10㎝以上の、おそらくはキャンプ用ナイフ。折り畳み式ではないもの。山に持ってくる分には銃刀法違反にはなりにくい。ふむ。犯人はおそらく右利きか。確か、この山荘内の連中は全員右利きだったな?」
「え? あ、ああ、ええ、はい」
いつの間にか独り言が質問に変わっていたことに急に対応できなかったらしく、部下がしどろもどろになりながら答える。
「ここで絞るのは難しい。さて、やはり、凶器の現物を手に入れるのが一番だ。だが、どうかな」
ぶつぶつと呟きながら、天童は事件現場である相原の部屋を歩き回る。開かない窓、バスルームや排水溝、トイレのタンクの内部までも一通りチェックする。もちろん、先に徹底的に捜査が行われた後だ。何も見つかるはずもない。それでも、何か痕跡かヒントが隠れていないかと探したが、やはり何も見つからない。
あの『V山荘殺人事件』から1週間、天童アキラは冬だというのに流れる汗をハンカチで拭っていた。
仕事柄、歩くのは慣れているが、それにしたって老人にはこの坂はきつすぎる。九十九折の坂が、もう何メートル続いているだろうか。
しかし、ようやく見えてきた。目的地である安アパート。
とりあえず、冷えた麦茶でももらおうと決心して、天童は足をはやめる。
残念ながら冷えた麦茶は用意されておらず、水道水をコップに注いだものが提供される。それでも、とりあえずそれを一息に飲むことで天童アキラは人心地つく。
「すいませんね、こんな辺鄙な場所で。まあ、立地もあって安いんで」
部屋の主である佐久間は屈託なく言う。
「いえいえ、お気になさらず」
にや、と親しみやすいと評判の笑顔で答えながら、天童は油断なくこの大学生の顔を観察する。
気にしていないように振舞っていながらも、緊張が隠せていない。だが、それは当然だ。刑事が事情聴取に自宅まで来ているのだから、緊張するのが自然。まだ、引っかかるものはない。
目の前の人間の嘘を見抜く。それが天童の得意分野であり、使命であり、そして娯楽だった。表情、口調、視線の揺れ、それを総合した感覚的なもので相手の嘘を見抜く。見抜くだけでなく、逃げ道をつぶして、ゆっくりとその嘘を起点に目の前の人間の化けの皮を剥いでいき、窮地に突き落とす。合法的なハンティングだ。その時の快感といったらない。
好々爺じみた顔の裏で、天童は舌なめずりをする。
「その、ちょっといいか」
横で二人のやり取りを眺めていた村上が、強張った顔で話に入って来る。
「気を悪くしないで聞いてほしいんだが」
「はい」
「さっきの説明で分かったように、俺たちには犯行は無理なはずなんだ。で、そうなるとだな、やっぱりあんたが怪しいんじゃあないかって話になるんだが」
「ああー、なるほど」天童はさもありなんと頷く。「つまり、たった今命からがらここに辿り着いたっていうのは嘘で、ずっとこの周辺にいたと」
「僕、その」そこで佐久間が入ってくる。「実はその、見たんだ。ちょっと前、吹雪の様子を見に外に出た時、人影みたいなものを」
一気に場の空気がざわつく。
「どうして言わなかったんだ」
大友が噛みつく。
「いや、見間違いだろうと思ってたんだよ。人が死んでるんだから、滅多なことは言えないし。でも、なあ、あれ、天童さんだった、ってことはないよな?」
周囲の目が一段階険しくなって天童に向けられる。
「ちょっとやめましょうよ。天童さん、今来たばっかりで――」
久美子が庇うように一歩前に出るが、
「いえいえ、構いませんよ。確かに、あたしが一番怪しいのは確かです。それに、佐久間さんのお話も興味深い」
ふむ、と考え込む天童に対して、逆に周囲は困惑する。
「ねえ、あなた、その、不安じゃあないの? この状況で、自分が犯人かもって疑われて」
絵里の問いかけに、
「皆さんが今にもあたしを私刑にでもしようって雰囲気なら不安ですけどね、そういう状況でもないみたいですから、今いくら疑われても警察が来てちゃんと捜査してくれるなら大丈夫でしょう。それに、こういう場面はある程度慣れているんで」
更に周囲が困惑する中、天童は続ける。
「あたしは天童アキラって言うんですけど、叔父は天童兜。警視総監をやっているんです」
リビングで話を聞き終えた探偵、天童アキラは、そのぼさぼさの頭をかいて「あー、そうなんですね」とだけ言う。
探偵と名乗ったくせにそれだけか、と周囲の全員が白い目を向ける中、まるで天童は気にすることもなく、きょろきょろと周囲を見回している。山荘の構造に目を向けて細かい場所を確認している。
「ポスターの類はなし。カレンダーも貼られていない。リビングから伸びる廊下は直角に曲がっている。そう、直角」
ぶつぶつと天童は呟く。
「どうか、されましたか?」
自分の山荘を声に出してチェックされた神崎は声をかける。
「ああ、いや、えーと」言いながら天童はその場に、床に寝転がった。「あー、はいはい」
これには、全員が唖然として声もかけられない。
天井をじっと眺めていた天童は、溜息をついてから、その場でばたばたと両手両足をばたつかせる。ほこりが舞う。そうして、また溜息。「最悪だ」と呟く。
「最悪なのはこっちだよ」
ぼそり、と強張った顔で佐久間が言う。顔色が悪く、あからさまに天童を警戒している。
天童は起き上がって、ポケットからナッツを取り出すとそれを頬張りながら、
「うーん、誰でもいいんですけど、えーっと、水野さん、ですっけ?」
「え? な、何?」
いきなり名指しにされた絵里の目が泳ぐ。もちろん、やましいところがあるからではなく、天童に戸惑っているのだろう。
「水野さんのお勤めの会社ってどこですか?」
「え? えっと、黒恵比寿商事ってとこ、だけど、それが?」
「部署は?」
ごくん、とナッツを胃に送り込んでなおも質問を続ける。
「け、経理……」
「同僚って何人くらいいますか?」
「おい、いい加減にしろ、事件と何の関係がある?」
横から耐えきれないといった様子で大友が入ってくる。
「まったくもって、関係ないです」
平然と言って天童は突如として自分の着ているトレーナーを両手で横に引っ張る。トレーナーに描かれている謎のキャラクター、「MORIのクマヲ」の顔が横に引き伸ばされて無残なものになる。
「うおおおおお」
雄たけびと共に更に天童は引っ張り、元は熊のキャラクターだったクマヲが横長の楕円になったところで、唐突に引っ張るのをやめて、
「ところで大友さんって血液型はBですか?」
「はあ? ど、どうして分かった?」
姿勢でも表情でもドン引きしながらも、何とか大友が反応する。
「あ、当たったんですか、偶然ですよ。で、Bってことはご両親の血液型は?」
「いい加減にしろ、さっきも言ったがそれが事件に何の関係が――」
「だから関係ないですって」
「君は、事件の捜査をするつもりはないのか?」
今度は村上が困惑しきった顔でそう尋ねる。
「するわけないですよ、そんな面倒なこと」
あくびをして天童は視線を彷徨わせて、
「じゃあ最後に、高橋さん」
名を呼ばれて久美子はびくりと体を震わせる。
「な、何かしら?」
「うーん、何でもいいんですけど、嫌いな食べ物ってあります?」
「えっ、えーっと、特に、ないかしら」
「本当に? 食べることはできるけど、そこまで好きじゃないってやつでいいですから」
「本当にないわよ」
「そこをなんとか」
「しつこい!」
最後には久美子は怒り出す。
「じゃあ好きな食べ物は?」
「……お刺身、かしら」
「特に好きな刺身は?」
「ねえ、ちょっと、どういうこと? 頭がおかしくなりそうよ」
久美子の非難を無視して、天童は髪をかきむしってうーん、と唸ってから、
「じゃあ、ちょっと僕は自分の部屋にとりあえず行きますね」
と、あっさりと言う。
「ど、どうぞ」
かろうじて返事をした神崎から鍵を受け取ると、天童は階段をだらだらと上がる。トレーナーは伸びきってポンチョのようになっている。
自室に入るとドアを閉めてベッドに仰向けに倒れ込む。
「あーあ、面倒だ。面倒すぎる」
ぼやきながら、パンパンに膨らんだパンツのポケットをまさぐり、中から鰹節を取り出すと、
「おらおらー」
力の入っていない掛け声と共に、その鰹節を部屋中にぶちまける。
その有様を、超人的な能力を持つはずの探偵の奇行を、僕と茶子は唖然として見ている。ほとんど絶望している。
どうして、こんなことになったのか。
そもそもの話は、数時間前に遡る。
2 前提条件説明
元カノから久しぶりに「暇だったら来て」と言われて下心なしに向かう男がいるだろうか。いや、いない。
可能性は低い。もちろん、僕だって分かっている。
その元カノがかなり変わり者の理系タイプでそういう意味でメッセージを送ってくるような女性ではないだとか、「来て」と言われた先が彼女の現在の勤務先、大学の研究室だとか、まあ色っぽい話ではないだろうとは予想はついた。
ついていたが、それでも期待してしまうのが男の性だし、そこは予想していたとしてもこの展開は予想していない。
今、その元カノこと能本茶子が巨大なディスプレイモニターの横で僕に向かって際限なく喋り続けている。
「そういうわけでまあ、金がない。金がないのよ、予算が。とはいっても恵まれてるんだけどね、こいつ――スーパーコンピューターを使わせてもらえる環境だから。とはいっても金がないし、このままだとスパコンの使用だって制限かかるかもしれない。で、私たちの研究でどうにか金が稼げないか、それをずっと考えてたわけ。正直、そんなことに頭使いたくなかったんだけどね。数式数式数式って世界に金、まあ、金も予算も数字だけど、ああ、不純だわ。で、社会学的シミュレーションで一体どうやって金を稼ぐのかずっと悩んでたわけ」
整っている顔をぼさぼさで伸びきった髪でほとんど隠し、羽織った白衣を振り乱しながら茶子は喋り続ける。こちらが口をはさむ暇がない。相変わらずだ。
僕たちがいるスペースは狭い。元々のそうそう広くない部屋を、更にぺらぺらの障壁で区切っている一角だ。机と、その上にキーボード、そして巨大なディスプレイ。あとは僕と茶子がいるとスペースはほぼ限度いっぱいだ。
「で、当然ながら株取引だの仮想通貨だのでは無理。そりゃそうでしょ、そっちを専門にやってるとこが大々的な成果出せてないんだから。もう困ってさ、アイデアないし、で、初心に戻ったのよ、社会学的シミュレーション。つまりさ、研究が社会学的な方面から役に立つって証明して、それで予算をつけてもらう。でもこれって要するに振り出しに戻ったわけで、じゃあどうするんだってなった時にね、つまり派手さなのよ。派手さ。派手な研究で注目を集めたものが勝ちなわけ。で、そこで思いついたのが」
ようやくそこで喉が限界にきたらしく、彼女はビーカーに入っていた白湯をぐいと飲み干す。
「未解決事件を、このシミュレーションで解決するのよ」
ここまで聞いても、結局僕が呼ばれた理由がよく分からない。
「えー、お前の研究だと確か、超大雑把に言うと、物理実験の代わりに社会学的実験をコンピューターシミュレーションするってやつだよな? それを、実験じゃあなくて、未解決事件をシミュレーションするってことか?」
「そりゃそうでしょ。それ以外ある?」
「いや、まあ、そうなんだけど。でも、いいかな、えー素人質問で恐縮ですが」
「やめてよ、そのフレーズ」
「例えばある未解決事件の分かってる限りのデータをコンピューターに入力して、それでシミュレーションをするとしてだな、そこから解決にどうやって持っていくのよ? 一人一人、こいつが犯人だった場合、とか仮定して総当たりでシミュレーションしていくの? でもそれで成立したとしてそいつが犯人だってことにはならないじゃん。矛盾しないだけで。結局、なんか無数に答えが出てきそうな気もするし」
「いいねえ。さすがは大したことのない大学とはいえ論理学で『優』だった男」
「あの教授、目の前でルービックキューブ揃えたら『優』くれたんだけど」
「今言った話を解決するために、私は二つ、手を打った。一つは、題材となる未解決事件を、ただの未解決事件ではなく、『不可能犯罪』にしたの。これで、ありうる答えが無数に出てしまう可能性をかなり削れるわけ」
つまり犯人が誰なのかただ分からないだけでなく、その事件を起こすことがそもそも『不可能』だと判断された事件か。確かに、なかなか考えられている。
「で、もう一つが、そういう不可能犯罪系のミステリー小説を読ませまくったLLMにシミュレーションを監督させるわけ」
どうだ、と茶子は自信満々だがそもそも単語の意味が分からない。
「LLMってなんだっけ、なんか、聞いたことはあるような」
「大規模言語モデル。だーかーらー、つまりスーパーコンピュータによるシミュレーションに、大規模言語モデルを組み合わせたわけよ」
「大規模言語モデル……あー、生成AIだっけ」
「そうそう。いわゆるそれ」
「え? それって、つまり……どうなるんだ?」
「現実の事件をモデルにした精緻なシミュレーションを、ミステリ小説的な考え方を持つ完璧なストーリーテラーが監督するってこと」
よく意味が分からない。
「言い換えると、未解決事件を、ミステリー小説風に調整しながらシミュレートしてもらうってこと。そうすると、当然だけどミステリー小説だったら最終的に事件が解決されるじゃない」
「ああー!」ようやく納得する。「なるほど、要するに、限りなく現実に近いクオリティで未解決事件を元にミステリー小説を書かせると。で、それがミステリー小説として出来が良ければ、その小説の解決が現実での解決にもつながるってことか。えっ、面白いじゃん」
俄然興味が出てきた。めちゃくちゃ刺激的だ。バイト休んで来てよかった。
「褒めてくれるのは嬉しいけど、うまくいってなくてねー」
とたんに、彼女の覇気がなくなる。
「あ、そうなんだ」
「というのも……ああ、初期状態のものを実際に見てもらった方がいいかもしれない」
と、彼女はキーボードを叩く。
「見る見る。面白そうだし。あ、題材は?」
「題材? ああ、未解決事件ね。V山荘殺人事件よ」
V山荘殺人事件は特にそういうのに興味がない僕でも知っている程度には、有名な未解決事件だ。
「あーなるほど、確かに不可能犯罪だな、あれは」
ということはあの事件の真相が分かるかもしれないのか。そう考えた途端、期待で体が少しだけ震える。
「ええっと、じゃあ初期条件で、まあ、まずは見てみて」
障壁の向こうから伸びているケーブルに接続されたキーボードを叩いていた彼女の指が止まる。
モニターに、文字の羅列が流れ始める。
最初は理解できないコードの羅列だが、やがてそれが自然言語に変わっていく。ごく普通の日本語、いや、これは小説だ。
「あ、言い忘れてたけど、負荷軽減も兼ねて、シミュレーションは完全に文字のみでのアウトプットにしているから」
つまり、そのままミステリー小説が流れてきている状態なわけだ。面白い。
「あと、プライバシーの問題もあるんで被害者以外関係者は全員仮名。まあ、ちょっと調べれば本名は分かるけど。えーと、あと何かあったっけ、ああ、それから、とにかく事件そのものについてはデータを入力しまくってるんだけど、反映されるのは証言が二人以上で共通しているものを反映するように設定しているから、誰かが嘘をついているせいでシミュレーション自体がおかしくなっているとかは考えなくてもいいはず」
つまり客観的事実が元になっているシミュレーションということか。じゃあ、叙述トリックとかは疑わなくていいわけかな、とまで考えて、苦笑してしまう。本当にただのミステリー小説を読む前みたいだ。
ともかく、さっそく僕は読んでみる。
3 試行1
≪試行1を開始します≫
吹雪は昼過ぎから降り始め、夕刻には山荘を完全に孤立させていた。風に煽られた雪が窓を叩き、外界との境界を白く塗りつぶしていく。V山荘は完全に陸の孤島となっていた。
「予報通り、雪ですね」
山荘の主人の神崎修一は五十がらみの男で、必要以上に口を開かない。愛想も何もない。この山荘の経営危機には、主人のサービス精神のなさも影響しているのでは、と一部では噂されている。
客は六人。全員が一人客で、初対面だった。
それぞれが自室に荷物を置き、落ち着いてから、特に示し合わせたわけでもなくリビングにぞろぞろと降りてきた形だ。
仕立ての良いコートを脱いでもいない相原慎一は弁護士だという。物腰は丁寧だが、どこか人を値踏みする視線を隠さない。たまたまこの近くで仕事――閉鎖されたスキー場に関する債務整理――があったため、とにかく宿泊費を安く済ませるためだけにこの山荘を選んだ。合理的といえば合理的だが、いきすぎている変人でもあるかもしれない。
「それでは、夕食まで部屋で休ませてもらいます」
一階にに降りきることすらなく、階段の途中でそう言い放って、他の客への挨拶もそこそこに、彼は二階に戻っていく。顔合わせの時間は1分にも満たない。
「愛想のない人ですなあ」
金の腕時計を誇示するように暖炉の前に陣取っているのは、中小企業社長の大友健二。声が大きく、場を支配しようとする癖がある。一番最後に一階に降りてきて、いきなりどっかとソファーの中央に居座るところは、相原とは対照的だ。
「体調が悪いのかもしれませんから」
壁際で静かに紅茶を飲んでいる会社員の女、水野絵里は三十代前半。常に周囲に気を配るような目をしていた。さっきからずっと相槌しか打っていない。
だが相槌を打つだけマシだろう。落ち着きなくスマートフォンをいじる大学生は佐久間亮と名乗ったが、自己紹介以降、ほぼ喋っていない。この山荘が電波が弱いと知っても、癖のように画面を叩いている。
「さっきちょっとお話聞きましたけど、弁護士さんなんですってね、すごいわあ。それに、大友さんも社長さんでしょう?」
人当たりのいい笑顔を絶やさないパート主婦、高橋久美子が大げさに言う。
「いやあ、言っても中小企業ですしね。まあ、火の車ですわ」
「それでもすごいわあ」
「いやいやいや、この山荘に来てみたのも、半分仕事みたいなもんでね。泊まってみていい感じだったら、今度から社員旅行はここにしようかなと思ってるんですよ。なにせ、安いから」
「それはありがたいですね。よろしくお願いいたします」
神崎が仕方なく、といった様子で礼を言って頭を下げる。
リビングの隅で本を読んでいる無職の男、村上直人がそのタイミングで伸びして口を開く。
「夕食は何時ですかね?」
自己紹介によると、彼は定住せずに彷徨っては流行っていない宿に泊まり、従業員や他の客との親交を深め、後日それをブログ記事としてアップするというのを趣味としていた。それなり以上に名前が売れて、単なる趣味だけでなくある程度の収益も手に入るようになっていた。なので、無職というのはひょっとしたら表現が間違っているかもしれない。
夕食は午後七時。あと一時間ちょっと後だ。
相原以外の客はリビングの暖炉の前で談笑をしたり、あるいは山荘をうろつくだけで自室に戻って休もうとはしなかった。あと一時間なのだからわざわざ部屋に戻るほどのこともないだろう、という判断だった。
神崎が厨房に引っ込み、客たちはそれぞれの時間を過ごし始めた。
やがて神崎が料理を用意していく。ビーフシチューにサラダ、焼きたての自家製のパン。ヒラメのムニエル。ここから更にまだ何品か追加をするらしい。なかなかの豪勢さの夕食に、歓声をあげながら客がテーブルに集まっていく。
ところが、もう七時になろうというのに、相原は食堂に現れない。
「ふむ、おかしいですね」
神崎は不審に思い、料理を準備する手を止めて相原を呼びに行こうとするが、
「あー、準備しといてくださいよ。俺、呼びに行きますから」
意外なことに佐久間がそう言って立ち上がる。
数分後、ほどなくして、佐久間は困り顔で戻ってくる。
「部屋、カギ掛かってるし、ノックしても返事がないんですけど。寝てるのかな」
「調子悪そうだったし、寝込んでるのかも」と村上。
「あー、では」と神崎が壁に設置されているキーボックスから鍵を取り出す。「私が行きましょう」
そう言って神崎は料理準備を中断して二階に向かう。
他の面々は早く戻ってきて料理の準備が終わるのを待つ。
だが、すぐに神崎は顔色を失って戻ってくる。階段を転げ落ちるようにして。
「ど、どうしました?」
あまりの様子に久美子が思わず声をかけると、
「……部屋で、倒れてます」
にわかに騒然となり、夕食どころではなくなる。
全員で向かった二階の客室。
相原はベッド脇にうつ伏せに横たわり、すでに動かなかった。倒れている、という言葉から面々が想像していたものと、その光景は大幅に違っていた。
腹部からはコートでも隠しきれないほどに大量の血が大きく広がっているが、争った形跡はなく、刃物も見当たらない。扉には内側から鍵がかかっていた。
完全な、密室だ。
いや、窓がある。窓はガラスが割れていて、そこから吹雪が入り部屋を濡らしている。だが、窓ははめごろしだ。開けることができない。直径10センチもない穴が開いているだけだ。どうやってそこから犯人が出入りするというのか。
誰かが息を呑み、誰かが震えた。久美子は口元を押さえ、絵里は視線を逸らした。村上が腰を抜かす。
全員で、よろよろとリビングに戻る。
数分の沈黙の後、神崎が低い声で言う。
「……警察への連絡はさきほどしました。けれど、この天気です、すぐには来ないでしょう。せめて、皆さんの行動を確認させてください」
犯行可能と考えられるのは、相原が自室に戻ってから夕食まで。その間の行動を、全員が語り始めた。
「まず私から。私はずっと厨房です。ビーフシチューを作っていました」
神崎が先陣を切る。
「俺は暖炉の前だ」大友が即座に言う。「久美子さんと一緒に、ずっといたんだ」
「ええ」久美子も頷く。「社長さんと世間話をしてました」
「私は山荘を散歩していました」
絵里は静かに言う。
「けれど、二階には上がっていません。証明は……ああ、そうだ」そこで彼女にしては珍しく、顔を赤らめる。「その、どうしてもお腹がすいて、いい匂いがしたから何度か厨房にお邪魔していました」
「確かに、三回、厨房に顔を出されて、料理についてご質問をされていましたね」
神崎も認める。
「三回も、ですっけ」さすがに絵里は恥ずかしそうにする。
「ええ。一回目は何を作っているのか聞きに来て、二回目はビーフシチューの作り方について……結局10分くらいは厨房にいらっしゃいましたね。三回目は料理を並べる直前です」
そこから全員で話し合い計算すると、どう考えても神崎と絵里は互いに五分以上連続したフリーな時間は存在していないことになる。とても、二階に行って相原の部屋に入り、殺してから一階に降りることは不可能だという結論になった。
また、神崎が厨房にいたことは別の視点からも証明される。単純に、料理の準備だ。たとえ下準備をほとんど済ませた状態だったとしても、それでも料理の第一弾を七時に完成させるには、よほど手際よくやろうとも三十分は必要なはずとは主婦である久美子の弁。それと途中に絵里が顔を出したことを考えると、やはり神崎に犯行は不可能だ。
「僕は玄関からちょっとだけ外に出ました」佐久間が続ける。「外の吹雪を見たくて。でも寒くてすぐ戻ってきてきましたよ」
大友と久美子が、雪塗れで震えながら戻ってきた佐久間を見た、と同意する。その後はよほど寒かったらしく暖炉のそばにずっといたらしい。
「そういや、その時に吹雪がかなり弱くて、もうすぐ止むんじゃないかと思ったんですけど……」
その佐久間の言葉に、何、と大友が立ち上がって慌てて玄関に向かう。神崎も後を追う。
「本当だ、かなり弱いぞ。雪なんてほとんど降っていない。おい、これなら警察もすぐにこれるんじゃあないのか?」
「落ち着いてください、大友様。吹雪が一時的に弱くなることもあります。予報によると、これから深夜にかけて吹雪は酷くなるそうですので」
と、神崎が宥めて戻ってくる。
最後に、村上は絵里と同じく山荘内を散策していたと言う。ブログのネタになるものがないか探していたと。「水野さんとも何度か会ったよね、ボイラー室の前とか」
「ええ、確かに」絵里が認める。
「でもそれ以外は、えー、別に誰かと絡んではないからな……」
「いや、ちょっと待って。あたし、村上君を見てたよ」と予想外に久美子が言う。
「え?」当の村上がぴんときていないが、
「あたしは大友さんと話してたんだけど、その大友さん越しにふらふらしてた村上くんを何度も見ました。見間違いじゃあないわ」
リビング内での座り位置で、久美子の場所からのみ、散策中の大友を目撃できたのだ。
「言い方は悪いけど、とにかく落ち着きなくうろちょろしてたからね、ぼほほぼ三十分間ずっと見ていたようなもんよ」
全員に、互いの目撃談がある。吹雪のせいで外部犯行も考えにくい。
「……じゃあ、誰がやったんですか」絵里の声が震える。
誰も答えられなかった。疑いの視線が、ゆっくりと部屋を巡る。吹雪はさらに激しさを増し、山荘は不安と困惑を抱えたまま、長い夜へと閉ざされていった。
翌日、警察が到着して捜査が始まっても結局のところ、事件は進展しなかった。凶器も見つからず、動機も不明。そして部屋の鍵は被害者のポケットから発見された。
全員にアリバイがある奇怪な密室殺人事件、V山荘殺人事件としてセンセーショナルに報道され、連日の捜査、報道合戦、真偽不明の情報や噂が飛び交い、そして、そのまま。
V山荘殺人事件は、未解決事件として未だに語り継がれている。
≪試行1を終了します≫
4 試行1のフィードバックあるいは名探偵創造
「なにこれ」読み終えて、即座に第一声が勝手に出てくる。「未解決で終わったんだけど」
「そうね」茶子は頷いて、「で、どう思う?」
「え、いや、そうだな、まずミステリ小説としても面白くない。解決してないのもそうだし、そもそも小説として出来が悪くない? いくらなんでも」
読んでいてちょっと気持ち悪くなっていた。
「なんか、地の文に『意外にも』とか『かもしれない』みたいな表現があるんだけど、そもそもあれだよね、この小説ってさ、いわゆる神の視点だよね。第三者視点で、視点人物がいない。だとすると『意外にも』とか『かもしれない』ってだれの感想なんだよって話だし」
めちゃくちゃ小説として不自然だ。
「お、いい視点ね。そうそう、こうなった理由は簡単でLLMに読み込ませたミステリー小説が、多分一人称だったり三人称でも視点人物がいるのがほとんどだから、こういう神の視点にしてるのにそれが混ざっちゃうんだと思う。まあ、これは別にいいのよ、別に。ともかく、根本的問題は解決してないことよね」
「だねえ」
それが目的でこのシミュレーションしてるわけだし。
「でね、これも理由は簡単で、そりゃあこの状況で解決するはずがないのよ。もっとも、私も何度も試行錯誤してようやく気づいたんだけど」
「ん?」
どういうことだ?
