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私の家の天井はひどく高かった。二階まで吹き抜けになっているその空間は、私のささやかな誇りだった。天井には豪奢なシャンデリアが吊るされていて、窓から差し込む太陽光が当たるたび、ガラスの飾り細工が煌めきを放つ。私が特に愛してやまないのは、そのシャンデリアの内側、電灯の周りに施されたガラス製の天使の羽根のレリーフだ。真下から、間近でじっと見つめなければ、その繊細な装飾は見ることができない。
その大きなシャンデリアが、右に左に揺れている。ガラス細工のチェーンがしゃらしゃらと不吉な音を鳴らした。 ふと、その光の中に大きな影が落ちた。
――それは、母の首つり死体。
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「痛っ」
また変な悪夢を見てしまった。夢から覚めようとした反動で、無理に足を伸ばしたせいか、右のふくらはぎがつった。寝起きすぐの足のつりは、痛み以上に強制的に起こされる不快感が辛かった。
「イタイなあ、もう、昨日徹夜で勉強した反動かな」
私は、江波戸しずく。大きくため息をついた。私は上体を起こして、足をさする。
それにしても、またシャンデリアの悪夢を見てしまった。これで何回目だろうか。最近、夢を見やすくなった。しかも同じシャンデリアの悪夢を毎日見ている。
今日は吹奏楽部の朝練の日だ。朝早く学校に向かわねばならない。私はまだどこか痛みのある右足をかばいながら起き上がり、高校に行く準備を始めた。両親は、仕事で朝早くから出勤している。私は朝ごはんを食べない派の人間だ。顔を洗い、制服に着替えてすぐ家を出た。
「うわ、寒」
晴れている日であるのに、玄関を出ると風花が舞っていた。遠くの山から運ばれてきたであろう雪がちらちらと降っていた。冷たい風が頬を刺し、空気がきりりと引き締まる。私は、傘をさすほどではないな、と判断し、足早にバス停に急いだ。
住宅地を抜けて、大きな道に面したバス停に急ぐ。ここは高級住宅街と言われるエリアだ。高給取りの職業につく人々が、大きい家を建てて、高い塀でぐるりと家を囲む。庭に金木犀やバラを植えているおうちもあり、優雅な雰囲気が漂う。私の父は医者、母はキャビンアテンダントとしっかりした社会的地位を手にしており、その特権から流れ出る甘い蜜を私はすすっていた。私はこの街が好きだ、そんなことを考えながら歩いているときだった。
突然強いめまいが襲った。立ち眩み?にしては、急に吐き気もしてきた。私は視界がぐるりと90度にまわる感覚に身をゆだねるほかなかった。視界がぼんやりし、歩いている地面が黄色く光っているように感じた。舗装されたアスファルトが、煉瓦でできた地面に変わっていく。
(あれ、やばいかも)
私は転ばないように何とか両足をふんばらせて、一旦まぶたを閉じた。ぐるぐるとまわっている感覚に、何とか平行感覚を取り戻そうと深く呼吸をする。
視界がようやく落ち着き、目を開けると、目の前に見知らぬ白い長毛種の猫がいた。ペルシャ猫のようだった。
「僕はトト」
少年のようなテノールボイスが耳に響く。驚いて声が出なかった私は、ただ「え?」とだけ答えた。
猫は気にせず話し続けた。
「しずく、ついてきて」
「え、ちょっと」
「早くしないとシャンデリアが落ちちゃうよ」
「いや、え、なんで、シャンデリア」
私が言い終わる前に猫が前方に駆け出した。私は混乱する頭で考える。追いかけるべきか。このままここに立っているべきか。私が迷っている間に、また地面がぐらぐらした。私は、生命の危機反応をこれでもかと感じる。
猫が振り返って私に叫んだ。
「そこにいても、ただ堕ちるだけだよ!」
「そんなこと、急に言われたって。ああ、もう!やけくそっ」
私は猫が駆け出した方向に走り出した。
猫は私が走り始めたのを見ると、また前方に駆け出した。私は猫に追いつくように一生懸命走る。
すると、突然、目の前が真っ白の光に覆われた。その光は温かかった。そして急に現れたキラキラした大きな穴に猫と私は落ちていく。
「え、聞いてないよ!? わ、わあああ」
私はただ落ちていった。途中、右に左に大きく揺れる感覚を味わう。
不快を通り越して、もはや気持ちいいかもしれない。私は意識を保つという抵抗を諦めた。そして意識を失った。
***
「え、なに、ここ」
目を開けて、意識が戻ると、私は大きな赤いソファに座っていた。目の前には、大理石でできた大きなテーブルがあり、そこには制作途中のジグソーパズルがあった。全体は五百ピースくらいの大きさで、完成度でいうと七十%くらいだった。残りのピースがテーブルの上に散乱している。ソファとテーブル以外は、真っ黒な空間が広がっており、冷たい。とても不気味だ。私は、本能的にここにいてはいけない気がした。
「しずく、起きた?」
