コンパクトカー

「あれ? サランラップがない」
 引き出しを開けた白川しらかわ奈緒美なおみは、ほとんど反射的に声を上げた。
 奈緒美の背後から、夫の辰彦たつひこの柔和な声がする。

「今日切らしたんだ。今度買ってくるよ」
 奈緒美は、流しの下の引き出しをすぐに閉める気になれなかった。夫の発言に疑いを抱いたからである。奈緒美の記憶だと、サランラップは昨日か一昨日に新しいものを買ったばかりなのだ。そんなすぐに無くなってしまうはずがない。

 それでも、奈緒美は、結局は、ゆっくりと引き出しを閉めた。
 奈緒美の記憶違いだろう、と思ったからだ。本当は、昨日にも一昨日にも、サランラップは買っていないに違いない。
 正直なところ、最近の奈緒美の記憶は、あまり信用ができない。四十代半ばにして、若年性のアルツハイマーになってしまったのではないか、と心配するほど物忘れが激しい。

「そんなことより、奈緒美、せっかくだからちゃんと映画を観ようよ」
「そうだね」
 奈緒美は、辰彦に誘われて、Netflixで映画を観ている最中だったのだ。観ているのはアニメ映画の『サマーウォーズ』。白川夫妻にとって、思い出深い作品である。

 六十五インチの液晶テレビの前には、低反発の丸いビーズクッションが二つ並んでいる。それぞれ水色と緑色で、緑色の方が奈緒美の指定席である。
 奈緒美は緑色のビーズクッションにお尻を沈める。ストーリーはまだ序盤で、主人公がヒロインの親戚に紹介されているところだった。

「奈緒美、どうしてサランラップが必要だったの?」
「えーっと、そこにある炒飯を冷蔵庫にしまおうと思って」
 ローテーブルの上に冷めた炒飯が二皿置かれている。二皿とも手付かずのままである。今日の昼過ぎに辰彦が奈緒美のために作ってくれたもの……だったと思う。『炒飯でも作るよ』と辰彦が言っていた記憶がかろうじて残っているのだ。

「放っておいて良いよ。後で俺が二皿とも食べるから」
「え? 二皿とも?」
「それくらい余裕だよ。そんなことより、映画映画」
 辰彦は、なぜだかやたらと『サマーウォーズ』を見たがっている。それも奈緒美と一緒に。ベッドで寝ていた奈緒美は、そのためにわざわざ起こされたのだ。

 『サマーウォーズ』は、奈緒美と辰彦の初デートの日に、吉祥寺きちじょうじの映画館で観た作品だ。
 ゆえにこの作品は二人にとって特別なものであり、奈緒美はこれまでに七回観ている。その全てを辰彦と二人で見ているので、辰彦も奈緒美と同じ回数『サマーウォーズ』を観ていることになる。奈緒美も、辰彦も、作中の代表的な台詞は暗誦できるくらいなのだ。

 それなのに、なぜ突然、今日、辰彦はまた『サマーウォーズ』を観たくなったのだろうか。それも、寝ていた奈緒美を無理やり起こしてまで。

 そのことはよく分からなかったが、奈緒美には、それ以上によく分からないことがあった。

 なぜ奈緒美はベッドで眠っていたのだろうか——。

 奈緒美には、今日の昼間に、自らベッドに入った記憶はなかった。

 ——まあ、どうでも良いか。
 薄暗い部屋の中、奈緒美は、テレビの画面に集中する。日本画のような繊細なタッチで描かれた映像は、何度観ても美しくて見惚れてしまう。

 突然——。

 ビイィィッビイィィッビイィィッビイィィッ!

 耳をつんざくような大きな音が、『サマーウォーズ』の美しい田園風景から、奈緒美の意識を引き剥がした。

 ビイィィッビイィィッビイィィッビイィィッ!

