GOSSIP/ゴシップ

目次

     1

 男の案内で応接間へ踏み入ると、ソファのうえに人形らしきものが座していた。
 亜麻色のおさげ髪に黒い瞳。美女と言うには尺が足りず、あどけないと言うには整い過ぎている。クラロリ系の嵩のあるドレスを身にまとう姿は、まるでフリルの山に埋もれ、そこから白い手足や小さな首がはみ出しているかのよう。
 人形の視線を辿ると、そこには壁に備え付けられた薄型液晶テレビがあった。流れているのは、お笑いタレントが場を回す種類のいかがわしい情報バラエティ番組。そのほかの家具はアンティーク調のもので揃えられており、白い壁紙に、真っ赤なカーペットの敷き詰められた洋風の内装は、どこか人形に合わせたつくりものめいていて――寸法の狂ったドールハウスに迷い込んでしまった錯覚に陥る。
 さらにテーブルには人形のために準備されたと思しきティーセットとテレビのリモコンが置いてあり、その生活感からは壮大なごっこ遊びの印象を受けた。
 この男には人形趣味があるのだろうか――本人を横目に見ながら、伊原美咲いばらみさきは思案した。
「違いますよ」
 そんな矢先、思いがけぬ方向から声がかかり、美咲は肩を震わせた。
 それは聞こえるはずのない声だった。男は口を開いていなかったし、そもそも耳にしたのは女の声。視線を転じても、そこには人形が座っているだけで人の姿は見当たらない。……まさか人形が口を利いたとでも言うのだろうか?
 不気味な想像をふくらませ、冷や汗が首筋をなぞる不快な感触を意識したとき、やおら人形が喋りだした。
「僕は人形ではありません。従って透哉とうやも人形趣味は持ち合わせていません」
「え? あ……」
 美咲が言葉に詰まっていると、相手はふと表情をやわらげた。
「申し訳ありません。あなたが僕の存在をみとめたのち、透哉に訝しげな視線を投じていたのでそう邪推しました。そりゃ大の男が人形遊びに興じているのは気持ちが悪いですよね。まあ、透哉を少女趣味の変態と認識した可能性も捨てきれませんが、その驚きようを見るに僕の想像は間違っていなさそうです――僕の邪推はよく当たりますから」
 一方的にまくしたて、人形――いや、人形と見紛う少女は。
 ソファから立ち上がり、ひたすら圧倒されるばかりの美咲と視線を合わせると――優雅にお辞儀した。
「初めまして。邪推師じゃすいし卜部誰何うらべすいかと申します」
 その姿勢のまま面を上げ、微笑を浮かべた。
「ここまでの挨拶に、他意はないので悪しからず」


     2

 卜部誰何との奇妙な対面ののち、井原美咲は邪推師と名乗る謎の少女と顔を突き合わせる格好でソファに座った。案内の男――たしか透哉と言ったか――は誰何の背後に控え、その長身痩躯をアンテナのように直立させている。
「あの……邪推師、とは? ここは探偵事務所と伺ったのですが……」
「その認識で問題ないですよ」
 なんとも煮え切らない返事だ。こちらもはあ、と曖昧に肯くしかない。
 彼らに任せて本当にいいのだろうか――美咲はしばらくのあいだ逡巡したが、
「三日間、わたくしをお守りして欲しいのです」
 けっきょくそのように本題を切り出した。

 ――そもそもの発端は恋人の裏切りだった。
「かねてより怪しいとは思っていました。急に会えない日が増えたり、彼の趣味じゃない服を着るようになったり、前まではそんなことなかったのに、携帯電話を風呂場にまで持ち込むようになったり――彼はドラマを観てるって言い張るのですけど、サブスクにそういった視聴履歴は残ってなくて。
 決定打になったのは、彼へかけたはずの電話に知らない女が出たことでした。『はい。もしもし』と、そいつはいけしゃあしゃあと言ってのけましたわ。……いまにして思えば、彼女はわたくしにあえて自分の存在をアピールしたのだと思います。お前の男を寝取ってやったぞ、と。
 はっきり言って、かなり頭に血が上りました。ここでは到底言えないようなことを口汚く罵りました。ですが、相手がどこまで聞いていたのかは分かりません。いつの間にか通話は打ち切られていましたので」
 そのときの悔しさを思い出したのだろう。顔色はあくまで冴えないままだが、握りこぶしが震えている。
「正直、その晩はお酒の力を借りないとやっていられませんでしたわ。普段は、そんなに飲むほうじゃありませんのよ。でも、恥ずかしながらその日は正体を失くすほど飲み明かしました」
 この話はどこへ向かっていくのだろう――透哉はぼんやりそう考えたが、そのとき美咲が覚悟を固めたようにひと呼吸おいたので、おそらくここからが本題だろうと察し居住まいを正した。
「深夜に目が覚めました。と言っても時計を確認したわけではありませんの。ただ、飲み始めたのが日が暮れてからで、目覚めても夜だったからそう判断しただけですわ。
 酷い飲みかただったみたいで、すごく頭が重かった。それで夜気に触れたくなって、ベランダに出るガラス戸のカーテンを開きましたの。
 それで見てしまったんです……。
 ――隣のマンションのちょうど真向いの部屋で、人が争うところを」
 酩酊状態の美咲には、最初、目の前の光景がどのような意味を持つのか理解できなかった。
 だが、次の瞬間に酔いは吹き飛んでいた。
 男が右手に持った刃物を振りかぶったのだ。ハッと息をのむ。そのとき――。

 相手が。
 はっきりと。
 美咲の存在を認識した。

 目が合ったのだ。美咲の全身が粟立った。
 しかし男は止まらなかった。
 なぜなら、頭上に掲げた刃はいままさに振り下ろされる瞬間だったから――。
「そこから先のことは記憶にありません。どうやら殺人を目撃したショックで気絶したようです。
 目が覚めて、すぐに警察に通報しました。それから……駆けつけた警察官に事情を説明しました」
 隣家――《郭公荘》と言う名のマンションで殺人が起こったこと、それはちょうど美咲のいる部屋の真向かいであったことなどを伝えたという。
 話のなかで美咲はやたらと《真向かい》であることに拘ったが、透哉にはそれがいまいちピンと来ない。
 その気配を察したのだろう。美咲はその事実がなにを示すのか補足していく。
「わたくしは《シティハイツ与那覇》と言うマンションの五階に部屋を借りています。目測なのですが、郭公荘とシティハイツ与那覇のワンフロアごとの高さはほとんど同じで、だから真向かいの部屋も同じように五階になるはずなんですが……」
「そうなりますね」と誰何が相槌を打った。
「郭公荘もシティハイツ与那覇もワンフロアに部屋がふたつあって、真向かいの部屋は部屋番号の末尾が《~〇二》になっていました」
「つまり、殺人が起きたのは郭公荘の五〇二号室と言うことですね?」
 美咲は神妙に肯いた。
「そうなのです。……警察のかたにもそう申し上げて、郭公荘の五〇二号室へ向かいました。と言ってもわたくしは部屋の前まで立ち会っただけですけど。
 一階に住んでいる大家さんにも立ち会ってもらい、部屋の鍵を借りて警察のかたが中に入りました。ですが……」
 そこで言葉を切る。誰何は愛想よく微笑するばかりで続きを促すことはしなかった。やがて美咲のほうから自発的に口を開く。
「そこは空き部屋でした。……そして、死体はありませんでした」
「犯人が死体を持ち去ったということ?」透哉が口をはさんだ。
 美咲は重々しい動作でかぶりを振った。
「分かりません。……ただ、刃物で刺したのだから、ふつう血痕が残っているはずですわ。それすらなかったんです」
「犯人が痕跡を消し去ったんだろう」
 透哉が思いつきを口にすると、彼の雇用主が否定した。
「下手人は目撃者の存在に気づいています。逃亡することに必死で、痕跡を片付ける余裕などないでしょうね。と言うより、見られた以上そんなことをしても意味がない」
「そのとおりなのです。にもかかわらず、現場からは死体や殺人の痕跡が消し去られている……。付け加えると、警察が五〇二号室に踏み入った際、部屋には鍵が掛かっていました」
「――密室、ですね」
「はい。でもそれはおかしいんです……」
 語尾が濁り、しばらく間が空く。どうおかしいのか、説明の段取りを整理しているのだろう。だが、上手くまとまらないようだ。時間がかかりそうだったので、けっきょく誰何が引き取った。
「どうして犯人はわざわざ鍵を掛けて出て行ったのか――ということでしょう。
 現場は空き部屋ですから、鍵を所持しているのは大家しかありえません。大家が犯人であると仮定しない限り、部屋に侵入するには大家から鍵を盗むかピッキングで錠をこじ開けるしかない。しかし現場検証に大家が立ち会い、部屋に問題なく入れたということから、大家が所持する鍵に不審な点はなかったことが分かります。であればピッキングにより侵入したと考えるほかありませんが、その場合は美咲さんに犯行を目撃された犯人がわざわざピッキングで施錠していくのが不自然――これは部屋の鍵を持っていたとしても同じですが――要するに、犯人に密室を構築する理由がない」
「そ、そうです! そうなんです!」
 美咲は興奮したように何度も肯いた。だが突然その勢いをなくし、伏し目がちになった。
「……しかしそのせいで警察はわたくしの話を疑い始めました」
「目撃したはずの死体はなく、現場は犯人にとって不必要な密室状態。さらに目撃者はつい数時間前まで酒で酔いつぶれていたと来れば、証言を信用しろというほうが無理でしょう」
「でも! 確かに見たんです! あれが夢だったなんて、そんなの……」
「部屋が違ったとか? 階数を数えたわけではないんですよね。フロアが違った――あるいは五〇一号室だった可能性も」
 懸命に訴える美咲の様子に透哉はいたたまれなくなり、フォローのつもりで考えを口にした。しかしそれは逆効果で、美咲はむしろムキになったように熱っぽい口調でまくしたてた。
「部屋は完全に真正面だったんですよ! わざわざ指さしで数えなくても、階を間違えることはありませんわ! それに……警察は念のため五〇一号室も確認していましたが、そこには若い女性が住んでいて、事件とはなんの関係もありませんでした」
「いちおうの確認ですが、美咲さんが目撃したという殺人犯は郭公荘の大家と同一人物でしたか?」
「違いますわ。わたくしが見たのは長身の男性だったように思います。ほとんどシルエットしか見えませんでしたが、被害者のかたとはかなり身長差がありましたし……。大家さんはかなりお年を召したご婦人で、とても同一人物とは思えません」
「被害者の性別は分かりますか?」
「そうですわね……こうして訊ねられるまでは被害者のかたもなんとなく男性と思っていましたが、あの身長差であればもしかしたら女性の可能性もありますわ」
 要するに分からないということだ。
 こうなると透哉にはお手上げだった。美咲の証言はちぐはぐである。密室。死体消失。いくら美咲の言葉を信じたくとも、それらの謎が透哉を阻む。
 すべてはアルコールが見せた幻覚――そう考えればすべてのつじつまは合う。
 しかし、それで納得できないから彼女はここを訪ねたのだ。そんな結論を突き返したところで生産性はない。
「それで、そのあと警察はどうしました」
「寝惚けたわたくしの見間違え、もしくは夢でも見たんだろうと結論しましたわ。それが四日前のことでございます」
「お騒がせな酔っ払いに振り回された――というところでしょうね。しかし、現に事件を目撃した美咲さんはそれで納得行くはずがない。下手人は、あなたの存在を認知しているのだから」
「そうなんです。わたくしがここに来たのは、今日から三日間、お二方にボディガードをお願いしたいからです。警察は当てになりませんわ」
「三日間というのは?」
「今日を含めた三日間――ですので、正確にはもっと短い期間になりますわ。明後日の午後に引っ越し業者を手配しております。それまでのあいだ、わたくしを守って欲しいということですわ。こうなった以上、いまのマンションにはいられませんもの。欲を言えば犯人を捕まえてほしいものですけれど、引っ越しが終わるまでのあいだわたくしの身の安全を保証してくだされば言うことはありませんわ」
 最低限の努力義務はあるだろうが、最悪犯人を捕まえる必要はないということか。そもそも事件が起こったのかいまだ疑わしい透哉にとって、それは必要不可欠な条件に思えた。
 これは受けてもいい仕事だろう。誰何と目を合わせる。ただし、透哉からなにかを訴えかけているわけではない。すべては雇用主である彼女が決めること。透哉にはなんの権限もない。
 やがて誰何は重い腰を上げて立ち上がった。ずんぐりしていたフリルの山が猫のように伸び、ドレスの裾から脚が見えるようになる。
「僕のヒールがどうして高く尖っているのか分かりますか?」
 お決まりの台詞である。続く言葉を奪らないため、透哉はあえてなにも言わなかった。
「――僕の足元にひれ伏す真実を、この足で踏み貫くためですよ」
 亜麻色のおさげ髪を撫でつけながら、誰何が不敵に笑った。
「いいでしょう。透哉、すぐに支度を始めてください。このお方を我々で御守りするのです」