先ほど、トトと名乗った白い猫がテーブルの上に乗っかってきた。大きな瞳でこちらの様子を伺っている。
「えっと、ここはどこ。どうして私をここに?」
「このジグソーパズルを完成させないと、ここから出られないよ」
「そんな……急に言われても」
「いつまでもいていいんだよ。しずくが望むなら」
「……そんなわけないじゃん」
「なら、早く作ろう。どんな景色が見れるか今から楽しみだね」
私はまじまじとジグソーパズルの絵を見た。どこかで見たことがあるな。よく見るとそれは私の家の大きなシャンデリアだった。シャンデリアの下に黒い人影のようなものがぶらさがっている。首吊り死体だ。ーーお母さんの死体? これは、私が今朝見た夢の景色そのものだ。
「なんて、不気味な絵なの」
私は不快感を隠さない物言いをしたが、トトはどこ吹く風の様子で、無視していた。しかたなく、私はピースを手に取った。どれも冷たく、指先に不思議な重みがある気がした。何かを思い出しそう。私は、ジグソーパズルのピースを眺め、いくつかを手に取り、はめていくことにした。悪夢のような空間で、夢のようなジグソーパズルの完成を試みる。一つピースを埋めるごとに、はまったピースが光りを放ち、絵のなかのシャンデリアが首吊りとともに左右に揺れた。
五ピース目をはめた瞬間、目の前に真っ白な閃光が走った。まるで走馬灯のように、記憶が一気に押し寄せる。
それは、母と中学生の従妹と一緒に訪れた広島の原爆ドームの思い出だった。私は小学六年生だった。
「**ちゃんは、歴史に興味を持って偉いわね」
母は私に見せつけるように従妹を褒めちぎっていた。幼い私は、原爆で人がたくさん死んだことくらいしか分からない。広島平和記念資料館も訪れたが、展示が暗くて怖い。被曝した写真や、当時を再現した蝋人形の展示に震えあがった。
いとこの声が遠くに聞こえる。
「しずくちゃん、ずいぶん後ろを歩いてるね」
「いいのよ、しずくは。こんなところに連れてこられて、ふてくされてるだけよ」
私は母と従妹と距離を取るように、少し離れた後ろを歩いていた。
(しずくはお母さんの子供なのに)
私は、母が私のところへ駆け寄ってきてくれないか、淡い期待を抱きながら、ずっと後ろを歩いていた。
「しずく、大丈夫?」
トトの声で意識が戻ってきた。トトが私の顔を覗きこんでいる。
「今の、なに。昔の記憶をみてた」
「トトには分からないけど、しずく、苦しそう」
「えっと……」
「まだパズル、終わってないよ」
「え、あ、うん」
私は訳も分からず、しかし他になにかできることもないので、パズルの制作に戻った。
このピースも違う、これも違う。別のピースはダメ。あ、やっと正解のピースだ。その繰り返しであった。途中、ピースがはまるごとに、私と母の思い出がフラッシュバックする。中学生の頃に言ったドイツ旅行で、試験勉強をしていて旅に集中していなかった私に母はイライラしていた。夜中、私が寝ていたところに酔った母が私の頬を思いっきり殴ってきた。私は寝ぼけており何が起こったか分からなかった。そして、浴室で父に電話する母の声が聞こえた。
「よく分からないけど、なぐっちゃった」
私は母がすすり泣くのを聞きながら、確かによくわからない、と思って眠りに戻った。こんなことがあったな、と懐かしむような気持ちで記憶を改めて思い出した。
「しずく、もうすぐ、パズルできるよ」
トトが優しい声で言った。
「そうだね。なんで、お母さんの首吊り死体が私の夢に出てくるか分かるってことだよね」
「それはしずく次第だよ」
私はパズルのピースを次々とはめていく。なぜだか冷や汗が出てきた。寒気も感じるようになった。汗ばむおでこに不快さを感じながら、パズルを探す手を止めない。はめていくごとに母との思い出がフラッシュバックする。
「……あなたの塾の送り迎えがどれだけ大変か分かる?お父さんは全然手伝わないし……」
「……お弁当を電車に忘れるなんて私への嫌がらせでしょ……」
「……お母さんは間違えたくないの……」
「……このぬいぐるみを買ってあげたら、お母さんと仲良くしてくれる?……」
「……お母さんは高卒で悔しい思いをした。しずくには良い大学に行ってほしいの……」
「……謝ればいいって思ってるでしょ、しずくは……」
(お母さん、やめて。しずくは、こんなに一人で頑張っているのに)
私は自分の呼吸がどんどん早くなるのを感じた。苦しい。息ができない。
はまっていない残りのピースは三ピース。もうどのピースをはめればいいか全て分かる。ピースをはめる手が震える。
トトが私を焦らせる。
「しずく、はやく」
(分かってるよ。でも……)
残り二つのピース。一つ、はまった。
もう一つ、最後のピースを私ははめた。
突然、後ろのほうに強く引っ張られる感覚を感じた。目の前が真っ暗になる。
私はなんとか目を開けた。すると、そこにはシャンデリアの真下の光景があった。
(え?)