 騒がしい音は鳴り続けている。
 奈緒美は、隣で座っている辰彦の方を見る。
 辰彦も同時に奈緒美の方を振り向いていて、二人の目が合う。
「辰彦、これって……防犯ブザーの音だよね?」
「うん。そう思う」
 〈防犯ブザー〉——奈緒美の頭の中を〈ある想像〉が支配する。その想像の中では、防犯ブザーの持ち主の顔が、奈緒美には具体的にえていた。

 奈緒美はビーズクッションから腰を浮かせかけたが、辰彦の手が奈緒美の太ももに伸び、奈緒美の動きを制止した。
「多分、子どもの悪ふざけだよ」

 たしかにその可能性もある。奈緒美と辰彦が住む住宅街の付近には、公立小学校と私立小学校とが一つずつあり、そこに通う小学生が下校中にふざけて防犯ブザーを鳴らすということが、過去に何度もあった。
 現在の時刻は十六時ちょうど。下校時間のピークは過ぎている気もするが、委員会活動やクラブ活動がある上級生はこのくらいの時間に下校していても不自然ではない。

 奈緒美は、辰彦の制止にしたがっていたが、その間も防犯ブザーの音は鳴り続けていた。
 鳴り始めて、もう三十秒ほど経っている。
 悪ふざけにしてはあまりにも長い——。
 それに——。
 防犯ブザーの音は、かなり鮮明で、ここからかなり近い場所で鳴っているように思えてならなかったのである。

 近い場所——たとえば、向かいの家。
 奈緒美が住む一角は、今から十年前に、六軒の建売住宅が一気に建てられ、売られた地区である。継続的なご近所付き合いこそはなかったが、向かいの家の奥さんとは顔見知りだ。武雅野むがのという珍しい名字で、奈緒美と同い年の四十四歳。武雅野家は、十年前、白川家と同じタイミングで新築物件に引っ越してきた。そして、子宝に恵まれなかった白川家とは違い、武雅野家には、美園みそのという可愛いらしい小学二年生の娘がいる。

 奈緒美は、太ももを押さえていた辰彦の手を振り払い、立ち上がった。
「私、行くわ。嫌な予感がするの」
「やめておきなよ……待って」
 奈緒美は、辰彦の言葉も振り払い、部屋着のまま家を飛び出した。


 ビイィィッビイィィッビイィィッビイィィッ!

 外に出ると、防犯ブザーの音は、なおさら大きく、なおさら鮮明に聴こえてきた。
 その音は、やはり武雅野家の敷地から聴こえる。
 それは、まるで目覚まし時計の音のように、奈緒美を呼んでいた。
 もしも——。
 もしも、奈緒美に子育ての経験があったのであれば、それは助けを求める赤子の声のように聴こえたのかもしれない——。


…………


「武雅野さんの家のリビングでは、白川さんが想像していたとおりの〈最悪の光景〉が広がっていた、ということですね」
「……はい」
 取調室にて、白川奈緒美の話を聞きながら、宮島みやしままことは、頭が痛くなる。
 宮島は、捜査一課の刑事であり、殺人事件の捜査を担当することも初めてではない。
 しかし、今回の事件は特別だ。なにせ被害者は小学二年生――年端のいかない子どもなのである。宮島自身の命と比較しても尊く、保護されるべきであろう命が、〈身勝手な理由〉で奪われてしまったことに、宮島はショックを受けている。仕事で給料をもらっているとはいえ、できればこの事件には関わりたくない、という気まで起こる。
 しかも――。
 この事件は、宮島個人にとってのみならず、警察組織としても非常に頭の痛い事件であった。 なぜなら、被害者の女の子は、二週間前にも路上で不審者に抱きつかれるということがあり、両親からの相談が警察に寄せられていたのである。
 警察にとって、絶対に防がなければならない事件だったのだ。

「美園ちゃんのご遺体は部屋のどこにあったんですか?」
「……中央付近にありました」
「どのような状態で?」
「赤い紐——多分、制服のリボンだと思います——が首に巻かれた状態で、仰向けに倒れていました」
 第一発見者である奈緒美の証言は、警察が把握している客観的な状況と一致している。

 宮島は、さらに質問する。
「事件現場のリビングの状況について、何か気になったことはありますか?」
「……クーラーですかね」
「クーラー?」
「クーラーの電源がついていて、部屋に入った瞬間、冷たい風が顔に当たりました」
「え?」
 宮島が改めて捜査資料に目を通してみると、たしかに『リビングのエアコンは稼働していた』との情報が記されていた。この奈緒美の証言も、客観的状況と一致しているのだ。