     3

 エレベータは駆動音を立てながらゆっくりと上昇し、五階に到着した。
 シティハイツ与那覇は十階建ての縦に長いマンションだった。エレベータを出ると左右にひとつずつ部屋を構えていて、目的地は左側にある。
 美咲が部屋の開錠を行っている最中、透哉は駐車場に停めた社用車のことが気になっていた。美咲は駐車場を契約していたが、自家用車で埋めていた。美咲が「お隣さんは使ってませんわ!」と主張するので彼女の車のとなりに停めたのだが、いまになって気になってくる。駐車場のトラブルは厄介だ。以前それで面倒を起こしたことがある。
「開きましたわ。どうぞ」
 部屋主に促され、ふたりは五〇一号室に入る。
「あの! 靴!」
 美咲が慌てて制止した。
 誰何が土足のまま室内に踏み込んだのだ。
「失礼」と言いながらもまったく悪びれた様子はない。美咲は引っ越し直前に部屋を汚されることが借主にとってどれほど大問題なのかを説いたが、誰何相手では馬耳東風だった。やがて諦めてなにも言わなくなる。幸いにして、床を観察してもヒールでつけたような痕は見当たらない。誰何のパンプスはヒールが細くやたら尖っているので、これは不思議なバランス感覚だ。
「――んもう、分かりましたわ」
 美咲が玄関に揃えた靴を履き直して声高々に言った。
「三日間狭い室内で顔を突き合わせる仲です。わたくしたちのあいだは無礼講と行きましょう! どうせ明日には大掃除するのですから、土足解禁といたしますわ!」
 決心をつけてフローリングに上がる。ドカドカとあえて音を立てるみたいに通路を歩いた。
「ふだんできないことをするのって気持ちがいいですわね。わたくしの彼も――」
 そこまで言いかけ、顔をほんのりと赤くし口を噤む。
「ささ、透哉さんも靴をお履きになって」
 誤魔化すように透哉に土足を勧めた。
 べつに土足で他人の家を踏み荒らしたい欲望はなかったが、そう促されたからには断る必要もない。シューズを履いて部屋に上がる。
 玄関は狭く、洋室に向かって短い通路が伸びていた。途中、右手にキッチン、左手にバストイレがあった。通路を抜けると空間が拓け、洋室となる。全体で八畳の部屋だった。
 美咲は二日後にここを出ていくと言う。殺人を目撃してからの四日間は役所やインフラの解約手続き等に追われ部屋を空けることが多かったが、引っ越しの二日前ともなるとそろそろ荷造りを始めなければならない頃合いだ。当然、その間は部屋を離れることができないので、このなんとも中途半端なタイミングでボディガードを雇う必要が生じたわけである。 
 誰何が問題の窓へと近づき、カーテンを開けた。
「あれが郭公荘ですね」
 透哉も窓に近づいて向かいの建物を見た。
 コンクリート造りの古びたマンションだ。見るからに年季の入った薄汚れた外観である。
 距離は近く、ここからでも部屋の様子を窺うことができた。と言っても分かるのは和室だということだけだが。
「たしかに、ちょうど真正面に部屋がありますね」ベランダに出、指さしで階数を数える。「向こうも五階で間違いないようです」
 つまり、この窓越しに向かいの部屋の殺人を目撃した場合、それは間違いなく郭公荘の五階で起きたことになる。そこは美咲の訴えどおりだ。
「なるほど。六階や四階で起きた殺人を五階で起こったと勘違いすることはないわけか」
「そもそも窓越しでは他所の階で起こった殺人を目撃することじたい困難でしょう」
 透哉は肯いた。
 郭公荘と距離が近いうえ、両方のベランダの柵が視界を阻んでいるため、窓越しでは真正面以外の部屋を覗くのは難しい。ベランダに出ればまた別だろうが、美咲の証言にそのような話はなかったし、殺人を目撃した人物がわざわざベランダへ出て自らの存在をアピールするとは考えにくい。
「分かっていただけましたか?」
 窓のふちに手を掛けた美咲がそう言った。その口調には、丁寧に状況を確認していくふたりの姿勢への不満があるように見える。要するに「まだ話を疑っているのか」という意味だろう。
 ふたりは返す言葉もなく部屋に引き返した。
 その後、誰何は検証したいことがあると言って部屋を出た。身辺警護の任には透哉ひとりを残しておけば問題ないという判断だ。
 透哉は身長が一八五センチと人並外れた図体をしている。短すぎずサイドを残したスポーツ刈りに、精悍な顔つきも相まって見た目には腕っぷしがありそうである。しかし透哉にスポーツの経験はないし、ましてや喧嘩などしたことがないので、本人にも腕のほどは分からない。争いとなれば透哉には有利と言えなくもない特性があるが、それは同時に弱点でもある。まあ、それを差し引いてもとりあえず美咲に安心を与える程度の効果はあるだろう。
 誰何が不在のあいだ、美咲はお気に入りの本と不要な本を仕分けし、段ボール箱に詰めていった。不要な本はこのあと古本屋に持って行くのだと言う。
 部屋は一人暮らし用にカスタムされており、来客用のソファなどはないため、落ち着ける場所がない。他人の椅子やベッドに座るわけにもいかないし、床に腰を下ろすのはなんだか図々しい。仕分けは美咲のセンスで行われており透哉に手伝う余地はないため、彼は所在なく通路のほうに立っていた。
 手を動かしながら、美咲はいくつか口を利いた。
「あの、誰何さんは本当に探偵なのですか? 邪推師というのはどのような意味でしょうか……」
 事務所でも同じ質問をしていた。誰何の答えではわだかまりは解けなかったのだろう。
 探偵を訪ねたはずなのに、出てきたのは人形のような華奢な少女で、しかも邪推師という耳慣れない称号を自称するのだから、依頼人が不安を覚えるのも仕方ない。
 透哉はなるたけ不安を解消するよう努めた。
「探偵という理解で合ってるよ。邪推師というのは……誰何がそう名乗っているだけだな」
 しかし、努力のわりに彼の返事はやや不愛想だった。基本的にこの青年に愛想はない。ただ、どこか実直な――あるいは不器用な佇まいがあって、それが他人には好印象に映ることが多く、あまり損はしなかった。
「はあ……」
 美咲はいまいちピンと来ていないようだ。これでは誰何の返事と変わらない。なにかを付け足そうとして口を開きかけたところで、美咲が問いを重ねた。
「では、探偵さんなら最終的には犯人を捕まえてくださると考えてよろしいのですね?」
 美咲の依頼はあくまで犯人の口封じを阻止するボディガードだが、殺人者が野放しのままでは引っ越し後であろうと殺人者の影がちらつくだろう。それは精神的に参る。であれば殺人者が捕まるのが事態収拾の方法としていちばんだが、今回のように容疑者が限定されていないケースだと、警察力を持たない誰何たちには襲撃の瞬間――つまり現行犯を取り押さえるしか幕引きの方法はなく、部屋に待機するしか仕様がなかった。
 死体が見つかりさえすればあとのことを警察に任せるという手もあるが……。
 そもそも透哉は実際に事件は起きていないのではないかと考えている。
 美咲が嘘を吐いていると言いたいわけではない。ただ、密室や死体消失の謎を解決するいちばん手っ取り早い考えが「美咲の勘違い」なのだ。
 その場合、犯人が見つかることは永遠にない。つまり犯人の確保という明瞭な幕引きは訪れない。
 透哉はあいまいに首肯するしかなかった。
 そのとき。
 おーーーーい、と、外からこちらに呼びかける声が聞こえた。
 すわ何事かと思い窓際へ駆け、カーテンを引くと、真向いの部屋――すなわち郭公荘五〇二号室で誰何が大きく手を振っていた。
「なにをしていらっしゃるんですか!?」
「確認ですよ。向かいの部屋が本当に五〇二号室なのか」
 べつに疑っていたわけではないだろうが、要するに自分の目で確かめるまでは何事も真とすることはできないという態度だ。ムキになって訴えていた美咲だから、愉快な気はしないだろうなと透哉は思った。
「それで、五〇二号室であってたのか?」
「正真正銘ここが五〇二号室ですよ」
 そう言って誰何は部屋の奥へ引っ込んだ。まだ確認することがあるのだろう。
 美咲の話がひとつ事実と確定したところで、事件は存在しないという透哉の考えは変わりそうになかった。むしろ自説は強固になったと言っていい。
「誰何さんはどうやって部屋に入ったんでしょう」
 美咲がもっともな疑問を口にする。
「さあ……大家に話を通して鍵を借りたんじゃないか」
 そう答えつつ、大家を騙したか鍵を盗んだかのどちらかだろうと透哉は踏んだ。