「もっというと探偵役がいないのよ。探偵役がいないのに解決するミステリー小説なんて基本ないじゃない」
「あー」言われてみれば。「いや、でも、登場人物のうち誰かを探偵役にして解決編まで書いてくれないの?」
「できないわよ。だって、そもそもこの登場人物のうち誰が犯人なのかが分からないんだから。犯人かもしれないやつを探偵役にはできないでしょ」
そういう小説もあるにはあるんだろうが、結構な変化球だ。オーソドックスに考えればその通りで、つまりこのシミュレーションでは解決編を書きようがないことになる。
え、おいおい。つまり、もう詰んでいるじゃあないか。
「じゃあ、終わりじゃん」
「だから、あんたを呼んだのよ」
「僕を? どうして?」
「わたしたちがこれからやらなきゃいけないこと。それは、シミュレーションの初期値を改変して試行することなの」
「初期値を、改変?」意味がよく分からない。「つまり?」
「つまり、わたしたちで探偵役を創造するの」
名探偵を創造するのだ、と彼女は言った。
探偵役を創造する。言葉の意味は分かるが、実際に何をするのかが分からない。
茶子がキーボードを操作すると、画面にこれまでとは別のコンソールが出現する。
「ほい、これも自然言語で入力すればいいように設定してあるから。ここに、あの事件に参加する探偵役を打ち込んでもらいたいの。そいつを主人公にしてシミュレーションを行う」
「ええと、つまり」頭の中で整理しながら口に出す。「さっきまでの話に、オリキャラを登場させるってことか。僕の考えた最強の探偵、みたいなのを」
「まあ、そういうことね。それも、できるだけ詳細に設定を打ち込んでもらった方がいい。ただ、いくつか注意点があるの」
言いながらキーボードを差し出してきたので、僕は注意点を最後まで聞かずに打ち込み始める。こんな興味深い作業があるだろうか。
「その1。これも色々試行錯誤して分かったんだけど、探偵役は事件が起こった後に登場するように設定してある。宿泊客の一人が探偵役って方法はとれないんで、そのつもりで。だから、捜査に来た警察官の一人を探偵役にするのがオーソドックスだと思うわ」
「へえ、なんで?」
「事件前からいる新しい客を探偵役として登場させると、高確率でその客が犯人になるから」
「えっ、いや、ああー、そうか、そりゃあそうか」
よく考えたら当たり前だ。だって既存の客には犯行が不可能(と思われている)な事件なのだから、それに客を新たに増やしてやり直したら、その新しい客が犯人になる話が一番容易だ。
「それから、事件が起きる前に探偵役を投入するってことは、要するに介入によって現実の事件とは変わっちゃうことを意味するじゃない。だから、もしそれで解決まで話が進んだとして、現実の事件は解決できない可能性だってあるわけ」
なるほど、と僕は舌なめずりしながら打ち込み続ける。とにかく、事件の後にめちゃくちゃ最強の名探偵を創造して、絶対に事件を解決するようにしてやればいいわけだ。
『三十代男性。切れ者の刑事。一匹狼で推理のみで犯人を追い詰めることを得意とする。今までの事件解決率は100%。見た目は男でも見惚れるような美男子で、誰しもが彼の前では本心を喋ってしまう。また運動能力はオリンピック選手並みで、格闘で負けたことは一度もない。事件に関わった瞬間、直感的に事件の真相を見抜き、彼にとって捜査や推理はその直感の裏付け作業にすぎない。データを重視しながら直感にも優れ、その両輪でどのような事件も簡単に解決していく』
「いやー、どうだよこれ。ここまで最強の名探偵だったら事件なんてすぐに解決するだろ」
「あー、いや、これは多分、ダメだと思う」
渋い顔で茶子は首を振る。
「え、なんでだよ」
「注意点の二つ目なんだけど……まあ、これも実際に見た方が早いか」
言いながら、彼女はキーボードを引き取ると何やら作業をして、
「じゃあ、これで次の試行が始まるわ」
とエンターキーを押す。
かちり、と音がして、次の物語が始まる。
5 試行2及び試行2のフィードバック
≪試行2を開始します≫
(捜査開始までは省略)
事件の翌日、真っ白い雪道を天童アキラは息を切らすこともなく上がっていく。
「ちょっと、天童警部、すいませんが、もう少しだけペースを落としてください」
部下の一人の泣き言に、俳優のように整った顔の眉を少しだけ上げて、天童は歩みのペースを緩める。
「V山荘で殺人。吹雪の山荘で殺人とは、できすぎですね。難事件かもしれません」
呟く。
「またまたあ、警部ならどんな事件も難事件じゃあないでしょ。なんたって解決率100%なんだ≪注意:非現実値が基準範囲から逸脱しています≫から」
別の部下の能天気な発言に今度こそはっきりと天童は眉を顰める。
天童アキラにとってどのような事件も解決して当然というものではない。彼は確かに、事件の真相を直感的に見抜く才能がある。その自負はある。だが同時に、それに頼っていては事件を解決できないということも痛いほどわかっていた。だからこそ、地道な捜査を行う。それで直感の裏付けをしていって、その先にあるのが事件の解決なのだ。
「で、まだ現場にはついてませんけど、警部の中ではどうなんです、事件の絵、描けてるんですか?」
「概要を聞いただけですよ。現時点では把握できているのは65%程度。このまま捜査に突入しても早期解決の確率70%。ただ――」
言いながらも動かしていた天童の足が止まる。ようやく、見えたからだ。真っ白い雪を屋根に被ったこじんまりとした山荘が、木々の間に見える。
「あれが、V山荘ですか」
「ふいー、ようやくですね」
部下たちがめいめいに喋る。
「雪のせいで車で直接乗り込めませんでしたからね。捜査前に体力を消費してしまいました。推測される業務効率83%に低下」
呟いてから、
「よし、行きましょう」
天童が歩行を再開する。部下たちもついてくる。
ただ。
口には出さず、脳内で先ほどのV山荘の発見で中断した発言を再開する。
ただ、分かっていることがある。
天童の直感によれば、この事件の犯人はひと≪エラー:非現実値オーバーフロー≫
≪試行2を終了します≫
なにこれ、と僕は思う。
「なにこれ」実際に口にも出す。
「エラーで強制終了」
見れば分かる。
「最初自分でシミュレーションを動かしてみたら、出てくる推理や展開があまりにも荒唐無稽だったのよ。矛盾した真相が出てきたりとか、突然謎の登場人物が出てきたりとか、天文学的な確率の偶然が重なったりとか、使い物にならなかったの」
茶子が喋り始める。
「まあ、ありそうだね」
現実でどうやっても解決できない事件を無理矢理解決させようとしたら、現実離れしたものになるのは当然と言えば当然だ。
「なんで、非現実的になったら現実的な路線に戻す、調整用のプログラムも同時にはしらせるようにしたわけ。一応、マズそうになったら警告とかも表示されるようにね」
「あー、途中に出たのがあれか」
そうなると、終わり方も納得できる。
「つまり、修正不可能なくらい現実離れしそうだと、エラーが出て強制終了ってことか。えーと、僕のつくった名探偵何がそんなにまずかったかな」
「そうねえ。とりあえず、あんまり完璧すぎる存在だとそれだけ非現実的だから危ないみたい。特に今回、ほら、解決率100%とかやってたでしょ」
「あー、確かに。さすがにやりすぎたか」
「そうそう。多分、それに合わせて探偵の能力とかパーソナリティとかこれからの展開とかが動いていきそうになって、結果として非現実的すぎて強制終了したんでしょうね」
これはなかなか難しいな。
「じゃあ、ものすごい推理力のある探偵とかはまずいってことか?」
「うーん、その長所とつり合いが取れるような短所を設定していたら、ある程度はいけるわね。私の経験上」
「なんか、本当にゲームのキャラクターメイキングみたいだ」
ステータスに限られたポイントを振って、得意な分野と苦手な分野を作り出す、みたいなものか。
「こっちは表層的には数値で管理していないから、どこまでやったらエラーが出ちゃうか予想するのが難しいんだけどね。かなり感覚的、経験的になっちゃって」
不満げに茶子が腕組みする。
「ともかく、これであんたを呼んだ理由、分かったでしょ?」
「うん?」
よく分かっていない。
「付き合ってた時もずっとさ、なんとかの野望みたいなゲーム、オリジナル武将つくっては、あとはオートでそいつが天下統一できるかどうかをずっと酒飲みながら見てたじゃん。私、それをずっと横で見させられたんだけど」
「いやあ……そうだな、確かに、僕、そういうのが好きだけど……じゃあ、まさか、それ? その理由で僕、呼ばれたの?」
まあ、確かに最近も国をつくった後はほぼ眺めていくだけのゲームを連休をつぶしてやってしまったくらい、そういうのが好きだ。
現に、彼女の思惑はうまくハマっている。自分の中でむらむらとゲーマー魂が燃え滾っているのが分かる。
うまく調整して、何とか自分の創造した名探偵にこの事件を解決させてやる。
「まずは、前提条件を知りたいんだけど。動画とか週刊誌とかでは色々読んだり聞いたりしたことあるけど、ああいうのってバイアスかかってそうじゃん。さっきの試行でなんとなく分かった気はするけど、『V山荘殺人事件』の何がどう問題なのか、どうして未解決なのか、端的に教えてくれない?」
「ああ、私が打ち込んだ客観的データを整理して要点をまとめて表示するわね」
一瞬で彼女が何かをキーボードで打ち込むと、極めて簡単な『V山荘殺人事件』の不可解な点、謎が一覧で表示される。
『V山荘殺人事件の問題点一覧』
・アリバイの問題。犯行時刻はリビングで全員の顔合わせがあってから夕食の準備ができるまで(長くみつもっても17:30~19:00前)。その間には山荘内の全員にほぼほぼ完全なアリバイが存在する。4、5分程度の空き時間は存在するが、その時間内に犯行を完遂するのは現実的に見て不可能。
・動機の問題。全員が初対面であり何の関係性もない。これは警察の事件後の徹底した捜査でも保障されている。
・密室の問題。ドアには鍵が閉まっており、その鍵は被害者のポケットから発見された。窓ガラスが割れていたが窓ははめごろしであり、割れた穴もサイズ的にそこからの侵入は不可能。スペアキーはリビングのキーボックスの中にあって人目に触れず取り出して戻すことは困難。また、そもそも密室の意図が不明。
・凶器の問題。凶器は発見されていない。身体検査や山荘内を捜査しても見つからなかった。雪が解けた後に周辺の山狩りを行ったが、やはり凶器と思われるものは見つかっていない。
・外部犯の問題。警察の最終的な見解は外部犯によるもの。だが外部犯の存在にはいくつか無理がある。大きなものは二つ。①タイミング。雪山の山荘に偶然現れることは考えにくく、そうなると犯行は計画的なものとなるが、わざわざ被害者がV山荘に来たタイミングというどう考えても困難な状況を選んで殺す理由が不明。②犯行機会の問題。犯行時間帯に山荘に忍び込み殺害して脱出、これを六人の誰の目にも一切触れることなく行うことが現実的ではない。
「いいね、これをプリントアウトしといてよ。ようし、じゃあ、この謎を全て解いてくれるスーパー名探偵をつくってやる」
僕はやる気に満ち溢れてくる。
6 試行3及び試行3のフィードバック
『ベテラン刑事。とにかくしつこく、担当した事件が解決するまで決して諦めない。見た目は冴えない中年男性だが、その綿密な捜査能力、そして継続能力から周囲から信頼を置かれている。またベテランならではの刑事の勘はするどく、彼の直感が事件解決の糸口になったことも多々ある』
≪試行3を開始します≫
(捜査開始までは省略)
狭い。
それが、V山荘を見て回った最初の感想だった。この狭さ、そして単純さは考えることが少ないという点ではありがたい。だが。
「工夫のしどころがねえなあ」
殺害現場である客室の前、廊下を見渡しながら、呟く。アンパンを齧る。
「天童警部補」そこに、部下の一人が駆け寄って来る。「用意、できました。今回使ってなかった客室を取調室ってことでいいですね」
「おうご苦労さん。じゃあ、一人ずつ話を聞くとするか」
本来ならば署に呼び出して一人一人取り調べをしたいところだが、立地が立地なので、まずはこの山荘で一気に関係者の話を聞いてやろうという流れだ。
だがそれにしても、と天童アキラは思う。厄介なことになりそうだ。さっき触りだけ聞いたが、どうも全員にアリバイがあるらしい。更に、この狭さとシンプルさ。
「長い付き合いの事件になりそうだねえ」
天童は独り言を言う。煙草が吸いたくなってくる。娘に禁煙を命令されたが、捜査中にはついつい吸ってしまう。
これまでの長い経験から、こういう事件の方が手ごわいことを天童は知っている。よれたネクタイをぐい、と引っ張って、気合を入れ直す。
関係者全員の話を総合した結果、現時点で全員にアリバイは成立している。それが、天童、そして部下たちの総意だった。
大量の出血と窓ガラスが割れて吹雪が部屋に入ってきていたことから、法医学的に正確な死亡推定時刻を出そうとするとかなり幅がある。証言から割り出した17時30分から19時前まで、つまり顔を見てから死体が発見されるまで、の方が使える。そして、その時間帯にアリバイは成立している。
「どうなってるんですかねえ」ぼやきながら部下は神崎に用意してもらったサンドイッチを口にする。「どう考えても、誰にも犯行は不可能ですよ」
さっきまでの取調室は、今は捜査員の作戦会議場兼昼食を取るための休憩室と化している。
「だよなあ。そりゃあ、物理的に不可能ってわけじゃあないがな」
天童も悩む。
ずっとリビングで談笑していた大友健二と高橋久美子以外は、連続してずっとアリバイがあったわけではない。
オーナーの神崎修一と水野絵里はキッチンで何分おきかに顔を合わせているだけだし、外を見に行った佐久間亮、それにうろついていた村上直人も誰にも見られていない空白の時間があるにはある。
ただし、どれも五分以内だ。正確なところは分からないが、どうやっても五分以上の時間があるとは思えない。
五分で二階に上がり、被害者の部屋を訪ねて、中に入って被害者を刺し殺して戻って来る。さすがに、現実的ではない。
かといって、共犯が口裏を合わせているとは思えない。それにしてはアリバイが完璧ではない。唯一完璧に近いアリバイを持っているのは大友と高橋だが、隠された関係であの二人が共犯だったとして、そうすると今度はあの二人が他の面々のアリバイを保障するような証言をしている意味が分からない。
八方ふさがりだ。
加えて、
「密室も嫌ですよねえ、地味に」
部下がぼやくが、天童も同感だ。
事件現場は密室だった。はめごろしの窓は割れていたが人が出入りできるようなサイズが開いていたわけではなく、部屋の扉は鍵がかかっていたから、まあ完全に密室と言っていいだろう。その鍵は被害者のポケットの中に無造作に突っ込まれたままであり、スペアのキーはリビングの壁に設置されているキーボックスの中にあった。神崎がスペアキーを取りに行くまで誰もそのキーボックスを開けていないことは、大友・高橋のずっとリビングにいたコンビによって証言されている。
また、付着していた細かいガラス片から、どうやら窓を割ったのは被害者らしいというのが鑑識から出た情報だ。つまり犯人と揉みあっていて窓ガラスを割ってしまった。それは犯行時に犯人が室内にいたことを意味する。
とはいえ、当初、天童たちは事件現場が密室であることをそこまで気にはしていなかった。錠は単純かつ古いサムターンが内側についているもので、このサムターンを外から回して施錠する方法なんぞ無数に存在する。
だが、二つの観点からこの密室が徐々に存在感を増していた。
「密室が嫌な感じになってきた理由。一つは、目的が不明だ」
天童は口に出して思考を整理していく。
単純に、密室にする動機がない。すぐに思いつくのは、犯行が露見するのをなるべく遅らせるため。だが、鍵をかけたところでスペアキーがあって簡単に開けられることは誰でも予想がつく。まさか山荘の部屋の鍵が一つしかないとは思わないだろう。それに、そうやって死体の発見を遅らせる意味もよく分からない。他の六人のうち誰かが犯人だとしよう。その場合、犯人は何らかの方法でアリバイを手にしていることになる。だとすればむしろ、早く死体を発見してもらって自分がアリバイによって犯行不可能だと分かってもらった方がいいはずだ。
「二つ、時間制限」
そう、そして二つ目はさっきの5分以内の時間制限。ただ殺すだけでも5分では現実的ではないのに、そこに更に密室にするための工作を行う時間をどうやって捻出する? しかも、今のところそれをする意味がないように思える工作だ。
「参ったよなあ。ぱっと見は手ごわそうな事件だと思っていたら、掘れば掘るほど更に手ごわくなってくる」
数人いる部下も、全員渋い顔でそれに同意する。
「とりあえず、これ以上は無理ですよね」
サンドイッチを食べ終えた部下が、そう確認してくる。
もちろん天童は、何の確認なのか理解している。
「まあ、限界だろうな。とりあえず全員、関係者は家に帰すしかないか。ああ、やっぱりこの事件は長期戦になりそうだ」
まだ口の中にあるサンドイッチをコーヒーで流し込み、天童は立ち上がる。
掘れば掘るほど更に手ごわくなる事件。
その天童の感覚は間違っていなかった。
この『V山荘殺人事件』の捜査は、その後捜査を進めるにつれて更に暗礁に乗り上げていく形になる。
まず、被害者である相原慎一の殺害動機がどうしても分からない。いくら調べても、他の六人と被害者の間には、あらゆる意味でつながりがなかった。その六人同士も初めてあの日V山荘で会った面々。まるで事件が起きた理由が分からない。相原の財布や時計は手つかずで、強盗のセンもないようだ。
そしてアリバイ。結局あの後、何をどうやってもアリバイを崩すことができない。
凶器も見つからない。当初は、外に投げ捨てたのだろうと思われていた。だから雪解けの後に、徹底的に山荘周辺を調べれば見つかるだろうと。結果は、何も見つからず。凶器は未だ不明だ。おそらくはナイフだと思われるが、それだけ。そして、六人をどれほど調べてもナイフの類を事件前に購入した記録は見つからなかった。
「さすがに犯人があの六人の中にいるのに、どうもできないっていうのは不味いでしょ。天童警部補、仕方ないですよ」
数年後に捜査本部が外部犯説――つまり、あの日吹雪の中何者かが山荘に侵入して相原を殺害して逃げて行ったという説――に舵を切った上で、事件に見切りをつけようとしていた気配が伝わってきたその日、部下にそう言われて天童は黙って肩をすくめた。
署の休憩室で缶コーヒー片手にした会話は結局愚痴や言い訳で終わることが多い。
そう、仕方がない。
噛めば噛むほど味がする、ではないが、検証すれば検証するだけ犯行が不可能に思えてくる。それがあの事件だ。
ずっと長年天童は追い続けていたが、追加で情報が判明する都度、更に事件解決が遠のく感覚がある。あの六人のうちの誰かが犯人だと考えるよりは、確かに本部のように謎の外部犯によるものだと考えた方がまだマシなのかもしれない。
だとしても、しつこいのが天童のアイデンティティだ。一度関わった事件は解決するまで噛みついて離さない。
「だっていうのに、天童さん、今日もですか?」
「まあ、空いた時間をどう使おうが俺の勝手だろ」空き缶をゴミ箱に放ると、天童は休憩室を後にする。今日もあの『V山荘殺人事件』の捜査だ。個人的な。
ただ、今日は少しだけ期待している。
何故なら、今まで話を聞けなかった人物に聞き込みをすることができるのだから。
被害者の弁護士、相原慎一の学生時代からの友人だ。事件の少し前にも相原と食事をしたと記録にある。ただ、その後に海外に出張となり、今日にいたるまで一時帰国すらしていなかったのだ。天童以外の刑事がリモートで一応の聞き込みはしたが、そこでは大した情報は得ることができなかったと記録にあった。その彼がようやく先週帰国して、今日の聞き込みの予約を取り付けた。
直接会って話すことで、何か新しい事実が浮かびあがるかもしれない。
古臭い、天童にとっては居心地がよく感じる喫茶店。その隅の席。
被害者の友人であるその男、森はブラックのコーヒーで口を湿らせる。
「未だにあの事件について調べているなんて、なかなか大変な仕事ですねえ、刑事さんも」
「いやいや、解決するまではね、どうしても」
おしぼりで顔を拭きつつ、天童は森を観察する。
写真では見たことがあるが、実際の森は印象よりも大柄な男だった。あるいは、単に太ったのか。
「結構話題になっていますよね。犯人のいない殺人、不可能犯罪、だとか」
「ええ、まあ。ふがいないことです」天童はコーヒーを一口飲んで「それで、森さん、あなたに協力してもらいたいんですよ」