 それにしても、この時期にクーラーとは、だいぶ時期外れな気がする。今はまだ五月であり、薄手のシャツで出掛ける人はチラホラいるものの、冷房をつけるほどは暑くはない。
 事件当時、武雅野家では、美園が一人でお留守番をしていた。すると、美園はかなりの暑がりで、五月でもクーラーをつけずにはいられなかったということだろうか。
「白川さん、クーラー以外には、何か気になった点はありますか?」
「そうですね……窓が少し開いてました。これって変ですよね?」
 『腰高窓が五センチほど開いていた』との記載が捜査資料にもある。これも真新しい情報ではない。
 ただ、奈緒美に指摘されたことで、宮島も違和感を抱いた。

「クーラーをつけるときには、冷気を閉じ込めるために、普通、窓を閉めますよね」
「そのとおりです。だから、開いている窓を見て、私はオカシイなと思ったんです」

 美園が窓を開けたとは考えにくい。すると、窓を開けたのは、犯人ということだろうか。
 しかし、犯人が窓を開ける理由が、よく分からない。犯行中の雑音を消すため、だとすれば、むしろ窓は閉じたほうが良い。
 それに、事件後、玄関ドアの鍵は開いていた。隣の家に住む奈緒美が事件現場のリビングまで入れたのは、そのためだ。そして、玄関ドアの鍵が開いているということは、犯人はドアを使って外に出たということである。わざわざ狭い腰高窓から外に出たわけではない。

 宮島は、犯人の行動を想像する。
 犯人は、前々から美園に〈目をつけていた〉。犯人は、美園が家に一人でいるタイミングを狙って、インターホンを鳴らし、美園に玄関ドアの鍵を開けさせる。
 そして、家の中に侵入し、美園に〈イタズラ〉をしようとしたところ、防犯ブザーを鳴らされて抵抗されたため、咄嗟に、部屋にあった制服のリボンで美園の首を締めた。

 ——はて。この流れにおいて、犯人が窓を開けなければならない理由があるだろうか。
 ——もしかして。

 引っかかることがあり、宮島は捜査記録のページを捲る。
 そして、目当ての情報を見つける。

 ——やはりそうだ。
 宮島が確認したかったのは、リビングの窓の向こう——庭を写した写真である。
 その写真には、エアコンの室外機の前、ゴロゴロと転がる石の上に、銀色のピンが落ちている様子が写っている。

 つまり、窓を開けたのは、犯人ではなく、美園だったのだ。
 犯人に襲われそうになった美園は、防犯ブザーを手に取った。そして、防犯ブザーのピンを抜き、ブザーが鳴る状態にしてから、窓を少し開け、ピンを屋外へと投げたのである。犯人に防犯ブザーの音を止められないために。

 美園の機転によって、犯人は美園に〈イタズラ〉することができなくなったのだ。
 美園はよく躾けられた、賢い子だった。

 それにもかかわらず、犯人は、口封じのため、もしくは、腹いせのために、美園の首を絞めて殺したのだ。本当にやるせない話である。

 宮島は、犯行の状況を具体的にイメージしたことで、犯人を何としてでも捕まえなければならないという気持ちをより一層強くする。

「白川さん、他にはもう気になったことはないですかね?」
「そうですね……防犯ブザーが」
「白川さんがリビングに入った時、防犯ブザーは鳴っていたんですよね?」
「はい。図鑑の下で」
「図鑑の下?」
 宮島がまた捜査記録を確認すると、たしかに床に落ちていた防犯ブザーの本体は、二冊の本の下敷きになっていた。二冊とも子ども向けの分厚い図鑑である。
 すぐそばに本棚があるので、犯人と美園の揉み合いの際に、図鑑が本棚から落ちてしまったのかもしれない。

「図鑑の下敷きになっている防犯ブザーについて、何か気になることがあったんですか?」
「いいえ、そっちではなくて……」
「そっちではない?」
「ピンの方です。防犯ブザーの近くの床に落ちていたピンです」
 ——そんなはずはない。
 防犯ブザーのピンは、庭の室外機の前に落ちていたのだ。室内の床にあるはずがない。

 言葉を失っている宮島を尻目に、奈緒美は話を続ける。
「床にピンが落ちているのを見て、私、オカシイなって思ったんです。だって、犯人は逃げる前に、防犯ブザーのピンを嵌めれば良かったじゃないですか。そうすれば、ブザーの音は止まるから、私が武雅野さんの家に行くこともなかったわけですし」
 本当にピンが床に落ちていたのだとすれば、奈緒美の言うとおりである。
 しかし、客観的な状況と矛盾する奈緒美の証言を信じて良いものか——。