 午後、美咲は仕分けした本を持って古本屋へ出かけた。透哉は付き添いを申し出たのだが遠慮――というかやんわり拒否――されたので部屋に残った。
 考えてみれば透哉の仕事には犯人の確保(できれば、だが)も含まれているので、部屋を空けるわけにはいかない。だいいち、例の殺人者が美咲を狙うとしても、手掛かりはこの部屋しかないのだ。襲撃されるのは留守番の透哉であり、外出中の美咲ではない。
 ひとり留守番をしているところに誰何が帰ってきた。調査は終わったようだ。
 彼女は依頼人がいないことを気取ると、鬼の居ぬ間に洗濯の好例を示す意図でもあるのか、まるで自分が部屋の主であるかのように振る舞い始めた。
 いちど窘められたパンプスでふたたび部屋を荒らすのはいいとして、ベッドに腰掛けてテレビを点けるのはいかがなものか。
「おい。帰ってきたらどうするんだ」
「そのときはすぐに分かりますので大丈夫ですよ」
「バレなきゃいいって問題じゃないだろ」
「バレなければいいという問題でしょう。それに、この部屋では無礼講です」
 あまりにもふてぶてしい言い草に、透哉は二の句が継げなくなった。
 人前では多少猫を被っているが、本来の彼女はこのように傍若無人な性格だった。傍若無人というか品性下劣というか。下世話な詮索好き。その嗜好は視聴する番組にも表れている。誰何が好むのは低俗な情報バラエティだ。有名人の不祥事をあげつらい、好き勝手に寸評するのが彼女の生きがいなのである。
 透哉が視線をテレビ画面に転じると、やはり下世話な番組が映っていた。
「はああ? 男女ふたりがホテルに入ってなにもせず帰ったあ? 馬鹿ですねえ。そんな下手くそな言いわけがありますか。寿司屋で寿司を食わなかったと言うつもりですか」
 まともに聞いていられないような見解を心底愉しそうに述べている。
「最近の寿司屋はラーメンとかもあるからな」
「来ます」
 透哉はわざとピントのズレたことを言ったが、誰何の受け答えはさらにズレていた。
 その意味を思案していると玄関ドアが開き、部屋の主が帰ってきた。「来ます」とは美咲のことであったらしい。
 美咲は無礼講とは言ったものの、部屋主の不在時に予想以上にくつろぐゲストを見て目を丸くしていた。
「お、お疲れ様です。……あの男は来なかったようですわね」
「ええ。こちらはいたって平穏そのものでした」
 そのやりとりを見ながらふと思いいたる。
 誰何はこのフロアに人が現れた気配を察知できるようだが、その人物が美咲なのか下手人なのか、はたまた隣人なのかまでは分かるまい。ドアが開いた瞬間、例の殺人犯が出てきた可能性もあったわけで、本来ならもっと警戒すべきだったのだ。「来ます」では言葉足らずがすぎるが、かと言って透哉の気の緩みは正当化できない。それを言うなら誰何だってもっと警戒心を見せてもよさそうなのだが、あれはあれで注意していたのだろうか……。
 むろん、透哉はいまだに「事件は存在しない」という考えを支持している。だから警戒するだけ無駄なのかもしれないが――依頼は依頼、やはり真剣に取り組むべきだし、そうしたところで損はない。
 透哉はいまいちど気を引き締めた。
 ところが肝心の依頼人がそうさせてくれなかった。
 美咲は冷蔵庫から缶チューハイやつまみを取り出し、テーブルに並べた。
「これは?」
「冷蔵庫の電源を切りますので、中身を減らそうと思いまして。よろしければ透哉さんたちも」
「いや。いまは仕事だから……」
「ひとりじゃ飲み切れませんわ」確かに缶チューハイの数は大したものである。「できればお手伝いしていただきたいのですが……あの、迷惑でなければ……」
 そのような頼みかたをされると透哉は弱かった。酒は得意じゃないが、かと言って酔いやすいたちでもない。
「そういうことなら……」
「わあっ。嬉しいっ」
 警護に支障ない程度に付き合う分には問題ないだろう。言われるままにひと缶手に取った。雇い主を見ると、彼女もチューハイのプルタブに指を掛けているところだった。
「誰何さんはお酒が飲める年齢でして?」
「言わなければ確定しませんよ。確定しなければ、未成年飲酒にもなりませんから」
「あらあら、そんなことちっとも気にしていませんのよ。それより、おいくつなんですの?」
 誰何は頑なに年齢を答えなかった。非行が知れたところで気にする性分でもないので、たんに答えたくないだけだろう。
 美咲は酔いの回るのが早いうえに大変な酒豪なので手が付けられなかった。縦に割いて食べるチーズが手から逃れるような素振りをしながら、真っ赤な顔で「ああっ。このチーズ避けるっ! このチーズわたくしのことを避けてるうううううっ!」と騒いでいる。
 そういえば事件を目撃した日も飲酒で正体を失くしていたのだったか。「普段はそんなに飲まない」というようなことを嘯いていたが、それらしい名目などなくとも日常的に飲んでいるのではないかと透哉は見当をつけた。
 いっぽうで誰何もそれなりに飲んだはずだが微塵も酔ったようには見えない。白く抜けるような色の顔は依然、白いままだ。
「そういえば美咲さん、土足を解禁したときになにかを言いかけていましたよね。『ふだんできないことをするのって気持ちがいいですわね。わたくしの彼も――』でしたか。あれはなんと言おうとしていたんですか?」
 不貞を働いた彼氏の話である。言い淀んでも仕方はない。しかし、だからこそ誰何の琴線に触れる。この邪推師は隠しごとの気配があるとそれを暴かずにはいられない性質なのだ。
 さすがにデリカシーのない雇い主を窘めようとしたが、美咲はとくに憚ることなく質問に答えた。
「ああ、わたくしの彼がね、言ってたの。以前の住まいを退去するとき、どうせ最後だからってフローリングに向けて射精したって!」
 女ふたりがゲラゲラと笑う。
 誰何はその手の話が好きだ。しかし透哉はこういったノリに乗れない性質だった。どういう顔をすればいいのか分からなくなり、せめて目立たぬように努める。
 そんな針の筵のような時間は、「ちょっと休憩」と称してフローリングに横になった美咲が、決して小さくない寝息を立て始めたことで終わる。透哉は美咲を担ぎ、ベッドに寝かせた。起きる気配はない。
 缶チューハイやつまみはすべて消費しきれていない。それらを冷蔵庫に仕舞い洋室に戻ると、誰何が「ちょっといいですか」と声を掛けた。立てた親指を玄関ドアに向けている。
 ふたりは部屋を出た。外はすっかり暗くなり、月が支配している。誰何の亜麻色の髪の毛は月の色に似ている。
「どうしたんだ。外になんか呼び出して」
「郭公荘で調べたことを伝えておこうと思いましてね」
「ああ……そうか」
 珍しく殊勝な態度である。誰何は郭公荘で見聞きしたことを語った。
 五〇二号室へは錠をピッキングして侵入したらしい。あのドアがピッキングでこじ開けられるかどうか、確かめたかったのだと言う。大家を騙したか鍵を盗んだかしたと思っていたが、どちらも外れであった。
「しかし、部屋に入る前に鍵穴を調べてみましたが、ピッキングでついたと思しき傷はありませんでした」
 素人の検分でしかないが、誰何が言うならそうなのだろうと透哉は信用した。
「じゃあ、犯人は鍵を使ったんだな」
「そこなんですがね――実は内見を装って大家に接触しました。アポなしかつ不動産屋をとおさずの訪問でしたが、郭公荘は四割が空き部屋だそうで、喜んでいましたよ」
「あれ。ピッキングで破ったと言ってなかったか。けっきょく大家をとおしたのか」
「順序としては、大家と接触し合法的に五〇二号室に上がったのが最初。大家と別れたあとに五〇二号室のドアをピッキングで破ったのが再訪。透哉に呼びかけたのはこのときです――まあ、ともかく話を戻しますと、五〇二号室に住みたいと言うと反応がありましたので、すかさず探りを入れました。美咲さんの証言もある程度裏付けが取れましたね。
 鍵は寝室――和室ですね――にある鍵付きの引き出しに収まっていました。部屋の錠は以前の居住者が退去した直後に取り替えたそうです」
「つまり、大家から鍵を盗むのは困難。さらに、以前の居住者が鍵を使って侵入した可能性もない。かと言ってピッキングされた形跡もない。……これはいったいどういう意味だ?」
 誰何はあいまいに微笑む。意味ありげな表情だ。
 あるいは〝犯人などいやしない〟と言いたいのかもしれない。であれば透哉も同意見である。
「俺は、事件なんてそもそも起きてないんじゃないかと思う。誰何もそう考えてるんだろ?」
「おや。彼女が嘘を吐いているとでも? 透哉もすっかり邪推師の身内らしくなってきたじゃないですか」
「そういうわけじゃないが……」
「僕は依頼人の言葉を信じますよ」
 誰何には似合わぬ台詞だ。
「それは、彼女に嘘を吐く意図はなく、本当に事件を目撃したと思い込んでいるという意味?」
「いいえ。事件は本当にあり、依頼人はそれを目撃したのです」
 透哉は戸惑った。
 事件が本当に起こったこと……?
 なら、密室の謎はどうなる。それに死体をどうやって消した? いまはどこにある?
「誰何……きみはどこまで推理できているんだ?」
 透哉の問いかけに、誰何は。
「僕は邪推師ですよ」
 と嘯いた。
 ふたりはしばらく顔を見合せていたが、ふわ、と――誰何があくびをした。透哉は毒気を抜かれた。この雇い主は早寝早起きなのだ。
「部屋に戻りましょう。ここは寒くて仕方ありません」
 音を立てないように慎重にドアを開閉する。
 誰何は狭い通路で膝を折った。姿勢がよく、脚がスカートに埋もれているので直立しているように見える。その状態で器用に三つ編みをほどくと、
「僕はもう寝ます。透哉も眠るといいですよ。ただし、依頼人にはふたりして寝(やす)んでいたことがバレないように」
 肯く間もなく誰何は目を閉じた。ほどなくしてかすかな寝息が聞こえてくる。
 透哉は眠る気にはなれなかった。誰何の言葉を信じるならば、殺人者は存在して、いまも美咲の命を狙っているかもしれないのだ。のんびり寝ていられるわけがない。
 それに、長い夜をやり過ごすための難問は尽きない。
 ――そう、密室と死体消失の問題だ。
 ピッキングの跡がないということは、犯人は密室の構築に鍵を使ったと考えられる。これなら、部屋を去るときにわざわざ錠を掛けていく不自然さがピッキングよりは軽減される。
 問題はなんのために鍵を掛けたか。そして、鍵を盗んだのだとしたら、どうしてわざわざ元の場所に戻したのか、だ。
 現場検証の際、大家は鍵を持参したのだと言う。つまり、盗んだあとで返したか、そもそも盗まれていないかのどちらかになる。
 そもそも盗まれていない――合鍵を使った……? だとすれば、犯人は部屋の合鍵を持つ元住人ということになる。が、こんなふうに犯人特定に繋がるなら密室など作らないはずだ。それに、誰何の話では以前の住人が部屋を引き払う際、錠を換えたようである。
 しかし現に密室状況は存在するわけで。よってここでは「なんとかして部屋の施錠をおこなった」ということにして思考を次のステップへ移そう。
 次に考えるべきは、密室を構築した理由――動機だ。
 パッと思いつくのは心理的な理由だ。つまり犯人は殺人の発覚を恐れて現場を封じたのだという考え。それは合理的な理由などではなく、一種の本能のようなものだ。たんに鍵を掛けずに死体のある部屋から立ち去ることを忌避しただけのことである。
 ただし、この案には致命的な問題があった。ひとつ。事件は美咲によって目撃されていること。もうひとつ。封じ込めるはずの死体が部屋にないこと。
 早くもお手上げだ。最初の設問に立ち戻るしかない。
 どうしてわざわざ密室を構築したのか。
 ――いや。
 悪いのは、そもそもの設問ではないだろうか。密室を構築した理由を考えようとするからいけないのだ。
 それより、どうして密室が構築されたかを考えるべきなんじゃないか?
 つまり。
 ――これは犯人が意図しなかった密室なのかもしれない。
 なにかが前進した気がした。透哉はこの方向性で思考を推し進めた。
 しかし――そこで打ち止めだった。
 どう考えたところで答えは見つからない。それにそもそも、死体消失の件をどう説明する?
 これは密室以上の難問だ。犯人が意図したにしろしなかったにしろ、死体消失の方法や動機をきれいに説明してみせる妙案は思いつかなかった。