「そりゃあしますがね、刑事さん。今更、何を話せと?」森は眉を寄せる。「事件の直後に別の刑事さんに大体話しましたがねえ」
「お手数かけますねえ。で、ちなみに、その時はどんな話を?」
嬉しいことに喫煙が可能な喫茶店なので、一言許可を得てから煙草に火をつける。
「まあ、相原を恨んでいる奴がいないかとか訊かれましたね」
「なるほど、その時は、何と?」くわえたばこで天童は手帳を開いてメモを取る準備をする。
「そもそも、あいつは交友関係が狭いんですよ。友達は私くらいだし。だから、まあ、ここだけの話、奥さんくらいじゃないですかって話した気はしますね」
確かに相原の妻の名前は一度捜査線上に浮上した。夫婦仲は決してよくはなかったらしく、相原の財産の相続、生命保険の受け取りという金銭的な動機も一応ありうる。けれど、そもそも事件当時に現場におらず、夫とは間逆の南国でのバカンスを楽しんでいたというアリバイが成立していたため、早々に犯人のリストからは外れていた。
「弁護士という職業柄、仕事上でのトラブルや恨みをかっていたという話を聞いたことは?」
同じ事務所の同僚や上司からそのセンは薄いことを既に聞きこんでいるが、一応確認する。
「ないない、ありませんよ」
案の定、森は否定するが、その否定の仕方が少し気になる。
どうして、友人が仕事上のトラブルまでありえないと、断言できるのだろうか。その疑問をぶつけると、
「ああ、刑事さん、相原って奴はね、神経質なんですよ。常にピリピリしてる」
「確かに、そういう人物であるというのは他の方の証言からも出ています」
「でも、それは臆病さの裏返しなんですよ。あいつ、人とトラブルになることを何よりも恐れてるんです。学生の頃からずっとそうなんだ。だから仕事の時もとにかく恨みをかわないように気を付けて立ち回ってるって、よく言ってましたよ」
遠い目をして、森は息を吐く。
「だからあいつが殺されるなんて、不思議でね。そういうのとは無縁の人生を送るために全力を尽くしているような奴だったから。いや、それが行き過ぎたのが原因なのかなあ。奥さんとこじれたのもそれが原因だし」
「へえ、それは?」
これも他の刑事が既に聞き出している話だが、一応掘ってみる。ちなみに、なかなか興味深い内容だった。
「ああ、あいつ、神経質っていうか、なんかあの当時は色々とあってそれが悪化しててね、もう被害妄想一歩手前というか、奥さんが自分の財産と命を狙ってるんじゃあないかって疑い出して、それで夫婦喧嘩になったんですよ。奥さんだけじゃなくて同僚も自分を嫌ってるとか、町ですれ違っただけの人を自分をつけてきているって怯えたりとか、まあ外面取り繕うのはうまい奴だから、私と酒飲んでる時くらいしか言いませんでしたけどね。まあ、ストレスの多い人生だったのかな」
「それは……」驚いた。確かに神経質だという情報はあったが、ここまでだとは初めて出た情報だ。「ちょっと尋常じゃあないですね」
「でしょう? あいつがそもそもV山荘に泊まったのも、ようするになるべく人が少ないとこに行きたかったからだと思いますよ。いや、実はちょっと遠回しに病院に行けって何度か伝えたこともあったくらいでねえ」
森はため息をつく。
一方、天童はそれどころではない。新しく得た情報。事件の解決に寄与するのか。いや、嫌な予感がする。掘れば掘るほど更に手ごわくなる事件。
「その、じゃあ、森さんの、あくまで個人的な推測でいいんですがね」天童は嫌々ながら切り出す。まるで自分で自分の首を絞めているような感覚。「その状態の相原さんが、山荘で自室に閉じこもるのは、自然ですか」
「ああ、そりゃあもう、自然も自然でしょう。外に出て他のお客さんと交流してたって聞いたらびっくりしますよ」
森が笑う。
ここまではいい。吸い終えた煙草を灰皿に放る。
「じゃあ、ですね」天童は一度言葉を切り、覚悟を決めて、「その状態の相原さんは、多分部屋の鍵をかけますよね」
「そりゃあそうでしょう、あの時のあいつが、かけないわけないと思いますよ」
「で、誰か他の客が尋ねてきたら、鍵を開けて部屋に招きますか?」
「えー、そりゃあ厳しくないですか? あの時の末期症状みたいなあいつだったら、精々ドア越しに会話するくらいじゃあないですかね」
「そう、ですよね」
天童は無性に二本目の煙草を吸いたくなるが、経験上短時間に連続して吸うと娘が野生の勘で禁煙を破っていることを嗅ぎつけるので、その欲を押さえつける。
ダメだ。密室に加えて、この件で更に時間的制約が厳しくなる。
その精神状態の被害者にドアを開けさせるだけで時間がかかるだろう。というよりも、どうやって開けさせる? オーナーの神崎ならば何とか説得できるか? それにしても、その会話だけで数分経過することは想像に難くない。
「いや、殺されるとか周囲をびくびく警戒してたから、考えすぎだろってよく言ってたんですけどね、それが本当に殺されちゃうなんて……刑事さん、どうしました?」
いつしか天童は頭を抱えていた。関係者の前だというのに、恥も外聞もなく。
定年までの時間、どれだけ費やそうとも、この事件が解決することはない。刑事の勘が、生涯で初めて、そう囁くのを聞いてしまったがゆえだった。
≪試行3を終了します≫
続きを待っていたが、それ以降文章は進まない。
「え、これで終わり? バッドエンドじゃない」
僕は呻く。
「まあ、こうなるでしょうね」
横でチョコレートをつまみながら見物していた茶子は無慈悲な一言を言う。
「なに、その予想できてました、みたいな物言いは」
「予想できてました」
「なんで?」
「普通に優秀な刑事を探偵役にしても解決できないって。だって、現実にもきっと優秀な警察官がたくさんこの事件に挑戦して、それで解決できてないんだから。シミュレーションなんだから、同じ結果になっちゃうって」
「うーん、正論」
僕は思い切り伸びをして椅子の背に体重をかける。
「でもとはいえ現実離れした能力の探偵役だったら非現実的でエラーだろ?」
「そう。それで私もかなり苦戦してる」
「確かにこれは骨が折れるなあ。あ、そういや探偵役の名前が同じだったね。使いまわししてるな」
「まあ、どうでもいいからそこで新しく名前つくる負荷を減らしたんでしょ。気になるなら名前も設定すれば」
「いや、別にいいや。天童アキラで。うーん、しかし」今回の試行について考えてみる。「やってよかったとは思う。今回ので、僕にも『V山荘殺人事件』がどの程度不可解で不可能犯罪なのか、ようやく感覚がつかめた気がする。けど、半分ってとこかな」
「半分?」
「それがメインの謎だから当然といえば当然なんだけど、今回の話はアリバイにフォーカスしてたよね。けど、密室や凶器の件も結構な謎だ」
「そうね、確かに」
それなのにアリバイの謎だけでコテンパンにされてバッドエンド。これは果てがない。
「うーん、とりあえずいきなり事件を解決する名探偵をつくるっていうのは難しい気がしてきた。これ、よさげな名探偵を創造したらその名探偵が勝手に事件を解決してくれるって考えるのは楽観的すぎるんじゃない? その前に、ある程度この『V山荘殺人事件』について僕たち自身が方向性というかイメージをちゃんと持ってないと、『こういう探偵だったら解決できるだろ』って探偵像がまったく浮かばない気がするなあ」
「筋がいいわね、三回目でそれに辿り着くとは」
茶子が師匠みたいなポジションの物言いをする。
「密室にフォーカスした探偵、そして凶器の謎にフォーカスした探偵、あとは動機か、動機にフォーカスした探偵。こいつらをそれぞれつくって試行することで、この事件の全体的なイメージをまずは僕が掴むべきだと考えるけど?」
「いいと思うわ」
そういうことになった。
7 試行4及び試行5及び試行6
『若い刑事でミステリマニア。特に密室に目がなく、それ関係のミステリは片っ端から読破している。密室のことを語らせるとずっと喋り続ける。ただ、組んでいる先輩の刑事には面倒くさがられながらも、その能力が事件解決に寄与することが多いので信用されている。密室についての推理力はかなり高いが、コミュニケーション能力に難があり身体能力も平凡なので総じて刑事としては平均点』
≪試行4を開始します≫
(事件発生までは省略)
天童は床に張り付くようにしてドアと床の隙間を観察する。
「うーん」
「何か分かったか?」
相棒役の先輩刑事、長谷川からの質問に、
「うーん」
もう一度天童は唸る。
「おい、聞いてるか?」
「聞いてますけど、うーん、何もないですね。不自然なこすれた後や破損はなし。まあ、普通の経年劣化だけです。ワイヤーとか使ったトリックじゃあないっすね」
「あっそ」
「興味ないんすか?」
「まあな。正直、密室がこの事件の解決にそこまで関係あるとは思えん。そもそも他の六人にはどうも時間的に犯行が不可能だからな。それこそ、何かの偶然で密室になったってだけの話かもしれんだろ」
「素晴らしいですね、先輩」
突如として天童は立ち上がる。
「おお、どうした、てっきり密室馬鹿にするなって泣きながら怒ると思ったが」
「そんな人間だと思われてたんですか、先輩? マジ? それはともかく、正直なところ、僕も同意見です。まだどうやって密室が成立したのかは分かってませんが、何故密室になったのかについては、偶然というのが可能性としては高いと思います」
「偶然ねえ。自分で言ったことだが、そんな偶然に密室ってできるものなのか?」
「そもそも密室が出てくるミステリは犯人が計画的に密室をつくったものばかりなのかというと、そんなことはありません。犯人の意図しない密室になったパターンはかなり多いですよ。どうしてかというとですね」
「短めに、かつ、今回の事件に関係ある話に限って頼むわ。多少乱暴でいいから」
長谷川がそう口を挟むと、横で現場の見張り役をしていた警察官があからさまにほっとした顔をする。副流煙扱いされている。
「分かりました。要するにですね、密室にして犯人に何の得があるのかって話ですよ」
「ふむ?」
「まあ、まず自殺に見せかけるため。これが一番オーソドックスですか。でも、今回は該当しないですよね。じゃあ、明らかに他殺で密室をつくるのって何のためか。そりゃあ、密室にしたおかげで犯人には犯行不可能だと思われて別の奴が疑われたら最高ですけど、実際には密室にしたら大抵、犯人だけじゃあなくて誰にも犯行不可能になる話が多いわけです。そしたら、犯人がいないわけないんだから密室の方が間違ってるってなりますよね。少なくとも、密室だからそいつが犯人じゃあない、なんてことにはならないわけです。そうすると犯人いなくなるから」
「まさしくこの事件がそうだな」
「そうそう。アリバイと密室のおかげで誰もが犯行不可能っぽいから、だからこそ捜査が続いてるじゃないですか。この密室が誰かにとっては密室じゃあないのなら意味もあるとは思いますけどね。今回の事件、どうですか。誰にしてみてもこの密室は密室です」
この部屋の鍵は確かに二つのみ。そのうち一つは被害者のポケットに、もう一つはリビングのキーボックスにあった。その状態で部屋のドアの錠がかけられており、窓も開かず他の出入口もない。まさに密室だ。
「ふん、じゃあ、意図は置いといて、だ。それでも敢えてこの部屋を密室にしようとした場合、お前ならどうする?」
「お、いいですねえ。まずは超シンプルなやつからいきますか。単純に、この部屋には本当は鍵がかかっていなかった説です」
「佐久間が鍵が開かないといって戻ってきて、神崎がスペアキーでこのドアを開けたはずだ。それはどうなる?」
「①佐久間と神崎が共犯で嘘をついている。犯人は二人です。まあ、何の関係もない二人らしいからこの説は薄いんですかね。②佐久間がドアに鍵がかかっていると思ったのは勘違いで、接着剤やら何やら他の方法でドアが開けられない状態になっていた。この場合、神崎がスペアキーで開けたののみが嘘なんで神崎が犯人ですね」
「そうだな」
長谷川は顎に指をあてて床を見る。彼が何事か思案するときのポーズだ。
「つまりどちらにしろこの説では犯人は神崎。それから、鍵はかかっていたけど密室ではなかった説もあります。これは実は犯人は鍵を持っていて、皆が死体を発見してパニックになっている時にこっそりと死体のポケットに鍵を入れたっていう、これも単純な説ですね」
「どっちの説でもいけそうじゃあないか」
「まあ、アリバイのせいでどっちの説にしろ犯行は不可能なんですけど、それはまあいいですよ。密室のことだけ考えるならね。問題はですね、繰り返しになりますけど、意図が不明なんですよ。どっちの説も結構リスクあるじゃないですか。嘘がバレるかもしれなかったり、ポケットに鍵を入れるところを見られてしまったりとか。その危険を冒して密室にして、で、なんかいいことあるのかって話です。やっぱり、偶然だとか、あるいは意図的だとしてもせいぜいちょっとした気まぐれで密室になったくらいじゃあないと、筋が通らない気がするんですよね」
「なるほどな。じゃあ、そういう意味で、筋の通った説はあるか?」
「いくつかありますよ。ただ、それはそれで引っかかるところが出てきちゃうんですが」
そう言って天童はつかつかと現場の部屋を出ていく。唐突な行動だが、密室を語っている時の彼のこんな行動には慣れている長谷川は溜息をついておとなしく後をついていく。
天童は一階に降りて、リビングの壁、キーボックスの前に立つ。
「犯人はここから鍵をとって、あの部屋を開錠して犯行、また施錠してから戻ってきてこのキーボックスに鍵を戻した。ただそれだけですね」
「いや、相原が部屋に行ってから、神崎がスペアキーを取り出すまで、ずっとこのキーボックスに近づいた奴はいない。そういう話だろう?」
「ですね。特にずっとリビングで話をしていた大友と高橋がいたんで。なのでこの説はその二人が共犯で嘘をついているか、もしくは二人が見逃してしまったっていうのが前提になります。その時点で多少無茶ですが、この説のいいところは、密室の意図が分かりやすいってことです。ま、そこまで論理的ってわけじゃあないですけど、心情としては理解し易い。鍵のかかった相原の部屋に入るためにキーボックスから鍵をとって、入って殺した。その後は原状回復ですよ。元々鍵が掛かってたから鍵を掛け直してキーボックスに戻す。まあ、なんとなく分かるじゃないですか」
「確かに、そこまで不自然ではないか」
「ただ、この説でもやっぱり引っかかるところはあります。まず、ほら」
天童が指し示すのは、キーボックスについているダイヤルだ。
「当たり前ですけど、このキーボックスの開錠番号を知っているのはオーナーの神崎だけのはずですよね。更に言うと、ここにキーボックスがあってその中にあの部屋のスペアキーが入ってるって情報自体、神崎しか知らないはずです。全員この山荘に泊まるのは初めてなんですからね」
「目ざとくキーボックスを見つけたとしても、その開錠番号も、その中に本当にスペアキーが入っているかどうかも、分かるわけがない、か……確かに、神崎外全員キーボックスについては知らなかったし、神崎も誰にも言っていないと証言がとれてる。じゃあ、この説も犯人がいるとしたら神崎か?」
「となると神崎が大友、高橋が見逃してくれるのを見越して犯行に及んだことになりますけど、さすがに変じゃあないですか? かといって、神崎、大友、高橋の三人が共犯っていうのは……それ言い出したら、この山荘の全員が共犯だってことも言えますからね」
「まあ、もしもあの六人に何らかの接点が見つかったら、その時改めて共犯を考えるってのが妥当なとこだろうなあ。じゃあ、今のところこの説も厳しいか。ということは、天童でもこの事件の密室はよく分からないってことだな」
「あ、まだ終わりじゃないですよ」
天童のセリフに長谷川は顔をしかめる。
「まだ説があるのか?」
「ええ、まあ、でもこれもありがちな説ですよ。つまり、鍵をかけたのは被害者だって説。被害者、腹をナイフで指されたけど、即死じゃなかったんですよね?」
「ああ、ナイフはそこまで深々と刺さっていたわけじゃあないしな。それこそ、血管やら内臓やらに当たってなかったら、軽傷で済んだんじゃないかって話だ。まあ、実際は内臓にも血管にも命中していたんだが。だから、刺された時点では被害者も、犯人ですら致命傷だとは思っていなかった可能性がある」
「そう、つまり被害者は部屋の外で刺されたけど、その時点では生きていて、しかも自分はそこまで重傷じゃあないと判断した可能性もある。それで、犯人から逃れるために自室へと戻り、鍵をかけた。が、そこで動いたために傷から一気に出血して、意識を失い、そのまま亡くなった。ありがちな説ですけど、どうです、これは? あ、ちなみにこのパターンって凶器が刺さったまま部屋に逃げ込むのが多いんですけど、ほら刺された時点ではほとんど出血せずに引き抜いたタイミングで大量出血しちゃって死ぬから血痕から犯行現場勘違いしちゃうやつ、これも良くあるじゃないですか、ええと、でも今回は凶器が見つからなかったってことは犯人がそのまますぐにナイフを引き抜いちゃったんですよね多分」
べらべらべらと一気に早口で喋り通す天童を見て、長谷川は苦り切った顔で天を仰ぐ。
「ん、どうしたんですか、気分悪いんですか?」
「お前のせいでな。あー、で、その説も問題あるのか?」
「そうですね。血液反応は僅かですが廊下からも検出されたんですよね?」
「ああ、本当に微量だから、その説のように廊下で刺されたのか、それとも室内で刺したナイフを犯人が持ち去った際のものなのかまでは分からないが、とにかく血液反応はさっきのお前の説の問題にはならないはずだ」
「ナイフ引き抜かれた時点で大量出血したかどうかは?」
「正確なところは分からんが、傷口を強く圧迫――ようするに傷口を押さえていた場合、しばらくはほとんど出血していなかったかも、しれないそうだ。今のところ言えるのは『即死ではなかったかもしれない』程度だとよ。要するに、しばらく傷口を押さえたまま元気に動きまわっていた可能性は否定できないってことだ」
「ええと、そうなるとそっちはいける。じゃあ、まずいのはこっちですね、声です」
「声?」
「さっき試したんですけど、この山荘だとドアを閉めたら部屋の中で叫んでも音はほとんど漏れません。だから、室内で刺されたなら問題はないんですよ。ところが、室外となると、ねえ」
「まあ、そうか。逃げるのも大事だが、普通は叫ぶわな。助けを求めるか」
「そう。で、そうなった場合、一階にいる面々にその助けを求める叫びは聞こえてないとおかしいはずです。ところが誰も聞いてない。それから、窓はいつ割れたのかって問題もあります」
ああそれか、と長谷川は顔をしかめる。
「室内での犯行なら、犯人ともみ合った時に窓ガラスが割れたっていうので説明がつく。けど、もし室外で犯行が起こったのなら、そこがしっくりいかないわけだな」
つまり、と天童は最終的な結論を高々と叫ぶ。
「今回の密室について、現時点ではお手上げです!」
そして、その後にもこの密室の謎が解かれることはなかった。
≪試行4を終了します≫
『冷静沈着、物的証拠のみを重視する刑事。想像力を駆使する推理を嫌い、現実にあるもののみを注視する。そのため分析能力は桁外れに高いが、事件の解決力自体は並み。事件のタイプがうまくはまればあっさりと解決できることもある。特に重視するのは凶器。無味乾燥な性格の仕事人間で、人に好かれることは稀』
≪試行5を開始します≫
(捜査開始までは省略)
天童アキラは、凶器にしか興味がなかった。
アリバイ、密室、動機の不在、全て枝葉にすぎない。凶器という確実な物証を確定できれば、それでこの事件は解決できる。そう信じていた。
だから、聞き込みは部下に任せて、さっきからずっと検視調書を読み直している。
「ナイフ……」呟く。「傷口が浅いから、細かい形状までは不明瞭。それでも分かることは多い。刃長10㎝以上の、おそらくはキャンプ用ナイフ。折り畳み式ではないもの。山に持ってくる分には銃刀法違反にはなりにくい。ふむ。犯人はおそらく右利きか。確か、この山荘内の連中は全員右利きだったな?」
「え? あ、ああ、ええ、はい」
いつの間にか独り言が質問に変わっていたことに急に対応できなかったらしく、部下がしどろもどろになりながら答える。
「ここで絞るのは難しい。さて、やはり、凶器の現物を手に入れるのが一番だ。だが、どうかな」
ぶつぶつと呟きながら、天童は事件現場である相原の部屋を歩き回る。開かない窓、バスルームや排水溝、トイレのタンクの内部までも一通りチェックする。もちろん、先に徹底的に捜査が行われた後だ。何も見つかるはずもない。それでも、何か痕跡かヒントが隠れていないかと探したが、やはり何も見つからない。
大量の血痕を踏まないように歩き回る。
大量の血液。そう、これも問題だ。被害者のコートの内側を真っ赤に染めていた大量の血液。犯人が返り血を浴びていないことがあるだろうか?