 宮島は、奈緒美に、庭の写真を見せることにする。
 写っているピンを見て、奈緒美は目を丸くする。

「オカシイですね。私はたしかに床に落ちているピンを見たはずなのですが……もしかして……」
「もしかして?」
「……いえ、何でもありません」
 〈ピンの謎〉の真相について、奈緒美には何か心当たりがあるようであった。

 しかし、奈緒美は、宮島が繰り返し尋ねても、ピンについて、これ以上何も話さなかった。

 それどころか『体調が悪い』と言って、取り調べの終了を求めてきた。

 奈緒美は第一発見者に過ぎず、この取り調べは、完全に任意のものである。奈緒美が話したくないことを、強引に聞き出すわけにはいかない。
 宮島は、心にモヤモヤを抱えつつも、奈緒美の取り調べを終えた。



…………


 夫の辰彦は、警察署の駐車場で奈緒美のことを待っていた。

 『取り調べはどうだった?』という辰彦の問いかけに、奈緒美は黙り込んでしまう。すると、辰彦は『無理に答えなくて良いよ』と言って、コンパクトカーの運転席に乗り込む。奈緒美は、無言のまま、助手席に乗る。後部座席には、釣り竿やらクーラーボックスが積まれている。

 車は、時速六十キロで国道を真っ直ぐ走る。国道沿いにはファミレスなどが林立しており、夜でもかなり明るい。

 奈緒美は、釣り好きの夫の横顔をじっと見る。

 宮島刑事の取り調べの最中に、奈緒美は気付いてしまったのだ。

 美園を殺した犯人は、辰彦だ。

 数時間前、武雅野宅のリビングで美園の死体を発見した奈緒美は、あまりのショックに立ち尽くしていた。そこに、奈緒美の後を追って来た辰彦が来て、奈緒美に『早く家に帰って、通報するように』と命じたのだ。奈緒美は、深く考えずに、その指示に従った。

 ただ、今考えると、辰彦は、奈緒美を家に帰すことで、事件現場で一人きりになりたかったのだ。目的は、自らが犯人であることを隠す〈アリバイ工作〉のため。

 辰彦が行ったアリバイ工作は、防犯ブザーを用いたものだ。
 辰彦が武雅野宅に侵入し、美園を殺害したのは、実際は、防犯ブザーが鳴るずっと前——たとえば十五時頃だった。
 辰彦は、美園を殺害した後に、防犯ブザーのピンに釣り糸を結びつけ、防犯ブザーを重い図鑑の下敷きにして床に押さえつけた。そして、釣り糸のもう一方の先を、少し開けた窓を経由して庭に出し、そこに大きめの石を結びつけたのである。

 そして、その石を、釣り糸をピンと張った状態で、垂直に立てたサランラップの芯の上に置き、サランラップの芯ごと、エアコンの室外機の前に置いた。

 その上で、辰彦は、もう一度リビングに戻り、エアコンの〈入タイマー〉を十六時にセットしたのである。

 そうすれば、十六時にエアコンが稼働し始め、庭の室外機が風を吐き出し始める。その風によって、サランラップの芯が倒され、上に乗せられた石が地面に落ちる。すると釣り糸が引っ張られ、室内の防犯ブザーのピンが抜ける。

 そして、本来の犯行時刻とは異なる時間に、防犯ブザーが鳴る。

 そうやって、見せかけの『犯行時刻』を創出したのだ。

 今日、辰彦が奈緒美を誘ってやたらと『サマーウォーズ』を見たがっていたのも、このアリバイ工作を成立させるためなのだ。奈緒美が眠ったままでは、誰も辰彦のアリバイを証明してくれる人がいなくなってしまう。

 逆に、辰彦は、それまでの時間は、奈緒美に睡眠薬を飲ませるなどして、無理やりベッドに寝かせていたに違いない。犯行のために家を抜け出して武雅野家に行くことを、奈緒美に気付かれないためだ。