     4

 けっきょく一睡もせず朝を迎えた。その間に答えは出なかった。
 誰何は就寝から三時間ほどで目覚めると、亜麻色の髪を三つ編みにし、透哉と共に美咲の起床を待った。
 七時半に美咲が目を覚ました――じつに一〇時間以上もの長い眠りだ。よっぽど疲れていたのだろうか。
「おはようございます」
「え……?」
 誰何が声を掛けると、美咲は面食らった顔をした。どうやら寝起きで頭が回らず、ふたりの存在に心当たりがないと見える。徐々に事態を把握していき、やがて得心がいったようにベッドから起き上がる。
「おはようございます。そういえば探偵を雇っていたのでしたわね」
 美咲はキッチンに向かった。冷蔵庫にはろくなものが入っていないので、朝食はなかった。代わりに目覚めのコーヒーを三杯淹れ、ふたりのボディガードにも振る舞った。
「すみません……今日は荷造りをする予定なのですが、もしよろしければ手伝っていただけませんこと?」
「分かった」
 急な転居でろくに荷造りもできておらず、あす引っ越し業者がやってくるという状況だ。独り暮らしのワンルームで荷物は多くないとは言え、人の手を借りるのはやむを得ないだろう。
 美咲は洋室の壁に埋め込むかたちで備え付けられたクローゼットから大量の衣類を取り出し、丁寧に畳んだ衣服は段ボール箱へ、それ以外は乱雑にゴミ袋へ放っている。本と同様――あるいはそれ以上に真剣に仕分けしているみたいで、だいぶ時間がかかりそうな雰囲気である。
 透哉がラックの中身をすべて取り出して分解したり、食器を梱包材に包んで収納したりと懸命に働いているのに対し、誰何は部屋の角に突っ立ってふたりを見下ろしている。監督にでもなったつもりだろうか。
 ベッドは解体して自家用車に乗せると言うので、午後はこれと部屋の清掃に取り掛かった。
 ひと仕事終えるころには日が落ちていて、美咲はだいぶ汗をかいた。
「透哉さん、これだけの作業で汗ひとつかかないのですね。すごい力持ちなのでしょうか」
「いや。ただの体質だよ」
 美咲がシャワーを浴びたあと、透哉もシャワーを借りた。冷水で身体の火照りを冷ます。
 浴室を出ると、美咲が缶チューハイを洋室の真ん中に用意していた。テーブルは片づけてあるので、床にじかに置く格好である。
 透哉はげんなりした。
 またあの馬鹿騒ぎに付き合わなければならないのか。
 案の定美咲は騒いだ。透哉にだらしなく寄りかかり、何度もおんぶをせがむ。仕方なく背負ってやった。
 美咲は透哉の背中ではしゃいだ。
「わたくし、背の高い殿方は大好きですわ! 透哉くんは大平くんよりも二、三センチばかり大っきくて素敵ですわね」
「太平くん?」
「わたくしの彼ですわ。バッキャロオオオオオオオ!」
 透哉の肩に顎を乗せた状態でとつぜん叫ぶので、驚いて投げるところだった。
「でも、透哉と二、三センチしか変わらないのであれば、美咲さんの恋人も一八〇センチ以上はあるんじゃないですか?」
「そうですわね。だから残念です。透哉くん、わたくしもうフリーですのよ?」
 美咲は透哉に粉をかけたあと、女が背の高い男を求めるのと男が巨乳に執着するのは同じものだという論を説いた。

 日付が変わるころに酒の蓄えが尽きた。
 これでお開きになるのを期待して静観していると、美咲が騒ぎ出した。
「ああん、お酒ないよう。お酒ええええ。誰か買ってきてよおおおおおお!」
 もともと冷蔵庫の中身を片付けるという名目の飲みであったため、ここで酒を買い足すのは趣旨に反する。ところが美咲がふらついた足取りで玄関に向かっていくので、透哉はそれを慌てて止めなければならなかった。
「ちょっと、危ない。そんな状態で外出させられない」
「じゃあ透哉くんが買って来てくれんのおお?」
「それは……」
「じゃあわたくしが行くう!」
 透哉は困ったように誰何を仰ぎ見た。
 誰何は肩をすくめて、
「いいんじゃないですか。追加で一、二本くらい」
「依頼人を行かせられないだろ」
「透哉が買ってきてください。僕でもいいですが、年確が面倒です」
「……いや、ふたりだけにして大丈夫なのか。暴漢を相手取るのに酔っぱらいときみじゃ心許ないだろ」
 誰何がドレスの裾をまくり上げ、厚底のパンプスを見えやすくした。
「このヒールがどうして高く尖っているのか分かりますか?」
「……武器なのか」
「僕の足元にひれ伏す真実を、この足で踏み貫くためですよ」
「いまする話か?」
 てっきりそれで応戦するという話かと思った透哉。
「安心してください。格闘の心得くらいとうぜん身に着けています」
「なら。……任せた」
 透哉は雇い主を信頼することにした。「透哉くぅんんん、ありがとおおお」と言って腰にしがみつく美咲を引きはがし、部屋を出た。が、エントランスへ降りたところで財布を持っていないことに気づく。慌ててエレベータに引き返すと、エントランスですれ違った人物と相乗りになった。
 フードを頭にすっぽりと被った男である。身長は透哉よりすこし低いが、それでも一八〇センチはあるだろう。大き目の黒いウエストポーチが黒いパーカーの色と同化して目立ちにくくなっている。依頼人のボディガードという立場上、現在の透哉は未知の人物との接触に敏感になっている。人相を確かめるようにじろじろ眺めていると、目が合った。顔をそらす。いくらなんでもあからさまに見過ぎだ。それに階数表示を見たところ四階で降りるようである。依頼の件とは無関係だろう。
 四階に到着した。《開》ボタンを押し続けながら「どうぞ」と声を掛けると、男は化け物を見るような目で透哉を見、逃げるようにエレベータを降りていった。
 ……なんだいまのは?
 不審に思いながらも五階に到着したので五〇一号室に戻る。誰何が透哉の財布を持って玄関先で待機していた。
「とんだ間抜けですね。僕の心配をする前に脳年齢の心配をしたらどうですか?」
「ああ。悪い」
「脳トレするう?」
 洋室で美咲が携帯ゲーム機を掲げている。
 透哉はいちいち丁重に断ってから、ふたたび部屋をあとにした。
 社用車を駐車場に停めてあるが、ふだんの癖で徒歩で向かうことにする。男の凍り付いたような表情はなんだったのだろう。
 コンビニに着いて、美咲が飲んでいたのと同じ缶チューハイを探す。――見つけた。何本買うか悩み、とりあえず二本手に取って会計に向かおうとしたところ、すれ違った女性客が悲鳴を上げて腰を抜かした。
「どうした。大丈夫か」
 声をかけるが、答えは返ってこない。ただ一点を凝視し続けている。その表情は先刻エレベータに同乗した男のそれを思い出す。
 女性の視線を追う――視線の先は透哉の腰のあたりだった。
 そこに刃物が刺さっていた。
「――なっ!」
 とっさに缶チューハイを取り落としそうになるが、すんでのところで堪える――いやいや、取り落としてもいいところだろう、なにを冷静こいているんだ、俺は。
 ――いつだ――部屋を出てからはエレベータの男と以外すれ違っていない――エレベータで刺された?――男の不審な挙動――なぜ刺した――あいつが例の殺人犯なのか?――だとしたらなぜ四階で降りた――なぜ――なぜ――
 透哉はミネラルウォーターとガーゼと包帯を取って会計を済ませた。店員も透哉の惨状を把握しているようで、顔が引きつっている。
「ふ、袋はっ、ご入り用ですか……?」
「すぐ使うから袋は要らないっ」
 奪うようにレシートを取り上げ、コンビニを出た。そこで、自分が缶チューハイを二本も持っていたことを思い出す。邪魔だ。袋をもらえばよかった。
 駐車場に設置されたごみ箱のわきで、透哉はナイフを抜くべきか悩んだ。ナイフが刺さったままだからこそ現状さほど出血していないようだ。それを下手に抜くとなると、さらなる惨事に発展するおそれがある。
 数瞬ほど思案して、けっきょく抜くことにした。コンビニでの周囲の反応はまだやさしいほうだ。腰にナイフが刺さったまま外を徘徊していれば通報されかねない。
 ミネラルウォーターで傷を洗い、傷口にガーゼを当て強く押さえつけた。ガーゼのうえに包帯をかぶせ、身体と地面で挟むようにして全体重をかける。その状態できつく包帯を巻いた。
 痛みは感じない。
 出血により痛覚が消失したというわけではない。もともと透哉は痛みを感じない体質なのだ。
 だからこそ彼は己の傷の深刻さにいまいちピンと来ない。刺されたのは腰、腹を刺されたよりはマシだろう。それよりも依頼人が危ない。――そんなふうに思考している。
 応急処置を終えて、シティハイツ与那覇へ急いだ。思いのほか足取りがふらつく。
 ――先刻すれ違った男。身長が一八〇センチほどあった。美咲の話では郭公荘に現れた男の背は高かったと言う。フードを目深に被り、見るからに怪しい風体だった。
 一致する――あらゆる符号が。
 あの表情は、刃物で刺さされたことに無反応を貫き、あまつさえ声をかけてきた透哉に異常を感じ、怯えてのことだろうと解釈した。
 四階で降りたのは謎だが――その理由を考えるのはあとでも構わないだろう。
 時計を見る。部屋を出てから三〇分経っていた。急げ。
 シティハイツ与那覇が見えてきた。空気がざわついているような感覚。祈るような気持ちで走る――マンションの前に救急車やパトカーが停まっているのが遠巻きに見えた。ランプが赤く点灯している。透哉の脳内もその色で染まった。駆けた。心臓が鈍く音を立てた。まさか。まさか――。
 シティハイツ与那覇に到着した。ちょうどエントランスから担架が運び込まれようとしている。
 野次馬をすり抜け、担ぎ込まれる患者の姿を確認しようとしたところで――。
「え……?」
 野次馬のなかに美咲と誰何の姿を見つけた。
「ああっ。透哉さんっ!」
 美咲が透哉の胸にしがみつき、泣きじゃくった。その肩を両手で支えてやりながら、しかし透哉の頭のなかは数々の疑問符でいっぱいだった。
 どういうことだ――?
 なにが起きている――?
 どういうことかは分からないが、どうやら美咲は無事らしい。ということは他に急患が存在するわけであるが、しかし透哉はひとまず安堵した。
「よかった……ふたりとも無事みたいで。俺のいないときになにが」
 美咲は青白い顔で俯いていた。唇がかすかにふるえている。透哉の問いに答えようとしてはいるのだが、言葉にならないといったふうだ。ただひとこと、「愛子……」とわけの分からないことをつぶやく。ひとまず美咲の自室へ連れて行こうと判断した。
 エレベータを使用してよいのか見当がつかなかったので、三人は階段を使った。
 五〇一号室へ戻る途中、誰何がことの顛末を説明する。
「四階――五〇一号室のすぐ真下で傷害事件があったんですよ」
「傷害事件?」
「はい。――まあ殺人に切り替わる可能性もありますが、いまのところは傷害事件ですね。透哉が出かけたすこしあと、通報があったようです。四〇一号室で尋常じゃない物音がしたそうで。隣人が様子を見に行ったところ、四〇一号室に住む女性が倒れていたそうです。女性の胸には刺し傷があり、事件性が窺えると。まあ警察や野次馬たちの世間話によるとそうらしいです」
「……依頼人が見た殺人との関係は?」
「どうでしょうね。目下のところ不明ではありますが――殺人を目撃し、口封じを恐れてボディガードを雇っている人間が同じ建物のなかに存在するのですよ。それとは無関係に真下の部屋で傷害事件が起こる確率が、いったいどのくらいあると思いますか?」
 たしかに、そんな偶然は考えにくい。
 だが――。
「仮に犯人が同一人物で、その目的が美咲さんの口封じだとして。
 どうして犯人は部屋を間違えたりしたんだ?」