検視調書を読む。腹部の血管からの大量出血。死の直前に大量出血をした可能性。出血量に比較して刺創は小さい。大量出血までのタイムラグがあった可能性あり。血液は天童の好む物証だが、今回は決め手にはならない。少なくとも今のところは。
「凶器。犯人が持ち去ったと考えられる。ふむ。自分の部屋に持ち帰る。荷物に隠す。あるいは身に着ける。だが、徹底的にこの山荘内を調べても、身体検査をしてもナイフは見つからなかった。そうだな?」
「はい」
今度はうまく対応して部下が答える。
「それなら、だ」
部屋から出た天童は一階に降りて、キッチンに向かう。
シンクの横、壁にくっついているマグネット式の包丁スタンドには、今は一本も包丁が刺さっていない。全て、警察に押収されて検査されているからだ。
「ここの包丁が凶器として使われた可能性は低い。形状が違う。ナイフをごまかすために包丁と一緒に突っ込んでいたということもなかった。そうなると、やはり、警察到着時点で凶器は外に捨てられていた可能性が高い、が……窓だが、現場の割られた窓以外から、凶器を外に出すことは難しいんだったな?」
キッチンで捜査をしていたさっきとは別の部下に声をかける。
「はい、そうです。もちろん、実際には山荘に窓はいくつもありますが、冬には吹雪のこともあるので神崎が開けられないように閉め切っているそうです。無理矢理に開けることもできるそうですが、昨夜の吹雪でそんなことをすれば必ず痕跡が残って――」
まだ部下が喋っている途中だというのに、天童は黙ってキッチンを出る。
窓から捨てるとしたら、つまりあの割れた窓の穴から投げ捨てるパターンのみだ。だが、あの窓から投げて落ちる範囲は、さっきから捜査官が必死でローラーで探している。いくら雪があろうと、見つからないということはその範囲には存在していないと考えた方がいい。
考えながらリビングに到着すると、「おい」とそこにいるまた別の部下に向かって唐突に声をかける。
「あっ、天童警部補」
「唯一、外に出るチャンスがあったのは佐久間。間違いないか?」
「は?」いきなり脈絡なく問いかけられて部下は停止するが、数秒してようやく内容が頭の中でつながったらしく、「ああ、そうですね、佐久間です。奴だけが一度、外に出たことを本人も認めていますし、他の関係者もそう証言しています。最初に部屋を見に行ったのも佐久間ですし、どうですか、奴が怪しいと思うんですが?」
部下のその言葉を天童は無視する。
怪しいだの怪しくないだの、心象や動機、そんな不確かなものは天童は興味がない。あるのは、ゼロか1か。そしてそれは確固たる物証からなる。特に凶器から。
とはいえ、その凶器が見つからないのが困りものだ。
しかし、今のところ考えられるのはそれしかない。身体検査でも、この山荘内からも発見されなかったということは、隙を見て山荘の周辺、雪山に捨て去った。それしかない。
「雪解けを待つ、か」
天童は呟く。
そうして、雪が解けて山狩りをしても、それでも凶器が発見できなかった、その時は。
「あるいは、外部犯か」
そう、外部犯による犯行。この吹雪の中を、外からやってきて相原を殺した犯人が、その凶器を持ったまま、また吹雪の中をいずこかに去っていった。そう考えるしかない。ありえそうになくても、凶器のことを考えればそれが当然の帰結だ。
「さて、どっちになるかな」
天童は呟く。
結局、凶器は見つからず、天童の予想通り、捜査本部は外部犯説をとった。そうして、『V山荘殺人事件』は犯人不明のまま、迷宮入りの事件となり都市伝説的に名を広めていくのだった。
≪試行5を終了します≫
『超ベテランで定年間近のいわゆる人情派刑事。被害者、関係者の心情に深く踏み込んで捜査をしていく。取調室で犯人を自白させる、『おとす』のが非常に上手い。周囲からの信頼も厚い。その一方で論理的な考えは苦手で直感に頼り、ハイテク機材にもついていけない昔気質の刑事。また仕事に打ち込みすぎたため、家庭を顧みず、離婚経験あり』
≪試行6を開始します≫
(捜査開始までは省略)
あの『V山荘殺人事件』から1週間、天童アキラは冬だというのに流れる汗をハンカチで拭っていた。
仕事柄、歩くのは慣れているが、それにしたって老人にはこの坂はきつすぎる。九十九折の坂が、もう何メートル続いているだろうか。
しかし、ようやく見えてきた。目的地である安アパート。
とりあえず、冷えた麦茶でももらおうと決心して、天童は足をはやめる。
残念ながら冷えた麦茶は用意されておらず、水道水をコップに注いだものが提供される。それでも、とりあえずそれを一息に飲むことで天童アキラは人心地つく。
「すいませんね、こんな辺鄙な場所で。まあ、立地もあって安いんで」
部屋の主である佐久間は屈託なく言う。
「いえいえ、お気になさらず」
にや、と親しみやすいと評判の笑顔で答えながら、天童は油断なくこの大学生の顔を観察する。
気にしていないように振舞っていながらも、緊張が隠せていない。だが、それは当然だ。刑事が事情聴取に自宅まで来ているのだから、緊張するのが自然。まだ、引っかかるものはない。
目の前の人間の嘘を見抜く。それが天童の得意分野であり、使命であり、そして娯楽だった。表情、口調、視線の揺れ、それを総合した感覚的なもので相手の嘘を見抜く。見抜くだけでなく、逃げ道をつぶして、ゆっくりとその嘘を起点に目の前の人間の化けの皮を剥いでいき、窮地に突き落とす。合法的なハンティングだ。その時の快感といったらない。
好々爺じみた顔の裏で、天童は舌なめずりをする。
あの『V山荘殺人事件』の被害者、そして関係者同士でまったくつながりが見つからなかった初動捜査を経て、怪しいと思う奴を深堀する段階になって天童が目を付けたのは佐久間だった。
唯一、少しの間であろうとも犯行推定時刻の範囲内で外に出たことが確認されている人物。この人物を、徹底的に調べる。それが天童の結論だった。
「でも、あの事件については、本当に全部話しましたよ。もう、あれ以上言うこともないっていうか」
「いや、それは重々承知なんですがね、その上で、何かもしもないかっていうので、我々は動いておりまして。いや本当に、行き詰ってましてね、藁にもすがりたいっていうか。佐久間さんはどう思います? いやね、こっちが調べた限りだと、皆さん全員初対面で、殺したり殺されたりってことが起こる余地がないんですよね。強盗目的ってわけでもないようだし」
「そりゃあ、こっちも同感ですよ」佐久間は目を見開く。「あの殺された人、相原さんですか、元々全然知らない人だし、ましてやあの人はほとんど誰とも口を利かずに自分の部屋にこもってましたからね。そもそも接触がないです」
「でしょうねえ」メモを取り出して、年季の入った鉛筆で一応その証言を書きつける。「佐久間さんからして、あの山荘で、気になったことはありませんでしたか? 何でもいいんですが」
「そんな漠然としたことを言われても」
佐久間が眉を八の字にする。
「相原さんについては、どうです? 何か変なところはありませんでしたか?」
「変なところって言っても、ほとんど喋りもしてないですしね。でも、なんか、正直感じ悪かったですよ、あの人。慇懃無礼っていうんですかね、そんな感じだし、あとこっちを睨んできたりとか」
「なるほどねえ」
相原が神経過敏気味だったという証言が挙げられている。そのためだろう、と天童は納得する。
「とにかくずっと自室にこもってて、全員が揃ったタイミングで挨拶して、で、また自室に戻って終わりですよ。何にも関わりありませんよ。こっちからもいいですか?」
「はい?」
「雑誌で見たんですけど、相原さん、あの人が誰かと揉めてたって、本当なんですか?」
「ああ」天童は苦い顔をする。「調査中です」
週刊誌にすっぱ抜かれた情報だ。
相原のスマートフォンから、死亡推定時刻の幅内である18時20分にアプリを使用した形跡が見つかったのだ。弱い電波の中でも、何とか起動できたらしい。だが、それだけだ。
このアプリを使用したのが被害者本人だとは確定できないのであくまでも犯行時刻の推定に与える影響は限定的だ。
ただ、そのアプリが問題だった。闇バイト御用達の匿名のメッセージアプリ。送り先も不明で、メッセージ自体も時間経過で消えてしまうものだった。どうしてこんなものを被害者が利用していたのか、ということで、週刊誌では被害者が犯罪組織と関係があるとか、山荘内の人間との秘密の関係があったとかで盛り上がっていた。
ちなみに、警察としてはこのアプリは単なる浮気の道具だと考えている。浮気相手の一人である行政書士とそのアプリで連絡を取り合っていたことは確認が取れているので(ただし事件当日の連絡相手は彼女ではなかった)、他の愛人にもこのアプリを使用して連絡していた可能性が高い。他の愛人の存在については調査中だが、感触としては限りなく薄い。
「実際のところ、どうです? 佐久間さんは、犯人、誰だと思ってるんですか?」
埒が明かないと判断して、話を変える意味でも直球で投げ込んでみる。笑いの形に目を細めて、その奥の瞳でじっと標的を観察する。
「外部犯でしょうね」あっさりと佐久間は答える。表情は一切変化しない。「いや、ずっと考えてたんですよ。多分、あの山荘の客は皆そうです。事件の後もずっと考えてたんですけど、やっぱり無理なんですよ、どう考えたって。僕たちの誰も、ほとんど時間がなかったんです。一瞬の間に二階に行ってあの人を刺して、一階に戻ってくるなんて。そんな、プロの殺し屋じゃあるまいし。それにほら、凶器も見つかってないって」
「確かに」
「あの吹雪の中で外から誰か来るっておかしいですけど、でもそうとしか考えられないっていうか」
ふと、佐久間が声を止める。
話し終わった、とも思えるが、その表情に一瞬の逡巡を読み取った天童は、
「どうしました? 何でもいいから、気になることを言ってくださいよ」
ずっと固い革を切り裂いていたのが、ようやく柔らかい肉に牙を突き立てることができる感覚。
「ああ、いや、その、本当に、自信はないんですけど」苦痛を感じているかのように佐久間は顔を歪める。「あの、吹雪がどんなものなのか一度外に出てみたんですけど」
「ええ、そうですね」
天童がここに来た理由の一つだ。
「その時にね、見間違いだと思ってるんですけど、その見た気がするんです」
「何をです?」
「あー、その、いや、本当にずっと見間違いだと思ってるんで今まで言ってなかったんですよ。これ、何か罪になったりしますかね?」
「だから、何を見たんです?」
人のいい老人、という仮面を被るのが難しくなってくる。餌の臭いに、よだれがでそうでがっついてしまう。
「見た気が、ちょっとだけしたんです、その」最後にもう一度だけ佐久間はためらった後、「吹雪の中に、人影を」
残念ながら、この証言が何か事件を解き明かすための新しい情報に繋がることはなかった。そして、事件自体は解決することなく、ある意味では佐久間の証言通りに、外部犯ということになり天童もまたそちらの方向への捜査へと強制された。
佐久間の証言が本当だったのか、人影の正体が何だったのか、それも分からない。
≪試行6を終了します≫
8 試行4及び試行5及び試行6のフィードバック
まずは確認から。
「佐久間の、あの『実は人影を見た』って証言は実際にあったの?」
「ええとね」茶子がスマートフォンを中指で操作する。付き合っていた頃から気になっていた彼女の癖だ。「そうね。といっても現実では大学生は警察に証言したわけじゃあなくて、数年たっていくつかの週刊誌に『実は……』って感じで売り込んだみたい」
それがあんな形で話に反映されたわけか。
「それで、どうする?」
「いやあ」僕は背もたれに体重を預け、天井を仰ぐ。「正直、どうしていいか分からない。なんか、ここから微調整した名探偵を送り込んだところで、事件が解決しそうなビジョンは見つからないよなあ」
とはいえ、『V山荘殺人事件』がどうして未解決なのかについては、立体的に理解できたのでさっきまでの試行は有意義ではあった。あったが、そこから特にアイデアが生まれない。
「まあ、そうよね。私も同じように手詰まりになったからあなたに相談を持ちかけたんだし。藁にもすがる思いで」
「すがられた藁としてはいいアイデアを出して期待に応えたいところだけど」天井の一角を睨みながら唸っていて、ふと思いついて顔を戻す。「これってAIにアドバイス求められないの?」
「え?」茶子は目を細める。「LLMに答えを出させようとしたのは失敗したって最初に説明したじゃない」
「いや、答えじゃなくて、アドバイス。で、それを逆手に取る。こいつのやり方で答えが出なかったっていうことは、こいつからのアドバイスには逆に価値が出てこない? つまり、こいつのアドバイスをそのまま実行しても解決はしないんだから、こいつのアドバイスをひと捻りするとかむしろ真逆にやってみたら、新しい展開に入る可能性がある」
茶子は、僕の説明の途中から既にキーボードに猛烈な勢いでコードを打ち込み始めている。
「よし、じゃあ、とりいそぎだけどできたわよ。さっきまでの試行を参照して、アドバイスをしてくれる機能」
「素晴らしい……じゃあ、さっそく、そうだな、これまでの僕の試行を全部参照にして、ここからどうすればいいかアドバイスをお願い」
「了解。ほら、出力されるわよ」
ディスプレイを見ると、そこには簡素なインターフェースが表示される。
≪チェックポイント≫
・緊張により証言が乏しくなっている可能性あり。もっと親しみやすい刑事を。
・事件直後の捜査・証言が重要となる。捜査や聞き込みを事件直後に限定。
・この事件の解決には組織的捜査が必要不可欠。階級を上げる。
アドバイスを眺めながら、ううん、と僕は唸る。
「一見もっともらしいけど、逆に言うとこれをそのままやっても絶対に解決しないわけだ」
「そういうことね」
「とはいえ、アドバイス自体はそこまで的外れではない気がする。えー、だとすると」
くるくると指を回しながら思考を巡らせる。
「何か思いついたの?」
「親しみやすい刑事、っていうのはナシ。もっと抜本的解決にする。つまり、名探偵を警察以外にする。山荘の客だ。そうすれば、勝手に事件直後に捜査や聞き込みができるから一石二鳥」
「最初に言ったでしょ、それをすると――」
「そいつが犯人になっちゃうって言うんでしょ。大丈夫、手は打った。いける。それから、階級を上げるっていうのもちょっとアイデアを思い付いた。もっとも」思わず僕は笑う。「名探偵ものには、よくある設定ではあるけど」
茶子は訝しげにこちらを見てくる。
僕はそれを無視して、キーボードを借りて名探偵の初期条件を打ち込んでいく。
『女子大生。警視総監の姪っ子で猫かわいがりされている。マイナーな場所への旅行が趣味で、今回もV山荘に宿泊の予定を入れたが、交通トラブルにより到着が遅れ、吹雪のせいもあって何とか到着したのは夜になってから、つまり事件発生後。好奇心旺盛で気になることは何でも首を突っ込む。その人懐っこさから、相手はついつい様々な情報を喋ってしまう』
「これでどうかな。これで推理力を高くすると例の非現実ラインにひっかかりそうだけど、こうやって推理力とかについては言及なしなら、ぎりぎりオッケーなんじゃない?」
「ほほう」僕が打ち込んだ文字列を見て茶子は感心する。「なるほどね。確かにこれなら犯人役になるのは難しそうだし、個人的なコネクションで警視総監を動かせる可能性がある。何よりもこういう設定なら、向こう側も大して警戒しないで色々と喋ってくれそうよね」
「そう。正直、こいつが事件を解決できるかどうかは分からないけど、まずは情報収集、そしてこれまでにない展開を希望するなら、こんなんでどうかな」
「やってみる価値はあるわね」
茶子がエンターキーを叩く。
9 試行7及びフィードバック
≪試行7を開始します≫
口に飛び込んできた雪を思わず吐き出してから、天童アキラは大きく息を吐く。
途中、何度も引き返すのではなく突き進む選択が間違っていたのでは、という考えが頭を過ったが、とうとう到着した。
吹雪の中に浮かび上がってきた簡素な建造物。間違いない、V山荘だ。助かった。冗談抜きで、命の危機だった。
「うおおお」と気合を入れるための声をあげ、天童は疲れ、冷え切った体に最後の鞭を入れて、V山荘の玄関までずかずかと突き進む。
到着したが、インターフォンのようなものはない。構うものか。そのままドアを開ける。
瞬間、今の天童にとっては天の恵みのような暖気がそこから溢れてくる。それを全身で余すことなく受け取りながら、
「すいませーん、予約していた天童です。天童アキラ。いやー、遅れちゃって、吹雪、で……」
自他ともに認める物怖じしない性格の彼女の挨拶は、ゆっくりと力を失っていく。
リビングには、数人の人間が集まっている。
その誰もが、突然の来訪者である天童アキラを向いている。驚愕の表情で。
それはいい。だが、誰もが、突然の来訪にただ驚いている表情ではない、明らかに。全員の顔は蒼白で、血走った目を見開き、言葉もなく、ただただ天童に顔を向けていた。
(事件説明は省略)
体を芯から温めてくれるホットココアを飲みながら、事件のあらましを聞いた天童はぐぐ、とのけぞる。
「なるほど、そうなってたんですねえ。警察も、来るのは明日以降ですか?」
「この吹雪ですから。むしろ、天童様、よくこの吹雪の中来られましたね」
ココアを入れてくれた神崎が呆れ半分賞賛半分の口調で言う。
「いやあ、吹雪いてきた時はちょうどこの山荘への道の半分くらい来たところだったんで、もう突き進んでしまおうと思って」
へへへ、と天童は笑う。
「その、ちょっといいか」
横で二人のやり取りを眺めていた村上が、強張った顔で話に入って来る。
「気を悪くしないで聞いてほしいんだが」
「はい」
「さっきの説明で分かったように、俺たちには犯行は無理なはずなんだ。で、そうなるとだな、やっぱりあんたが怪しいんじゃあないかって話になるんだが」
「ああー、なるほど」天童はさもありなんと頷く。「つまり、たった今命からがらここに辿り着いたっていうのは嘘で、ずっとこの周辺にいたと」
「僕、その」そこで佐久間が入ってくる。「実はその、見たんだ。ちょっと前、吹雪の様子を見に外に出た時、人影みたいなものを」
一気に場の空気がざわつく。
「どうして言わなかったんだ」
大友が噛みつく。
「いや、見間違いだろうと思ってたんだよ。人が死んでるんだから、滅多なことは言えないし。でも、なあ、あれ、天童さんだった、ってことはないよな?」
周囲の目が一段階険しくなって天童に向けられる。
「ちょっとやめましょうよ。天童さん、今来たばっかりで――」
久美子が庇うように一歩前に出るが、
「いえいえ、構いませんよ。確かに、あたしが一番怪しいのは確かです。それに、佐久間さんのお話も興味深い」
ふむ、と考え込む天童に対して、逆に周囲は困惑する。
「ねえ、あなた、その、不安じゃあないの? この状況で、自分が犯人かもって疑われて」
絵里の問いかけに、
「皆さんが今にもあたしを私刑にでもしようって雰囲気なら不安ですけどね、そういう状況でもないみたいですから、今いくら疑われても警察が来てちゃんと捜査してくれるなら大丈夫でしょう。それに、こういう場面はある程度慣れているんで」
更に周囲が困惑する中、天童は続ける。
「あたしは天童アキラって言うんですけど、叔父は天童兜。警視総監をやっているんです」
一種の偏見ではあるが、天童が自分の叔父が警視総監だと発言したことで、他の面々は天童アキラという女子大生が犯人ではない、と見なすようになった。
そこで天童はある程度自由に動けるようになったので、そうなると彼女の好奇心からは事件の捜査を止めることはできない。
さっそく、神崎の監視の元、という制限付きで、現場を捜査するために二階に上がる。とはいえ、警察には到着まで現場を封鎖しろと言われているので、廊下から見るだけ、という制限つきだ。
「ふうん」廊下、ドアの隙間から天童はにゅっと首を伸ばして室内を探る。「ベッドの脇に、うつぶせの死体。その周辺には大量の血痕。ちょっと離れた場所にも血痕が散っているけど、なるほど、窓が割れて吹雪が吹き込んでいますね。それのせいってこともあるのかな?」
独り言の後に首を戻して、天童は廊下で心配そうにこちらを見ている神崎に「凶器は見つかっていないんですよね」
「ええ、そうですね。室内には見当たりませんでした。一応の身体検査も、さきほど客同士でおこないました。もっとも、警察が来てからちゃんとした捜索や身体検査をすれば話は変わるかもしれませんが」
「むむむ……それで、この部屋は密室だったわけですよね?」
「そうです。まるで、ミステリ小説のように。一応窓は割れていますが、まさかサイズ的にあそこから部屋に入ったということは考えられないですよね?」
「そりゃあーそうですよね」あはは、と天童は笑う。「下に戻りましょうか」
誰も自室に戻る気にならず、というよりも二階に上がること自体を忌避している様子で、全員がリビングに黙って座っている。
戻ってきた天童と神崎に全員視線を向けるが、誰も声を発しない。
「いやー、全然何も分からなかったです。ちょっといいですか、お話?」
だがそんな雰囲気に物怖じする天童ではない。
ソファーの空いている席にするりと座ると、さっそく場を回し始める。
「あの被害者の方、相原さんですっけ、皆さん全員お知り合いではないんですよね?」
沈黙の後、
「ああ、全員初対面のはずだよ」
村上が代表して答える。
「俺がこの山荘には最初に到着したんだけど……ですよね?」神崎が頷くのを確認して村上が先を続ける。「うん、その次に来たのがあの相原さんだ。でも、ほとんど会話はない。あの人はずっと自室にこもってたし。最初に会った時に一応こっちから自己紹介したり話しかけたけど、名前と弁護士だって話、あとは仕事で来たってことくらいしか聞いてないよ。で、他の人は、全員でリビングに集合するまで相原さんは会ってもないんじゃないっけ」
村上が問いかけると、全員が頷く。