シャンデリアの内部の飾りがよく見える。私の好きな天使の羽根のレリーフ。私はシャンデリアを見上げる形で、首が固定されていて動けない。視点が左右に大きく揺れていた。足元は宙に投げ出されており、もがくこともできない。呼吸が、できない。
(首を吊っていたのは…私?)
トトの無邪気な声が私の体の下から聞こえた。
「しずく、ようやく思い出した?」
気づくと私は、トトの隣にいた。階下からシャンデリアを見上げることができる位置に立っていた。シャンデリアには相変わらず母の首吊り死体が吊るされており、それが左右に揺れている。
「トト、どういうこと? さっきは私が首を吊っていて、今度はお母さんが首を吊っている。一体何が起こっているの」
私の体は震えていた。声も上手く発せない気がする。
「しずく、まだ思い出せないの。あの首吊り死体はお母さんじゃなくて、しずくだよ」
私は、真下から見上げる首吊り死体を凝視する。まぎれもなくお母さんの死体だと思っていた。しかし、よく見ていくと、私の姿も重なってみえるようになる。もっとよく見ようとすると涙が出てきた。なぜ私が泣いているのか、自分でもよく分からない。
「トト、よく分からないよ」
「しずくは言葉にするのが苦手だね。しずくはお母さんから虐められていて、つらかった。しずくが何をどう頑張っても、お母さんは満足しない。お母さんから逃げたかった。だから、お母さんを殺したかったんだよね」
「え、そんなわけ」
「でも、実際にはお母さんは殺せなかった。だから、自分のなかのお母さんを殺すことにしたんでしょ」
私は息をのむ。
「自分の中のお母さんを殺すために、しずくはあのシャンデリアにロープをはって、自分の首にもロープを巻きつけて、二階の階段から飛び降りた。覚えてないの」
「覚えてない」
「しずくは死んだんだよ」
私は返す言葉がなかった。
「君の魂は、もう向こう側に行こうとしてる。ここにいるのは、その名残り──思い出に縛られた、最後の影なんだよ。しずくは、自分自身が死んだことに気づいてなくて、ずっとお母さんの首吊り死体の夢を見ていた。だからトトがお迎えに来たの」
「私、首を吊ったの」
「なら、なんでいつも見る夢で、シャンデリアの内側の飾り細工を見ることができるの。あれは首を吊って、シャンデリアの近くで真下に位置しないと見ることができないものだよ」
「そんな」
(私、死んだの)
その言葉が、胸の奥で静かに響いた。
不思議なほど、腑に落ちる感覚があった。
安心、かもしれない。
ふと見上げると――首吊り死体が、私の姿をしていた。
「しずく、思い出したね。よかった。そろそろ行こうか」
「トトはどうして夢の謎を教えてくれたの」
「魂の解放だよ。それを幸せと呼ぶか、不幸と呼ぶかは別としてね」
「そっか。最後に一つ、聞いてもいい?」
「なぁに?」
「お母さん、私が死んで悲しんでた?」
「悲しんでたよ」
「そっか」
私は満足した。私がこっそり笑っている姿を、トトが不思議そうに見ていた。
気づくと周囲の空間が真っ暗な場所にいた。隣にはトトがいる。目の前に光が差し込んでいる。
「行こう、しずく」
私は、自分の魂と呼ばれるものが真下に吸い込まれていくのを感じた。大いなるものに飲み込まれていく感覚を感じる。 私の意識は、最大限の幸せを感じて、消滅した。
了
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