 自室に到着したとき、缶チューハイが一本ないのに気づいた。いつの間にか一本だけ放り出していたらしい。
 酒は飲まず、さりとて眠る気にもならなかった。
 透哉は外出中に起きた出来事を誰何にのみ説明した。
「俺を刺した男は四階で降りた。たぶん、そいつが四〇一号室の事件を起こしたんだ。――いや、一週間前の事件だって、きっと」
「――そうですか。それよりも、怪我の具合はどうですか」
「もともと痛みはないから分かりようがない。でも、腹を刺されたわけじゃないし、傷もさほど深くはない気がする。手当てもしてるし、それよりも依頼人が心配だ」
「しかし早いうちに診せたほうがいいでしょうね。ただ――」
「なんだ」
「依頼の遂行を続けるのであれば、このことは誰にも言ってはなりません」
「? なんでだ」
「なんでもです。いいですね?」
 わけが分からなかったが、透哉は肯いておいた。
 午前二時過ぎに、ドアチャイムが鳴った。美咲が肩を震わせ、明らかに恐慌をきたした。下手人が美咲の口を封じに来たと思ったのかもしれない。
 代わりに透哉が玄関まで行き、ドアスコープを覗いた。ドアの向こうには中年の男が立っていた。五十がらみの小柄な中年だ。ドアスコープ越しには分かりづらいが、身長はおそらく一六〇センチ前後といったところ。白髪交じりの髪の毛をオールバックにしている。男の視線はドアスコープあたりに投げられており、なんとなく目が合っているような気がしてぞっとしない。
 透哉はドアチェーンを掛け、おそるおそるドアを開けた。
 中年の男はドアの隙間越しに警察手帳を掲げ、甲高いしゃがれ声でまくしたてた。
「円座署のじょうだ。なんだこのチェーンは」
 城刑事はドアチェーンを掴み、揺さぶった。
「こっちは初動捜査で忙しいんだ。いちいち手間をかけさせないでくれないか? 小僧、あんたは市民として警察に協力するよな?」
「ええもちろん。警察業務への協力は我々いち市民の務めですからね」
 いつの間にか隣に立っていた誰何が勝手に答え、勝手にドアを閉め、勝手にドアチェーンを外した。
「なにを」
「ですから、捜査協力ですよ。それより、さっきの話は憶えてますね?」
「どの話だ」
「エレベータの件ですよ。その話はしてはなりません。刑事に対してもです」
 その意図を問う前に誰何がドアを開けた。
「こんなところで立ち話もなんですし、どうぞなかへ入ってください。飲み物もありますよ」
 飲み物とは缶チューハイのことだろうか。
「どうも」
 城は素っ気なく言って玄関に上がり、靴を脱いだ。洋室の美咲と目を合わせる。
 刑事はふたたび警察手帳を広げ、簡単に挨拶をした。しきりに首筋を揉んだり右腕を回したりしている。
「もしかして引っ越すのか?」
 段ボール箱の積み重なった殺風景な部屋――中央の床には空き缶やチーズを切るのに使ったナイフが直置きされているが――を見まわして、城がそう述べた。
「ええ。明日には引っ越し業者がやってくる手はずです」
 誰何が部屋主の断りもなく答えた。美咲が眉を顰める。
「そうか……じゃあ急いで話を聞いておかないとな」
 美咲は不安そうにオールバックの男を見つめた。城は首筋を揉む手を止め、
「単刀直入に言おう。伊原さん、あんたぁ――亡くなった藤堂(とうどう)愛子(あいこ)さんとは友人関係なんだよな?」
 初耳だった。透哉は説明を求めるように美咲を見た。美咲は刑事の言葉に別の意味でショックを受けたようで、口元を手で押さえている。
「愛子は――亡くなったんですか?」
「そうだ」
「そんな……」
 美咲の目に涙が溜まっていき――ついにこぼれた。だが、まだ城の質問に返答していない。彼がにらみを利かせると、震える声で説明を始めた。
「たしかに、愛子とは学生時代からの友人ですわ。中学と高校が一緒で、高校時代はそんなに仲良くありませんでしたが、数年前に愛子が下に越してきてからはまた仲良くなりましたの」
「お互いに部屋の出入りはあったのか?」
「はい。ときどき」
「零時一五分から二五分の十分間にアリバイを証明できる人は?」
 美咲がボディガードのふたりを見た。城がその視線を追って、透哉と誰何を不審そうに見つめた。
「失礼ながら、おたくらと伊原さんの関係は?」
「僕たちは美咲さんのボディガードです」
「はあ?」
 誰何は簡単に事情を説明した。城はそれを手帳に書き写しながら相槌をうち、ときおり質問を混ぜた。
「なるほどなぁ。つまり、犯行の時間、伊原さんはふたりの監視下にあったというわけだな?」
「いや、俺はそのときコンビニに出ていたから……。でも、美咲さんのことは誰何が見ていたはずだ」
「で、どうなんだ?」
「それがですね……」
 珍しく奥歯に物が挟まったような言いかたである。しかし、表情はいつもの微笑を崩さない。透哉はなんだか嫌な予感がした。
「透哉が買い物に行っているあいだ、化粧直しで中座していたんですよ」
「化粧直しぃ? はぁ……それはどんくらい時間がかかるもんで?」
「一〇分ほど」
「はあ!?」
 透哉が珍しく大声を上げた。
「俺がいないあいだ、依頼人を守るって言わなかったか。なんで一〇分間も」
「そうはいっても、透哉にこの事態が想定できましたか」
「アリバイのことを言ってるんじゃない。彼女の身の安全の話だ」
「それは……まあいいじゃないですか。僕が見てようが見ていなかろうが、彼女に危険が及ぶことはなかったんですから」
「それは結果論だろ」
「落ち着けよ」
 中年の刑事が透哉の首根っこを掴み、ふたりの言い争いを仲裁した。
「つまりあれか。被害者の死亡推定時刻、伊原さんにはアリバイがなかった。事件現場との距離を考えれば、部屋を出て殺してここに戻るのに五分もあれば充分だろう」
「まさか……」
 美咲の表情が曇った。
「わたくしを疑っているんですか?」
「まあ、端的に言うとそうなるな」
「愛子を殺してなんかいません! きっと愛子はあの男に殺されたんですわ!」
「喚くなよ。あんたに被害者を殺す動機があることくらいこっちはとっくに掴んでるんだ」
 動機? 美咲が四〇一号室の女を殺す動機を持っているというのか。
 そのことについて訊ねたかったが、向こうは我々に対しすべてを開示するつもりはないようだ。
 美咲はなおも男が殺したと主張した。
「一週間前に向かいの部屋で殺人を犯したという、例の男か。しかしな、それについては被害者の遺体も出てないんだろ?」
「でも……見たのです!」
「こっちとしても死体が出てないことには動けねえんだよ」
「そんな……」
 美咲が助けを求めるようにふたりを見た。
 透哉はエレベータでの一件を言おうか考えた。四階に降りた不審者に腰を刺されたと話せば、美咲の容疑は晴れるだろう。彼女を救うことができる。
 だが、この話は誰何によって緘口令が敷かれている。ぜったいに話すべき事柄であるはずなのだが、どうにもそのことが引っかかる。
 していると、迷う透哉のとなりで誰何が切り出した。
「つまり、一週間前の事件さえ証明できれば、彼女は容疑から外れるんですね?」
 城の言い分は、裏を返せばそのように取れる。だが肝心の死体がないから事件を証明できないのが問題なのだ。それができれば苦労はない。
「そう簡単にはいかないな。だがまあ、その女が見たっていう男を捜す必要は出てくるだろうが」
 すくなくとも問答無用で引っ張られることはなくなるわけだ。
「充分です。それでは、皆さんにくだんの死体をご覧に入れましょう」
「え……? 死体がどこへ消えたのか分かるんですか?」
 透哉より早く美咲が問いただした。
「はい。論理的帰結というものです。僕にはすでに、死体の在処の検討がついています」