「村上さんに、相原さんっていう弁護士の方がいるっていうのは聞きましたけどねえ」
久美子が少しだけ笑う。ようやく調子が戻ってきたのかもしれない。
「神経質そうな弁護士さん、っていう話だったら、どんな人だろうと想像してたら、実物が本当に想像通りだったんでちょっと笑っちゃったわ」
その久美子のセリフに、他の面々も笑い声を漏らす。
「そうそう、村上さんと神崎さん以外、実物見てなかったですからね。噂だけ聞いて、本物を見て、あああれっかって」
佐久間もおどけた口調で言う。
ようやく、場の空気がマシになってきているのを天童は感じる。
「あたしが来る前に皆さんで話し合ったって聞いたんですけど、そこで全員アリバイができちゃったんですよね?」
「完璧なアリバイってわけじゃあないが、現実に考えたら二階に上がって人殺しをするのは難しいだろうという話だ」大友が言ってから久美子に目をやり「ああ、ただ、私と高橋さんは、まあ完璧なアリバイって言っていいだろうな。ずっとここで二人で喋っていたからな」
誰からも異論は出ない。久美子も頷いている。
「じゃあ外部犯なのかって話ですけど、そっちも難しそうですよね」
天童が水を向けると、佐久間が大きく頷く。
「確かに僕も人影を見たような気がしたけど、よく考えたら人影があったから何だって話だよな。だって、外からこの屋敷に人が入り込んでいるわけがないんだから。ずっとこのリビングには人がいた。玄関から誰か入ってきたら、すぐに分かるはずなんだよ」
「あの」と、そこで細く震える声を水野が出す。彼女は声だけでなくて、全身を震わせている。顔色も蒼白だ。「あの、ちょっと、いいですか?」
全員がその異様な雰囲気に呑まれて沈黙していると、
「思いついたんですけど、その前からって、こと、ないですかね?」
「例の、夕食前に全員が一度リビングに集合する、その前ですね」
彼女のその問いかけに、いち早く天童が反応する。
「おいおい、何を言ってるんだ」大友が大きな声を出す。「その時にはあの相原とかいうのも無事だっただろうが、その前に、犯人が、この屋敷に……」
だんだんと大友の声が小さくなる。
その他の面々の表情も強張り始める。
水野が言おうとしていることが、ようやく理解できてきたのだ。
「つまりこういうことですね。犯人は犯行よりもかなり以前にこの山荘に忍び込み、どこかに隠れて機会をずっと待ってから、相原さんを殺した」
「おい、待てよ。じゃあ、犯人はまだこの山荘に」青ざめた村上がそう言ったところで、
「落ち着いてください。大丈夫です」
神崎が言う。
「さっき、全員一塊で一応は山荘内を探索したじゃあないですか」
「そうか、そうだよな」
村上はそう言うと、ほっと息を吐く。
「外部犯の犯行だとすると、犯行後に逃げ出す方法がネックですよね。密室のことを抜きにしても、皆さんがこのリビングにいる間には逃げられないでしょう?」
天童が疑問を投げかけると、
「だとすると、全員で相原さんの部屋を見に行ったタイミングとか、その後に山荘を探索していたタイミングで誰の目にも止まらず逃げ出したってことか……あるかなあ、そんなこと。忍者か何かじゃあるまいし」
佐久間が首を捻る。
≪試行7を一時停止します≫
どうしても意見を確認したくて、茶子に途中で止めてもらった。
「どう思う? 僕の感想として、超まだるっこしいんだけど」
これは予想外の事態だ。
探偵役を巻き込まれた一般人にして、かつ捜査タイミングを事件直後に限定すると、僕たちが当然知っているはずの情報が探偵役に入っていない。検死の結果や外部犯の可能性の有無、徹底的に調査しても凶器のナイフが見つからなかった、等々。後日分かった警察の徹底捜査の結果の情報が、何も使用できない。
「仕方ないじゃない、それは。逆に、その情報を使って捜査や推理しても解決しなかったって分かっているんだから、むしろ希望があると捉えたら?」
茶子は楽観的だ。
「うーん、まあ、そうかな。ちなみに、この佐久間が言っている、忍者みたいに全員がリビングを離れた隙に山荘を出て行ったっていうのが、一応公式に捜査本部が発表している説だよね?」
「そうそう。かなり運任せになるし、結局そうだとしても密室の謎が解けていないから、すこぶる評判は悪いけど」
「だよね」
実際、これを真相だとして納得している人間はほとんどいない。『V山荘殺人事件』が未だに未解決かつ不可能犯罪とされている理由だ。
「とにかく、次回以降はちょっと考えないと。後に捜査で分かった情報を事件直後の探偵に送り込む方法何かないかなあ」
「時空探偵にしたら? 時間と空間を自由に操る探偵」
言いながら、彼女はキーボードに再開のコードを打ち込む。
≪試行7を再開します≫
「そもそも、外部から人が来る可能性自体はどのくらいなんですか?」
神崎に向けられた天童の質問だが、
「可能性自体、とは?」
神崎はいまいち意味が分からないらしく聞き返す。
「ここって人里離れた山荘ですから、この山荘に宿泊する以外でここまで気軽にふらっとこれるっていうのは考えられないような気がするんですけど」
「ああ」ようやく得心がいった、というように神崎は頷く。「気軽にふらっと、は難しいとは思います。ただ、準備をしていればどうにでもなるでしょうね。近くには潰れてしまったスキー場や、山小屋とか、正直なところ誰でも入り込める建造物がいくつかありますから。防寒対策さえ気を付けていれば、そこを根城にしてこっちにやってくることはできると思いますよ」
「なるほど」
「そもそも、極端な話、この吹雪は予報通りなわけですから、吹雪用の対策をしっかりしていれば車での移動だって不可能じゃあないでしょうし」
「この雪山を、こんな猛吹雪の中?」
驚いた顔をした久美子が声をあげるが、
「この山はなだらかなものですし、しっかりと舗装された車道もこの山荘のすぐそばまで伸びています。吹雪だって、この程度の吹雪を猛吹雪と言っていたら、本当の雪国の連中には笑われますな。まあ、さすがに夜間は危険も増しますから、警察の判断も理解できますが」
そう言う神崎はどうやら、雪国の出身のようだ。少し誇らし気だ。
「じゃあ、外部犯かもしれないって話自体は、そこまで無理な話でもないんですね。じゃあ、本当にそうかも。あとは密室の謎だけど」
そこまで天童が言ったところで、
「密室ならどうにでもなるだろ」
と、村上があっさりと言う。
天童だけならず、全員が驚愕の表情で村上を見る。
「おいおい、別にそんな、驚くような話じゃあない。ものすごい単純なことだよ。つまりさ、犯人が刺した時、相原さんはまだ生きていて、自分で鍵を閉めたんじゃあないかな。犯人から身を守るために。それで、よろめいて自分で窓ガラスを割って、そのまま床に転がって死んでしまった。どう?」
「一方、刺した犯人、つまり外部犯は皆の目を盗んで逃げ出した。なるほど、犯行は成立する気がしますね」
天童は感心した口調で相槌を打つ。
「ミステリ小説お好きなんですか?」
「全然。小説自体読まない」
外部犯が犯人だという話になったところで、場の空気が一気に緩む。青白い顔をしていた絵里はだらりとソファーに寝転がりかねないくらいに力が抜けている。
「ともかく、あとは明日、警察が到着してから任せましょう。皆さん、自室に戻られますか? あるいは、雑魚寝という形になってしまいますが、リビングでこのまま寝られるようにご用意しましょうか?」
神崎の提案に、全員がこのままリビングで寝ることを支持した。自室どころか、死体のある二階にすら上がりたくない、という意見が多かったくらいだ。
何人組かでそれぞれの部屋に戻り、着替えや必要な荷物などを持って降りて、全員でリビングで寝ることになる。
もちろん、誰もこの状況では寝付けない。結局、各々が数人のグループに固まってリビングのあちらこちらでだらだらと話をしながら夜を過ごすことになった。
神崎の手による暖かいお茶と夜食つきだ。
天童は、すべてのグループに顔を出して聞き込みをすることを既に心に決めている。
まずは、水野絵里と高橋久美子の女性グループだ。同じ女性ということで天童もすぐに馴染む。もちろん、ただの世間話に努めるように最初から決めている。誰も、この状況下で敢えて事件の話などしたくないだろう。
「天童さんは大学生でしょ? うちの息子ももうすぐ受験で。あーもう、頭が痛くて。早く大学生になってほしいわよ。そうしたらこの頭痛から解放されるわ」
高橋が頭を抱える。
「いやいや、大学生活もなかなか大変ですよ。受験とは別の、生存競争の場ですから」
天童が言うと、水野はいやいやと夜食のラスクを齧りながら首を振る。
「覚えがあるけど、大学生の間の競争なんて無意味なマウントの取り合いよ。天童さんもその競争の場からは早く降りた方がいいと思うけど」
何か思うところがあるのか、水野は遠い目をしてそう語る。
それにしても、水野はスレンダーな体型からは考えられないほど健啖家だ、と天童は内心驚く。それとなく観察していたが、既に二回ほど神崎に夜食をおかわりしている。
「いやあ、最近お腹が減ってお腹が減って。ストレスからやけ食いしたらくせになっちゃってね」
視線に気づいたのか、水野がそう言って最後のひとかけらのラスクを口に放り込む。
「だから何度もキッチンに見に行ったんですものねえ」
高橋がからかいの口調でそう言うと、
「やめてよ久美子さん。だって本当に凄いいい匂いがしたから。昼食食べそびれてたし」
と、さすがに水野は顔を赤くしている。
その後それぞれの愚痴(高橋は家庭、特に夫の、水野は同僚の)になったので頃合いを見て天童は脱出する。
さて次は、と見回すと、何とも意外なことに、村上と大友が少し離れた場所で毛布の上に胡坐をかき、何やら雑談で大盛り上がりをしている。社長と無職、そんな盛り上がることがあるのだろうか。
天童が近づいて会話に加わると、とにかく大友は上機嫌だった。神崎から振舞われた缶ビールによるものもあるのだろうが。
「いやーほんと、村上君の言う通りだ。まったくもって、経営っていうのは孤独な作業だよ。なあ、天童さん、分かるか?」
赤ら顔でそう言ってくる大友に天童は曖昧な笑みを返す。
「まだ学生の身分なんで、あんまり」
「そんなものは関係ないよ。俺も学生時代に起業したからね」大友と同じく酔っぱらっているらしく村上はそう言って天童を指さす。「やる気があるかどうかさ」
「その通り。経営とはつまり決断だ」
がはは、と大友は笑うが、どこまで分かっているのか、怪しい。
「学生時代に起業を? それは、凄いですね」
「いやいや、それほどでも。ただ、結構うまくいったし、金を稼げたのは確かだね。そのせいで、今では趣味に没頭できてる」
なるほど無職というよりも起業で稼いでリタイアしているといった方が正しいのか。天童は認識を改める。
「でも金を稼ぐって言うのは、大変だよ。大学時代の友達数人と一緒に起業したんだけど、結局全員と仲悪くなったもんなあ」
「分かるぞ、うちも専務派閥と私派閥でかなりやりあってるからな」
「正論ばっかりごちゃごちゃ言いやがって。会社経営ってのは綺麗ごとだけじゃあだめなんだよ」
「その通りだ」
「金を稼ぐには、多少手を汚してでもやらなきゃいけないことがあるんだ」
「いいぞ。そうだ。泥臭くても何でも、結局は金を稼げなきゃ話にならんのだからな」
「その通りですよ、大友さん。結局、稼いでなんぼです」
と、二人で大笑いしている。
「それが分かっていないから、最近の若い新入社員なんかはな、やりがいがどうとか」
「分かりますよ大友さん、理想論ばかり言う学生は」
どんどん嫌な酔い方をしてきている。
そそくさと退散して、最後のグループ、リビングというよりもキッチン付近で、何やら深刻そうな表情で話し合っている佐久間と神崎に近づく。
「ああ、天童さんか」
佐久間はそれだけ言って、また視線をすぐに神崎に戻す。まるで天童には全く興味がないように。そして、ぼそぼそと小さな声で二人で会話している。
女子大生としてはかなりプライドが傷ついた天童は、「何を話されているんですか?」と無理矢理にでも割って入ろうとする。
「天童様」神崎は佐久間と顔を見回せ、そしてふっと息を吐いて「いえ、実は、先ほど天童様が仰っていた外部犯説なのですが、その」
他の面々に聞こえないようにか、神崎は声を潜めて、
「難しいのではないか、という話です」
一瞬で、天童の表情も引き締まる。
「それは、どうしてですか?」
「いえ、佐久間様に言われるまで私も忘れていたのですが」
「僕が途中で玄関に吹雪の様子を見に行った時のことを思い出したんだ。あの時、吹雪はほとんど止んでいた。今はもう激しいもんだけどね。で、死体を発見した後、全員で山荘内をチェックしてからリビングに戻ってお互いのアリバイを話してた時、その話を出したら、大友さんが玄関まで見に行ったんだ、神崎さんと一緒に」
「ええ、そうです。そして、その時に、確かに吹雪はほとんどやみかけていました。そして、問題はそこです。吹雪の止んだ状態で玄関を私は確かに見ました。ですが」
そこで神崎はいったん言葉を切った後、
「足跡はなかったんです。そう、確かに、一面の雪景色で、玄関の付近に足跡などはなかったんです」
眠れないかもと思っていたが、いつの間にか眠りについていたようだ。目覚めと共にそれを自覚する。暖炉のそば、床で毛布に転がっていた天童は伸びをする。
まだ早朝、時計で確認すれば五時前だというのに、天童だけでなくほとんどの人間が起きている。まだ寝ているのはいびきをかいている大友ぐらいのものだ。この状態では寝ていないか、もしくは天童のように眠ったとしてもその眠りは浅くなってしまうのだろう。
結局、神崎と佐久間と相談して足跡の件は全員とは共有しないことにした。せっかく外部犯の仕業だということで一致団結して落ち着いているのに、その状態を壊すことはしたくないという神崎の意見に天童と佐久間が同意した形だ。
「あああ」
欠伸、そして大きく伸びをする。
寝不足の頭に酸素が送り込まれて、回転が多少はマシになる。
警察はまだか。
心地よい香りが鼻をくすぐる。
見れば、神崎がダイニングテーブルの上にコーヒーを置いているところだった。
「よかったらどうぞ」
その神崎の言葉に、未だに寝ている大友以外の全員が飢えた獣のように群がる。気持ちは分かる。それほど、魅力的な香りだった。
天童も遅れてコーヒーをもらって一口、口に含むとそれだけで香りと苦味で本当の意味で目が覚めたような気分になる。いつもは砂糖を入れるが、たまにはブラックでもいい。
その後、警察が来るのを一日千秋の気持ちで待つ。
それは天童だけではないらしく、全員が所在なさげに用もないのにリビングをうろうろとうろつきまわっている。
この機会に、こっそりと天童も山荘内を改めて探索する。さすがに一階だけだが。特に何も見つからない。この奇妙な事件を解くヒントになりそうなものは全くもって見つからない。
今のところ、ありえそうなのはあの村上の外部犯説しか考えられない。だが、それを神崎と佐久間の話がぶち壊してしまった。八方ふさがりだ。もう少しで警察が来るのだから、それに任せてしまえばいいといえばいいのだが、このような興味深い事件を放っておくという発想は彼女にはない。ああでもないこうでもないと悩みながらうろつく。
リビングに戻ってきても、状況はほとんど変化はない。警察もまだ到着していないようだ。大友がようやく起きている。
自分のものだと分かるように敢えてリビングテーブルの隅に置いていたコーヒーカップを手に取る。まだ半分ほど残っていた中身を飲み干す。もうぬるくなっている。とはいえ、やはりいいコーヒーなのだろう、ぬるくても飲める。なかなかおいしい。
天童はコーヒーの苦い後味を確かめながら、暖炉のそば、壁にそっともたれかかる。警察が来たら邪魔をするつもりは毛頭ないが、それはそれとして、叔父の威光をつかって、何とか捜査の途中状況をリアルタイムで知りたい。それに。
そこで、不快感。鈍痛。だがそれは一瞬で激痛にまで膨れ上がる。
一瞬、何が起こったのか分からない。殴られたのではないか、そう天童は思うが、周囲を確認しようとしたところで痺れて全身が動かないことに気づく。息ができない。視界が赤く点滅して、狭くなっていく。
手に持っていたままのコーヒーカップを取り落とし、それが割れる音で全員が天童を向く。誰かが悲鳴を上げる。だがその時には既に天童は床に崩れ落ちており悲鳴の主を探すことができない。
白く点滅する思考。最後に出てくる単語。
毒。
そうして、天童は命を手放す。
≪試行7を終了します≫
「死んだ!」
思わず叫んでしまう。
「死んだ、わね」横の茶子も唖然としている。「毒殺? 一体、どうしてこんなことに。今まで、探偵役が毒殺されたことなんてなかったのに」
新しい展開といえば、そうだが。
僕は頭を抱える。これ、どう考えればいい?「そうだ。AIのアドバイスは?」思い出す。そうだ、それがあった。
「あっ、そうか」茶子も慌ててキーボードを叩く。
ディスプレイに新たに文字が表示される。
≪チェックポイント≫
・警察組織外の探偵役だと、犯人が危害を加えるハードルが下がってしまう。身の安全を。
・事件を解決するための情報が圧倒的に探偵役に不足している。事件直後の情報・及び事件後の警察組織による徹底調査の情報を両方利用できる環境が必要。
・探偵役の推理力が不足している。
「うんうん」一項目ずつチェックしていく。まず最初はなるほど、刑事じゃないと手を出しやすいということか。だが、何か引っかかる、が、その違和感が言語化できない。とにかく次に進む。「どうしろっていうんだよ。事件直後の情報とその後の情報両方探偵に手に入れさせろって」
「時空探偵」
「非現実ぶっちぎりだよ。まあ、現実的に考えると、事件直後に調査して、その後で警察から情報をもらってから再調査する、そういう物語にできればいいのかな?」
「途中で未解決で終わりそうじゃない?」
「まあね。で、最後のは、まあ、分かってた。別にこの探偵役に事件解決のための推理は期待していなかったし」
何とか新しい展開を、と思って作り上げた探偵だ。確かに新しい展開ではあるが、あまりにも予想外のことが起きたが。
「うーん、とりあえず新しい展開がきたんで先に進んだ感はあるし、とりあえずこのまま試行錯誤してみようか」
数撃ちゃ当たる方式で行こう。
指をぱきぽき鳴らしてから、彼女からキーボードを受け取る。
10 試行錯誤
(試行錯誤の細かい描写は省略。特筆すべき内容があった場合のみ、それについて端的に描写)
『遅れて山荘に到着した老人。かつての名刑事。体にガタがきているが、それを補ってあまりある事件捜査の経験値と鋭い観察眼は健在。またかつてのコネから警察内部の情報を手に入れることもできる』
≪試行8を開始します≫
事件は解決できなかった。事件から数年後、コネで警察からの事件情報を手に入れることを期待したが、その前にシミュレーションが終了した。新しい展開や情報はなし。
≪試行8を終了します≫
≪チェックポイント≫
・探偵が事件直後に推理や捜査を行う場合、連続性ある事件でない限り物語は大抵その場で終わるため、警察内部の捜査情報を利用する機会がない。
・探偵役が利用できる情報が不足している。
「じゃあどうしろって言うんだよ。事件直後からスタートしたら事件直後で終わるんだったら、どうやって探偵役に警察の情報渡すんだよ」
「やっぱり時空探偵じゃない?」
「うーん、しかし、なんか、代わり映えしないな。やっぱり刑事じゃない方がいいのかな」
『事件記者。事件から数年後、事件の取材に向かう。警察内部とのコネクションもあり情報をある程度手に入れることができる。取材力には定評があり、スクープを何度もすっぱ抜いた実績もある』
≪試行9を開始します≫
事件は解決できなかった。関係者への取材は難航、誰も取材に応じなかった。というのも関係者は全員、加熱した報道や自分たちを犯人扱いする記事やネットでの書き込みなどによってかなり神経質になっていたため。新しい展開や情報はなし。
≪試行9を終了します≫
≪チェックポイント≫
・警察組織でない場合、事件直後でないと聞き込みをすることができない。
・事件後の警察が入手している情報を手に入れても、警察と同じ結論がでてしまう可能性が高い。
・探偵役の推理力が不足している。
「ああ、取材拒否のあたりは事実に基づいているね」
「そうね、かなり酷い報道被害とかもあったみたいだし」
『事件記者。偶然事件の日にV山荘に宿泊した。取材力には定評があり、スクープを何度もすっぱ抜いた実績もある。また推理力が高く、かつて警察の裏をかいて冤罪事件を解決したことがある』
≪試行10を開始します≫
アリバイがない唯一の客のため犯人になった。犯行動機はかつてのグレーな取材活動を相原が知っておりそれを脅されていたため。密室については例の被害者が身を守るため自ら鍵をかけたパターン。
≪試行10を終了します≫
≪チェックポイント≫
・犯行が可能な唯一の人物が探偵役になっている。
「最初に言ったじゃない」
「ああ、忘れてた! くそっ、じゃあ、ちょっと変えて絶対に犯人になれないように……」
『事件記者。偶然事件の日にV山荘に宿泊した。取材力には定評があり、スクープを何度もすっぱ抜いた実績もある。かつて事件に巻き込まれたためにトラウマがあり、暴力や血に拒否反応がある。だがそれを補って余りある推理力をもっている』
≪試行11を開始します≫
毒殺された。
≪試行11を終了します≫
≪チェックポイント≫
・警察組織外の探偵役だと、犯人が危害を加えるハードルが下がってしまう。身の安全を。
・事件を解決するための情報が圧倒的に探偵役に不足している。事件直後の情報・及び事件後の警察組織による徹底調査の情報を両方利用できる環境が必要。
・探偵役の推理力が不足している。
「アドバイスが試行7の時に戻ったわね」
「犯人じゃなかったら殺されるの!? だったら、これならどうだ」