 そして、防犯ブザーが鳴った後、辰彦が奈緒美を追って武雅野宅まで来て、奈緒美に『早く家に帰って』と命じたのは、庭にあったサランラップの芯や釣り糸を回収するため——つまり、証拠隠滅のためだったのだ。その際に、辰彦は、庭側から釣り糸を引っ張ったため、元々は室内にあった防犯ブザーのピンが庭に〈移動した〉のだろう。

 美園を襲い、殺したのは辰彦なのだ。

 辰彦は、奈緒美では満足することができなかった。不妊症で、子どもができない身体の奈緒美では、辰彦の希望を叶えることはできなかったから。満たされない辰彦の欲望は、近所の可憐な少女へと直接に向かった——。


「ねえ、辰彦」
 奈緒美は、殺人犯の名前を呼ぶ。
 彼は運転に集中したまま、『何?』と尋ねる。

 しばしの沈黙の後、奈緒美は、答える。

「やっぱりなんでもない」

 奈緒美は、辰彦と、もう十四年も連れ添っている。十四年も苦楽をともにし、今後もずっとそうしていく〈運命〉なのだ。
 そのことは、辰彦が殺人を犯したところでなんら変わりはない。
 結局、奈緒美が、辰彦から——夫婦の〈運命〉から——逃れることはできないのである。
 ちょうど、国道を走行中のコンパクトカーから飛び出して逃げることができないのと同じように。


…………


「やっぱりなんでもない」

 妻である奈緒美の言葉を聞いて、辰彦は少しホッとした。
 辰彦は、奈緒美が事件の真相に気付いてしまったかもしれない、とハラハラしたのである。

 『気付いてしまった』——いや、『思い出してしまった』という方が正確な表現か。

 奈緒美は、完全に忘れてしまっているようだが、美園を殺害したのは、奈緒美である。

 辰彦が奈緒美の〈異常〉に気付いたのは、二週間前。
 奈緒美と二人で家の近くを散歩していた時、突然、奈緒美が駆け出した。

 奈緒美が駆けた先の路上には美園がいて、奈緒美は、背後から美園に『襲いかかった』のである。『抱きついた』などという穏やかな態様ではなかった。奈緒美は腕に力を込めて美園を『締め殺そうとした』のである。

 辰彦は、力づくで奈緒美を美園から引き剥がすと、無理やり奈緒美の腕を引き、その場を離れた。焦点の合わない奈緒美の目は、完全に、狂人のそれだった。

 美園の姿が見えなくなると、奈緒美は気を失って倒れた。
 そして、目覚めた時には、自らの凶行の記憶を失っていた。

 奈緒美は病気なのだろう。

 そして、その恐ろしい病を引き起こしてしまったのは、紛れもなく辰彦なのだ。
 辰彦が強く子どもを欲しがったせいで、奈緒美に辛く長い不妊治療を強いてしまった。それにもかかわらずいつまでも子どもができず、奈緒美が四十代半ばとなり、妊娠を諦めざるを得なくなったことで、奈緒美の精神は壊れてしまった。

 武雅野家の一人娘である美園は、奈緒美のコンプレックスそのものなのだ。美園のような可愛い女の子が白川家にもいれば、奈緒美が思い悩むようなことは何もなかったのだから。

 ゆえに、奈緒美は、無意識のうちに、美園を殺そうとした。

 そして、実際に、今日、ついに奈緒美は美園を殺してしまった。

 二週間前の奈緒美の様子を見た辰彦は、奈緒美を監視するために在宅勤務へと切り替えていた。にもかかわらず、辰彦が炒飯を炒めている隙に、奈緒美は家を抜け出し、武雅野宅に行ってしまったのだ。監視が甘かった。

 美園の殺害後、奈緒美は、武雅野宅のリビングの床に倒れ、気を失っていた。

 辰彦は、奈緒美をおんぶして家のベッドまで運ぶと、釣り糸とサランラップの芯を使った〈アリバイ工作〉を行ったのだ。奈緒美を守るための苦肉の策である。

 案の定、目覚めた奈緒美は、犯行の記憶を失っていた。


「なあ、奈緒美」
「何?」
「お腹空いたな」
「そうだね」
「家に帰ったら炒飯を温めて二人で食べようか」
「うん」
 次の角を曲がれば、家がある路地に入る。
 辰彦は、ハンドルを握る手に力を入れる。
 傷心の妻を乗せたコンパクトカー。運転役は辰彦をおいて他はない。




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