 誰何に案内された場所は、やはり郭公荘だった。
 ただし、美咲の証言とは部屋が異なる。目的地は五〇二号室ではなく四〇二号室だ。
 大家は同伴していなかった。深夜だし、鍵は必要ないから大家同伴は不要と誰何は述べていたが、施錠されていようがされていなかろうが許可は必要だろう。これでは不法侵入である。しかしそのことについて城はなんの追及もしなかった。美咲の部屋での言動からも窺えたことだが、とんだ不良刑事だ。
 美咲は四〇二号室に案内されたことに納得が行かないようだ。
「本当にこの部屋なんですの? わたくしは事件を目撃しましたわ。間違いなく、それは向かいの五〇二号室で起きたことです」
「もしかして死体を上から四〇二号室に移したのか? 発見を遅らせるために」
 ふたりの質問攻めを城が牽制した。
「見る前からごちゃごちゃ御託を抜かすんじゃないよ。ほら嬢ちゃん、とっととドアを開けてくれ」
 誰何は肯くと、わざと焦らすようにゆっくりとドアを開けた。
 月明かりのほとんど入っていない室内は暗い。
 だが――。
「クソッ」
 と城が毒づいた。
 透哉と美咲も顔をしかめ、口元を手で覆った。強烈な臭気だ。
 誰何だけが余裕の笑みを崩さず、暗闇のなかへ吸い込まれていった。
 あとの三人もおそるおそる続く。
 やがてパチっという音とともに部屋の電気がついた。
 部屋は古めかしい1LDKだった。
 透哉たちが立っているのはフローリングのダイニングキッチンだ。奥にふすまがあり、和室(おそらく)に続いている。臭気はそのなかから発生しているようだった。
 誰何が躊躇いなくふすまを開けた。
 ダイニングキッチンの明かりが、和室の薄暗闇を照らす。
 四畳半の畳敷き。窓が閉まっているのにのれんがゆらゆらと揺れている。すきま風が吹いているのだ。
 ハタハタと揺れる布の奥になにかがチラついている。
 そこに死体があった。
「これは――っ」
 男の死体だ。死後一週間ちかくが経ち、腐敗の進行した死体だ。蠅がたかり、腐肉に卵を産み付けている。
 いやっ、と短い悲鳴を漏らし、美咲が目を背けた。
 透哉はじっと死体を凝視し、放心していた。
 本当――だった――事件は本当に起こっていた――
「御覧ください。美咲さんが訴えたとおり、事件はあったのです」
「分かったぜ。分かったからいったんそいつを閉めようや。鼻がひん曲がっちまいそうだ」
 城がふすまを閉めた。
「でも、いったいどういうわけだ。犯人はわざわざ死体を真下の部屋に移したというのか。でもそれじゃあ――」
「そんなの簡単な話じゃねえかよ」
「え。分かるのか」
「ああ。ちょっと頭を回せば小学生でも分かるぜ。つまり女が嘘を言ったんだ」
 美咲が肩を震わせた。
「なにを根拠に?」
「そりゃあ話を信じるなら死体は五〇二号室にあって然るべきだ。だが、実際には四〇二号室にあった。なら、話のほうが嘘ってことになるじゃねえか」
「しかし……どうして依頼人がそんな嘘を」
 透哉が問うと、城は酷薄に笑った。
「そうだなァ……。こういうのはどうだ? 藤堂さんを殺したのは伊原さんだった。しかし、普通に殺したんじゃあ知人関係にあり、なおかつ同じマンションに住む自分が疑われる。だから殺人を目撃したという話をでっち上げ、架空の殺人犯をつくったんだ。その架空の男を目くらましにし、自分は容疑から外れるって寸法だ」
「だが、現に殺人は起こってるじゃないか」
「だからさぁ、その男も伊原さんが殺したんだって言ってるんだよ。言わば伏線を張っておいたんだ」
「違います! わたくしはそんな男知りません! わたくしにその男を殺す理由などありません!」
「誰でもよかったんだろ。いや、むしろ知らない人間のほうが好都合か。この男の人間関係からあんたが捜査線上に浮上したら本末転倒だもんな」
「あなたは先ほど、事件の証明さえできれば男を捜すとおっしゃいました! 約束を破るのですか!」
「確かにあんたが言う殺人犯とやらは捜索しなきゃならんだろう。だが、存在しない人間は見つからんよ。それよりも――あんたに手錠を掛けたほうが手っ取り早そうだ」
 ジャラジャラと音がした。城が手錠を取り出した音だった。
「城さん。我々の依頼人を手荒に扱うのはやめてください」
「ほう」城が嗜虐的に笑った。「文句があるならこいつが犯人じゃないって証明してみればいいじゃないか」
「もちろんです。僕にはこの状況をきれいに説明することができる」
「本当なのか」
 誰何は肯いた。
「だったら聞きてえもんだな。その説明というやつを」
 嘲笑するように言う。しょせん小娘に事件の謎ときができるわけなどない、と高を括った態度だ。
 しかし城の嘲りなど、常に不敵の笑みを絶やさぬ誰何は意に介さない。
 キッチン台に飛び乗るようにして腰を落ち着け、浮いた足の裏面――高く尖ったヒールをこちらに見せつける。
「いまから真実を踏みつけて見せましょう。それでは、僕の見解をよくお聞きください」

     5

「――さて。まずは事件を振り返りましょう。最初の事件は一週間前、この部屋で起きました」
 そう言って和室のほうに顔を向ける誰何。三人の視線も自然とそちらに吸い寄せられる。
「あの男が誰で、殺人犯の正体が何者か、詳しいことは僕にも分かりません。それを知るには推理力ではなく警察力が必要でしょう。
 ただし、ある程度の事情を察することは可能です。これはあくまで邪推ですが、ふたりは空き巣の常習犯だったのではないでしょうか。ふたりは組んで仕事をしていた。しかしなにか揉め事が発生し、その結果、片方が相方への殺意を募らせることになった。そこで考案されたのがこの殺人です。
 殺人において肝要なのは、目撃者をつくらないこと――そのうえでターゲットを油断させること。ターゲットを人目につかないところに誘き寄せる――それもターゲット自身が周囲の目を盗んで現場に現れるよう仕向けるには、空き巣という行為はとても都合がいい。ターゲット自信が人目につかぬよう最大限の努力を試みますからね。よって、犯人は空き巣の最中に相方を殺すと決めました。
 次に考えるのは殺害現場です。これは慎重に考えなくてはなりません。実際に人の住む家でターゲットを殺害すればすぐに事件が明るみになりますし、家の者に犯行を目撃されるなど、不慮の出来事が想定されます。従って犯人は、ターゲットを殺す場所は空き部屋がふさわしいと考えました。
 この郭公荘は空き部屋の多いマンションです。彼の犯行計画にとって、ここはまさに理想の建物だったのです」
 現状、誰何の話は多分に想像を含んでいる――いや、ほとんど想像の産物でしかないのだが、いちおう筋のとおったストーリーではある。
 仮に大枠が違っていたとしても、あくまで犯人たちの背景事情にすぎない。おそらくこのあたりを突っ込んだところで大した意味はないだろう。
 聞き役の三人は黙って誰何の話に耳を傾けた。
「――ところがことはそう簡単には行きませんでした。殺人は目撃されてしまいます。そう、向かいのマンションの住人――伊原美咲さんによって」
「そこが不思議なんだ。依頼人は向かいの部屋で殺人が起こったと証言している。だが、実際にはこの四〇二号室で死体が発見された。一刻も早く逃走しないといけない犯人が、どうして死体を別の部屋に移すだなんて悠長な真似をしたんだ」
「そうですね。たしかにそういう捉えかたをしたならば不思議です。ですが――その前にひとつ考えなければいけない謎があります。なぜ犯人は目撃者――つまり美咲さんの住居を五〇一号室ではなく四〇一号室だと勘違いしたのか」
 言われてみればそのとおりである。男の死体が発見された場所はおかしいが、同時にシティハイツ与那覇で起こった殺人も「場所がおかしい」事件なのだ。いわば「場所の謎」。犯人が部屋を間違えたのは、事件から一週間も経って記憶があいまいになっているとか、単に部屋を間違えただけだという解釈が成り立つが、だとしてもふたつのマンションで同時に「場所の謎」が発生する偶然などあるだろうか?
「このふたつの謎を同時に解決する方法があります。いえ、のみならず密室の謎や死体消失の謎も同時に解消することが可能です」
「そんな方法があるのか」
「簡単なことですよ。一週間前の事件を目撃したとき、美咲さんは四〇一号室――つまり愛子さんの部屋にいたのです」
 アっ――と声を上げそうになった。
 たしかに美咲が四〇一号室にいたのだとすれば向かいの部屋は郭公荘四〇二号室ということになり、なにも謎はなくなる。つまり郭公荘五〇二号室に鍵が掛かっていて死体がないのも当然となるのだ。密室も死体消失も解ける――いや、初めからなかったことになる。
 そして美咲ではなく愛子が殺されたことにも説明がつく。犯人は部屋を間違えたわけではなかった。むしろ正しかったからこそ、殺す相手を間違えたということである。
「――いや。だけど、それじゃあ辻褄が合わない。依頼人が事件を四〇一号室で目撃したのなら、本人にそれが分からないはずがないだろう? 美咲さん、あなたは気絶から目覚めたとき、たしかに自分の部屋にいたんだな?」
「はい。目が覚めてすぐに通報し、警察が来るまで待機しましたわ。警察は間違いなくわたくしの部屋に入りましたし、郭公荘へ立ち合いに行くまでわたくしは自室を離れていません」
「なら――」
 しかしその程度で誰何の余裕は崩れなかった。むしろ待ってましたと言わんばかりに話を続けた。
「この話の味噌は、美咲さんが泥酔状態にあったこと。そして、殺人を目撃した直後に失神していることにあります。
 美咲さんは自室で自棄酒を始めたと言いましたね? それは事実なのでしょう。ですが、こういうストーリーを付け足すことは可能じゃありませんか? 
 ――酔いが回ったあなたは、ひとりで飲んでいるのを寂しく感じた。そこで、真下に住んでいる知人のもとへ駆け込み、飲みに付き合わせた。すでに泥酔していたあなたは、ほどなくして眠りこけてしまう。そして目覚めたときには四〇一号室へ来ていたことを忘れ、自室で飲み始めた記憶だけが残っている。その状態で向かいの部屋で起きた殺人を目撃してしまえば――」
 郭公荘の五階で事件が起こったと勘違いしてもおかしくはない。
「だがな、警察に通報したときはたしかに自分の部屋にいたんだろう? けっきょく矛盾しているじゃねえか」
「いいえ。彼女は殺人を目撃した直後に気絶しています。そのあとで愛子さんが美咲さんを自室に運んだとしたら? 美咲さんの部屋はすぐ真上で、大した距離はありません。床に伏す美咲さんを見かね、しかし寝具が足りないとなれば、それくらいの気を利かせてもおかしくないでしょう」
 全体を要約するとこうだ。
 美咲は自室で飲み始める。途中、四階に住む愛子の部屋を訪ね、ふたりで飲みを再開するがいつの間にか眠ってしまう。夜中に目覚めた美咲は、ベランダ越しに向かいの部屋――郭公荘四〇二号室――の殺人を目撃し、気絶する。美咲がふたたび意識を手放している最中、愛子が美咲を自室に運ぶ。美咲は自室で目が覚めると、階下で目撃したことを通報する。しかし自分が四〇一号室にいたことを丸々忘れてしまっていたため、証言に齟齬が発生し、事件が発覚することはなかった。一週間後、殺人犯は自分を目撃したであろう美咲の口封じをおこなうためにシティハイツ与那覇を訪れるが、事件当時美咲がいたのは愛子の部屋であったために、誤って愛子が殺されてしまう。透哉が刺されたのは、これから口封じをしようというときに顔を見られたからだろう。どうせひとり殺すのだからもうひとりくらい、という感覚だったのかもしれない。
 なぜ密室を構築したのか。なぜ死体が消えたのか。なぜふたつの殺人現場の場所がちぐはぐなのか。これですべての説明はついている。
「それでは、愛子はわたくしの代わりに死んだということですか……?」
 誰何はなにも答えなかったが、それは認めたのと同じだ。
 美咲は零れ落ちるなにかを堰き止めようとするように胸を抱え、うずくまって泣き出した。
 愛子の死は美咲の責任ではない。
 しかし、自らの行動が結果的に友人の死に結び付いたのであれば、自分を責めてしまっても無理はない。
 透哉は美咲を慰めるべく、肩に手を置こうとした。
 それより早く、城が美咲の手に手錠をはめた。
 涙を流していた美咲が目を丸くする。透哉もあっけにとられてしまう。
「なにをするんだ――」
「なにって、逮捕だよ」
「いまの説明で分かっただろう。彼女は殺人犯じゃない」
「たしかにおたくの説明はいちおう事件を説明しているよ。大したもんだ。それは認める。だがな、けっきょくのところこの女が犯人じゃないという証拠はねえ。こいつは明日、ここを引っ越すんだろう? いないかも知れない男を捜してこいつに逃げられたら間抜けじゃねえか。犯人だろうがそうでなかろうが、署に引っ張って根掘り葉掘り話を聞いておくに越したことはねえだろ」
「美咲さん。どうやら、いくら僕が解釈を述べようが、あなたがこの事件に関わっていないという直接的な証拠がない限り、彼はあなたを逮捕するつもりのようです」
「そんな……探偵さん、わたくしを助けてください!」
 誰何は首を横に振った。
「なにかありませんか。たとえば、事件の際のあなたのアリバイを証明するようなものが。一週間前のものであってもかまいません。あなたが見たという男が実在する証拠さえ示せれば、彼も納得するはずです」
「そうだな」と城は同意した。
「そ、それは……」
 美咲は瞳をグラグラと揺らし、まるでなにかに耐えるかのように握り拳をつくって俯いた。
 透哉はパニックになっていた。
 いったいなにが起きている?
 城の急な脅し。現行犯ではないのだから、逮捕状もなしに美咲に手錠を掛けられるわけもない。だいたい、彼女が愛子のみならずこの身元不明の男を殺害した理由など弱すぎる。伏線を張っておいた? そんな理由で人を逮捕などできるものか。
 誰何の言うことだっておかしい。アリバイ証明などと言っているが、そもそも男の死亡推定時刻は疑いのかけられている美咲からの申告であり、正確な死亡推定時刻は分かっていないのだから、いまの彼女がなにを言おうとそれはアリバイ証明にならないではないか。それは正確な検視結果が出て初めて検証可能な事柄である。
 しかし追い詰められている美咲にはそのような疑問は出てこないようだ。
「さあ。あなたにはあるはずです。殺人を目撃した夜の、あなたのアリバイを証明する人物の心当たりが」
「わたくしは――」
 どうする。美咲を助けることは可能だ。今度こそエレベータでの一幕を語るときではないか。
 そうすれば男の存在を証明することができる。透哉は実際に傷を負っているのだ。一種の証拠と言ってよいだろう。
 だが美咲の様子がおかしい。あれではまるで迷っているようではないか。もしアリバイ証明が可能な人物に心当たりがあるのであれば、迷うことなく言ってしまえばいい。
「誰何」
 透哉が声をかけると、誰何はけん制するように手のひらを向けた。
 言うな、ということか。
 なぜ――。
「美咲さん。さあ、答えるのです」
「おぉい! いい加減にしろよなぁ。いつまで焦らすんだ? 取調室で全部吐かせるほうがこっちは楽なんだぞ」
「大丈夫です。あなたは誰も殺していないのだから。なにを言おうとあなたが不利になることはなにもないのですよ?」
 まるで飴と鞭だ。城が胸倉を掴まんばかりに美咲に迫り、誰何が誘惑するように囁く。仏の誰何と鬼の城。一昔前の刑事ドラマで見かける一幕のようである。
 しかしその効果は絶大だった。
 ついに美咲は音を上げ――震える声でその名を口にした。
「――香田こうだ大平たいへいさんです」
「……え? それって……」
 聞き覚えのある名前だった。
 だが、それはこの場で出てくるはずがない名だ。
 当惑する透哉をよそに、美咲はその人物との関係を明かした。
「わたくしの――交際相手の名です」