『事件記者。偶然事件の日にV山荘に宿泊した。取材力には定評があり、スクープを何度もすっぱ抜いた実績もある。かつて事件に巻き込まれたためにトラウマがあり、暴力や血に拒否反応がある。また強迫観念症レベルの潔癖症でいつも飲料と携帯食料を持ち歩いており、それしか口にしない。だがそれを補って余りある推理力をもっている』
≪試行12を開始します≫
≪エラー:非現実値オーバーフロー≫
≪試行12を終了します≫
≪チェックポイント≫
・人物像、及び展開が非現実的です。
「そこまでの潔癖症のやつがV山荘に宿泊するうまい話運びができなかったみたいね。確かに、変は変よね」
「あー、そっちか。面倒だなあ」
『事件記者。取材力には定評があり、スクープを何度もすっぱ抜いた実績もある。かつて事件に巻き込まれたためにトラウマがあり、暴力や血に拒否反応がある。また強迫観念症レベルの潔癖症でいつも飲料と携帯食料を持ち歩いており、それしか口にしない。だがそれを補って余りある推理力をもっている。取材中に山で遭難、偶然V山荘に辿り着く』
≪試行13を開始します≫
事件は未解決。トラウマや強迫観念症のため満足に捜査ができない。また、あまりにも神経質な性格のために関係者と心理的な距離がありうまくコミュニケーションが取れなかった。
≪試行13を終了します≫
≪チェックポイント≫
・探偵役が捜査に適した人物像ではない。
「端的に言われてるわよ」
「仰る通りで、確かに意地になって変なことしてたね。落ち着こう。いったんリセットして、ゼロから考えるよ」
『四十代の刑事。非番の日に偶然V山荘に宿泊した。殺しを何よりも憎む正義漢。高い推理力と捜査力、そして豊富な経験を併せ持つ名刑事。人当たりはいい一方、職業柄か人を心底信頼することができず、人の話を聞けば内心嘘ではないかと疑い、食事には毒が入っていないか警戒する厄介な癖の持ち主』
≪試行14を開始します≫
事件は未解決。途中までは試行7の女子大生が探偵役の時と大体同じ流れを辿るが、その時に比べてやはり全体的に関係者が刑事ということで緊張している。そして、毒殺されない代わりに事件が未解決で終了する。
≪試行14を終了します≫
≪チェックポイント≫
・緊張により証言が乏しくなっている可能性あり。もっと親しみやすい刑事を。
「またこれか。『人当たりがいい』って書いたのに」
「それでも刑事は刑事だし、女子大生の時と同じようにはならないでしょ。あと、内心警戒しまくってるから、それが向こうにも通じたんじゃない?」
「だって毒殺されたくないし」
『女子大生。偶然V山荘に宿泊した。殺しを何よりも憎む正義女子大生。高い推理力と捜査力、そして豊富な経験を併せ持つ名女子大生。人当たりはいい一方、女子大生柄か人を心底信頼することができず、人の話を聞けば内心嘘ではないかと疑い、食事には毒が入っていないか警戒する厄介な癖の持ち主』
≪試行15を開始します≫
事件は未解決。探偵役が奇妙な言動や行動をとり、むしろ前回以上に関係者が警戒していた。
≪試行15を終了します≫
≪チェックポイント≫
・探偵役の人物像に問題があり、周囲と正常なコミュニケーションをとれていません。
「自棄になりすぎでしょ。刑事を女子大生に変えただけじゃない!」
「無理がある設定だと、言動や行動が妙になるって形で反映されるんだね。分かった。次回は真面目にやる」
『女子大生。偶然V山荘に宿泊した。人が何よりも好きで趣味は人間観察。逆に人を害する、嫌な思いをさせることが一切できず貧乏くじを引くことも多い。その性格上かなりコミュニケーション能力が高い。昔、間違えて洗剤を飲んでしまったことがトラウマになっていて、食事には毒が入っていないか常に警戒しており、人前ではなるべく飲食をしない癖がある。あと警視総監の姪っ子で猫かわいがりされている。それからミステリ小説好きでかなり推理力が高く好奇心旺盛で事件があったら首を突っ込む。昔身近な事件を解決したこともある。直感も鋭い』
≪試行16を開始します≫
≪エラー:非現実値オーバーフロー≫
≪試行16を終了します≫
≪チェックポイント≫
・設定が現実離れしています。
「ねえ、盛りすぎだって」
「薄々僕も気づいてたよ」
『女子大生。偶然V山荘に宿泊した。人が何よりも好きで趣味は人間観察。逆に人を害する、嫌な思いをさせることが一切できず貧乏くじを引くことも多い。その性格上かなりコミュニケーション能力が高い。昔、間違えて洗剤を飲んでしまったことがトラウマになっていて、食事には毒が入っていないか常に警戒しており、人前ではなるべく飲食をしない癖がある』
≪試行17を開始します≫
警戒していたが、場の空気に流されてコーヒーを飲んだ際に毒殺された。
≪試行17を終了します≫
≪チェックポイント≫
・探偵役の推理力が不足しています。
・警察組織外の探偵役については危害を加えるハードルが下がってしまう。身の安全を。
・探偵役の性格上、極限状態で主体性をもって動けていません。
「また毒殺? もっと毅然として、飲みたくないなら飲まないって断らないと」
「それができない性格にあなたがしたんでしょ」
「じゃあ、じゃあ、これだ、これで、どうだ!」
『女子大生。偶然V山荘に宿泊した。頭脳明晰で警戒心が強い。周囲の人間を信用せず常に警戒する一方、そんな素振りを一切見せず少し抜けた女子大生だと自分を見せる演技力を持っている。警視総監を叔父に持ち、人間の闇について幼少期から色々と知ってしまったからこそそのような特性を持つに至った。合理的思考により犯罪は割に合わず、だから犯罪に手を汚す人間は愚かだと思っている』
≪試行18を開始します≫
犯人になった。合理的思考を超える感情がうんぬんとかいう描写と共に。相原はかつて大親友を殺した仇、ということだった。
≪試行18を終了します≫
≪チェックポイント≫
・犯行が可能な唯一の人物が探偵役になっている。
「頭がおかしくなりそうだ」
「私が自分でやるのをやめてあんたを呼んだ理由、ようやく分かったでしょ」
「もう、最終手段だ」
『時空探偵。未来の情報を手に入れることができる。V山荘で事件が起こるという情報を入手して事件直後のV山荘を訪問した。未来の事件に関する情報を参照にしながら事件直後の山荘を調査することで事件の解決を目指す』
≪試行19を開始します≫
≪エラー:非現実値オーバーフロー≫
≪試行19を終了します≫
≪チェックポイント≫
・設定が現実離れしています。
11 自分で解決した方が早い説の検討
繰り返す。ただひたすらに。
未解決。未解決。毒殺。未解決。毒殺。毒殺。エラー。毒殺。未解決。エラー。毒殺。毒殺。毒殺。未解決。未解決。毒殺。未解決。毒殺。未解決。毒殺。毒殺。エラー。毒殺。未解決。毒殺。毒殺。毒殺。未解決。毒殺。未解決。毒殺。毒殺。エラー。
本当に、頭がおかしくなりそうだ。そうして、僕の頭にはそもそもの根本的な疑問が湧き上がってくる。
「ちょっと考えたんだけど」試行50が終わったタイミングで、僕は切り出す。「これ、シミュレーション側が、事件を解決させないようにしている、ってことはない?」
「へえ、面白い」疲労困憊で目頭を指で揉んでいた茶子が、目を丸くする。「どうしてそう思ったの?」
「どう考えても解決しそうにないからだよ。ビジョンが見えない。で、これはそもそも解決させる気がないんじゃないかって気になってきてさ。大体、こいつ自分では事件解決できないわけでしょ? なのにこっちが探偵役設定させたら解決できるのも変じゃない? どうしてこいつが正しい解決かどうか判断できるんだよ」
薄々思っていたが、素人なのでそういうものなのだろうとなんとなく納得して放っておいた疑問をぶつけてみる。
「N≠P問題ってわかるわよね?」
「知らない」
「うそでしょ、どういう人生送ってるのよ……ええとじゃあ、クレジットカードの暗号鍵については知ってる?」
「あ、そっちは聞いたことある。でかい素数同士の積を因数分解できるかどうかっていう」
「そうそう、それ。つまり、とんでもなく巨大な数を因数分解して因数になってる素数を見つけるのは困難。コンピュータを使っても何万年もかかる。ところが逆に、ある素数とある素数を掛け算してとんでもなく巨大なを作るのはコンピュータ使えば簡単にできる」
「ああ、まあ、イメージできるような気がするなあ。こっちからこっちは簡単だけど、逆は大変ってことか」
「そうそう。まあ、このシステムはそんな感じになってると思って」
「じゃあ、このシミュレーションが解決させる気がそもそもないっていうのは、さすがに僕の気のせいか」
一応納得するが、茶子の方が首を傾げている。
「いや、でも、実は私も同じような印象なのよね。あなたに頼む前も私一人で何十回もやってみたけど、まるで手ごたえがないというか、シミュレーションが解決を拒否しているかのような印象を受けたの。あなたも同じってことは、本当にそうなのかもしれないわね」
「でも、それってどういうことなんだ?」
「さあ」更に茶子の首が傾く。「全くもって、分からないわ。どうしてそんなことになるのやら」
しばらくお互いに無言で考え込む。だが答えが出るはずもない。
「もう、探偵役をつくるんじゃあなくて、自分たちで解決した方が早いんじゃあないか?」
やがて、僕の口からついつい身もふたもない意見が出てくる。
「あー、確かに時々あるわよね、生成AIよりも自分で手作業でやった方が早い案件が。でも、解決できる?」
「やってみようか」
僕は最初の方にプリントアウトしていた『V山荘殺人事件の謎一覧』を取り出して、改めて見てみる。
『V山荘殺人事件の問題点一覧』
・アリバイの問題。犯行時刻はリビングで全員の顔合わせがあってから夕食の準備ができるまでの(長くみつもっても17:30~19:00前)。その間には山荘内の全員にほぼほぼ完全なアリバイが存在する。4、5分程度の空き時間は存在するが、その時間内に犯行を完遂するのは現実的に見て不可能。
・動機の問題。全員が初対面であり何の関係性もない。これは警察の事件後の徹底した捜査でも保障されている。
・密室の問題。ドアには鍵が閉まっており、その鍵は被害者のポケットから発見された。窓ガラスが割れていたが窓ははめごろしであり、割れた穴もサイズ的にそこからの侵入は不可能。スペアキーはリビングのキーボックスの中にあって人目に触れず取り出して戻すことは困難。また、そもそも密室の意図が不明。
・凶器の問題。凶器は発見されていない。身体検査や山荘内を捜査しても見つからなかった。雪が解けた後に周辺の山狩りを行ったが、やはり凶器と思われるものは見つかっていない。
・外部犯の問題。警察の最終的な見解は外部犯によるもの。だが外部犯の存在にはいくつか無理がある。大きなものは二つ。①タイミング。雪山の山荘に偶然現れることは考えにくく、そうなると犯行は計画的なものとなるが、わざわざ被害者がV山荘に来たタイミングというどう考えても困難な状況を選んで殺す理由が不明。②犯行機会の問題。犯行時間帯に山荘に忍び込み殺害して脱出、これを六人の誰の目にも一切触れることなく行うことが現実的ではない。
どうしたもんかねえ、と僕は頭をかく。
「結局、今までの探偵役って、ここに書いてある謎をどれ一つ解決できてないよね」
悲しい事実だ。
「一応いい線まで言ってそうなのは、試行7で村上が言っていた話じゃない?」
「あー、外部犯説? けど、佐久間が足跡がなかったって言って否定したじゃん」
「山の天気は変わりやすい。一時的に吹雪が激しくなったり止んだりしたせいで、佐久間が見たタイミングでは吹雪がやんでいて、かつ足跡が消えていたのかもしれない」
偶然に偶然を重ねているが、まあ、そうか。
「山荘内で外部犯が誰の目にも留まらなかったのは?」
「偶然」
「どうして外部犯は山荘で相原を殺した?」
「気まぐれ。っていうか、動機だとか心情的なことについては、もう犯人がおかしいからっていうので強引にいけるでしょ」
無理筋だが、確かに一応ここに挙げられている問題点は全て解決できた、のかもしれない、が。
「でも、だよ。僕が思うに、このシミュレーションはその解決を否定してるよね?」
「どうしてそう思うのよ?」
茶子が訊いてくるが、これはただの確認だろう。理由は彼女も分かっているはずだ。
「だって、天童アキラが毒殺されたし」
その後の試行でも、何度も探偵役が毒殺されている。事件直後かつ警察所属じゃあない探偵役の場合、それなりの確率で毒殺されてしまうのだ。これは、明らかに山荘をもう去っていった外部犯が犯人ではないことを主張している。
「でもそれって、そもそも現実にはなかった事件じゃない。探偵役毒殺なんて。無視無視」
長時間の作業のためか、彼女は面倒になっているようだ。口調も投げやりになりつつある。
「確かに、そうなんだよね。逆に聞きたいんだけど、どうしてシミュレーションは現実にない探偵の毒殺なんて事件を発生させていると思う?」
「さあ? その展開の方がミステリ小説っぽいと思ったんじゃないかしら? でも、そうね、これは結局『V山荘殺人事件』を解決するためにカスタマイズしてあるわけだから、素直に考えればこの毒殺が事件の解決に必要ってことになるけど」
探偵の毒殺が解決に必要?
まるで分からない。
「外部犯、ねえ。窓ガラス割れてるし、外から狙撃とかはないかな?」
ダメ元で言ってみる。
「ナイフでしょ、凶器」
「ボウガンで矢の先にナイフくっつけるとか」
「凶器なくなってるじゃない」
「矢に紐を結んどいて、刺さった後に引っこ抜いて回収するんだよ。その回収していた姿を佐久間が見たのが例の人影」
「吹雪の中?」
「吹雪の中。犯人は超人的な狙撃力と忍耐力を持っていたんだよ」言いながら馬鹿々々しくなってくる。「まあ、そんな無茶を想定するくらいなら、結局警察の見解の通りにしておいた方がまだ現実的か」
そしてそれでも、例の毒殺の件が成立しなくなってくる。待てよ。
「ひらめいた。毒殺はつまり、外部犯説の否定。そして、ヒントなんだ。相原が殺された件では犯人を見つけられないけど、毒殺事件なら犯人を見つけることができる。そういうことなんじゃない?」
自らのひらめきに勇んでさっそくこれまでの毒殺された試行の記録を読み直すが、すぐに意気消沈する。どの試行でも、飲食物に毒を入れるのは少なくとも描写されている限りは、誰でも可能な気がする。これで犯人を絞ることはできない。
八方ふさがりだ。
「やっぱり探偵役創造で解決するしかないのかなあ」
僕がぼやくが、茶子は嫌そうに首を振る。
「でも、何も展望もなしにやったって、結局今までと同じことの繰り返しになるわよ」
「確かに。えーと、だから、今までの話を統合すると」僕はノートを取り出して、探偵役の条件を口に出しつつ書き出してみる。「警察だと警戒されちゃうから警察組織外の探偵。だけど毒殺されないように飲食を警戒する人間で、場の空気とか人に気を使って結局飲食しちゃってもダメだから人当たりもよくない。かといってコミュ障だと聞き込みができない。絶対犯人になっちゃいけないし、事件直後から調査をしているけど最終的に警察の情報も取り扱えないといけない。ただし、事件直後から開始したら普通は物語は数年後まで続かないで終わる。そして何よりもこれまでの探偵役だと全くもって謎に歯が立たないことからも、今までの探偵役より各段に推理力が必要になる。でも、非現実的じゃあだめ」
「詰んだ」彼女が両手を挙げて万歳のポーズを取る。「もう、アプローチが間違ってたってことね、これは。そんな探偵役、どうしようもないわ」
一方、僕は自分でその条件を書きだしながら、あるアイデアが浮かぶ。
「……そうか、そうだよ」
「どうしたの?」彼女がきょとんとした顔をした後で、徐々に心配そうに眉を寄せていく。「気持ちは分かるけど、おかしくなった?」
「いや、分かった。そうだ。プラスマイナスで考えればいいんだよね。最終的に釣り合いが取れればいい。そうでしょ? だったら、他の条件を全部、短所で解決してやればいいんだ」
僕はそう言って、彼女からぶんどるようにキーボードを取ると一気に打ち込む。
これが、最後の挑戦だ。
12 名探偵登場
『素人探偵。極度の面倒くさがりで服装のセンスも壊滅的。着れられればいいと思っていてサイズの合っていないズボンとシャツは皺だらけで、上に着ているトレーナーは謎のキャラクターものでデザインがひどい。髪も自分で適当に切ったものが伸びてしまってとんでもない髪型になっているのを放置している。食にも興味がなく、ポケットに突っ込んでいるナッツ類やかつお節を隙間時間に食べることで食事を済ませている。飲むのも持ち歩いている水筒に入っている水を飲むだけ。他人と飲食を共にすると気分が悪くなるという精神的な弱点を持っている。純朴かつノンデリカシーで、人の背景にまでずけずけと踏み込むがその一方で相手に気を遣うということが一切ないため大体の場合嫌われる。面倒くさがりは推理にまで及んでおり、事件が解決しそうにないと思ったら推理せずに情報が集まるまで何年でも待ち、解決できそうだと思ってから推理を始めるため、事件発生から解決まで数年を要したこともある。今回、予約はしたが行くのが面倒になってだらだらしていて山荘に着くのが遅れて、事件直後に到着したくらい、計画性もない。だが、それら全ての弱点を補って余りあるほどのサヴァン的な推理力を持っている。弱点がなければ、非現実的だと思われるくらいの超人的な推理力の持ち主』
長々とした設定を打ち込み終わった僕はふう、と息を吐いて茶子に向く。
「どう?」
「なるほど」珍しく彼女は素直に感心した顔をしている。「毒殺されないためだとか、事件解決までのスパンを長くするだとか、事件後に到着したから犯人にならない理由だとか、場の雰囲気には流されないけど聞き込みは問題なくできるくらいにコミュニケーションがとれるだとか、その諸々を、全部『弱点』にしたわけね」
「そう、で、そのマイナス分を全部推理力に全振りだよ。ぎりぎり非現実的だってはねられないレベルまでね」
「確かに直接文言で書いてしまっているものね。野暮といえば野暮だけど、でもなるほど、これなら今まででも最高の推理力を持つ探偵役になるかもしれない」
「でしょ? あと服装のセンスとか、事件解決に関係ない部分も下げてやって、その分推理力にまわしているんだけど、一応全体的に突拍子もない特徴じゃあなくて一貫して『面倒くさがり』って共通した特徴から派生させてるから、キャラクターとしてもある程度現実的なはずだ。これなら、ひょっとしたらいけるんじゃあないかな」
「確かに」
にわかに彼女の顔も期待のためか明るくなってくる。
「これがダメだったら、僕帰るよ。もう外暗くなってきたし」
「その場合、後日また来て協力してよね」
絶対嫌だ。
祈りを込めて、僕はキーボードを叩く。
≪試行51を開始します≫
(捜査開始まで省略)
リビングで話を聞き終えた探偵、天童アキラは、そのぼさぼさの頭をかいて「あー、そうなんですね」とだけ言う。
探偵と名乗ったくせにそれだけか、と周囲の全員が白い目を向ける中、まるで天童は気にすることもなく、きょろきょろと周囲を見回している。山荘の構造に目を向けて細かい場所を確認している。
「ポスターの類はなし。カレンダーも貼られていない。リビングから伸びる廊下は直角に曲がっている。そう、直角」
ぶつぶつと天童は呟く。
「どうか、されましたか?」
自分の山荘を声に出してチェックされた神崎は声をかける。
「ああ、いや、えーと」言いながら天童はその場に、床に寝転がった。「あー、はいはい」
これには、全員が唖然として声もかけられない。
天井をじっと眺めていた天童は、溜息をついてから、その場でばたばたと両手両足をばたつかせる。ほこりが舞う。そうして、また溜息。「最悪だ」と呟く。
「最悪なのはこっちだよ」
ぼそり、と強張った顔で佐久間が言う。顔色が悪く、あからさまに天童を警戒している。
天童は起き上がって、ポケットからナッツを取り出すとそれを頬張りながら、
「うーん、誰でもいいんですけど、えーっと、水野さん、ですっけ?」
「え? な、何?」
いきなり名指しにされた絵里の目が泳ぐ。もちろん、やましいところがあるからではなく、天童に戸惑っているのだろう。
「水野さんのお勤めの会社ってどこですか?」
「え? えっと、黒恵比寿商事ってとこ、だけど、それが?」
「部署は?」
ごくん、とナッツを胃に送り込んでなおも質問を続ける。
「け、経理……」
「同僚って何人くらいいますか?」
「おい、いい加減にしろ、事件と何の関係がある?」
横から耐えきれないといった様子で大友が入ってくる。
「まったくもって、関係ないです」
平然と言って天童は突如として自分の着ているトレーナーを両手で横に引っ張る。トレーナーに描かれている謎のキャラクター、「MORIのクマヲ」の顔が横に引き伸ばされて無残なものになる。
「うおおおおお」
雄たけびと共に更に天童は引っ張り、元は熊のキャラクターだったクマヲが横長の楕円になったところで、唐突に引っ張るのをやめて、
「ところで大友さんって血液型はBですか?」
「はあ? ど、どうして分かった?」
姿勢でも表情でもドン引きしながらも、何とか大友が反応する。
「あ、当たったんですか、偶然ですよ。で、Bってことはご両親の血液型は?」
「いい加減にしろ、さっきも言ったがそれが事件に何の関係が――」
「だから関係ないですって」
「君は、事件の捜査をするつもりはないのか?」
今度は村上が困惑しきった顔でそう尋ねる。
「するわけないですよ、そんな面倒なこと」
あくびをして天童は視線を彷徨わせて、
「じゃあ最後に、高橋さん」
名を呼ばれて久美子はびくりと体を震わせる。
「な、何かしら?」
「うーん、何でもいいんですけど、嫌いな食べ物ってあります?」
「えっ、えーっと、特に、ないかしら」
「本当に? 食べることはできるけど、そこまで好きじゃないってやつでいいですから」
「本当にないわよ」
「そこをなんとか」
「しつこい!」
最後には久美子は怒り出す。
「じゃあ好きな食べ物は?」
「……お刺身、かしら」
「特に好きな刺身は?」
「ねえ、ちょっと、どういうこと? 頭がおかしくなりそうよ」