     6

 あとのことはスムーズだった。
 とつぜん城が態度を翻し、美咲を問い詰めるのをやめた。
 そして部屋を出ていき、また戻ってくると。
「もう帰っていい。ここは応援を呼んだ」
 帰っていいということだったが、要するに追い出されたということだ。
 三人でシティハイツ与那覇の五〇一号室に帰還する。
 美咲の返答を受け、透哉は放心状態となっていた。
 彼女はいったいなにを言っていたんだ……?
『わたくしの――交際相手の名です』
 美咲はたしかにそう言った。
 だが――。

 ――そもそもの発端は恋人の裏切りだった。
 
 恋人の浮気――しかも現行犯だ――に気づき、自暴自棄で酒を飲んだその夜に美咲は殺人を目撃したのではなかったか。
 だと言うのに、どうしてその裏切り者が彼女のアリバイを証明することになるのだろう。
「美咲さん」
「……はい?」
「さっきの話はいったい……。なぜあそこで交際相手の名が……?」
 透哉は我慢ならなくなって、ちょくせつ美咲に尋ねた。
 しかし美咲に答える気配はない。なにか都合の悪いことでもあるのだろうか?
 するとどこかで「ぷっ」と息の漏れる音が聞こえた。
 となりを見る。
 誰何だ。
「誰何?」
「まだ分からないんですか、透哉は」
「なにが――」
 なんのことか尋ねようとして、遮られる。
「っぷ――うふふふふふふっ。アハハハハハハ……アーッッハハハハハハハハハ! ウヒャヒャヒャ! あ~あ、認めてしまいましたねえ美咲さん! もう言い逃れできませんねぇ、美咲さん――アハハハハハ! イヒヒヒヒ、イーーッヒヒヒヒヒヒ! ギャハハハハハハハハ!」
 圧倒的に性質の悪い――下品な哄笑を見せる誰何。
 その異様な光景に美咲は怖気づいたようだった。
 だが、透哉には――彼女のこの状態に見覚えがある。
 それはすべての隠し事を暴き、白日の下に晒す準備が整ったときの――もうなにも取り繕う必要のなくなった彼女が見せる醜い表情だ。
「なっ……なにを! 言い逃れとはなんのことですか!? あなたまでわたくしを中傷するというのですか? 大平さんに訊ねればわたくしのアリバイははっきりします。わたくしは誰も殺していません!」
「ヒヒ……ええそうでしょうとも、あなたは誰も殺していませんよ。先ほどの僕の説明は正しい」
「では……」
「ですが、多少の修正が必要なのは事実です。それは悪意の有無について――僕はあなたがなんの事情も知らぬまま愛子さんを死なせてしまったかのようなストーリーを語りました。しかし、真実は違います。あなたは愛子さんが殺される可能性があるのを承知のうえで事件が起こるのを静観していたのです」
「ち、違います! なにを根拠に」
「根拠ォ!? そうですねぇ――では、お話しましょうか。しばし僕の邪推にお付き合いください。
 僕はそもそも、あなたが最初に語った話が受け入れられませんでした。警察が犯罪を目撃したという通報を受けて、たったワンフロア調べただけで早々に引き上げたァ? そんなの、不自然極まりない。ことは殺人ですよ? そんな職務怠慢がありますか。警察が死体を見つけられなかったのは単純だ。あなたのほうからこう切り出したのではありませんか? 『やっぱり寝惚けていました。酔いつぶれていた自分の勘違いでした』――と」
「それは!」
「警察に通報した時点では、たしかに四〇一号室にいたことを忘れていたのでしょう。そこは認めましょう。しかし、あなたは途中で思い出した。きっかけはいくつも散らばっていたでしょう。たとえば寝床の問題です。事件を目撃して気絶した際、あなたはフローリングのうえに倒れ込んだはずです。しかし、目が覚めたときにはベッドのうえにいたのではないですか? もし愛子さんがあなたを自室まで運んだとしたら、とうぜんベッドに寝かせるでしょうからね。ですがそれでは二度目の覚醒の際に記憶と齟齬が生じ、違和感が発生するはず。ところがあなたの証言にそんな話はなかった。意図的に伏せていたのでしょう?」
 誰何は詰るように言った。
「だいいち、あなたは殺人を目撃した際の記憶を有している。であれば、そこが自分の部屋でないことくらい見当が付くのではないですか? 寝起きでぼんやりした頭にいろいろな出来事が叩き込まれすぐには分からなかったのかもしれませんが、冷静になって振り返ったとき、それくらい思い出して然るべきです」
「それはっ、人によるでしょう……っ!」
「まだ言いますか。先ほど申し上げたように、あなたはもう言い逃れできないのですよ」
「ちょっと待った。俺にはよくわからない。依頼人が四〇一号室にいたことを憶えていて、だけど忘れたふりをして黙っていた? なんでそんなことをするんだ。そこの説明が付かない限り、俺は誰何の邪推についていけない」
「そんなのはもちろん、殺人者に愛子さんを殺してもらうためですよ」
 あっけらかんと誰何は言った。
「先述のとおり、あなたは警察に通報したのち自分が四〇一号室にいたことを思い出した。それと同時に気づく――このまま放っておけば愛子さんの身は危険に晒されると、ね。もしも犯人が口封じに出るとすれば、現れるのは四〇一号室。あなたはそこまで分かっていて、あえてそれを誰にも伝えなかった」
「どうしてなんだ。どうしてそんなこと……」
「人が人に殺意を抱く理由なんていくらでもありますよ。ですが……そうですね。僕には心当たりがあります。あなたの恋人――太平さんを寝取ったのはじつは愛子さんだったのでしょう?」
「……っ」
「ここから先は正真正銘ただの邪推です――ですが、僕の邪推はよく当たるのでお気になさらず。
 先刻披露した邪推において最大のファクターは、あなたが事件を目撃した直後に気絶したという点です。気絶のあとに、愛子さんは眠るあなたを自室へ運んだ。自室へ運ぶタイミングがそれ以外では、いくつかの事象に説明が付かなくなる。しかしこれはこれで不自然な点がありますね。僕が不思議に思ったのは、どうして愛子さんはあなたを『ただちに』自室へ運ばなかったか、という点です。裏を返せば、なぜ、途中で自室へ運ぶ気になったのか――」
「愛子さんも一緒に寝ていたんだろう。美咲さんが倒れたときの物音で目が覚めて、そのとき部屋へ運ぶ気になったんじゃないのか」
「その解釈も可能ですが、僕ならより面白い邪推を選びますね。美咲さんが四〇一号室を訪ねたとき、そこには先客がいました。それは美咲さんの恋人――香田太平さんです。とうぜん愛子さんは美咲さんを部屋に入れないよう努力したでしょうが、酒乱の強引さを前にあえなく突破を許してしまう。おそらく太平さんはバスルームか備え付けのクローゼットに隠れたのでしょう。愛子さんはしばらくのあいだあなたを好きにさせます。そしてあなたが寝入ったのを確認したのち――性交を始めました」
 透哉は噴き出した。
「せ――」
「性交。情事。情交。交尾。セックス。なんでもいいでしょう。ともかく――ワンルームの狭い室内、恋人が眠っているすぐそばで、ふたりは身体を重ねた。くくっ、なんてスリル満点の火遊びでしょうか。さぞかし燃えたことでしょうね」
 誰何の語り口はさも愉快そうだった。彼女は他人のこういう下品な話がいちばんの好物なのである。
 一方、嗜虐心を満たす道具にされた美咲は、顔を真っ赤に屈辱の表情を浮かべていた。
「さて、ふたりが美咲さんをダシにして盛り上がるなか、唐突に美咲さんは目を覚まします。寝起きの美咲さんは、幸いにもそこにいるはずのない恋人の存在に気づきませんでしたが――性交中のふたりは生きた心地がしなかったでしょう。息を殺して美咲さんの出方を伺っていると、あなたがとつぜん倒れます。ふたりは美咲さんの目をいったん誤魔化せたことに安堵しますが、同時に肝を冷やしたのでしょう。美咲さんを自室に運びます。そうして邪魔者を排除し、あとの夜を思う存分愉しんだ――まったく、素敵な友情じゃないですか」
 美咲の顔は真っ赤を通り越して青ざめていた。
「美咲さん。あなたは愛子さんからの仕打ちにあとから気づいたのでしょう?
 恋人の携帯から聞こえた声が愛子さんのものだったと気づいたとか、飲みの最中の愛子さんの様子がおかしかったとか、愛子さんの部屋のクローゼットもしくはバスルームからいるはずのない三人目の気配を感じたとか――あるいはふたりの情交を寝ぼけた頭でかろうじて認識していたとか、あとになって思い返してみれば多くの違和感が積み重なっていたに違いありません。結果、あなたはふたりの浮気に気づいてしまった。
 そのときです。
 あなたは知った――目撃した事件さえ公にならなければ、自分が手を下すことなく憎き泥棒猫を始末できるかもしれないと。そしてあなたの計算は当たりました。愛子さんは、本当に殺されてしまった」
「証拠は……証拠はあるんですの!?」
「だから言ったでしょう、言い逃れはできないとよおお! あなた自身が認めたではありませんかッ! 恋人が一週間前に起きた事件でのアリバイを証言してくれると。あなたは四〇一号室に香田大平さんが隠れていたことを知っているッ! そうでなければこんな証言は出ねえだろうがよォォ! バァァァァッカが! アッハハハハハハハハハハハハハ!」
「なっ、クソガキがあああああああっ……!」
 美咲が誰何の罵詈雑言に応じた。土気色の顔が醜悪に歪み、いまにも誰何の首を絞め殺さんとしている。透哉は自然と雇い主の前に出た。
「だが……やっぱり分からないな。依頼人が愛子さんの死を望んでいたというのなら、どうして俺たちを訪ねたりしたんだ? 狙われるのは依頼人じゃないからボディガードの必要はないし、万が一俺たちが犯人を捕まえてしまえばターゲットが無事に済んでしまう。俺たちを介入させた目的はなんなんだ?」
「透哉も憶えておくといいでしょう。ほとんどの人間というのは悪人にはなれないものです――いえ、自らが悪人であるという事実に耐えられない、と言うべきでしょうか。それでいて真実はみな根っからの悪人なんです。彼女は表向き殺人犯の確保に向けて善処します。しかし、それはただの善人アピールにすぎません。というのはなにも対外的な善人アピールのことだけを言ってるのではないですよ? 善人アピールとは、自分自身にも向くものです。自分はちゃんと犯人が捕まるよう努力した。そのために探偵まで雇った。そんな自分へのエクスキューズがなければ彼女の精神は耐えられなかった――。
 とはいえ、切実にボディガードを必要としていた部分もあるとは思います。殺人者が愛子さんを殺害したあと、目撃者とは人相が異なることに気づき、美咲さんのもとへたどり着く可能性は考えられる。まあ、ほとんどないとは思いますが、少なくともその心配は消せませんからね。
 しかし真実は、自らを騙すための偽善です。あなたは憎き恋敵を亡き者にするため、自ら泥を被ることもできない卑怯者。姑息な外道にすぎません。良かったですねえ、計算通り女狐が死んで! せいぜい一生自分が善人だと信じて生きてください。アッハハハハハハハハ!」
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアっ!!!」
 美咲が頭を振り乱して叫び出した。髪の毛を何本もちぎれそうな勢いで搔きむしり、喉から血が出るんじゃないかというくらいに吠えた。
 そして床に直置きされたナイフ――つまみを切るために用意したものだ――を手に取って誰何に向かって突進した。
 透哉は冷静にナイフを掴んだ。刃を握りこむ手のうちから血がボタボタとにじみ出る。痛みはない。
 手の内から流れ出した血を見て、美咲が動揺した。
「あっ、そんな――透哉さん、わたくしはそんなつもりじゃ――」
「なぁんだ。自分でできたじゃないですか。でも、まだ偽善が残っているようですね? 人を殺そうとした分際で」
 美咲が大きく目を見開く。ゆっくりとナイフの柄を離す。いや、ナイフを握りこむ手の力が抜けたようだった。
 そしてフローリングのうえに這いつくばった。
 彼女は自分のなかにあった自分自身を善人と定めるラインを踏み越えてしまったのかもしれない。
 そんな美咲の頭上で、誰何は恭しく頭を下げた。
「――以上が僕の邪推です。ここまでの邪推に他意はないので悪しからず」