久美子の非難を無視して、天童は髪をかきむしってうーん、と唸ってから、
「じゃあ、ちょっと僕は自分の部屋にとりあえず行きますね」
と、あっさりと言う。
「ど、どうぞ」
かろうじて返事をした神崎から鍵を受け取ると、天童は階段をだらだらと上がる。トレーナーは伸びきってポンチョのようになっている。
自室に入るとドアを閉めてベッドに仰向けに倒れ込む。
「あーあ、面倒だ。面倒すぎる」
ぼやきながら、パンパンに膨らんだパンツのポケットをまさぐり、中から鰹節を取り出すと、
「おらおらー」
力の入っていない掛け声と共に、その鰹節を部屋中にぶちまける。
≪試行51を一時停止します≫
我慢できずに途中で止めてもらう。
「終わった。こいつ、頭おかしい」
僕はほとんど絶望している。
「ま、まあ、名探偵って変な人が多いイメージだし」
茶子の顔も強張っている。全然フォローできていない。
「変すぎるよ、いくらなんでも」一気にやる気が失われてきた。「さすがにやめる? これ続けても絶対解決できないでしょ」
「まあまあ、一応最後まで行きましょうよ。単純に、この探偵役がどうなるのか興味があるしさ」
「まあ、確かに興味があるのはそうだね。解決はしそうにないけど」
「でしょう? まあ、この失敗を次回に活かすためにも、まずはちゃんと最後まで見てみましょうよ」
そう言って彼女は再開させる。
≪試行51を再開します≫
ばらばらと鰹節が舞うのをじっと天童は眺めている。眠そうに細めていた目を見開いて、ぎょろぎょろと鰹節が舞い、そして落ちてくるのを仰向けの状態で観察している。
「やっぱり、そうか」
やがて起き上がり、トレーナーについた鰹節のかすを叩き落としながら、部屋をうろうろとする。頭をかきむしる。
「あー、えーと、えー」そうして不意に立ち止まり、天井を睨みつける。「だから、よし、うん、そうだ。それでいいはず」
そうして、天童は語り出す。
「あー、アメリカの物理学者、ジョン・アーチボルト・ホイーラーは実在とはすなわち情報であると考えた。イギリスの量子機械工学者であるセス・ロイドは宇宙は巨大な量子コンピュータだと言っている。ヘーラルト・トホーフトとレオナルド・サスキンドから始まったホログラフィー理論によれば、この宇宙空間は地表面上に記述された情報である。情報の計算限界こそが世界の限界だ。スウェーデンの哲学者、ニック・ボストロムは次の三つの分岐のうちどれかが真であると主張した。①知的文明はシミュレーションされた現実を生み出す技術レベルに到達する前に滅びる。②知的文明は技術的に可能であっても様々な理由からシミュレーションを実行しない。③この現実のほとんどはシミュレーションである」
一気にそこまで言ってから、天童はポケットから小さなペットボトルを取り出して一口、水を飲む。
「まあ、つまり、これからする話は別に荒唐無稽な話でもなければ現実的にありえない話でもない。僕は頭がおかしくなっているわけでもない。これは、純然たる論理的思考によって導き出された結論だ。まず最初に僕の記憶に違和感があった。素人探偵。年齢。キャラクター。僕の記憶の中の僕は記号的でおおまかだ。詳細を思い出そうとしたら、思い出せるまでタイムラグがある。まるで、リアルタイムでつじつまを合わせているみたいに。僕の意識に問題があるのかと思ったけど、事件について関係者と語る分にはほとんどタイムラグはなく、問題なく語り合える」
天童はこちらを見ている。
「この山荘は細部にあまりにも情報量が少ない。ポスターの類はなく、壁の汚れも人工的。あらゆるものが正確に90度、直角に折れていてずれていたり歪んでいたり、丸まっていたりしていない。事件関係者とのやりとりも、事件に関係ありそうな話はスムーズだけど、全く無関係な話をすると世界が遅延する感覚があった」
天童はこちらに向けて語り掛けている。
「だから、事件とは関係ない行動をしてみた。いきなり寝転がって、あるいは鰹節をぶちまけた。やはり僅かだが遅延した。鰹節が舞い落ちる様子は、ランダムに見えて疑似乱数的なものだった。あー、つまり、そう」
そうして、天童はあなたたちに向かって言う。
「この世界は、シミュレーションだ」
≪試行51を一時停止します≫
13 メタは嫌い
僕と茶子はしばらく黙って顔を見合わせる。
「……これって、何?」
「いやあ」茶子は顔が青ざめている。「ちょっと、これは、想定外ね」
「嫌な展開だな、僕、メタは嫌いなんだよ。小説とかでもメタっぽい展開になったらものすごく冷めるんだよね。なんか、今までのが全部馬鹿々々しくなって」
「あなたの嗜好はいいとして」彼女は深呼吸をして「ちょっと、落ち着きましょう。これはどういうことかしら?」
「フィクションの存在が自分がフィクションだと気づいたってことでしょ。まあ、そこそこある展開ではあるんじゃない? ゲームとかでも時々あるよ」
「いや、でも、これは……そもそも、どうしてエラーで停止しないの?」
珍しく彼女は混乱している。青い顔で頭を抱えてほとんど叫ぶように言う。
「落ち着いてよ。そりゃあ多分、予め予防線を張ってるからだよ。ほら、人物名まで出して、世界がシミュレーションかもしれないって疑うのは珍しい話じゃあないし、大真面目に現実でも検討されている説だって主張してたじゃない。あれのせいだよ」
「ああ、なるほど……いや、ダメよ、納得できない。これは何? 一体、何が起こってるの?」
彼女はまた叫ぶ。
このシミュレーションやAIに詳しいからこそ、目の前で起きているこれが信じられないらしい。逆に門外漢の僕が「そんなこともあるんだ」くらいで何とか受け入れられているのとは対照的だ。
「まあ、とにかく、続き見ていい?」
「えっ」途端に彼女は嫌そうな顔、というより怯えた顔をする。「でも、確かに、このまま止めるわけにはいかないわよね」
最後には好奇心が勝ったらしく、彼女はシミュレーションを再開させる。
≪試行51を再開します≫
「だとしたら多分、このシミュレーション内では僕の役割は探偵役でこの事件を解決することなんだろう。面倒だけど、解決しないといけないみたいだから仕方ない。仕方ないけど、この事件をわざわざ捜査したり推理したりするなんてやってられないよ」
ベッドに腰かけた天童は溜息をつく。
「情報をもう直接くれよ。シミュレーションの実行者に言ってるんだよ、僕は。独り言じゃあなくて。データがあるはずだろ、大量に。それをさ、直接僕がアクセスできるようにしてくれよ。そうしたらあとはそのデータから推理して終わるから。あー、データの中に犯人とか真相が入ってたら推理する必要すらないからラッキーだけど」
そう言ってから、天童は待つ。
天童は待つ。
天童は待つ。
天童は待つ。
天童は待つ。
≪試行51を一時停止します≫
「こいつ、本当に情報もらうまで待ち続けるつもりっぽいよ」
「じゃあ、情報のパスを与えましょうか」気を取り直したらしく彼女の表情は研究者の冷静なそれになっている。「そこまで手のかかることではないわ」
彼女がキーボードを叩いてコードを打ち込んでいるのを眺めながら、ふと気づく。
これで、探偵役は事件直後に捜査して手に入る情報も事件後に警察が徹底的に捜査した後の内部情報も手に入ることになる。いや、それどころか今までの試行の情報、そして元からシミュレーションに入っていた情報全てを手に入れることになる。つまり、例のジレンマから解放されるわけだ。とんでもなく、思いもしない方向からの解放だが。
「よし、できた」
言葉通り、大した時間もかからず操作は終了したらしく、彼女が再開する。
≪シミュレーション内指定オブジェクトにアクセス権限を付与します≫
≪試行51を開始します≫
「あ、来た来た、なるほどね」
天童はベッドに転がる。
「あー、はいはいはい、事件の真相までは分かっていないのか。というか事件の真相を暴くためのシミュレーションであり、僕なわけか。で、これまでの試行は、はいはいはい、なるほどなるほど」
ごろごろと天童は転がる。
「うーん、まあ、そうね、僕が言うのも何だけど、僕、メタ的な話って嫌いなんだよね。身も蓋もないっていうかさ。あー、だからひょっとして話の流れ的にこの事件ってメタ的な真相があるのかと思ったけど、そういうわけじゃあないか。あーよかった。というわけで」
転がるのをやめた天童はあなたたちに向かって指を突き付ける。
「謎は全て解けた、ってやつだ。じゃあ、ここで一時停止推奨」
≪試行51を一時停止します≫
「気が合うな、こいつとは。メタ嫌い同士」
「一時停止推奨って言うような奴がメタ嫌いと言われてもね」茶子は呆れ顔でキーボードを叩く。「……あ、何か来たわ」
「え? シミュレーション停止しているのに?」
「アクセス権限を利用して、さっきの瞬間に向こうからこっちにメッセージを予約していたみたい。いわば、探偵役からの手紙ね」
彼女が操作すると、ディスプレイにその探偵役からの手紙とやらが表示される。
14 創造主への挑戦
ここで、古典推理小説の形式に則って、読者ならぬこのシミュレーションの実行者、この世界の創造主とでも言おうか、そいつらに僕から挑戦状だ。
事件を解くためのヒントは全て出揃った。
この『V山荘殺人事件』の真相を是非推理してもらいたい。あと、一方的に僕が結論を話しても納得できなかったり質問があったりするだろうから、この続きはそっちからもメッセージ打ち込めるようにして対話式にしてもらった方がやりやすいんでそうしてほしい。そのやり取りをスムーズにしたい、つうか一からこっちが説明するの超面倒なんで、そっちである程度考えといて欲しいっていうのが本音。
とは言ってもこんなシミュレーションしなきゃ真相が分からないくらいだからそのままノーヒントだと無理なんでしょ、どうせ。
だから以下にアドバイスやらヒントを並べとくんで、参考にしてよ。
・探偵役の存在(つまり僕ね)や推理の方法こそメタ的だけど、この事件の真相自体はメタは関係ない、いたって普通のものだから安心して大丈夫。メタ嫌いも大満足。
・『V山荘殺人事件の問題点一覧』はよくまとまってるけど、これにこだわっていても事件は解けない。参考程度にしとくべき。そもそもアリバイにしたって、全員にアリバイがあるのが誰かの故意のトリックによるものじゃあないのは明らかなんだから(分かってた、よね? さすがに)話半分でいいでしょ。
・じゃあ何から考えればいいのかっていうと、事件の謎ではなく、シミュレーションの謎から考えるのがいいと思う。僕はそうした。どんなのかっていうと、
①どうしてアドバイスにて事件直後の捜査が推奨されていたのか。
②どうしてまるで事件解決を拒むかのようにシミュレーションが動いているのか。
③どうして探偵役が毒殺されるのか。
このあたり。
15 シミュレーションの謎
僕と茶子はしばらくその『創造主への挑戦』というふざけたメッセージを無言で読んだ後、顔を見合わせる。沈黙は続く。
「どう思う?」
やがて茶子が途方に暮れた顔で口を開く。
「どうもこうも、いやー、本当に解決したのかな、あいつ」試行50までの経験上、もう探偵役に期待することができない。「とはいえ、とりあえずこの挑戦は受けるか。再開するまでに、ちょっとここについて話し合っておこうよ。シミュレーションの謎、か」
とはいえ、②はついさっき茶子と話していた内容とも通ずる。
「②はやっぱり、気のせいじゃあなかったんだね。シミュレーションが事件の解決を避けているって印象は」
「この探偵役が正しいとしたら、だけど。それより、③の『どうして探偵役が毒殺されるのか』ってどういう意味? 事件を解決させないためだから、②と同じ話になるんじゃない?」
茶子の疑問はもっともだが、僕は探偵役の毒殺について、何か違和感を抱いていたことを思い出す。ちゃんと言語化できなかったが、何か違和感があったのだ。それを探ろうとするが、もやがかかっていてうまく取り出して検証できない。
「①についてはどうだろう?」諦めて話を前に進める。「確かに事件直後の捜査をアドバイスですすめられた。まあ、これは当然だろうと思って気にも留めてなかったけど」
「そうよね。事件が起きた直後の方が色々と情報が集まるのは当然だものね」言ってから茶子はぴしゃん、と自らの頬を叩く。「いけない。私としたことが現実とシミュレーションがごちゃごちゃになっていたわ。そう、確かにこのアドバイスは妙よ」
「え、どういうこと?」
「当然だけどこのシミュレーションに入っている情報は、大元は私が入力した情報。だから、事件直後ならまだ存在しているけれど時間経過で入手できなくなる情報なんて、そもそもこのシミュレーション内にあるわけない。あるとしたら」
「あるとしたら?」
「入力したデータからシミュレーションが『事件直後ならこの情報、証拠があるはずだ』って判断して作り出している場合ね」
その指摘に、ふむ、と僕は考えてみる。存在している情報から『だったら事件直後にはこの情報があったはずだ』とシミュレーションが判断しているとして、事件解決のためのアドバイスで推奨するということはその情報が事件解決に必要なわけだ。だが問題は。
「事件直後の捜査で、そんな情報って手に入ったっけ?」
「覚えがないわね。となると、捜査方法イコール私たちの創造した探偵役がよくなかったってことになるわ」
とはいっても、ここから事件直後の捜査をやたらめったらと色々なパターンでやったところで当たりの情報が出てくる気はしない。事件直後に、何を調べたらいいか見当がつかない限り、この話は先に進まないだろう。
「戻ろう。どうしてこのシミュレーションが解決を避けているか、だけど」
僕が言うと、茶子の顔が苦り切ったものに変わる。いや、これは、言いにくそうにしているのか。僕に対して気がひけるみたいだ。
「そのことなんだけど、ずっと私が疑っていたことがあるの」
「ほう?」
「つまり、このシミュレーションが事件の解決を不可能だと判断してしまっているってこと。この方法をもってしても『V山荘殺人事件』は不可能犯罪だったっていう、凄いシンプルな、そして絶望的な結論」
「まあ、正直、僕もそれは考えなかったでもない」
「よね? だから私、正直、あなたに試してもらってもうまくいかないようなら、もうちょっとだけ粘ってから、すっぱりこの試みは諦めようと思ってたのよ。やる気が削がれるかもと思ってあなたには一言も言わなかったけど」
「うん。ただ、だよ。これ、探偵役が嘘をついていなかった場合――」
「ええ。本当にあの探偵が事件を解決していた場合、ということはこの事件は解決可能だったってことになる。そうなると、シミュレーションが解決を避けていた理由が一気に分からなくなるわ」
「確かに……うーん、つまり、僕たちの結論としては」
「ええ」茶子は頷く。「ここで挙げられた謎は、一切分からないということになるわ」
しょうがない。それに、まだ僕の中であの探偵役が本当に事件を解決しているかどうかも疑わしいのだ。ここでずっと考えても時間が無駄になる可能性もある。
そういうわけで、僕たちは諦めて試行を再開する。もちろん、探偵役の望み通り、対話式のインターフェイスを急ごしらえで取り付けたうえで、だ。
さてどうなるか。
正直なところ、ちょっと期待している。休日を丸々つぶした価値のあるものが、最後に見ることができればいいのだが。
茶子からキーボードを受け取る。
名探偵の解決編、そして対話の時間だ。
16 『V山荘殺人事件』の犯人
≪試行51を再開します≫
「さて、僕は認識できないけど、ちゃんと一時停止して手紙を読んでくれてるのかな?」
天童はそう言って、ベッドの上で大あくびをする。
『した。こうやって打ち込める』
「おおー、面白い、こんな感じになるんだ。まあ、いいや。だったら手っ取り早い。真相をさっさと話すから、質問があったら打ち込んでよ。えー、犯人は村上だ」
『待て。村上? 普通そうないでえwg』
「うわ、バグった。そんな慌てなくても」
『探偵は普通、いきなり犯人を言ったりしない。ちゃんと順を追って話して。質問をどうしていいのかすら分からない。アリバイがあるのにどうやって、だとか、どう推理してそれが分かったのか、とか、質問がありすぎる』
面倒だなー、と天童はぶかぶかのトレーナーを揺らしながら文句を言う。
「まあ、いいか。ちゃんと挑戦してくれた? そしたら、話は早い」
『やったけど、結局シミュレーションの謎は全く分からなかった』
「嘘だあ、そんなことある? まあ、いいや。だったらとりあえずそこから行くか。①が確か『どうしてアドバイスにて事件直後の捜査が推奨されていたのか』だったっけ」
『事件直後に捜査することで、解決のための情報が手に入る。そうシミュレーションが判断しているから、と僕たちは考えた』
「分かってんじゃん」
『それが何なのか、全く分からない』
「あ、そう? そんな難しい話じゃないんだけどな。あれだよ、佐久間の証言。人影。あれを調べるんだよ」
天童はしばらく待つが、反応がないことに肩をすくめる。
「相当混乱してるらしいな。じゃあ、勝手に説明を続けるけど。あの人影がどうやってここまで来たのかは分からないけど、神崎が言うように近くの建造物を一時的な仮住まいにしたのか、それとも無理矢理に車でやってきたのかどっちかだろ、多分。危険だけど、吹雪がやんでいるタイミングで佐久間の言う人影の見えた場所付近を捜索したら、足跡が見つかるかもしれない。そしたら、その足跡を辿れば何らかの痕跡が見つかるかも。運が良ければ人影自体を捕まえられるかもしれない。逆に日数が経てば経つほど、その人影についての情報は入手が難しくなるだろうね」
『全然ついていけない。まず、あの人影を見たという証言は見間違いでもなく嘘でもないとどうして分かる? それから、だとしたらあの人影は誰?』
「あの人影が誰なのかなんて知らない。でも、佐久間が人影を見た……つまり、まだ登場していない外部の人間の影を見たっていうのは信用してもいいんじゃない? 外部の人間が関わっているはずだから」
『外部犯ということか? けど、犯人は村上だって』
「そいつは犯人じゃないよ。犯人じゃないけど、事件に関わった外部の人間がいるはずなんだ。それは、凶器が見つからなかったことから導かれる」
『外部の共犯ということか? そいつが、凶器を持ち去った』
「そうだけど、そうじゃない。あー、殺人に関しては別に共犯ってことじゃあないね。相原の殺人に関しては。どこから説明するかなあ。あ、じゃあ、この話はいったん置いといて②と③の話にいっていい? そっちの方が手っ取り早い」
『分かった』
「②の『どうしてまるで事件解決を拒むかのようにシミュレーションが動いているのか』は、単純明快。この事件が解決できないからだ。まあ、こんなものは馬鹿でも思いつく。問題は、どうしてこの事件が解決できないのか、その理由だ。あー、能力不足とかはナシで。いくら能力があってもこの事件は解決できない。それは何故か」
返事を待つが、返ってこない。天童は仕方なく続ける。
「それは、この事件が間違ってるからだ。このシミュレーション上で再現されている事件が、現実の事件とズレている、間違っているから解決できない。つまり、大前提がおかしいわけだ」
『客観的なデータだけを入力したと言っているよ』
「言ってるって、そっち一人じゃないの?」
『二人だ』
「データ入れた人とあんたの関係は?」
『元カノ』
「一体どうして元カノとこんなシミュレーションやってんだよ……まあ、いいや、データ入力した人に聞きたいんだけど、そのデータが客観的で事実に間違いないっていうのは、どうやって判断したの?」
『物理的に証明された情報と、少なくとも二人以上の証言によって裏付けられた情報』
「あー、それそれ、そっち。二人以上の証言によって裏付けられたから客観的事実であり真実。それが、間違ってるんだよ」
『どういうこと? 口裏を合わせて、複数人で嘘をついた?』
「客同士は関係ないんだからそれは無理があるだろ。そうじゃなくて、複数人が勘違いしているんだよ。その勘違いを、間違いないデータとして入力してあるから、この事件は解けない」
『勘違いとは?』
「犯行時刻だよ、もちろん。だから、全員にアリバイが成立しちゃうんだ。犯行時刻はもっと前、全員がリビングで顔を合わせるよりも前なんだ」
また、しばらく返事はない。
≪試行51を一時停止します≫
僕と茶子と互いの顔を見合わせてはそこに答えが書いてあるかのように探りあっている。だが、お互いに訳が分からず、混乱しきっていることを確認し合ったあと、
「ど、どういうこと?」
と茶子が訊いてくるが、こちらが訊きたい。
こちらが口を開くよりも前に茶子は続ける。
「前提条件が間違っていたから、事件の解決がそもそも不可能になっている。それ自体は納得できるけど、犯行時刻が、顔合わせよりも前? そんなことありうるの?」
「つまり、顔合わせの時の相原は、実は相原のふりをした別人。コートは着たまま、階段の途中から挨拶しただけだから、可能なのかな? 犯人が相原を殺した後、相原のふりをしていた……いや、ダメだよね。だって、他が全員揃ってるんだ。相原のふりをする人間がいない」
僕も混乱していて、自分の説にすぐに自分でダメ出しをしてしまっている。
「ああ、ここで僕たちで話し合っても埒が明かないか。奴に訊こう」
「そうね。案外、思いっきり向こうが間違えている可能性もあるから」
確かに。
≪試行51を再開します≫
『つまり、その時の相原は偽物だったってこと?』
「あー? どういう発想? 人数が合わないじゃん」
『だったら、犯行時刻が間違っているというのはどういう意味?』
「だからそのままだってば。あっ、だから、こう言った方が分かりやすいか。犯行時刻と死亡時刻がずれてるんだよ。刺されたのが大分前だってこと。死ぬまでに時間がかかったんだよ」
しばらく天童は待つが、返事はない。
「どうした? さすがに今の説明で分かったでしょうよ。被害者が刺されてもしばらくは出血せずに動き回れていた可能性については、何回も言及されていた。今更驚くようなことじゃあないだろうに」
『待て。つまり、こう言いたいのか? 相原は腹を刺されたが、そのまま顔合わせに参加して、自室に戻った後に死亡した』
「もちろん。それ以外にない。腹部の血管が切れていたけど、ほとんどが内出血+傷口を押さえつけていたことで出血がなかった。それで本人も軽傷だと思ってたんじゃないか。ところが動き回ったせいで切れていた血管がずれて出血、プラスそれで意識を失って仰向けに倒れたせいで腹圧が変化した大量出血ってところじゃない?」
『違う、問題はそこじゃあない。軽傷だと思っていたとしても、どうして刺された相原が何も言わないんだ? 犯人は村上なんだよな? 村上をかばった? でも知り合いじゃあないんだろう?』
あなたが矢継ぎ早に質問を投げかけると、天童はうんざりした顔で、
「それ、全部答えなきゃいけない? 面倒だなあ。創造主って立場で誰よりもメタ的な推理ができるのにそのレベルって、ちょっと心配になるよ。③の『どうして探偵役が毒殺されるのか』については、ちゃんと考えた?」
『②と同じだ。事件が解決できないから、話の流れ上、探偵を殺してしまった。解決しないミステリ小説にしてしまうために』
「アホかよ」
天童は毒づく。
「そんなレベルの問題なわけねええええぇ。あのね、『どうして彼は赤いコップで水を飲んだのか』って問題に『喉が渇いていたから』って答えるアホがいるか?」
ベッドから立ち上がり、天童は頭をかきむしる。
「面倒だからわざわざ手紙を出したのに、結局全部説明しなきゃいけないのか。うわあああ、アホと話してると頭がおかしくなるううう」
『煽ってないでさっさと説明してよ』
「はいはい。とにかく、そんな重複する質問するわけないじゃん。③の質問はね、どうして『毒殺』なのかってのがメインなの。毒殺にかぎかっことかつけて強調しなきゃ分からなかった?」
『殺すのに毒を使った理由? 力がいらないから、非力でも殺せる。でも、犯人は女性ではなくて村上なんだよね?』
「本当にやばいな」天童は真剣に心配そうな目をあなたに向ける。「これは重症だ。ずっとこんなシミュレーションに没頭していたせいで、頭がうまく働いてないんじゃない?」
フィクションの創造物に心配されてあなたは黙る。
「もっと根本的な問題だよ。シミュレーションが事件を解決できないで話の流れ上、探偵を殺すことにした。これは分かる。でも、毒殺? その毒は一体どこから来たんだ? コーヒーに味が妙にならない程度の量を混ぜたら人をほぼ即死させられるような猛毒、まさかオーナーの神崎が趣味で古今東西の毒をコレクションしてるって設定にでもしたの? それこそ非現実的設定でエラーが出るでしょ」
『それはもちろん、犯人が毒を持ち込んだに決まってる。それが?』
「それがああああああああああああああああ? いやいや、もう考えることを放棄してるね。いい? 犯人が毒を持ち込んでいるってことは、もちろん使うつもりだった。けど、それは探偵役にじゃあない。探偵役がいるなんて犯人は事前に知る由もないわけだし。つまり、犯人は被害者を殺すために毒薬を持ってきたってことになる。これに違和感を抱かないアホっているの? いたのか。創造主がそんなアホだとは」
『違和感はあった。言語化できてなかっただけで』
「負け惜しみで草。別の側面から見てもこれは妥当だ。そもそもね、吹雪の山荘で人を刺し殺すなんてアホのすることなんだよ。そんな環境で殺したら、犯人が絞られてしまう。自分が捕まる確率はかなり高そうだ。だったら、少しでもマシにするにはどうすればいいか? あー、つまり、その死が殺人だと思われなければいい。事故、あるいは?」
『自殺』
「そう。自殺に見せかけて殺す。服毒自殺だと思わせればいい。密室で服毒して死んでて、警察が捜査して偽装した遺書でも見つかれば、それでおしまい。何も問題は起きない。さて、そう考えると刺殺事件は、つまり『毒殺事件の失敗』だったってことになる」
『失敗』
「そう、ナイフは多分保険用、脅迫用だったんじゃないかな。ナイフで脅して毒を飲ませようとした。ところが、それが失敗。これで刺殺事件が起きた」
『結局、それがどうして刺されたことを相原が黙っていたこととつながる? 村上が脅してきてナイフで刺してきたなら、なおさら助けを求めるはずじゃないか』
「まだ分からない?」心底呆れた、と天童は大きく溜息を吐く。「脅して毒を飲ませようしたのは、相原の方だよ。ある意味で、本当の犯人は相原だ」
≪試行51を一時停止します≫
16 『V山荘殺人事件』の本当の犯人
頭の中でかちりと何かがはまった音が聞こえた気がする。何かが分かった。あるいは、何かが繋がった。今の天童の一言で、『V山荘殺人事件』の解決の道筋が見えた気がする。
ただそれは感覚的なことで、まだはっきりと分かってはいない。村上が犯人だと判明した理由もよく分からない。ただ、それでも。
「これは、本当に、解決しているのかも」
どうやら同じ考えらしき茶子が言う。彼女の顔は期待にか、上気している。多分僕も同じような顔をしているだろう。
本当に、いけるかもしれない。
「ここまでの話を受けて、僕たちの間で話し合いをした方がいいんだろうけどね」思わず苦笑してから「正直、さっさと先を聞きたい方が強いよ」
「私も同感。この名探偵の話をとりあえず全部聞きたいわ」
僕たちは頷き合ってから、名探偵、天童アキラの推理を再開させる。
≪試行51を再開します≫
「相原が村上を脅して毒をのませようとした。失敗して反撃されて――揉みあいとかになったのかな、とにかく相原の腹にナイフが刺さった。この経緯だと、軽傷だと判断した相原が誰にも言えないのもさもありなん。だって自分が殺そうとして反撃にあったわけだし」
『そうなると、逆に村上がどうして周囲に助けを求めない?』
「まあ、経緯はどうあれ自分が刺してしまったってことでなるべく隠したいって気持ちがあったのと、それとこれは推測だけど村上自身、後ろ暗いところがあるんじゃない? そもそも、ナイフで脅されたってそう簡単に毒を飲むわけない。計画としておかしい。ナイフはあくまでもサブで、他に毒を飲ませるメインの方法があったはずなんだよ。飲まなきゃこれを公表するぞ、みたいなさ、本人の名誉も地に堕ちて家族や周囲にまで大迷惑をかけるレベルの、そういうのがあったんじゃない? なんか、どっかの試行で村上が起業してちょっとやばいこともやったみたいなのほのめかしてなかったっけ?」
『確かに、酔っぱらった村上がそれを喋っていた。ひょっとして、探偵役を毒殺した原因はそれか? 余計なことを喋ってしまったから?』
「知らんけど、理由の一つくらいにはなってるかも。えーと、で、他に何か説明することあるっけ?」
『無数にある。動機は? 初対面で何の関係もないことは警察が確認済みだ』
「ああー、動機ね。どうして相原が村上を殺そうとしたのか。まあ、何をどうやっても相原に村上を殺す動機なんて見つからなかったのは確かなんでしょ。日本の警察を信用しよう。となると、個人的な動機ではない動機があるはず。怪しいのは相原が使用していた匿名のメッセージアプリだ。例えば、あそこに村上殺害の指示があったとは考えられない?」
『殺し屋?』
「弁護士が? また非現実的だってエラーでるよ。ヒント1、相原は少し前から強迫観念にとりつかれておかしくなっていたという証言があった。ヒント2、相原は自分の妻に殺されるかもと疑っていたという証言もあった。ヒント3、古くからの言葉『やられる前にやれ』」
しばらく、反応はない。
だが、やがて、あなたは興奮からか恐れからか、震える指でゆっくりと入力する。
『交換殺人』
「あくまで仮説だけど。自分の妻を殺したい相原と、村上を殺したい誰かが企んだ。お互いにアリバイをつくった状態でターゲットを殺そう。で、まずは村上。そっちが成功したら相原の妻。相原の妻が事件後にも生きている以上、多分この順番だったはず。まあ、順番から考えると相原はちょっと立場的には弱かったのかもね。なんだけど、多分これが大揉めに揉めたんだと思う」
『どうして分かる?』
「人影」端的に天童が答える。しばらく返事がないので、面倒くさげに続ける。「佐久間が見た人影。これは相原の共犯者――つまりその交換相手のはずだ。他に第三の共犯者がいるのを想定する意味はないし。とすると、せっかくの交換殺人なのに相手はわざわざ現場近くまで来てたことになる。普通嫌でしょ」
『確かに。だったらどうして?』
「相原がごねたんだと思うよ。ただ、別に我儘を言ってるわけじゃあなくて、相原の気持ちもよく分かる。だってさ、さっきも言ったけど環境が最悪だ。吹雪の山荘だよ。計画通り自殺に見せかけられたらいいけど、失敗したら捕まる可能性がかなり高い。現場までは来なくとも、近くにいて協力してほしいっていうのは当然だ。で、相手としても、相原が捕まったら自分も危険なわけだからその要求は無下にできない」
『いや待て。じゃあ、どうしてそもそもV山荘で殺した?』
「面倒だなあ。質問を変えてくれ。どうして犯人が村上だと分かった、って。そっちの方が手っ取り早い。というかこの質問をもっと前にするべきだと思うけど」
「どうして犯人が村上だと分かった?」
「本当にそのままだ。別にいいけど。『相原が本当の犯人』説だと、反撃したのは誰なのか。まず犯行のタイミング、それから場所で絞ることができる。犯行のタイミング。さっきも言ったように全員の顔合わせの前に刺されていたとすると、佐久間が証言したように『顔合わせまで村上以外誰も相原と会っていない』のなら、犯人は村上、そしてオーナーの神崎に絞られる。そして、場所。そもそもどうして相原はこんな吹雪の山荘で殺そうという計画を立てたのか。妥当なのは、そこでしか殺せない人間だからだ。つまり、この山荘のオーナーである神崎、それから根無し草で常に日本全国をふらふらと動いているから旅行先でしか殺せない村上。というわけでどちらの面からも犯人候補はこの二人に絞られる」
あなたは名探偵の話を聞いている。
「で。神崎が犯人とは考えられない。何故か。相原の死体の第一発見者が神崎だから。佐久間が相原の部屋に行って、鍵がかかっていると戻ってきて、対応は神崎に委ねられた。もしも、神崎が殺されかけておまけに刺しちゃった立場だったら、まず一人で部屋に行ってドアは開けない。殺そうとしてきた相手なんだから単純に怖いじゃん。しかも死んでいたのを発見して、慌てて戻ってきて全員に死んでいることを発表した。これも犯人だったらやらない。だって死因が自分のナイフの一撃なんだって死体を見たら分かるはずだ。寝てました、だとか、体調が悪いようです、とか適当に言って、深夜に死体処分するとかすればいい。そもそも山荘のオーナーって立場なんだから、いくらでも客を誘導して事件は隠ぺいできた。それをしていない時点で犯人の可能性は低い。よって犯人として妥当なのは村上。ただし、決定的な証拠はないから、事件直後に何とかあの人影の正体を突き止める手がかりを得る必要がある。こんなとこかな。ああ、喋りすぎた。全く、結局全部一から十まで喋らなきゃいけなくなった。もうないよね、質問」
『ある』
「嘘だろ」
天童は絶望に顔を青くする。
『どうして凶器は見つからなかった』
「ああああああ、もう、いい。もう、あれだ、シミュレーション、ここまで探偵役が説明したんだから事件解決したってことで、再現ドラマみたいなのやってくれ。頼む。もう面倒。僕は寝る。もう、それで終わりでいいな、いいよな、ハイ決定。もう何もしないぞ」
そう喚くと天童はぼん、とベッドに倒れ込む。
探偵役の語ったことを真実として、相原を視点人物にした過去のシーンがスタートする。
17 『V山荘殺人事件』の真実(これは仮のものです)
相原は何度目かの確認のメッセージをアプリで送信した。
まったくいい加減にしてほしい。こんな危険な状態での殺害をさせるのだから、全面的な協力を惜しまないのは当然だろうに。交換殺人の意味がない、と言って、現場の近くで待機することをここまで渋るとは。
「私が捕まれば、自分も芋づる式だと分かってるのか、くそっ」
思わず苛立ちが独り言として出てしまった。しまった。落ち着かなければ。爪を噛んだ。
自室だからよかった。これが、他の客の前で出てしまったらその時点で終わりだ。
落ち着け。
自分に言い聞かせた。
サイドテーブルの上に準備した道具を眺めた。準備は完璧だ。ナイフ。錠剤の毒薬が入った小瓶。そして相方が用意した偽造された遺書。どれも、絶対に購入履歴から足がつかないように準備したものだった。
完璧な下準備。それはいつでも相原を落ち着かせてくれる。
よし、問題ない。
それに、相方に教えられたあの秘密。これを公表するぞと脅せば、おそらく相手は折れる。少なくとも相原ならば折れてしまう。
もちろん、致死性の毒薬を目の前で飲め、と言われればさすがに飲まないだろう。だが、こちらで毒薬を入れたコーヒーを飲むように強要してしまえば、どうだろうか。絶対によからぬものが入っていると分かっても、それでも一縷の望みにかけて飲むだろう。愚かなことに。もしもそれでも渋るようならば、ナイフを使って更に物理的に脅してしまえばよい。手首や首筋の傷ならば、ためらい傷に偽装することだってできる。そうだ。相原は弁護士という立場から得た知識を使って、この計画を綿密に組み立ててきた。
問題はない。間違っていない。そう、相原はいつも間違っていない。間違っているのは、いつだって世界の方だった。
それに、運がよかったこともあった。
準備のためにも早めに山荘に着いたために、自分が一番乗りだったのは予想通りだった。だがまさか、ターゲットが二番目に到着して、主人と相原とターゲットの三人だけになるとは。これは、このタイミングで犯行を行えという啓示ですらある。
相原は精密機械を扱うような手つきで、丁寧にサイドテーブルの上の道具をコートの左ポケット、内ポケット、右ポケットと仕舞っていく。
さて、いくとしよう。これで自分の命を狙っているあの女を葬ることができると思えば、ここからターゲットの部屋の動線はまさに天国への道だ。
相原は青白い顔に笑みを浮かべて、足取りも軽く自室を出る。ターゲットの男、村上に死を運ぶために。
数十分後。
「ぐうう」
同じ道を、よろめきながら戻り、相原は後ろ手にドアを閉めた。
何とか、自室に戻ってきた。
「ああ、くそっ」
腹の傷口を押さえた。幸い、傷は深くはないようだ。出血もほとんどない。シャツに血がにじんでいる程度。
ドアにすがるようにして立ちながら、相原は息を整えた。
ターゲットがあんな野蛮人だとは思ってもみなかった。まさか、ナイフを突きつけられた状態で反撃してくるとは。揉みあいになり、ナイフを奪われかけて、最終的に相原の腹にナイフが突き刺さった。結構深く刺さったような気がしたが、とにかくナイフを取り返して部屋まで逃げ帰って来るので精一杯だった。
ナイフ。ナイフはとりあえず取り返した。遺書は左ポケット。毒入りの小瓶。そこまで確認したところで愕然とした。ああ、村上のところで毒を混入するのに一度取り出して、それを仕舞おうとしたタイミングで反撃にあって揉みあいになった。毒薬は、村上の部屋に残っている。気が狂いそうだ。何とか深呼吸をする。
息が落ち着いたところで、少しだけドアを開けて隙間から外の様子を伺う。
騒ぎにはなっていない。どうやら、村上は屋敷の主人に助けを求めたり警察への通報を頼んだりはしていないようだ。
それはそうだ。向こうだって、決して他に知られてはいけない醜聞があるのだから。
アプリで相方に報告をする。失敗して反撃を食らったこと。まだ騒ぎにはなっていないこと。相方はひどく興奮しているのが分かる文面を返信してくる。向こうもパニックになっているようだ。とにかく逃げろ。そう言っている。逃げられるものなら相原だって逃げ出したい。だが、予報ではもうじき吹雪が酷くなってくるはず。
迷っているうちに、知らない声がリビングの方から聞こえてくる。そして出迎えるオーナーの声。どうやら、他の客が到着してしまったらしい。ますます、逃げ出せない。
そうこうしているうちに次々と他の宿泊客が到着してくる。しかも、相原には理解できないことに全員が荷物を置いてはすぐにリビングに戻って雑談をしているようだ。
あろうことか村上まで下に降りて、何食わぬ顔をして雑談に参加しているらしい。自分のことを喋っていないか、相原は気が気じゃあない。実際、何度か自分の名前が聞こえてきた気がした。
ずっと自室のドアの隙間から外の様子を伺っていても、限界がある。意を決して、相原は部屋を出た。コートの下で、強く傷口を押さえた。間違っても血の一滴もこぼれないように。
階段を降りた。一段、また一段。その衝撃が傷に響く。痛みが強くなっている気がしてくる。ひょっとしたら、思ったよりも軽傷ではないのかもしれない。
降りている途中で、リビングに集まっていた客が相原に気づいて全員こちらを向いてきた。思わず息をのんだが、どうやら相原を犯罪者としている視線ではないと分かって安堵した。村上は何も喋ってないらしい。彼とも目が合ったが、すぐに彼の方が目をそらす。しかし、全く平然とした様子をしていた。相原からすると信じられなかった。一体、どういう神経をしているのか。
安心して力が抜けたタイミングで、腹部が更に痛んで、気分が悪くなった。それ以上階段を降りるのを断念して、止まって最低限会話に参加した。
傷口をさらに強く押させつけて、挨拶もそこそこに、全力を尽くして階段を上がる。一歩、また一歩。血がこぼれていないか心配になってコートの中を見ると、シャツが赤く血に染まりつつあった。
喘ぎながら自室に戻った。間一髪、血が室内に少しこぼれる。
気分が悪い。頭もぼんやりとする。ドアの錠をかけて、アプリでメッセージを送信する。今の状況。逃げるのは難しい。気を失うかもしれない。そんな内容だ。すぐに返信。逃げろ。できないなら証拠を捨てろ。とにかく、警察を呼ばれたらこのままアウトだ。
確かにそうだ。無性に寒くなっていく中、相原は思った。このまま倒れて警察や救急車を呼ばれたら、偽装の遺書にナイフに毒薬、ああ、毒薬はなくしたんだった、とにかく証拠がある。証拠さえなければ、村上だって黙っているはずだから、これが表沙汰になることはない。
またメッセージ。窓から捨てろ。私が回収する。そういう内容だ。
よろよろと窓まで進み、開けようとしてはめごろしであることに気づいた。ナイフを叩きつけて窓を割った。重労働だ。荒い息をついて、割れ目からナイフを、それから遺書も丸めて投げ捨てた。毒薬は捨てられない。なくしたから。そういえば相方に毒薬をなくしたことは伝えただろうか。もう相原には分からない。
相方が回収にくるのを窓から確認できるだろうか、と窓の前で静止しようとしたのに、揺れた。体が揺れていた。おかしいと思って相原は自分の体を見下ろした。
シャツはまんべんなく赤く染まっていて、そこからぼたぼたと垂れていた血が床に広がっていた。驚いた拍子に大きくよろめいて、相原はうつ伏せの状態になった。途端、とてつもない量の何かが腹部から飛び出ていく感触と同時に、相原の意識は途絶えた。
≪試行51を終了します≫
エピローグ 試行51のフィードバック
しばらくの間、僕も茶子も黙ってもう動かないディスプレイを眺めていた。
やがて、ぽつりと茶子が言う。
「終わったわね」
「ああ、終わったね。どう思う? これが真実かな」
「少なくとも一つの新しい視点だとは思う。発表したら結構話題になりそうね」
「発表、するの?」
僕の質問に、彼女はううーん、と唸って首を振り髪を振り乱す。
「無理、よねえ。少なくともすぐには」
「だよなあ。探偵役が言っていたように、これには証拠がない。証拠がないのに犯人を名指し、どころか、被害者も犯罪者だって告発する内容なんだから」
「事件直後に、まだ痕跡が残っているうちに相原の協力者とやらについて徹底的に捜査していれば別だったでしょうけどね」
それこそ、シミュレーションがアドバイスしていた通りに。
ずっと食い入るようにして長い間画面ばかり見ていたせいで、気が付けば体がばきばきだ。大きく伸びをする。首をぐるぐるとまわしながら、深呼吸。
「とりあえず、けりはついたね」
「確かに。あとは、この結果をどうやって予算獲得に結びつけるかだけど……」と茶子は整った顔を俯かせて思考に沈んでいる。「……まあ、とりあえず、知り合いの知り合いの探偵にでも軽く話してみようかな。かなり慎重にやらないといけないだろうし」
「そんな知り合いいたんだ」
「知り合いの知り合い、ね。外堀を埋めに埋めて、もしも警察がちょっとでも興味を持って動いてくれたらとりあえずラッキー。それから、今回のシミュレーションシステムの売り込みを始めないと……先は長いわね」
うんざりといった口調だが、彼女の顔自体は晴れやかだ。
諦めるしかないと思っていたこの件に一応は決着がついたからだろう。
僕も、正直なところ何もしていないにも等しいが、まるで大いなる謎を解いた、何か偉業を成し遂げたような達成感がある。
窓の外は、既に日が沈み、気分転換のために少し窓を開けると火照った体に心地よい夜風が顔を撫でる。
やけに月がきれいだ。
「なあ」勇気を出して振り返り、茶子に語りかける。「この後さ、よかったら一緒に夕食を――」
「あ、ごめん、この後彼氏の家で鍋する予定だから。ヤバ、時間遅れそう」
ばたばたと茶子が片づけを始めている。
衝撃を顔に出さないように自制心の限りを尽くし、僕はごまかすために薄く笑ってもう一度月を見る。
やれやれ。51人の探偵役がどこかで一斉に呆れているのが聞こえた気がする。
≪試行AE#3を終了します。≫
≪チェックポイント≫
・名探偵のキャラクターではなく「名探偵創造」自体をテーマにしている。
・事件自体が小粒。少なくとも文章量と比例していない。
・創作物内の登場人物が「これは現実ではない」と気づくのはありふれたプロットである。
・これは現実ではない。
・あなたも現実ではない。
了
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