     7

 透哉と誰何はシティハイツ与那覇をあとにした。
「傷は大丈夫ですか」
「刃を握ったくらいだから心配ない。痛みもないしな」
「そうじゃなくて、腰の傷ですよ」
「あ」
 痛みがないから忘れていた。
「救急車を呼びたいところですが、いまは都合が悪い。僕が送りますが、大丈夫ですね」
「いや、やばいかも。意識が朦朧としてきた」
 腰のガーゼから血が垂れていた。あれしきの処置では刺し傷の止血などできるわけもない。
「それはまずいですね。急ぎましょうっ、早く車に乗ってください」
 いつになく慌てた様子の誰何。
 透哉は助手席に、誰何は運転席に座る。いつもとは逆の構図だ。運転席の誰何はあまりにも似合わなすぎる。だいいち――。
「いやっ、誰何の身長で運転ができるのか!?」
 できないこともないかもしれないが、透哉には分からない。
「このヒールがどうして高く尖っているのか分かりますか?」
「……届くのか?」
「僕の足元にひれ伏す真実を、この足で踏み貫くためですよ」
「言ってる場合か! ――うわっ」
 叫んでいるそばから車にエンジンが入り、急発進した。どうやらペダルに問題なく届くようだ。
 しかしだいぶ荒っぽい運転だ。かなりの不安を覚えた。
 なにか喋っていないと意識が飛びそうだった。
 透哉はしばし逡巡し、月並みな質問をした。
「いったいいつから、依頼人の計画を見抜いていたんだ」
 誰何が口を開こうとすると車体が揺れた。話しかけたことを後悔したが、もう遅い。
「――四〇一号室の死体を発見したときです」
「じゃあ俺たちと四〇一号室で死体を発見したあのとき、一瞬で事件の全体像を把握したのか」
「違いますよ。僕が死体を発見したのは初日――郭公荘の実地調査をしたときですよ」
「は?」
「もとより臭いなとは思ってました。殺人を目撃したという通報を受けた警察が、通報者が頑なに事件の存在を主張するなかで、ろくにマンション内を調べないまま引き下がることがありますか? せめて上下の空き部屋くらいは確認するものでしょう? それを警察が怠ったのであれば、おそらく通報者のほうが主張を撤回したのだろう――そう思いました。あとの邪推やそれを裏付けるための行動は、その疑問から逆算したものです。
 まずは大家から直接話を聞きました。そこで僕の疑問に答えが出た――やはり依頼人のほうから主張を取り下げたようです。では事件は存在しないのか? ――それはなんとも言えません。わざわざ我々のもとを訪ねてきたのですから、事件そのものは本当にあったのかもしれない。だとしたら依頼人は警察から死体を隠したことになります。そのくせ我々に対して身辺警護や探偵を依頼してきている。
 面白いと思いました。なにかを隠している、と。なにかを隠しているのなら、すべて暴いて晒してやろう――真っ先に死体を探すことにしました。まずは五〇二号室を見ましたが、証言通りなんの痕跡も見つかりません。次に真下――四〇二号室を当たり、そこで死体を発見しました。すべての空き部屋に侵入する予定でしたが、すぐに死体が見つかったのは僥倖でしたねえ。僕はそこで、なぜこの死体が四〇二号室にあるのかを考えました。結論は先刻述べたとおりですね。美咲さんが殺人を目撃したとき、彼女は自室ではなく愛子さんの部屋にいた」
「つまりきみは――愛子さんが襲われる可能性に気づいたうえで、みすみす彼女を死なせたというのか!」
「まさか。僕はそこまで鬼ではないですよ――いえ、僕はほかのほとんどの人間と違って自覚的に悪人になれますが。しかしまあ、今回は手を打っておきました。愛子さんに事情を説明し、僕の邪推を裏付けるだけの証言を集め――あれだけ大見得を切っておいて邪推を外したらさすがの僕といえど赤面ものですからね――我々とは別にボディガードを雇いました。バイトです」
 手を打っておいたのは良心からではなく誰何の邪推を裏付ける証人を死なせないためではないか、と透哉は訝った。
「じゃあ、あの救急車やパトカーは――」
「はい。殺人犯が愛子さんの部屋にやってきたので、取り押さえました。そののち、さらにバイトを雇って緊急車両や刑事を用意しました。まあ、一種の見世物ですよ。僕が楽しむためのね。城は彼女を追い詰める係です。僕の欲しい証言を誘導するために追い込んでもらいました」
 あのアリバイ証人がどうしたという件か。
「バイトバイトって簡単に言うけどな、それじゃあどう考えたって赤字じゃないか」
 透哉が問い詰めると、誰何は
「透哉は映画のチケット代を支払うのを赤字と言うのですか」
 と言ってのけた。
「愉快な座興でした」
「……」
「それにいつも言っているでしょう。僕の活動は利益を得るための営為ではなく、道楽です」
「とは言ってもなあ……前に言ってなかったか。誰何はべつに実家が太いわけじゃないって。そんなに湯水のごとく金を使って平気なのか? いったいどこで資金を調達しているんだ」
 そこまで言って、透哉は不安になった。
 もしかしたらこの雇い主は金の使い方が下手なのかもしれない。
「なあ……俺の知らないところでリボ払いとかしてないよな?」
「殺しますよ」
 尖ったヒールで足を踏まれるが、透哉はうんともすんとも言わない。痛みを感じない。
「ですが――そうですね。確かに透哉の言うとおり、いまのままでは資金は減っていく一方です。次の依頼では、もっと真面目に探偵をしてもいいかもしれません」
 ぜひともそうして欲しいと透哉は思った。
 病院に到着する。
 透哉は助手席から降りようとしたが、身体がうまく動かなかった。誰何に引きずりおろしてもらい、彼女の支えで歩く。
 その亜麻色の頭髪を眺めながら透哉は思う。
 誰何は人形のように美しく、探偵としてもすぐれているが、その性格の悪さがあまりにも大きな欠点となっている。
 そしてその性格の悪さは邪推師という性質に由来する。依頼人を追い詰めるという趣味の悪い余興のために、今回は透哉が泥を被った。真面目に探偵をしてくれるのなら重畳である。
「――透哉」
 そんなことを考えていると、誰何がとつぜん足を止めた。
 透哉の顔を心配そうに覗き込んでいる。えらく弱気な表情だ。
「……今回のことで、僕のことが嫌いになりましたか?」
「いいや」
「刺されたことで僕を恨んでませんか?」
「そんなことないよ」
「性格の悪い僕に嫌気がさしているんでしょう?」
「ただの邪推だよ」
「そうですか……」
 悩ましいため息をついて、ふたたび歩き出す。
「――僕の邪推は、よく当たりますからね」






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